『寂しさの行方』

いわゆる“見える”人に焦点を当てて、その心情を吐露させる展開である。怪談を愛好するが自身は霊感を持たない人間にとっては、ある意味興味津々、ただし決して理解しようがない世界でもあるわけで、非常に重い気分にさせる内容である。この作品は、そのような部分を見透かしたように、ウエットな文章で書かれており、ことさらに体験者の張り裂けそうな気持ちを強調して押し出している。しかも体験者は中学3年生の女子。このような特殊な能力がなくても多感な年頃であり、また他人との違いを完全に受け止められずに苦悩する年代である。否が応でもセンシティブにならざるを得ない内容であるだろう。そのあたりをベタベタなぐらい衝いてくる作品である。
この“見える”人の苦悩と言うべき心情を余すところなく書き連ねた作品が、かつてこの【超−1】大会で登場している。第1回の覇者の一人、後に松村進吉となるロールシャッハ氏の作品である。個人的な感想になるが、この松村氏の作品を凌駕するものは未だに大会に登場したことがないと思うほどの衝撃を味わっている。“あったること”を描くためには体験者の個性を出来るだけ表出させるべきではないという考えを根底から覆された作品であり、この一作を以てして「新しい血」というイメージを確立させた作品である。比較対象とするにはやや酷であるとは思うが、あまりにもコンセプトが被ってしまっており、どうしてもこの作品を独立させて評することが出来ないと思うが故に、敢えて比べながら書いてゆきたい。
この作品の特徴は、ウエットさの度合いが高い、要するに読み手を徹底的に感傷的な気持ちにさせるようなレトリックを駆使している点である。体験者の心情を間接的ではなく極力ダイレクトに表現したり、また対句や反復的な表現を用いて詩のように叙情的な文章を紡いだりする。さらに説明的な描写文と比べると、非常に短い言葉でカツンと当ててくる感じがする。意識的に読者に読ませようとしているのがよく解る表記であると思う。しかしこのストレートに意図された表記が、却ってあざとさを感じさせるのである。分かり易すぎて、書き手の誘導しようとする目的が明け透けに見えてくるのである。そしてそのような過剰な演出が複数登場してくるために、少々白む印象を避けることが出来なかった次第である。
そしてもう一つ、松村氏の作品と比べて弱さを感じた部分がある。メインとなる体験における奥の深さである。この作品では、死んだものの魂を貪るようなあやかしが登場し、それを目撃することで誰かが亡くなっていることを察知するが、結局自分の力ではどうすることも出来ないという悲しみに直面する。それに対して松村作品では、子供の霊体を目撃し、その目的を察するに至るが、結局何もしてやることが出来ない無力感を覚えるという展開となる。両作品とも“見える”能力を持っているが故の悲しみがメインであることには違いないのであるが、松村作品ではそれに加えて、出現する霊体の悲しき業というものまでを浮き彫りにして、読み手にさらなる強烈な追い打ちを掛けている。生者も死者もそれぞれに因業深いものを背負わせて描ききっている分だけ、松村作品の奥深さは際立っていると言うしかない。
レアなコンセプトであり、しかも丁寧な書きぶりでしっかりと読ませている作品である。当然評価すべき点は多い。しかしながら、レアである分だけ、似通ったコンセプトで傑作が過去に存在すると、どうしても比較の対象とならざるを得なくなってしまう。結果的にこの作品の場合、あくまで個人的な意見ではあるものの、この比較の網に引っかかってしまったと言うしかない。
【+3】

『青い顔の男』

相当長い作品であるが、思いの外すんなりと読めた。文章が読みやすく、またストーリーそのものは長いが各エピソードがきちんと分けられているために、大きなストレスを感じなかったせいであるだろう。結構硬派なタイプの文であるが、重さを感じさせることはなく、むしろ安定感のある文の流れが出来ており、「実話」というよりもむしろ「実録」というハードボイルドな印象が強く残った。まとまった文章を書く経験が豊富にあり、しかも説明調の硬い文章を書き慣れているという感がある。個人的には案外好きなスタイルの文であるので、余計によく読めたところである。
この作品の一番の問題点は、文章の長さと怪異のネタのバランスである。正直なところ、ここまで長大な文章にして読み手を引っ張っていくだけの強烈なネタであるかの評価が、非常に微妙なのである。怪異の元凶と言うべき人物が未だにネット上を徘徊している可能性が大きい、ほぼ現在進行形の話であり、またSNS という限られた空間での話で、下手をすると登場人物の全てが特定できる危険もあるような、非常に生々しい話でもある。それ故のギリギリの際どい怪異譚、ある意味、書き手自身も体験者(話の提供者以下、この作品に登場する人物の全て)もこれを機に何らかの報復を受ける可能性もあるし、今は無縁でも今度何かのきっかけで同じ目に遭う読み手もあるかもしれない、そういう意味合いで相当怖い話であるという印象がかなり強い。この側面で言えば、硬派な文調のこの作品は、強烈なリアル感を生み出すことに成功しており、読み手に恐怖を与えるものであると言えるだろう。特にこの小沼なる人物の造型は際立っており、このキャラクターを確立させただけで十分な恐怖譚として成立しうるという意見である。
しかし、純粋な怪異の現象を見ると、また違った一面を見せる。要するに、文章の長さの割に起こった超常現象が月並みであるという弱点である。不思議な者が写った写真をはじめとして、客観的に怪異が起こったことを示す小道具は揃っており、怪異を体験した人間も複数あるため、怪異そのものに対する信憑性はそれなりに確保できていると思う。しかしいずれのケースも小粒な怪異であり、結局、大ネタ作品にあるような読み手を震撼させるような怪異については不発であるとしか言いようがない。以前から指摘しているように、小粒な怪異をいくら積み上げても怪異の沸点を作り出すには限界があり、その沸点の低い場合は、文章をやたら引き延ばすことは怪異のインパクトを薄めるだけで効果がないという意見である。この作品の場合も、純粋に怪異で勝負するとなると分が悪い内容であり、そうなるともっとコンパクトに作品をまとめる必要性があったのではないかという気もする(たとえそれが小沼という恐怖の的を作り上げる目的であったとしてもである)。
この作品は、一長一短が明確であり、結局読み手がどちらの印象になびくかによって評価は分かれると思う。作品全体に覆い被さる恐怖の雰囲気か、あるいは現象としての怪異の積み上げかである。前者を取れば高く評価できるだろうし、後者を選べはあまり良い印象は出てこないだろう。個人的には、「実話」である以上は怪異の内容を付け足しすることは出来ないが故に、作品全体を支配する雰囲気を構築させた書き手の筆力を評価したいと思う。ただし怪異そのものの弱さは否めないために、やはり大ネタの作品に付けるべき評点まではいかないというスタンスである。1冊の作品集で言えば、中間部分に挿入して読者を締める感じのネタに当たるのではないだろうか。それなりに良く出来た作品であると思う。
【+3】

『ひゅ。』

高齢者が子供時代に体験した、ノスタルジックな怪異譚である。戦前から高度成長時代が始まる前ぐらいまでの時期にあった体験談ということで、ある種“古き良き日本”を彷彿とさせる内容が多いのが特徴である。以前「戦争怪談は希少。特に戦場の怪談は、体験者の高齢化に伴い、近いうちに証言者自体が絶えるだろう」と主張していたが、この戦争怪談の次に登場してきた希少種と言うべき存在である。この作品も、体験者が現在70歳であるが、1950年代に幼少期を過ごした人々はまもなく70代になろうとしている。平均寿命が85歳前後ではあるものの、時代風俗に関する証言保存も併せて、そろそろ積極的に採話すべき段階に入ってきているという思いがする(昨今の怪談本を読むと、この時代に属する体験談が少なからず掲載されていることが多い。この傾向は個人的には非常に喜ばしいことである)。
作品であるが、子供時代の強烈な印象は記憶に残りやすいと言うべきか、非常に細かな部分まで証言が及んでおり、体験談としての価値は高いと思う。作品の展開はあまり奇を衒ったものでもなく、体験者がそれまでに知り得た噂の情報を提示し、その秘密を知るに至る顛末を時系列的に書くというオーソドックスなものになっている。体験談の展開に飛躍がなく、それでいながら、体験したあやかしの内容からさらに後日談としての不可解さを強調する事実まで、読み手を適当に刺激する内容を小出しにして引っ張ってもいる。一文あたりの語数が少なく、テンポよく読ませることが出来ているという印象である。また書き手の文章に対する配慮も行き届いているという感じであり、例えば語尾について言えば、現在形と過去形の語尾を適当に織り交ぜて、単調にならないような工夫をしていたりもする。さくさくと書いているようで、かなり細かな部分まで気を遣っていると思う。
ただし、あくまで個人的な意見になるが、最後の部分がどうしても引っかかった。怪異譚でもあると同時に怪異の内容のエロティックさ故に、体験者からすれば『ヰタ・セクスアリス』的な側面を持っているわけであるが、最後に書かれている体験者の現在がどうも作品全体から乖離しているという印象なのである。結経、この最後の発言は、ファインダーをのぞきこんで写真を撮ることを生業としている事実を、体験と絡めてユーモラスに語っているだけのことである。そこまでに体験者のキャラクターについても言及しておらず、この職業に関する話はあまりに唐突すぎるし、最後に付け加える意図が全く不明確である。不謹慎な話になるが、仮に体験者がこの強烈な怪異体験を通して、本当に奇異な性癖を持つようになったとすれば、それは本題の怪異との繋がるだろうし、最後の締めくくりとしての整合性もあると言えるかもしれない。しかしこの作品のような終わり方は、やはり取って付けたような印象しか残らない。“のぞき見”というキーワードで一見結びついているようには見えるが、結局は強引にこじつけているだけとしか受け取れなかった(体験者自身の言ではあるが、怪異に対して本質的ではないコメントである)。とにかく個人的には、全体的な基調であるノスタルジーを活かすような締めくくりであって欲しかった次第である。あるいは、1行目で提示された“70歳”という表記を削ることで、最後の最後で年齢を種明かしするという意図で書かれていったいれば、これはこれで得心のいく構成であったと思う。
怪異体験そのものは優れた内容であり、それを忠実に再現した、読むに耐えうる作品であると思う。ただし最後の部分で蛇足と言われてもおかしくないようなトピックを書いてしまったと思う。高評価であるが、高水準までは至らずということで。
【+3】

『レイアウト』

いわゆる“業界怪談”の典型的な話である。しかもグラフィックデザイナー関連の怪談話ではほぼ都市伝説化しているような鉄板の話である。ストーリーを読むか読まないかのうちに、おおよその展開を想像することも出来たし、実際その範囲で全てが展開してしまっている。怪異そのものとしては取り立てて珍しさもなく、むしろあまりにもストレートな内容であるためにかなり拍子抜けしてしまったというか、作品単体での評価をするのが憚られるレベルと言ってしまっても良いと思った。
そして一番の問題は、このありきたりな怪異を実に冗長な文章で編み上げてしまったために、まどろっこしい印象だけが強烈に残ってしまった点である。業界怪談にありがちな専門用語や仕事内容に関する事細かな説明から始まっているが、結局、その前置きから会話の連続となってしまっている。大ネタの作品であれば、これもまた嵐の前の序章と言うべき、ある種の雰囲気となるのであるが、ただ説明がもたついているという印象で終わってしまっている。書き手が勿体ぶって書いているだけと指弾されてもおかしくない、内容と不釣り合いな展開であると言えるだろう。要するに、体験者の新人時代の話であり、完成データの一部修正という変わった依頼、さらに不思議な作業条件がついており、依頼主も判らないという謎だけが提示されていたら良いわけである。会話によるやりとりでややこしい説明を簡潔にする技巧もあるとは思うが、この作品の場合は、怪異そのものの小粒ぶりを考慮すると、逆に箇条書きに近い説明であっさり済ました方が適当であったという意見である。
さらに、体験者が怪異に巻き込まれていくプロセスも、怪異の割に冗長である。最初に注文された“べからず”の誘惑に負けて、ついついタブーの部分に入り込んでいく心理的描写としてはそこそこ読ませるとは思うものの、結局ここでも怪異の内容と比べると何となく大仰という読後感を持ってしまうわけである。丁寧な描写はあるに越したことはないが、ただそこまで強烈な怪異でない場合に一気にそのスタイルで畳み掛けてこられると、どうしても怪異そのものが描写に負けてしまうのである。もしこれが、読み手の予測を超える、また類例を見ないような結末を迎えるような怪異であったとすれば、この丁寧な書きぶりは決して悪い方向に向かうことはなかったであろう。例えるならば、外観は立派な建物であったとしても、そこに展示されている品物が貧相であれば、品物本来の価値よりも落胆することになるのと同じ心理が働くと思う次第である。特に実話怪談の基本的な価値は“あったること”としての怪異であり、いくら絶妙な文章で飾ったとしても怪異の弱さを覆い尽くせるものではないだろう(作品を支配するアトモスフィアとか情緒といった感覚的な印象を決定づける言葉を散りばめるといった趣向であれば、言を尽くすことによる怪異との相乗効果は有効だとは思う。しかしこの作品のように、説明的描写をいくら微に入り細に入り積み重ねても、怪異そのものの弱さをカバーするのは難しいだろう)。
むしろこのような都市伝説に近いような怪異譚である場合、その信憑性を引き寄せるための言葉を重ねていく方が、もっと有効的だったように思う。例えば、パンフレットのレイアウト内容についての説明描写については、このぐらい丁寧に書かれていても厳しいとは感じなかったし、ある種のリアリティーを獲得するのに効果があったという意見である。許される範囲であれば、この旅館についての情報などがもっとあってもおかしくない(旅館が現在でもつぶれていないという証言が出来るのであれば、日本のどのエリアにあるのかなど、もう少し具象性のある情報は出せたのではないかと推測する)。体験者の細かな心理描写よりも、このデータが実在することを証明するための情報の方が、この作品では必要だったのでは亡いだろうか。
怪異のレベルに合わない勿体ぶった書き方という印象が強いため、どうしてもマイナス評価とせざるを得なかった次第である。ただ適切な書き方となったとしても、可もなく不可もない内容であるという評価でもある。
【−1】

『GAME』

臨死体験を扱った怪異譚であるが、完全に書き方を誤ってしまっていると言えるだろう。実話としての信憑性というものを、書き方によって全て失っているという意見である。
臨死体験(あるいは幽体離脱)を語る場合、一番大きな問題は“信憑性”をいかにして獲得するかである。臨死や幽体離脱をしている場合、体験者は覚醒した状態の意識レベルでは全くなく、ある意味夢を見ているのと全く同じ状態にある。つまり、本当に超常的な体験をしているのか、あるいは夢を見ているのか本人自身すら判らない状況なのである。もしかすると意識を失っている間に見た夢である可能性も十分あるわけである。そこで必要とされるのが、誰もが否定することが難しい、客観的な証拠になる。例えば、意識を失っている間に第三者の間で起こった特殊な出来事を“臨死体験”中に目撃して、体験者が明確に言い当てたなどの事例。あるいは“臨死体験”中に全く出会ったこともない親族縁者に遭遇して、関係者に言伝を頼まれるなどの事例。要するに、体験者が意識を失って臨死状態で見聞した情報が、客観的に事実として他者にも物理的に証明されるような内容がなければ、体験者が主観的に見た夢であると否定されても致し方ないのである(特に臨死体験は科学的な研究対象として、かなりのサンプルが集められ、精査されている。そのため非常に厳格な条件をクリアしないと、臨死体験の「事実」として認められないだろう)。
この作品の場合、まず臨死状態で体験者が垣間見た情景に関する情報がきわめて曖昧である点が指摘できる。事故現場の交差点で、ここで亡くなった複数の霊体とやりとりをしているのであるが、そこにばかり焦点が当たりすぎて、臨死世界という異界の情景があまり活写されていない。この部分から、できる限り客観性を作り出そうという印象が弱くなってしまっている。やはり特殊な世界での体験であるが故に、いかに体験者が冷静な状況であったかを示すために説明的な描写は必要以上に書いて然るべきであるという意見である。それに対して、会話、特に相手の喋っている言葉については自分が発していないだけに、余程のことがない限り一語一句覚えきれるものではないわけであり、その点で言えば、この作品のような饒舌な流れは何となく後付けされた印象を招きかねないだろう。率直に言えば、説明描写が少なく会話で構成された“臨死体験”の場面は違和感を覚えるし、また何かしら作り物めいたにおいが強烈に漂うという印象である。
そしてこの作品の最も致命的な部分は、看護婦に対する体験者の心証である。最後の数行によって、体験者は看護婦を臨死体験の場に居合わせた霊体の一人である認識しようとしている。これによって読み手は、それまで書かれてきた臨死体験がただの“夢オチ”どころか、この話そのものが作り話であるという気持ちにさせられるのは間違いないだろう。体験者が臨死体験で見聞した世界の住人は死者以外に存在することはないのであり、それが現実世界の生者として再登場する場面は、まさに創作ならではのシーン、少なくとも展開上の致命的矛盾をはらんでいると言われてもおかしくない。慎重に読めば、この部分の流れはもしかすると書き手の思わせぶりなホラーチックなサービスだったのかもしれないが、それまでの少々胡散臭い流れの伏線によって、完全に創作としか読み手にはうつらないのではないかと言うほど、悪い意味ではまってしまった部分であると言えよう。しかもこの看護婦の言葉の中に、体験者の臨死体験が超常現象であることを証すための重要なキーワード(事故現場は事故多発地帯であり、その中の犠牲者に医師がいる)が入っているのであるが、それすらも結局創作の一部のような印象しか残らなかった次第である。
最終的な評価としては、体験者も存在して実際に“あったること”を100%描いた作品であったとしても、「実話を元にして作られた(創作)作品」の域を超え出るものではないという意見である。実話怪談としての味付けを完全に誤り、似て非なるものに仕上がってしまったとしか言いようがない作品である。実話にはやはり実話なりの書きぶりというものがあり、それを逸脱してしまえば虚構と受け取られても致し方はない。しかもこの作品のように、“あったること”としての信憑性を常に求められるジャンルの怪異譚であればなおさらである。個人的には、完全に創作としか認識できなかったので、最低点ということで。
【−6】

『去りゆく』

徐々に霊体が体験者から離れていくという怪異が珍しい。おそらく別れを告げに来ているだろうと推測できる行動なのであるが、実際に長期間にわたって少しずつ立ち位置を離していくことでフェイドアウトするというケースはあまり記憶にない。その対象となる人が亡くなるのだろうと予想を立てつつも、それなりに希少な怪異であるために、本当にどう展開するのだろうかという興味を持って読み進めていった。そして見事なぐらい書き手に裏をかかれたという次第である。
文章で表現されている以上、視覚的な部分で読み手はある意味目隠しされている部分があるのは言うまでもない。この作品の場合、体験者自身が母の妹である叔母だと認識して接してしまえば、読み手はそれを“事実”として了解して読んでいくしかない。読み手には自分自身で、その現れた霊体の正体が実の母であると見抜くことは不可能に近いだろう。ただしこれがアンフェアな仕掛けであるとは思わないし、実際文章表現の場合、こういうミスリードを読み手にさせることは珍しいことではない。体験者が叔母であると意識してしまえば成立する誤解であり、これを読み手が非難することの方が大人げないとしか言いようがないだろう。むしろ結末を知って再読すると、書き手がかなり細心の注意を払って、叔母の存在に読み手の注意がいくように誘導しているのが分かるし(体験者自身がそのように意識しているのだから、当然と言えば当然の流れなのであるが)、それでいながら母親の曰くありげな言動もしっかりと書き留めている。このあたりの書き方は、かなり計算された結果であると言えるだろう。
なぜ母親の霊体が叔母によく似た姿形で現れたのかという問題であるが、実際数多くの霊の目撃談を分析すると、霊体は“自分が見せたい姿形を相手に見せることが出来る”能力を持っていると考えられる。例えば、事故の悲惨さや痛みを訴えたければ事故で亡くなった直後のむごたらしい姿で現れ、生前の思い出を繋ぎ止めるためであれば懐かしく穏やかな姿で現れることになる。霊体の意志が強くなればなるほど、相手の霊的な能力が低くなるほど、その思いを相手に如実に見せることが出来ると考えて良いと思う。
この作品の場合、おそらく母親は、我が子(体験者)を産んだ直後ぐらいの年齢で現れたのではないだろうかと推測する。彼女にとって一番輝いていた時代だと感じていたからこそ、そして息子に対して愛情を最も注ぎ、一番美しい記憶に満ちていたからこそ、その姿で息子に最後の対面を果たそうと思ったのではないだろうか。あるいは、もしかすると母親であることが息子に知れてしまうことを懸念した思いが、息子がおそらく知らないだろう姿に結実したのかもしれない。いずれにせよ、母親の強い意志が長期にわたって同じ姿を見せ続けたことが真相であり、その若かりし頃の姿で現れたのは強い愛情から来るものであるのは間違いないと思うところである。
感情的な言葉を極力書かないことによって、むしろ情緒に訴えかけてくる部分を強くさせており、少々計算尽くではあるが、ジェントル・ゴースト・ストーリーの典型的な作品に仕上げていると言えるだろう。さらに言えば、下手をすれば平板な印象で終わってしまうかもしれない怪異をミスリードさせることによって最後まで真実を隠し通せたことも、なかなかの技量であると感じる。ただ大ネタの怪異譚ではないという部分で、評点を上積みするところまではいかなかった。完成度も高く良作であることには違いないのではあるが、やや厳しめの判断である。
【+3】

『肝斑-しみ-』

怪異の原因が明確であり、その現象自体も誰もが認知できるものである。この種の現象として因果関係がはっきりしており、なかなか興味深い超常現象であると言えるだろう。ところが、これだけ明快な因果にもかかわらず、書き方のためにまどろっこしい展開になってしまっている。
トイレに現れたシミが娘を捨てた男の顔に似ており、娘の部屋から漏れ出る音と何らかの関連があることが濃厚であることはおそらく間違いのない推測であるし、むしろ怪談としてはそのような因果律を読み手に印象づけることこそが技量であると言える。ところがこの作品では、その決定的な因果律を逆に曖昧にして、シミの正体の謎解きで話を終了させている。この展開では、どうしても話がこぢんまりとしてしまい、怪異としての奥深さが望めないのである。もっと具体的に言えば、因果話としては単にシミと娘との関係が明らかになったところで話が終わってしまっており、そこからさらに発展するであろう怪異の顛末、すなわちシミが今後どのようになっていくのかという部分が欠落しているように読み手には見えてしまうのである。人の顔に見えるシミが現れたという超常現象に対して、それが娘を捨てた男であり、娘が部屋に引きこもって何かをしていること(おそらく写真か何かに釘を打ち付けて呪詛している)がそのシミの出現の原因であるだろうと示唆するところで終わるのであれば、非常に物足りない部分を感じざるを得ない。やはりこのような因果を基調とする怪異、しかも明確に物理現象として存在している場合、それがどうなっていくのかの方に興味は注がれるのが常であると思う。
書き手としては、シミの正体が怪異の肝であるという認識を持って書いていると推察する。しかしこの作品の場合、シミの正体を突き止めることは容易であり、しかもその因果関係が明瞭である。おそらく怪談に慣れ親しんでいる読み手からすれば、この程度の謎解きで終わってしまうのは消化不良と言うべきであろう。あるいは書き手の取材不足という印象を持つことになると思う。要するに、怪異の肝としてこれで話を閉じてしまうのは、今までの実話怪談の手法としてはインパクトが足りないという意見である。逆に言えば、怪異に対して持っている情報が少ないが故に、この作品のように因果の謎解きを肝としてまとめたのだろうとも受け取れるのである。
最終的な判断としては、怪異譚としてまとめる時期がまだ早すぎる、シミの存在がどのようになっていくのかの顛末があってこそ完結する怪異であると思うところが大きい。実話怪談の場合、リアルタイムで進行している怪異を無理に切り出して作品化すべきではないとの意見であり、その点で言えば、書き手が怪異の本質を見極め切れていないという印象である。それなりに巧くまとめて読めるようにはしているが、ある意味、怪異に対しては小手先勝負であるとも感じる。「怪異が書かれることを求めている」という話は、怪談作家としてそれなりに名を成している人であれば、いくつかは体験していることであると聞く。その“声”を正しく聞くことが、怪異の本質を的確に捉えることではないかと思う。今後の顛末に興味があるから敢えて苦言を呈したいと思うところである。ただ実話に限定せず、怪談としてはしっかりと成立している作品であると思うので、マイナス評価までは至らず。可もなく不可もなくというところで落ち着かせていただく。
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