関係していることそれ自体が既に承認だが、その関係が問題

承認の問題が秋葉の事件のようなことの遠因になっているとするなら、これについて社会問題的に考えていくのはよいことだと思うし、っつーか自分もそういうふうに考えるタイプの人だが、余りにも安易にトレンドワード的に「承認」なる語が使われ過ぎている気がする。
「過ぎている」というのは、つまりその語を使うことで逆に問題が隠蔽されているのではないかということだ。この語を言ってわかった気になってしまうと言うか、むしろ見たくない部分を見ないで済ますために使われている。
例えば以下のエントリはよくまとまっている気がするが、承認が「フレームワーク」的に捕らえられる時に、「では承認するのは誰だ?」という部分がスルーされてると思う。
承認フレームワークの拡張:socioarc
言い換えれば、承認されたいお前はそもそも誰かを承認しているのか? という問いだ。オマエがそうされたいような仕方で誰かを承認しているのか? という問いがフレームワークなる語を使うことで見えなくなっている。
この承認の双方向性/互恵性の認識が欠けると、結局承認欲求なんてただ「有名になりたい」「注目を浴びたい」と同義になる。加藤容疑者が最後にはそう言っていたようにだ。
ここらへんは以下が的確
承認なんて自分でしろよ。:飽きたら消すよ。
以下はかなり示唆的なエントリ。承認する・されるについて言及するも、結局承認を「どのようにして得られるか」というタイトルになっている。
「承認」はどのようにして得られるのか?:Thirのはてな日記
良くある流れでは、承認リソースが今本質的に供給不足で、要するにこの界隈の承認問題の根本は需給の逼迫なわけだが、実際のところ、一方的に与えられることしか想定しないような過大で独善な自意識を、単独で支えきれるような承認者など現実的にいそうにない。そしてそれは社会システムの問題ではない。
「オマエがそうされたいような仕方での承認」、ひょっとしたら惑星大にまで肥大した自意識に見合う「承認」についてなんて考える意味あるの?
現在から見ると「男はつらいよ」の世界は既にSFか何かのようだが、寅さんはあの世界で一定の承認を得ているように見える。
しかし実際のところ彼は家族に「ダメ人間」とみなされ「仕方ない」と諦められているのであって、決して家族にその生き方を肯定などされていない(現に勘当同然である)。にもかかわらず彼が家族と結びついているのは、古い共同体的な価値観が外在的なチカラとして彼と家族を結び付けているからだ。これは外的なチカラに自分の人生が絡め取られていることを意味し、「つらい」ことだ。
だがこの共同体に特有の「つらさ」を回避してしまうと、家族の小言が自分の個性・人格の全き否定にしか聞こえなくなる。家族との繋がりに根拠が無いからだ。いわゆる日本的な家族の解体はここで起こっているが、同じ言葉を寅は家族による承認と取ったろう。
家族の小言を人格の否定と受け取るようなメンタリティに、一体どのような「承認」を与えることが可能か? と問うことは多分不毛だ。問うなら、彼はどのような「つらさ」を負担しなければならないか、ということだ。
承認それ自体は構造ではない。フレームワークなり新しい価値観なりが出来上がったからといって「承認」が自動的に流通し始めるわけではないのだ。
個人が社会的な重荷をできるだけ背負わないようにするのが近代化の主たる目標の一つだが、この問題を考えるときは微妙。承認は、する人とされる人の小さな「社会関係」によっていて、この承認の社会的な性格は最終的に消去できないからだ。
その意味で「承認」とは「関係性」それ自体のことで、誰かと「関係がある」ということ自体が既に承認だといっていい。
だが今や誰でもこの関係性を任意に肩から「下ろせる」わけだ。実際、誰かをわざわざ彼の望むように「承認」するなど面倒だと感じることはあり得るわけで、それを放棄できるのは近代化の達成の一つだ。ただそのとき関係が壊れ、承認の互恵が壊れる。
留意しなければいけないのは、壊しているのは自分かもしれないということだ。それはとても簡単なことで、近代社会にあって正当でさえある。
難認簡接型社会「日本2.0」へようこそ:404 Blog Not Found *1

だから問題は、変な言い方になるが若者の考えが古いままであることにある。うざい承認だったら、切ってしまえばいいのである。

近代化は「関係の自明性」を端から破壊していくだろうし、我々はそれを擁護するだろう。今後どのように社会が変わろうが、もう関係を外的なチカラに依存できない。*2
つまらない結論だが、自分で「関係」するしかなく、しかしそれが成立するかはわからない。相手のことはわからないからだ。関係のこの不透明性/不可能性は別にいま始まったことではない。つまり今後も変わらない。どうシステムをいじってもだ。
重要なのはその互恵性の認識、不可能であっても承認されることは承認することと切り離せないというあたりまえの事実を受け入れ、これはパラドクスではないと認識することだ。
・・・無駄に観念的になった上に要するにコミュ力のことかと当たり前の結論に至ったので寝る。

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*1:これは繋がるのが容易な社会ではなく、繋がらないのが容易な社会なんだけどね。このエントリは「いかに支払わずに手に入れるか」を語っており、経営者らしい(笑)

*2:ここでは「期待できない」といったようなニュアンス。実際「依存」はできる。今も個人を依存させるようなやり方で「承認」を与える業界はある。
承認欲求って昔から政治権力や宗教の源泉だよ