2007-03-30
■[超−1]【−3】お気に入り
特定の服の飾り物が失せたと思っていたら戻ってくるという内容は、最後のボタンのエピソードで辛うじて怪異とみなせるところにたどり着いたように感じる。
房飾りの件は色々と書かれているが、体験者本人も感想を述べている通り、偶然の産物と捉えても文句は言われないレベルであるだろう。
読者から見れば、ボタンの怪の部分をもっとクローズアップさせて、ディテールやさらなる状況説明が欲しいと感じるところである。
ここで問題になるのが、体験者の感覚とのずれである。
体験者から見れば、これらの不思議はコートの房飾りに原因があるという見解であることは疑う余地がない。
実際この書き方であれば、体験者がこの毛皮の房飾りに非常な愛着を感じていることが十分わかる。
ところが怪異の中心はボタンであり、第三者である読者から見れば、体験者の思いは的外れにしか見えないのである。
もし仮に怪異が房飾り一辺倒であれば問題はない。
だが全く違うパーツが怪異の肝であり、しかもその際に房飾りが全く絡んでこないため、贔屓目に見ても房飾りが何かを引き起こしたという印象はない。
この体験者と読者との見解の乖離を、処理すべき作者が埋めようと努力していない。
怪異の肝がボタンのエピソードであるという認識で作者自身が書いていると思える構成なのに、最初の部分では体験者同様房飾りに焦点を当てすぎている。
この場合、体験者の問題というよりも、書き方において怪異の肝が見通せなかった作者に非があるだろう。
体験者の感情を抜きにしても成立する怪異である筈なのに、作者が誤った方向付けをしてしまった感が強い。
“あったること”として怪異を書けば、それなりに評価できる作品であっただろう。
■[超−1]【−2】フネさん
この作品も既成のイメージを援用して描写を展開するパターンであるが、結局はそれが怪異の肝の足を引っ張る結果となってしまった。
今回援用される既成イメージはあやかしの容姿ではなく、一般的な人物像であるので、怪異や恐怖感の創出を他者に依存する最悪のパターンとは一線を画すると思う。
だから“フネさん”を描写の手段とするのは、極端なマイナス要素とは考えない。
だが、タイトルにまで掲げ、この短い文章中で8回も連呼する作者の姿勢には疑問を持つ。
“割烹着に緑のゴム手袋”という異様な風体をきちんと描写しているにもかかわらず、なぜ“フネさん”という既存のアニメキャラクターに依存するのか、全く理由が分からない。
しかもこのキャラクターがほのぼのとした“癒し系”であるが故に、異様な容姿をしながら違和感を感じざるを得ない状況に陥ってしまった。
つまりこの作品は怪異を狙ったものなのか、それとももっと別のものを意図した内容なのか、悪い意味で中途半端な作りになっているという印象が強いのである。
既成のイメージは共通認識が確立しているために、非常に強烈な“刷り込み作用”がある。
たった一言で、ほとんど体を成さない存在の輪郭を形作ることが出来るほどの力がある。
だが、そのイメージが過剰に強調されると、作者自身がコントロールできないほど固定化された存在になってしまう。
この作品では、この過剰な表記によってあやかしの持つ異様さが完全に殺されてしまったと判断する。
さらに加えて、母親の証言によってあやかしの“緑の手袋”の由来も判明してしまい、面白くも何ともない作品に堕してしまった感が強い。
とりあえず作者の意図が見えてこない作品ということである。
■[超−1]【+1】車椅子
祖父と祖母の間に相当の確執があることを匂わせながら、最後までそれが何であったのか分からずじまいで終わってしまった。
この作品の場合、この部分が最も重要なカギを握っているのは言うまでもなく、この情念がなければ一連の祖父の行動と車椅子の怪異とが因果的に結びつかないように思う。
祖母は祖父に対して怨みを抱いて亡くなり(車椅子の生活を余儀なくされたのが祖父の原因であると思い込んでいたと察する)、それに対して祖父を思い当たる節がある故に、壁のシミを消したりするおかしな行動を取ったのだろう。
物置の置かれた車椅子の怪異であるが、物置から消えたり、また車椅子が破壊されていたりしたのは、まず間違いなく祖父の仕業であると推察する。
多分祖父は車椅子の存在を疎ましく思い、どこかに持ち出して潰したのだろう。
しかし物置から車椅子の音が聞こえたり、それがいつの間にか戻ってきたことは純粋に怪異である。
戻ってきた車椅子を見た途端に祖父が体調を崩したのも、消えた真相を知っていたから、そして祖母の怨みの深さを現実に体感したためであると考えた方が妥当だろう。
このように読みとることが可能なのであるが、これが個人的な推測の域を出ない。
結局、この作品ではそれらに関する示唆すらも出てこない訳で、そのあたりが読者を悪い意味ではぐらかせてしまっているように感じる。
それでいながら体験者の話しぶりを見ていると、これら一連の展開について確信的な因果関係があることを家族全員が知っている印象が強いのである。
例えば、ボロボロの車椅子を見たのが引き金になって祖父が体調を崩し死に至る(しかも1年という時間経過があるにもかかわらず、これが原因であると断定している)、体験者が「あまり可愛がってもらっていない」と告白する部分などは、“何かを知っている”と思わせるに十分な表現であろう。
淡々とした書きぶりの裏で厭なぐらいドロドロとした情念を感じさせる作品であるが、それが表面にまで滲み出てこない印象の方が強くなったために、どうしても評価を上げることができなかった。
書きようによっては相当なインパクトを持ったものに仕上がっていたかもしれない。
■[超−1]【+2】関羽
神様が視線を注ぐという話は、既に指摘がある通り、昨年の『不動心』と同じパターンである。
しかし内容の点で、どうしても『不動心』よりも落ちるという印象である。
一言でいえば、神様として関羽の様子があまりにも神様然としているからである。
“神様系”の話の場合、強烈な神威を見せる(ご利益でも祟りでも可)系統と、神様らしからぬリアクションをやらかしてしまう系統が、傑作の部類として評価されていると思う。
この作品の場合、関帝は強烈な結果を出す訳でもなく、かといって羽目を外すようなこともしていない。
希少な体験であることには変わりないのであるが、“神様系”怪談としては「さもありなん」というところで終わってしまっている感が強いと言えるだろう。
どうしてもネタの内容なので不満を言っても仕方がないのだが、傑作と呼べる内容ではなかったということである。
構成であるが、最初に関帝廟の参拝方法を書いたのは、可もなく不可もなくというところだろう。
決して冗長であるとか無駄というレベルではないように思う。
あまり馴染みのない神様ということなので、個人的には書かれていた方が良いという意見である。
この作品で一番小気味よいと思ったのは、体験者が怪異に気付く瞬間の表記であろう。
この部分があっさりとしながらも、非常にインパクトのある書きぶりであったことが、きれいに話がまとまった原因のように思う。
怪異のネタに適したいい書きぶりであり、小品としてはなかなかの出来だろう。