『てのひら怪談 2』作品評の三

『食卓の光景』
急死した人の霊は、まだ自分が死んでいることに気付かず、日常の生活を繰り返すように現れることがある。この類の霊をモチーフにした作品であるが、とにかく家族の反応の記述が素晴らしい。家族の幽霊を見たら多分こんなリアクションになるであろう描写が立て続けに書かれており、またその一つ一つの行動から亡くなった父に対する家族の思いが伝わってくる。またそのような家族の気持ちを察することなく、淡々と日常を繰り広げる父親の霊の言動も、自身の死すら気付かないものの霊らしいと言えるだろう。劇的という大げさなものではないが、リアリティーのあるしっかりとした展開になっている。
だが最後の部分、黄身が2個入っていたという表記以降がどうもしっくりと来ない。何かしらの予定調和的なものを見いだそうとしているように思うのだが、飛躍しすぎてはいないだろうか。特に奇妙な家族の団欒風景が日常的であればあるほど、そのギャップを感じざるを得ない。むしろ日常の光景だけを切り出して読者に提示した方が、怪談としての完成度は高かったと思う。必ずしも怪異に対する解釈が必要であるとは思わないし、それが却って怪異現象を色褪せたものにする危険性もある。勇み足という印象である。


『二〇〇七年問題』
どちらかというとショートショートっぽい印象はあるが、いわゆる“落語怪談”のスタイルである。「生霊」という言葉が出てきた段階で最後のオチに気付いたのであるが、掌編であるが故にほとんどタイムラグなしにオチにたどり着いてしまった。このタイミングの良いキーワードの出し方が、この作品の成功部分であると言えるだろう。また生霊というものの性格(執着した物や場所に憑く)を上手く処理しているのも好印象である。
ベタな笑いではあるが、時事の話題と怪談を絡めたというところで、なかなか意欲的と評したい。アイデア勝負で、そつなくまとめられていると言えるだろう。小粒ながらピシッとした印象を持つ、面白い作品である。


『客』
“文芸怪談”という言葉から私がイメージする作品の理想型であると言っても間違いない傑作である。漠然とした緊迫感の中で淡々と流れていく展開は、表しようのない静寂さの中に潜む不気味さが際立っており、具体的な怪異よりもその雰囲気に呑まれていくことの方が恐ろしく感じる。
霊体である客の女の様子、そして私に精神的圧迫感を強いる母親の態度は、短い言葉ながら具象性に溢れており、作品全体の色調を支配することに成功している。特に霊体の後ろ姿を描写した部分は、実話怪談で体験者が語る証言よりもリアルで生々しさを感じてしまった。とにかく、言葉によって明瞭なイメージを作り上げるだけでなく、言葉そのものによって作品の空気を構築することの凄味に圧倒されてしまった。
そしてその最も強烈な仕掛けとしてあるのが、この怪異の観察者である“私”というフィルターである。言うまでもなくこの作品は“私”の目線で語られる、主観性の高い内容である。ところがこの主観が一見冷静に見えるのだが、読んでいくと異常なまでに歪なものの見方をしているのではないかという疑念が生じてくるのである。成人であると推測されるが、歓談中に“こっそり立ち上がって”みたり、客がいなくなると“部屋をぐるりと巡って”みたり、かなり精神的に不安定なキャラクターに描かれていることがわかる(電話に出ていって部屋に戻ってくるまでのタイムラグも、もしかするとそのような異常行動に由来するものかもしれないと邪推したくなる部分である)。かなりうがった見方かもしれないが、この異様なフィルターから見ている光景であるが故に、ストーリー全体から不安定感が滲み出てくるではと思ったりもする次第である。実話怪談ではこういう主観が入ってくること自体を拒絶する傾向があるが、創作怪談であるとそれをフルに活用できる強味を見せつけた点も非常に評価できると思う。


『気配』
この作品がもし実話怪談のコンペティションに出されたならば、間違いなくとんでもない酷評を受けることは明らかである。まず怪異そのものの成立根拠が具体的な現象としてでなく、体験者個人の感覚だけでしか提示されていない。要するに、単なる思い込みレベルのものでしかないという、厳しい目に晒されることになるだろう。しかもそれが夢オチの可能性も否定できないとなれば、まさに踏んだり蹴ったりの様相を呈することになる。実話怪談レベルで言えば、最も忌避しなければならない問題を孕んでいると言ってもおかしくない。
では創作怪談として見ればということになるが、やはり“体験談”の域を出ない表記に終始しており、何かしらの技巧的な工夫を感じることが出来なかった。特に“古い知人”でありながら“懐かしいと思えない”というような相殺文の表記が多用されており、それが却ってこのストーリー全体の悪い意味での曖昧さを助長していると思う。結局、創作作品としては、実体験だけでは得られないような何かを加味できなかったという点で、低い評価を出さざるを得ないだろう。いずれにせよ、残念ながら、何か中途半端な作品という印象しか残らなかった。


『女』
純粋な創作ではなく、何らかの体験(本人によるもの、あるいは体験者から直接取材したもののいずれか)を元にして書かれたのではないかと推測している。それほどこの霊体についての表記にリアリティーがあり、生き生き(?)と活写されているという印象である。霊体の様子を簡潔な文で冷静に描写している点が、この作品の魅力であると言っていいだろう。加門七海氏が推すのも肯けるところである。
“見える人”にとって当たり前のことを“見えない人”にどう伝えるのかが、実話怪談を記す時の骨法の一つであると思っている。実際“見える人”が自身の体験を書くと、非常に雑になったり、あるいは主観的すぎて読者が置いてきぼりを喰らうということがよくある。自分の目の前で起こっていることを的確に伝えるには、相当な修練が必要なのである。それ故に、ここまで徹底して霊体を描写する(あるいは実際に“あったること”と読ませる)力量は大したものであると思う。創作・実話かかわらず、良くできた作品であると言えるだろう。


『伝手』
霊の目撃も含めて神秘体験を語る場合、微妙なバランスが必要となる。このような体験が非常に主観的なものの見方に支配されがちであるという事実、しかしながらその事実が通常の体験談よりも遙かに高度な客観性を持たなければ成立しないという現実である。常識外れであればあるほどネタとしては面白いのであるが、同時に胡散臭さも増大するというのが実際のところである。実話怪談を語る場合、このジレンマをどのように解消すればよいかを模索し続けているというのが実状であると言っても、あながち間違いではないと思っている。
この作品も前半部分だけを取り上げれば、主人公である私の主観的独白に終始しており、その取り留めのない語りはまさに“電波”と言われてもおかしくないような内容になっている。実話怪談でなく、創作としてもあまりにも独りよがりな展開になっていると言えるだろう。
ところが、後半から一転して視点が逆転する。つまり生きている側から死者の側への立ち位置の変換である。この目線の移動が、作品全体を予定調和的に支配することになる。異常な独白部分であった前半に対して、霊となった存在が全ての謎を解き明かすという形式で、その毒を中和させていると言っていいだろう。創作でしか出来ない手法(死者が語っているわけだし)であるが、なるほどと納得のいく解決方法だという印象である。
それにしても、霊体となってからの感情の発露は、本当にそれを体験したのではないかと思わせるほど、切なくて悲しいものであった。“成仏出来ない”という状況を的確に表現した内容であると感心してしまった。


蜘蛛の糸
タイトル通り、芥川龍之介の作品をパロディ化した怪談。しかしパロディにしたというだけであって、そこから得られる不可思議感や恐怖感といった負の感情もなく、また人なつっこい親しみといった好印象もない。ただひたすらシチュエーションを同じにしたストーリーが展開されているだけの内容である。「怪異を通して人を語る」のが怪談の妙であると見るならば、この作品は決して“怪談”と呼ぶに相応しいものではないと思う。実話怪談のように“あったること”を描ききることに目的があるものであれば、このような淡々と事実の展開だけを追った内容であっても許容出来るのであるが、創作としてはあまりにも無味乾燥に過ぎるのではないだろうか。


『夜泣きの岩』
怪異伝承を中心に、人間関係のドロドロとしたもの(ただしその理由は全く不明)を書ききったように感じる。特に“友人”の悲惨な末路を見透かしたような“私”の最後のコメントなどは、二人の関係が明らかでない分、非常に厭なものを連想させてくれる。
だがその予定調和的なコメントがあるが故に、ストーリーが破綻している部分がある。このコメントを読めば読むほど、友人が捨てた子供だけでなく、過去の全てと言っていいほどの赤ん坊を産み続けて狂死する展開を“私”が最初から知っていたように見えてしまう。自分の子供だけを産み直してしまうという内容であればまだしも、過去の子供までを産みだしてしまうことを“私”が知っているというのはかなり無理がある(そういう状況に友人がなると、あたかも記録からカウントしていたとしか考えられない展開である)。怪異としては強烈なインパクトをもたらしてくれる内容だとは思うが、ストーリー自体に妙な飛躍を与えて、不自然な状況を作り出してしまうのはいかがなものであろうか。むしろ未必の故意のような調子で「時々こういうことが起こるのよねぇ」みたいなコメントでも十分だったのではないかという気もする。日常的なストーリーで展開する創作怪談の場合、展開の飛躍に対する整合性を維持することが最も肝要である。そうでなければ、悪い意味での引っかかりが生じて、折角の雰囲気が壊れてしまう恐れがあるだろう。


『カミソリを踏む』
痛みや痒みといった触感にまつわる怪異の成功の鍵を握るのは、まさに筆力であると言えるだろう。いくら素晴らしい着想であったとしても、痛みを感じさせるような記述がなければ、目的は達せられたと言えない。その点でいえば、この作品の痛さ感は並ではないと思うし、しかも身体が真っ二つになってしまうほどバラエティーに富んだ各部位における痛さをこれでもかと提示しているから、相当質感のある恐怖に仕上がっていると思う。
延々と続く“剃刀の道”というベタなシチュエーションも、ラスト2行の繰り返される風景という状況の陳腐さも、連続する痛さの描写の前では気にするような内容ではない。いたぶられるように切断されていく肉体の描写を読み、自身の身体にその感触が伝播したならば、それでこの作品は高く評価されるべきであろう。個人的にはもう少し長い展開でネチネチと切り刻まれていくさまを書き続けた方が好みなのであるが(理想的は江戸川乱歩の粘着質の文体で)、800字という制限の中では十分出し尽くされたという感がする。圧倒的な力強い作品であると言えるだろう。


『迦陵頻伽−極楽鳥になった禿』
いわゆる美文調で朗々と綴られた文体が特徴の作品である。しかも江戸期の史実をモチーフにして、絢爛とした内容に仕上げていると思う。だが残念ながら、その内容は華美であるが空疎であり、ただ単に成仏出来なかった花魁を、なぜか仏の化身とも言える極楽鳥となった禿が引導を渡す情景が描かれているだけである。ビジュアルとしては非常に豪華(装飾的な美文調がそれを余すところなく描ききっている)なのだが、結局、登場人物のセリフがあってもそれが芝居がかっていて感情移入しづらいため、余計に内容の弱点が強く感じられるのであろう。
こういう様式美を備えた作品の場合、掌編形式であると、どうしても形式的な部分だけが突出して内容的な部分に焦点が集まらないというきらいがあるのではないだろうか。やはりたった4行のあらすじで経緯を説明するのには無理があると思うし、それが史実に基づいた有名な芝居を土台にしていても、結果は同じことであるだろう。そしてその内容の薄さが、この作品を怪談の範疇から除外させるよう作用しているように思えてならないのである。