Comments by Dr Marks

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前回記事コメント(猫猫先生、庵主様)に対するレスポンス

お二人への返事が長くなりましたのと、小谷野先生のコメントは非常に役に立つ情報が含まれていますので、記事として再掲いたします。寝て起きたら、お二人から丁寧なコメントが入っているので、感激のあまりトーストを齧りながらタイプしましたが、遅くなり申し訳ありません。もう、お二人ともお休みかなー。

jun-jun1965 『ストーンが死んでいたとは知りませんでした。しかしそのウィキペディアの記述は注がないですね。それでは学問的価値はないし、「愛のある夫婦のサンプル」がいかに「豊富」であろうと、それは「ほとんどは愛などなかった」ことを否定することはできません。なお『恋愛の超克』の中では、「セックスなどする必要がない」とか、売春を悪とする考え方は私自身既に抛棄しています。
「愛」というのは(loveでも同じ)博愛とか人類愛とかに限定して使われるべきもので、それをexclusiveな「恋愛」などに用いたのが間違いというのが私の説(『帰ってきたもてない男』に記述)で、これは西洋人が始めた間違いです。夫婦間に愛がなければいけないというのは、エレン・ケイが言い出し、日本では厨川白村が広め、実際に庶民間でも一般化したのは昭和30年代、これは『恋愛の昭和史』に詳しいです。アメリカ人が、もっともこの種のイデオロギーに捕らわれていることは、レスリー・フィードラーの『アメリカ小説における愛と死』に詳しいです。
まあ、中世の資料などというのは上層階級のものだけですし、日本中世でも『神道集』のように夫婦愛を讃えるものはありますがね、「誰にでも恋愛はできる」というのが近代恋愛イデオロギーの中核にある嘘だというのが、比較文学者としての私の主張の中心ですから、いずれ英文にして刊行しますよ。こうまで西洋の恋愛研究が遅れていたんじゃあ、しょうがないし。』 (2007/10/04 18:51)

丁寧な返事を感謝します。かなり、言わんとすることがわかりました。先生の主張する部分がないとは言えませんね、確かに。しかし、「近代恋愛イデオロギーの中核にある嘘」というのも、扇情的な言い方でまだ納得はしていません。今回またお薦めの書籍もそのうちあたっておきます。ストーンの Wikipedia ですが、確かに引用がありませんね。Start-Class 段階の記事ですから、改善中のようです。

antonian 『横入り失礼します。お二人の知の問答を愉しませていただいております。小谷野先生のお話から、(これは寧ろMarks先生専門の聖域のお話なんですが・・・)「カリタス」における、エロスとアガペーの問題で、「近代のカリタス理解がアガペーに偏っている」ってな話を誰かに聞いたのを思い出しました。これに関しては近年出たベネディクト16世の最近の「愛」についての公文書を一度よまにゃああかんかも・・などとぼんやり考えてしまいました。(べね16はエロスとアガペーの双方からカリタスを語っている)
所謂「夫婦間の恋愛」の認識についてわたくしも小谷野先生のおっしゃる説を伺うことがよくあります。ル・ゴフなどに代表されるアナール学派の方もなんか言っていそうですね。島にある仕事場に本があるので確かめられないのですが、中世の愛に関するル・ゴフの話が載ってる本がありました。西洋といってもフランスなどでは研究盛んかもです(アベラールとエロイーズの国だし)かつての西欧における結婚観って「契約」の色が濃いような印象はあります。それと夫婦間の愛に対しても、エロス的な「恋愛」ではなく「隣人愛」の文脈で語られて来たとは思います。』 (2007/10/04 21:47)

Antonian 様、というより上野の森の(←早稲田風)藝大出の(←猫猫風)の有名な庵主様ではありませんか。コメント恐縮です。「べね16」と言うのですか、初耳で楽しい名前ですね。私は Dr. Ratzinger(法王の本名)のファンです。やはり、法王になるくらいの人は、法王になる前から女性にもてるそうですね。(私の本家のブログに、知人の〔元〕女優と法王になる前の法王のツーショットとピアニスト法王の記事があります。
よろしかったら、→http://markwaterman.blogspot.com/2007_09_05_archive.html

庵主様ではなく、一般読者のために少し説明します。愛(現代日本語として)=カリタス(ラ語)=アガペー(ギ語)はキリスト教信仰の重要概念ですが(ex. 「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」第一コリント書13:13、「神は愛なり」ヨハネの手紙第一4:16)、ギリシア語で書かれた新約聖書ラテン語訳では、アガペーがカリタスと訳されているため、ローマ・カトリックの方々はカリタスという言葉に愛着があります。このカリタスが慈善を意味する言葉の元であるため、プロテスタントの人々は単なる慈善と誤解しており、アガペーと同じ言葉であることに気づかないようです。どちらの言葉も、本来は神と人との慈しみを意味し、私が本家のブログでヤマカーを頭に乗せて歌う「シェマー」(「あなたの神、主を愛しなさい」申命記6:5)も同じカリタスでありアガペーです。

エロスはもっと人間的といいますか、これに溺れてはいけませんが、性愛的愛であり、同様に神が与えたものと考えられます。さて、夫婦の愛ですが、時代により地域により政治形態により、様々に変化はあるものの「太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻(夫)と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦の報いなのだ。」(コヘレトの言葉〔伝道者の書〕9:9)というのが、変わらぬ人間のエートスと思います。何もユダヤキリスト教の特許ではありません。『万葉集』の夫婦の歌っていいですよねー。

アベラール(Abaelardus 11−12世紀)という方は凄い方です。学者としても(彼のSic et Non は必ず神学学説史に登場する)恋愛の実践者としても小谷野先生の大先輩のような方です。これ以上余計なことを言うと、アベラール兄ちゃんととエロイサ姉さんの罰が当たって口が曲がりますので止めます。コメント本当にありがとうございました。

あっ、忘れるところでした。アナール学派ですが、いいと思います。実は、本当のお前の専門は何だと言われそうですが、博士候補試験での副専攻科目は歴史哲学=歴史学方法論でした。その立場からの一言コメントですが、方法論というのはあくまでも「研究態度」にすぎず、適用に至って厳密さを欠くことになると危険です。アナール派の態度はよし、時に適用に問題ありというところです。余り、積極的ではないのですが、恋愛に関する論考などこれから気をつけて勉強していきたいと思います。

皆様、考える機会を与えてくださってありがとうございました。

猫猫先生の文藝論―「緋文字」(『聖母のいない国』93-110)への短評あるいは示唆

このブログの本来の使い方(コメント欄のないブログへのコメント)ではないが、由来が由来なのでここに書く。以下のことは、聖書の物語に関するものだから本家のブログのテーマと言えないこともないが、適切な読者を考えればここがいいだろう。忙しいので以下は判じ物的に単語だけ並べる(つもりだったが、少しは文章にする)。小谷野先生ならわかる(だろう)。

今のアメリカの平均的学生に Nathaniel Hawthorne の The Scarlet Letter と言ったところで、100人中いったい何人が読んでいるかおぼつかない。いや、作品名を知っているものさえ数人だろう。そう言えば、Hester Prynne の娘の名 Pearl は70歳以上のご夫人には一般的な名前なのに、近頃はとんと聞かない。

ついでだが、聞かないと言えば、小谷野氏が「西洋でも十八世紀まで[中略]夫婦の間に精神的触れ合いと瑞々しい『愛』が必要だなどという考えは、一般的ではなかったのだ。」(100)というのはあまり聞いたことのない言い方だ。恋愛と愛欲の専門家が言うことだから、何か根拠があるのだろうから聞いてみたいものだ。もっとも、18世紀までとは中世のどこから数えてだとか、愛の定義をこうすればとか、そんな言い訳的なものではなく、もっと素朴な根拠だ。

(ブログ風に:人類始まって以来、仲のいい場合に限るが、大方の夫婦は何で繋がっていたのかねー。結局、愛じゃないの、とDr. Marks。単純な奴だ、と猫猫先生。じゃ先生はナンで結婚したの、とDr. Marks。Mixi に入ってない奴には教えられん、と猫猫先生。以下、続く。)

文藝には不調法な素人で、私が多少なりとも言えるのは、聖書物語との関連だけである。イスラエルの町サレム(「平和」という意味、エルサレムのサレムも同じ)に起源をもつマサチューセッツ州Salem市は、アメリカ宗教史上も重要な町だが、それも専門ではないので今回はよそう。

門外漢とは悲しいもので、アメリカ文藝史の基本図書も知らないから、早速 Wikipedia (英日)に相談することにした。しかし、私の探しているものがない! 誰か何か言っていないのだろうか。えっ、本当?!
(日本語版は書きかけのようだが、英語版の盗作だね。駄目だよ、君たち、Kasuga さんとかだけど。でも、「英語版より」とちゃんと書いているのは偉いが、自分の文章にしたほうがもっと偉いのだよ。自分が書けなかったら、書ける人に書かせるべきだと思う。しかし、翻訳も才能だし啓蒙の意味もあるから、まあいいか、Kasuga さん。俺って、いつでも最後は甘いんだ。)

Wikipedia のごときは、網羅的なものではないから、たまたま出ていないのであろう。しかし、小谷野氏の評論にも出ていない。そうか、ここは『緋文字』の舞台となった17世紀のセイラムの町でもないし、この小説のリテラシーが高かった(と思われる)19世紀のアメリカでもない。英語版 Wikipedia の執筆者も編集者も英語圏の人々と思われるが、何を勘違いして「アダムとイヴ」など持ち出すのか。多分、罰当たりで無教養の D. H. Lawrence あたりの影響であろう。小谷野氏もそのことには触れておられる(98)。

まあ文藝だからねー。これが神学生の、あるいは聖書学を受講している学生の、アダムとイヴの narrative との関連などとやらかした日にゃー(←書けても兄のようにかっこよく発音できません)零点とは言わないが、間違いなく落第点だよ。アダムとイヴの罪は、神と人間との関係であって、人と人との関係ではない。もちろん、人と人との関係は神との関係の中で論じられなければならないが。「神と人」との関係と「人と人」との関係を混同してはいけない。

17世紀のこの物語を読んだ19世紀中頃のアメリカ人なら―この史的状況については、小谷野氏も的確に述べられた(97)―次の配役は容易に類推できたはずである。

Hester Prynne→バト・シェバ; Arthur Dimmensdale→ダビデ王; Roger Chillingworth→ウリヤ (番外: Pearl→ソロモン)
サムエル記下12−13章を読んでいただければ、なぜかということもわかると思うので、余計な解説はしない。

なお、この物語はダビデ王に対する預言者ナタンの叱責によって事の善悪が表明されるとはいっても、大きな聖書物語の中では、神によって誰も指弾されることはないのである。この場合、神の復讐などというのもはなはだ浅薄な神観である。同様なことは、『緋文字』の登場人物にも当てはまることであり、19世紀の読者たちはやさしい眼差しで見ていたはずである。

蛇足だが、バト・シェバとダビデ王との子とはソロモン王のことである。マタイ伝1章6節には「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあり、この不倫の子ソロモンは、神の子イエス・キリストの家系に繋がるのである。勇将ウリアという寝取られ男の名も、ここにおいては礼をもって記されていることを忘れてはならない。

(再び、ブログ調:それにしても Pearl ちゃんて、今頃どこへ行っちゃんたんだろー。お年寄りばかり。若い子で Pearl がいたらオセーテ。)

文献発見! というほど大袈裟なものではないが、ともかく私の言っていることが荒唐無稽でない証拠。Karin Jacobson 博士が、Cliffs Comolete というハウツー物のシリーズの1冊 Nathaniel Hawthorne's The Scarlet Letter (New York: Hungry Minds, 2001)p.105 に書いている。ただし、まさに示唆しただけで、私のような配役分析はない。ジェイコッブスン博士以外にももちろんいるだろうが、私の興味はここまでだ。

追記:ジェイコブスン博士の略歴は次のとおりだが、『緋文字』の研究者ということではないだろう。なお、私の示唆が専門家からも出ているということは、単に私の言うことが「荒唐無稽」ではないということを示しているだけであり、文献の存在自体が議論を証明する根拠にはなりえない。その文献の中身を吟味し私の説とすり合わせてはじめて根拠らしいものが生まれる。しかるに、ジェイコブスン博士は示唆しただけで議論はない。私も議論するほどの興味も時間もない。聖書学者としての私のこの示唆を、関心のある人は検討してみればいい。門外漢である私がもしこの問題に寄与したのであれば、それは私の喜びであって誰かを傷つける意図のものではない。Karin Jacobson received her Ph.D. in English from Ohio State University and is currently an Assistant Professor of English and Composition at the University of Minnesota-Duluth.