Hatena::ブログ(Diary)

Valdegamas侯日常

2016-10-14

シン・ゴジラ論のあとのシン・ゴジラ論

前口上
 シン・ゴジラ映像の快感に満ち満ちた作品であった。何度となく繰り返される政治家官僚たちの会議自衛隊による整然としたゴジラへの攻撃、ゴジラを襲う無人在来線爆弾と高層ビル、そして鳥肌が立つほど美しいゴジラの熱線放射。どれもこれも素晴らしかった。

 本作を特異なものとしたのが、作品が社会現象として捉えられ、多くのシン・ゴジラ論が語られた点にあるだろう。教義の映画レビューではなく、特集連載を掲載した日経ビジネスオンラインを典型として、「シン・ゴジラ論壇」は活況を呈した、あるいは呈するように仕向けられた。今しばらくこうした状況は続きそうな様子である。

 おそらく2016年を振り返るとき、無視できない作品となったシン・ゴジラであるが、わたしは8月頭に一回目を見たときから耐え難い違和感があった。しかしながらそれを文章化することにはためらいがあった。わたしがためらいを感じたのは、違和感という名のこだわりが、作品の特色として語られる「リアル」さというものに関わることであるからだった。それはある意味とても重要かもしれないが、娯楽作としての映画そのもの、あるいは作り手の意図との関係において重大視すべきであるか、ためらいがあったのだ。

 ただ、上映開始から三か月弱の間に「シン・ゴジラ論壇」が活況を呈する中で、自分が覚えた違和感を誰も論じないことについて、今度は別の違和感が募ってきた。孤独感、疎外感といってもよい。そして活況を呈する「シン・ゴジラ論壇」の中で、シン・ゴジラはおおよそ「リアル」な作品だという前提で議論が進んでいくことにも疑問を覚えた。

 結果、わたしシン・ゴジラの「リアル」さについての違和感を論じたエントリを書くことにした。くどいようだが、わたし自身、わたしのこだわる部分が作品の本質的なものと関係するものであると、必ずしも思っていない。ゆえに、作品の否定ではないと考えている。また、ある意味うがった側面から見ることで、シン・ゴジラという作品の特徴の理解を助ける部分があるのかもしれないとは思っている。そして、シン・ゴジラ現実の何かを議論するための跳躍台とすることへの強い疑問であることは確信している。「シン・ゴジラ論のあとのシン・ゴジラ論」と題するゆえんである。

 本題に移りたい。なおこの文章は作品内容に関する記述を含んでいる。

政治」の希薄さ
 わたしシン・ゴジラを見たとき覚えた違和感は、二点ある。その第一は本作における「政治」の希薄さであった。このように書くと、奇異に思われる人もいるかもしれない。シン・ゴジラの特色は、これまでの怪獣映画にない、濃密な政治描写にあったのではないか、多くのレビューも、そうしたことを述べていたのではなかったか。

 確かに、日本政府ゴジラの熱線によって壊滅するまでを作品前半部とするなら、前半部においてとりわけそうした描写は濃密であった。総理官邸で繰り広げられる会議に次ぐ会議手続きの積み重ね、様々な役職名の乱舞は、それが力強いフォントでスクリーンに登場することも相まって、多くの人の印象に残るものだっただろう。

 しかし、ある人が指摘したように、本作で力点をもって描かれていたのは、「政治」ではなく「行政」であった。既に方向性を定められたことを、具体的な政策手段に落とし込み、行政組織が実行していくというプロセスだった。ゴジラの排除という方策を、淡々と推し進めていくプロセスの描写であった。

 それでは、わたしの言う「政治」とは何か、政策を実行する以前の段階、あるいは政策を実行していく中における、矛盾の調和、対立の調停のことだ。かつて政治学者永井陽之助は「月に人間が行けるのは、月と地球との間に人間がいないからだ」「矛盾の統一とはアートである、政治は一種のわざである」という言葉を残している。この言葉は実に政治の性質を示していると思う。

 このままではいささかとっつきにくい、永井の言葉わたしなりにかみ砕くなら、意味するところはこうなる。経済的利益、人の情、合理性道徳倫理的側面、などなど、ある問題が論じられるとき、考慮されるべきものとして取り上げられる論理価値観は多岐にわたる。こうしたものが併存したままで問題を処理できるのであれば問題はないが、現実世界ではAという要素を優先したことで、Bについて不利益が生じるといった、矛盾や対立、不協和音を生じる。そうしたことをめぐって人間や集団が争うとき、どのような形で調停を行ない、問題を解決に進めることができるのか。それを達成することこそが、「政治」というアート(わざ、技芸)の最大の焦点であるということだ。

 こうしたものとして政治をとらえるとき、現実社会、とりわけ代議制民主政治が導入された社会において、このアートを駆使することを期待されている主たる存在が職業政治家であることがわかる。行政の担い手である官僚機構が特定のロジックに基づき、政策を実行できるのであれば何の問題もない。しかし実際にはしばしば論理は衝突し、あるいは感情面でも激しいもつれを引き起こす。そうした局面で方向性を定め、優先順位付けをし、あるいは当事者同士に妥協を求めるといった手段を駆使し、調整を行なう使命こそ、職業政治家に与えられているものといえる。かつて唱えられた「痛みを伴う改革」などといった政策パッケージを社会に提示できるのは、官僚ではない。それは本来政治家のみに可能なことである。

 さて、政治をこのように考えるとき、シン・ゴジラの前半部にそのような意味における「政治」や、「政治家」は、存在しただろうか。スクリーンに登場する日本政府の面々が相反するものにもだえ苦しむ様子はまず現れない。ゴジラの最初の上陸の際、射線上に避難民が発見されたことで、大杉漣演じる大河内総理がヘリによる攻撃を躊躇するシーンくらいであろうか。それから後はひたすら、行政歯車のようにスムーズに動き、職業政治家であろう大臣たちもその一部として淡々と行動していく。矛盾や対立は表出することもなく、整然と進む。

政治」なき世界のタバ作戦
 ところで、既に世に出ているシン・ゴジラ論の中には、本作の政府描写に、太平洋戦争における戦争指導の混乱や、縦割り行政や、あるいはイギリスBBCのコメディドラマ『Yes, Minister/Yes, Prime Minister』に描かれたような、政治家官僚という、異なる立場人間がかもし出すフリクションの要素を見出していた人もいたが、わたしはそれに同意できない。

 東京中心部と日本政府が壊滅する前半部のクライマックスに至るまで、政府組織は見事に一致団結して機能しているように描かれていたし、政官関係の不協和音もとくだん描かれてはいなかったからだ。五年前に現実に起きた、最悪の事態がわかっていても手を抜いたことでもたらされた「想定外」と異なり、文字通りの「想定外」に対して、シン・ゴジラ世界日本政府は、行政は、よく対応していたといえるだろう。そして、それこそが本作における描写の問題だったと思われる。

 本作を「政治」の希薄さ、行政論理の貫徹という観点でとらえると、それはゴジラの再上陸後、多摩川にて行われる自衛隊との戦いのシーン(タバ作戦)で頂点に達していた。ここで自衛隊は複数の作戦計画の中から、状況に応じた計画通りの作戦を実施する。しかしながら敗れる。相手はなにせ「想定外」であるから、負けたこと自体は仕方ない。大体において怪獣映画自衛隊があっさり勝ってしまってはしまらない。

 それはそれとしても、なぜ多摩川だったのだろうか。作中では「首都侵入を許してはならない」というセリフが登場する。つまり首都の防衛、戦力の集中という観点からそれがなされたという風に考えるべきなのだろう。しかし、再度立ち止まって考えたい。それでは、神奈川県民900万人の生命財産はどうなるのか。

 作中でこの問題は触れられていない。これが初回の上陸の際の決断、一刻の猶予もない時点の決断であれば、まだしも理解できなくはない。しかし、作中では最初の上陸から再上陸まで一定時間的猶予があったように描かれている。官邸新聞記者たちの「首都圏偏重の守り」といった会話も出てくるが、それもこの作戦の状況を示唆しているとは思えない。鎌倉に再上陸したゴジラは、神奈川県蹂躙し、東京都との境界である多摩川に至りはじめて日本からの攻撃を受ける。なるほど首都侵入阻止やゴジラ迎撃のためにはそれも一つの手段だが、先述のとおり神奈川県は置き去りである。これはどういうことか。まさに「政治」が駆動すべき矛盾はなんら解消されず、放り出されたまま、軍事的合理性という論理がここではむき出しになる。

 わたしは、太平洋戦争末期、現実には起こらなかった連合軍関東平野上陸作戦を題材にしたボードウォー・ゲームをプレイしたことを思い出した。日本軍側でプレイしたわたしは、湘南海岸に上陸した米軍との決戦を多摩川で行うことを企図した。それが一番戦いやすかったからだ。もちろんゲームであるから、わたし関東平野を逃げ惑う避難民のことなど想像もしなかった。シン・ゴジラにおける自衛隊は、わたしのプレイを再現していた。

後半部における「政治」の発現、そしてアメリカ
 さて、ゴジラの熱線放射以後を描く後半部では、前半部ではほとんど見ることができなかった「政治」が現れる。国連安保理実質的にはアメリカ―による、ゴジラ核攻撃通告への対応という局面においてである。核攻撃を甘んじて受け入れ、首都とそこに住む人々の生活を失う代償に、復興支援を受け入れるのか、それとも被害を局限するゴジラ凍結プラン実施段階に進める賭けに出るのか。作中では後者が決断される。

 極限の決断としての「政治」を強いるのが、何よりもアメリカであるという本作のストーリーは興味深い。映画パトレイバー2』のクライマックス直前、架空の「戦争」を再現してみせたテロリスト・柘植の前に、マヒ状態となった日本に対し「明日の朝までに状況が打開の方向に向かわなければ、米軍が直接介入する」という米国からのメッセージが投ぜられる瞬間を思い起こさせるものがあった。さて、わたしの二点目の違和感はここにある。アメリカ、いや「日米関係」の描かれ方である。

 アメリカに小突かれる形で決断を促された日本は、なんとか時間を稼いで準備を整え、自力でゴジラ凍結作戦(ヤシオリ作戦)を決行する。作中では日本アメリカの関係について、日本人登場人物たちが「属国」「戦後は続くよ、どこまでも」「傀儡」という刺激的な言葉を駆使する。こうしたキャッチー言葉づかいや、核攻撃という屈辱を退け、自らの努力によってゴジラという難題を解決する作品展開に、本作におけるナショナリズムを見出すような議論も見られた。こうした日米関係の描写について、「国家には永遠の友も同盟もない」というパーマストン子爵のよく知られた言葉引用して、訳知り顔でうなずくこともできるかもしれない。しかし本当にそれが可能だろうか。あらためてヤシオリ作戦プロセスを考えたい。

 作戦のプロセスを思い返す時、この日本プライドを賭けたヤシオリ作戦で、無視できない役割を果たすのがドローン部隊であることを思い出す。無人在来線爆弾の強烈な存在感の陰に隠れてしまった感があるが、波状攻撃を加えるドローンゴジラエネルギーを消耗させる捨て石となり、血液凝固剤注入への突破口を開く重要な位置づけを担っている。そして本作中のセリフによれば、このドローン部隊は、「在日米軍兵士の友情」で貸し出されたものだ。

あまりにも軽い「属国」という言葉
 首都への核攻撃の容認という極限の決断を突き付けながら(この通告に対し、わなわなと腕を震わせ、机に拳を叩きつける嶋田久作演じる片山臨時外務大臣の姿は、本作随一のシーンであった)、日本側が独自の作戦を提示するや、「友情」で作戦に不可欠のドローン部隊を提供するアメリカ。一族の来歴を振り返り、再度日本に核は落とさせないと奔走する日系アメリカ人の特使、パタースンらの力によって、政権内部の核攻撃推進論を押しとどめるアメリカ。これをどのように考えればよいのだろうか。

 わたしは一連の描写を劇場で観ながら、「属国」と自分たちのありようを自嘲しているように見えて、その癖いざという時には「宗主国」の温情に期待し、甘える、自分たちを卑下する言葉どおりに振る舞う属国根性を見せつけられたように感じていた。ドローン部隊を「友情」で与えられなければ、高層ビル破壊するために巡航ミサイルを発射するミサイル駆逐艦提供されなければ(これは何の説明もなく登場する)、ヤシオリ作戦はどのように展開されたのだろうか?永遠の友も同盟もない、などという高尚なものはそこには存在しない。そこにあるのは「属国」といった刺激的な単語に批判的に言及しながら、結局「宗主国」の温情によってなんとか物事をなす、哀れな属国の姿である。

 ここで現実日米関係の姿を振り返ってみたい。日米関係の来歴は、こうした作中のそれとはいささか異なった姿を示している。無残な敗戦から出発した戦後日本は、冷戦の勃発以来、核の傘に代表されるアメリカの手厚い安全保障提供されつつ、経済大国として発展した。そして1970年代以後の世界においては、アメリカと手を携えて国際秩序で支える大国へと変貌した。安全保障の面におけるある種の非対称性無視できるものではないが、この面でも日本は決して軽んじられるほど脆弱でもなかった。また、地理的にも変わらずアジア要衝であり続けていることも無視できない。

 長い戦後の間に日米関係が大きく変貌してきたという歴史的事実をあらためて意識しながら、1993年衆議院総選挙の際の政権放送で、宮澤喜一総理(当時)が述べていた言葉を参照してみよう。当時日本バブル経済がはじけ、「失われた20年」に入りつつある時期にあったとはいえ、アメリカと並び立つ世界第二の経済大国であった。宮澤は直前に開催されたG7東京サミットの成果と、国際平和協力法(PKO法)の意義を強調する文脈で、このように語っている。

D

どんな問題でも各国の首脳は必ず、日本の代表であるわたくしの方を見て、日本が何を言おうとするのかなと注目をする、そんな時代になったわけでございます。戦後、みんなが懸命に努力したおかげで、日本は豊かな国になりました。そして、いま、世界有数の経済大国として、わが国にはそれにふさわしい貢献が求められております。…


 宮澤は戦時下大蔵省に入省し、占領期には英語力を買われてGHQとの折衝を担当し、しばしば屈辱的な経験をしたといわれる。その後宮澤は政治家に転身し、自民党有数の国際派政治家として着実にキャリアを重ねていったが、そのような人物がかかる言葉を発しているのは何とも印象深い。敗戦から半世紀弱が経過していたこの当時、宮澤は確かに日本が、日米関係をはじめとする国際秩序が変貌していたことを実感していたのだろう。ともすれば今を生きる人間が忘れがちなことではある。

 また、アメリカにとっての日本価値、ということを考えるとき、東日本大震災直後の日本アメリカ政府の対応を描いた船橋洋一カウントダウンメルトダウン』を参照してもよい。同書では福島での原発事故によって生じた放射能の影響をめぐって、米国政府内で鋭い対立が生じたことが描かれている。多数の在日米軍兵士とその家族日本に居を構える国防総省は退去範囲の拡大を求め、一方で国務省はその後の同盟関係に修復しがたい傷をつけることを恐れ、拡大に激しい抵抗を示した。そこには単純な「宗主国」「属国」という垂直関係では捉えがたいものが日米両国の間にあることがわかるはずだ。それはおよそ愛情ではなく、打算的なものかもしれないが、お互いがお互いを必要としていることは理解できるだろう。

 しかしながら、シン・ゴジラにおける日米関係はそのようなものではない。本作の主人公である内閣官房副長官矢口蘭堂は、作中できわめて政治家的な気質を持った人物であるという紹介がなされていた。しかし、ヤシオリ作戦を展開する際に、このような日米関係現実に立脚して、いわばアメリカの「足元」を見る形で何らかの手腕を発揮したという様子は描かれていない。また作中では「地政学的に…」と中露の立ち位置を説明する部分はあるが、日本自身のそうした価値視点が向けられる様子はなかった。日本はあくまで「属国」だと憤慨しながら、アメリカの温情に支えられながら「属国」であり続けるのである。

 パタースン特使の描かれ方に注目しながら、日米関係があまりにアンバランスなものとして描かれることについて、製作者側がどうせ複雑なものは理解されない、こんなもので良いだろうと手を抜いたのではと指摘する評論もあったが、この見立ても不適当とまた思われる。問題はより根深いもので、戦後日米関係についてのイメージがいかに固定化されているか、という点にあるといえるだろう。シン・ゴジラにおける日米関係とは、占領撮影された昭和天皇マッカーサーが並んだあの写真に象徴される、支配と従属の日米関係というイメージの再生産でしかない。そしてこうしたことを考えていけば、ポリティカル・フィクションというジャンルにおいて、戦後日米関係を適切な距離感をもって描くことに成功した作品というものが、まず見受けられないという絶望的な事実にも人は気づくだろう。

 そうしたものの凝縮が、シン・ゴジラにおいて軽々しく使われる「属国」という言葉であり、「友情」で貸与されるドローン部隊であり、日本のために奔走してくれる日系アメリカ人ということなのだろう。

映像の快感に万歳二唱
 わたしシン・ゴジラへの違和感は、「政治」の必要もなく、行政論理が貫徹される日本政府、挑発的な表現をちりばめているようで実は極めていびつな形で描かれた「日米関係」という二点にあった。

 なぜこうなったのだろうか。勝手に推測すれば、前者については、本作が何よりも、映像表現を追求した作品であったからだと考えられる。製作者側の関心は政治現場でどうした論理が戦わされ、何が起きるかを描くことではなく、「行政機能する映像」をスクリーンに映すことにあった。いわばロボットアニメでメカが稼働する様子を精密に描き、それらしさをアピールするように、行政の「リアル」な映像を撮りたかっただけだったのだと思われる。政治の泥臭い心情描写や、駆け引きや、それを粘つくような映像に変換することにはもともと関心がなかったのではないか。

 後者の日米関係に関して考えれば、先述したように、日米関係を適切に描くことができたフィクションがほとんど存在しないという根源的問題に行きつかざるをえない。それを変えることは容易ではなかったのだろう。もう一つはドローン巡航ミサイルというスマートなガジェットによって、あのヤシオリ作戦を描きたかったのだろう、と考えるほかない。

 さて、このような邪推までした上で、シン・ゴジラという作品が、わたしが指摘した要素を加味するべきと考えるかといえば、そうではないと答える。本作を映像美を追求した作品と考えるとき、わたしが縷々書いてきたことは必ずしも必要ではないと考えるからだ。

 ただ、わたしシン・ゴジラを「リアル」だともてはやすシン・ゴジラ論には、この二つの違和感を提起したいとは考えている。本作はわたしが指摘したような点でなんら「リアル」ではない。ゴジラに対して防衛出動を発令するのが現実的だとかなんだとか述べること自体がばかばかしい。それ以前の問題なのだ。

 それにしても、映像の快感に満ちた作品であった。とにかく、それに尽きる。

2015-12-31

2015年の本

結局一本もエントリを書かないまま2015年の暮れを迎えたが、去年同様、読んだ本、買った本などの感想を並べて一年の締めとしたい。

昨年は順不同、一冊ごとの紹介としたが、今回はある程度自分の関心分野をもとにまとめることとした。

政治外交
今年は戦後日本外交研究でとりわけ注目すべき二冊が刊行された。武田悠『「経済大国日本の対米協調安保経済原子力をめぐる試行錯誤、1975〜1981年と、白鳥潤一郎『「経済大国日本外交エネルギー資源外交形成 1967〜1974年である。いずれもGNPで世界二位の経済大国となり、また沖縄返還日中国交正常化という「戦後処理」の最終課題を終えつつある時代の日本外交を描く、本格的な歴史研究である。武田本は日米関係を、白鳥本は日本外交を中心の分析対象とするものだが、ジャーナリズム政治学的分析の手にゆだねられていた分野がいよいよ一次史料ベースにした分析の対象になったという点というのは、素朴な意味でも歴史研究の進展を感じさせるものだった。

武田本は副題どおり三分野での日米関係の対立と協調を描いているが、米国史料ベースに描かれる(特に安保経済での)対日要求の論理の揺れ動きは、過去の研究手法からは明らかにしえなかったものであり、実に細密で読み応えがある。

また、白鳥本は60年代以後、エネルギー消費国である日本がいかなる形でエネルギー危機に備え、第一次オイル・ショックという実際の危機に対処したかを描いている。事務レベルが60年代からこのようなトレンドを把握し、事前準備を進めていた様子、そのような準備がオイル・ショックという大事件において政治レベルのパワフルな動きと絡み合い、どのようなアウトプットを生み出したのか、これを余すことなく描いている。「平時」にどのように外交政策が蓄積され、それが「非常時」にどのような形で現れるのか、外交政策ということを考える意味でも興味深い一冊であった。

戦後処理を終えた日本が、国際社会とどのように向き合うかを模索した70年代以後についての最新の研究成果であり、これまでの戦後日本外交研究にはなかった地平に挑戦した二冊だったのだと思う。こうした歴史研究を取り込む形で通史も再構成されるべきであろうし、時事評論もなされるべきであろう。



他にも戦後外交史では、庄司貴由『自衛隊海外派遣日本外交冷戦後における人的貢献の模索』石井修『覇権の翳り―米国アジア政策とは何だったのか佐橋亮『共存の模索― アメリカと「二つの中国」の冷戦史』が出た。庄司本は情報公開請求によって文民選挙監視団派遣国連平和維持活動参加、更にイラクへの自衛隊派遣など、冷戦後の日本外交の新たな動きを実証的に描いた先駆的業績となった。石井本は『対日政策文書集成』シリーズによって米国国立公文書館文書を日本で容易に使用可能とする、目立たないがすさまじい成果を重ねて来た著者が近年進めていたニクソン政権期の研究をまとめたもので、書籍としてのまとまりにはやや欠けるが、その旺盛な史料収集意欲、研究意欲に感銘を受けていた身としては、取り上げないわけにはいかなかった。佐橋本国共内戦からカーター政権期までを扱った、国際政治理論との連携も意識した一冊であり、著者の鮮やかな分析やレトリックが一冊にまとめられるのを待っていた人間としては待望の一冊であった。



また編著では宮城大蔵編『戦後日本アジア外交伊藤信哉・萩原稔編『近代日本対外認識I』奥健太郎、河野康子編『自民党政治の源流―事前審査制の史的検証』が刊行された。

宮城本は約10年ごとを区切りとしたテキストであり、最新の成果を反映した読みやすい通史だった。伊藤・萩原本は「対外認識」をテーマとした論文集だったが、特に満洲現地の日本人コミュニティ日本本土にどのような施策を期待していたか、それが「満蒙問題」の解決を看板に掲げる日本政府とどのようなすれ違いを生じていたかを描いた北野剛「戦間期日本満洲田中内閣期の満洲政策の再検討」、ワシントン体制をめぐる日英米の疑心暗鬼を描いた中谷直司「『強いアメリカ』と『弱いアメリカ』の狭間でー『ワシントン体制』への国際政治過程」の二本は、過去にない外交史の分析で、印象に残った。

最後の奥・河野本は、自民党政務調査会強い力を与えたとされる、政府与党の各種法案を国会提出前にチェックする「事前審査制」の歴史的展開を分析したもの。その源流は戦前戦時下にも存在していたこと、また今日述べられるような実態がいつ、どのように定着したのかを描く歴史研究主体の論文集だが、政治学行政学の分野で蓄積されてきた事前審査制についての研究成果を取り込みながらも、国内政治史もいよいよ戦後が本格的な「歴史研究」になったという手ごたえを感じる、テーマについての一貫性がある論文集だった。

戦後日本のアジア外交

戦後日本のアジア外交

近代日本の対外認識I

近代日本の対外認識I



戦後70年
1945年敗戦から70年ということもあり、様々な意味で関連書籍の販売が相次いだ。波多野澄雄『宰相鈴木貫太郎の決断―「聖断」と戦後日本鈴木貫太郎の終戦外交を扱った研究だが、鈴木戦争継続のポーズを保ちつつ終戦の時機を探る様子、「聖断」というイレギュラーな決断方法が浮上し、更に戦局が悪化していく中で、徐々に議論が集約されていく様子は、まさに決定が作られていく過程という面白さがあった。

さらに、同書後半で触れられる、終戦の詔書が英米に対する敗北を強調するものであったこと、大陸での中ソとの戦争の幕引きについて曖昧にしていたことは、結果「終戦」がいつだったのかを曖昧なものとしなかったか、という指摘は、『太平洋戦争アジア外交』で、重光葵の主導した戦時アジア外交戦後日本人の意識に残した負の遺産を指摘した波多野先生面目躍如たるものがあった。

さて、ミーハーであるので、今年は終戦関連の本を他にも何冊か手に取ったが、NHKの終戦関連番組のリサーチャーであった吉見直人による『終戦史―なぜ決断できなかったのか』はおととし出た一冊だが、波多野本とは違った形で終戦を描いており、これも興味深かった。吉見本は6月の陸軍梅津美治郎参謀総長による、戦局を絶望視する内奏の時点で終戦の下準備ができていたとする議論を展開し、副題のごとく「終戦をなぜ決断できなかったか」という議論を展開していく。著者の視点では、東郷重徳外相と梅津が主役となり、鈴木の影は薄い。そして、その問いの性格上、指導者たちの責任を追及するものとなっていく。淡々と歴史を描いていく波多野本と同じテーマを扱いながら(そして史料面でも少なからぬ部分を共有しながら)、その重点に差が出ているのは、極めて興味深かった。同書は最近のNHKスペシャルにありがちな、断片的な史料を持ち出して大げさなことを吹聴するようなものではなく(MAGICやULTLAなどの暗号解読史料も活用しているが抑制的)、王道を行く書籍であり、波多野本ともどもおすすめしたい。

宰相鈴木貫太郎の決断――「聖断」と戦後日本 (岩波現代全書)

宰相鈴木貫太郎の決断――「聖断」と戦後日本 (岩波現代全書)

終戦史―なぜ決断できなかったのか

終戦史―なぜ決断できなかったのか



これは戦後70年を記念してだったのかはわからないが、嬉しかった復刊が二つあった。一つは2005年単行本出版された下嶋哲朗『平和は「退屈」ですか―元ひめゆり学徒と若者たちの五〇〇日』文庫化、もう一つは2002年に『諸君!』に掲載された鼎談書籍化した岡崎久彦北岡伸一坂本多加雄日本人歴史観黒船来航から集団的自衛権まで』である。下嶋本は10代、20代の沖縄在住の若者たちが、同世代で沖縄戦経験したひめゆり学徒から話を聞き、どのように戦争体験を語り継いでいくかを描いたドキュメンタリーである。まさに安易な「平和学習」を超えることを目指す両者は時にかみ合わず、時に共鳴する。いささか熱量の多い文章でつづられる暗中模索ぶりはひたすらに心を打たれるものだった。10年の時を経て、かつての若者たちが今どのようにしているのかを補足した章がついているのも大変うれしかった。岡崎他本はある意味イデオロギー的には対照的とみられるかもしれないが、保守的でありながらグローバル歴史を論じうる面々による鼎談であり、この議論のよい部分が後述の談話に継承されたと思う。



さて、戦後70年ということでまたも内閣総理大臣談話が出た。総理大臣談話、及びそのベースになったとされる「20世紀を振り返り21世紀世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」の報告書は、いずれも広い歴史的視座で日本の正負の責任を論じたものであり、バランスが取れた内容になったと感じられた。「積極的平和主義」という政権の掲げる方向性が結末に来るのもストレスはなく、このように論じざるを得ないのだろう。

ところで、読売新聞政治部安倍官邸 vs. 習近平など、一部報道によれば、本来今回の談話は閣議決定を行なわず、公明党にも配慮しないもっと右派色の強いものになるはずであったが、それが安保法制をめぐる国会の長期化という中で閣内の一体性を示すため、現行の談話になったという。事実であればあるべき姿にかくして収まった、というなんともいえぬ政局の妙ではあるが、色々な意味で背筋の寒くなる話であった。

安倍官邸vs.習近平  激化する日中外交戦争

安倍官邸vs.習近平 激化する日中外交戦争



また、歴史認識関連では服部龍二『外交ドキュメント 歴史認識も出た。80年代歴史教科書問題以に始まる日中韓歴史認識問題を各章別で時系列・ドキュメント形式で扱ったものであり、やや文体は読みづらいが、昨年の木村幹日韓歴史認識問題とは何かともども、こうした問題を把握する際の基礎的文献になるのだろう。



政治政治政治
しかし、とにかく政治が騒々しい一年だった。民主主義立憲主義などの単語が独り歩きする様子が多々見られたが、本年出版された山崎望、山本圭編『ポスト代表制の政治学は代表制(代議制デモクラシー)の限界が様々な面から指摘される中で、デモや熟議デモクラシーなどに象徴される様々な政治的行為と代表制の関係を扱った論文集だった。著者らは代表制を時代遅れと廃棄するのではなく、代表制がこうした新しい取り組みとどのような関係を築いていくのか、という視点で論じており、正直色々考え込んでしまう論文もなくはなかったが、知的な刺激を受けた。

山崎・山本本が大きな政治的潮流と代議制デモクラシーの関係を論じたものであるなら、砂原庸介民主主義の条件』は、選挙制度を典型に、代議制デモクラシーの根底となる制度組織のあり方を丁寧に論じたテキスト。実態として、日本にどのような問題があり、どのような改革が可能であるのかを、日本政治実証研究に従事する著者はわかりやすく解説してくれる。ことに著者が政治を動かす「多数派」を形成するために、政党という組織をどのように確立するのかを論じているのは、重たい課題だろう。

民主主義の条件

民主主義の条件



上記のように、ある種の思想や制度などに注目した研究、概説書の面で実りの多い一年だったが、一方で結局政治における人間、個人のあり方ではないのか、という少し飽き足らない思いを覚えるところがあった。

そのような気分で積んだままの本の山から選び出した木村俊道『文明教養の〈政治近代デモクラシー以前の政治思想は、まったく違った形での政治を描いており、一服の清涼剤となった。「文明」「教養」などと言うといかにも大げさだが、木村本は知性ある人間が、明示、暗黙のマナーを守り、遊戯的・社交的に政治を処理する「実践術」の中で政治が営まれた時代を(しつこいくらい)描いている。それをそのままに待望するのは流石に倒錯だろうが、やたらと騒々しいばかりで「本音」やら何やらが横行する政治が何らかの形で一つの取り戻すべき姿を見た思いがした。「政治」と「教養(Civility)」の関係を扱った同書を媒介に、苅部直『移りゆく「教養」』山崎正和『社交する人間ホモ・ソシアビリス』を再読したところ、よく理解が進んだことも補記しておきたい。

移りゆく「教養」 (日本の“現代”)

移りゆく「教養」 (日本の“現代”)

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)



また、本年は田上雅徳『入門講義 キリスト教政治今野元『教皇ベネディクトゥス一六世―「キリスト教ヨーロッパ」の逆襲』の二冊も刊行され、大変興味深く読んだ。田上本は、キリスト教人間が共に生きることを訴える「共同性」、救済を待つことで、現世を相対化しながら生きることを可能とする「終末意識」という二つの性格を持つことを指摘し、その歴史的展開をキリスト教成立から平易に論じている。

特に興味深かったのは「終末意識」をめぐる変遷で、中世には現世にキリスト教があることの価値を説明しようとした結果、現世を論じることに終始して「終末」が後退し、暗に現状の秩序を肯定する神学が展開したこと、一方宗教改革の時代には「終末」を強調する思想が登場したが、それが現世を放棄し救済を待望するだけの思想にならないよう、慎重な説明がなされたことなどが印象に残った。「キリスト教政治」という主題そのものに関心を持って読み始めたテキストではあったが、今生きている世界をどう説明し、位置付けるのかという普遍的な問いに通じるものであるように感じられた。

後者は前教皇ベネディクトゥス16世(ベネディクト16世)ことヨーゼフ・ラッツィンガーの伝記的研究宗教的な伝記ではなく、政治史家の筆によるそれは、ハンチントンの『文明の衝突』をめぐる議論から始まり、保守的価値観の守り手としての教皇個性を論じるものとなる。「近代政治理念」が唯一の普遍主義として、世界中のあらゆる「旧弊」を破壊しようと猛威を振るう中で、カトリックとしての一線を守ろうとした人間としてラッツィンガーを描く同書は、(主としてイスラーム過激主義の挑戦によって)「近代政治理念」が何かと問われた今日、とかく示唆的ではあった。

入門講義 キリスト教と政治

入門講義 キリスト教と政治



以上、テーマ別にまとめてはみたものの、取り上げきれなかった本も多くあるが、年内中に書き上げるという観点からここで筆をおく。大体自分の関心が「政治」という大文字のものにあることもわかったし、色々と発見もある一年だった。

願わくば来年がよりよい年でありますように。

2014-12-31

2014年印象に残った本

もう2014年大晦日か…という印象が否めないのだが、今年も色々な本を買った(読んだわけではない)。おもしろい本、くだらない本など色々とあったが、特にその中でも読み通し、かつ印象に残った本を並べてみた。こう見ると新書が多くなってしまったが、もう少し色々な本を読みたいな…というのが今年の反省である。

今さらですが皆さまよいお年を

2014年の本
横手慎二『スターリン―「非道独裁者」の実像』(中央公論新社中公新書2014年
 キーワード:評伝、ソ連史、歴史認識
邦語で信頼できる、適当なスターリン伝がなかった中では大変ありがたい一冊。レーニンスターリンの断絶を強調する古典的視座ではなく、その連続性を示唆しつつ、著者らしい淡々とした筆致で、スターリンの人物形成と生涯が語られる一冊。
独裁者であり、かつソ連の岐路に決定的影響を与えたスターリンをどのように評価するのか、という点については非常に抑制的ではあるが、その解釈を考えるきっかけとなる本といえるだろう。個人的に難点と感じたのは第二次世界大戦終結後の判断力の衰えや冷戦との関係について非常に記述があっさりとしていたこと。この辺をもう少し描いてほしかった。



平野聡『「反日中国の文明史』(筑摩書房ちくま新書2014年
 キーワード中国史日中関係史、思想史歴史認識
反日」のタイトルで恐らく少なからぬ読者を遠ざけた不幸な一冊。儒学朱子学を基軸とした近代国家とは程遠かった中華文明が、近代西洋の挑戦を受け崩壊した後、自らの文明崩壊にも携わった近代日本という先達を参照し、日本への敵意を内包しつつ、「中国」という国家伝統歴史から産み出し、「中国夢」を振りかざすようになったのかを描いたダイナミックな歴史書
「文明史」という視座ならではの宿命論めいた色がややきつかったり、「反日」はそこまで強い規程要因なのか?という疑問が無くもないし、結語はもう少しまとまらなかったか、とも感じるが、日本はその来歴上現代中国について製造物責任を負っている、と言わんばかりの著者の激しい心情に気圧された。

「反日」中国の文明史 (ちくま新書)

「反日」中国の文明史 (ちくま新書)



久保亨・瀬畑源『国家秘密―隠される公文書』(集英社集英社新書2014年
 キーワード現代日本政治公文書管理制度
昨年12月に成立し、今年12月に施行された特定秘密保護法を論じるべく、まずその前提となる公文書管理制度(及び情報公開制度)の歴史概要を説明した上で公文書を含む行政機密保持を厳格化する特定秘密保護法問題点を具体的に批判したもの。
制度問題でありながら、およそ無意味とすら言えるイデオロギー的反対が少なくなかった同法だが、本書は「総論賛成(国家一時的秘密を持つことはやむを得ない)、各論反対(しかしその管理運用は適切になされるべきであり、特定秘密保護法修正後も極めて問題が多い)」というスタンスから問題点を明瞭に論じており、まさにこの問題を論じる出発点として価値があると思われる。公文書が適切に管理されるということが、民主政国家の根幹にあることを思い起こさせる一冊。
難点を言えば、序章だけは本文ともピントがずれていて読むに堪えないので、読み飛ばすことをお勧めする。



山本雅人『天皇陛下本心―25万字の「おことば」を読む』(新潮社新潮新書2014年
 キーワード象徴天皇現代日本政治明仁天皇
今上天皇の各種の「ご発言」、そして「ご公務」がどのようになされてきたかを元に今上天皇がどのようなことを重要視し、行動しているのかを論じた一冊。象徴という日本国憲法における位置づけを意識しながら、公平さを意識しつつ、弱者への配慮を欠かさないという「平成流」のスタンス、その一方で「ご発言」の中では沖縄災害への強い思いがあるという指摘にはっとさせられる。
2011年には実証的な昭和天皇論が花盛りを迎え、その中では昭和天皇戦後帝国憲法時代の意識も強く持っていたことが論じられたが、日本国憲法の制定後に成人を迎えた今上天皇が全く異なった意識、行動原理を持っていることが明瞭に理解できる本であり、象徴天皇という特異な君主のあり方を考えさせられる一冊である。



御厨貴『知の格闘―掟破りの政治学講義』(筑摩書房ちくま新書2014年
 キーワード御厨貴
政治史審議会オーラル・ヒストリー政治評論エトセトラエトセトラで、「政治」とつくような現象に色々首を突っ込んできた政治学者・御厨貴リレー最終講義をまとめた一冊。同氏の手がけてきた仕事が感じられ、また何とも硬質な研究などには直接織り込みづらい政治「ひだ」を感じさせる一冊となっており、楽しく読める。各章に添えられた若手研究者によるコメントと、その応答も面白い。ただ政治学政治という現象に関心がない人には全く面白くないだろう。



大木毅『明断と誤断 大木毅戦史エッセイ集』(盆栽ゲームズ、2014年
 キーワード:戦史、ドイツ
本邦アカデミズム世界では実りの乏しい学問としての戦史について、海外研究を紹介する形で触れられる一冊。元々はウォーゲーム雑誌寄稿されていたものをまとめたものだが、歴史学における当たり前の検証作業がなされるだけで、戦史がいかに面白いものになるかを教えてくれる。他にもそうした戦史を歴史として検証し、楽しむ本が複数登場したのが今年の喜ぶべきことでもあった。
なお著者はその後も複数エッセイ集(『ルビコンを渡った男たち』『錆びた戦機』)を発表されている。また本書については以前レビューを書いた。
http://d.hatena.ne.jp/Donoso/20140321/1395416453

秦郁彦『明と暗のノモンハン戦史』(PHP研究所2014年
 キーワード:戦史、日本近代史
実りが少ない、と書いた本邦の戦史研究の例外的かつ注目すべき成果。新たに開示されたロシア側の邦訳文献などを参照しつつ、また日本側の検証を地道に続けることで、不毛な論争が続くノモンハン戦史について、「戦争目的の達成」という点から一石を投じた「最初の一冊」となるべき本。80歳を超える大家の意欲と、バランス感覚に魅せられる一冊。

明と暗のノモンハン戦史

明と暗のノモンハン戦史



月村了衛『機龍警察 未亡旅団』(早川書房2014年
 キーワードミステリ小説ハードボイルド
自爆テロ攻撃を辞さないチェチェン女性テロリスト集団黒い未亡人」と戦う警視庁特捜部と、その裏でうごめく策謀を描いた機龍警察シリーズの第四作。小説としてのキレがどんどん上がっていることは読者ならご存知のこととは思うが、第二部のカティアの取り調べシーンと、エンディングには誇張抜きで腰を抜かしてしばらく立ち上がれなかったことを告白しておく。著者は他にも『土漠の花』『機龍警察 火宅』が単行本化し、雑誌連載も複数抱えるなど、多作の年だった。来年も期待。



2014年以前の本(年代順)
波多野澄雄『「大東亜戦争」の時代』(朝日出版社1988年
 キーワード日本近代史外交
ワシントン会議から敗戦までの二十余年を描いた外交通史。いわゆる日本政治外交史で描かれる、日本国内の諸アクター政治過程と、その結果としての日本対外政策のみならず、それが米英独ソ日の欧州アジアをめぐる大国政治のレベルでどんな相互作用を引き起こしたのかを明瞭に描いており、いちいち膝を打つ思いだった。25年ほど前の研究ではあるが、そのバランスの良さは高く評価されるべき一冊だと思われる。



佐瀬昌盛虚報はこうしてつくられた―核情報をめぐる虚と実』(力富書房1988年
 キーワード冷戦核兵器核戦略メディア
80年代INF交渉についての日本メディア報道を、海外報道や文献を引きつつ批判するという『諸君!』の連載を書籍化したもの。ただの報道批判でなく、問題専門家である著者がまず「正統」な解釈を示してくれることから、当時の核戦略問題理解について資する部分が極めて大きく、米欧同盟の核をめぐる議論の変遷は、今日日米関係においても同盟や核戦力をどのように考えるか、という点で示唆的である。また当時のメディア報道が極めてお粗末であることがわかるが、メディアをどのように理解していくのか、という点でも有益な一冊といえるだろう。

虚報はこうしてつくられた―核情報をめぐる虚と実 (リキトミブックス)

虚報はこうしてつくられた―核情報をめぐる虚と実 (リキトミブックス)



田村元政治家の正体』(講談社1994年
 キーワード自伝政治家日本政治史
今年逝去した田村元・元衆議院議長の語りを本にしたものということで追悼のため加えた。1955年初当選という長いキャリアもあり、独立以後の戦後日本政治を彩った政治家たちのエピソードや、局面での政治家に必要な資質がポツリポツリと語られる。とりあえず読んでみてほしいという感じの、読めば読むほど味のある、渋い一冊である。

政治家の正体

政治家の正体



鈴木多聞『「終戦」の政治史 1943-1945』(東京大学出版会2011年
 キーワード日本近代史外交史、戦史
戦局悪化する中で、戦争終結をいかに受容・決定したのかという、「負け戦の政治史」を描いた、再読して評価が変った一冊。正直初読した際は平板な、新しさのない本と感じてしまったのだが、今年再読してその分析的な態度に驚かされた。あとがきにある「学問的に新しいことをなるべく多く発見したいという気持ちが強かったが、この頃から、通説に近かろうが遠かろうが、なるべく学問的真理に近いものを書きたいという気持ちが強くなった」(p.241)という一節も強く印象に残る。

「終戦」の政治史―1943-1945

「終戦」の政治史―1943-1945



渡邉昭夫『日本近代(8)大国日本の揺らぎ 1972〜』(中央公論新社2001年中公文庫2014年
 キーワード日本現代史現代日本政治歴史認識
文庫化を機に再読した一冊。中央公論新社の「日本近代」の通史最終巻で、元々は15年前に書かれたもの。佐藤政権の成立から2000年前後までを扱っている。今年ぼんやりと感じ続けていたのは、歴史認識というものが語られるとき、いかに人が戦後という時代を忘れているか、とりわけ60年代以後の現代日本形成忘却しているのかということだった。
高度成長下の日本がいかに変貌し、超大国アメリカに伍する経済大国と化し、現在の混迷の時代に至るのか、そうした同時代史を考える時、本書は時代の複雑さも相まって単純な絵を描かないが、色々な示唆を与えてくれる一冊だと再確認した。

2014-08-28

篤実な研究案内―『「大西洋の戦い」文献ガイド―通史的理解のための16冊』(RNVR花組)

 本書は題名にあるとおり、第二次世界大戦中の「大西洋の戦い」を扱った書籍の文献ガイドであり、この分野における英語圏の最新研究状況を追った、貴重な研究案内となっている。

 本書の特徴は、ただ漠然と関連書籍を並べて内容を説明した本ではなく、著者であるこんぱすろーず氏の言葉を使えば「通史的理解」、すなわち全体の文脈理解した上で「大西洋の戦い」を把握しようという意識を明瞭にしていることにあるといえるだろう。文末に上げる本書の構成はよくそれを示している。なぜそれが必要なのか。
 「大西洋の戦い」と言われ、人は何をイメージするだろうか。一般的イメージは、大西洋航路を往く連合軍の大輸送船団、つき従う護衛艦邸、不十分な対潜兵器と未発達の対潜戦術、襲いかかるUボートの狼群戦術、苦闘する船団、そしてエニグマ暗号の解読、ヘッジホッグや護衛空母の登場により変化する戦局、激減する船団の損害、Uボート部隊黄昏…といったところだろうか。
 このイメージ妥当性はあえてここでは問わないが、このイメージ示唆するように、「大西洋の戦い」はまずその期間が極めて長い。そしてその戦いの間に、外部環境兵器戦術インテリジェンスといった部分で多種多様の変化が次々と生じた。
 著者は、「大西洋の戦い」がまさにそのような複合的な現象であったがゆえに、その理解にあたり、枝葉末節をいたずらに取り上げ、その要素を強調することを戒める。個々の要素が置かれた全体の文脈理解した上で評価はなされなければならない。文句のつけようのない、極めてオーソドックスな態度といえるだろう。

 以上が本書の視角とするなら、内容にも軽く触れておきたい。わたくしごとだが、昔から歴史学の「研究案内」や「学説史」のたぐいの論文や本を読むとわくわくするたちの人間だった。自分が漠然としか理解していない地域や国、集団、人物の歴史について、自分の抱くイメージが、どのような先駆的研究によって形作られたのか、そしてそれが今日研究においてどのように扱われているのか(否定されているのか、肯定的評価され、さらなる発展を遂げているのか)を知ることができ、耳学問目学問か)を満喫できるからだ。
 そうした自分にとっても、本書は極めて楽しい本となっている。それこそ上に書いた「通俗イメージ」としての「大西洋の戦い」のイメージが、英語圏において今日どのようなものとなっているかがよくわかるからだ。たとえば情報戦を扱った第3章などは、副題からして既存イメージに挑戦していることがよくわかるだろう。それ以外の各章でも、いわゆる通俗的なイメージが、様々な側面から、説得的に疑問を呈されつつあることがわかる。
 以前のエントリでも記述したが、よかれ悪しかれわが国の海外戦史というのは、どのような分野においても、語学の壁のせいか、古典的イメージの強い影響下にあるといえる。「大西洋の戦い」に関して、そのギャップを埋める案内が本書でなされたことを素直に喜びたい。そしてそのイメージ是正されることの効用は、恐らくは「大西洋の戦い」自体理解に留まるものではない。日本の戦った海上護衛戦をどのように評価するかといった比較視点でも、興味深いものとなるのではないだろうか。

 本書は先日のコミックマーケット86でも販売されたが、8/31(日)コミティア109のJ26a「RNVR花組」で販売される予定である。なお著者のこんぱすろーず氏はかかる海外研究成果を反映した、HX231船団の戦史『オオカミとヒツジ飼いのゲーム 大西洋船団HX 231 の戦い』(リンク)をPDF販売している。

【主要目次】
第1章 通史・概説―まずは「ビッグ・ピクチャー」を
コレリ・バーネット『敵の懐に飛び込め―英国海軍第二次大戦
マーク・ミルナー大西洋の戦い』
バリー・ピット大西洋の戦い』(ライフ第二次世界大戦史シリーズ)
ポール・ケネディ第二次世界大戦 影の主役』
ハワース&ロウ編『大西洋の戦い1939-1945 50周年記念国際史学会の記録』

第2章 ハードウェア 艦艇兵器―その開発史と運用
デヴィッド・K・ブラウン大西洋の船団護衛』
ノーマン・フリードマン英国駆逐艦フリゲート
ガイ・ハートカップ『第二次大戦に対する科学の影響』

第2.5章 ソフトウェア 戦術とドクトリン―変わりゆく戦場イメージ

第3章 情報戦―「ウルトラ」は魔法の杖だったのか
パトリック・ビーズリー『極秘情報軍令部作戦情報センター1939-1945』
F・H・ヒンズレー『第二次世界大戦における英国の諜報 抜粋版』
W・J・R・ガードナー歴史を「解読」する―大西洋の戦いとウルトラ情報

第4章 対潜航空戦―忘れられた翼たち
アルフレッドプライス航空機潜水艦―二つの世界大戦にて』
ジョン・スレッサー『真ん中の青』

第5章 その他―さまざまな側面
C・H・ベイリー大西洋の戦い―コルベット艦とその乗組員たちの証言
ブライアン・レイヴァリ『戦時のみ採用戦時下英国海軍の訓練』
ブライアン・キャリスン『地獄輸送船団』

2014-07-27

戦史研究の現在―大木毅『ルビコンを渡った男たち 大木毅戦史エッセイ集2』

f:id:Donoso:20140727204355j:image:medium:left 数か月前、著者の戦史エッセイ『明断と誤断』の紹介を掲載したが、同じくシミュレーションゲーム専門誌に掲載されたエッセイをまとめた第二弾が発表された。

 目次は「戦史無駄ばなし」と題された五編を除くと、いずれも第二次世界大戦中の戦史を扱ったもので、以下のとおりとなる(末尾発表年、扱っているテーマ)。

ツァイツラー再考(2009年ドイツ陸軍参謀総長ツァイツラーの来歴とその回想が残した影響)
1943年敗戦2009年太平洋戦史研究であるH. P. Willmott, The War with Japanの紹介)
二つの残光(2010年:初期チュニジア戦
収容所のなかの戦争―盗聴されていたドイツ軍将校たちの会話(2010年ドイツ軍将校捕虜たちの収容所内での対立)
アーヴィング風雲録─ある「歴史家」の転落(2010年:英人作家ディヴィッド・アーヴィングの伝記)
誇張された勝利:マンシュタイン戦記 第1回(2010年クルスク戦
ジークフリートの背中:マンシュタイン戦記 第2回(2010年クルスク戦以後の1943年独ソ戦


 前著『明断と誤断』について、私はその特徴を「最新の海外の戦史研究の成果を取り入れた『通説』への疑義提示」とし、更に「本書で紹介される『通説』への批判は、旧来軍人の回顧録等によって形成されてきたそれを、一次史料へのアクセスによって突き崩すという極めて常識的なもの」と紹介した。この印象は本書でも変わらない。そのアプローチはどこまでも堅実なものである。

 特に興味深かったのは「マンシュタイン戦記」である。これは回想録『失われた勝利』で見事な自己演出を成し遂げ、更に戦記作家パウル・カレルらによっても祭り上げられた陸軍元帥エーリヒ・フォン・マンシュタイン作戦指導実態について、近年の研究をもとに批判的に再検証するものである。特にクルスク戦を中心に、個々の戦闘では卓越した才能を示していたものの、大局的な判断においてマンシュタインの判断は適切だったのか?との疑問が提示されている。またマンシュタイン自身に関する記述ではないが、その叙述の中では、かつて「史上最大の戦車戦」とも言われたプロホロフカ戦車戦の意外な実像も露わにされている(なおクルスク戦の立案過程については本書収録の「ツァイツラー再考」、前著収録の「クルスク戦の虚像と実像」も併読することでより面白い理解ができるようになっている)。

 本書を読みながら思い出したのは、『小説吉田学校』で知られる政治評論家戸川猪佐武の下記の文章である(出典は「大世界史よもやま話高坂正堯著『大世界史26』付録文藝春秋1969年)。

 …私はいま、主要な政治家たちに、手記を残すことをすすめつつある。
「あの原敬日記をみなさい。山縣有朋桂太郎も悪役ですよ。二人には、反論する手記がないからです。かりに他の政治家が、あなたの悪口いっぱいの手記を残したとして、あなたに手記がなければ、あなたは永遠に悪役だ」と、そんな冗談をいうことがある。

 この戸川の指摘のごとく、原敬の残した膨大な日記は、戦前日本政治研究世界観に強い影響を与えることになった。この文章は、史料があるからこそ歴史が書ける―そして、史料を残すものが自分だけであれば、歴史を書き換えることさえできる―という、なかなか厄介な指摘である。
 本書が揺さぶるドイツ軍ドイツ軍人たちのイメージも、近年まで似たようなヴェールの中にあった。それがソ連東欧地域の新史料が利用可能となること、あるいはつい「この前の過去」を記述する際の障害となっていた様々な要因が取り払われることによって、議論百出の状況となった、というのが現状なのであろう。

 一方で、それは既存研究が築き上げてきたものの安易な「全否定」とはなるものでは決してない。政治的軍人としての側面に光が当たりつつあるマンシュタインについて著者が述べる「もっとも、だからといって、マンシュタインへの関心を失ったとか、けしからん人間だと非難しようというわけではない。単純素朴な軍人ではなく政治的に巧妙に立ち回ったというところに陰翳を感じ、むしろ興味をつよめているというのが正直なところだ(p.39)」という一節は、まさに過去に(マンシュタイン自身によって)作り上げられたマンシュタイン像と、新たなマンシュタイン像の統合の先に生まれた関心であることを示しているといえるだろう。しばしば「名将」、あるいはそれをひっくり返しただけの「愚将」のラベルを貼って悦に入る軍人評が見られる日本であるが、このある種「健全」な対象への距離感覚を確保したいところである。

 前回の紹介において「学問としての戦史研究おもしろさ」を伝える本と私は紹介したが、本書も同様に、史料や先行研究を渉猟し、適切な意味づけを与えるよう吟味し、既存イメージ研究の再検討を行なうという、歴史研究において当たり前のことを行なうと、戦史がかくも面白いものであるということを教えてくれる本であるといえる。

 なお、今回第2回まで掲載された「マンシュタイン戦記」については第3回が『コマンドマガジン』97号に、番外編が同101号に掲載されている。そういえば「ルビコンを渡った男たち」という本書のタイトルについて著者は何も語っていないが、私としては著者もまた既に戦史エッセイ集連続刊行というルビコン川を渡っているものと信じて、エッセイ集第3号の刊行を待ち望みたい。

 なお、本書は下記のサイト通販で入手できる。追って書泉グループでの取り扱いも始まるとのことなので、著者大木氏のTwitterをご確認されたい。
http://a-gameshop.com/SHOP/bg002.html

付記:また、戦史無駄ばなしについては紹介も割愛したが、著者大木氏がTwitterおすすめしているとおり、特に「Uボート大海蛇」は、1915年のドイツ海軍潜水艦U-28とシーサーペントの遭遇事故真相ドイツのアルヒーフ文書で追跡調査したもので、とてもくだらないばかばかしく楽しい。