2012-01-31
■[雑誌系] 『怪処 創刊二号』
http://mg-kaisyo.jugem.jp/ ←『怪処』特設ブログ
去年の夏に創刊、そして昨年末に二号と発刊された「オカルトスポット探訪マガジン」と銘打たれた雑誌である。とはいうものの、どこかの出版社から出されたものではなく、あくまで“同人誌”の括りである。一般の書店では扱っていないし、上のブログから注文して発送してもらうしか購入の手段は今のところない。既に創刊号は完売、おそらくこの二号も近いうちに品切れになることだろう。商業誌なら雑誌でも古書店で見かけることがあるが、果たして同人誌もそのような扱いになるのか個人的には解らないので、とりあえず興味がある人は品切れになる前に購入しておいた方が無難だと強調しておきたい。
責任編集は「とうもろこしの会」。オカルトとその周辺の研究活動では名の知れた団体である。そして会長の吉田悠軌氏は、商業誌で単著も上梓しており、怪談の手練れの一人である。この好事家が中心となって出す雑誌である。面白くないわけはなく、王道の怪談話からあやかしを求めてのレポート、さらに意表を衝くとしか言いようのない“一癖も二癖もある店紹介”まで、とにかくあやしさ炸裂の内容となっている。しかも“同人誌”と個人的にカテゴライズしているが、そのレイアウトは商業誌に限りなく近く、非常に小洒落た印象が強い(表紙に女性モデルまで使っているのだから、本格的だ)。広告が一切入っていないだけで、本物の雑誌、あるいはオールカラーだからムックと称しても差し支えない体裁であると思う。完成度は恐ろしく高いと言えるだろう。(このあたりは同人誌事情に疎いので、あくまで個人的感想である)
この雑誌が並大抵のレベルではないと感じるところは、ごった煮的な内容がほとんど一個人の手によって繰り広げられている点に尽きる。一部のコンテンツは複数の執筆陣が分担しているが、メインの部分は吉田氏一人が切り盛りしていると言って間違いない。この多岐に渡る記事を編み出す知識と熱意には脱帽しなければならないだろう。そして広義のオカルトの範囲で自由闊達に筆を動かし、刺激的な情報をやつぎばやに繰り出す力量に羨望を覚えざるを得ないのである。好事家として一つの極点に立つことに成功したのではないかという気すらする出来映えである。
“吉田会長”テイスト満載のこの雑誌、単なる自己満足には終わらず、あやかしの好事家としての粋を集めた上級の作であると言える。とにかく好事家ならばこういう冊子を作ってみたいとグラリと来るものを持ち合わせた一冊である。次回作でどういう面白いものを見せてくれるのか、今からワクワクしている次第である。
2012-01-10
■[怪談系]『恐怖箱 怪生』
- 作者: 加藤一
- 出版社/メーカー: 竹書房
- 発売日: 2011/11/29
- メディア: 文庫
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書評を始める前に、まず、まえがきにあった問い掛けに対する見解を書いておく。かなり長い文になるが、人間以外の生命体に「魂」はあるのかという心霊学的に大きな問題である故に書く必要があると思うわけであり、さらに言えば、この本に対する評を書く上での個人的指針でもある故に開陳すべきだろうと考えるところである。
結論から言ってしまえば、魂を持つ存在は人間以外にはあり得ない。動物も植物も本来的には魂を持たない。「魂」とは自然の摂理の中では異質の存在であって、高次の霊格である故にそれ単体で自然の中に存立可能、つまり自然の摂理とは相容れない状態で、自然を無視してこの世界に出現できることが可能な存在であると言える。「魂」を持つこと、即ち人間のみが自然の摂理に反することが出来る「意志」を持つのである。動物の行動規範が本能である限り、魂はないと言い切ってよいだろうし、その存在が目指すところの目的は全て自然の理に適う形で完結することになるだろう。植物もまた然りであり、自然の摂理の中でのみ受動的な生命を維持するものであって、それ以上の積極的な意志を持つ存在ではないだろう。
しかし動物は人間界との接触によって、魂に近い念を持つことが出来る。それは例えば人間によって飼われることによって、また人間の理不尽な欲求(捕食行為はこれに当てはまらない。食物連鎖は自然の摂理によって行われているからである)によって生命を絶たれることによって、動物は自然界で生きていく場合とは異なる世界を経験する。そして自然の摂理の中では得られない感情を持つに至る。それは愛情であったり憎しみや悲しみであったりする。そういう非自然の世界において日々発生する感情の中で、動物は本来得ることのない念を持つ。それは人間の魂同様、自然の存在を越えたものとして発動する可能性を帯びる(魂と念は、自然の摂理とは相反する原因であったとしても成立するものである点では非常に似通っている。しかし本質においては、魂は存在であり、念は作用であると言っていいだろう。あくまで似て非なるものであり、それ故に人間と動物とは異なる次元の霊格なのである)。
動物霊と呼ばれる低級の霊の存在は、食物連鎖以外の関係で、人間の都合によって生み出された念の存在であると言える。いくら苛酷な環境に身を置く存在であっても、人間との接触を持たない野生の動物が霊体となることは稀である。人間の意志から発する念というものに触れてこそ、あるいは食べられるという目的以外に理不尽に生命を絶たれる事態に陥ってこそ、動物は初めて霊となりうるだけの念を持つのである。別の言い方をすれば、自然に反して念を残すには、それなりの反自然的な行為に遭遇しなければならないのである。
植物の場合は、動物のように能動的な行動が取れない分だけ、鉱物に近い形で念を形成する。鉱物が自然の氣というものを時間を掛けて吸収するように、植物は人間の発する念を吸収してその身に蓄えることが出来る。植物は自らの念を動かすことは稀である(よほど念を溜め込むことが出来たならば、それなりの意思表示をすることは出来るだろう。その場合、人はそれを「精」と呼び慣わすことになる)。むしろ自然のうちに溜め込んだ念を発散することで、あたかも意志する存在のように見える場合の方が多いと考えるべきである。
動物のように急激な感情の変化によって念を生じさせることが出来ないために、植物が念を持つには相当時間が掛かる。それ故に樹木に対して草花が念を持つような怪異は非常に起こりにくい。そして時間が掛かった分だけ、念がその植物から抜けることもあまりない。一旦念を持てば強力な氣を溜め込んだ鉱物と同じだけの力を持つ。
人間との関わりにおいて念を発動させるあるいは蓄積することで、人間以外の生命体は魂に近いものを持ち、少なくとも能動的に行為する霊体となりうると判断する。しかし魚類や無セキツイ動物やもっと微小な生命体について言えば、おそらく念を持つために必要な感覚器官が備わっていないために、それ自体が念を持って能動的に怪異を引き起こすことはないという見解である。要するに、我々人間でも感知不能のものに対して何らかの反応を示すことが出来ない、とりわけ瞬間的な事態の中であれば念を発する間もなく死に至るのと同じである(人間の場合は、その瞬間的な死を迎える以前から念や氣を発して生活しているために、それなりに残留思念と呼ばれるものが形成されている可能性も高いだろうが。他の生物のように自然にどっぷり浸かった中では、そういうものが残される可能性はおそらく皆無だろう)。
昆虫などが怪異の中心に据え置かれるケースは、虫そのものではなく、それを意図的に動かす別の存在があるとみなすべきである。これらの生命体が能動的に怪異を企図することはあり得ない、そのようなものの姿を借りて怪異を為している「化身」であると考えた方が、正しく状況を把握することが出来ると思う。動物が登場する怪異でも時折人間の念がそれらを操っている話もあるし、植物に至っては人間の念が凝り固まって怪異を為すというイメージの方が強いと言えるかもしれない。
いずれにせよ、動物霊は人間との関わりの中で生み出されたいびつな霊である場合が多く、たまに長寿を得た野生の存在が自然に漂う氣や念を蓄えることによって霊的な性格を帯びるというのが、個人的見解である。人間以外の生命体が霊格を持つこと自体が稀であり、さらにその霊格が善性を備えていることは奇跡に近いことである(このあたりになると妖怪とか神とかいう別の概念との絡みがあるので、複雑で高次な視野が必要になるので、ここでは割愛させていただきたい。いずれまとめ上げてみたい分野ではあるが)。
長々と本とは直接関係ないような話を展開したのだが、実はこの『怪生』に収められた諸作品を読むと、意外と個人的見解に近いケースがあると思った次第である。複数の作家が聞き集めてきた複数の作品で、動物霊に関する考察が出来るというのはなかなか面白いと思うし、そういう知識とか先見とかがなくても十分堪能できる内容になっている。個人的にはやはり動物や植物ではなく、虫なんかが前面に登場する話の方が希少であるし、非常に興味を覚える。その点では雨宮氏の最終作は良い意味で唖然とさせられた(徐々に真相に近づいていく判じ物の展開も小気味よい)。他の作品、特に生き物が能動的に怪異を引き起こしていると判断される作品に関しては、希少性の点で既視感の強いものが多かったように感じる。やはり所詮畜生の浅知恵と言うべきなのかもしれないが。
しかし気付いたのは、動植物が怪異の中心となる実話怪談だけを集めた作品集というのは初見だということ。というより、シチュエーションを同じくする怪異譚は数多いが、いわゆる「○○尽くし」のようなガジェットで一冊を編んだ実話怪談集はあまり記憶にない。ある意味、人脈を駆使したなかなか面白い企画物ということになるだろう(ただし竹の子書房では常套手段に近いとも指摘できるだろう)。渾身とまではいかないが、それなりに楽しめる怪談本であると言える。
2011-12-31
■[info.]来年の予測
まず去年の結果から。
◆「語り」は強力なアイテムになる→ 強力すぎるが故の弊害も
◆2012年問題はオカルトではなくなった→ ある意味吹き飛んでしまった
◆妖怪は煮詰まる→ 煮詰まるが非常に堅調・安定
◆UMAも都市伝説も決め手に欠ける→ 都市伝説は「陰謀論」暴発
◆パワースポットブームは継続→ 日常に定着
今年は全て「東日本大震災」で塗りつぶされてしまった感がある。これ抜きにして今年の潮流は語れないし、来年もまたこの路線を継承しながら進むだろう。極論すれば、世の中の価値観とか世界観をことごとくひっくり返してしまったわけである。どう抵抗しようが、この呪縛から逃れられる者はいないと思う。
ということで、来年の予測。
◆怪談系は地歩を固める
大震災を契機にして怪談は「鎮魂」という側面がクローズアップされ、新たな活力を得たように感じる。おそらくこのベクトルは来年も続くと思うし、中心に据えられるだろう。いわゆる【ジェントル・ゴースト・ストーリー】の隆盛である。心温まる話、感涙の作品が大いにもてはやされる傾向は避けられそうにもない。
しかし危惧するのは、この系統一辺倒に怪談が指向された時に、本来の「戦慄と恐怖」の世界が顧みられなく点である。怪談の擁する「鎮魂」は悲哀や思慕に限られたものではない。むしろ王道と言うべきは“赦すまじ”と襲いかかる怨恨=祟りであることを忘れてはならない。このあたりのバランスを踏み外さなければ、おそらく怪談は正しくしっかりと根付いていくことになるだろう。喜怒哀楽全ての感情を体現出来てこそ、怪談の妙味は生かされると考えるべきであり、一つの感情にだけ偏らないよう注意を払わねばならない。むしろ殺伐で無慈悲な怪異の登場を望みたい。ある意味、怪談の懐の深さが試される年でもあると思う。
◆2012年問題は竜頭蛇尾か?
マヤ暦の話は結構巷間に広まっているように思うのだが、流布すればするほど恐怖の要素がすごい勢いで削られていっている。もはやオカルトの領域のネタではなく、歴史学や民俗学のレベルで語られる内容になっていると言えるかもしれない。
たまにアセンションという言葉と抱き合わせで煽る記事(主に週刊誌など)が散見されるが、非常に単発的。はっきり言うと、ちょっとした話のネタに近いものがあり、ほとんど話題にもならなくなってしまった。象徴的なのが、東日本大震災を2012年問題とリンクさせようという意図の本が五月雨式に出てくるかと身構えていたのだが、結局散発で終わり、常識的な対応に終始している。「2012年に地球が滅びる」とか言っても通用しなくなってしまったわけである。
噂は決してなくならずくすぶり続けると思うが、以前ほどの勢いはおそらく戻ってこないだろう。異常現象が頻発すれば話は別であるが。
◆「陰謀論」は世にはびこる
都市伝説はいわゆる「フォークロア」と言うべき個人にまつわるレベルの内容よりも、社会全体を巻き込むような「陰謀論」に近い噂の方が圧倒的に流布していくだろう。おそらく社会不安とか情報媒体の急激な変化など様々な要因が絡んで、近い将来、都市伝説=陰謀論が主流になるとも思っている。ただ現実問題として心配なのは、これらの陰謀論が娯楽ではなく、日常生活において「常識」化されることである(今年はその具体的な例を嫌と言うほど見せつけられている)。ネタで語るのはいいが、真に受けて真実化してしまうと、これほど厄介なものはない。世情不安を煽る形となって、世間から爪弾きされない程度に流布して欲しいと思う。
◆妖怪・UFO・UMAは変わらず
何か具体的な動きがない限り、この3つのジャンルは堅調だろう。良くも悪くも安定している。ただ可能性として、今年「子供向け」の怪談が結構刊行されたのに触発され、この種のものが取り上げられてメディア展開したら面白いだろうな、と言っておこう。児童書から火が点くと、結構長持ちすると想像する。
◆「語り」はますます発展するものの……
ネットラジオ関連はどんどん裾野が広がっている感が強いが、未だ玉石混淆。というより、お互いの足を引っ張り合うことが甚だしく、正直見ていられない(ラジオだから聞くばかりなのだが)。今年も舌禍から訳の分からない中傷合戦が起こっているし、どういうことで仲がこじれたのか解らないほどひどい粘着もある。とにかくかつてあった、サイト同士の内ゲバまがいのやり合いに似た流れになっている。
来年もこんな調子でカオスなまま動くのだろうが、少しぐらいは良い意味での淘汰がなされることを期待したい。現在は良い語り手ほど狙い撃ちされて萎縮あるいは消えてしまうという悪循環的な淘汰の方が目立つし、これが続けば、せっかくの媒体そのものが廃墟のような状態になってしまうと思う。大勢の語り手が切磋琢磨し、より質の高いものが提供出来れば、ますます発展するだろう。来年あたりはそろそろそういう流れが生まれてくるべきだと思うし、仮にそれが相変わらずの中傷合戦に終始するようであれば、結局のところ小規模なセクト主義に陥って、芳しくない未来となってしまうと予測する。
これに対してライブ系の方はしっかりと根を張ってきているように思う。ライブで活躍している人達と言って次々と具体的な名前を挙げることも出来るし、どんどん個人レベルも上げてきているように感じる。完全に1つのジャンルとして定着しつつあると言えるだろう。来年もまた新しい語り部が登場し、一層発展していくことと予測する。
また語り全般については、今まではオリジナルの実体験を語ることだけだったが、怪談話を「朗読する」潮流も出始めるのではないかと想像する(著作権の問題もあるから爆発的な広がりは難しいかもしれないが)。声を使って怪を伝えるという方式には、まだまだ大きな可能性があるように感じるところである。
……ということで、あまり大した予測もなく、どちらかというと希望的観測が多かったような気もする。今年の教訓はとにかく「想定外」の存在であるから、何が起こるやら分からないというのが最も正解のような気がする次第である(身も蓋もない話であるが)。
では「幽鬼の源」は来年も続く……かな?
2011-12-07
■[蔵書]買った本2011.8〜11
最近読書量そのものが落ちてきているし、怪談本に至っては正直ほとんどページを開いたためしがないような状況。しかし読みもしないのに、蔵書蒐集というレベルでは相変わらずの活動をしている。かなり自己撞着の様相であるが、いずれまた憑き物が落ち、本の蟲が騒ぎだしてバリバリ読むことになるだろうと思いつつ。
『怪談実話 無惨百物語 ゆるさない』
『怪 vol.0032』
『お化け屋敷のつくり方』
『岩石を信仰していた日本人』
『黒塗怪談 笑う裂傷女』
『恐怖箱 油照』
『実話“恐怖”怪談―「怖い噂」』
『戦慄!世界怪奇ミステリー』
『帝都妖怪新聞』
『エミシの国の女神』
『稲川淳二のとっても怖い話 』
『FKB実録怪談 厭霊ノ書』
『恐怖箱 超-1怪コレクション』
『女霊は誘う ちくま文庫』
『妖魅は戯る ちくま文庫』
『鏡花百物語集 ちくま文庫』
『百物語怪談会 ちくま文庫』
『奈良の寺社150を歩く』
『京都の寺社505を歩く<上>』
『京都の寺社505を歩く<下>』
『「超」怖い話 怪罰』
『狂奇実話 穽』
『実録 本当にあった警察の心霊事件簿』
『超図解 竹内文書』
『超図解 竹内文書(2)』
『怪談実話 FKB 饗宴2』
『恐怖箱 怪生』
『日本の摩訶不思議』
『ヴィジュアル版 クトゥルー神話FILE』
『世界の拷問・処刑事典』
『泣ける怪談 逢魔が時物語』
さすがに書き入れ時の夏が期間にあると購入数も増える。ということで52冊も買ってしまっていた。
ただ今回の最大のしくじりは、『文豪怪談』大人買いをしたのはよかったのだが、1冊品切れ中という事態に直面したこと。これはさすがに想定外で、大きな宿題を背負い込んでしまった感がある。いずれはどこかでこっそりと購入することになると思うのだが、それまでは我慢するしかない。
ということで、12月を残して、今年も100冊以上の本を買った。何だかんだ言って活発に生きている感じであるが。