シートン俗物記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-05-28 晴れのち曇り

[]いのちの奪い方

ずっと昔のことだ。子供相手のボランティアをやっていた時のこと。ある時、キャンプを行って、その夕食時にニワトリをシメて料理することになっていた。ニワトリは近くの養鶏場から譲り受けた廃鶏といわれる老鶏。「子供たちにたべる事の大事さを伝える」授業の一環として行ったものだ。

参加した子供たちの親たちは口々に

「命の大切さを教えるために必要なことだ」

食べ物がどうやって手に入れられているのが教えてやって欲しい」

「食べるためには、他の生き物の命を奪わなければならない事を伝えて」

と、立派な事を言ってくれたのだった。

ところが、いざ鶏をシメるとなった時、親たちは

「自分は血が苦手なので」

「こうしたことはやったことがないんで、慣れた方に」

「いや、ちょっと出来ないです」

と仰り、

「どうか、先生(私の事)がやって、見せてやってください」

と云い、誰一人として自分でやろう、という親は現れなかった。

みなさま、ボランティア学生ごときに、命の大事さを伝える役割を譲ってくださったようだ。


鶏を逆さに吊し、羽を背中側で絡ませる。こうしないと、シメる時に暴れる可能性がある。

この段階で、鶏は観念したように温和しく、目を瞑ったままだ。シメ方には

・首を切り、血を流してしまう

・頭を潰す

・延髄を破壊する

などあるが、一番、鶏の苦痛が少なく血も流れにくい、延髄に尖ったものを差し込み破壊する方法をとる。鶏の頭を左手でくるむ。鶏の熱さが伝わってくる。命の熱さだ。右手の錐を鶏の後頭部の頸椎との間に差し込む。鶏が一瞬もがき暴れる。延髄に届かせるとグリグリと錐を回し、「早くおとなしくなれ」と祈る。痙攣が停まると、左手を放す。鶏は息絶えていた。すぐにナイフで首を切り落とす。血がボトボトと滴り落ち、鉄臭い匂いが立ちこめる。首は簡単には切り落とせず、骨の継ぎ目に当ててゴリゴリとこじり、伸びた皮を切り落とした。しばらく置いて血を抜くと、湯に浸けて毛をむしる。羽の下から出た脂肪が手にまとわりつく。細かな羽毛だけになったら、直火であぶり産毛を焼き切る。ここまでくると、香港の街で見掛けたような姿になった。

肛門の廻りを切り、腹を割く。内臓を取り出すと、詰まっていた卵の原型がぼとぼと落ちる。鮮やかな黄色だ。内臓が出るとムッとするような匂い。手についた脂肪が取れない。あとは、腿、肋骨廻り、背骨にそっての肉、首、とバラしていく。どんどん、肉らしくなった。

ここまでやって、しかし、取れた肉は僅かでしかない。手際が悪いために骨に付いた身は多く、内臓は見ていた親子たちが嫌がった。

そして、出来上がったチキンカレー。肉は固い、と不評だった。歳取った鶏の肉は滋味があるが、固い。しばらく寝かしておくならともかく、キャンプでは美味しくなる時間はない。

しみじみと固い肉を、自分が命を奪った鶏の肉を、噛み締めながら、鶏の残骸を見て、鶏の最後を思った。

親たちは口々に「良い経験になった」と口にした。

しかし、自分が感じたのは「鶏の命を奪うほどの価値が、この食事にあったのだろうか」だった。


結局そうなのだ。

「(自分が)生きていくためには、何かしらの命を奪わなくてはならない」と厳かに仰る方々は、しかし、自分の手を汚したりはしない。自分の手を熱い血に浸したりはしない。自らが奪った命の価値を推し量ったりしない。それは言葉に過ぎないのだ。

確かに自分たちは、何かの命を奪わなくては生きていけない。だが、どの程度その重みを感じている?むしろ、自分たちの行為を正当化するためだけに使われてはいないか?自分たちの後ろめたさを隠すために使われていないか?


それからも何度か動物の命を奪った。何のために、とは云うまい。それが正当化するわけもないのだから。今でも食事をすれば、何らかの形で命を奪っている。ビーガン*1というわけじゃないが、それでも肉はあまり口にはしない。自分でシメなくても、誰かが代わりに命を奪っているのだ。それに知らぬふりを決め込む方が罪深くないか、と考える。

そして、自ら命を奪った経験から得た言葉

「生きていくためには、何かしらの命を奪わなくてはならない。だから、命を奪うことは仕方がない」では無かった。


「命は奪わざるをえないなら、だからこそ、極力奪うまい。奪わずに済むなら奪わずに済ませよう。奪ったのならば、それを大切にしよう。」だった。


命を、何かを奪うことが当然、と正当化できると考えるなら、それは違う。奪うことへの懐疑は常に持ち続けなければならない。そして、それが私が子供たちに伝えられる言葉だと思った。今でもそう考える。

いのちの食べかた (よりみちパン!セ)

いのちの食べかた (よりみちパン!セ)

追記:当ブログ始まって以来の大反響だったので、ちょいと驚いております。

全部にお答えできませんので、包括的な追記にてご挨拶を。


さて、私は屠畜に参加して頂けなかった親御さんについて若干批難めいた書き方をしていますが、彼らを責めるつもりは無いのです。別に“実際に手を動かさなかった”事が問題だ、というわけではありません。言いたかったことはむしろ逆で、「食の大事さを知るためには、屠畜を体験しなくてはならない」という言葉固定化されているのでは無いか、という違和感です。それが大事だ、という考えが現実の体験と齟齬を生じ、実際の食事に充分に生かされていない、その方が問題ではないか、と考えたのです。ですから、実体験のあるものにしか主張する権利は無い、というつもりはありませんし、体験したから威張れるというわけでもありません。

ただ、あくまでも、どのように考えようとも、生きていく上で他者の命を奪っている事は確かだが、しかし、それはその行為自体を正当化するものではない、ということなのです。

我々はさまざまな生き物を食しますが、被食者は“食べられるために”存在しているわけではない。彼らにも彼ら自身の命が存在する。命を奪うことを役割に擬して正当化を図らず、見つめたいのですよ。


植物であろうと虫であろうと同じです。鶏はダメだが虫や植物は良いのか、と言われれば、「どのような命であろうと奪うこと自体は正当化できない。必要であるとしてもそれは極力避けるべきだ」と主張します。アマちゃんだ、というのならそれもよし。私は一生アマちゃんで生きるとしましょう。奪う事への懐疑を口にし続けます。


頂いたコメントで気になったところを。


ビーガンについては幾つか御指摘を頂きました。あちら、へ行った時にビーガン向けのメニューというのが多かったのです。で、ベジタリアンという言い方はあまりしない、と云われたために当たり前に考えて気づきませんでした。

なるほど、ググってみるだけで色々載ってますね。ご指摘感謝します。記述はそのままにしておきます。

*1菜食主義者。ベジタリアンという言い方はあちらではあまりしないようだ

trshugutrshugu 2008/05/29 11:30 これは良エントリですね!!
にっほんじんはもうちっと死刑とか目の前で見たほうがいいと思う。
逆にそういうのをよく見てる中華人とか強いんではないだろうか。そんなことないか。

eiei19eiei19 2008/05/29 17:15 自分はこーゆー命の尊さを説くのとかが嫌いです。
なんていうか、人間ってそもそも自分勝手な生き物だろうと思います。
まずそこを認めたほうがいいと思います。

よしのよしの 2008/05/29 18:46 上に同感。生き物ですもの。とってもとっても自己中心的な生き物ですもの。
いのちを奪うときに何を考えようが、食わなきゃ死にますし。もちろんエントリの考えは道徳的にも、生きるコストを下げるという意味においても、利己的かつ合理的な良い考えだと思いますが、いのちを大事にすることに関して、半ば無分別に称揚するのはどうかと。
正確な一つの解を求めない限り、道徳の問題であり、生き方の問題ですからね。

PPPP 2008/05/29 20:18 命を頂くときは、苦しめないでください。ご大層な理念より、食事は日常のことです。言い訳をすることはかえって奪ってきた命に失礼です。奪った命もまた、他の命に支えられています。菜食主義なら命奪わないとでも?ものすごく傲慢な考え方だと思いませんか?
http://www.tabisora.com/travel/121.html

shimanukishimanuki 2008/05/29 23:00 自分は命が失われる場面での経験をあまりしたことがないからよく分からないけど・・・。
感情論や意味不明な正当化、問題のすり替えをするような、机上で神のお告げのようにご託を並べる方々より、トピ主の最後の2段落の方が より人間的で同意できたし、好感が持てました。

zhyazhya 2008/05/29 23:09 はてなトップページで見かけました。
「いのちの食べかた」は、私も読みました。

私は、まだ結論らしき物を出せていません。
そのまま過ごしてきましたが、今日をきっかけにまた考えてみようと思います。

良い機会を、ありがとうございました。

str0str0 2008/05/29 23:23 昔の(といっても我々が時代を共にすごしている年代の)方はもっと命を敏感に感じていました。ウサギを庭で飼って槌でミンチにしていたり、飼っていた牛が盗まれて河原で解体されたり、犬を薬として食べていたり、そして厳密な意味で生きるために殺す状況に近かったのです。
手を汚す(という表現に悪意はないですが)体験や覚悟がないのに、殺さないと生きれないという無自覚な前提への懐疑の念には共感します。

なまえなまえ 2008/05/30 01:26 なんかこう、極端過ぎたりしてませんか。

もし誰しもが日常的に、その手を汚して糧を得るのなら
恐らく、その事に対して何の感情も抱かなくなるのではないでしょうか。
それは罪の意識から自分を守るためといった類のことではなく、
日常的に繰り返されることで『ふたつとないいのち』→『今日の食糧』へと認識が変化(麻痺?)するだけの事だと思います

私は、屠殺体験などありませんし、したくもありませんが
そういう世界があることさえ忘れなければ、それでもいいと思います。

pyopyopyopyopyopyo 2008/05/30 02:44 野菜にも命はあるので、
お肉だけでなく、野菜も大切にしてください。

ぽうぽう 2008/05/30 03:09 馬鹿親にうんざりって話?

魚殺しマン魚殺しマン 2008/05/30 03:40 大学生の時、某研究所に出向した。
研究室長は、命の重さを考えない冷徹な人物だった。
卒業が懸かっているので、室長には逆らえなかった。
ある時、実験で使った魚の稚魚を、
1000匹以上殺処分しろと命令された。
学生は私を含めて4人居た。
皆嫌がったが、話し合いで私が殺処分をすることになった。
発ガン性の麻酔薬等を投与しているので、食用には使えない。
殺すしかない。
麻酔液の中に稚魚を放り込んでいった。
そのまま焼却炉に入れて、灰にした。
もう、十年以上前の出来事だが、未だに夢に出る。
魚を大量に殺してから、私の頭の回転が極端に鈍くなった。
2、3年ほど笑えなくなった。
実験者のエゴで命を奪った事が、私の頭を狂わせた。
「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんておこがましいと思わんかね」
ブラックジャックの師匠の言葉です。
命は尊いものだと思う。
しかし、生きるためには食わなければならない。
食うためには、命を殺さなければならない。
そのジレンマを、心にどこかに置いておけば、
命の重さとか、人のエゴとか、少しはわかる・・・かな。
長文でキモレススマソ

伊香保万次伊香保万次 2008/05/30 04:21 ここにあるのは、命の大切さそのものや、
どういう考え方が正しいのかといった議論ではなく、
「子供に命の大切さを教えたい」などと言っておきながら
見た目のグロテスクを避け「為になった」と言いつつ
硬い肉に不満をこぼす親たちへの批判だろう。

MurakamiMurakami 2008/05/30 05:22 「命は奪わざるをえないなら、だからこそ、極力奪うまい。奪わずに済むなら奪わずに済ませよう。奪ったのならば、それを大切にしよう。」
モンゴルにいたときに、全く同じことを思いました。でも、ここのコメントを見ていると、命を奪ったことのない人には通じないのかもしれませんね。残念なことです。

.... 2008/05/30 09:00 魚をさばく程度は、馬鹿親でもやってるんじゃない?同じ事でしょ?なにも鶏でなくても。魚で感じなければ、鶏に変わっても同じじゃない?わざわざ鶏を絞める実演をする意味がわからん。まずいなんていわせないで、美味しく頂くことが、礼儀ってもんじゃない?発酵がすすむと肉がやわらかく美味しくなります。新鮮がいいとは限りませんっていうならわかるけど。

ichiichi 2008/05/30 09:16 そもそも、なんで我々は植物より動物の命は尊いと感じがちなんでしょうね

人間の命は大切(という秩序を保つための刷り込み?)

動物は人間と姿形が似ているから、動物の命は尊いと感じ
細菌等その他は人間と姿形が似ていないから殺すことに罪悪感を感じない。
・・・からでしょうか

katugenkatugen 2008/05/30 09:57 筆者に同感。鶏や豚や牛をさばいているところを小学校の社会科見学で是非やるべき、と大分前から思っていた。
肉を食べるということ、それを残すということがどんなことか考えてほしい。
それを見て可哀そうと思う人は、肉を食べる資格はないと思う。
本当に可哀そうなのは、無駄に命を奪われることだと思う。

threecloudjpthreecloudjp 2008/05/30 10:06 確かに、手を下した人間と周囲で見ていた人間との間には温度差が生まれてしまいますね。その親子たちは最後まで、解体ショーのお客様という立場から抜け出すことがなかったのでしょう。だから目の前の出来事を当事者として直視することがなかったのでしょう。その意味では確かに、わざわざ目の前で殺した意味がどれだけあったのかと疑念を抱かざるを得ない。
ただ、屠殺っていうのは純粋に難しい作業で、やったことのない人にいきなり衆人環視のもとやらせてみるというのも(素人ゆえに失敗するかもしれないという意味で)ちょっと酷なことにも思える。

だから、育てさせればいいんだと思うよ。
にわとりでも牛でも豚でも。
農業高校の生徒たちは実習で育てた家畜を送り出すとき「ごめんね」と涙を流す。頭ではわかっているが、気持ちが現実を受け容れられず、家畜を抱いて放すまいとする生徒もいる。
命の当事者になるとは、たとえばこういうことでしか得られない経験なのではないでしょうか。現代社会では。

ていていていてい 2008/05/30 13:06 僕が鶏絞めた時の気持ちを表すと「いただきます」。世界に対する感謝と、命を受け継いだことへの覚悟を覚えました。感動。

あらあらあらあら 2008/05/30 13:44 みんな、一回鶏をしめてみればいいんですよ。いい経験になるとおもいます。ごたごた文字を考えるよりも、体験することをオススメします。
わたしは体験して、いろいろな感情を抱きました。しかし、それを説明することに意味はありません。是非、自分で体験してください。

こたまこたま 2008/05/30 14:17 「人間は自分勝手だから」と正当化し思考停止してるのはダメ、生き物として大切なナニカを抱き続けるには悩み続けた方が良い、ということですね。

ネズミやゴキブリを退治するにも躊躇することがあります。
ここで殺してしまうことでそれの未来を摘み取ってしまうのが怖い。そこに責任なんて取れるわけも無い。そもそも責任ってなんだろう。
人間は自然連鎖から外れた異端となりかけている。
人間から提供するものが減り続けている。奪うばかり。
そして奪われたくないという知能があり、且つ抵抗力が異常。
何の為に生きてるのだろう。何故生きていくのにこんなに奪うばかりでしかいられないのだろう。
本来ならば、今の技術があれば、生きていくだけならば奪う量も少なくていい。
だが人間の欲、競いは生きていくだけの範囲では納まらない。
悲しいことだ。悲しいからといって今までの人間の歴史も否定しない。過去から学べることはある。命を軽く扱ってきた事ばかりだ。

人間が自然に生かされてることから半ば独立しても、生き物の命を奪って生きていることを意識し続けなければ、
自らが生き物ということを意識できなくなるのではないか。
自分だけでなく、他人の命の重さも理解できなくなるのではないか、と思うのです。

まとまりがなくてご免なさい

コメツキバッタコメツキバッタ 2008/05/30 14:55 路地裏の猫がバーガーに…なんて都市伝説がありましたが、
これも身近に屠殺体験が無いゆえの気らくな夢想なんでしょうか。

廃鶏はコックオーヴァンにするのがおすすめです。いわゆる赤ワイン煮。
丸ごとだから廃棄率少ないし内臓も入れられるし肉もやらかくなる。
あと汚れ、衛生対策に解体にはビニール手袋は必須です。

普通に正論普通に正論 2008/05/30 15:43 >>.... 2008/05/30 09:00
こういう馬鹿にこそこのエントリーだとは思うんだが、まったく響いてないのかw
しめるのとさばくのは根本的に違うんだがなwそこを言ってるものなのにまったく理解できないw恥ずかしすぎるw

あと米1のすり替えとかw違う話だろそれはw

せっかくの良エントリも、受ける側が馬鹿だと無駄なんだなあと実感。

通りすがり通りすがり 2008/05/30 16:28 なんつーか、コメみたいな奴がこういうところには絶対出るんだよな。
死刑廃止論者。
食による命の尊さと他人の命を奪った命を一緒にするなや。
馬鹿ですか?

おれは食べ物全てに感謝の心を持っている。
生産者もそうだが犠牲になった家畜たちにも感謝している。
鳥を絞めたことはないが、正直やれといわれれば感謝しながら絞めることができる。

感謝の心をわすれ、魚の切り身、肉の細切れが何処からやってきたのかを子供に学ばせるのは重要だろうね。

thinthin 2008/05/30 18:02 食べ物に対して感謝してる人も
人のことを簡単に馬鹿とか言っちゃうんだなあ・・

家畜に対して感謝の気持ちを持っても伝わる保障はないけど
馬鹿という言葉は確実に人の心に届きますよ

こころこころ 2008/05/30 19:41 ネットだからこその色んな意見が出ておもしろいですね
煽るつもりは無いんですが、どんな意見であろうと結局やってることはみんな同じなので否定するのはナンセンス(と言う自分が否定してるw)

この話、生きる本能と人間の道徳のジレンマですね・・・
生きるために他の命を奪わなくてはならないことは事実です
命を奪うことは人の常識では悪ですが、彼等にしてみればそれが世界です
気にする必要なんてない、とも思えます
でも口でなんと言おうと本当にそこまで冷徹になれないのが人間だと思います・・・
この事実を悩むことが食物連鎖の頂点にいる人間の使命・・・かもしれません

.................... 2008/05/30 20:10 普通にさばいている人は日常のことで、感慨など持たない。ウルルンでやってた。レポーターの女の子は仕掛けた罠にスズメ大の小鳥が掛かっているのを見て大喜び。一緒に罠を見に言った男の子(小学校入学前)がその鳥を罠から外した途端あっけなく昇天。そのまま毛をむしりだした。レポーター大泣き。男の子ポカーン。別に命に感謝してるふうもなく、我々の野菜感覚でしたけど。

こういう話題っていつも偽善の香りがして好き。自然が好きとかいう何にも考えてない人が考えてるふりしたり、いい人ぶるのに丁度いいんだよね。

私は平気ですよ。命を奪うことなんて毎日やってます。ハエや蚊を殺します。なんの躊躇もなく。ゴキブリはごみやさんに持っていってもらいます。なめくじや芋虫は切断します。ばったやトンボは遊びで殺しました。勿論、食べません。全部無駄にしますがなにか?命は尊いなんていう人は私に尊い命と尊くない命を説明してください。奪った命は蚊やハエも食べましょう。大切にするとはそうことでしょうか?それとも蚊には献血しましょう。たいした量ではありませんですか?結局は、干渉に浸っているだけでは?

なまえなまえ 2008/05/30 20:54 みんな間違っちゃ居ない。

感傷に浸る人もそうだけど、20:10の人のように毒づいて居る人も、きっと自分の手では殺せないし、もとのいのちに感謝している優しい人たちだと思う。

世の中全体がオートメーション化していって、食べ物ももとが命であるという事を皆が忘れてしまうのではないか、と考えると、ブログ主さんの不安?も理解できます。

でもその親も、こういう授業に、子供を参加させようというだけ、救いがあるとは思いませんか。
知らなくてもすむ世界を敢えて見せようというだけましとはおもいませんか?

そもそもそんな授業を開こうと言い出したのは誰です?

口だけだっていいではないですか。きっとみんながそうです。

ハツハツ 2008/05/30 23:00 きっと命についてこんなに考えるのって人間だけですよね。
何だかんだ言ってコメントしてるすべての人が、どんな意見でさえ命について考えているのが事実。
ヒューマニズムではまとめない。
でも命あるものは必ず死ぬから、言語化できる人間は生命について考えて生きていくのだろう。そう創られているのかもね。

一ドクシャ一ドクシャ 2008/05/31 04:04 エゴに負けた良心の処理に、二元論が使われるんだろうね。
嗜好性に議論落とし込めば、正当性は消滅する。
だからこの授業は帰結部分が
用意されてるんじゃないかと思うんだ。
小論文の授業で知った程度のクチだが、
似た事を考えてる人のブログに出逢えた事を嬉しく思う。

一ドクシャ一ドクシャ 2008/05/31 04:04 エゴに負けた良心の処理に、二元論が使われるんだろうね。
嗜好性に議論落とし込めば、正当性は消滅する。
だからこの授業は帰結部分が
用意されてるんじゃないかと思うんだ。
小論文の授業で知った程度のクチだが、
似た事を考えてる人のブログに出逢えた事を嬉しく思う。

一ドクシャ一ドクシャ 2008/05/31 04:07 二重投稿すいません、、
大事な事なので二度言いましたよ
って訳ではないです、、、、、、

ZEROZERO 2008/05/31 13:24  興味深くよませていただきました。私も命をなぜ尊ぶのかの問いに対して明確な答えはありません。
ただ、それは極限においてこそ試されるような気がします。奪わばければ奪われる。殺さなければ殺される。そういう事態に面したとき、最後まで命のあり方を問えるならば、それは本物だと思うのですが・・・。難しいですね。こういう話は。
しかし、疑問を持つべきだという考えには共感できます。
 人は、何かを理解したときその高揚感に惑わされて独善的になりがちです。だからこそ視野を広く持ち多くの意見や経験の照らし合わせて正しさ探す必要があると思います。

みつおみつお 2008/06/02 20:19 体験して初めて
わかるものもあるんだなあ

なまえなまえ 2008/06/03 01:38 あまり肉を食わないと書いておりますが、植物の命のことも考慮してあげてください。

なまえなまえ 2008/06/03 16:18 毎日微生物をぶっ殺していますがそれも配慮しないといけないよね。お米の一粒一粒がひとつの苗になったかもしれないのに一合も食べちゃった。僕は罪深いなあ、動物なら一匹の生命ですんだのにな。自分の健康を守るため、体内では好中球などが細菌を食い散らかしていますがそれも悔い改めないとね。ウンコするとウンコの中の菌が死んじゃうからウンコしないよ。ジャイナ教徒のように蚊一匹殺さないよう箒を持って外出しないとね。何匹殺しても平気な畜生どもと違って悔い改められる人間は上等な生き物だなあっと。わざわざ人を集めて、屠殺ショーを開催して参加者が殺せないと偽善者呼ばわりする人格は畜生には編み出せない高等な精神だぜ。

なまえなまえ 2008/06/04 23:01 偽善者というなら
たとえば虐待や崖の上の犬を報道するメディアこそ偽善でしょ。
猫一匹快楽のため殺すのと牛一頭ステーキのために殺すのどう違うん?
学校で飼ってるウサギが殺されてなんで子供が傷つくんです?
植物の命?本当に庭の剪定するのと、自分の猫の尻尾切るのが同じ行為だと思うんですかね。
動物と植物を同じに扱う方が一貫性がないとおもうんですがね。

なまえなまえ 2008/08/08 13:15 殺される側を想像すれば、食べ残してくれるほうが助かる。殺すための感謝は望まない。

 2008/11/27 12:34 生き物を殺すことに罪悪感や拒否反応を覚えなくなったら終わりですよ。
日常的に殺害を繰り返して来た人間(酒鬼薔薇聖斗等)は必ず生命をただの物体としてしか見れなくなります。
ま、僕も彼のように意味もなく蛙や猫を殺したことがありますがね(笑)

aiueoaiueo 2010/03/10 02:07 感謝して食べますは正直 偽善。
殺してごめん、と謝罪の気持ちをもって食べるほうがまだマシ。
食べる相手を自分で殺せないなら食べないのが一番。そういう人間は世界中に数え切れないほどいることを日本人はあまり知らない。食べてることを否定された気持ちになり人間様を正当化したい気持ちは分かるが、あまりに自分勝手すぎるコメントが多い。

cccccc 2010/07/17 22:26 人間はもっと自分勝手に生きるべき。
弱肉強食は自然にとっても人間にとってもすばらしいこと。
その上で、乱獲によって我々の生活に影響が出るなら規制すべきであり、
「見た目がかわいい動物が苦しむのを見たくない」のであれば圧力をかけてもかまわない。
すべての生物が自分勝手に生きてこそ最善の結果が生まれる。

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