ガザの怪物/民主主義の悪魔

我々はついこの間まで、何故ああも「民主主義」を信じてきたのだろうか? 実際のところ大した根拠も無くだ。
よく思い出してみれば、歴史的には民主国家だって随分なことをやってきているし、それを我々は知っていたはずだ。
(最近、キッシンジャーの名が思い出される機会があった。まるで悪い冗談のようだ)


1981年に旧ソビエトアフガニスタンに侵攻したことは、当時の日本社会の特定の文脈において、けっこう大きなインパクトを持つ事件だったようだ。いわゆる左翼勢力に思想的な打撃を与えている。

すでに大抵の左翼シンパは現実にある社会主義/共産主義国家に対してかなりの不信感を持っていたし、実際そういった国々やその指導部がロクな事していないってことは誰もが知っていた。
それでもまだ漠然と左翼思想への一定の信頼は生きていたし、広い意味でのカルチャーとしての左翼思想も残っていた。それがかなりの打撃を受けている。
実際、この時期に事実上「転向」したとみなしていい人たちは(そうと表明したかは別に)著名人にも結構いる。

近代日本社会/文化に左翼思想がもたらした影響は幅広いが、この時それがトータルに魅力を減じたと言っていいかもしれない。
これば別に日本に固有のことでもなく、当時の左翼的カルチャーの本格的な退潮は世界的なものだ。


そんな昔のことを持ち出したのは、今ガザで起こっていることを見ているからだ。
それと似たことが起こっていると感じている。

 

イスラエルが今ガザでやっていることは、それを民主国家が民主的にやっているという意味で、「民主主義」「普遍的人権」を信奉してきた者たちにとってスキャンダルだと言っていい。
共産主義がそうであったように民主主義もまた、平然と人々の生命や尊厳を踏みにじり、国際的な法や秩序を破壊することにためらいがないものだ、という事を見せつけられている。

ネタニヤフの支持率はひどいものだが、イスラエル軍のガザでの振る舞い自体はイスラエル有権者に強く支持されている。
イスラエルは自由な国で、(ロシアのように)戦場の実態が国民に隠蔽されているわけではない。そこで何が起こっているかを知った上で、民意がそれを支持している。
民主主義国家は、現実にそのようなことが可能なのだ。

 

これは世界史的な事件だという気がしている。
古代ギリシャ以来、究極の統治形態とされてきた「民主主義」が、それが実現するはずの価値が、本格的に疑われ、もう元に戻らないような事件であるように思う。
このことの(政治思想的な)影響は、世紀を超えて続く気がする。

フランス革命が約束した価値、人権だの平等だの自由だのは、基本的には常に(西欧的な)民主主義とセットで語られてきた。
共産主義の失墜以降、民主主義こそがそこに至る唯一の道とみなされたし、現代における民主主義の特別な地位はそれが理由だった。

 

だが今ガザで起こっていることが語るのは、民主主義は特段なにも約束などしていなかったということだ。

西側諸国は相変わらずイスラエルの立場を支持しているが、イスラエルを擁護するマトモなロジックを言えなくなっている。
アメリカやドイツの繰り出すイスラエル擁護の声明は、聞いてる方が情けなくなるようなものだ。
これはいわばイスラエルにおいて民主主義のある本性が現れているのだと考えるに十分である。

 

たぶんこの問題ののち、本格的に「転向者」が出る。
(西欧型の?)民主主義を捨て去る/目指さないと堂々と公言する国が出るような気がする。
民主主義を目指すべき歴史的、道徳的必然性などどこにもなくなったと。
それはもう戻らない歴史の歯車かもしれない。

 

実のところ、それは本当に最悪の政治形態にすぎなかったのかもしれない。その他すべてと全く同じように。
なら中国の言うことにもっと耳を傾けてみようという態度ももっともだというほかない。そしてそれは(ある意味で西側諸国には悪いことに)人道主義的な社会を目指さないという意味ではないかもしれない。

 

 

だが問題はそんな彼らではなく、我々「民主主義陣営」自身である。
ここ100年近くの間、民主主義はそれ自体というより、例えば共産主義/全体主義への対抗概念として価値付けられてきた。要するに政治スローガン化されてきている。
そういう意味では、敵がいなくなればその内実に疑いの目が向けられるのは当然で、そのような疑いは「権威主義国家」などより民主主義国家において現れるだろうし、実際現れている。

 

むろん日本国内においても既にそうだと言っていい。それは別に自民党がどうだとかポリコレ棒がどうだということではない。
ただいわば「ガチな民主主義者」は「生暖かく」見られるようになっている。

10年以上前だったと思うが、国内の人文系学者を含む人文クラスタはてなもそうだw)で「民主的に民主主義を否定しうるか」が話題になったことがある。大阪維新の会ポピュリズムかどうかみたいな文脈だったと思う。

そういうのの常でグダグダで終わったと思うが(挙げ句の果てにAKB総選挙こそ民主主義みたいなバカげた方向に流れていったがw)、国内的な政治状況とは別に、このような問題意識が「民主主義」そのものへの懐疑から始まっているのは確かだ。

つまり民主主義をその起源・根本原理において考える必要性を感じる人々がいたのだと思う。
(ならばプラトンアリストテレスから考えるべきだろうが、我々の教養にはせいぜいAKBしかなかったのだw)

 

そして多分その必要性は今も変わっていない。
ガザを見ればそれは明らかで、このあからさまな民主主義理念の危機に、そんなことは知っていたとでもいうような顔で不正義をアイロニカルに合理化するのではなく、その理念を「ガチに」擁護する論理を誰かが責任を持って語らなければならい時が来ているような気がする。(そしてもう誰もそれを出来なくなっているような気も)

 

イスラエルユダヤ国家は、人類の野蛮と悲惨が過去のものとなる希望のように誕生したが、気付いたときには凶悪なモンスターに育っていた。

彼らが実際のところ手に負えない悪党だということは、だいぶ前から明らかだった。
イスラエルは近代的で自由な民主国家だが、西側の同盟国として、価値観を共有する民主主義国家として、我々が不問に伏してきた悪が、見まいとして目を背けていた怪物が、ガザに現れている。

 

 

そして問題は、我々がイスラエルを批判できないことだ。
単に政治的、地政力学的な理由からというより、すでに我々自身が「民主主義」がもたらすとされた価値、その理念を信じていないからだ。
自国民を守るために他者を予防的に殺す、まだ起こっていない犯罪を罰する、我々はそれを否認する理屈を言えない。

 

ある意味でイスラエルは、我々民主社会の市民が抱き始めていた民主主義理念への不信や疑念が、具体的な形をとったヴィランのようなものだ。
いま我々が見ているのは、我々民主主義者のダークサイドの現前といってもいい。人権や自由への不信感が形を持って(しかも武器まで持って)現れている。
他者への徹底した不寛容が、分かちがたく深く民主制と結びついている姿だ。

 

いくら口を極めてハマスを罵ろうが、この怪物を生んだのは権威主義体制でもイスラム原理主義でもなかった。
そして今我々の手元にあるのは、実質的な意味を喪失し誰もその価値を信じようとしない民主主義なる形骸だけである。

 



 

映画「われに撃つ用意あり」1990年 /忘れる前に忘れていた事

もう数ヶ月前になるが、若松孝二の「われに撃つ用意あり」(1990年)を見た。
バブルの頃の新宿が舞台で、個人的にも懐かしい風景が映っている。単に懐かしいというより、自分の若い頃、上京した当時のいろいろ楽しかった記憶と結びついているのだ(若い頃というのはなんであれ楽しいものだ)。

 

ただ、この監督が1990年の新宿の風景をある屈託を持って撮っていることが映画を観ていてわかる。実際、この作品には新宿の街並みの映像が単なる舞台の説明以上の頻度で現れる。

バブルの新宿

ストーリーは全体としてとても図式的でわかりやすく、こうなるだろうなというようになる、アクション映画なのにあまり緊張感のない凡作と言っていい。
ただこの新宿への固有のこだわりが、作品を妙な印象にしている。


主人公は新宿で20年、自前の小さなバーをやってきた男で、そのバーを閉める日が迫っている。
彼は若い頃、学生運動に関わっており、店に集まる仲間もみな元学生運動家である。
彼らはそれぞれに学生運動的マインドを残し、現代日本への不満と、若い日の武勇伝を語るが、実はそれぞれにバブルの日本に適応してもいる。

 

主人公は学生時代に機動隊と勇敢に戦った「闘士」として仲間からも一目置かれる存在である。だが彼はまだバブル日本に適応できてない。自分が戦った意味を/そしてやめてしまった意味を問い続けている。

 

彼らの「闘争」のエポックは1968年の「新宿騒乱」で、この店の20年はつまりそれ以来ということだ。
だが閉店を機に主人公も過去を忘れようとしている。この店を閉じるとはそういうことで、要するにもう潮時なのだ。

1968年 新宿騒乱

最終日の開店準備中、ベトナム人少女がヤクザを逃れて彼の店に逃げ込んでくる。
当時の日本の歓楽街には、 接客・性風俗業界に 東南アジアからの出稼ぎ女性が(合法・不法に)流れ込んでいる。彼女もそんな一人なのだが、ヤクザの大物を殺してしまい、追われている。
主人公は彼女をベトナムに帰すため、警察とヤクザの目を盗み、パスポートを偽造し空港に送り届けようとする。

 

本作の基本のストーリーはそのようなものだ。

 

1968年の「新宿騒乱」はベトナム反戦闘争だった。
主人公は、この閉店と共に忘れ去ろうとしていた「ベトナム」に、もう一度付き合ってみる気になる。
今日で忘れようというその日に、もう一度だけ思い出してみようとする訳だ。
だがその結果は無残なものだ

 

物語上は、彼は首尾良く警察とヤクザを出し抜いて少女を空港に送り出す。
だが実は彼はベトナム少女のことなど気にかけていない。実際その後少女がどうなったのかはまったく描かれない。
彼が格闘した相手はヤクザや警察ではなく、自分の過去/闘争、その意味である。


主人公は原田芳雄、相手役が桃井かおり、他に蟹江敬三石橋蓮司小倉一郎西岡徳馬と芸達者ぞろいである。
個人的にも親しい仲なのだろう彼らの息の合った「芝居」を見ているだけで十分なエンタメである。

 

そして彼らの練達した演技が、まるでこの劇映画は本当に芝居でしかないのだと感じさせる。
新宿騒乱は現実に起こった事件である。だが現実との関わりにおいて主人公がその意味を反芻し続けたこの闘争の意味が、バブルの新宿の風景の前にリアリティを失っているのだ。

 

細かく見ていけばストーリーはつじつまが合っておらず、人物設定もいい加減である。
彼が68年に置いてきたものは何だったのか、作品の主題ともいえるその問いさえ形だけ適当に処理されている。
これは監督が悪いとか役者が悪いという話ではない。

 

というより、この作品はそうならざるを得ないものと意識して作られている。
もう演じる価値のない役を演じ、問う意味のない問いをカタチだけ問うている。日本の空前の好景気が、彼らが闘争の意味を問うこと自体を骨抜きにしてしまっている。

 

それは単に豊かになったからとは言えない。
彼ら自身その恩恵に浴している豊かさは、実際にはベトナム人不法就労者らの性的・経済的搾取の上に成り立っていることが映像に現れている。90年の新宿の街の風景にだ。
それはかつて彼らが打倒しようと闘ったものだったはずだ。だから今回も首を突っ込んでいる。

 

だが実は彼の、勇敢な「闘士」だった過去はデマカセだった。騒乱の当日、機動隊との衝突の最中、彼は逃げ回っていたのだ。
彼が他の誰より闘争を忘れられずにいたのは、皮肉なことだが、この自らの嘘によってである。

 

そして今、この嘘に決着をつけようとした彼が突き当たるのは、空虚と嘘と欺瞞のバブルの新宿である。
何もかもまがい物であるかのような現実に突き当たり、映画終盤の原田と桃井の二人芝居は見事なものである。
まるで内容がない人物とその行動に、何か意味があるかのように見せかけてまったく飽きさせない。
こんな芝居は、誰かがそうと意図しなければできるものではない。

 

 

ラストシーン、新宿コマ劇場前の広場で、原田と桃井はもはや一体何をしたいのか意味がわからない。
実際、彼ら自身その意味のわからなさに苦笑していると言っていい。

 

 

嘘の向こうに見失われた過去の記憶とバブルの能天気な喧騒が、何か似たようなものとして重ね合わされている。
68年の新宿騒乱の映像と、90年のバブルの新宿の映像が、意図的に対比されている。
ただ、それがどのような批評を意図したものか分からないが、主人公の苦闘?を、安易なパロディへと逃がさなかったという点で、個人的には観て良かった作品である。

 

というより、この一見凡庸以下の作品が、数ヶ月たっても忘れがたいのだ。
どれほど卑小な嘘として記憶しようが、新宿騒乱は実際に起こった事件だし、その意味で主人公の経験はフィクションを超え現実との接点を持ち得るものだ。
だがこの映画において、彼が彼の小さな嘘にこだわることで却って、より全面的で根本的な嘘に突き当たっている。

 

現代日本」というとき、多くの人にとって「バブル以降」を指すと感じられているだろうが、それはいわゆる「失われた30年」のことだ。
その「失われた」なる言い分を信じるなら、このバブルの絶頂期に原田芳雄が見失い取り返そうとしていたものは、たぶん今もまだ取り返せていないままでいる。

 

そう思う時、一体バブルとはなんだったのか、と思う。
自分自身、バブルの最後の一端をちょっと知っているだけにすぎないが、この不可解さは経験していない人/世代にはわからないことかもしれない。

 

 

映画「バニシング・ポイント」1972年 / 罪が消えてなくなる場所

ちょっと前、池袋で「バニシング・ポイント」を見た。
文芸座だったが、客席は9割方埋まっており、ちょっとびっくりした。これがそんなに動員力のある作品と思っていなかった。
この作品は一連の「アメリカンニューシネマ」のひとつだが、有名な俳優が出ていないこともあり、さほど人気はないと思い込んでいたのだ。
さほど評価の高い作品でもないと思っていたため、まあ機会があったら観ておきたい、程度に思っていたのだが。。

実際に見てみると、これが面白かった。
御多分に漏れず若い頃にニューシネマにハマったクチではあるが、もう若い頃のように観ることにはならない。
以下はリアルタイム世代でもないオヤジが、2023年の日本でこの映画を観て思ったことだ。
一般にアメリカンニューシネマが語られるのとは違う語彙になるだろう。

バニシング・ポイント [DVD]

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ストーリーはシンプルなもので、主人公の男性がデンバーからサンフランシスコまで車を運転して届ける、というものだ。
車は「ダッジ・チャレンジャー」というスポーツカーで、主人公は元プロのカーレーサー。
彼がこのスポーツカーを平均時速200キロの猛スピードで走らせ、追って来る警察を振り切ろうと国を横断しつつ延々カーチェイスを繰りひろげる。
そんな彼の逃走劇を黒人のラジオDJがリアルタイムに中継放送し(警察無線を傍受している)、彼は全米の注目の的になっていく。

主人公が(そんな必要もないのに)常軌を逸した速度で走る理由は最後まで謎のままだ。
彼は寡黙な男で、この逃走劇の理由も意味も最後まで語られない。

彼はベトナムに従軍し負傷している。帰還後はレーサーとして挫折し仕事もうまくいっていない。
だからといって彼のこの逃走劇は、体制への反抗や社会への不満、自由への逃走といったものではない。
この作品が「ニューシネマ」ということで、そのように説明されることが多いが、いま見てみれば、全くそんなことはないとわかる。

彼はピーター・フォンダロバート・デ・ニーロのように不満でも怒ってもいない。むしろ穏やかで、ハンドルを握りながら微笑んでさえいる。
これは映画を観ていて最後までひっかかるところだ。ニューシネマの主人公達と何かが違う。

彼とのカーチェイスで警察の車が横転したりクラッシュしたりする場面が何度も現れるが、その都度彼はクルマを降りて相手の様子を伺い、無事を確認して再び走り出す。
彼の疾走は全く破壊的、暴力的なものではない。追っ手を逃がれようとはしているが、敵意はない。

砂漠の一本道を誰も傷付けないよう気遣いながら疾走するうちに、彼が走る意味がおぼろげに見えてくる。彼の背後にある風景が見えてくるのだ。

 

彼は海兵隊時代、実際にベトナムに従軍し、怪我を負っている。
警官時代には、連行した少女をレイプしようとする同僚の白人警官を殴りつけ止めている。
彼を激励する盲目の黒人DJは保守的な白人男性に踏みつけられている。

 

彼の周囲には、公然と弱者を暴力で圧迫する者たちがおり、黒人や障害者、女性、ベトナム人を殴り、レイプし、殺している。
それはアメリカ社会の主流派といえる人々、つまり白人男性で、彼自身がそれである。
彼自身かつて国家権力と一体化した存在として振る舞うことができ、実際に体制的暴力として振る舞ってたのだ。
(実際には彼はそこでも弱い者、傷ついた者を救おうとしていたのだが)

彼はアメリカの白人男性として、そこに結びついた罪を背負っている。
彼が猛スピートでアメリカを横断するのは、そのような自分から逃れるため、あるいは贖罪のためだ。
彼はここでコワルスキーという名の個人では無く、白人男性であることの「原罪」を背負う存在といっていい。

 

この映画が語るのは、アメリカ=白人男性の罪の意識で、主人公が抱える鬱屈はいわばマジョリティであることの負い目だ。
自分はただ存在しているだけで弱者から奪っている、そのことから逃げだそうとしているように見える。

彼自身ベトナム帰還兵だが、彼のつまづきがベトナム戦争か始まった事は疑いがない。
この時代、 (不道徳な) ベトナム戦争の敗北がアメリカにもたらした「傷」は様々に表現されているが、それはアメリカの白人男性が抱え込んだ困難とイコールだと言っていい。
(ニューシネマで苦悩するのはみんな白人男性だ)

だがこの作品の際立ったところは、単に主人公の苦悩だの痛みだのをナルシスティックに描くのではなく、むしろアメリカに多様な「非白人男性」を見出していくことだ。

ロードムービー的な側面を持つこの作品で、彼は逃走の途中に様々な人々と出会う。
彼のチャレンジャーが舗装道路を外れ、砂漠の荒野へ乗り出す先に見出すのは、アメリカ社会が周辺化してきた人々、社会の中心を逃れてきた人々だ。
黒人、若者、女性、障害者、先住民、老人、貧困者、同性愛者が、主人公の逃走に関わってくる。
(砂漠のヒッピーに助けられたりする)
黒人DJが実況する彼の逃走劇に注目しているのも、社会の周辺にいる者達の視線だ。

 

ただ観ていてどうしても気になるのは、そのような本作品においてもなおほの見える差別的な偏見で、同性愛者に対する蔑視は今となってはかなり厳しい。
また女性表象も伝統的なステレオタイプを出るものではない。

おそらく他の属性の人々も、描かれていたならば似たようなステレオタイプ表現になったろう。

また彼のザックリな「原罪」意識は、たとえば「逆差別」に苦しむ「白人弱者男性」を無視するものだ。おそらくこの時点での彼自身がそうであったにも関わらず。

それは時代的な限界といっていいが、それでもこれは主人公が自分を観る彼らの視線に気づく、彼らの存在に気づく映画だと言っていい。
自分が彼らに見られている。彼が警察/アメリカ社会に対峙する中で、多様な少数者の存在を社会の外=砂漠に見出す。

21世紀の(BLMやフェミニズムが騒がしいw)今から見れば、この作品は今日的な意味での「多様な人々」がその存在を現わし始める前夜のものとわかる。
彼らはまだ黙っている。だが主人公にはその姿が見え始めている。


作品の冒頭、警察の待ち伏せを迂回した主人公のクルマが猛スピードで「消失点」を突き破り、突如として姿を消すシークェンスがある。
これは映画のラストシーンのフラッシュフォワードで、実際この映画の最後に同一のシークェンスが訪れる。
だが実際のラストシーンではこの冒頭で予告されたものとは違う結末を迎える。

まるで「来なかった未来」であるかのようなシーンだが、 主人公はこの映画を通してそこに向かって走っていると言っていい。
そこは彼の「罪」が消える場所Vanishing Pointだったかもしれない。
だが上述の通り、映画はこれとは異なるラストを迎えており、主人公は結局そこにはたどりつけなかったことになる。

そこはどのような場所だったろう? それはよくわからない。
21世紀の今になってみれば、もうそもそも彼=白人男性が特権的にアメリカ(の罪)を背負って進むことができなくなっていたとは言えるかもしれない。

 

小津の映画で見たような日

ちょっと前の事になるが、妹ちゃんの高校の卒業式があり、嫁と一緒に行ってきた。
この時までには妹ちゃんの受験はすべて結果も出ており、結局志望校には受からず、滑り止めに行くことになっている。
そのせいか本人はやさぐれておりw、そんなに上機嫌という訳でもなさそうだった。
校門付近で写真を撮ったが、なんというかブサイクな顔をしているw

入学手続きをすべて終え、大学側が言ってきたパソコン等も買い揃えた今になってもまるで乗り気じゃなく、大学生活に思いを馳せるなんて状態からは程遠い。そもそも彼女の口から大学のことなどほぼ出てこない。
まあ滑り止めに行く学生の春休みはみんなこんなものだろう。父も憶えがあるよw

 

卒業式は午後早くに終わったので、嫁と二人で昼食をとった。
(妹ちゃんは友達と遊びに行った)
たまたま学校の近くに嫁がテレビか何かで見た高級な?ステーキ店があり、ちょっと値段は張ったが入ってみた。

小洒落た店内に座りながら、嫁がまるでこのような場面で言うような台詞を言った
「とりあえずこれで一段落だね」

 

末子が高校を卒業した。
兄がすでに大学生だが、確かに大学生になればもう子供ではない。
親ももう「保護者」という感覚ではなくなる。
妹ちゃんもこれでそうなる。
卒業式を終えてみて、我々の心構え的に、彼女も(ウチラの庇護下の)「子供」ではなくなったような気がする。


一体どうやって食ったらいいのかわからないような肉料理を食いながら(店員に食べ方を聞いたw)、ちょっと奇妙な感覚になった。
特段何か喋ることもなく座っている嫁が、これまでと違って見える気がする。
別に式典用にオシャレしてるからではなく、なんというか、彼女をどう見ていいかわからないような気分になった。
この20年ほどで、オレにとっての彼女はもっぱら「ウチの子の母親」のようになっていて、いわば子供を介した関係だったのだが*1、その関係から結接点である「子供」がいなくなった。
彼女との関係が一瞬、何もなくなったように感じたのかも知れない。

 

ウチラ夫婦は子供を大学まで出す(むろん本人が望むなら、だが)というのを一つの目標にしてきた。
家計もそれを中心に考えており、すでに2人の子供が大学院に行くことになっても受け入れる準備ができている。
妹ちゃんの高校卒業/大学入学は、そういった意味では「親」としての最後のハードルを越えたということなのかもしれない。


小津安二郎は、その映画の中で繰り返し「娘の結婚」を描いている。
そこでは親が(特に男親が)、子の結婚により「親」でなくなる瞬間が描かれている。
親子の関係が、つまり核家族が解体する様子を描いているといってもいい。

この小津の父娘ものには、しばしば不可解なシークェンスが現れることで知られている。
典型的なのが「秋刀魚の味」の軍艦マーチを歌う場面だ。
酒場で父(笠智衆)が旧軍で戦友だった男と一緒に軍歌を歌う。このシーンが不自然に長く、意味ありげに挿入される。
だが実際には前後のストーリー展開とは特段関係がなく、何故そんな場面があるのか最後までわからない。

 

 

どうやら父にとって、旧軍での経験、戦時中や戦前の日本が何らかの意味を(シンパシーやノスタルジーを)持つものであるらしいとわかるだけだ。
ただそれは父が「父」であるためになんらかの意味を持ったものらしいとは言える。
たとえば「東京物語」では、娘(原節子)は、父の戦死した息子の未亡人である。父と娘の関係が終わるのは戦争が終わったからだ。

 

小津がそこに何を込めたのか、芸術的な意味は知らないし、ここでは関係ない。
ただベタな連想として、ウチラ夫婦の20年の子育てはまるで戦争のようだったと感じただけである。子育てを経験した夫婦にはありふれた感慨だろう。

 

我々は、もはや歌っても仕方ない軍艦マーチを歌うように値段の高い肉料理を食ったが、特別話すようなことも無く、ほとんどしゃべらずに食べ終えた。

考えてみればこれまで二人で話す事はもっぱら子供の事だったが、今やウチラ夫婦にとって子育てはノスタルジーの領域になりつつある。
別に娘が嫁に行く訳でもないが、やはり何かが終わったと感じる。
お互い「父」でも「母」でも無くなる。今はそうではないかもしれないが、いずれ確かにそうなると妙にリアルに感じられる。


「晩春」では父が何度もシャボン(石鹸)を探し家中をウロウロするシーンが出てくる。
だがそこで見失われているのはおそらく自分自身だ。「親」でなくなる親が自分を見失う様が描かれている。

まさが自分が小津作品の親の方にシンパシーを感じる日が来るとは思いもしなかったがw、むしろ核家族において、親は自分で想像する以上に自分を「親」なるロール(役割)に投入しているということかも知れない。

 

 

家族とは結局子供のためのものなのだとつくづく思う。
子の無い夫婦は家族ではないと言いたいのではない。
ウチラ夫婦にとって、「家族」とは子を育てるプロジェクトだった気がするのだ。
そしてなんというか、いろいろあった挙げ句、最後のハードルを越えてみたら、だだっ広く何も無い原っぱに放り出されたような気分である。

子供が「手を離れる」というが、手を離してみたら手元に何も残らない。「親」なる自分さえだ。
ウチラ夫婦はここに向かって懸命に走ってきたのだ。
その達成感の無さ、手応えの無さに途方に暮れている。

ちょうどこの2人のようにだ。

 

せっかくお高い料理を雰囲気のいい店で食ったが、お互い何かを祝うような気分にもなれなかったのは、たぶん嫁もオレと同じようなことを感じていたからかもしれない。

 

 

 

 

*1:別にセックスレスとかそういうことではない。