好奇心の赴くままに RSSフィード

2009-09-02

アメリカの著作権

著作権の誕生


17世紀以降の北米植民地では、イギリスのような出版者ギルドこそ無かったものの、出版業界が発達してくる。その多くはイギリス著作物海賊版であり、著作者の保護というものは全く考えられていなかった。そうした中で、書籍出版による利益が出版者に貪られ、アメリカ人著作者には雀の涙のような原稿料しか入らない、という状況が大きくなっていき、やがて植民地政府に対し「著作者の保護」を訴える動きが出てくる。

このような経緯の結果、アメリカでは「圧制者の搾取に対して民衆が自分の財産権を主張する」という視点から著作権が捉えられるようになった。著作権とそこから得られるはずの利益を自然な財産権と見なす考え方である。そしてアメリカ独立宣言からさして間を置かない1790年、まだ独立戦争も終わっていないうちに、最初の著作権法連邦法として制定された。多くの部分でイギリスのアン法をそのまま踏襲しているが、イギリス法的な産業振興策の側面よりも自然権保護の観点を強く持つと考えられている。.


アメリカの背景


アメリカ人がこのような「自然権としての財産権」との考え方にいたった背景には、「早い者勝ちでフロンティアを切り取って行く」というアメリカ開拓の歴史が大きな役割を果たしたと考えている。島国イギリスゼロサム性が強く、誰かが土地を独占すれば他の人が追い出されるのが当然だった(エンクロージャなど)。しかし開拓初期のアメリカには無限とも思える無人の(つまり先住民だけが住んでいる)土地があり、1人の開拓者が一定範囲の土地を独占しても他にいくらでも土地がある(つまり先住民から収奪すればいい)という状況だった。やがて高利益率の土地は囲いつくされたが、このアメリカ人のメンタリティは変わっておらず、土地以外に早い者勝ちで独占できるようなフロンティアが必要とされている。Second Life のようなサービスが生まれれば皆が飛びつくわけである。アメリカ人は、著作権フロンティアの一種だと見なしている。想像力さえあればいくらでも新しいものを生み出すことが可能で、それを早い者勝ちで切り取って行く、という考え方が、アメリカ人のメンタリティと良くマッチするのだ。


近年の動き


近年の Google Book Search の動きだが、これを「著作権制度への挑戦」と見る向きが巷では多い。確かに既存の著作権制度と正面からぶつかる動きであることは確かである。しかし同時に、上述した「早いもの勝ちでフロンティアを切り取っていく」という考え方、アメリカ著作権制度の源流に流れるいかにもアメリカ的思想を、この Google Book Search こそが実にストレートな形で継承していると考える。

このため、Google著作権者との対立も、確かに正面からぶつかってはいるが、底流では両者に共通したものがあり、結局のところ「どちらが強いか」という西部開拓時代的な部分で決着されることになり、現時点ではそれが和解条件という形でひとまず落ち着いている。


日本の場合


一方、アメリカ以外の国ではいささか事情が異なる。特に、ゼロサム性の高い島国であるにも関わらず著作権の扱いについてはアメリカ式の財産権的考え方の影響を強く受けている国、不平等条約撤廃のために迂闊にベルヌ条約に加盟してしまった上にプラーゲ対策で作られた著作権仲介業者がそのまま既得権益を拡大するという泥縄式に制度が出来上がってしまった国、つまり日本のことなのだが、そこでは全く異なる事情が存在する。

日本には「早い者勝ちでフロンティアを切り取って行く」という動的な思想は無い。財産権としての著作権は静的なものと受け止められており、静的な社会秩序の中に位置づけられている。Google Book Search のような動きは、新しいフロンティアを切り取るものとは認識されず、静的な秩序を乱すものだと捉えられ、被害者意識に凝り固まった怨嗟の声 が上がることになる。


著作権とフロンティア

2009-09-01

イギリスの著作権

言葉の成り立ち


日本語の「著作権」に相当する英語は copyright だが、これはもともと copy + right という組み合わせがわかるとおり複製権を指す言葉である。


著作権の誕生


copyright の概念は、16世紀のイギリスにおいて Stationers Company (出版業者ギルド) が自分たちの独占を守るための活動の中から、国王による勅許という形で生まれた。最初の勅許は「書物」全体に対して与えられたもので、「本を印刷して売ってよいのは勅許を得たものだけ」との形であった。中世日本における「座」のようなものと考えられよう。

この勅許は一代限りのもので、国王または出版業者が死んだ場合には新しく勅許を出し直すこととなる。この「勅許が引き継がれる保証が無い」という点がギルドにとって悩みの種であった。そこでギルドは一計を案じ、「出版に関わる独占権の管理を行う国王の代理人」を制度化した上で、ギルドをその代理人として永続的に任命する、という工作を展開し、それが見事成功した。これにより、ギルドのメンバーが入れ替わった場合でも、いちいち国王の勅許を取り直す必要が無くなった。代わりにギルド自身が (国王の代理人として)権利を認定する、という制度である。


最初の弊害


しかしこの頃になると独占の弊害も明らかになってきており、市民の間でも反ギルド感情が高まるとともに、多くの海賊出版業者が現れてその取締りが難しくなりつつあった。そのため、全ての出版活動をギルドが完全に独占するのではなく、書籍ごとに複製権をギルドが発行するという妥協案が取られた。新しい書籍を出版しようとする者はギルドに申請し、ギルドは審査を行った上で書籍を登記するとともに複製権を授与する。海賊出版業者でも、ギルドに複製権を授与されれば、その本については国王認可の正式出版社というお墨付きを得て、大手を振って印刷・出版できるようになったわけである。イギリスアメリカでは「著作権表示・登録等を著作権保護の要件として課す」制度が長らく続いていたが、それはこのギルド時代の制度の名残である。


著作権の本来の目的


ここで注意すべきは、当初の copyright はあくまで出版者としてのギルドの独占権を保護するためのものであって、著作者の権利の保護を目的としたものではなかった、という点である。著作者の保護は1710年のアン法で確立されるが、この法律はもともと、ギルドの独占を制限しようとするジョン・ロックらと、それに対抗して独占権を守ろうとするギルドとの綱引きによって生まれたものだった。つまり、ギルドは「著作者の権利の保護」を隠れ蓑にして実質的な独占の維持を狙ったのである。一時ギルドはコモンローを根拠にして「複製権は永久に保護される」という判決まで勝ち取っている(ミラー裁判)。しかし幸いにして1774年のドナルドソン対ベケット裁判によって複製権保護期間は14年に制限されることになった。


ドナルドソン対ベケット裁判


この判決を勝ち取ったアレキサンダードナルドソンなる人物は、イングランドスコットランド双方の法理論に精通した上で、裁判所を一審:ロンドンの大法官府(わざと敗訴)→二審:スコットランドの上級裁判所(勝訴)→反訴:英国貴族院(勝訴)と移すなど、実に巧妙な法廷戦術を展開したひとかどの策士であった。


著作権が出来た経緯


このように copyright の概念は、もともと有形財における所有権のように自然発生的に生じた概念ではなく、「国王による勅許」という産業振興政策としての枠組みから生まれたものである。

なぜ産業振興政策が必要だったのかと言うと、当時書籍を製造する、つまり情報を複製して広めるためには、印刷設備を整えるための莫大な投資が必要だった、という事情がある。彼らの利益をある程度保護してやらなければ、投資を呼び込むこともできず、書籍を製造することすら難しかった。実際書籍の供給は需要に比してかなり不足しており、高値の商品でもあった。そのような状況では、独占の保証によって投資を呼び込む政策も必要だったと言える。18世紀イギリスの状況では、その政策が度を過ぎていた、ということになるだろう。

一方、独占を許可しても投資を呼び込むことが期待できない環境では、むしろ海賊版を奨励する方が書籍供給を増やすための良策となり得ることもある。


現代の場合


21世紀は、情報を複製するコストが限りなくゼロに近づいている、という点を特徴とする。

これを指して「海賊版コピーを作るのが容易になった」と嘆く人もいるが、「巨大投資を伴う出版社が不要になった」と考えるべきである。つまり現代とは「出版業界に複製権という形での独占権を与える必要が大幅に薄れた時代」なのである。


著作権の歴史

2009-06-15

消費者が求めているもの

消費者が本当に求めているのはコンテンツでは無い。

では本当に求めているものは何か。


音楽において求めているものとは


アメリカ音楽界の現状を見てみると

1、アーティストのツアー売り上げも増えてる

2、楽器の売り上げに至っては激増


これらが意味するのは、「体験」ということになるだろう。コンサートに参加することと、自分で楽器を演奏すること。両方とも「唯一無二の体験」である。ニコニコ動画でコメント祭りに参加するのも、そうした体験の一つだと言えるだろう。コンテンツは今や、体験する、あるいは体験を共有するための、トリガに過ぎない。


体験は、少なくとも現在の技術ではコピーできない。コピーできないその場限りの唯一無二のものであるという点で、コピーの氾濫する現代において 相対的な競争力が高まっている と言える。将来技術が進歩して体験もコピーできるようになると、体験さえも競争力を失うのかもしれないが・・・


webにおける価値について


今のオンラインメディアマネタイズは主に Google AdSense のようなコンテンツをベースにした方法によって行われているが、これについても体験をベースにしたものに早晩移行していくだろう。


フィードの Scraping によってコピーblogを作られた、著作権侵害だ」と叫ぶアメリカ人は後を絶たないようだが、それでは「P2PのせいでCD売り上げが下がった」と叫ぶ音楽業界と大差無い。コピーごときで収入の機会を奪われるような脆弱なビジネスモデルの方に問題がある。Blog で金を稼ぐための新しいビジネスモデルが必要だろう。


物理メディアにおいて求めてるものとは


人間には「見たい欲」と「所有欲」の二つがあって、CDやDVDのような物理メディアの形でコンテンツを所有したがる習性がある。しかしこれは、コンテンツ自体を消費者が求めている、ということとイコールではない。消費者は「所有している実感」を求めているのだ。


例えば動画メディアについて考えて見る。「いつでも繰り返し閲覧できます」と言っても、ストリーム配信では所有感が薄い。DRMのかかったダウンロードはその次ぐらいになる。DRM無しのダウンロードはかなり実感が高まってくる。そして物理メディアがあると実感としても最高になる。実はコンテンツの中身よりも、器の方が重要であったりする。


所有していることを周囲に誇示する


「所有を示す」ことの社会性が違法ファイル交換を促進しているという側面もある。例として適切かどうかわからないが、チャイルドポルノ愛好家のコミュニティではそのような「こんなに凄い画像を持っている」と示すことの快感が、違法ファイル提供に人々を駆り立てている、という指摘が、実際にチャイルドポルノ容疑で逮捕されたコミュニティメンバーから為されている。


このように、コンテンツ所有の背景には、コンテンツの中身だけでなく、社会的行動への欲求というものも存在してする。これも「社会的な体験」への欲求である、と言い換えられるだろう。


その社会的体験を得るためのキーとしてコンテンツが位置づけられているのが現在の状況だ。権利者側は社会的体験から独立してコンテンツ自体に価値があるとして議論を進めたがっているが、これは正しくない。もし本当にコンテンツを売りたいなら、社会的体験との連携をさらに進めるような販売戦略を取るべきだろう。そのような体験を得る機会をオンラインサービスとして提供することも効果的だ。この方面にはまだまだアイデアを働かせる余地がある。


しかしそうやってもなお、将来的にはコンテンツ自体が滅びていくように私には思える。それは、コンテンツ自体の本当の必要性というものが、我々が常識として思い込んでいるよりも遥かに低いからだ。


マーケティングの金言

コンテンツの終焉