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2010-11-16

5X3には論理的な根拠がない(だいぶ横)

18:23

最近一部で盛り上がってる話題。
ま、低学年だし語順に元に式を構築するんだ、というのは教え方として正しいし、問題は単にかけられる側とかける側をひっくり返した子の回答をどう扱うか、ということなので、これは教師のポリシーだと思う。
正答としようが誤答としようがもっともらしい難癖は付けられる。まるで"規律か自由か"命題みたいになってて、実際そのアナロジーで語る人がかなり多い。つまりこれは政治の問題なのだ。

ただこれはひどい

404 Blog Not Found:3x5=5x3

単にひどいのだったらスルーすればいいのだが、それでも面白い指摘がいくつかあるので取り上げる。大本の議論とは無関係だよ。

算数における文章問題の扱いにこんなに躍起になる先生がいるのは、たぶん日本の子供たちの算数の能力が国際的に見て低下しているということと関係していて、日本の子供たちは特に文章問題が苦手なのだ。
これは国語力の低下が原因と考えられていて、要するにその文章が何を言っているかを把握し、それを数式の形で表現する能力が劣っているのだ、というのが通説。
文章を式に置き換えるとは、結局長文の要点を短く要約することと同じなので、これは国語の問題であるという指摘なら完全に正しい。ここでは計算能力など求められていない。

ちなみに算数の問題なのに国語力が問われるのがおかしいという主張も散見されるが、その考え方こそ問題。なぜ両者が別のものとして分けて学ばれねばならないと考えるのだろう?
国語/人文科学数学と違って非論理的な学問であるとでも思っているのだろうか?
別のブログだが、そのような立場から以下のような意見がこの件に関してもっとも本質的な疑念だろう。

つまり、その数学の定義は、日本語に依存しなければ定義できないということなのだろうか。

本の虫: ようやく3x5と5x3に対するまともな意見が読めた

上記弾言エントリでは、除算の英語表現を例に、前後項の決め事は恣意的なものであり、数学において本質的ではないという。*1
したがって

「3x5≠5x3」のダメなところ、それは何より、それが教える側の都合の一方的な押しつけになっていることだ。あたかも「教える」の非可換性は絶対であるかの主張である。

404 Blog Not Found:3x5=5x3

英語で乗算はtimesを使う。3を5回、である。日本語と逆になるのは単に文法上の違いに過ぎない。
だが我々は日本語文法に則って論理を構築・展開するのだ。
英語と日本語に文法上の差異があったとして、両者の機能に本質的な差があるわけではない。
だからいずれの言語(あるいは数学)文法を使用するにせよ、それが恣意的であることは問題ではない。論理的であるということと、この恣意性は別に矛盾しない。
矛盾するのは、以下のような文章を日本語であるとした場合だ。

人間は動物である。
猫は動物である。
したがって人間は猫である。

これは論理的に間違っているのではなく、日本語文法として間違っている。
上のような論理体系を構築すること自体は可能だからだ。「日本語として」間違っているというのはそういう意味だ。
(人がこの種の間違いをする場面はしばしば見る。あるいは言葉遊びでよく用いられる。それはあくまで文法的な詐術で、論理的な錯誤と見えるのは単に論理が文法体系に依存しているからにすぎない)

だから本質的に恣意的だろうがそんなことはどうでもいい。良くないのは、ある体系において複数の文法が恣意的に混在することだ。英語の語順で日本語を話すことはできない。
英語は(/日本語は)論理的な言語じゃないからではない。文法が異なっているからだ。

ウチの子が一年生のとき、同じような算数の文章問題で以下のように立式し計算した。
当然誤答である。

3-9=6

計算を間違ったのではない。問題で問われていることを理解できなかったのでもない。
ただ文法上の間違いを犯したにすぎない。*2
だが文法上の間違いは、結果的に論理的な間違いである。

乗算記号の前後項が可換的なのは、単に可能であるという意味しかない。
だがまず3X5があり、その後に5X3もまた可能であるという順序は非可換である。
文法上の根拠があるのは3X5であり、5X3はそれを前提に可能であるというにすぎない。5X3にはそれ自体としては、文法上の、つまり論理的な根拠がない。
いわば乗算における可換性とは、法ではなく規則・政令のようなものだ。同列に語れない。

ほとんどの子は、自ら正解を探すのではなく、教師に答えを求めるようになる。それは教師に答え合わせしてもらわないと安心できないところまで続く。

404 Blog Not Found:3x5=5x3

少なくとも文法に関しては自分の脳内で正解を探すのではなく、「教師」系列の人に答えを求める必要がある。論理的な誤りを犯しかねないし、なによりコミュニケーションが取れなくなる。
文章問題が苦手ということは、日本語文法を正確に理解していないからだと思われ、それは論理的な思考ができていない可能性を示唆している。

「そんなの教わってません」で済むんなら大人はいらんのだよ、若いの。

404 Blog Not Found:3x5=5x3

結論部分は異論ないけど、そもそもこれは初等教育の問題なんだよね。。。

*1:つか分数の英語表現。ちなみに除算はdevideで、英語文法的にも数学的にも非可換。

*2アラビア語のように右から左へ読み進めれば完全に正解だぞ息子よ! そしてそのような書式で完全にすべての数学を記述できるぞ!
でも数学の書式にアラビア語の書式を混在できないのよね。これは不当なことと学校にネジ込むべきだったか?

SokalianSokalian 2010/11/23 01:07 >アラビア語のように右から左へ読み進めれば完全に正解だぞ息子よ! そしてそのような書式で完全にすべての数学を記述できるぞ!

これは決してトンチンカンな話ではありません。例えば複素ベクトルの内積(これは非可換な演算です)は人によって定義が逆になります。その結果、ある人の流儀では(a, b)と書くべきものが、別の人が(b, a)と書いたものと同じであったりします。このため、区別が必要な場合はそれをどこかに明示しなければならないというのが大学レベル以上の数学のルールです。
四則演算の場合はたまたま世界的にそれなりにルールが統一されているので(それでも割り算の記号に「:」を使う文化圏などもあるわけですが)、そこだけは約束事として覚え込まなければいけません。

しかし、たとえば息子さんがdec(a, b) = b - aなる記号を明示的に定義し、dec(3, 9) = 6と回答したならば、それは間違いでも何でもありません。

そしてここが大事なところですが、「3×5」の解釈は言語圏によって(表面上)異なる(「3が5個」とするか、「5が3個」とするか)わけで、しかもどちらを採用しても全くの等価であることから、何ら断りなく好きな方の解釈を(場合によってはない交ぜにして)使うことができるわけです。「3×5」を日本語で「5が3個」と読んで文句を言われる筋合いは絶対にありません。

なお余談ながら、アラビア語でも数式は例外的に左から右に読みます。これは、当地独特の(というよりこちらの方が本家に近い)「インド・アラビア数字」を使って書いた数式でも同様です。そうなった歴史的経緯は存じませんが、ともかくそうなっています。

nomisukenomisuke 2014/01/09 11:06 上のコメントへのコメント。

>そしてここが大事なところですが、「3×5」の解釈は言語圏によって(表面上)異なる(「3が5個」とするか、「5が3個」とするか)
わけで、しかもどちらを採用しても全くの等価であることから、何ら断りなく好きな方の解釈を(場合によってはない交ぜにして)使うことができるわけです。「3×5」を日本語で「5が3個」と読んで文句を言われる筋合いは絶対にありません。

1)「等価」とはどういうことか? 定義が無い概念であるな。

2)>何ら断りなく好きな方の解釈を(場合によってはない交ぜにして)使うことができるわけです。

残念だな。「何ら断り無く」はまちがいだろ?御自分で上で書いてるではないか?下の引用の『 』に注目な。

>たとえば息子さんが『dec(a, b) = b - aなる記号を明示的に定義し、』dec(3, 9) = 6と回答したならば、それは間違いでも何でもありません。

何故掛け算の場合は『mult(a, b) = baなる記号を明示的に定義し、』なくてよいのかね。根拠が無いゾ。

それから「(場合によってはない交ぜにして)」が許されるのも根拠無し。dec(a,b)=a-bとdec(a,b)=b-aをない交ぜにしちゃあイカンだろ。

つまり「いろいろ書いとるが」結局ツマルところ根拠は「交換法則が成立して「答えの値」が一致するから」というだけじゃん。数学(算数)では、答えの値が一致すればいいってもんじゃあないゾ。

3)>「3×5」を日本語で「5が3個」と読んで文句を言われる筋合いは絶対にありません。

相手が「5が3個」を「5×3」と決めて(定義して)話しとるときに、「5が3個」と読んで
 3×5
とコクバンに書いたら文句を言われる筋合いは大有りだナ。それがギロンの仕方であるよ。