われわれは今や全員が平和主義者である?―松元雅和『平和主義とは何か』(中公新書)

 多くの違和感が残る本であった。本書が主題とする戦争と平和をどのように考えるのか、というテーマ自体が極めて大きい。しかし、それ以上に論じ方、論じられる内容に何とも言えないもどかしさと不満を覚えたからである。ともあれ、本書の議論を要約した上で、感じられた疑問点を整理したい。

本書の概要
 著者は平和主義を「平和的手段をもって平和という目的を達成しようとする主義(p.6)」と位置づけ、「国際関係の指針として、人々の支持を得られ、説得力のある平和主義のあり方を探ること(p.iii)」を本書の目的として掲げる。そして平和主義の思考方法には二つのアプローチがあり、さらに二つの路線があることを示す。

 思考法における二つのアプローチとは、「義務論」と「帰結主義功利主義」である。義務論は行為の正しさをその行為それ自体から判断し(p.38)、それゆえに道徳的に許されず、また実行のプロセスにおいて多くの疑問を生じる行為として、戦争における殺人を問題化し、批判を行なう。また「帰結主義功利主義」は、より良い帰結をもたらすものを良いものと判断するという思考から、多くの被害をもたらす戦争を批判するものと著者は位置づける。
 さらに平和主義には二つの路線として、文豪トルストイに代表される、ある種信念に由来する非暴力、無抵抗の「絶対平和主義(Pacifism)」と、政治的選択としての非暴力を重視し、最悪の場合には戦争の選択肢も残す哲学者バートランド・ラッセルに代表される「平和優先主義(Pacificism)」のような議論があると整理する。
 著者はこのような整理を行なった後、著者が二つの平和主義とは異なったものとする「非平和主義」者による三つの議論―正戦論、(国際政治理論における)現実主義、人道的介入の三つに対して、それぞれの難点を指摘する。

 そして終章で「自由主義功利主義社会主義をルーツとし、十九世紀以降発展してきた平和優先主義のタイプが、国際関係の指針として魅力的かつ積極的な代替案になりうる」と結論付け、それが「直感的に、義務論や帰結主義といった私たちの身近な感覚の延長線上として、非暴力の教えを位置づけ」ており、「また論理的にも、暴力の例外的使用の余地を残しつつ、非暴力的手段をあくまで原則とすべきだとの首尾一貫した理由を挙げることができる。さらに実践的にも、市民的防衛や非軍事介入といった、具体的な非暴力戦略を提案する余地を備えている」と結論づける(pp.210-211)。さらに民主的な政治体制を内政において確立することが、戦争のリスクを減らすことも示唆する(pp.211-217)

結論への違和感:平和主義なるものの独自性はどこに残っているのか
 漠然と使用されることが多い「平和主義」という言葉の輪郭をある程度明確化し、論争の続く分野に一石を投じようとした著者の態度は評価できる。しかしながら、本書は結果的に「平和主義」なるものが本当に存在するのかすら、怪しい議論をしているようにしか思えない。上に示した要旨のとおり、本書の最後では高らかに平和優先主義こそが魅力的なアプローチであるという宣言がなされている。他に打つ手がない場合の、文字通り最終手段としての武力行使は政治的選択として受容するが、あくまで非暴力手段を重視する主義。しかし、これは著者のいう平和優先主義なるものの専売特許と言えるものなのだろうか。

 それこそ人間の作り上げるアート(わざ、技芸)としての政治の性格を強調し、政治活動における深慮(Prudence)を重視し、いたずらに武力に訴えることの愚かさを説くのは、本書で非平和主義とされる現実主義の論客ハンス・モーゲンソーや、日本の国際政治論における現実主義者である永井陽之助らの真骨頂であった。
 確かに、著者は本書の議論を読む限り、彼らに比べれば義務論に基づく確認行為をいくらか重視しているかもしれない(ただ、本文中の結論分にはそうした特徴は明示されていないので、こちらの好意的解釈である)。そういった部分に若干の新味はあるだろうが、はたしてこれを上記のような非平和主義とより分ける必要がどこに存在するのだろうか。

 また、とりあげられる「具体的な非暴力戦略」なるものも随分とおぼつかないものである。例えばその一つである、ボイコットやストライキを軸とした占領軍に対する抵抗活動である「市民的防衛」を考えてみよう。
 この市民的防衛が発動できる状況に限定されていることは著者自身も認めているところである(pp.166-168)。規律正しい、近代的戦争が発動されたときのみ、この市民的防衛は意味を持つのだろう。
 しかし、思えば現代戦争の変貌、戦争とイデオロギーや政治が結合した「戦争の革命化」「革命の戦争化」といった変貌を指摘したのは冷戦時代、核時代の国際政治学者たちであった。著者のいう市民的防衛が実践可能な「戦争」―近代国家が、堂々と宣戦を布告し、堂々と正規軍を進軍させ、戦争法規を遵守し、イデオロギー的な狂信ではなく国家理性によって行動し、長期間に渡って戦う戦争―そうした戦争は第二次世界大戦から後、どれだけ見られたものであろうか。要するに極めて例外的なシチュエーションのみに適用可能な、具体的な行為にすぎないのである。

 再度著者の言葉を引用しよう。平和優先主義は「暴力の例外的使用の余地を残しつつ、非暴力的手段をあくまで原則とすべきだとの首尾一貫した理由を挙げることができる。さらに実践的にも、市民的防衛や非軍事介入といった、具体的な非暴力戦略を提案する余地を備えている」ものであるとされる。しかしこのように考えていくと、暴力の例外的使用の余地を残し、非暴力的手段を原則とするという点で平和優先主義と著者のいう非平和主義に大差はない(そもそも著者自身が非平和主義である現実主義が、戦争を賛美する思想ではなく、戦争より平和が望ましいと考えることを認めている。p.139を参照)。そして平和優先主義特有の具体的な非暴力戦略は極めて限られた場合にしか使い物にならない。著者が結論部で掲げる平和優先主義は特徴のない、全く色あせたものとなっていく。否、このような議論をした時点で平和優先主義と非平和主義の間にグラデーションの差こそあれ、そこに線を引くことなど不可能だろう。だとすれば、われわれは今や全員が平和主義者なのではないか。

議論の出発点の違和感:結論ありきの二分法
 なぜこんな結論に至ってしまうのか…。一歩引いて、本書の議論の立て方を考えると、これは明瞭になる。つまり議論の立て方に問題があると思われる。

 本書の議論の出発点には「平和主義」が置かれている。「なぜ戦争はなくならないのか」「なぜ暴力がなくならないのか」といった問題を解決するため、平和主義という方法を選びだすではなく、方法としての「平和主義」に対して何らかの(ポジティブな)回答を導き出すことが運命づけられている。
 そして本書は平和主義を「絶対平和主義」と「平和優先主義」に区別し、政策論としての実用性が乏しい「絶対平和主義」をまず議論から排除する。そして残った「平和優先主義」の優位をアピールするために、「非平和主義」なる敵を生み出し、二分法で区分することで相手を攻撃した。しかしながら、ここに敵を設定してしまった問題点があった。そもそも、正戦論や現実主義のように「最終手段としての戦争」を肯定する立場は、著者が平和優先主義者とするラッセル自身も認めていたものではないだろうか。そこに線を引くこと自体が、無理があったという他ないのではないだろうか。

 著者は、終章で下記のようなことを述べている。「平和主義者と非平和主義者の双方には、より憂慮すべき共通の論敵がいる。(略)…新保守主義者(ネオコン)のようなタカ派好戦論者である(略)…三者(引用者注:平和主義者、正戦論者、現実主義者)にとって真の政治的論敵は、お互いではなくその外側に控えている。当初の問題設定からは逸脱するが、本書全体の検討を通じて、平和主義と非平和主義の相違点だけではなく、以上のような共通点もあぶり出すことができたら、筆者にとって望外の収穫である」(p.219)。
 著者はここで共通点をあぶり出すことができれば…と述べているが、そもそも平和優先主義と、非平和主義の間に明確な境界線は実際には存在していなかった。平和優先主義なるものは非平和主義なるものと地続きの存在でしかない。私的印象では、果たして共通の敵とされるネオコンイデオロギー的に明確に区別できるのかさえ怪しんでいる。彼らとて平和を嫌うわけではない(彼らはもしかすると極めて「ユルい」基準をもった正戦論者であると自称さえするだろう)。そのように自称するとき、彼らを誰が非平和主義者だと判断するのか。繰り返しとなるが、われわれは今や全員が平和主義者と自称できるように思われてならない。

アプローチへの違和感:帰結主義功利主義を用いることの問題
 次に著者が論じる平和主義の思考法を考えよう。本書で平和主義における思考法として掲げられた「帰結主義功利主義」は第3章で詳述されているが、果たしてこれが平和主義なるものを考える際にどこまで有力であるかという点について疑問を禁じ得なかった。同章では「戦争はペイするのか」という点をいくつかの側面から検討し、「帰結を考慮して物事を考えれば考えるほど、自ずと人々は戦争を避けてそれ以外の方法を選ぶことになるだろう。むしろ、思考の合理性を研ぎ澄ませていけばいくほど、私たちはよりはっきりと、反戦平和という内なる理性の声を聞きとれるようになるだろう(pp.93-94)」と論じられる。

 しかしその直後に、帰結主義功利主義特有の欠点として、どのような基準で判断を行なうのかという「物差しの不明確さ」が指摘される。さらに続いて、結果論で語る以上「帰結主義者は戦争に絶対反対ではない(p.96)」ことがもう一つの欠点としてあげられている。
 著者の言うとおりで確かに功利主義帰結主義がどこに物差しを置くかにおいて、立論はいかようにもできる。「帰結を考慮して物事を考えれば考えるほど、自ずと人々は戦争を避けてそれ以外の方法を選ぶこと」になるかはわからないのである。この事実は非平和主義者との対話を有意義にする(p.99)ものではなく、およそそんなものは平和主義なるものの独自基準たりえない、ということではないのかとさえ思われる。

 むしろ本書において魅力を感じさせるのは、義務論のキレのよさである。あるべき立場を変えず、「正しいことをしようとして、結果的に予期せぬ犠牲が出るのは仕方ない」とする二重結果論の濫用の危うさを指摘し、極めて限定的な(およそ戦場では成り立たない)条件のみを認める。その厳格さは確かに実用性という点では問題をはらんでいるが、著者自身がカントの義務論は「帰結主義に対する一種の制約要因(p.67)」であると指摘するとおり、帰結主義で行動することへの迷いや躊躇といった、「感覚的な重み」を与えるものであり、これこそは平和主義の力の源泉たりえるのではないかと感じられた。
 ところで、本書中において、絶対平和主義の根幹には義務論があること、一方で平和優先主義の根幹には義務論だけでなく、帰結主義功利主義があるように語られている。
 先ほど、平和優先主義が実際は非平和主義と地続きであり、何ら変わりはないのではないのかと指摘したが、この平和優先主義と、トルストイ的な、著者が序盤で切り捨てた「絶対平和主義」の溝こそが大きいように思われてならない。まさに断層は著者のいう平和主義の内部、平和優先主義と絶対平和主義との間にあるように思われる。

国際政治・国家・個人:政治における平和主義は可能か
 著者が何らかの形で平和主義的なものを存続させたい、と考えていることは(素直に本書を読む限りでは)事実であろう。しかしながら本書は既に述べたとおり、はじめから平和主義という結論が定まっている議論を行なおうとした結果、そして政治的な実用性を求めた結果、平和優先主義なるものは、著者のいう非平和主義となんら変わりのない、すり減った、論じる価値もないものとなっているように感じられた。評者はどちらかといえば著者のいう非平和主義に区分されるような政治的態度を持っているが、終章でパッケージ化された平和優先主義には何の魅力も、反論の必要も感じなかった。今の自分の立場と実質的に何も変わらないからである。

 むしろ評者が抗しがたいと感じたのは、著者が実用性の点から切り捨てた、トルストイ的な絶対平和主義であった。ひたすらに戦争を人間のとるべき態度ではないものとし、義務論にしたがって戦争を拒否する思想、これは義務論の性質もあって極めて堅固なものである。二重結果すら否定するそれは結果責任を是とするオーソドックスな政治のあり方とは相いれないものであるし、その意味で政治の現場で敗北する可能性は否定できない。政治が秩序と暴力を司るものである限り、絶対平和主義は個人が採用する態度という枠を出ることがない、非政治的なイデオロギーと言えるかもしれない。
 しかしながら、著者が指摘するとおり、義務論の真骨頂が帰結主義を制約し、「感覚的な重み」を与えることにあるとすれば、このような態度を貫き通す立場があること、人間がいることの方が、彼ら自身にたとえ実用性がなくとも重要であると思われた。このような人間が存在し、その立場が人間の精神に訴えることを政治的人間が意識するならば、政治のあり方には何らかのニュアンスの変化が与えられるからだ。あまりにもナイーブな話かもしれないが、非平和主義者たる私は、実用性を訴える平和優先主義なるものより、このような態度をどのようにくみ取るかの方が、アートとしての政治の課題のように感じられた。

 しかし、絶対平和主義は個人のレベルに限定されるもので、誰かに汲み取られることを期待するしかないものであれば、また著者の主張する平和優先主義が非平和主義とほとんど区別しえないものであるならば、はたして、「政治における平和主義」という立場が可能なのか?という疑問を感じざるを得ない。どこか他に可能性はないのかを考えてみたい。

 本書の議論を通じて、従来の平和論と明瞭に異なる部分がある。それは、本書がいかなる形でも国際システムレベルでの平和主義に期待していない、という事実である。著者は「互いに正当性を主張し合う両国があった場合、それらの正当性を不偏不党の立場から判定するアンパイアが、今の国際社会にいるだろうか。理想的には国連(とくに安保理)がその役割を果たすべきだが、残念ながら当時も現在も、その実効性を確立するまでには至っていない(p.120)」と述べ、また現実主義の章(第5章)では、その議論の特徴として国内社会と異なり上位の権威者が不在であるという世界認識(アナーキー)に言及しているが、現実主義批判の中でこの国際社会がアナーキーであるという認識については特段の批判を行なっていない。
 思えば国際政治における平和を追求するため、「安全保障のジレンマ」といった現実主義の直面する問題を超えるため、過去の平和学と呼ばれる学問分野が模索してきたことは、集団安全保障をどのように整備するか、国際システムレベルでいかなる解決を行なうのかという議論であった。近年もユルゲン・ハーバーマスらを震源として、「国際法の立憲化」が叫ばれていることは知られるところである*1
 しかしながら、著者はこうした議論の展開は一切言及していない。上記のごとくアナーキーを受け入れ、国家レベルでの「平和優先主義」による改善にすべてを託する態度をとっている。これは極めて面白いことだといえよう。著者がこのような議論をとった背景は何ら語られていないため推測する他ないが、国際社会がアメリカの行動を何ら制止しえなかった、イラク戦争後の議論であるから、ということはあるのかもしれない。
 しかしながら、学問的には未だにこうした「国際立憲主義」などとも称される方向の模索はまだ行なわれている。著者が平和優先主義の実用性になんらかの活路を見出すとすれば、国際システムレベルの改善を構想し、こうした既存研究との再度の接続を試みることではないだろうか。国家レベルの行動に限定される限り、非平和主義と区別し難い平和優先主義の差別化を行なう可能性は、極めて乏しいように思われる。

*1:こうした議論については、さしあたり最上敏樹『国際立憲主義の時代』(岩波書店、2007年)などを参照。