2007-03-10
■[超−1]【−3】中古車二題
結論から言ってしまうと、駄目なものを重ねても良くならないということである。
最初の話は自動車のそばで霊を目撃した内容であるが、自称“見える人”の話としてはあまりにもありきたり、この程度であれば日常茶飯事の出来事ではないかという印象である。
しかも目撃したあやかしのディテールがほとんどなく、これだけの情報では本当に霊体であったのか判断は難しい。
結局“見える人”が見たから霊だという、まず結論ありきの傲慢な展開だけが目立ってしまっている。
二番目の話の方も、それに似たり寄ったりの内容である。
同僚の自動車内で霊体を目撃したところまでまだいいのだが、最終的にその中古車の謂われは何であったのか、またその中古車はどうなってしまったのか、正直まともな取材がなされていない。
こちらの方も“見える人”が見たという何の変哲もない話が展開されているだけで、このような怪談話にまで昇華させる必要があるのかと思うような内容である。
そのような特殊な能力を持っている人であれば、中古車以外にも霊体を目撃する機会があると思われるのが当然であるし、この程度の怪異であればしょっちゅう遭遇しているはずだと思われても当然である。
「“見える人”の話です」と言われてこの程度の内容でお茶を濁されれば、怪談マニアでなくとも駄目出しするだろう。
勿論“見えない人”の体験であると主張しても、ほとんど評価は変わらないのだが。
ディテールなき目撃談では、いずれにせよ高い評価は得られないというのが現実である。
■[超−1]【0】カード占い
体験者が目撃したあやかしはかなり気味の悪いものであったことは事実である。
こういうのが見えてしまったら、生理的に拒絶反応を起こしてしまうだろう。
また占った相手に関する情報もあまり気分のいい内容のものがないので、全体的な雰囲気の悪さが怪異を語る上でプラスに作用しているようにも感じる。
要するに“厭な話”のエッセンスをかなり含んだ作品として評価できるという印象である。
だがその雰囲気をぶち壊すのが、体験者の講釈である。
最初に置かれたカード占いに関する蘊蓄は、喩えるならばテレビショッピングの宣伝を見ているような気分にさせられた。
この種の事柄に関心を持っている人には興味深い内容であるかもしれないが、怪異に遭遇するきっかけとしての情報としてはあまりにも冗長であり、しかも体験者の占いが如何に素晴らしいのかを喧伝しているとしか受け取れない。
下手をすると、この話自体までが体験者のカード占いの腕の良さをPRするためのものではないかという穿った見方ができるように思うのである。
そして体験者が見たあやかしについての解説も、同じ流れから言って悪印象に映る。
占いをよくする人から超常現象に関する発言があれば、それが憶測の域が出ないものであったとしても、霊能者のご託宣同様、「正解」とせざるを得ないだろう。
特にここまで畳みかけるように語れば、一般人の推測では済まされず、ある種の結論を導き出させる強引さを感じてしまう。
占いという、超常現象と深く関わりのある技能を有した人の体験だからこそ、その部分を極力表に出さずに“あったること”としての怪異だけに焦点を絞って書いた方が、読者を惹き付ける作品に仕上がったのではないだろうか。
いわゆる自称“見える人”の体験談が自慢話のように見えるのと同じマイナス効果が作用してしまったように思う。
今回は敢えてその部分を厳しめに評価させていただいた。
■[超−1]【+4】ごす
読んでいる途中で「何かオチがある」と予感していたが、それを遥かに上回る強烈な一撃であった。
これは一本取られたとしか言いようがない。
さすがにガテン系オヤジのゴスロリファッションはイメージしたくないところだ。
ただ、このようなインパクトの陰に隠れながれも、怪異の現象としても非常に興味深い点がある。
幽体離脱のケースは数限りなく語られているのだが、服装については普段着あるいは自分が持っている衣装に限定されているのが大抵である(たまに特別なものもあるが、それは“白装束”である)。
だからゴスロリファッション(女装)に特定される服装を身につけた形で幽体離脱するケースは非常に珍しい。
そして幽体離脱した者がマジックを持って落書きするというのも、まさに珍事である。
言うまでもなく、落書きしたことよりも、幽体離脱した存在の者が物理的に物体を手にすることが出来たことの方が貴重なのであるが。
幽体離脱という超常現象の中ではありきたりの部類の内容でありながら、ここまで特異性の高い内容は瞠目に値すると言える(夢では済まされない物証がある点も見逃せない)。
また最初に述べたように、怪談話(オチ付き)としても出色の出来と言えるだろう。
花も実もある、なかなかの好編である。
■[超−1]【+3】赤い猿
幼い子供が怪異の体験者というのは、いろいろな意味で最も恐ろしい事象であると思っている。
大人が目撃者であればそこに何らかの脚色や誇張があると思うのだが、子供の場合はそのようなフィルターがない分だけ怪異がダイレクトに訴えかけてくる。
しかも理性が感情を抑えつけることがないから表現がストレートであり、それが却って大人の理性を根底から揺さぶることになる。
この作品の最大の魅力は、このような子供のストレートな部分を包み隠さず書ききっているところであろう。
白い服を着た赤いお猿さんが窓の外に浮いているのを、自分の目の前にいる子供が見ているという構図は、もしかすると自分自身がそのようなあやかしを直接目撃している状態よりも恐怖心に駆られるかもしれない。
まさに“見えないものへの恐怖”が凝縮されていると言って間違いないだろう。
無邪気に怪異を語る子供の証言は、純真であるが故に疑念の余地を挟むものがない分、そこに何かが存在しているという確証を生み出す。
特に怪談話として語られている場合はなおさらである。
ここでも『おさるのジョージ』と書いている段階で、すでに恐怖へのスイッチが押されてしまっている。
そして秀逸なのは、その直後に描かれた子供のリアクションの精確な描写である。
ここでギクリとこなかったら良い怪談の読み手ではないと思わせるほどの巧さである。
ただ残念なのは、最終的に作者が【大人の解釈】で話を終わらせてしまった点である。
つまり、“子供の目撃したもの=お猿さん=死んだ赤ん坊”と理性的な言語感覚で怪異を解釈処理してしまったために、読者の多くがそれに誘導されて違和感を覚えてしまった。
子供の持つ言語表現能力を大人のものと混同して解釈を施せば、しっくりとこない部分が出てきて当然である。
むしろ“投げっぱなし”風に、隣家の赤ん坊が昨日亡くなったという事実だけを書いて終わらせてしまった方が良かったかもしれない。
そうすれば、多くの読者は言語による概念イメージではなく、ビジュアル的なイメージが先行し、子供の目撃したあやかしをもっと正確に捉えて再現することができたのではないだろうか。
直観的であるが故に、子供の目線は無批判的に受け入れることが出来る反面、合理的な解釈を受け付けない部分があるということなのだろう。