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Valdegamas侯日常

2017-12-31

2017年の本

 「今年も何か書こうと思っていたのだが…」と始めるのはもはや前口上以上の意味はない。昨年に比べて色々と忙しく、読み通せた冊数は昨年より減り、70冊程度だった。印象に残った本について、例年通りある程度のまとまりをもって整理したい。

■外交史
 外交史研究で関心を引いたのは、佐々木雄一『帝国日本の外交』、服部聡『松岡外交』、山本章子『米国と日米安保条約改定』、添谷芳秀『日本の外交―「戦後」を読みとく』の四冊だった。

 最初の二冊は戦前日本の外交史研究である。たまたま今年の年初に細谷千博『両大戦間の日本外交』(岩波書店1988年)を読み返すことがあったのだが、その際つくづく感じたのが、戦前外交史の泰斗たちの議論の強固さであった。
 よく知られているところであるが、戦前日本の外交史研究は、それが破滅的な敗戦に至ったという事実、更に大方の史料が敗戦により公開されたという背景が重なり、1950年代後半頃からその後の議論のおおよその方向性を決めるような研究が次々発表されている。もちろん細かな事実の訂正や、当時の研究が素通りしたものの個別実証は可能であろう。しかしそれがどこまでの意義を持つのか?そのような悩ましい問題を後進に突きつけてきたことは間違いがない。上記の細谷の著書も、まさに細谷が50年代末から70年代にかけて発表した、そのような先駆的研究をより集めた論文集である。
 かかるハードルの高い戦前外交史研究にどのように挑むか。それに対して今年読了した本の中でも特に興味深いアプローチを採用していたのが、『帝国日本の外交』と『松岡外交』だった。

佐々木雄一『帝国日本の外交 1894-1922―なぜ版図は拡大したのか』(東京大学出版会)
 本書が採用したアプローチは19世紀末から1920年代までの日本外交の行動習性の抽出であり、そこから副題の「なぜ版図は拡大したのか」に答えようとするものである。本書が描く日本外交は、「軍部の暴走」「二重外交」といったものに翻弄される騒々しいものではなく、意外なほど静謐である。
 本書のいう日本外交の行動習性とは、何事においても、自国の「利益」が確保できるかにこだわり、その利益が(多少強引でも)既存の条約など依拠しうる根拠を持って主張できるかという「正当性」にこだわり、利益が正当性をもって主張できるなら、その利益を得られるか、あるいは同等の代価を得られなければおさまらない(武力行使も辞さない)という「等価交換」にこだわる日本外交である。
 そしてこうした習性は基本的にぶれることなく、首相・外相・外務省を中心とした外交指導の中で一貫され続ける。ただし満蒙権益などを典型として、かなりきわどい根拠を元に得た「利益」が、いつしか当然の利益へと認識が変質していくという危うさも秘めていたことも本書は指摘する。
 外交的な大事件をトピック的に取りあげるのではなく、30年弱の期間の日本外交を一貫して描くという方法によって、本書は今まで見えてこなかった性質を描くことに成功している。これは興味深いところであろう。
 ただし利益や正当性、その帰結としての等価交換にこだわるのは果たして戦前日本外交だけの習性か、それは内政や、あるいはその他の国の外政機構と比較してどうであるのか、という疑問も湧いてくる。当然ながら国際環境の変質とも無関係に(無頓着に)同じ行動を繰り返したというのは本当だろうか(あまりに下等生物的ではなかろうか)、という疑問も生まれてこよう。とはいえこうした問いは不愉快な疑問ではなく、純粋に本書に触発されることで生まれてくる疑問である。
 また本書の別に優れた点は、こうした習性を抽出するにあたり、網羅的にこの時代の史実の再検証を行っていることだろう。例えば日英同盟対日露協商という政策路線対決について、また21か条要求をどのように評価するかなど、こうした史実の解釈についても著者は果敢に挑戦を試みている。戦前外交史研究の論点や、その評価の最新状況が把握できるレファレンスとしても、本書に非常な価値があることは間違いない。



服部聡『松岡外交―日米開戦をめぐる国内要因と国際関係』(千倉書房)
 本書が対象とするのは、まさに先述の細谷千博が通説的解釈を提示した松岡外交である。松岡外交についての一般的理解として定着しているのは、松岡が日独伊の三国同盟にソ連を加えた「四国協商」を形成し、米国に対する力の均衡を築くことを目指していたというものである。しかし松岡は独ソ戦が勃発するや否や、自分が二か月前に中立条約を調印したソ連をドイツと共に挟撃することを主張している。こうした松岡の異常性は、説明不能なものとしてある意味放置されてきた。
 本書はここに「戦時外交」という時限性・流動性を読み込むことで、再解釈に挑戦しているといえる。松岡外交に四国協商のようなグランド・デザインはなく、ここの政策は日々の情勢判断の中で生まれたものだった、というのが本書の解釈である。詳細は本書を読んでいただきたいが、既に欧州戦争が勃発し、主要国の力関係が平時以上のスピードと振れ幅で日々変化する中で、松岡は時々の情勢判断に基づき、政策を打ち出さざるを得なかった。対米関係を意識して様々な勢力と切り結びつつ、効果的に南進を実行する態勢をどのように構築するかが松岡の関心事であり、その中で政策は臨機応変に形成されたのである。本書を読むことで松岡外交は静態的、かつ錯乱した構想をもったものではなく、動態的で、(少なくともその都度の瞬間的には)合理的な構想をもったものとして、読者の前に再現される。
 この時期の日本外交は史料が十分に残っていないなどのネックを抱えていたが、本書は米国による日本の外交電報解読情報(マジック情報)などをこの補完の為に駆使し、かかる松岡外交の情勢認識を明らかにしている。史料的な制約から、松岡による最終的な意思決定は類推せざるを得ないという弱さはあるが、刺激に満ちた一冊であることは間違いない。多少刊行から時間を経ているが、本書の面白さに気付けたのは昨年宮下雄一郎『フランス再興と国際秩序の構想』を読み、「戦時外交」の時限性・流動性に気付かされたからであった。そういう意味で本書は私にとって「今年の本」であったので取り上げた。



山本章子『米国と日米安保条約改定―沖縄・基地・同盟』(吉田書店)
 戦後外交史も引き続き活発な研究が進んでいるが、今年は心なしか刊行点数が少なかったように感じられた。その中で一番面白い議論を展開したのが本書である。
 本書は安保改定交渉について、米国側、特に軍部(統合参謀本部)に焦点を当てたものである。安保改定交渉の研究において従来焦点を当てて分析されてきた米国側のアクターは、国務省駐日大使館といった外交当局者であった。しかし本書は近年公開が進んだ軍部の文書を分析し、軍部こそが安保改定に対する最大の「抵抗勢力」であり、彼らが同意したことこそが転換点であったことを鮮やかに描いている。
 端的に要約するなら、軍部が安保改定に同意したのは、日本本土の基地の重要性が低下したからであった。1950年代後半の東アジアでは、朝鮮戦争が休戦状態となり、焦点は東南アジアや台湾へと移っていた。更にスプートニク・ショックなどを受け同盟国への動揺が広がる中で、軍は沖縄を軍事基地として確保しつつ、事前協議制度の調整や朝鮮半島有事の際の米軍出撃を認める「朝鮮密約」により、本土の基地機能を現状(旧安保)のまま維持できるなら安保改定を認める、という条件を米政府部内に提示し、その後の交渉でその達成を目指していくことになる。同時にそれは返還前で安保条約の制約を受けない、沖縄の基地負担増大という現状にもつながっていた。
 本書の意義は、軍部というアクターを組み込むことで従来の研究では必ずしも指摘されてこなかった、安保改定の持つ「構造」を明らかにしたことであるといえる。ただ構造を描きつつ、あえて分析対象を岸・アイゼンハワー期に限定するならば、米政府部内の政治(国務省国防総省統合参謀本部間)などを描くことでより重層的なものが描けたかもしれないと思われる。いずれにせよ、重要な研究となることは間違いないだろう。



添谷芳秀『日本の外交―「戦後」を読みとく』(筑摩書房・ちくま学芸文庫)
 最後に取り上げるのは概説書である。2005年ちくま新書で出版された『日本の「ミドルパワー」外交』のアップデート版である本書は、コンパクトながら占領期から現代まで、戦後日本外交を歴史的に通観するのに優れた一冊である。また今年は同じくちくま新書で出版された宮城大蔵『海洋国家日本の戦後史』もちくま学芸文庫で出版された。最近のちくま新書の日本政治・外交関連は首をかしげるような本も少なからず出ているが、こうした本が復刊されるのは喜ばしいことである。
 さて、本書で強調されるのは、憲法九条日米安保条約という二つの柱からなる「吉田路線」に収斂せざるを得ない戦後日本外交の実情である。時にこうした構造を意識してか知らずか、ゴーリスト的に、あるいはパシフィスト的に振る舞おうとする政治指導者が出てきたが、それは現状の構造を変えることはなく、戦後日本外交は結局吉田茂の選択の範囲内で歩みを続けてきた。著者はこの構造を「見えざる手」として扱うのではなく自覚的に承認すること、またそれを前提とした外交戦略の構築(新書の時の表現であれば「ミドルパワー外交」の展開)を訴えており、その一貫性は評価できるところである。
 ただ本書の最大の難点は主張ではなくワーディングであろう。本書で著者は「ミドルパワー」という言葉がかつて誤解を与えたとしてそれを取り去っているが、果たしてそれでいいのだろうか。また現状の安倍政権が進める、戦後レジーム否定と日米安保強化が提携した外交路線を「安倍路線」、またその前段としての戦後レジーム日米安保の双方を否定する外交路線を「日本中心主義」と名付けているが、いずれについても文言の違和感がぬぐえない。政策を提言していくのであれば、ワーディングに対してはより慎重であるべきと思われるだけに、やや残念である。



■現代
 現代に関連する本としては阿南友亮『中国はなぜ軍拡を続けるのか』、遠藤乾『欧州複合危機』、ロバート・ケーガンアメリカが作り上げた”素晴らしき”今の世界』が印象に残った。

阿南友亮『中国はなぜ軍拡を続けるのか』(新潮社)
 本書は改革・開放以後の中国の40年を描きながら、タイトルの問いに答える中国現代史である。本書の魅力はその構造的な議論の展開だろう。そこで取り上げられている無数の事実は、報道などで断片的に見聞きしてきたものだが、それがパズルピースのようにかみ合っていく快感がある。
 本書の焦点は「バランサー」小平の功罪である。文化大革命から一転して、小平ら最高首脳部が改革・開放を進める中で、中国国内の格差は拡大し、また民主化要求は高まり、そうした不満は六四天安門事件を頂点とする形で噴出した。また国外では冷戦終結と東欧の共産圏ブロック崩壊が生じていた。このような情勢下でも小平は共産党からの権力移譲はかたくなに認めず、暴力装置としての人民解放軍に依存し、体制を引き締める道を選択する。ここに代償としての軍拡への道が開く。また一方で、は中国との経済協力にメリットを見出す自由主義諸国と提携した経済発展路線を維持発展させた。それは格差の拡大と、民主化活動家の孤立無援を意味していた。
 先述したように本書はその構造的な記述で他を圧倒する。強大な軍事力と格差、多くの軋轢を抱えた今日の中国が誕生したのは、一義的には中国共産党の責任であるが、同時に著者は周辺諸国の対応もまずさも指摘する(特に天安門事件後、早期に中国への制裁解除に向けて動いた日本への批判は激しい)。そして本書はこうした中国の実情を踏まえた上で、「対中政策オーバーホール」を行なうことを提唱している。
 なんとも壮大な「どうしてこうなった」の歴史であり、いちいち記述される内容に膝を打つと共に、鉛を飲み込んだような気分になる一冊でもある。

中国はなぜ軍拡を続けるのか (新潮選書)

中国はなぜ軍拡を続けるのか (新潮選書)



遠藤乾『欧州複合危機―苦悶するEU、揺れる世界』(中央公論新社・中公新書)
 本書は欧州連合(EU)諸国のウクライナ危機、ユーロ、難民、テロなど、複合的な危機の状況を描く一冊である。日本屈指のEU研究者が、EUの構造に由来している、あるいは促進されている危機を構造的に分析しており、時事問題を追うジャーナリスティックな記述と構造的な説明が連動しており小気味よい。
 本書はともすればすぐ崩壊という議論に飛びついてしまいがちな、EUという特殊な共同体を多面的に見る点で有益であり、それはひるがえって国民国家体制についても多くの知見を与えてくれる。山崎正和は本書について「秀抜な国家論」とも評しているが、全くその通りであるといえるだろう*1。本書は2016年10月に出版された関係で、当然ながらその後にあったオランダフランスドイツなどの選挙は反映されていない。ともすれば水物の本と思われるかもしれないが、本書のリーチは十分に長いと考えられる。一年以上を経た本エントリの執筆時点でも依然有益な一冊だと思われる。



ロバート・ケーガン(副島隆彦・古村治彦訳)『アメリカが作り上げた“素晴らしき"今の世界』(ビジネス社)
 「安全保障は酸素のようなものである。失ってみたときに、はじめてその意味がわかる」という言葉はある国際政治学者の言葉であるが、本書はそのフレーズを想起させる一冊であった。元々は2012年米大統領選挙の際、ミット・ロムニー陣営に与した著者が政治パンフレットとして書いた本であるが、本書はオバマ政権のその後の対外政策路線にも影響を与えたと言われる。
 本書はアメリカ衰退論に対抗して、アメリカの覇権と世界秩序維持への責任を論じるものだが、その指摘は意外と冷静である。軍事力における卓越性、開放的なコミュニケーションの提供、世界のGDP総計におけるアメリカの一定のプレゼンスといった実態を指摘しつつ、「文句はあっても、悪意が乏しく、嫌々やっていることがわかるアメリカの世界への『おせっかい』を国際社会は許容している」とする。
 第二次世界大戦後、世界秩序構築にアメリカ(とその同盟国)が果してきた役割を振り返りつつ、ケーガンは、実力という意味でもインセンティブという意味でも、果たしてこうした責任を負う国が他にあるだろうか?と問うている。
 想像されたよりはマシとはいえ、自国優先を掲げる米国の政権の乱痴気騒ぎと、中国やロシアといったおよそ「気前のよい」秩序維持には関心がない国家の台頭が指摘される今日、ともすれば動揺するところであるが、情勢判断においてどこに立脚すべきかを再度思い起こさせてくれる一冊ではあった。

アメリカが作り上げた“素晴らしき

アメリカが作り上げた“素晴らしき"今の世界



■政治
 政治というカテゴリーも広いが、今年印象に残ったのはピーター・バーガー/アントン・ザイデルフェルト『懐疑を讃えて』、宮澤喜一中曽根康弘『憲法大論争 改憲vs.護憲』、萩原稔/伊藤信哉編『近代日本の対外認識II』、河野有理『偽史の政治学』の四冊であった。

ピーター・バーガー/アントン・ザイデルフェルト(森下伸也訳)『懐疑を讃えて―節度の政治学のために』(新耀社)
 本書のテーマは、近代化の進展により自明のものが次々掘り崩された現代社会において台頭した二つのイデオロギー相対主義ファンダメンタリズムといかに対峙し、一線を守った思索を行なうかという問題である。
 あらゆる価値観が相対化する中で、底が抜け、ただのニヒリズムと化した相対主義と、「あったはずの価値観」を掲げながら、自分たちが相対的なものに過ぎないという不安を実は知っているファンダメンタリズムの双方を退けるために著者らが採用するのは、「懐疑」を伴う思索である。
 ただ疑うのであれば相対主義と変わらないが、本書の懐疑はそこにボトムラインを引いている。つまり歴史的、社会的に形成された人道、あるいは人間性(humanity)を否定するものは、断乎として拒否するということである。そして著者らはこうした懐疑の態度を政治運営の中に組み込んでいる、組み込みうるという点において、リベラルデモクラシーと、それを支える国家、市場、市民社会の鼎立を擁護する。
 本書は近代主義の礼賛である。しかし論理的に考えて行けば底が抜けるところまで行ってしまう、というジレンマがある時、歯止めをどのように構築するのかという点で、個人的には非常に有益な一冊であった。
 無論言うは易し、行うは難しで、このような近代主義者の地盤が崩れていることこそが問題であるのだが、それはまた別の問題である。



宮澤喜一/中曽根康弘『憲法大論争 改憲vs.護憲』(朝日新聞社・朝日文庫)
萩原稔/伊藤信哉編『近代日本の対外認識II』(彩流社)
 近代主義と政治、という連想ゲーム的なもので言うと、やはり興味深かったのがこちらの二冊である。護憲派改憲派の二大巨頭の憲法論議かと思いきや、むしろ本書は二人の政治観を浮き上がらせている。
 本書において双方は戦後日本の平和的な歩みを評価しつつ、議論の仕方において違いを見せる。一方の中曽根はわかりやすいほどの近代主義者である。憲法は時代の実情に合っていない、国民の気風を削いでいる、だからこそ現行憲法の理念を活かしながらよりよい憲法を作る為、公正明大に改憲論議をしたいと訴える。
 他方の宮澤はずっと興味深い。改憲に一定の意義を認めつつも、政治的なリソースを大きく浪費するほどの意義があるのか疑義を呈し、既に現行憲法を使いこなすことに習熟しているのであるし、「あのドイツでも二回間違えた」からと日本もどうなるかわからないと述べる。一方で集団的自衛権の行使(この当時の政府解釈は保有しているが行使できないだった)について、日本近海とアメリカ近海で米軍艦船を助けることを一緒にするのは「学者ばか」のすることだと論じている。
 中曽根の明朗極まりない政治観と宮澤の秘教めいた政治観は全く噛みあわない。宮澤の発言はどこかしら「牧民」的でさえある。しかしどちらが有効であるのか、しばし考えさせられるところがあった。
 また、このような中曽根のある種のモダンさの来歴については、『近代日本の対外認識II』所収の小宮一夫の論文「『改憲派』の再軍備論と『日米同盟』論―徳富蘇峰・矢部貞治・中曽根康弘」にも教えられるところが多かった。ひるがえって宮澤の来歴が気になってしまうところでもある。

近代日本の対外認識 II

近代日本の対外認識 II



河野有理『偽史の政治学―新日本政治思想史』(白水社)
 本書はタイトルとなった権藤成卿を扱った論文をはじめ、明治以後の多種多様な政治構想を扱った論文集である。政治の実践に関して「演説」を重視した福澤諭吉に対して、「翻訳」を重視し、そこから「道」を求めようとした阪谷素、偽史の著述を通じて自らの社会構想を語った権藤成卿、「いやさか」によって一種の共同体構築を目指した後藤新平など、一見登場する人間は奇矯な人間ばかりである。
 もちろん本書はそうした珍獣名鑑として読んでも飽きないが、政治思想史の方法論を扱った記述であり、またそのミッションを示した記述である序章「丸山から遠く離れて」を一読すると、日本政治思想史として彼らを扱う意味が明瞭にわかる。この一本線を通した序章を読むと、彼らはただの珍獣ではなく、ともすれば狭く考えてしまいがちな「政治」という概念の幅の広さを提示してくれる存在として立ち上がってくるのである。そうしたことを想起させてくれる点でも、正しく政治思想史の仕事といえるだろう。

偽史の政治学:新日本政治思想史

偽史の政治学:新日本政治思想史



■歴史
 このカテゴリーの本としては、大澤武司『毛沢東の対日戦犯裁判』、前田亮介『全国政治の始動』、富田武/長勢了治編『シベリア抑留関係資料集成』が印象に残った。

大澤武司『毛沢東の対日戦犯裁判―中国共産党の思惑と1526名の日本人』(中央公論新社・中公新書)
 本書は中国で戦犯として裁かれた将兵と、彼らをめぐる中国の対日政策を扱った研究である。中国政府は戦犯に寛大な判決と、戦争犯罪を強く認めさせる「認罪」を行なわせる。中国政府は彼らを触媒として、中華民国と国交を結んだ日本との接触を試みる意図を有していたが、これは奏功せず、やがて中国は自民党政権との接触を開始する。一方で帰国した将兵は「中国帰還者連絡会」を発足し、日中和解に奔走するようになるが、それはその後の日中関係の展開の中では齟齬もきたすようになる。
 本書の魅力は、何よりも現代史ならではの著者と中帰連という題材の距離感の近さにある。外在的に見た時、贖罪に奔走した中帰連を「洗脳された」というロジックで説明するのは容易である。しかしながら、本書は著者ならではの距離感によって、実際に戦場で過酷な体験をした将兵が彼らなりの贖罪を果そうとしたという、内在的なもう一つのロジックが暗に提示されている(特に分裂した「中帰連(正統)」の一種異様な贖罪へのこだわりを説明できるのはこのためであろう)。
 また一方で、本書の著者がただ対象に寄り添うのではなく、歴史家として冷静に、彼らを利用しようとした中国政府の思惑という政治のダイナミズムも描いていることが本書を際立たせている。政治のダイナミズムと、「戦争と折り合いを付けられなかった(折り合いを付けられないように仕向けられた)」人たちの生きざまが交差する、優れた歴史であると感じられた。



前田亮介『全国政治の始動―帝国議会開設後の明治国家』(東京大学出版会)
 本書は1890年帝国議会の開設後、利益調整をおこなう「全国政治」のシステムがどのように形成され、政党がいかに伸張したのかを描く研究である。
 大きなテーマに対して編年で幅広い叙述をするのではなく、本書が各章で扱うテーマ北海道政策、地価修正、治水、銀行と個別具体的である。しかし本書の興味深い点は、この「おいしいとこどり」といいった感のある四つの政策争点を連ねていくと、確かに「全国政治」というビジョンが浮かび上がってくることであろう。
 政治叙述のあり方として非常に面白く、考えさせられるところが多々ある一冊だった。



富田武、長勢了治編『シベリア抑留関係資料集成』(みすず書房)
 本書はシベリア抑留の始まりから戦後補償まで、日米ソから幅広く主要文書を渉猟し、邦訳編集した資料集である。シベリア抑留研究会の発足以来、精力的に続けられている学術研究としてのシベリア抑留成果物として、刊行されたことを高く評価したい。

シベリア抑留関係資料集成

シベリア抑留関係資料集成



■人物
人物に関する著作は政治家・官僚・知識人・軍人・スパイと、全く異なったものを選ぶことになった。

高村正彦『―振り子を真ん中に』(日本経済新聞出版社)
 本年「私の履歴書」として日経本紙に掲載され、間をおかず刊行された。現役の自民党副総裁の回想録である。政策通として知られる人物だが、本書の面白さは、淡々と鋭い言葉が並ぶ一方で、政治家ならではの行間で語らせる部分がにじんでいるところだろう。TPPをめぐる党内調整の話などはなんとも含蓄に富んでいる。

振り子を真ん中に 私の履歴書

振り子を真ん中に 私の履歴書



國廣道彦(服部龍二、白鳥潤一郎解題)『回想「経済大国」時代の日本外交―アメリカ・中国・インドネシア』(吉田書店)
 本書は本年物故された外交官の回想録である。題名にあるとおり、1950年代、復興が始まった頃に外務省に入省し、「経済大国」時代に幹部クラスで経済外交とアジア外交を専門領域として担った人物の回想録である。
 官僚の回想録には一般人より目を通しているつもりであるが、回想録一般と比べても、史料としての価値は高いが話は面白くないもの、あるいはその逆に話は面白いが史料としての価値は低いというアンバランスが存在するように思われる。そうした点からすると、本書は双方のバランスが調和している稀有な例であると思われる。
 細かな実務の記録、政策や人間関係についての率直な評価、時折挟まれる不器用なユーモアは、十分な密度を持っており、外交官の生き生きとした働きぶりを示してくれている。特に日本外交史に関心があるなら必読だろう。



山崎正和(御厨貴・阿川尚之・苅部直・牧原出編)『舞台をまわす、舞台がまわる―山崎正和オーラルヒストリー』(中央公論新社)
 本書は美学研究者劇作家としてそのキャリアをスタートし、幅広く活躍した人物のオーラル・ヒストリーである。そのような特異な人間の履歴書としても、山崎自身の著作解説としても、社交や交際を軸にした文明論としても、戦後日本論としても、学際系の学問のあり方を論じた本としても、知識人と社会の関係を描いた本としても読めるという、異例の本である。良い意味でどこまでも近代的な山崎の生きざまには魅了される。
 また、本書の魅力は詳細な脚注であろう。その文献の博捜ぶりには舌を巻くばかりである。



ヘルマン・ホート(大木毅編・訳・解説)『パンツァー・オペラツィオーネン―第三装甲集団司令官「バルバロッサ」作戦回顧録』(作品社)
 第二次世界大戦中、卓越したドイツ軍戦車部隊指揮官として知られた将軍の著作である。半分は独ソ戦初期の作戦回顧録、半分は『国防知識(Wehrkunde)』誌に掲載された戦史や作戦に関する各種文章から構成されている。訳者である大木氏の精力的な(という言葉では到底足りない)仕事の成果である。
 単純に戦史の叙述としても、また軍司令官レベルからは、このように戦場の風景が見えるのか、という意味でも本書の内容は興味深い。またその記述のスタイル、つまり後進に向けた教訓戦史であることを明瞭に打ち出していることも印象に残った。



デイヴィッド・E・ホフマン(花田知恵訳)『最高機密エージェント―CIAモスクワ諜報戦』(原書房)
 上の四点は回想録ないしオーラル・ヒストリーであるが、本書は1977年から85年までモスクワで米国CIAに情報を流し続けたソ連人技術者、アドルフ・トルカチェフをめぐるドキュメンタリーである。ソ連の現体制に幻滅し、冷静でありながら情熱的に職務を遂行し、ソ連の航空機技術開発に大打撃を与えるトルカチェフ、モスクワで最初の本格的なヒュミント活動を成功させるため、トルカチェフの身を案じながらも奮闘するCIAエージェントたちのやりとりは中々心を打つものがある。エピローグも含めて読み応えのある一冊といえるだろう。



■最後に
 面白かった本を項目ごとに整理していくと際限がなくなってしまい、またかえって文字数にムラが生じることとなってしまった。ここら辺でまとめとしたい。

 カテゴリに収まらない関係で最後に取り上げたいのは、谷口功一・スナック研究会編『日本の夜の公共圏―スナック研究序説』(白水社)である。社会科学人文学を専門とする研究者たちが、日本国内に無数に存在するスナックを研究したという、一見ふざけているのかと思う一冊である。

 しかし、その内容は単純におもしろく幅が広い。スナックが法的にはどのような存在なのか、スナックが一種の公共施設として機能しているとはどういうことなのか、そもそも人にとって、酒を呑む場所とは、酒を呑む行為とはいかなるものであるのかと、社会の中でスナックという存在が盲点となっていたこと、それを見ることで多々触発される部分があることを本書は明らかにしている。

 色々とツールを駆使してみて、ただの技自慢道具自慢でもなく、また単に面白いのでもなく、見えなかったものが見えてくるというのは正しい意味で学際的ではなかろうか、そういうことを教えてくれる一冊であった。

日本の夜の公共圏:スナック研究序説

日本の夜の公共圏:スナック研究序説

2016-12-22

2016年の本

 あっという間にまた一年が終わる。今年は読書メーターを利用することでまともな読書記録をつけるようにしたのだが、どうも80冊弱本を読んでいたことがわかった。例年こうした記録をとっていないので明確な比較の基準がないが、新書の類をほとんど読んでいないことに気づかされる。それにしてもこうしたサービスを使うと、あれも読んでいないしこれも読みかけで終わった、などというものが山のようになっていることに気づき憂鬱になる部分もあった。これからもそうしたぼやきを重ねながら歳を取ることになりそうである。

 今年読み終えた本を対象として、印象に残った本を整理した。昨年同様、ある程度のまとまりをもって整理したつもりである。おおむね今年出た本が対象となった。去年出た本はうずたかく積まれたまま。恐ろしいことである。

■外交史
 わたし自身が強い関心を持っている外交史研究で、特に印象に残ったのは宮下雄一郎『フランス再興と国際秩序の構想』、中谷直司『強いアメリカと弱いアメリカの狭間で』、佐橋亮『共存の模索』の三作だった。なかでも前二作は、政治外交史という手法であればこそなし得た研究であろうという印象を強く受けた。

宮下雄一郎『フランス再興と国際秩序の構想―第二次世界大戦期の政治と外交』(勁草書房)
 本書は1940年フランス第三共和制の敗北後、シャルル・ド・ゴール自由フランスという政治勢力が、「フランス」を継承していると自称した、あるいは見なされた様々な勢力との抗争の中で、どのようにして正統な「フランス」という地位を獲得したのか、更に来るべき戦後世界でいかなる国際的地位を獲得しようともがいたかを描いた、危機の時代のフランス外交史研究である。

 本書におけるド・ゴールの姿には、「政治の芸術家」というスタンレイ・ホフマンド・ゴール評を想起せざるを得ない。ド・ゴールは、政治に影響を与える様々なファクター正統性、力、制度や組織、リーダーシップ、更に時間など― を織り込みながら、見事にライバルたちに勝利し、当初は怪しげな亡命勢力に過ぎなかった自由フランスに確固たる政治的地位を与えることに成功する。著者はド・ゴールだけでなくジロー、ダルランといったライバルたち、そしてジャン・モネやルネ・マシグリといった人物たちの一挙手一投足を、なるほどと唸らされるような政治学的な洞察を散りばめながら、力強い筆致で描いていく。

 そして書名のとおり、本書はド・ゴールの権力の確立だけでなく、「フランス」がどのような戦後国際秩序を構想したかを描く。ド・ゴールやモネらの戦時中に検討した構想の中で、後世の人間がフォーカスしたのは、西ヨーロッパ諸国統合の構想だった。これは欧州統合が戦後現実のものとなっていった事実を踏まえて、その後に続く重要な萌芽となったのだと理解されてきた。しかしながら、著者は彼らの構想が戦時下という特殊な状況で作られたものであったこと、そしてそれはより大きな戦後国際秩序構想と重ねて考えるべきだと注意を喚起する。著者によれば、「フランス」の戦後国際秩序構想における中心的課題は「ドイツ対策」であり、西ヨーロッパ統合はそれを解決するためのオプションの一つであった。

 米英両国の手によって、国際連合を中心とする戦後国際秩序構想が固められていく中で、また戦後の欧州において間違いなく発言権を増すことが予期されたソ連との関係を模索していく中で、「フランス」は戦後国際秩序に適当な地位を獲得すること、ドイツ対策という政策課題との整合性を確保することを優先する。結果仏ソ間には対独同盟としての軍事同盟が成立し、また国連憲章には「自衛権」概念を挿入することに成功する。「フランス」は、何とか自国の安全保障を満たす外交的成果を得ることができた。しかしそのためには、彼らが構想していたいくつかのオプションを諦めなければならなかったし、西ヨーロッパ統合構想はそうやって諦められたものの一つであった。彼らの統合構想はのちの欧州統合に続くものではなく、一代で断絶した構想として歴史に姿をとどめるものであった。いずれは終焉を迎える戦時期という時間的制約の中で、更に国力の限界の中で、「フランス」は苦渋の選択を下さざるを得なかったことを、著者は広い国際政治史の文脈を再現することでほろ苦く描いている。

 さて、本書の魅力を伝えるのであれば、その文体にも触れないことにはいかない。著者の筆は人物を語るに雄弁で、事実を述べるに劇的である。「学問的禁欲」という言葉が通常イメージさせるようなものとは程遠いとさえいえるだろう。しかし、同時にその文体は決して過剰でも放埓でもない。まさにこうした歴史叙述をなすにあたっては、それが必要であるからこそそうしているのだろう、と読者を十分納得させるようなものがそこにはある。また脚注、索引などを合わせておよそ500ページに及ぶ本書の内容は濃密だが、冗長な部分があると感じさせる部分はない。読者は本書を読み終えたあと、その内容が細密でありながら、無駄なものが徹底的にそぎ落とされたものであることに気づくのである。

 本書は歴史、政治、人物、そうしたものへの洞察に溢れ、また同時に魅力的な歴史ドラマでもあるという、稀有の学術書であるといえるだろう。簡単に論旨を説明するつもりが書きすぎてしまったが、後悔の念はない。本書を今回のエントリの筆頭に置くのもまた必然であったと思う。



中谷直司『強いアメリカと弱いアメリカの狭間で―第一次世界大戦後の東アジア秩序をめぐる日米英関係』(千倉書房)
 本書もまた、政治外交史という手法であるからこそ可能な「外交の瞬間」を描き出した著作である。本書がその検討の対象とするのは、第一次世界大戦後、1919年に開催されたパリ講和会議ヴェルサイユ会議)から1922年に閉幕するワシントン会議までの間に、東アジアの列強である日英米三か国の外交政策がどのように収斂していったのかの試行錯誤プロセスである。

 従来この三国間関係は、中国に対する政策をめぐり、かたや門戸開放の「新外交」を求めるアメリカ、かたや自国が既に大陸に確保している権益を維持可能な国際秩序(著者はこれを「勢力圏外交秩序」と表現する)を支持する日英が相容れない関係にあって対立していたが、しかしながらそれがワシントン会議に至り、ようやくその秩序観を調和させ、真の大国間協調に達したと描かれてきた。

 しかし著者はワシントン会議より以前から、既に日英も旧来の勢力圏外交秩序を維持していくことが困難であることを認識し、「新外交」への接近を進めており、三国の秩序観は協調可能なものに変容していたこと、一方でそうした変容を相互には理解するに至っていなかったことを明らかにしていく。パリ講和会議、新四国借款団結成交渉など、中国問題について折衝を繰り返した三国は、トライ・アンド・エラーによって、折衝上の障害(満蒙権益の事実上の除外など)に合意し、また相互の秩序観についての誤解を取り除いていった。著者によれば、ワシントン会議の成果は劇的な関係国の政策転換によってもたらされたものではなく、既にそれまでに起きていた変容を相互に確認できたことでもたらされた、とでも理解すべきものなのである。

 こうした歴史叙述の中で、著者は注目すべき指摘を行なう。まず、日本政府は既に、パリ講和会議の時点において、勢力圏外交秩序からの知られざる「脱却」を果たしていたこと。そして、日米英の三国が協調関係を形成するには、アメリカが明白な形で(かつ夜郎自大ではない形で)東アジア国際政治コミットする必要があったこと、そしてアメリカがそうした意志を真に有していることを、第三の当事国である英国が認識できるようになることこそが決定的要因であった強調しているのである(これが標題の「強いアメリカ」「弱いアメリカ」に繋がる)。

 著者はそのプロセスを実に魅力的に描く。「勢力圏」の解体を提唱するウィルソン主義を逆手にとりある意味行きづまり状態にあった自国の勢力圏を脱して、外交的地平の拡大を模索した日本の外務官僚たち、交渉のさなか、本国からの訓令の微妙なニュアンスの変化から空気の変化を察知し、独断的提案を行なった交渉者たち、疑心暗鬼の関係にある三つの政府同士が、相互の交渉の積み重ねの中で変心し、結束したり離反したりする様子といった、まさに一筋縄ではいかない外交の瞬間を本書は描き出している。入江昭、三谷太一郎、細谷千博、麻田貞雄、佐藤誠三郎と、大家の業績がずらりと並ぶこの時期の外交史研究に新風を吹き込む研究であったといえるだろう。



佐橋亮『共存の模索―アメリカと「二つの中国」の冷戦史』(勁草書房)
 この項最後の佐橋本は、前二者が比較的短期間の外交を、濃密に、内在的に描くのとは少し立場を異にする。国際政治理論にも目配りをしつつ、トルーマン政権からカーター政権までの長期の米国の対中・対台湾政策史を描く本書は、核時代という危険な時代に、同盟国である中華民国(台湾)の信頼を獲得しながら、同時に共産中国との決定的な対立を回避し、共存を目指す米国外交の一つの「型」とでもいうべきものをシャープに析出している。中国の隣国である同盟国民としては、米中という大国間関係運営の容易ならざるものと、その狭間の同盟国はどのようにあるべきか、という今日的な示唆を得るところも少なくない一冊といえるだろう。装丁の美しさも印象的である。



■戦後日本外交
 昨年2015年9月には平和安保法制が国会で成立、16年3月には施行された。2014年7月の集団的自衛権行使の憲法解釈変更に続く、安全保障政策のドラマティックな「転換」を受けてか、今年は冷戦以後の日本外交を、特に安全保障の側面から問い直す優れた著作が次々と発表された。ここで取り上げたいのは、添谷芳秀『安全保障を問いなおす―「九条-安保体制」を越えて』、篠田英朗『集団的自衛権の思想史』と、白石隆『海洋アジアvs.大陸アジア』、野添文彬『沖縄返還後の日米安保』、宮城大蔵・渡辺豪『普天間・辺野古 歪められた二〇年』、最後に宮城大蔵『現代日本外交史』である。

添谷芳秀『安全保障を問いなおす―「九条-安保体制」を越えて』(NHK出版)
篠田英朗『集団的自衛権の思想史』(風行社)
 添谷は日本外交の専門家、篠田は平和構築の専門家と異なった学問的背景を持ちながら、二人の著作は、同じ問題を異なった視点から論じている。日本国憲法九条と日米安保条約の組み合わさったことによって形成されたユニークな日本の安全保障政策、添谷の言葉を使えば、「九条-安保体制」、篠田の言葉を使えば「戦後日本国家体制」の磁力と、それがもたらす国際協調主義の衰退である。

 全く異なる国際環境の下で生まれた憲法九条日米安保条約が組み合わさったことで作られたこの「体制」は、改憲と明示的な軍備強化を求める「右」も、その逆を求める「左」をも退け、冷戦期の日本外交を「見えざる手」として拘束した。この体制の下でうやむやの内に採用され、やがてある程度自覚的に選択されるようになった軽軍備・経済重視などと称される政治路線は、戦後日本経済的繁栄をもたらす。しかしこの路線も、冷戦の終焉と、湾岸戦争の衝撃によって動揺することとなる。

 添谷は冷戦後、こうした国際環境の変容に対応するため、国際平和維持活動(PKO)に積極的に参画し、ASEAN地域フォーラム(ARF)やASEAN+3などを通じ、アジア太平洋地域の秩序形成にも積極的に参画するようなった90年代の日本外交を「国際主義」の覚醒期として描く。しかしながらこうした国際主義的な日本外交は、中国・韓国・北朝鮮といった隣国との外交上の摩擦が激化する中で、自国の安全保障以外を考慮せず、思想的にも保守化右傾化し、改憲を求める「自国主義」にハイジャックされた。添谷によれば平和安保法制はそうした文脈の中で生まれたものだったが、「九条-安保体制」の磁場はなお強く、結局平和安保法制は骨抜きされ、「体制」の枠内にとどまるものとなった。

 一方、篠田は同じ「体制」について、憲法との関係から接近する。篠田は憲法上に明記されていない「自衛権」の担い手、「立憲主義」、「最低限の自衛」といった概念、さらに日本国憲法日米安保条約の関係を、憲法学者たちがどのように論じてきたかを詳述し、昨今の安全保障政策をめぐる政局の中でも金科玉条のように扱われてきた憲法学者たちの法理の実際を暴き出す。

 そして主流派の憲法学者たちが「八月革命」説によってアメリカによって主導された憲法制定プロセスの実際を、「必要にして最小限の自衛」としての自衛隊個別的自衛権を容認しつつ、実際の安全保障の少なからぬ部分を日米の安全保障条約に(つまり米軍に)依存しているという構造を、それぞれ覆い隠してきたと指摘する。篠田によれば日本政府が依拠してきた内閣法制局自衛権に関する法理も、こうした憲法学者たちの議論によって理論的に下支えされたものであった。1972年個別的自衛権のみの行使を認める政府見解も「内向き」であることが米国に容認される冷戦下の国際環境下で形成されたものだった。

 篠田によれば、冷戦を背景にして日米が協調を築けていた以上、冷戦終結後にこの路線が動揺することは必然だった。そして日本外交は対米従属へと傾斜したと篠田は論じる。2000年代以後、「有志連合」としての自衛隊派遣が優先されPKOへの自衛隊派遣が停滞した事実を指摘して、結局こうした国際貢献もまた対米協調の中の文脈にあったのだと指摘している。2014年集団的自衛権行使の解釈変更においても、1972年見解の法理は生き続けた。それは対米従属所与の前提として、自国防衛のオプションとして、ごく限定的集団的自衛権行使を容認したものであると、篠田は論じ、日本の「体制」は何も変わらなかったと嘆じる。

 二人の著書は全く違う経路をたどりながら、同じ結論に至る。憲法九条日米安保体制によって構成された「体制」の強固さ、その体制の中で成立した平和安保法制の看板にそぐわない「内向き」な性質とおよそ「普通の国」とは程遠い「穏健さ」、またこうした「体制」が惰性によって続くことがもたらす外交・安全保障政策の弛緩、ひいては日本政治そのものの弛緩である。二人はいずれも真の国際協調主義に基づいた外交政策を展開すべきことを訴えるが、自ら認めているように、こうした主張は今の日本では支持者の少ない、なんともか細い声である。二人の訴え、そして両者に共通する熱を帯びた文体は、湾岸戦争への日本政府日本社会の反応に危機感を募らせ、改憲の必要性を訴えるようになった高坂正堯の姿を思い出す部分さえあった。相補的な、知的刺激に満ちた二冊といえるだろう。

 ただあえてこの二冊に優劣をつけるなら、かなりキワモノめいた文献を参照しつつ日本外交を描き、また憲法学者のあり方を「暴露」したことで本旨と無関係インターネットで俗受けした感さえある篠田の本より、わたしは添谷の本をより推奨したいと考える。篠田が「体制」とアメリカとの関係(というよりも日本の対米感覚だろうか)に焦点を当て、悲憤慷慨して終わるのに対し、添谷はこうした「体制」への無自覚を嘆きながらも、オーストラリア、韓国、ASEANといった周辺諸国との政策協調を「自国主義」を鮮明にせず進めることで、「自国主義」者たちが警戒する大国・中国との関係をヘッジし、外交的地平を拡大できることを説いている。

 確かに添谷は「体制」を超克し、未来志向国際主義的な改憲を提唱しており、上記の政策協調も実はそうした中で実施すべきだと論じられている。しかし、少し引いて考えれば、これは「体制」のありかたに自覚的であれば、その枠内でも(つまり現状の中でも)不可能ではない外交政策といえるだろう。改憲が必要となる「体制」の解体以前に、日本外交にはやるべきことが多々残っているということを指摘している点で、「体制」の中でも日本外交は変わりうることを示唆している点で、添谷の本にわたしはより豊かな可能性を感じた*1

安全保障を問いなおす 「九条-安保体制」を越えて (NHKブックス)

安全保障を問いなおす 「九条-安保体制」を越えて (NHKブックス)



白石隆『海洋アジアvs.大陸アジア―日本の国家戦略を考える』(ミネルヴァ書房)
中山俊宏「『衰退するアメリカ』のしぶとさ――日米同盟を『再選択』する」杉田敦編『岩波講座現代(4)グローバル化のなかの政治』(岩波書店)
 さて、添谷の議論のように、アメリカ一国のみならず地域に目配りし、その中での日本の立ち位置を考えるという点で、インド太平洋地域の現状をダイナミックに描く白石の著書は極めて示唆に富んでいた。「陸のアジア」であるインドシナ半島において、国境を越え、南北を縦断する中国主導のインフラ投資、あるいは東西を縦断する日本主導のインフラ投資は、いかなる変容をもたらしているのか。かたや「海洋のアジア」であるフィリピンインドネシアマレーシアシンガポールはどのような状況にあるのか。紋切り型ではない、本来的な意味での「地政学」を考える点でも、またルールの強制はできないが、ルールの形成には影響を与えうる「大国」として、日本はどのように行動するべきなのかを考える点でも示唆に富んでいる。こうした点では、論文集の中の一本であるが、日米両国のグローバルな立ち位置を踏まえて、近年の動きを日米同盟の「再選択」と表現した中山の論文もまた合わせて読む価値がある、興味深いものだった。



野添文彬『沖縄返還後の日米安保―米軍基地をめぐる相克』(吉川弘文館)
宮城大蔵・渡辺豪『普天間・辺野古 歪められた二〇年』(集英社新書)
 今年も(不幸なことに)沖縄の米軍基地をめぐる議論はやむことがなかった。普天間基地の返還合意から20年を経て、もはや泥沼の状態と化した感さえある基地問題だが、その歴史的な曲折を踏まえずに論じることは危険だろう。従来、森本敏普天間の謎―基地返還問題迷走15年の総て』(海竜社2010年)がまず参照されるべき一冊だとわたしは考えていたが、それをよい形で更新するような著作が今年は多数発表された(上記の他に50年代から現代までを扱った屋良朝博・川名晋史・齊藤孝祐・野添文彬・山本章子『沖縄と海兵隊―駐留の歴史的展開』旬報社も価値のある論文集だった)。

 野添は冷戦下、沖縄返還前後から80年代に至る時期を、宮城・渡辺は普天間合意以後から現在に至るまでを、それぞれ描いている。取り扱う時期も、書籍としての形態も違う両者の特色をあえて比較するならば、野添は日本政府・米国・沖縄という関係がもたらす、構造的なものを、宮城・渡辺はある種「アクシデント」の連なりとしてこの問題を描くことに力点をおいている。事象を把握するに際しては、いずれも忘れることはできない視点であろう。



宮城大蔵『現代日本外交史―冷戦後の模索、首相たちの決断』 (中公新書)
 この項の最後に取り上げたいのは、冷戦以後の25年を描いた『現代日本外交史』である。読みやすく、また明瞭に歴史を描いた本書を通読して、日本外交がこの25年の間に、いかに様変わりしたのかと、ある種のノスタルジーに浸らざるを得なかった。また国内政治にも目配りをした本書は、安全保障政策こそが日本政治の中で焦点となり、政党連立の組み替えを促進したという興味深い視点を提示している。沖縄問題同様、近視眼的にならず、日本外交を改めて再考する価値を持つ一冊といえるだろう。



■伝記・手記
河西秀哉『明仁天皇と戦後日本』(洋泉社新書y)
山崎拓『YKK秘録』(講談社)
アンドリュー・クレピネヴィッチ/バリー・ワッツ(北川知子訳)『帝国の参謀―アンドリュー・マーシャルと米国の軍事戦略』(日経BP社)
 人物に焦点を当てた本として、脈絡のない三冊をまとめてみた。『明仁天皇と戦後日本』は、まさに渦中の人である今上天皇という存在がどのように形成され、また日本社会日本国民がどのように今上天皇の「人となり」を見出してきたのかを描いた、小著ながら示唆に富む評伝である。

 「平成流」とも評される固定的なイメージで天皇を捉えるのではなく、今上天皇ご自身の成長はもとより、社会の関心の移り変わりが象徴天皇のある側面を捉え、メディアによって増幅していくという関係を描き出しており興味深い。

 『YKK秘録』はいわずと知られた山崎拓・元自民党副総裁の議員手帳の日記的記述を元に構成された手記である。短くまとめてしまうなら、「生々しい政治家の姿を見ることができる」といったところだろうが、YKKの結成から山崎の落選(2003年)までの十数年が描かれることで、山崎拓加藤紘一小泉純一郎という中堅政治家が要職を歴任し、大政治家へと変貌していく(変貌させられていく)様子を知ることができるのが本書最大の魅力であるといえよう。微細なディティールの積み重ねを、十数年分通時的に読むことで匂い立つものがそこにはある。くだらないエピソードも非常に多く、興の尽きない一冊である。

 『帝国の参謀』は70年代から実に40年あまり、米国防総省アメリカの長期戦略を考え続けた伝説の人物の評伝である。シンクタンクランド研究所から行政府に転じたマーシャルは、冷戦期にはソ連との長期的競争に勝利するために、冷戦後は米国の優越を維持するために、何よりも適切な「診断」をなすべく、彼我の国力、政策選好、長期トレンドを把握するネットアセスメント室を主宰した。

 国防総省にはすでにシステム分析などの手法が持ち込まれていたが、一方でその種の手法が組織の持つ選好や、限定合理性を軽視することに懐疑的だったマーシャルは、同じような疑問を抱いた国防長官ジェームズ・シュレジンジャー後ろ盾を得て、ネットアセスメントの歩みを少しずつ始めていく。幸運なことにマーシャルはシュレジンジャーだけでなく、後任であるドナルド・ラムズフェルド、ハロルド・ブラウンといった国防長官たちにも仕事の価値を認められ、ネットアセスメントは徐々に成熟し、マーシャルの薫陶を受けた人材は行政府や軍、学界に広がることとなる。

 マーシャル自身は「診断」の人であることに努め、採用すべき政策を提言する人間ではなかったが、こうした人的つながりを資産としてマーシャルの診断は実際の政策に反映されていくこととなる。それがソ連の弱点や政策選好を突き、無用な出費を拡大させる「競争戦略」であり、冷戦後の「軍事革命」と称されるイノベーションの模索であり、今日の「エア・シー・バトル」だった。

 アメリカと相手の実勢を把握し、更に双方の「癖」をつかみ、その真の実力を見極め、長期的なトレンドを予測する。マーシャルの「ネットアセスメント」には定まった手法はなく、ただ目的だけがある。しかも考えてみれば極めて普通のことを知ろうとしているだけである。ネット(全体)のアセスメントとはよく言ったもので、こうした手法に必要なのは本当に旺盛な知的関心と、判断の指標としての常識であろう。

 本書ではこうした融通無碍ネットアセスメントと、システム分析などに代表される還元主義との対比が繰り返し描かれている。マーシャルの弟子たちが書いた本書で強調される、還元主義への疑義と、生態学的ともいえる分析へのこだわりは、政治学還元主義的な分析を厳しく批判する冷戦史家ジョン・ギャディスの歴史理論書『歴史の風景』を想起させるものがあった。

 一方でこのような手法が内包する問題は、時として固定的な「常識」による診断を始めてしまうということにあるだろう。マーシャルの偉大な点は、そうしたものを常に意識的に刷新し続けたことにあるように感じられる。著者たちは本書を「知の伝記」と述べているが、同時に本書は偉大な常識人の伝記であるといえよう。

明仁天皇と戦後日本 (歴史新書y)

明仁天皇と戦後日本 (歴史新書y)

YKK秘録

YKK秘録



■最後に
伊奈久喜『外交プロに学ぶ 修羅場の交渉術』(新潮新書)
 最後に取り上げたいのは外交に精通したジャーナリストとして知られ、今年4月に亡くなった伊奈久喜の著作である。伊奈は新聞・雑誌といった媒体での活躍のほかに、外務事務次官駐米大使を歴任した東郷文彦の評伝『戦後日米交渉を担った男』(中央公論新社2011年)と、『外交プロに学ぶ 修羅場の交渉術』(新潮新書2012年)を残したが、ここでは言及されることが少ない後者を取り上げる。

 本書はその題名からもわかるとおり、ハウツー本として出版されたものである。「交渉のプロ」である外交官たちの営みが、どのようにビジネスの現場にも適用できるのかという体で、外交の現場で使われる交渉テクニックなどを論じたものだ。率直に言って、本書の企図はあまり成功しているようには見えない。文中に登場する、「これをビジネスシーンに応用すれば…」といった記述は、バリバリの職業軍人(元陸将補)で軍事関係の著作を多数出版した松村劭の本で、同じようなぎこちない記述に出くわした時のような居心地の悪さを感じた。Amazon等での決して高いとはいえない評価は、それを裏付けているともいえよう。

 伊奈の死を機に本書を久しぶりに読み返したが、本書をビジネス書ではなく、外交交渉の実際を理解するための本として読むなら、その評価は多少変わるだろう。本書では、著者自身が取材した、あるいは書籍や報道を通じて知った様々な外交に関するエピソードが散りばめられている(ちょっと見当違いかな?というものがあるのはあらかじめお断りしておく)。

 本書で伊奈が説明する、交渉がうまく行かなかった際に、「決裂」でなく「潜在的合意はあった」と宣言することの意義、外交交渉が原理原則論をぶつけ合う段階から、徐々に合意に向けたものへと変貌する様子などは、外交史研究や、報道を読んでいてもこれか、と気づかされる点が多々あった。また「逆説をあえて使う」「用心深い楽観論」といった思考方法も、さほど驚くものではないが、明示されることでそうしたものがどういう形で登場するのか、教えられる部分は大きかった。まさに外交の機微とも言うべきものを描いているという点で、本書は外交ジャーナリスト・伊奈らしい著作であったと思う。

 わたし日経新聞の日曜版「風見鶏」欄で、伊奈が書くコラムを楽しみにしている一ファンだった。伊奈の文章は外交をめぐる戦略を、交渉を、人事を自在に論じて常に意表を衝かれるものがあった。『外交プロに学ぶ 修羅場の交渉術』を読み返しながら、伊奈の書いた文章がもう読めなくなることを、ひどく寂しいと感じる年の暮れであった。

外交プロに学ぶ 修羅場の交渉術(新潮新書)

外交プロに学ぶ 修羅場の交渉術(新潮新書)

*1:なお、篠田の著書で論じられている立憲主義の「本来の意味」については、Twitterでいくつか興味深い指摘をいただいた。下記リンクを参照。http://bit.ly/2hYT07Bhttp://bit.ly/2hdi7SOhttp://bit.ly/2hgsuar、hhttp://bit.ly/2hghGJbhttp://bit.ly/2ijkVMa

2016-10-14

シン・ゴジラ論のあとのシン・ゴジラ論

前口上
 シン・ゴジラ映像の快感に満ち満ちた作品であった。何度となく繰り返される政治家官僚たちの会議自衛隊による整然としたゴジラへの攻撃、ゴジラを襲う無人在来線爆弾高層ビル、そして鳥肌が立つほど美しいゴジラの熱線放射。どれもこれも素晴らしかった。

 本作を特異なものとしたのが、作品が社会現象として捉えられ、多くのシン・ゴジラ論が語られた点にあるだろう。教義の映画レビューではなく、特集連載を掲載した日経ビジネスオンラインを典型として、「シン・ゴジラ論壇」は活況を呈した、あるいは呈するように仕向けられた。今しばらくこうした状況は続きそうな様子である。

 おそらく2016年を振り返るとき、無視できない作品となったシン・ゴジラであるが、わたしは8月頭に一回目を見たときから耐え難い違和感があった。しかしながらそれを文章化することにはためらいがあった。わたしがためらいを感じたのは、違和感という名のこだわりが、作品の特色として語られる「リアル」さというものに関わることであるからだった。それはある意味とても重要かもしれないが、娯楽作品としての映画そのもの、あるいは作り手の意図との関係において重大視すべきであるか、ためらいがあったのだ。

 ただ、上映開始から三か月弱の間に「シン・ゴジラ論壇」が活況を呈する中で、自分が覚えた違和感を誰も論じないことについて、今度は別の違和感が募ってきた。孤独感、疎外感といってもよい。そして活況を呈する「シン・ゴジラ論壇」の中で、シン・ゴジラはおおよそ「リアル」な作品だという前提で議論が進んでいくことにも疑問を覚えた。

 結果、わたしシン・ゴジラの「リアル」さについての違和感を論じたエントリを書くことにした。くどいようだが、わたし自身、わたしのこだわる部分が作品の本質的なものと関係するものであると、必ずしも思っていない。ゆえに、作品の否定ではないと考えている。また、ある意味うがった側面から見ることで、シン・ゴジラという作品の特徴の理解を助ける部分があるのかもしれないとは思っている。そして、シン・ゴジラ現実の何かを議論するための跳躍台とすることへの強い疑問であることは確信している。「シン・ゴジラ論のあとのシン・ゴジラ論」と題するゆえんである。

 本題に移りたい。なおこの文章は作品内容に関する記述を含んでいる。

政治」の希薄さ
 わたしシン・ゴジラを見たとき覚えた違和感は、二点ある。その第一は本作における「政治」の希薄さであった。このように書くと、奇異に思われる人もいるかもしれない。シン・ゴジラの特色は、これまでの怪獣映画にない、濃密な政治描写にあったのではないか、多くのレビューも、そうしたことを述べていたのではなかったか。

 確かに、日本政府ゴジラの熱線によって壊滅するまでを作品前半部とするなら、前半部においてとりわけそうした描写は濃密であった。総理官邸で繰り広げられる会議に次ぐ会議手続きの積み重ね、様々な役職名の乱舞は、それが力強いフォントスクリーンに登場することも相まって、多くの人の印象に残るものだっただろう。

 しかし、ある人が指摘したように、本作で力点をもって描かれていたのは、「政治」ではなく「行政」であった。既に方向性を定められたことを、具体的な政策手段に落とし込み、行政組織が実行していくというプロセスだった。ゴジラの排除という方策を、淡々と推し進めていくプロセスの描写であった。

 それでは、わたしの言う「政治」とは何か、政策を実行する以前の段階、あるいは政策を実行していく中における、矛盾の調和、対立の調停のことだ。かつて政治学者永井陽之助は「月に人間が行けるのは、月と地球との間に人間がいないからだ」「矛盾の統一とはアートである、政治は一種のわざである」という言葉を残している。この言葉は実に政治の性質を示していると思う。

 このままではいささかとっつきにくい、永井の言葉わたしなりにかみ砕くなら、意味するところはこうなる。経済的利益、人の情、合理性道徳倫理的側面、などなど、ある問題が論じられるとき、考慮されるべきものとして取り上げられる論理価値観は多岐にわたる。こうしたものが併存したままで問題を処理できるのであれば問題はないが、現実世界ではAという要素を優先したことで、Bについて不利益が生じるといった、矛盾や対立、不協和音を生じる。そうしたことをめぐって人間や集団が争うとき、どのような形で調停を行ない、問題を解決に進めることができるのか。それを達成することこそが、「政治」というアート(わざ、技芸)の最大の焦点であるということだ。

 こうしたものとして政治をとらえるとき、現実社会、とりわけ代議制民主政治が導入された社会において、このアートを駆使することを期待されている主たる存在が職業政治家であることがわかる。行政担い手である官僚機構が特定のロジックに基づき、政策を実行できるのであれば何の問題もない。しかし実際にはしばしば論理は衝突し、あるいは感情面でも激しいもつれを引き起こす。そうした局面で方向性を定め、優先順位付けをし、あるいは当事者同士に妥協を求めるといった手段を駆使し、調整を行なう使命こそ、職業政治家に与えられているものといえる。かつて唱えられた「痛みを伴う改革」などといった政策パッケージを社会に提示できるのは、官僚ではない。それは本来政治家のみに可能なことである。

 さて、政治をこのように考えるとき、シン・ゴジラの前半部にそのような意味における「政治」や、「政治家」は、存在しただろうか。スクリーンに登場する日本政府の面々が相反するものにもだえ苦しむ様子はまず現れない。ゴジラの最初の上陸の際、射線上に避難民が発見されたことで、大杉漣演じる大河内総理がヘリによる攻撃を躊躇するシーンくらいであろうか。それから後はひたすら、行政歯車のようにスムーズに動き、職業政治家であろう大臣たちもその一部として淡々と行動していく。矛盾や対立は表出することもなく、整然と進む。

政治」なき世界のタバ作戦
 ところで、既に世に出ているシン・ゴジラ論の中には、本作の政府描写に、太平洋戦争における戦争指導の混乱や、縦割り行政や、あるいはイギリスBBCのコメディドラマ『Yes, Minister/Yes, Prime Minister』に描かれたような、政治家官僚という、異なる立場の人間がかもし出すフリクションの要素を見出していた人もいたが、わたしはそれに同意できない。

 東京中心部と日本政府が壊滅する前半部のクライマックスに至るまで、政府組織は見事に一致団結して機能しているように描かれていたし、政官関係の不協和音もとくだん描かれてはいなかったからだ。五年前に現実に起きた、最悪の事態がわかっていても手を抜いたことでもたらされた「想定外」と異なり、文字通りの「想定外」に対して、シン・ゴジラ世界日本政府は、行政は、よく対応していたといえるだろう。そして、それこそが本作における描写の問題だったと思われる。

 本作を「政治」の希薄さ、行政論理の貫徹という観点でとらえると、それはゴジラの再上陸後、多摩川にて行われる自衛隊との戦いのシーン(タバ作戦)で頂点に達していた。ここで自衛隊は複数の作戦計画の中から、状況に応じた計画通りの作戦を実施する。しかしながら敗れる。相手はなにせ「想定外」であるから、負けたこと自体は仕方ない。大体において怪獣映画自衛隊があっさり勝ってしまってはしまらない。

 それはそれとしても、なぜ多摩川だったのだろうか。作中では「首都侵入を許してはならない」というセリフが登場する。つまり首都の防衛、戦力の集中という観点からそれがなされたという風に考えるべきなのだろう。しかし、再度立ち止まって考えたい。それでは、神奈川県民900万人の生命財産はどうなるのか。

 作中でこの問題は触れられていない。これが初回の上陸の際の決断、一刻の猶予もない時点の決断であれば、まだしも理解できなくはない。しかし、作中では最初の上陸から再上陸まで一定時間的猶予があったように描かれている。官邸新聞記者たちの「首都圏偏重の守り」といった会話も出てくるが、それもこの作戦の状況を示唆しているとは思えない。鎌倉に再上陸したゴジラは、神奈川県を蹂躙し、東京都との境界である多摩川に至りはじめて日本からの攻撃を受ける。なるほど首都侵入阻止やゴジラ迎撃のためにはそれも一つの手段だが、先述のとおり神奈川県は置き去りである。これはどういうことか。まさに「政治」が駆動すべき矛盾はなんら解消されず、放り出されたまま、軍事的合理性という論理がここではむき出しになる。

 わたしは、太平洋戦争末期、現実には起こらなかった連合軍関東平野上陸作戦を題材にしたボードウォー・ゲームをプレイしたことを思い出した。日本軍側でプレイしたわたしは、湘南海岸に上陸した米軍との決戦を多摩川で行うことを企図した。それが一番戦いやすかったからだ。もちろんゲームであるから、わたし関東平野を逃げ惑う避難民のことなど想像もしなかった。シン・ゴジラにおける自衛隊は、わたしのプレイを再現していた。

後半部における「政治」の発現、そしてアメリカ
 さて、ゴジラの熱線放射以後を描く後半部では、前半部ではほとんど見ることができなかった「政治」が現れる。国連安保理実質的にはアメリカ―による、ゴジラ核攻撃通告への対応という局面においてである。核攻撃を甘んじて受け入れ、首都とそこに住む人々の生活を失う代償に、復興支援を受け入れるのか、それとも被害を局限するゴジラ凍結プラン実施段階に進める賭けに出るのか。作中では後者が決断される。

 極限の決断としての「政治」を強いるのが、何よりもアメリカであるという本作のストーリーは興味深い。映画パトレイバー2』のクライマックス直前、架空の「戦争」を再現してみせたテロリスト・柘植の前に、マヒ状態となった日本に対し「明日の朝までに状況が打開の方向に向かわなければ、米軍が直接介入する」という米国からのメッセージが投ぜられる瞬間を思い起こさせるものがあった。さて、わたしの二点目の違和感はここにある。アメリカ、いや「日米関係」の描かれ方である。

 アメリカに小突かれる形で決断を促された日本は、なんとか時間を稼いで準備を整え、自力でゴジラ凍結作戦(ヤシオリ作戦)を決行する。作中では日本アメリカの関係について、日本人登場人物たちが「属国」「戦後は続くよ、どこまでも」「傀儡」という刺激的な言葉を駆使する。こうしたキャッチー言葉づかいや、核攻撃という屈辱を退け、自らの努力によってゴジラという難題を解決する作品展開に、本作におけるナショナリズムを見出すような議論も見られた。こうした日米関係の描写について、「国家には永遠の友も同盟もない」というパーマストン子爵のよく知られた言葉引用して、訳知り顔でうなずくこともできるかもしれない。しかし本当にそれが可能だろうか。あらためてヤシオリ作戦プロセスを考えたい。

 作戦のプロセスを思い返す時、この日本プライドを賭けたヤシオリ作戦で、無視できない役割を果たすのがドローン部隊であることを思い出す。無人在来線爆弾の強烈な存在感の陰に隠れてしまった感があるが、波状攻撃を加えるドローンゴジラエネルギーを消耗させる捨て石となり、血液凝固剤注入への突破口を開く重要な位置づけを担っている。そして本作中のセリフによれば、このドローン部隊は、「在日米軍兵士の友情」で貸し出されたものだ。

あまりにも軽い「属国」という言葉
 首都への核攻撃の容認という極限の決断を突き付けながら(この通告に対し、わなわなと腕を震わせ、机に拳を叩きつける嶋田久作演じる片山臨時外務大臣の姿は、本作随一のシーンであった)、日本側が独自の作戦を提示するや、「友情」で作戦に不可欠のドローン部隊を提供するアメリカ。一族の来歴を振り返り、再度日本に核は落とさせないと奔走する日系アメリカ人の特使、パタースンらの力によって、政権内部の核攻撃推進論を押しとどめるアメリカ。これをどのように考えればよいのだろうか。

 わたしは一連の描写を劇場で観ながら、「属国」と自分たちのありようを自嘲しているように見えて、その癖いざという時には「宗主国」の温情に期待し、甘える、自分たちを卑下する言葉どおりに振る舞う属国根性を見せつけられたように感じていた。ドローン部隊を「友情」で与えられなければ、高層ビル破壊するために巡航ミサイルを発射するミサイル駆逐艦提供されなければ(これは何の説明もなく登場する)、ヤシオリ作戦はどのように展開されたのだろうか?永遠の友も同盟もない、などという高尚なものはそこには存在しない。そこにあるのは「属国」といった刺激的な単語に批判的に言及しながら、結局「宗主国」の温情によってなんとか物事をなす、哀れな属国の姿である。

 ここで現実日米関係の姿を振り返ってみたい。日米関係の来歴は、こうした作中のそれとはいささか異なった姿を示している。無残な敗戦から出発した戦後日本は、冷戦の勃発以来、核の傘に代表されるアメリカの手厚い安全保障提供されつつ、経済大国として発展した。そして1970年代以後の世界においては、アメリカと手を携えて国際秩序で支える大国へと変貌した。安全保障の面におけるある種の非対称性は無視できるものではないが、この面でも日本は決して軽んじられるほど脆弱でもなかった。また、地理的にも変わらずアジア要衝であり続けていることも無視できない。

 長い戦後の間に日米関係が大きく変貌してきたという歴史的事実をあらためて意識しながら、1993年衆議院総選挙の際の政権放送で、宮澤喜一総理(当時)が述べていた言葉を参照してみよう。当時日本バブル経済がはじけ、「失われた20年」に入りつつある時期にあったとはいえ、アメリカと並び立つ世界第二の経済大国であった。宮澤は直前に開催されたG7東京サミットの成果と、国際平和協力法(PKO法)の意義を強調する文脈で、このように語っている。

D

どんな問題でも各国の首脳は必ず、日本の代表であるわたくしの方を見て、日本が何を言おうとするのかなと注目をする、そんな時代になったわけでございます。戦後、みんなが懸命に努力したおかげで、日本は豊かな国になりました。そして、いま、世界有数の経済大国として、わが国にはそれにふさわしい貢献が求められております。…


 宮澤は戦時下大蔵省に入省し、占領期には英語力を買われてGHQとの折衝を担当し、しばしば屈辱的な経験をしたといわれる。その後宮澤は政治家に転身し、自民党有数の国際派政治家として着実にキャリアを重ねていったが、そのような人物がかかる言葉を発しているのは何とも印象深い。敗戦から半世紀弱が経過していたこの当時、宮澤は確かに日本が、日米関係をはじめとする国際秩序が変貌していたことを実感していたのだろう。ともすれば今を生きる人間が忘れがちなことではある。

 また、アメリカにとっての日本価値、ということを考えるとき、東日本大震災直後の日本アメリカ政府の対応を描いた船橋洋一カウントダウンメルトダウン』を参照してもよい。同書では福島での原発事故によって生じた放射能の影響をめぐって、米国政府内で鋭い対立が生じたことが描かれている。多数の在日米軍兵士とその家族日本に居を構える国防総省は退去範囲の拡大を求め、一方で国務省はその後の同盟関係に修復しがたい傷をつけることを恐れ、拡大に激しい抵抗を示した。そこには単純な「宗主国」「属国」という垂直関係では捉えがたいものが日米両国の間にあることがわかるはずだ。それはおよそ愛情ではなく、打算的なものかもしれないが、お互いがお互いを必要としていることは理解できるだろう。

 しかしながら、シン・ゴジラにおける日米関係はそのようなものではない。本作の主人公である内閣官房副長官矢口蘭堂は、作中できわめて政治家的な気質を持った人物であるという紹介がなされていた。しかし、ヤシオリ作戦を展開する際に、このような日米関係現実に立脚して、いわばアメリカの「足元」を見る形で何らかの手腕を発揮したという様子は描かれていない。また作中では「地政学的に…」と中露の立ち位置を説明する部分はあるが、日本自身のそうした価値に視点が向けられる様子はなかった。日本はあくまで「属国」だと憤慨しながら、アメリカの温情に支えられながら「属国」であり続けるのである。

 パタースン特使の描かれ方に注目しながら、日米関係があまりにアンバランスなものとして描かれることについて、製作者側がどうせ複雑なものは理解されない、こんなもので良いだろうと手を抜いたのではと指摘する評論もあったが、この見立ても不適当とまた思われる。問題はより根深いもので、戦後日米関係についてのイメージがいかに固定化されているか、という点にあるといえるだろう。シン・ゴジラにおける日米関係とは、占領撮影された昭和天皇マッカーサーが並んだあの写真に象徴される、支配と従属の日米関係というイメージの再生産でしかない。そしてこうしたことを考えていけば、ポリティカル・フィクションというジャンルにおいて、戦後日米関係を適切な距離感をもって描くことに成功した作品というものが、まず見受けられないという絶望的な事実にも人は気づくだろう。

 そうしたものの凝縮が、シン・ゴジラにおいて軽々しく使われる「属国」という言葉であり、「友情」で貸与されるドローン部隊であり、日本のために奔走してくれる日系アメリカ人ということなのだろう。

映像の快感に万歳二唱
 わたしシン・ゴジラへの違和感は、「政治」の必要もなく、行政論理が貫徹される日本政府、挑発的な表現をちりばめているようで実は極めていびつな形で描かれた「日米関係」という二点にあった。

 なぜこうなったのだろうか。勝手に推測すれば、前者については、本作が何よりも、映像表現を追求した作品であったからだと考えられる。製作者側の関心は政治現場でどうした論理が戦わされ、何が起きるかを描くことではなく、「行政機能する映像」をスクリーンに映すことにあった。いわばロボットアニメでメカが稼働する様子を精密に描き、それらしさをアピールするように、行政の「リアル」な映像を撮りたかっただけだったのだと思われる。政治の泥臭い心情描写や、駆け引きや、それを粘つくような映像に変換することにはもともと関心がなかったのではないか。

 後者の日米関係に関して考えれば、先述したように、日米関係を適切に描くことができたフィクションがほとんど存在しないという根源的問題に行きつかざるをえない。それを変えることは容易ではなかったのだろう。もう一つはドローン巡航ミサイルというスマートなガジェットによって、あのヤシオリ作戦を描きたかったのだろう、と考えるほかない。

 さて、このような邪推までした上で、シン・ゴジラという作品が、わたしが指摘した要素を加味するべきと考えるかといえば、そうではないと答える。本作を映像美を追求した作品と考えるとき、わたしが縷々書いてきたことは必ずしも必要ではないと考えるからだ。

 ただ、わたしシン・ゴジラを「リアル」だともてはやすシン・ゴジラ論には、この二つの違和感を提起したいとは考えている。本作はわたしが指摘したような点でなんら「リアル」ではない。ゴジラに対して防衛出動を発令するのが現実的だとかなんだとか述べること自体がばかばかしい。それ以前の問題なのだ。

 それにしても、映像の快感に満ちた作品であった。とにかく、それに尽きる。

2015-12-31

2015年の本

結局一本もエントリを書かないまま2015年の暮れを迎えたが、去年同様、読んだ本、買った本などの感想を並べて一年の締めとしたい。

昨年は順不同、一冊ごとの紹介としたが、今回はある程度自分の関心分野をもとにまとめることとした。

政治外交
今年は戦後日本外交研究でとりわけ注目すべき二冊が刊行された。武田悠『「経済大国日本の対米協調安保経済原子力をめぐる試行錯誤、1975〜1981年と、白鳥潤一郎『「経済大国日本外交エネルギー資源外交形成 1967〜1974年である。いずれもGNPで世界二位の経済大国となり、また沖縄返還日中国交正常化という「戦後処理」の最終課題を終えつつある時代の日本外交を描く、本格的な歴史研究である。武田本は日米関係を、白鳥本は日本外交を中心の分析対象とするものだが、ジャーナリズム政治学的分析の手にゆだねられていた分野がいよいよ一次史料ベースにした分析の対象になったという点というのは、素朴な意味でも歴史研究の進展を感じさせるものだった。

武田本は副題どおり三分野での日米関係の対立と協調を描いているが、米国史料ベースに描かれる(特に安保経済での)対日要求の論理の揺れ動きは、過去の研究手法からは明らかにしえなかったものであり、実に細密で読み応えがある。

また、白鳥本は60年代以後、エネルギー消費国である日本がいかなる形でエネルギー危機に備え、第一次オイル・ショックという実際の危機に対処したかを描いている。事務レベルが60年代からこのようなトレンドを把握し、事前準備を進めていた様子、そのような準備がオイル・ショックという大事件において政治レベルのパワフルな動きと絡み合い、どのようなアウトプットを生み出したのか、これを余すことなく描いている。「平時」にどのように外交政策が蓄積され、それが「非常時」にどのような形で現れるのか、外交政策ということを考える意味でも興味深い一冊であった。

戦後処理を終えた日本が、国際社会とどのように向き合うかを模索した70年代以後についての最新の研究成果であり、これまでの戦後日本外交研究にはなかった地平に挑戦した二冊だったのだと思う。こうした歴史研究を取り込む形で通史も再構成されるべきであろうし、時事評論もなされるべきであろう。



他にも戦後外交史では、庄司貴由『自衛隊海外派遣日本外交冷戦後における人的貢献の模索』石井修『覇権の翳り―米国アジア政策とは何だったのか佐橋亮『共存の模索― アメリカと「二つの中国」の冷戦史』が出た。庄司本は情報公開請求によって文民選挙監視団派遣国連平和維持活動参加、更にイラクへの自衛隊派遣など、冷戦後の日本外交の新たな動きを実証的に描いた先駆的業績となった。石井本は『対日政策文書集成』シリーズによって米国国立公文書館文書を日本で容易に使用可能とする、目立たないがすさまじい成果を重ねて来た著者が近年進めていたニクソン政権期の研究をまとめたもので、書籍としてのまとまりにはやや欠けるが、その旺盛な史料収集意欲、研究意欲に感銘を受けていた身としては、取り上げないわけにはいかなかった。佐橋本国共内戦からカーター政権期までを扱った、国際政治理論との連携も意識した一冊であり、著者の鮮やかな分析やレトリックが一冊にまとめられるのを待っていた人間としては待望の一冊であった。



また編著では宮城大蔵編『戦後日本アジア外交伊藤信哉・萩原稔編『近代日本対外認識I』奥健太郎、河野康子編『自民党政治の源流―事前審査制の史的検証』が刊行された。

宮城本は約10年ごとを区切りとしたテキストであり、最新の成果を反映した読みやすい通史だった。伊藤・萩原本は「対外認識」をテーマとした論文集だったが、特に満洲現地の日本人コミュニティ日本本土にどのような施策を期待していたか、それが「満蒙問題」の解決を看板に掲げる日本政府とどのようなすれ違いを生じていたかを描いた北野剛「戦間期日本満洲田中内閣期の満洲政策の再検討」、ワシントン体制をめぐる日英米の疑心暗鬼を描いた中谷直司「『強いアメリカ』と『弱いアメリカ』の狭間でー『ワシントン体制』への国際政治過程」の二本は、過去にない外交史の分析で、印象に残った。

最後の奥・河野本は、自民党政務調査会強い力を与えたとされる、政府与党の各種法案を国会提出前にチェックする「事前審査制」の歴史的展開を分析したもの。その源流は戦前、戦時下にも存在していたこと、また今日述べられるような実態がいつ、どのように定着したのかを描く歴史研究主体の論文集だが、政治学行政学の分野で蓄積されてきた事前審査制についての研究成果を取り込みながらも、国内政治史もいよいよ戦後が本格的な「歴史研究」になったという手ごたえを感じる、テーマについての一貫性がある論文集だった。

戦後日本のアジア外交

戦後日本のアジア外交

近代日本の対外認識I

近代日本の対外認識I



戦後70年
1945年敗戦から70年ということもあり、様々な意味で関連書籍の販売が相次いだ。波多野澄雄『宰相鈴木貫太郎の決断―「聖断」と戦後日本鈴木貫太郎の終戦外交を扱った研究だが、鈴木戦争継続のポーズを保ちつつ終戦の時機を探る様子、「聖断」というイレギュラーな決断方法が浮上し、更に戦局が悪化していく中で、徐々に議論が集約されていく様子は、まさに決定が作られていく過程という面白さがあった。

さらに、同書後半で触れられる、終戦の詔書が英米に対する敗北を強調するものであったこと、大陸での中ソとの戦争の幕引きについて曖昧にしていたことは、結果「終戦」がいつだったのかを曖昧なものとしなかったか、という指摘は、『太平洋戦争アジア外交』で、重光葵の主導した戦時アジア外交戦後日本人の意識に残した負の遺産を指摘した波多野先生面目躍如たるものがあった。

さて、ミーハーであるので、今年は終戦関連の本を他にも何冊か手に取ったが、NHKの終戦関連番組のリサーチャーであった吉見直人による『終戦史―なぜ決断できなかったのか』はおととし出た一冊だが、波多野本とは違った形で終戦を描いており、これも興味深かった。吉見本は6月の陸軍梅津美治郎参謀総長による、戦局を絶望視する内奏の時点で終戦の下準備ができていたとする議論を展開し、副題のごとく「終戦をなぜ決断できなかったか」という議論を展開していく。著者の視点では、東郷重徳外相と梅津が主役となり、鈴木の影は薄い。そして、その問いの性格上、指導者たちの責任を追及するものとなっていく。淡々と歴史を描いていく波多野本と同じテーマを扱いながら(そして史料面でも少なからぬ部分を共有しながら)、その重点に差が出ているのは、極めて興味深かった。同書は最近のNHKスペシャルにありがちな、断片的な史料を持ち出して大げさなことを吹聴するようなものではなく(MAGICやULTLAなどの暗号解読史料も活用しているが抑制的)、王道を行く書籍であり、波多野本ともどもおすすめしたい。

宰相鈴木貫太郎の決断――「聖断」と戦後日本 (岩波現代全書)

宰相鈴木貫太郎の決断――「聖断」と戦後日本 (岩波現代全書)

終戦史 なぜ決断できなかったのか

終戦史 なぜ決断できなかったのか



これは戦後70年を記念してだったのかはわからないが、嬉しかった復刊が二つあった。一つは2005年単行本出版された下嶋哲朗『平和は「退屈」ですか―元ひめゆり学徒と若者たちの五〇〇日』文庫化、もう一つは2002年に『諸君!』に掲載された鼎談書籍化した岡崎久彦北岡伸一坂本多加雄日本人歴史観黒船来航から集団的自衛権まで』である。下嶋本は10代、20代の沖縄在住の若者たちが、同世代で沖縄戦経験したひめゆり学徒から話を聞き、どのように戦争体験を語り継いでいくかを描いたドキュメンタリーである。まさに安易な「平和学習」を超えることを目指す両者は時にかみ合わず、時に共鳴する。いささか熱量の多い文章でつづられる暗中模索ぶりはひたすらに心を打たれるものだった。10年の時を経て、かつての若者たちが今どのようにしているのかを補足した章がついているのも大変うれしかった。岡崎他本はある意味イデオロギー的には対照的とみられるかもしれないが、保守的でありながらグローバル歴史を論じうる面々による鼎談であり、この議論のよい部分が後述の談話に継承されたと思う。



さて、戦後70年ということでまたも内閣総理大臣談話が出た。総理大臣談話、及びそのベースになったとされる「20世紀を振り返り21世紀世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」の報告書は、いずれも広い歴史的視座で日本の正負の責任を論じたものであり、バランスが取れた内容になったと感じられた。「積極的平和主義」という政権の掲げる方向性が結末に来るのもストレスはなく、このように論じざるを得ないのだろう。

ところで、読売新聞政治部安倍官邸 vs. 習近平など、一部報道によれば、本来今回の談話は閣議決定を行なわず、公明党にも配慮しないもっと右派色の強いものになるはずであったが、それが安保法制をめぐる国会の長期化という中で閣内の一体性を示すため、現行の談話になったという。事実であればあるべき姿にかくして収まった、というなんともいえぬ政局の妙ではあるが、色々な意味で背筋の寒くなる話であった。

安倍官邸vs.習近平 激化する日中外交戦争

安倍官邸vs.習近平 激化する日中外交戦争



また、歴史認識関連では服部龍二『外交ドキュメント 歴史認識も出た。80年代歴史教科書問題以に始まる日中韓歴史認識問題を各章別で時系列・ドキュメント形式で扱ったものであり、やや文体は読みづらいが、昨年の木村幹日韓歴史認識問題とは何かともども、こうした問題を把握する際の基礎的文献になるのだろう。



政治政治政治
しかし、とにかく政治が騒々しい一年だった。民主主義立憲主義などの単語が独り歩きする様子が多々見られたが、本年出版された山崎望、山本圭編『ポスト代表制の政治学は代表制(代議制デモクラシー)の限界が様々な面から指摘される中で、デモや熟議デモクラシーなどに象徴される様々な政治的行為と代表制の関係を扱った論文集だった。著者らは代表制を時代遅れと廃棄するのではなく、代表制がこうした新しい取り組みとどのような関係を築いていくのか、という視点で論じており、正直色々考え込んでしまう論文もなくはなかったが、知的な刺激を受けた。

山崎・山本本が大きな政治的潮流と代議制デモクラシーの関係を論じたものであるなら、砂原庸介民主主義の条件』は、選挙制度を典型に、代議制デモクラシーの根底となる制度組織のあり方を丁寧に論じたテキスト。実態として、日本にどのような問題があり、どのような改革が可能であるのかを、日本政治実証研究に従事する著者はわかりやすく解説してくれる。ことに著者が政治を動かす「多数派」を形成するために、政党という組織をどのように確立するのかを論じているのは、重たい課題だろう。

民主主義の条件

民主主義の条件



上記のように、ある種の思想や制度などに注目した研究、概説書の面で実りの多い一年だったが、一方で結局政治における人間、個人のあり方ではないのか、という少し飽き足らない思いを覚えるところがあった。

そのような気分で積んだままの本の山から選び出した木村俊道『文明教養の〈政治近代デモクラシー以前の政治思想は、まったく違った形での政治を描いており、一服の清涼剤となった。「文明」「教養」などと言うといかにも大げさだが、木村本は知性ある人間が、明示、暗黙のマナーを守り、遊戯的・社交的に政治を処理する「実践術」の中で政治が営まれた時代を(しつこいくらい)描いている。それをそのままに待望するのは流石に倒錯だろうが、やたらと騒々しいばかりで「本音」やら何やらが横行する政治が何らかの形で一つの取り戻すべき姿を見た思いがした。「政治」と「教養(Civility)」の関係を扱った同書を媒介に、苅部直『移りゆく「教養」』山崎正和『社交する人間ホモ・ソシアビリス』を再読したところ、よく理解が進んだことも補記しておきたい。

移りゆく「教養」 (日本の“現代”)

移りゆく「教養」 (日本の“現代”)

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)



また、本年は田上雅徳『入門講義 キリスト教政治今野元『教皇ベネディクトゥス一六世―「キリスト教ヨーロッパ」の逆襲』の二冊も刊行され、大変興味深く読んだ。田上本は、キリスト教人間が共に生きることを訴える「共同性」、救済を待つことで、現世を相対化しながら生きることを可能とする「終末意識」という二つの性格を持つことを指摘し、その歴史的展開をキリスト教成立から平易に論じている。

特に興味深かったのは「終末意識」をめぐる変遷で、中世には現世にキリスト教があることの価値を説明しようとした結果、現世を論じることに終始して「終末」が後退し、暗に現状の秩序を肯定する神学が展開したこと、一方宗教改革の時代には「終末」を強調する思想が登場したが、それが現世を放棄し救済を待望するだけの思想にならないよう、慎重な説明がなされたことなどが印象に残った。「キリスト教政治」という主題そのものに関心を持って読み始めたテキストではあったが、今生きている世界をどう説明し、位置付けるのかという普遍的な問いに通じるものであるように感じられた。

後者は前教皇ベネディクトゥス16世(ベネディクト16世)ことヨーゼフ・ラッツィンガーの伝記的研究宗教的な伝記ではなく、政治史家の筆によるそれは、ハンチントンの『文明の衝突』をめぐる議論から始まり、保守的価値観の守り手としての教皇個性を論じるものとなる。「近代政治理念」が唯一の普遍主義として、世界中のあらゆる「旧弊」を破壊しようと猛威を振るう中で、カトリックとしての一線を守ろうとした人間としてラッツィンガーを描く同書は、(主としてイスラーム過激主義の挑戦によって)「近代政治理念」が何かと問われた今日、とかく示唆的ではあった。

入門講義 キリスト教と政治

入門講義 キリスト教と政治



以上、テーマ別にまとめてはみたものの、取り上げきれなかった本も多くあるが、年内中に書き上げるという観点からここで筆をおく。大体自分の関心が「政治」という大文字のものにあることもわかったし、色々と発見もある一年だった。

願わくば来年がよりよい年でありますように。

2014-12-31

2014年印象に残った本

もう2014年大晦日か…という印象が否めないのだが、今年も色々な本を買った(読んだわけではない)。おもしろい本、くだらない本など色々とあったが、特にその中でも読み通し、かつ印象に残った本を並べてみた。こう見ると新書が多くなってしまったが、もう少し色々な本を読みたいな…というのが今年の反省である。

今さらですが皆さまよいお年を

2014年の本
横手慎二『スターリン―「非道独裁者」の実像』(中央公論新社中公新書2014年
 キーワード:評伝、ソ連史、歴史認識
邦語で信頼できる、適当なスターリン伝がなかった中では大変ありがたい一冊。レーニンスターリンの断絶を強調する古典的視座ではなく、その連続性を示唆しつつ、著者らしい淡々とした筆致で、スターリンの人物形成と生涯が語られる一冊。
独裁者であり、かつソ連の岐路に決定的影響を与えたスターリンをどのように評価するのか、という点については非常に抑制的ではあるが、その解釈を考えるきっかけとなる本といえるだろう。個人的に難点と感じたのは第二次世界大戦終結後の判断力の衰えや冷戦との関係について非常に記述があっさりとしていたこと。この辺をもう少し描いてほしかった。



平野聡『「反日中国の文明史』(筑摩書房ちくま新書2014年
 キーワード中国史日中関係史、思想史歴史認識
反日」のタイトルで恐らく少なからぬ読者を遠ざけた不幸な一冊。儒学朱子学を基軸とした近代国家とは程遠かった中華文明が、近代西洋の挑戦を受け崩壊した後、自らの文明崩壊にも携わった近代日本という先達を参照し、日本への敵意を内包しつつ、「中国」という国家伝統歴史から産み出し、「中国夢」を振りかざすようになったのかを描いたダイナミックな歴史書
「文明史」という視座ならではの宿命論めいた色がややきつかったり、「反日」はそこまで強い規程要因なのか?という疑問が無くもないし、結語はもう少しまとまらなかったか、とも感じるが、日本はその来歴上現代中国について製造物責任を負っている、と言わんばかりの著者の激しい心情に気圧された。

「反日」中国の文明史 (ちくま新書)

「反日」中国の文明史 (ちくま新書)



久保亨・瀬畑源『国家秘密―隠される公文書』(集英社集英社新書2014年
 キーワード現代日本政治公文書管理制度
昨年12月に成立し、今年12月に施行された特定秘密保護法を論じるべく、まずその前提となる公文書管理制度(及び情報公開制度)の歴史概要を説明した上で公文書を含む行政機密保持を厳格化する特定秘密保護法問題点を具体的に批判したもの。
制度問題でありながら、およそ無意味とすら言えるイデオロギー的反対が少なくなかった同法だが、本書は「総論賛成(国家一時的秘密を持つことはやむを得ない)、各論反対(しかしその管理運用は適切になされるべきであり、特定秘密保護法修正後も極めて問題が多い)」というスタンスから問題点を明瞭に論じており、まさにこの問題を論じる出発点として価値があると思われる。公文書が適切に管理されるということが、民主政国家の根幹にあることを思い起こさせる一冊。
難点を言えば、序章だけは本文ともピントがずれていて読むに堪えないので、読み飛ばすことをお勧めする。



山本雅人『天皇陛下本心―25万字の「おことば」を読む』(新潮社新潮新書2014年
 キーワード象徴天皇現代日本政治明仁天皇
今上天皇の各種の「ご発言」、そして「ご公務」がどのようになされてきたかを元に今上天皇がどのようなことを重要視し、行動しているのかを論じた一冊。象徴という日本国憲法における位置づけを意識しながら、公平さを意識しつつ、弱者への配慮を欠かさないという「平成流」のスタンス、その一方で「ご発言」の中では沖縄災害への強い思いがあるという指摘にはっとさせられる。
2011年には実証的な昭和天皇論が花盛りを迎え、その中では昭和天皇戦後帝国憲法時代の意識も強く持っていたことが論じられたが、日本国憲法の制定後に成人を迎えた今上天皇が全く異なった意識、行動原理を持っていることが明瞭に理解できる本であり、象徴天皇という特異な君主のあり方を考えさせられる一冊である。



御厨貴『知の格闘―掟破りの政治学講義』(筑摩書房ちくま新書2014年
 キーワード御厨貴
政治史審議会オーラル・ヒストリー政治評論エトセトラエトセトラで、「政治」とつくような現象に色々首を突っ込んできた政治学者・御厨貴リレー最終講義をまとめた一冊。同氏の手がけてきた仕事が感じられ、また何とも硬質な研究などには直接織り込みづらい政治「ひだ」を感じさせる一冊となっており、楽しく読める。各章に添えられた若手研究者によるコメントと、その応答も面白い。ただ政治学政治という現象に関心がない人には全く面白くないだろう。



大木毅『明断と誤断 大木毅戦史エッセイ集』(盆栽ゲームズ、2014年
 キーワード:戦史、ドイツ
本邦アカデミズム世界では実りの乏しい学問としての戦史について、海外研究を紹介する形で触れられる一冊。元々はウォーゲーム雑誌寄稿されていたものをまとめたものだが、歴史学における当たり前の検証作業がなされるだけで、戦史がいかに面白いものになるかを教えてくれる。他にもそうした戦史を歴史として検証し、楽しむ本が複数登場したのが今年の喜ぶべきことでもあった。
なお著者はその後も複数エッセイ集(『ルビコンを渡った男たち』『錆びた戦機』)を発表されている。また本書については以前レビューを書いた。
http://d.hatena.ne.jp/Donoso/20140321/1395416453

秦郁彦『明と暗のノモンハン戦史』(PHP研究所2014年
 キーワード:戦史、日本近代史
実りが少ない、と書いた本邦の戦史研究例外的かつ注目すべき成果。新たに開示されたロシア側の邦訳文献などを参照しつつ、また日本側の検証を地道に続けることで、不毛な論争が続くノモンハン戦史について、「戦争目的の達成」という点から一石を投じた「最初の一冊」となるべき本。80歳を超える大家の意欲と、バランス感覚に魅せられる一冊。

明と暗のノモンハン戦史

明と暗のノモンハン戦史



月村了衛『機龍警察 未亡旅団』(早川書房2014年
 キーワードミステリ小説ハードボイルド
自爆テロ攻撃を辞さないチェチェン女性テロリスト集団黒い未亡人」と戦う警視庁特捜部と、その裏でうごめく策謀を描いた機龍警察シリーズの第四作。小説としてのキレがどんどん上がっていることは読者ならご存知のこととは思うが、第二部のカティアの取り調べシーンと、エンディングには誇張抜きで腰を抜かしてしばらく立ち上がれなかったことを告白しておく。著者は他にも『土漠の花』『機龍警察 火宅』が単行本化し、雑誌連載も複数抱えるなど、多作の年だった。来年も期待。



2014年以前の本(年代順)
波多野澄雄『「大東亜戦争」の時代』(朝日出版社1988年
 キーワード日本近代史外交
ワシントン会議から敗戦までの二十余年を描いた外交通史。いわゆる日本政治外交史で描かれる、日本国内の諸アクター政治過程と、その結果としての日本対外政策のみならず、それが米英独ソ日の欧州アジアをめぐる大国政治のレベルでどんな相互作用を引き起こしたのかを明瞭に描いており、いちいち膝を打つ思いだった。25年ほど前の研究ではあるが、そのバランスの良さは高く評価されるべき一冊だと思われる。



佐瀬昌盛虚報はこうしてつくられた―核情報をめぐる虚と実』(力富書房1988年
 キーワード冷戦核兵器核戦略メディア
80年代INF交渉についての日本メディア報道を、海外報道や文献を引きつつ批判するという『諸君!』の連載を書籍化したもの。ただの報道批判でなく、問題専門家である著者がまず「正統」な解釈を示してくれることから、当時の核戦略問題理解について資する部分が極めて大きく、米欧同盟の核をめぐる議論の変遷は、今日日米関係においても同盟や核戦力をどのように考えるか、という点で示唆的である。また当時のメディア報道が極めてお粗末であることがわかるが、メディアをどのように理解していくのか、という点でも有益な一冊といえるだろう。

虚報はこうしてつくられた―核情報をめぐる虚と実 (リキトミブックス)

虚報はこうしてつくられた―核情報をめぐる虚と実 (リキトミブックス)



田村元政治家の正体』(講談社1994年
 キーワード自伝政治家日本政治史
今年逝去した田村元・元衆議院議長の語りを本にしたものということで追悼のため加えた。1955年初当選という長いキャリアもあり、独立以後の戦後日本政治を彩った政治家たちのエピソードや、局面での政治家に必要な資質がポツリポツリと語られる。とりあえず読んでみてほしいという感じの、読めば読むほど味のある、渋い一冊である。

政治家の正体

政治家の正体



鈴木多聞『「終戦」の政治史 1943-1945』(東京大学出版会2011年
 キーワード日本近代史外交史、戦史
戦局悪化する中で、戦争終結をいかに受容・決定したのかという、「負け戦の政治史」を描いた、再読して評価が変った一冊。正直初読した際は平板な、新しさのない本と感じてしまったのだが、今年再読してその分析的な態度に驚かされた。あとがきにある「学問的に新しいことをなるべく多く発見したいという気持ちが強かったが、この頃から、通説に近かろうが遠かろうが、なるべく学問的真理に近いものを書きたいという気持ちが強くなった」(p.241)という一節も強く印象に残る。

「終戦」の政治史―1943-1945

「終戦」の政治史―1943-1945



渡邉昭夫『日本近代(8)大国日本の揺らぎ 1972〜』(中央公論新社2001年中公文庫2014年
 キーワード日本現代史現代日本政治歴史認識
文庫化を機に再読した一冊。中央公論新社の「日本近代」の通史最終巻で、元々は15年前に書かれたもの。佐藤政権の成立から2000年前後までを扱っている。今年ぼんやりと感じ続けていたのは、歴史認識というものが語られるとき、いかに人が戦後という時代を忘れているか、とりわけ60年代以後の現代日本形成忘却しているのかということだった。
高度成長下の日本がいかに変貌し、超大国アメリカに伍する経済大国と化し、現在の混迷の時代に至るのか、そうした同時代史を考える時、本書は時代の複雑さも相まって単純な絵を描かないが、色々な示唆を与えてくれる一冊だと再確認した。