納豆は好きですが…
テレビで「食べるとやせる」と放送してから完売状態の納豆ブーム。品薄でメーカーが「おわび」広告まで出す騒ぎに。過ぎたるは及ばざるがごとし。「酒は飲むべし百薬の長」を曲解して毎晩痛飲していたら、やがてどうなるのか。(「http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/kinji/news/20070113dde001070017000c.html」)
△後に待つのは納豆の大量在庫処分? いいかげん他にすることを自分で考えましょうね。
【1/18追記】
△と書いて、これ(最後のところ)はまずい書き方の見本になりそう(皮肉っているつもりが、自分が絡め取られている)だな…と思っていたら、やはり内田樹先生による指摘があった*1。南無仏。
【1/22追記】
△おまけつきだったものの、予想通りの悪い結果が出た。
「http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070122k0000m040101000c.html」
「市場の失敗」は常にあることながら、TVのインチキとTVを見る人の共犯が主因では何ともやりきれない感じ。私は、15年ほど前のナタデココのブーム(キーワードに簡潔な記載あり)から単純に予測したけれど。
△同調性と一過性の病にめげず、今こそ納豆を買いましょう。子曰く「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」(論語・子路23)
△…と書いたら、内田樹先生はこの捏造などの事態を受け、テレビに引導を渡している*2。「ある種の詐欺」「テレビが主体的にコミットした犯罪」と手厳しい。これに対して反論できる人はいるだろうか(本当はいないと困るわけだが)。
△ここにも書かれている通り、『週刊朝日』報道によれば、納豆業界も単に受身で踊らされたわけではなさそうで、その場合、上に書いた「市場の失敗」やら「納豆買いましょう」やらは取り消さないと。
共同体から流出して生きるということ(『論語』その1)
孔子曰く「若者よ、身内では父母に仕えておくこと(孝)、世間に出ては自分をへりくだっておくこと(悌)だ。何事もおろそかにせず、誠実で人から信じられるように。誰でも嫌うことなく、また、人柄の厚い人に親しんでいく。このように生活して、まだ余力があれば、書物を学ぶように。」
(『論語』*1学而6)
△最近、放置していた社会科学に立ち返り、大塚久雄*2や藤原保信*3やアマルティア・セン*4を読み、その目線で宮台真司の『自由な新世紀・不自由なあなた』*5を読み返している。
△考えてみれば自明だが、孔子は共同体に自足していたわけではなく、失われた共同体をベタに回復させようとしていたわけでもない。儒教の説く「孝悌」は、すでに再帰的な共同性を志向していたはずである。
*1:
*5:。宮台真司の著作(「http://www.miyadai.com/books.php」参照)の中でも、現在に至る宮台氏の転換点を告げる重要な1冊。
今東光氏の文科系大学不要論と絡めて
「してみると大学なんて要らねえね。暴論に聞こえるかもしれませんが少くとも文科系統の大学なんて叩き潰しても惜しくはありませんな。国家の費用で拵える大学は理工科系だけで結構。法科や文科なんてものは独学で好いんだ。(弓削道鏡が)葛城山中で自分自身を啓発するだけで、あれだけいくんです。現在のように八百六十有余の大学なんて、ありゃ砂利会社みたいなもんさ。あんな下らねえ大学で無駄飯くわせるなんて何て勿体ねえことかわかりませんぜ。それくれえなら防衛大学をもっと拡張して、天下の志ある人材を養成した方が増しだと思いますな。従って道鏡をとらえて痴漢呼ばわりしたり、猥漢扱いする奴は何も知らない馬鹿者ですぞ。」
(『毒舌日本史』*1「ウルトラスーパーマン道鏡」単行本1972年刊行)
△「学問はできるときにするものだ」というのが、心学=理学者であった鎌田柳泓のポリシーだった。結論:働くべきときには働くがよし。学問できるときには学問するがよし。
*1:
立場を弁えることについて(『孟子』その1)
孟子曰く「仕えることは貧のためにするのではない(正しい道を実現するためだ)。しかし時には貧のためにすることもある。…貧のためにする者は、尊きを辞して卑しきに居り、富を辞して貧に居るべきだ。それには、門番か夜警ぐらいがちょうどよい。あの孔子であっても、倉役人になったときは「会計があえばそれでよい」と言い、牧場役人になったときは「牛や羊がすくすく大きくなればそれでよい」と言った。位が卑しいのに言葉の高いのは罪であり、一方、高い地位に居りながら正しい道が行われないのは恥だろう。」
(『孟子』*1万章下5)
(参照記事:「内田樹氏・仲正昌樹氏の「正義」批判に寄せて (「言論の無自覚」の問題について) - ピョートル4世の近時雜評~脱然貫通~」)
△この話、次のエントリに続く。
*1:
自殺についての話題を転換するということ
△TBSニュースバードで一昨日辺りから流れている*1、自殺防止に関するウィーンからの報告について、やや粗雑に情報をまとめてみる(不正確な部分があればご指摘ください)。
- 1978年にウィーン初の地下鉄が開業後、飛び込み自殺が相次いだ。報道も過熱し大きく取り上げると、連鎖的に自殺が増加した(1986年にオーストリアの自殺率がピークの28.2に。ちなみに、2004年の日本は25.3*2)。
- そうした状況への対応として、ウィーン精神医学会は、1987年に自殺報道についてのガイドラインを発表。内容の要点は以下の通り。
- 自殺者の名前・写真や自殺方法の詳細について触れることをできるだけ抑制すること。
- 遺書を公開しないこと(なぜなら「同様の問題を抱えている人の、自殺しか解決方法がないという思いを助長してしまうから」)
- 自殺の報道には併せて、利用できるサポートの紹介(精神科医によるサポートが受けられること)や問題は解決できるというメッセージを加えること。
- このガイドラインは、自主的に報道機関に採用され、その結果オーストリアの自殺率は'78年以前より低い水準(2005年に17.0)になっている。
△むろん根本的な状況が改善される必要はある。しかし、まず模倣自殺の無用な連鎖を招かないために*3、専門家が行動を示して状況を変えたこの事例は参考にされてよいはずだ。
*1:こちら「2006-11-13」を見ると、「ニュース23」でも扱われていたようですね。
*2:ほとんど調べていないが、自殺率については「}^¤©E¦ÌÛär」など参照。
*3:id:kibashiriさんのところhttp://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20061115/1163554246でも、いろいろ話題が出ているようですが。
内田樹・南直哉対談「『本当の私』というフィクション」より
△南直哉氏*1の『老師と少年』*2刊行記念だそうで、新潮社のPR誌『波』11月号に出ている。2箇所引用する。
南 高校生のとき、とても尊敬していた牧師がいて、その人を慕ってキリスト教に入信しようと思ったことがあるんです。しかしその牧師は、「信仰というのは、神を信じるもので、人を信じるんじゃない」と私のことを止めました。
内田 宗教性の本質を衝いた言葉ですね。
南 そのとき私が思ったのは、すぐに解答を与える人は信用できないということです。まともでない宗教家は「俺を信じろ」とすぐ言うでしょう? …
(「宗教に見返りを求めるな」)
南 「自分」というのが自分の手に負えるものだと思っているのが大きな誤解ですよね。「自分」は自分の手に負えない。…
…
内田 自分自身の中には無数の層がある。どれが本当の自分かなんて決められないし、自分でそんなものがあることに気づいていないけれど、世間からは丸見えの欲望だってある。そういう無数の欲望の総体として他人は僕を見ている。僕にそれをコントロールすることなんかできるはずがない。
(「『自分探し』は苦役である」)
わずか3段組4ページながら、読みどころの多い対談。