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OAF

2012-03-14

東京と南京とソウル

19:59

名古屋の河村市長が(彼自信が後に語ったことによると)誤解を招くような発言を、わざわざ南京に出向いてしてきたのがちょっと前。
まあ「誤解」そのものを焦点化することでしか、もうこの問題は「問題」としての体裁を保てない程度には歴史的に確定しているわけだが、それでも「南京虐殺は存在しなかった」の後に小さく「か?」と書く往時の東スポ手法が、未だそれなりに売上に貢献すると信じているのだろう。

この問題/事件自体は発生当時から既に広く知られていて、普通に報道されてもいたのだが、今日のような「問題」として表れてくるのは戦後しばらく経ってからだ。
特に国際問題としては中国側がこれを大っぴらに問題視し始めた80年代から。そもそも歴史学的にも70年代以前は南京の虐殺は「問題」としては存在していなかったし、それ故にか否定論も存在していないと思う。

この種の問題には他に韓国の「従軍慰安婦問題」があり、これも実際にそれが起こった時期と、それが問題視され始める時期に大きなズレがある。
この種のズレは「捏造説」の論拠の一つだが、たとえば慰安婦問題に関していえば、この時間のズレは韓国における慰安婦(に限らず性犯罪被害者一般)に関する抑圧的な価値観に由来しているとされる。要するに差別や偏見が怖くて名乗り出られなかったというものだ。

個々の元慰安婦が、被害を訴え名乗り出ることができるようになるまでに(それこそ何十年という)長い時間がかかっている。だがそれは個々人が抱える内面的な葛藤や苦悩・恐怖を乗り越え、偏見や蔑視と闘う決意を持つまでに時間がかかったから、というだけではないだろうと思う。

事実の可視化

韓国におけるフェミニズムがどのような歴史的経緯を持つものか知らないが、「従軍慰安婦問題」はおそらくフェミニズム的な知見をもとに問題化されている。
デートDVが犯罪であり、セカンドレイプが犯罪であり、セクシャルハラスメントが犯罪であるように、「従軍慰安婦」制度自体が「性暴力」であるという明快な措定が、個々の元慰安婦の内面的な悲劇に過ぎなかった私的な経験を、公的な「犯罪被害」として語ることを可能にしている。

無論当時の制度/法に照らしてもそれが違法行為であったことは指摘されているが、しかし元慰安婦が晒されていた問題とはそういう事ではない。
明確な名称を与えられず、「結局憎しみとか恨みとかの問題だろ?」とされかねなかった事柄を、普遍的な「人権侵害の問題」として確立することに成功したのはフェミニズムの功績だろう。「性暴力」という概念を用いてだ。
多分フェミニズム以外のどんな論理でも、例えば既存の戦争犯罪の理路でも、元慰安婦は「不運で可哀想な犠牲者」を超える立場を獲得できなかっただろう。

逆にいえば、「慰安婦問題」が戦後長い時間がたってから突然浮上してきたのは、フェミニズムの登場以前にはそれを問題として構成する論理が存在しなかったからだ。個々の慰安婦の「決意」に時間がかかったという個人史的な問題ではない。
(だから当然フェミニズムに対して今も存在する一般的な反対論が、慰安婦問題に関してもほぼ全て揃っているだろう。だからそれは日本側に限らない。彼女らのスタンスは例えば韓国の元軍人などには評判が悪い*1

問題を見出す論理

歴史を現在の価値観で見る(裁く)べきではないというのはよく聞く意見だが、彼女たちの悲惨を「被害」として問題化することができるようになったのは、戦後における価値観があるだろう。
ただこの「価値観」は単に感情的、感覚的なものではなく、論理的に形作られている。逆に言えば「論理」がないところでは、どのような悲劇不条理も、単に情緒であるにとどまるだろう。

3/10は東京大空襲のあった日で、それ関連のツイートタモさんあたりを発端にいろいろなされているが、個人的に非常に違和感があるのは、それを悲劇としてしか語れていないことだ。

東京大空襲 - Togetter

個人的には東京大空襲広島長崎への核攻撃も、あるいはシベリア抑留も、端的に「戦争犯罪」であると考えるのだが、そのような語があまり出てこない。これはネット上に限らないし、今に始まったことでもない。
あれは戦時下においては仕方がなかった、それが戦争ってもので、そういったことも含めて自分たちが戦った戦争だったんだ、そんなトーンが支配的。悲惨を美しい記憶としてしか語れない。

敗者だから? 日本人はお人よしで本質的に善良だから? 戦後の日米のチカラ関係の反映?
だがそれらがすべて事実であったとしてもなお、犯罪として説得的に示すだけの材料を、それを見出す「論理」を持つことはできないか?
それがないから、単に情緒の問題としてしか、私的で個人的な悲劇としてしか語れない。あるいは天災であるかのようにしか。

慰安婦問題にしても、戦後になって何か新しい材料が出てきたわけではない(まあ被害者の証言はのちになって出てきたが)。既にある材料だけで、それが犯罪であったと示している。
「性暴力」という視角が無かったころには軽視・無視されていた事実を拾い集め、それが人権侵害であったことを立証しようとしている。

材料は既にある。事実は既に単にそこにある。それは現になされたからだ。
ただそれを構成することができず、また名付けることができなければ、美的/悲劇的に語られ忘れ去られる私的な感傷の断片に過ぎない。

原爆はより多くの両軍将兵の命を救うために必要で正当だった」などという粗雑な「論理」にさえまともに対抗できていないのは、たぶん日本人が核被害を情緒的にしか把握できていないからだ。
私的な憤り(これには正当な根拠があるはずだ)を持つ人は多いと思うが、それを言説へと構成できず、ただ「ソ連への牽制」「人種的偏見」といった陰謀論まがいのレッテルを(彼らから見えない所で)貼り付け、溜飲を下げるしかないなんてことになる。
あるいは、人類全体の災厄(!)として語ることになる。

それは当時においてすら明らかに犯罪だったのだ、と現在において「発見」することは、別に現在を過去に遡及して適用することではない。DNA鑑定の精度が上がったことによる「発見」は、別に現在を過去に不当に適用することではないように。

*1:ウヨには一般に評判の悪いフェミニズムだが、現実的にはフェミはナショナリズムとかなり相性がいい。少なくとも政治的にはそうで、たとえば日韓のフェミは互いを自国のナショナリズムの権化のように見なしているが、そのような対立自体ナショナリズム的なものだ。

2011-12-12

不景気アイドル

18:46

秋元がインドネシアAKB48の姉妹グループみたいのを作ってると。
ジャカルタだからJKT48と。ほー。*1

その地域は言うまでもなく韓流真っ只中のはずなので、なかなか大変だろうが、AKBと同じ手法で育てるとテレビで言ってた。
秋元が韓流/K-POPをそんなに意識しているとも思えないが、こうなると周囲はどうしてもそのように見る。
秋元によれば、K-POPの魅力は「完成度の高いパフォーマンス」で、日本型アイドルはこの点でK-POPアイドルに対抗できない。
K-POPアイドルはパッと一目見てその魅力がわかる。美男美女揃いで歌がうまくダンスが洗練されているからだ。このわかりやすさが国境を越えて広がる際の武器になってる。

JKT48はその路線ではなく、素人同然の状態でデビューし、ファンの目の前で上達・成長していく過程を見せることで、共感と愛着を持ってもらおうとしている。AKBと同じ手で、応援しがいのあるアイドルっつーことだ。
だからJKTは地元の女の子を選んでいる。

秋元すごいなーと思ったのはそこで、例えば台湾AKB48は大人気だが、(韓国の)少女時代はそれ以上に人気がある。
台湾のファンはAKB48の「成長過程」を共有などしておらず、単に日本の人気アイドルとして見ている。そのような見られ方をしてしまうと完成度の高い少女時代に対して分が悪い。
なら地域密着だ、っつーのはわかる考え方である。

それでも「日本型アイドル」の競争力に個人的な不安を感じないでもない。
秋元的な、あるいは日本的なアイドルのフォーマットが、現地のマインドと合致しないのではないかという気がするのだ。
端的に言ってしまうと、AKB48アイドルは「不景気な社会のアイドル像」という気がする。

そして東南アジア地域は現在世界有数の成長セクターなのだ。
現在のAKB48が、若い男子の自信の無さを反映したものだということは異論が無いだろう。クラスで3番目くらいとか、歌も踊りもヘタとか、執拗なまでの無力さの強調と強い個性の忌避、完成・成熟を遅延させる仕組みは、要するにヘタレ男子が劣等感を持たなくて済むような設定である。
きっと日本男子は、ここ20年くらいで顕在化した世界的な競争を勝ち抜く自信をなくしていて、AKBはそんな男子の無力感と脆弱な自尊心をうまーく掬おうとしている。*2
「成長する過程」とか言ってるが、彼女たちはアニメキャラがいつまでも成長しないのと同じように「成長」なんてしないだろう。ただ年齢が増え、何をできるようになる訳でもなく「卒業」していく。

JKT48もそうなるだろうか?
でも東アジア経済成長を続ける社会で、自分の未来を確信しているような男子が、そんなJKTにどの程度かまってくれるだろうか?
経済成長率が7%とかの国の男子が、最初っからクラスで3番目の女子を狙うか?
株価上昇率が利子率を上回るような国で、素人が成長していくプロセスをじっと待つほどヒマか?
資産を手元に置いといたらドンドン価値が劣化していく社会で、アイドルの成長を待つなんてことができるだろうか?
そこでは時間はカネより価値がある。こうしている間にも株価は上がり、給与も上がってるのだ。
物価上昇と同じスピードで男子の(たぶん女子も)自信や自尊心も増大している。
ただ待つだけでは損をする。
カネを払って時間を買うことが合理的な社会では、過程をスキップし、最初から完成されたものを欲するだろう。バブルん時の日本だってそうだったよね。*3

何のことはない、それら地域で今韓流がブームであるとすれば、それは単に韓国もまたそのような経済成長的マインドを共有しているからにすぎないのかもしれない。
少女時代超新星のパフォーマンスは、東南アジアの若者とそんな「日々高まりゆく自信」を共有しているわけだ。
ただ「韓流」の原因が、単に歌とかダンスとかの技能に還元できないものであるとするなら、それは却って厄介かもしれない。
単にいいモノを作れば売れるというほど単純ではない、日本のモノ造りがハマった罠でもあるからだ。

だからひょっとしたらJKT48は、AKB48のようではなく、K-POPガールズグループのようにクールでセクシーでガーリーでビッチなイメージで出来上がってくる可能性もあるわけだな(そんなのが48人もいるグループって、、、)。
多分秋元はそういう余地を残しているだろう。それならやはり大したものだと思う。

*1:ググったら台湾にもいるのか。

*2:個人的には非常に自信をもった若い日本人も増えていると感じる。そしてそんな人はAKBにハマらないだろう。

*3:無論どんな時代にも自信の無い男子は一定数いるし、そんな彼らのためのアイドルも常に一定数存在するだろうが

2011-11-15

日本語で歌うカラ〜

19:17

確かバブルのころだったと思うが、日本の美術館が結構な額を出してアンディ・ウォーホルリキテンスタインだったかもしれない)の作品の「オリジナル」を購入した、ということがあった。
「複製芸術」のオリジナルにそのような価値があるのか? そもそも複製芸術にとってオリジナルとは何か? という妙に考えさせられるニュースではあった。

オリジナルには固有の価値がある、というのは、どんなに複製技術が発達しても言われることだろう。例えば作品の「アウラ」など、複製技術が登場して始めて発見されている。複製技術の高度化によりそれが失われたのではなく、そのような価値が新たに生まれたのだ。

Girls Talk

反韓流みたいのが盛り上がってるこの頃だが、最近になってKARAを良く聴いている。

いや実際、嫌韓は考えた方がいいよ、興味もったのアレがきっかけなんだから。「ミスター」が流行ってた頃はうちの子供も尻を振ってたが興味なかったし。

KARAは日本語でアルバムを出していて(「Girls Talk」)、これが聞いてみると意外にいいわけだ。
かつて80年代のアイドル全盛期の洗礼を受けたクチですが、それと比べるとヴォーカルが安定しているのが聞き手の情緒を不安定にさせずにいい。韓国語の方も聞いてるよ。youtube見まくり。女神かわえー。

日本語で歌うKARA

日本語で歌うKARAの魅力はその微妙な日本語の発音で、これはKARAに限らず、K-POP全体に我々が感じる魅力のかなりの部分を占めているのではないだろうかと思う。

別にそれが可愛いというのではない(可愛いんだけど)。
彼らに歌唱される日本語は日本語としての内実を欠いている。確かに日本語の音節で、日本人なら意味もとれるのだが、決定的に何かが欠けている。
彼女たちは一生懸命日本語を発音しているのだろうが、ネイティブが聞けばそれは単に日本語音韻に似たただの音声にすぎないと聞こえる。言葉から意味が脱落しているように聞こえるからだ。
言葉として訴えてくるものがない、いわば「心がこもってない」のだ。

ポップ

だが考えてみれば、ポップミュージックとは元々そういうものではなかったか?*1
桑田佳祐があんな歌い方をしたのも、パフュームが声にあんなエフェクトをかけるのも、小西康陽がなんの意味もない歌詞を用いるのも、吉田美和が日本語アクセントを意図的に無視したのも、日本語を発話することで表現してしまう意味とか心とかを逃れたいからのはずだ。ここに初音ミクを加えてもいいか。

それは多分、従来価値とされてきたもの、たとえば成熟したもの、正統的なもの、実質的なもの、日本的なもの、意味深いもの、といった(しばしば若者に不利な)「歴史的・文化的な本質」みたいな価値観に抵抗するためだ。
歴史も文化も伝統も、単に長く生きているという理由で大人・老人の専有物で、それにこそ価値があるのだとする価値観の下では、若者は常に未熟で価値が低い。
だが日本人として日本語を発話することは、日本的な価値に連なり、不利な序列を受け入れてしまうことだ。

表面的でも、歴史的な裏付けがなくても、無意味でキッチュなまがいものであっても、旧来の価値とはまた別の価値はあるはずだというのが「ポップ」の意図だったはずだ。
それは、単に遅く生まれてきたというだけで年長者より価値が低いとされる若者やそのカルチャーに、積極的に意味付けを与えようとするものだ。

J-POPと日本語で歌われるポップス

正直、KARAの日本語アルバムを聴いて、ここしばらくのJ-POPがやってきたことがいとも簡単に乗り越えられていると感じて軽く衝撃を受けた。
楽曲が優れているとかダンスや歌がスゴイというのではない。
日本のポップミュージックが乗り越えようとしているもの、日本語で歌う-日本人である限り逃れがたく縛られている歴史的、文化的な拘束が、KARAの日本語ポップスには及んでいない。

KARAの日本語ポップスは、彼女たちが韓国人である限りJ-POPのニセモノ・コピーでしかない。*2
だから(日本人の作る)オリジナルの方が価値がある、と言った途端に我々は「拘束」された老人だ。だがKARAの日本語ポップスを聞いてそう言わずにいるのは難しい。我々は日本人のJ-POPを聞いて育っているからだ。

歴史的・精神文化的本質こそ「本物」の価値である、と語りたい誘惑を断ち切ることは難しい。たとえ若くてもだ。
特に(KARAのような)複製物を見たときなど、ついオリジナルに「アウラ」を見出してしまう。*3
無論「アウラ」など虚構にすぎない。複製物を「複製物」と名指し、価値を低からしめるための(老人のよくやる)詭弁である。

だがそれは拘束力を持ち、一方KARAの楽曲はそこから「自由」であるように見える。それは日本のポップミュージシャンやリスナーが到達できないような自由だ。
それは単に彼女らが外国人だからというに過ぎないが、そこに自由を見るか無価値なニセモノを見たいかは、結局見る側の問題だ。

グローバリズムと現地化

これはKARAの日本デビューアルバムの楽曲(K-POPの日本語版)を聞いて思ったことだ。
だがそれ以降、日本での活動を本格化させてからのKARAは「現地化」を進めているように見える。メンバーの日本語もこなれてきて、新曲「Winter Magic」ではとうとう作詞・作曲まで日本人だ。

正直「Go Go Summer」以降はツマランのだ。日本に適応しようとしすぎている。現地の価値の序列に連なろうとしている。それはポップとは反対の態度ではないかとは思う。
少なくともKARAにそうではないものを求めていた人って多かったんじゃないかな?
もっとも"アイドル"としてその保守的な態度は正解なのかもしれず、彼女たちの日本におけるターゲットの持つだろう保守性と親和的なのかもしれないが。
韓流が展開するような)グローバリズムって実はそういうことなのかもなーとも思った。

ガールズトーク

ガールズトーク

*1:いやこのポップはPopularのことでポップアートとは関係ないだろっつーのはまあww

*2:ただ、単に音楽的に見た場合、J-POPK-POPは意外に違うものであると思う。

*3J-POPだって何かのニセモノだが、J-POPと名付けられた時それが見失われた気がする。

2011-10-19

20年間失われていたもの

11:36

スティーブ・ジョブズは根本的に音楽コンテンツに価値を見出さなかった。彼によれば音楽は価値ゼロで、実際iTunesでは当初、すべての音楽コンテンツをタダでばらまこうとしていた。iPodを売るためだ。

アップルコンピュータは一貫してハードウェアを売る会社だった。
MacOSMacintosh を売るための販促ツールの域を出ていない。少なくともジョブズにとっては、MacOS にはそれ固有の価値などなく、単にハードウェアとしての Macintosh付加価値以上のものではない。
「価値」の真の源泉はモノ/ハードウェアであり、ソフトウェア/コンテンツには(あるとしても)副次的で従属的な価値があるだけだ。

音楽には特に価値はない。価値があるのはiPodであり、音楽には「iPodで聞くことができる」という純然たる付加価値しかない。音楽などiPodのために存在するに過ぎない、とジョブズは考えていたはずだ。

この転倒した考え方は、「価値」と「価格」を同一視しがちな我々には自然とは腑に落ちないものだ。
実際、麻生は日本のアニメコンテンツを産業としてプッシュしようとしたし、ホリエモンはテレビ局=コンテンツプロバイダを買収しようとした。情報化の進展で、モノではなくむしろコンテンツ自体が利益を生む時代になったのだと考えたからだ。
でもそうじゃなかった。コンテンツは未だに効率的にカネに化ける方法がない。

先日テレ東のWBSで、グローバル展開する韓流韓国製品の輸出に貢献しているという特集をやってた。
シンガポールなど東南アジア地域ではすでに韓流が根付いていて、それが韓国工業製品のイメージアップにつながっている。
店頭のサムスン薄型テレビ少女時代が踊っていると、消費者の商品に対する印象が良くなるのだ。
韓流ドラマの人気が高いので、それが自然と韓国製品に対する信頼感になり、ドラマで描かれる「韓国的生活様式」が実質的に韓国製品の商品カタログになっている。
(ちなみに競合する日本製テレビはモーニング娘。を映していた。いくらなんでもフェアじゃないだろ。。。)

韓国は国を挙げて大衆文化を海外に売り込もうとしているが、多分それが産業として直接利益を生むなどと考えていない。ひょっとしたら二束三文でばら撒いてる。
韓流ドラマがこんなに増えたのは、見込める視聴率の割に値段が安いからだというのは良く指摘される。
それで韓国のプロダクションがどの程度儲けているのか知らないが(KARA東方神起の騒動を見るとそんなに儲かってないんじゃないの?)、多分、韓国政府にとって韓流コンテンツ自体にはなんの価値もないし、それで儲けようとも思ってない。

彼らは価値の源泉はモノであり、工業製品の輸出こそが経済成長の原動力であると考えている。
インターネット環境がどこよりも早く整備された国であるにもかかわらず(あるいはだからこそ?)、情報・コンテンツはそれ自体としては利益を生まないと気付いてる。
だがそれは工業製品を売るために使える、と彼らが気付いたのはいつなのだろう?
日本では、いわゆるネットバブルが崩壊したときに「やはり情報コンテンツではなくモノ作りだ」と考えた。

日本の産業界が、生き残りのためには製品の高付加価値化が必須だと気付いたのはもう20年も前だ。
だが「付加価値」とは何なのかが結局わからなかったように見える。それは高性能・高機能化ではなかった。低価格化でも多品種化でもなかった。
付加価値」とは、製品自体に内在するものではなかったのだ。


ジョブズは口八丁手八丁で自社の製品を実際以上に価値のあるものに見せかけることに成功している。
そして韓国の家電製品のイメージアップにK-POPの洗練されたダンスパフォーマンスが貢献しているとしても、それはあくまでイメージの問題だ。
ただジョブスも韓国も、工業製品としての実際的な価値以上のものを消費者に提供できている。

それは未来に対する肯定的なイメージで、明日は今日よりきっと楽しいと感じている新興国の中間層や先進国の若年層に、それは本当のことなのだと訴えかけている。「楽しい明日」はこの製品にあるのだと。

もしそうなら、肯定的な未来像こそが、この20年間の日本が見いだせなかった付加価値の正体だということになる。

2011-08-30

狭くて閉じて均質で、目的も無く意味も無い

19:03

そのデモでの主張が、「フジテレビ韓流ゴリ押し反対」でいいのか?

日本は、大丈夫なのか??

反フジテレビデモに出くわして色々考えさせられた

デモの光景を見た違和感は、何となくわかる。
なんて言うか、それってデモのような政治的手段でアピールするような問題じゃないよね、という違和感だ。
時々いる、何でも「それって法律とか憲法で禁止されてる訳?」とか言っちゃうタイプの人に感じるような残念感つーかウンザリ感。

市民デモが報道されないなんて別に今に始まったことじゃないけど、それが何か偏向の証拠であるようにあげつらっちゃうとかね。(報道された左・市民系デモなんて何がある?)

で、ネット民の一連の既存メディアへの攻撃って、どうしても彼らが身内を攻撃しているように見えるんだよね。信じていたのに騙された! というロジックが頻出する。
で、それが社会的なデモになってしまう。

セカイ(私の関心の範囲)

フジというと少なくとも数年前までは、比較的(若く保守的とされる)ネットユーザーに標的にされることの少なかったメディアではないかと思う。
この手では定番は朝日だったし、NHK在日認定くらいされてたのではないかな?
反日メディアとして数年前に確固たる地位を築いたのが毎日・TBSで、例の大ネタでそれまでのショッカー戦闘員的な小粒リベラル感が払拭された感じ。

多分これは順番に回っているので、次は数年後に読売系がバッシングの対象になると思う。
最近めっきり老け込んだ社主が、そろそろ名誉とか勲章でも欲しいのかここ数年来リベラルな姿勢を見せ始めているので、これは時間の問題だと思う。
テレ東? 菓子でも食ってろ。

バッシングが大手メディアをぐるぐる回ってるのは、単にネット民らの生活や関心の中心に既存メディアがあるということにすぎないが(彼らが現に口にするのとは逆に、マスメディアは彼らにとって非常に親しい存在だ)、これを見て最初に想起するのは教室で起こるイジメだろう。
特にさしたる理由もなく、ほんの些細なことでイジメの対象が選ばれ、その対象はやはりさしたる理由なくどんどん移動していく。
昨日まで何ともなかった行動や発言が、今日は攻撃の対象になる。誰かが主導しているというわけでもなく、今・彼がイジメられる本当の理由は誰にもわからないわけだ。

正しい主導者

ただそれ以上に似ていると思うのは、やはり連合赤軍かな。
別に今回のデモ参加者やその態度に共通するものがあるなんてことでは全然ない。
そうじゃなくて、身近なところだけで標的がどんどん移動していって、順番に攻撃していくという経緯。
多分、メンバーの関心の範囲がとても狭くて、その狭い中でだけ視線がぐるぐる回ってることで憎悪が膨らんでいくという(心理学的な)構図。
そして何より、教室にあるような対象の恣意性が無くて、ある主導的な存在により攻撃先が方向付けられていること。

連合赤軍の場合それは森常夫だ。
彼のミソジニー権威主義と結びついた攻撃衝動が(共産主義イデオロギーを口実に)、赤軍内の内ゲバに一定の傾向を与えている。*1

ただ問題はそのような主導者ではなく、もっともらしく語られるイデオロギー的な正しさに抵抗できずに付和雷同する成員たちだ。
彼らもまたそれぞれに考えがあり、それに基づいて行動しているはずなのに、森の語る無理な断定や強引な屁理屈、言葉の上だけの「正しさ」に抵抗できない。
普段ならそんな見え透いた詭弁など相手にもしないだろう知性の持主たちが、ある固有の状況の下でそれに抵抗できないどころか、加担さえする。

インターネッツ空間

連合赤軍キャンプと教室に共通する「固有の状況」としては

  • 閉じた空間である
  • 非常に狭い
  • 均質的な成員

ということで、まあ恣意的な抽出だが、こうしてみると初期の赤坂憲雄を思わずにいられない。

詳細は忘れたが、赤坂は教室でイジメが起こる仕組みを成員の均質性に求めている。

同じような成員による均質性の高い構造は非常に不安定なので、安定化のためにメンバー内に異端を発見してそれを排除するという運動が必然的に起こり、それにより均質性を確保しようとする。
無論確保された均質性はそれ自体非常に不安定なので、、、この運動が無限に続くわけだ。

フジテレビデモの呼びかけはネット上で広がっている。
呼びかけた人も応じた人も、多分「問題」を非常に狭い範囲でしか見ていない。
自分の私的な関心の水準、ネットでの雑談のレベルを超えない態度で、国家大の問題を語ろうとしている。

それは単に女性隊員の「髪が長い」ということが「反革命的態度」であるかのような把握の仕方、決め付け方だ。そしてそんな理由で制裁が合意されてる。
連合赤軍は当初から閉塞していた。組織の目的が見失われ活動の意味もなくなり、自分たちの存在意義そのものを(言いかえれば敵を)常に発見し続けることが必要であるような状態だった。

繰り返すが、今回のデモが連合赤軍のような暴力性をはらんでいるなどと言いたいわけでは全くない。
そうではなく、事物の把握の仕方、事実関係の理解の仕方が共にとても退嬰的だと感じるわけだ。
そして今回のデモは日本のネット環境の現状、ある閉塞したコミュニケーションの状況が引き起こしたような気がする。

日本のインターネッツでのコミュニケーション
狭く、
閉じていて、
均質で、
目的や意味が見失われている、
状況があり、それを抜け出そうとする時に自動的に必然的に起こった「第三項排除」の運動であるように見える。思想なり主張なりではなく、単なる構造的・力学的な物理運動に見えるのだ。
顕在化したのはエスカレートしたからで、それは"主導者"により方向づけられているからだ。

しかしこれは外部への回路を開くものでも、コミュニケーション空間を押し広げるものでもない。むしろそれを拒むことで安定化しようとするものだ。
この安定化への運動は罠だ。この運動は、それを無限に続けなければならないような状況を作り続けるだけだからだ。

*1大塚英志「彼女たちの連合赤軍」。よい仕事

JKJK 2011/09/04 00:39 別に今回の騒動をネットの観点から考えることはない。ITは、ブログや掲示板、ツイッターは所詮ツールに過ぎない。ネットでの喚きよりも多くは実体験で韓流がごり押しされていると感じていたのであろう。それは他ならないテレビ局やマスコミの広告活動の成果によるものだ。