Toronto International Film Festival 2012, Day 8: Review


長いブランクをあけてしまいましたが、トロント国際映画祭の報告を契機に再スタートを切りたいと思います。


今回見た映画は—『Hannah Arendt』(マルガレーテ・フォン・トロッタ)『Three Sisters』(王兵[ワン・ビン])に『The Walker』(蔡明亮[ツァイ・ミンリャン])の三本。ほかにも黒沢清監督の『Penance』(『贖罪』の国際映画祭版)を見ようと思っていたものの三日前ほどから売り切れの大好評だったため断念。


ロチェスターからトロントへは、基本的にオンタリオ湖の西岸をなめるように北上していくルートで距離にするとざっと270キロはある計算だ。ナイアガラで国境を越え(今回は幸いアメリカ出国手続きも難なく完了)、その後は延々と続く郊外住宅地を横目に4,5車線はあるQEW(Queen Elizabeth Way)をひたすら飛ばしていく。結局グーグルマップの計算通りの3時間5分でトロント中心部に到着。11時公開の『Hannah Arendt』にぎりぎり間に合った。8日にワールドプレミアムを迎えたばかりの新作であることもあってか、または二十世紀の政治哲学を代表するインテリであるハンナ・アーレントに対する関心もあってか、朝一番の上映であるにも関わらず1,500席はあるElgin Theater(1913年築、もともとはボードビル劇場)の8割は入っているように見える。



この映画はアーレントのバイオピック(伝記もの)ではあるものの彼女の生い立ちを追うわけではなく、エルサレムで行われたアイヒマン裁判に立ち会って「悪の陳腐さ」というテーゼに到達する過程とそれらを『ニューヨーカー』に発表したことで被るアメリカ、ユダヤ人社会からの痛烈なバッシングに焦点を当てたサスペンスのような作品だ。アーレントを演じるのはドイツのベテラン女優Barbara Sukowaで、彼女はやはりVon Trotta監督作品である『ローザ・ルクセンブルグ』で主演を務めたときにカンヌの主演女優賞に輝いている。アーレントが世論に抗して一人の人間として「思考」する姿は、とくに9・11以降インテリの言論への締め付けや自主検閲がはびこっている北米において共感を誘うものだ(ドイツ語で「思考」を意味する“Denken”は映画中ハイデッガーの講義によってキーワード化されている)。上映後はVon Trotta監督がプロデューサーのBettina Brokemper氏とシナリオの Pam Katz氏とともに壇上にあがり映画のコンセプトについてエネルギッシュに語った。いわくこれは20世紀の政治哲学に決定的なインパクトを残すことになるアーレントアイヒマンの対峙を追求したため、アーレントハイデッガーのメロドラマは最小限しか見せないことにしたとのこと。映画の核心となるアーレントアイヒマンの対峙は、当時の法廷供述を記録したフィルム(白黒)と彼を鋭く観察するSukowa演じるアーレントの映像(カラー)をクロスカットした変わった演出で表現している。



Q&Aでは、(声から察するに)年配の女性が熱心にアイヒマンの決して「陳腐」とはいえない「悪」を認めるよう監督に問い詰める場面があった。映画の中でアーレントを苦しめるナイーブな意見ではあるが、多くの観客はざわめいて年配の質問者をさえぎってしまったこと、また司会の担当者も途中で打ち切ってしまったため監督がこの質問に答えることができなかったことには疑問を感じる。こうした(この会場においては)異端である意見をまるで皆の総意であるかのようにもみ消してしまう習慣にも『Hannah Arendt』は抗議をしていたのではなかったのだろうかと思う。


秋晴れの快適なYonge Streetを少し歩いて午後の一つ目の会場であるCineplex Odeonに向かう。ベネチアでOrizontti(新人やドキュメンタリー映画に授与される)を受賞したばかりとあって『Three Sisters』の会場も8割がた埋まっている。上映前には王兵監督が壇上に現れ、とにかくテンポが普通の映画より遅いことを警告し、そのうえで楽しんで観てほしいとの趣旨の挨拶をする。山形映画祭でグランプリをとった9時間に及び大作『鉄西区』などからはバイタリティのある監督象が思い浮かぶが、ステージに立った王兵はグレーのTシャツと濃紺のジーパンをスマートに着こなした物腰静かなたたずまいだ。中国語のタイトルである『三姉妹』がチェーホフの戯曲にインスピレーションを受けているかどうかはわからないが、少なくとも英題は否が応でもチェーホフの名作を想起させる。チェーホフの三姉妹がロシアの地方都市でモスクワの栄華を夢見る没落貴族の末裔であるのに対して王兵の三姉妹は雲南省の農村で貧しい暮らしを営む子供たちだ。王兵がダイレクトシネマの手法で淡々と記録するのは4歳、6歳、8歳の女児たちで、彼女らが火を焚いて壊れた靴を乾かしたり、小さな体ながら見事に豚の世話をする姿などが繰り返し映し出される。チェーホフは三部を通してセットも変わらないダイナミズムを排した物語に優雅で遊び心のある台詞によって変化をつけたが、王兵は沈黙と反復を敢えて前面に出すことで、この農村に生きる子供たちの時間間隔を表現する。都市部の出稼ぎ労働者の生活は第六世代の監督によって映画のテーマとして定着した感があるが、この映画はグローバル化時代の主人公である出稼ぎ労働者ではなく、グローバル化に直接影響されながらもダイナミックな物語の影に入りがちな取り残された者たちの物語をテーマにしているようだ。



蔡明亮の上映は今年から大きく形の変わったWavelengthsというシリーズの一部として行われた。Wavelengthsは実験映画の金字塔であるマイケルスノーの作品にちなんで名づけられた実験映画の新作を紹介してきたプログラムだが、映画好きには好評だった短編を5-6本連ねたオムニバス形式を今年から改めて、中編のダブル・ビルを基本にしている。今回のプログラムでは上映時間25分間の『The Walker』の前にパゾリーニの『サロ』とマシュー・バーニーの『クレマスター』を掛け合わせたような『The Capsule』という中篇実験映画が上映された(監督はギリシャの若手映像作家Athina Rachel Tsangari)。『The Walker』(中国語タイトルは『行者』)は蔡明亮のミューズともいえる李康生をオレンジ色の僧衣をまとわせて極端にゆっくり香港の街の中を一日歩かせるというコンセプチュアルな作品だが、中国のビデオシェアリングサイト大手のYoukuが配給している点が面白い。李康生の歩く姿をみていると、素人であった彼を『青春神話』の主人公として登用した際に蔡監督が「もっと自然に歩いてくれ」という指示にたいして李は「これが僕の自然な動きなんだから、気に入らないならもう帰るよ」と返したというような逸話を思い出す。ちなみに『The Walker』は短編三部作の第二弾で、マルセイユ映画祭に出品された『No Form』の後を追うものらしい。

今年は残念ながら日帰りの参観で精一杯。
しっかりチャイナタウンでディナーを食べてからロチェスターへの帰路につく(またまた3時間5分フラットで到着)。

記事・写真 小川翔

「特別企画」 松村牧亜インタビュー (後編)

ピアノ伴奏に国境はあるか

無声映画のピアノ伴奏者は世界に約1,000人ほどいるのではないかと松村は語る。ポルデノーネで会ったベテラン伴奏者からは、全体的に伴奏者の数は増加の傾向にあると聞いたという。高度な技術と経験が求められる仕事だが、映画の伴奏だけで生活することはかなり難しいのではないかというのが松村の印象だ。BFI(British Film Institute)のような大きなフィルム・アーカイブには専属のピアニストがいるので、「プロ」の無声映画伴奏者がまったくいないとは言えないが、大概にして他にも仕事を掛け持ちしていることが多いようだ。
無声映画に国境はない、と聞いたことがあるが、無声映画の伴奏については文化間の違いがあるようだ。


「私が知っている範囲では、東海岸を拠点にしている伴奏者にはピアノを弾く人が多く、中西部や西海岸にはオルガンを弾く人が多いような印象を受けます。」


また、ニューヨークでは、ピアノソロでなく、バンドやDJ、ソロギターなど、斬新な編成での伴奏も盛んである。
同じピアノでも、会場によっては電子ピアノしか置いていないところもあるが、ピアニストとしてはやはり生ピアノが嬉しいとのことだ。ドライデンでは小さなピアノが常に置いて意ある。見た感じは古く、ドライデン専属の伴奏者(兼映画史研究者)であるフィリップ・カーリのサイレント期に対するこだわりをあらわしているようにも思えるが、詳しいことは今まで知らなかった。


「あのピアノはボールドウィンのベビーグランドと呼ばれる小さなグランドピアノで、たぶんかなり古いですね。しかも木目です。最初スタッフの方に『これです』と言われたときは、ちょっと外見にびっくりしましたが、見かけより良い楽器で、鍵盤の調整(レギュレーション)がとてもよくされていて弾きやすかったですね。古いピアノってときどきひとつだけ堅いキーがあったりとか、一度降りたら戻ってこない鍵盤があったりして、そういうのがあると困ってしまうので、そういうメカニカルな問題は全然ないピアノだったので安心しました。あと小さい割によく鳴るのでびっくりしました。」


ポルデノーネでは、隣町のサチーレにファツィオリというピアノメーカーが本拠地ならびに工場を構えていることもあり、テアトロ・ヴェルディ(メインの劇場)にはファツィオリのフルコンサートグランドが入っている。


松村の印象では、無声映画アメリカよりもヨーロッパの方が盛んなようで、イタリアやフランスでは伴奏付きの無声映画上映が盛んに行われていると聞いている。また、ヨーロッパでは、意外にもバレエの伴奏から無声映画の世界に入る人が多いと松村は教えてくれた。ロンドンやパリのバレエ・スタジオでは、ダンサーの動きに合わせた音楽をつけるために専属のピアニストがいることが珍しくないからだ。


「バレエの伴奏にも代々伝わる独特な技法、技能があり、それにはもちろん即興演奏が含まれています。無声映画伴奏ではやはり即興というのが大きなポイントですので、楽譜を見て弾くというトレーニングを長年受けて来たクラシックのピアニストの方には少し敷居が高いようです。」


他にもイギリスのベテラン伴奏者のニール・ブランドは、音楽家としてだけでなく映画役者としても活躍していたり、MoMA専属ピアノ伴奏者のベン・モデルは、コメディアンやコメディ映画の監督・プロデューサーとしての経歴を持っていたりと、多様なキャリアを持つ人が多いのもピアノ伴奏の世界の特徴だ。しかし人材がいたところで無声映画の需要がなくては仕方がない。この疑問への直接的な答えではないが、ポルデノーネ無声映画祭でも地元の小学校1、2年生を対象にチャップリンの短編を上映し、マスタークラスの受講生と講師が伴奏を披露する早期教育(?)の試みが行われているようだ(NFCニューズレター 2008年2月-3月号および松村牧亜インタビュー前編参照)。松村の本拠地・ニューヨークでも、MoMI(米国映像博物館)などでは地元小学生・大学生向けの無声映画上映プログラムが定期的に開催されており、松村もよくその伴奏を務めている。


日本での状況はどうだろう?
無声映画伴奏者の数も決して多くはない日本だが、伴奏の場となるとことさらに少ない。しかしポルデノーネのような恵まれた仕事の場がない日本でも、無声映画と生演奏を一人でも多くの人に紹介したいという熱意でもって児童を対象としたピアノ伴奏付きの無声映画上映会を独自に企画する例もあるという。日本の無声映画ピアノ伴奏の第一人者である柳下美恵も、生演奏付きの無声映画上映という文化の普及をめざして、自ら映画を(そして、ときにはプロジェクターも)借り出した上映会を開いているそうだ。ポルデノーネ映画祭も元々は個々人のつながりから始まったことを思えば、こうした個人レベルの努力にこそ大きな可能性が秘められているのかもしれない。



映画と一緒に呼吸する

様々なバックグラウンドを持ち、それゆえ伴奏スタイルも千差万別であろう現代の無声映画ピアニストであるが、それでは松村自身のスタイルはどのようなものなのだろうか。
例えば、伴奏する映画に関するリサーチは重要視しているのだろうか。それとも、どのくらいリサーチするかは伴奏者のスタイルにもよるのだろうか。


「知っていた方が助けになる情報が多いですね。ですが、ほとんどの伴奏者のみなさんは20年とか30年とか弾いてらっしゃるので、リサーチの時期を既に卒業してらっしゃるんです。私は初めて弾いたのが2003年で、しかももともとフィルム畑の出身ではないので、伴奏の仕事を頂くたびにあわてて調べて『ああ、そうなのか』と思っている感じです。」


松村は具体的な伴奏に向けてもなるべくライブという特性を活かした準備をするという。当日の会場やその日の天候、来場する観客たちのエネルギー。そういうものに反応し、ピアノを弾きながら作曲していくことに無声映画伴奏の醍醐味を感じるという。また綿密な準備をしていっても、いざピアノの前に座って弾き始めると全く違う音を弾いている自分に驚くこともしばしばあるらしい。
即興と一口にいってもその演奏方法、曲の構築方法は様々だろう。ある程度引き出しのレパートリーを増やし、その中からこのシーンにはこのテーマという風に使っていくのだろうか。


「もちろんそういうスタイルの人もいます。悲しいシーンにはこの音楽、楽しいシーンにはこの音楽、というように、映画を見る前から色々な状況を想定して“ストック・ミュージック”と呼ばれる素材を何種類も準備しておき、その中から、シーンに応じて適切な素材を選んで演奏していくというスタイルです。ただ個人的にはそういうスタイルをとる人の伴奏を何本も観ていると、例えば、ラブシーンがあると『あ、また同じラブシーンのテーマだ』と思ってしまいます。また、シーンごとにノートをつけ、どのタイミングでどんな曲を演奏するかまで細かく作り込んで演奏するというスタイルもありますが、それではその場のインスピレーションに沿って演奏することができなくなるため、私には合わないと思い採用していません。私はせっかくライブで弾いているのだから、ある程度準備はしたうえで、あとはその場で降りてきた音を弾きたいと思っています。」


自身の後方でスクリーンを見つめる観客の雰囲気を感じ取ることも無声映画伴奏の重要な一部であり、客席で起こる様々なリアクションを生で体験できることも松村にとっての楽しみのひとつだ。衝撃的なシーンでは客席がざわついたり、おかしいときには声をあげて笑ったり、「そうだよね」と思うこともあれば、「え、そこで笑うの?」と予想外のリアクションに驚くこともあるという。
そのようにして行う無声映画伴奏は、例えて言えば山登りの旅に出かけるようなものだと松村は語る。前方のスクリーン、後方の観客、その両方からフィードバックに影響を受けながらエンディングへと向かって進んで行く過程からはまるで「映画と一緒に呼吸しながら山を越えていくような」感覚を得るという。


「もちろん道筋は決まっているけどどんな景色が見えるのかなとか、途中で雨が降るのかなと思ったり。登ってみないとわからないじゃないですか。頂上に行けば景色が綺麗なのはわかっていて、また登ったら下りてこなければいけないというのも分かっているんですが、間にあるものは何があるかわからない。それに近い期待感と一抹の不安を持って毎回弾いています。しかもそれをお客さんたちと一緒に登るという気持ちでいます。」


登山に例えて伴奏のプラクティスを語る松村の話はアーティストの創作論であると同時に無声映画ピアニストが優れたアスリートでもあることを物語っていてとても興味深い。と同時に無声映画ほど上映時間のヴァリエーションに富むものも他にないだろう。短いものでは数秒、長いものでは数時間にもなる無声映画はピアニストを短距離ランナーにも長距離ランナーにもする。


「長篇は体力的に厳しいです。最近は回数を弾かせてもらえているので二時間くらいは大丈夫になりましたが。最初の小津生誕百年のイベントで弾いた『生まれてはみたけれど』は90分ほどの作品ですが、最後の10分くらいで集中力が切れて脳が情報を処理していないことを自覚しました。お客さんにはわからなかったと思いますが、自分ではショックでしたね。普通にピアノで舞台に出たら長くても30分や40分なので集中力が切れるというのは初めての経験だったんです。ですので最初の二年間はマラソン選手と同じだと思って脳に糖分を補給するため、バナナとかおにぎりとかを事前に食べていました。最近は食べなくても大丈夫なので慣れはすごいと思います。慣れてくると、持久力がつきますので、ある程度余裕を持って最初から最後まで映画に集中できるようになったと感じています。」


今年の9月に京橋の国立近代美術館フィルムセンターで行われた「シネマの冒険 闇と音楽2011」ではD.W.グリフィスの150分に及ぶ作品『嵐の孤児』の伴奏をこなしていることからも松村の長さへの適応がうかがい知れる。純粋な意味での即興性を重視する松村にとっては、いろいろなシーンを経て、音楽的にもストーリーを構築していくことができるため、ある程度の長さがある作品の方が弾きやすいようだ。

しかし、短編にもそれ独特の難しさと面白みを感じるという。昨年のニューヨーク映画祭で行われたスペインのジョルジュ・メリエスとも称される映画作家セグンド・デ・チョモンの特集上映「The Marvelous World of Sedundo de Chomón」では、松村は短いもので二分、長いもので約十分の短編計14本を伴奏するというパフォーマンスを行っている。この時の経験は作品世界にぱっと入り込む瞬発力、短時間でめまぐるしく起こるアクションへの対応力を磨く上で面白い経験となったと彼女は振り返る。

インタビューも終わりが近づいてきた。最後に上映時間とともに重要な要素であろうジャンルについても聞いてみた。松村が得意とするジャンルはあるのだろうか。


「得意というか、いただく仕事がなぜかみんなメロドラマとか悲劇とかドラマティックなものばかりなんです。チャップリンも二本くらいしか弾いたことがないですし、キートンは一本で、ハロルド・ロイドはなんてまだ一本も弾いたことないんです。なんでだろう(笑)今日の『女優ナナ』はどうでしょうね、重くも軽くもどちらにもいけるでしょうか。一応DVDは送っていただいて事前にチェックはしているんですが、やっぱり今日のお客さんの感じを見て決めたいと思います。」


帰り道

上映が終わり劇場をあとにする。が、頭の中ではまだ松村のピアノが響いているようだ。松村が話していたように、『ナナ』には軽妙な場面も多く、そうしたところではピアノのメロディも優雅で軽快だった。が、後半部の「峠」に差し掛かるあたりから、徐々に音楽にテーマのようなものが出てきたように思えた。娼婦ナナの虜になったミュファ伯爵が、周囲の忠告にもかかわらず、彼女が住む館の彼女の部屋へと続く大階段を上がっていくシーンがあるが、このあたりから松村のピアノにも、まるで勝負どころを見極めたマラソンランナーがスパートをかけるように、ぐっと力が入り始める。このナナの転落人生を予告する階段の上昇から終盤のカンカン、そしてエンディングへと物語のドラマを存分に引き立ていく伴奏は圧巻で、まさに「映画と一緒に呼吸しながら山を越えていく」ような感覚だ。ドライデン専属のカーリ氏の伴奏とはまたずいぶん違った印象の演奏を聞き、無声映画ピアノ伴奏の可能性と奥の深さを垣間見れた一夜だった。


(おわり)


今回のインタビューに際し、ジョージ・イーストマン・ハウス映画プログラマーのロリ・ドネリーさんにお世話になった。ここに記して感謝する。
We’d also like to express our gratitude to Lori Donnelly (film programmer at George Eastman House) for her help in realizing this interview.


(2011年10月5日。於スターリー・ナイツ・カフェ)
インタビュー・文責:小川翔太+河原大輔

「特別企画」 松村牧亜インタビュー (前編)

2011年10月5日、ジャン・ルノワールの1926年のサイレント作品『女優ナナNanaがドライデンシアターで特別上映された。今年はドライデンが一般劇場としてオープンしてから60年目にあたる。本来ジョージ・イーストマン邸のプライベートシアターであったこの劇場で、ロチェスターの市民が始めて観た映画、それが『女優ナナ』だった。当時から残るプリントが使われた今回の特別上映に、ニューヨーク在住の作曲家である松村牧亜氏(以下敬称略)がすばらしいピアノ伴奏を披露してくれた。映画上映前のわずかな時間を割いて、ドライデンブログの取材に快く応じてくれた松村の話を二回にわけてお伝えしたい。


21世紀に無声映画ピアニストになるということ
人はどのようにしてプロの無声映画ピアニストになるのだろうか。例えば、弁士であれば師匠がいてそこで修行するという徒弟制度のようなキャリアモデルが想起されるかもしれないが、伴奏者となると正直想像がわきにくい。
松村の場合、彼女の無声映画伴奏の基礎的なスキルを形作ったものとしては、幼少期に通った音楽教室での即興演奏のトレーニングの存在が大きいという。曲を即興で作り、それを観客の前で演奏する。そうした訓練を日常的に積んだ経験が後に無声映画伴奏の世界に入っていく上で大きな助けになったという。


「小さい頃からヤマハ音楽教室で自作曲を演奏するということをやっていましたので、一応人前でピアノを弾いても問題がない程度のレベルではピアノが弾けていました。また、即興演奏というのもヤマハ音楽教室のプログラムに組み込まれていましたので、ジャズとかの即興演奏のようにコード進行が決まっていてその上でやるというのではなく、完全に自分で、自由に、その場で曲を作っていくというトレーニングを既に受けていたということがありました。」


とはいえ、無声映画を上映する場が世界でも限られている今日において、現代の多くの無声映画ピアニストがそうであるように、松村のキャリアもそこから無声映画と出会い、映画伴奏の世界へといったストレートなものではなく、彼女の当初の関心は映画音楽にあった。東京芸術大学作曲科を卒業後、ニューヨークに渡りジュリアード音楽院の大学院で学んだ松村は鐘ヶ江剛監督作品『Unbroken Dreams of Light』( 2004)や学生映画監督作品への音楽の提供などを通じて映画音楽家としての活動を開始する。またアメリカのみならず日本においてもNHKミニミニ映像大賞グランプリを受賞したわたなべさちよ監督作品『音のおもいで』や2000年に行われた米大統領選挙のNHK報道特別番組、そして東京モーターショーのOPELブースの音楽を担当するなど、その活動を広げている。もちろん即興という点においては求められるスキルも違うであろうが、映像に音をつけるという作業への関心およびその経験が無声映画伴奏家としての松村を生む素地となっていることは言うまでもないだろう。


「長編を一緒にやらせていただいた監督とは半年くらいかけてすごく色んな話をしました。最初はお互いの好きな曲をかけ合ったり、映画とは全然関係ない話もたくさんして。たまたま監督と誕生日が同じだったりもして、作品にたどり着くまでのコミュニケーションがすごくあったので、実際に曲を作り始めるまでに信頼関係が出来ていたのであれはすごく楽しかったです。」


だが、商業映画の世界を志す以上、そこにはアーティストが向き合うジレンマもある。映像製作者と常に十分なコミュニケーションをとれないことや映像に対して自分ではこれだと思う音がなかなか採用されないことに対して松村はもどかしさを感じるようになったし、また自分自身が心血を注いで作曲をしても監督の好みひとつで一瞬にして不採用となってしまう映画製作の世界における監督中心主義という現実にも彼女は向き合わなければならなかった。


「特にコマーシャルのお仕事とかなると十分なコミュニケーションをとる時間もまずないじゃないですか。みなさんまず納期があって『自分のこのコンセプトにあった曲をつけて』みたいなこともありますし。私が一番できなかったのは、すでに映像をもらうときにモックアップと呼ばれるありものの曲がついてくるんです。で、その曲の使用権をとるお金がないからこういう感じの曲をつけてくれと言われるんですね。もちろん生活のためにやろうと思ったらそういう小さなお仕事もとっていかないといけませんから、そうするとどうしてもそうしたお仕事が多くなります。それが私にはちょっと耐えられなかった。こういうことのために映画の仕事をやりたいと思ったんじゃないと思って、映画音楽に対する情熱が消えかけていたんです。」



小津/OZU

そんな折、松村の薄れていた映画音楽への情熱を再燃させることになる出来事がふいに、それもほんの偶然から、訪れる。それが2003年に日本を始め世界各地で行われた小津安二郎の生誕百周年イベントである。現存する小津のサイレント作品16本すべてが上映されることになったこのイベントを通じて、彼女は無声映画伴奏の世界に出会うことになる。


「日本でやるときにフィルムセンターの方が、『もちろん日本では伝統的に弁士をつけるんだけれども、欧米スタイルの、ピアノの生伴奏だけのスタイルもやってみたい』と。それまでは1993年から活動されている柳下美恵さんが無声映画伴奏の第一人者で、当時は彼女くらいしか無声映画伴奏をやられている方がいなかったんです。柳下さん一人だけで16本伴奏するのは大変だということでフィルムセンターの方が声をかけていたひとの中に私の大学の同級生がたまたまいたんです。で、今回小津さんのイベントを大々的にやるにあたって5,6人新しいひとをスカウトしたいということになりまして、彼が私を含めた同期の仲間に声をかけてくれて、それで5人くらいが一気に挑戦しました。それが初めての無声映画伴奏です。」


もちろんこれまで映画音楽をやってきたのだから、映像に合う音をつけるということに関してはある程度できるという自負はあった。とはいえ、初めて聞く無声映画伴奏という言葉は松村の好奇心をかきたてると同時に、彼女に未知のものへのアプローチ方法を模索する必要を感じさせた。


「当時は本当に音楽のことしかやっていなかったので無声映画を観たことがありませんでしたし、小津安二郎って誰?生伴奏って何?という状態でした。けれど、幸運なことに、その時既にニューヨークにいましたので、無声映画に伴奏をつけている方が周りにたくさんいらしたんです。さらに幸運なことには小津さんの回顧展が東京の前にニューヨークのリンカーンセンターで行われて、まるごと同じプログラムをやったんですね。ニューヨークではドナルド・ソーシンさんという、ニューヨークを拠点にMoMAやブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック(BAM)、サンフランシスコ無声映画祭で常任ピアニストとして活躍されてらっしゃる方がひとりで16本全部弾いたんです。で、これは聴きに行くしかないと思いまして観れる限りのもの、おそらく8割くらいは観に行きました。」


いまでこそ無声映画ピアニストのサークルに参加し、アメリカを中心に活躍する松村であるが、大学・大学院とクラシカルな音楽教育を受けてきた彼女にとって、無声映画伴奏を体験し、そのスキルを習得していくことは新しい世界へと文字通り「飛び込んで」いく過程であるという表現が適切だろう。彼女は終演後のソーシン氏に歩み寄り、自分も日本で小津作品の伴奏をすることになったこと、今回が初めての無声映画伴奏であること、そして伴奏に向けてどういう準備をすればいいか正直分からないことを彼に告げ、助言を求めた。「いま考えるとなんて素人な質問をしてたんだろうと思いますが」と笑いながら振り返る松村だが、その頃の様子を楽しげに語る彼女の言葉には未知の領域を切り拓いていった者だけが伝え得る独特の臨場感があり、彼女が感じたであろう高揚感が聞き手にもびしびしと伝わってくる。


「ドナルドさんがすごく親切に教えてくださったんです。それでなんとかできるかなと自信をつけて日本に帰って弾きました。でも、実際初めて弾く時はどうなることかわからなかったですし、ヤマハ音楽時代に訓練を受けているとはいっても人前での即興演奏なんて十何年もやっていませんでしたから、すごく緊張して大変でした。」


そのようにして松村が生まれ育った場所でもある東京で行われた彼女にとって初めての無声映画伴奏は彼女の音楽家としてのキャリアに新しい側面を加えることになった。



「小さい頃から人前で演奏はしてきていたのですが、実際に演奏してみるとこんなに充実したというか、弾いてる最中にこんなに自分が楽しいことって初めてだなと思いました。本当に二十何年人前で弾いてきて、弾いている自分が一番わくわくしているんです。何がわくわくするかっていうと、ピアノってスクリーンに一番近いところに置かれているじゃないですか。まあ、もちろん、作品を事前にDVDで観ることもありますけど、誰よりも近いところでスクリーンを見上げて弾いていると、小さい画面で観たときと全然違う体験をしているんです。監督さんの息遣いとか意図とかがぐんぐんと伝わってくる気がして――これは勝手な思いこみかもしれないですけど。もちろん監督は亡くなってはいるんですけど、まるで今は亡き小津監督とライブセッションをしているような興奮を感じました。」


それは「まるで自分がこれまでにやってきたことが一点に集約されていくような」感覚であったと松村は振り返る。ヤマハ音楽教室に通った幼少期から音大時代、そしてフリーランスとして映画の仕事をこなしてきたニューヨークでの数年間。その中で培ってきたスキル――ピアノ演奏、即興、作曲、映像に音をつけるという作業――が無声映画伴奏ならすべて、何一つ無駄にすることなく、活かすことができるかもしれない、それができるものが見つかったかもしれないという手ごたえを彼女は感じた。そして、彼女がニューヨークで感じていた映像に対する解釈を自分の音で伝え切れていないというもどかしさは、劇場の中で鍵盤を叩き、それに耳を傾ける観客とのコミュニケーションを感じるうちに次第に晴れていった。


「『ああ、映像に音をつけるって映画音楽だけじゃないんだ』って。しかも、これだと何が正解とかもない。無声映画伴奏ならこの画にはこれだって私が思う音を提示して終わることができる。もちろんDVDリリースのためにちゃんとレコーディングをするというお仕事もありましたが、生で弾く場合には伴奏を録音するわけでもないし、ライブでその日に来てくださったお客さんと共有して終わりです。その一期一会という感覚が私にはしっくりきたんだと思います。」


幸福かつ確かな手ごたえとともにニューヨークへ戻った松村は本格的に無声映画ピアニストとしてのキャリアを開始することを決める。幸いなことに、彼女の暮らすニューヨークではその気になってしらべてみれば毎週のように無声映画の上映がやっていることがわかった。そうした上映に参加し、小津のイベントで知り合ったドナルド・ソーシン氏を始めとする無声映画ピアニストのコミュニティに参加する中で、彼女は無声映画伴奏のスキルを磨いていく。そして彼女の好奇心と行動力、そしてピアニストとしての才能は彼女を新たな場所へと導いていく。2007年に、彼女の熱意を感じたソーシン氏の推薦でイタリアのポルデノーネ無声映画祭で無声映画ピアニストを養成することを目的として行われているマスタークラスに参加することになったのだ。



ポルデノーネ

新たに発見・修復された無声映画が上映される国際映画祭として有名なポルデノーネだが、マスタークラスとはずばりどういったものか。


「マスタークラスでは、初めて観る映画にどうピアノを弾くかということを教えるんです。無声映画の全盛期に活躍した伴奏者は、まったく観たことのない映画に伴奏をつけるということがざらにあったわけです。その時代のピアノ伴奏家がどうやって伴奏をいたのか、無声映画ピアニストの間で「秘伝」と言えるようなかたちで代々伝承されてきたプラクティスがあって、それを今の時代に伝える場がポルデノーネであったと私は理解しています。」


無声映画の最盛期、ヨーロッパやアメリカでは映画館つきのオーケストラが演奏することもあったという。こうしたオーケストラは、当然ストック・ミュージックをもとに演奏するため、ピアノ伴奏のような即興のテクニックは必要ない。ピアノ伴奏者として松村が持つ即興性へのこだわりには、こうした背景もあるのか。


「サイレント期のピアニストは劇場にフラっと行って『ほう、今日の新作はこれか』、と自分が伴奏をする作品をはじめて知り、映画がかかっている一週間のあいだ毎日弾いてるうちに話の筋がだんだん分かってくる、ということもあったようです。」


ポルデノーネでの体験についてはNFCニューズレター(2008年2月-3月号)に松村自身が詳しく書いている。イーストマンハウスで毎週伴奏を務めるフィリップ・カーリも講師の一人だ。彼のアドバイスは、とにかく数多くの無声映画を観ること。映画史研究家としても著名でロチェスターで教鞭を執るカーリは、ひとつのシーンを分析し、そこからその先の話の展開やテンポなどを理詰めで予想していくスタイルを持つと松村は語る。


「彼のクラスで一番最初にやったことも、サンプルの映画として持ってきた『Captain Salvation(1927)』(ジョン・ロバートソン)の冒頭の一フレームだけ見せて、『このフレームから読み取れることを全部言いなさい』と。(笑) やはりサイレント期は映画というメディアが黎明期だったということもあって、ストーリーテリングの手法もシンプルです。だから数をこなしてくると、ある程度パターンが読めてきます。演奏しているなかで、この次どうなるか、まったくわからないということはほとんどなく、『多分この映画がこの時代のこの国の作品でこういう始まり方をしたら、この先はこうかこうかこうかな』と3通りくらいに可能性が絞れるということです。」


他方、ソーシンやスティーブン・ホーンなどのベテラン伴奏者からは「ジャンルの引き出し」を意識して増やして行くことの大切さを教わったという。「バロック時代にコメディ映画があったとしたら」、または「フランス風SF映画をテキサスで撮影したとしたら」と突飛な状況を仮定して演奏するエクササイズなどが印象に残ったようだ。


こうした講師陣のアドバイスにも関わらず、無声映画伴奏にアクシデントはつきものだ。5日間のマスタークラスの修了を飾る土曜日の映画祭公式上映映画の伴奏でも予知せぬハプニングに見舞われた。


「私はドイツの無声映画[『Der Herr des Todes (1926)』ハンス・スタインホフ]で、しかも字幕がドイツ語のまま。それに英語の通訳がつきます。ヘッドフォンをして片方の耳で英語の通訳を聴きつつ、もう一方の耳で自分のピアノを聴く。通訳の人が三秒間くらい間をあけるので、三秒間はなにが起こっているのかわからない。何も弾けないけど何か弾いていないといけない。」


四階席まである巨大な会場テアトロ・ヴェルディでのポルデノーネの公式デビューで第一に試されたのは、トラブルに機敏に対応するスキルだった。ベテラン伴奏者のなかには、「無声映画をやるんだったらフランス語、イタリア語、ドイツ語くらいは読めるといいですね」と無茶なことを言う人もいるそうだが、これも現存する無声映画の多くがヨーロッパのものであることを物語る。サイレント期の日本映画は惜しくも多くが失われているため、日本語ができるアドバンテージはほとんどない、と松村は断言する。


この上映では、同時通訳の問題だけでなく、鍵盤を照らす譜面灯もないまま演奏するという難儀も強いられた。舞台裏の手違いだけでなく、リールの掛け違いで順番が狂ったり、裏返しでかかったり、こうしたトラブルが珍しくないのが映画祭だ。フィルムが途中で切れてしまったとき、真っ暗の中でピアノを弾きつづけるか、映像がない間は弾かないか、こんな判断にもそれぞれの伴奏者の哲学が垣間見れるという。
そして、この日の上映も例外ではなかった。上映の前日までは、担当する映画も決まっていないうえに、作品は事前に観ることができないなか、プログラムから話の概要をつかみ、講師陣からもアドバイスをもらってできるかぎりの準備をするが、


「最後はヒーローとヒロインが結ばれてハッピーエンドになるということだったので、それに向けてすごく盛り上げていたんですよ。それでいよいよ絶体絶命というシーンがあってそれを乗り越え、これで幸せになれるというところで、「ジ・エンド」と来ました。最後のリールが多分紛失しているんですよ。『やられた』と思いましたね。それでもとにかく『ジ・エンド』と出たら終えなきゃいけないんで、ここまでせっかく盛り上げた私のこの苦労は何なんだ、といった感じです。(笑)」


こんな裏話も聞かせてくれたが、松村が今回ドライデンに招待されているのも元を辿ればこのポルデノーネでの演奏で評価を得たからにほかならない。トラブルがあってもイタリアでのデビューは大成功だったようだ。


(つづく)

インタビュー・文責:小川翔太+河原大輔
写真:松村牧亜

Zdjęcie (Krzysztof Kieślowski, 1968) @ Unviersity of Rochester

今回は10月1日にロチェスター大学で行われた少し変った上映会についてのレビューです。

トリコロール』三部作などの美しいフィクション映画で知られるポーランドの巨匠クシシュトフ・キェシロフスキ。しかし彼のドキュメンタリー作家としてのキャリアはあまり有名ではない。こう語るのは、今回ロチェスターを訪れたアダム・ミツキェヴィチ大学(ポーランド)のMarek Hendrykowski教授だ。彼いわくキェシロフスキの少年時代の興味は写真とドキュメンタリー映画であり、彼の「記録」する行為に対する思い入れは初期の作品に反映されているとのこと。Hendrykowski氏の訪米の目的は講演だけでなく、彼がキェシロフスキの「知られざる傑作」と讃える1968年のテレビ・ドキュメンタリーZdjęcie(『写真』)を各地で上映することだ。『写真』はキェシロフスキのプロデビュー作にもかかわらず、放映以来音声が紛失していたために作品としての評価がされてこなかった。最近ようやく音声が発見され、教授の斡旋でポーランドのテレビで再放映された。ロチェスターでの上映は、その再放映されたときのデジタル録画だったが、字幕ではなくポーランド語学科の学生による通訳を伴って上映。いささか不思議な臨場感があった。

作品は一枚の写真から始まる。
ポーランド解放の日に撮られたその写真には、二人の少年がポーランド兵の帽子とライフルを持って笑顔で写っている。写真の裏に書かれた住所を頼りに、少年たちの現在の姿を追った取材が始まる。マイクと写真を両手に持ったキェシロフスキが、まるで事件の捜査にあたる刑事のような真剣な面持ちで写真の撮られたアパートの住人に迫って行く。中庭で洗濯をしている婦人を見つけて駆け寄っていくと、何の説明もなしに彼女がひねったばかりの蛇口を閉じてしまう(もちろん雑音を消すためだが)強引なインタビュー。その強引さはユーモラスでロチェスターの観客を笑わせた。

やがて好奇心に寄せられて多くの人たちが中庭に集まると、あちこちで写真とは一見関係のない戦争の苦々しい記憶やドイツ軍の非道さについて追憶がはじまる。そうした回想に対してキェシロフスキは「この写真について知っていることを教えてください」と、写真を媒体に一定の距離を置く。やがて誰ともなしにヤンチェフスキと言う名前が浮上する。多くの人がヤンチェフスキという名前を口にする場面を細かいカットでつなげた場面は複数の記憶が交錯する過程をうまくとらえている。紆余曲折を経てようやく郊外に暮らす写真の少年のうちの一人を突き止める。アパートを訪れると本人は不在だが、彼の夫人らしき若い女性が対応する。取材の理由がわからないため当惑する夫人を横目に、キェシロフスキ一同は夫の帰りを待つために上がり込んでしまう。ここのクライマックスでは、夫人のリアルな当惑の仕方や写真を見たときの驚き方が効果的だ。夫が帰ると、今までの刑事のような捜査とは一変して、二人の出会いや未来についての希望がゆっくり語られる。フォトジェニックな夫人が面白そうにヘッドフォンを通してナガラに録音される夫の声を聞いて遊ぶ姿や、近所で遊ぶ子供の姿などがとても印象的だ。

キェシロフスキが心臓発作で倒れて15年が経った今、この作品の魅力のひとつはマイクと写真を持って走り回る26歳のキェシロフスキの姿かもしれない。キェシロフスキが学生時代のときから知り合いだというHendrykowski氏は、この作品を再び見たときには、彼が学生時代から着ていた同じセーターを着ていることに気が付いて懐かしくなったという。

1968年といえばポーランドでも隣国チェコでも共産主義政府に対するデモが活発化し、また鎮静化されていった大変な年である。芸術活動にも政府の干渉が強くなり、こうした背景を考えると一つの写真についての「真実」を複数の人々の記憶から確立するというプロセスに焦点を置いたこの作品の力強さが際立って感じられる。Hendrykowskiの言葉を借りれば、この作品は「真実」に対する渇望を描いたものだ。カメラや録音機材を撮影した映像を挿入したり、監督自身がマイクを持った被写体として現われていることも、やはり「真実」を求めるプロセスが主題だと考えると納得できる。またプロデビュー一作目から、写真と証言の弁証法を簡潔にまたユーモラスに描くキェシロフスキの手腕に驚かされた。

ポーランドでテレビ再放映された動画は、ポーランド語のままでならインターネットで配信されているようです。
s.o

Toronto International Film Festival 2011, Day 7: Review

書きそびれていた断片的トロント国際映画祭TIFF)報告の第三回。

映画祭七日目。
朝、ハーバーフロントにあるホテルを発つ。移動の合間にホテルで買ったコーヒーとベーグルを食べながら一本目の会場であるAGO併設のジャックマン・ホールへ向かう。朝の交通ラッシュで思うように車が進まないものの今回もなんとか時間通りに会場へ。
一本目はMark Cousinsによるドキュメンタリー『The Story of Film: An Odyssey』。Cousins本人による映画の歴史に関する同名の著作を映像化したものだが、驚くべきは延べ900分という長さだ。本も500ページを超す大著だそうだが、それを映像にしようという壮大な野心に思わず頭が下がる。今回のトロントでは3チャプターごとに区切られて上映されたが、映画祭終盤には前編後編の全二回での上映も実施されるらしい。さすがに一挙上映とはいかなかったが(なんたって15時間もあるのだ)、二回に分けてもそれぞれ7時間を超すので、これはなかなかタフな上映になりそうだ。
この日は全15チャプターの内の、1950年代後半から60年代のロベール・ブレッソンイングマール・ベルイマンルキノ・ヴィスコンティらのヨーロッパ映画の成熟からニューウェイブの誕生、およびその世界的影響を扱ったチャプター7から9が上映された。構成はいかにも正攻法(あるいは教科書的といってもよいかもしれない)といった感じで、映画史をクロノロジカルに、膨大なキャノンのクリップとCousinsが世界中を飛び回って撮影したインタビューなどの映像を駆使して叙述していく。そうした映像にCousinsによる淀みない解説がボイス・オブ・ゴッドスタイルのナレーションで添えられる。 また日本、イラン、インド、アフリカといった非西洋世界の動向にも万遍なく目を向け丁寧に紹介されていくので、作品のスケールがどんどんと膨らんでいく(と同時に上映時間が延びていく)。ここまで広く、長い映画史の領域をひとりでカバーするとなると、今度は、逆に、はたして900分で足りるのかという疑問がわかなくもないけれど、世界中を飛び回り、本当にたくさんの映画人の証言を集め、ひとつの作品に作り上げた情熱に拍手を送りたくなる労作だ。



作品内でも延々と語りつづけたCousinsだったが、上映後のQ&Aでも予算的には常に苦しい状態にあったことや映画内で引用された作品やインタビューに登場する人物のインデックスをオンラインで公開する計画などをとてもエネルギッシュに紹介していた(TIFFフェイスブックアカウントから公開してもいいねと言っていたがその後どうなったのか不明。発見された方はご一報ください)。また、本作品が無料上映されたことも付け加えておきたい。上映前に会場へ行くと、ボランティアのひとたちがチケットを配っており、特に並ぶ必要もなく観ることができた。こんなに密度の濃い作品が無料で公開されるとはすばらしい限りだ。今回のトロントでは、この作品の他にもイランで拘束された事件が話題となったジャファール・パナヒの新作『This is not a Film』が無料上映の扱いとなり、また前々回の記事で紹介したBell Lightboxの一階にある展示スペースでは、ガス・ヴァン・サントと俳優のジェームズ・フランコが共同で制作したインスタレーション作品『Memories of Idaho』(製作から20年が経ったヴァン・サントの監督作『マイ・プライベート・アイダホ』をリヴァー・フェニックスの未公開シーンやオリジナル脚本から再構築し、追悼するビデオ作品。『Idaho』と『My Own Private River』の二本の作品から構成されている)が無料で公開された。


終了後、正午過ぎからのマチュー・カソヴィッツ『Rebellion』を観賞している別行動組と合流するためにBell Lightboxへ。距離も近く、天気もいいので歩いて向かうことにする。今回参加した三日間のうちトロントはどれも晴天に恵まれた。暑すぎず、日射量も多く、まだ冬の訪れを感じない今の時期はトロントのベスト・シーズンではないだろうか。合流までには時間があるので途中「リトル・ニッキーズ」というコーヒーショップで休憩。小さめの揚げドーナツが気になるも10個からしか注文できないらしい。悩むが、小腹も空いたので購入する。人気があるらしくお店は混雑しており、店員は少しイライラとしていたが、コーヒーは一杯一杯丁寧に淹れられクオリティーが高く、ドーナツも美味しい。もっと早く見つけていればもっと通っただろうに、参加最終日になったのがなんとも悔やまれるところだ。

合流。『Rebellion』は1988年に起きた仏領ニューカレドニアでの独立派による人質事件からフランス軍による残虐事件へと至る過程をカソヴィッツ演じる特殊部隊員の視点から描く重厚な政治ドラマで、ハリウッドとフランスを行き来するカソヴィッツらしくシリアスさとエンターテイメント性が両立されたジャンル映画に仕上がっていたとのこと。また正史からは隠蔽されてきた植民地(と人種的他者)をめぐるトラウマの歴史を呼び起こすという点では第二次大戦アルジェリア戦線での外国人部隊を描いたラシッド・ブシャールによる2006年の作品『Days of Glory』を思い起こさせもする。カソヴィッツによるストレートな政治的メッセージと2011年という公開時期は、もちろん、2014年にニューカレドニアで行われる予定の独立の可否を決める住民投票を踏まえたもので、作品は現実世界の問題とリンクされ、議論されることを望んでいる。Bell Lightboxの中でもおそらく一番広いと思われる劇場は挨拶とQ&Aに登場したカソヴィッツも驚くほど満員の観客で埋まっていたそうだ。Q&Aでは撮影に際し軍の協力は得ることができず、プラスチックや木板を使って戦闘ヘリや戦車に見立てたエピソードや、いまだに本国内でこの事件に対する認識が薄いことに対する懸念、またカソヴィッツニューカレドニアを休暇で訪れたときに映画の構想を得てから製作開始までに10年かかったという話(こちらも一本目に負けないくらいの労作だ)を紹介したとのこと。

終了後、Bell Lightboxに併設されたカフェで遅めの昼食をとる。マルゲリータピザとプルドポークサンドイッチ。朝から動いた(といっても劇場ではずっと座ってるわけだけど)疲れをとった後、市内にあるライアソン大学内の劇場でフィリップ・ガレル『That Summer』を観て今回のトロントは終了。傲慢なナルシズムと悲痛なリリシズムが同居した美しいフィルム。日の暮れ始めたハイウェイを用心深く走り抜け、ロチェスターへ帰る。(k)



Toronto International Film Festival 2011, Day 6: Review

断片的トロント国際映画祭TIFF)報告の第二回。
今回は映画祭六日目にあたる9月13日の上映レポートをお届けします。

早朝にロチェスターを出発し、再びトロントへ向かう。カナダに入り、しばらく車を走らせた後、マクドナルドに立ち寄り、買い損ねていたシャンタル・アッケルマンの『Almayer's Folly』の当日券をオンラインで購入。チケットは一度購入するとキャンセルが効かない規則になってはいるものの他のプログラムへの変更は可能なので、空きが出た場合は上映当日の朝7時から当日券の販売が始まる。(またチケットを持っていなくても上映に来なかった分や埋まらなかった関係者席が上映直前に開放されるので、Rush Lineと呼ばれる空席待ち用の列に並べば見れることもある。)ここ数日チケットの販売サイトをにらみ続けた感じでは、よほどの人気プログラムでない限りは(ベネチアで金獅子賞をとったソクーロフの『Faust』は売り切れのままだった)たいていオンラインで購入可能なようだ。

朝の交通ラッシュに巻き込まれひやひやしながらもなんとか時間通りに一本目の『Almayer's Folly』の上映会場であるBell Lightboxに到着。ベネチアでのお披露目に続き北米プレミアとなった本作品はアッケルマンによる劇映画としては前作『Tomorrow We Live』以来7年ぶりとのことで(その間テレビ用のドキュメンタリーなどを製作していた)、朝一の上映にもかかわらず会場はほぼ埋まっていた。『Almayer's Folly』はジョセフ・コンラッドの同名の処女小説を下敷きに、舞台を原作の19世紀マレーシアから現代のカンボジアに置き換え、旧植民地における自らの白人意識と混血の娘ニナの家出に苛まれるフランス人男性オルメイヤーの物語だ。しかし、上映前に舞台挨拶に立ったアッケルマン(想像していた以上に快活でパワフルなひとだった)はこの作品は原作ものとはいってもかなり脚色が加わっているのであまり意識せずに見てほしい、原作と比較することにあまり意味はないし、それに公開してからずっと原作のことばかり聞かれて少しうんざりしてる、と述べた。

前日のトロント初上映以降、なかなか厳しいレビューも出ていた『Almayer's Folly』だが、映画の冒頭での殺人からニナの導入へといたるまでのゆるやかでありながらもサスペンスに溢れた長回しのトラッキングショットからぐっと映画世界に引き込まれる。ニナと彼女に家を出るように説く男とのジャングルでの会話を収めたシーンや都市の農村部の故郷から都市の寄宿学校へと遣られたニナが路地を歩く姿を捉えるトラッキング・ショットは一様に息をのむほどであり、映画を通してカメラに収められその姿をさまざまに変える川の水面の豊かさはフィルム素材によってのみ可能なテクスチャーを生みだしている。また本作はアッケルマン作品の中でももっともエモーショナルなもののひとつだろう。とりわけ主人公オルメイヤーの感情表現の激しさには驚かされる。「今回は新しいアプローチを試みた」と上映後のQ&Aでアッケルマンが述べたように、登場人物の傍にカメラを据えほとんど執着的なまでに感情の表出を待ち続け、それをストレートに(古典映画の感情表現へのコメンタリーといった形ではなく)記録するスタイルはこれまでにはあまり見られなかったものだ。娘の離反という事実に対峙するオルメイヤーを約7分間にも及ぶ長回しのクローズアップで捉えた映画のエンディングがその試みの典型であろうが、これは同じ実験的な長回しでも、例えば、『ジャンヌ・ディールマン』の有名なエンディングでのそれとは正反対の効果を生んでいる(アッケルマンはどのようなスタイルであれカメラを通して観察し、記録するという意味においては自分にとってはすべて「ドキュメンタリー」であることに変わりはないことを強調していたが)。男性主人公のセンチメンタルな感情の爆発という点に関しては好みが分かれるだろうが、娘の家出というアッケルマン的主題(『News from Home』)にここで父親という視点が導入されたことは興味深い。個人的には、エンディングよりもひとつ前の、砂州の上でニナがオルメイヤーに別れを告げる場面で、彼女とその恋人が乗り込むことになる船がフレームの外から画面後景にゆっくりと滑り込んでくるシーンの演出の素晴らしさを記すことでこの作品を称えたい。



上映終了後、昼食を取り二本目へ。ここで前回に引き続き班別行動。1班は近年アジア映画の新潮流となりつつあるフィリピンのJoseph Israel Labanによるデビュー作『Cuchera』へ。会場はさながらトロントの渋谷交差点とでも呼びたくなるような場所に立つAMCのシネマコンプレックス。近年多くのフィリピン人が貧困などから麻薬の運び屋となり、中国などで検挙、投獄、死刑宣告されるケースが急増している問題を取り扱ったフィクションだ。もちろんフィリピンにおける麻薬問題が現在進行形の重要な社会問題であることに異議を挟むつもりは全くないが、スラム、貧困、麻薬といった第三世界的テーマをポップな暴力表象で味付けした感じは既視感があったし、作品をグローバルな商業サーキットに乗せるためのあからさまなマーケティングが多少鼻につく印象を受けた。運び屋がチューブに入った麻薬を唐辛子と一緒に飲み込むなどして体内のあらゆる場所に隠そうとする様子が何度も繰り返し描写されるが、これも行為そのものの観客へのショック効果がやたらと強調され、ゴアやトーチャー・ポルノといった商業ホラーのサブジャンルとの近接性を感じさせる。もちろん国際映画祭にマイナー映画を文化的差異として承認し(ニュー・ウェイブというお墨付きを与え)、グローバルなマーケットに流通させるという機能的側面がある以上、製作者たちがマーケットに入り込むための「交渉」を行うことは当然ではある。上映後のQ&Aではローカルテレビ局のために制作したドキュメンタリーが元になっているということが繰り返し強調されていたが、ローカルな文化的正統性へのアピールとグローバルな観客にも受容可能なものとするための既成商業ジャンルへの目配せを上手く両立させることは非西洋世界の多くの映画製作者が向きあっている問題であることが窺われた。


2班は今年のカンヌで好評だったという『House of Tolerance』をアート・ギャラリー・オブ・オンタリオ(AGO)併設のジャックマン・ホールで。『Tiresia』で2003年のカンヌ映画祭コンペ部門にノミネートされたベルトラン・ボネロ監督の最新作は前売りの段階でソールド・アウトで、ラッシュラインには当日券を求める人々が列をなしており前評判の高さがうかがわれた。物語は十九世紀の終りから二十世紀初頭にかけての娼館を舞台に、ひとりの娼婦が馴染の客からベッドにくくりつけられナイフで顔を傷つけられるところから始まる。題名が示すように、本作は大胆な音楽の挿入と娼婦達が夜の客たちのために着飾る潤沢なフリルの重なりを通して、放埓でありながら息苦しく閉鎖された館の内部で生きる女たちの忍耐と寛容を描いている。娼婦、暴力、そしてトッド・ブラウニングが『フリークス』で描いたような怪物的な祝祭性を現代的な感覚で描きなおし、観客の十九世紀的な視覚への欲望と冒険心を満足させる野心的な佳作であると言えるだろう。



合流後、ダルデンヌ兄弟の『The Kid with a Bike』へ。カンヌでグランプリを獲得した有名監督の新作ともあって、ハリウッドの新作などがお披露目されるメイン会場のひとつであるウィンター・ガーデン・シアターは観客の穏やかな高揚感に満ちていた。賞レースがあり、どの映画祭に出品するかで映画製作者の間で熾烈な駆け引きが展開されるというヨーロッパの映画祭とは異なり、カンヌとベネチアの後に開催されるトロントにはコンペティション部門が設けられておらず(投票による観客賞だけ)、ヨーロッパで賞を獲得した映画の上映となると受賞を祝う祝賀会のような雰囲気がある。上映前に登場したダルデンヌ兄弟も終始リラックスした様子で挨拶を行った。映画が初めて世界に対して開かれることに対する興奮や製作者と観客との間の緊張感にはやや欠けるところがあるし(上映後のブーイングに遭遇したことはまだ一度もない)、映画祭が商業的成功を収めた現在では巨大な見本市的性格が強くなっている様子のトロント映画祭ではあるが、どこかおおらかでリラックスした雰囲気がある。また大規模ながらもアットホームな雰囲気が保たれているのはオレンジのTシャツに身を包んだたくさんのフレンドリーなボランティアによるところも多いだろう。すべての上映前にはボランティアを称えるショートフィルムが流され、観客から惜しみない拍手が送られる。

作品はというと、公開から時間が経ち、すでに多くの情報が出ているので内容の詳細は避けるが、綿密に設計されたカメラワーク、確かな俳優の演出力、適切な上映時間にまとめられた効率的なストーリーテリングなど、どれをとっても彼らの作品があいかわらず安定して高い水準にあることが証明されたと言えるだろう。むしろ物語世界が彼らのよってあまりに完全に制御され、危うさがあらかじめ入念に取り除かれていることに退屈さを感じてしまいたくなるほどだ。なかでも、父親を強く求めながらも拒否され、児童相談所に預けられた主人公シリルを引き取り、共同生活を始める女性サマンサを少ない科白でドライかつ繊細に演じるセシル・ドゥ・フランスが素晴らしい。上映後のQ&Aではダルデンヌ兄弟が自作のプロモーションで日本を訪れた際に聞いた事例をもとに物語をつくったエピソードを紹介した。また今回初めて音楽を使ったことについても、これまでもポリシーとして排除してきたわけではなく、今回情感を与えるために必要と判断したので、観客になじみがあってエモーショナルなベートーベンを選んだと話した。


しばしの休憩の後、ジップカーのドアが開かなくなるトラブルに見舞われつつも、夜10時からの園子温ヒミズ』の上映のためScotibank Theatreへ。周知の通り、古谷実の傑作漫画の実写化であり、園自身初の原作ものの作品である。また先立って行われたベネチア映画祭で主演の染谷将太二階堂ふみが新人俳優に送られるマストロヤンニ賞を受賞したニュースがトロントにも届けられた。トロント初上映ということもあり、大きめの会場はかなり埋まっていた。311後、脚本を変更し、被災地での撮影を敢行した野心作だが、作品を社会派の枠に落とし込む安易なセンチメンタリズムを拒否するような俳優たちの遊戯的かつ躁的な演技にトロントの観客は受け取り方を考えあぐねているようだった。が、まばらな拍手にこめられた困惑は彼の試みの成功を証明していると言えるだろう。この作品についてはまた別の機会に譲りたいが、とりあえずは、『紀子の食卓』で素晴らしいデビューを飾り、今作でもワンシーンだけ顔を見せている吉高由里子が撮影現場を見て「何かが決壊したような」作品になりそうだと言ったその言葉に賛意を示すにとどめたい。(k)

Toronto International Film Festival 2011, Day 2: Review

長いあいだ更新が滞っていましたが、ここで気持ちを入れ替えて再出発。
今回はトロント国際映画祭TIFF)についての報告です。

1976年に始まり、今や北米市場にとって最も重要な映画祭となったトロント国際映画祭も今年で36回目。
映画祭二日目にあたる9月9日、ロチェスターからハイウェイを飛ばし、国境を越え、アキ・カウリスマキ監督の『Le Havre』、Ruslan Pak監督の『Hanaan』、そして「Wavelengths 1: Analogue Arcadia」と題した実験映画のプログラムを鑑賞した。

トロント到着後まず最初に向かった『Le Havre』は今回が北米プレミアということもあって、前売り券は完売、また会場にも当日券を求めて長蛇の列ができるほどの大人気。内容の要約は、トロントに先立って上映したカンヌ映画祭日本語HPに詳しいのでここでは省くが、移民問題と言うヘビーな題材に取り組みながらも「こんな時代だからこそわたしたちには幸福な物語が必要だ」と言ったらしいカウリスマキによる優しく、楽観的な物語(そしてあっけらかんなまでのご都合主義!)に会場は暖かい雰囲気につつまれた。

今回の上映には、主人公の靴磨きを好演したAndré Wilmsが舞台挨拶に登場した。上映後のQ&Aでは、ユーモラスな答えで会場を和ませ、トロントらしい気さくで打ち解けた上映会になった。Wilms氏はカウリスマキミニマリストな演出について高く評価し、監督の(あるいはWilms氏の)マニフェストである「less is more」(少ないことは即ち豊かなこと)という表現を繰り返し使った。その中で、監督がある日「俳優と話をするのは疲れた」とつぶやき、その日は終日口笛だけを用いて演技指導をしたエピソードなども聞かせてくれた。共演したアマチュアの子役Blondin Miguelの好演ついては、「子どもの記憶力はおそろしい。なんたってまだ酒で脳がやられていないからね」などと言って笑いを誘った。



終了後、チャイナタウンで遅めの昼食を取り、二本目は二手に分かれることになった「ドライデンのブログ」遠征チーム。A班小川が向かった『Hanaan』はロカルノに続いて北米では二度目の上映。TIFFでは新人の作品を紹介する Discoveryというカテゴリーでの上映となっている。コリアン系ウズベキスタン人の若者たちが、ドラッグと犯罪が氾濫するタシケントで生きのびていく過程を淡々と描く力強い作品。自身もコリアン系ウズベキスタン人であるRuslan Pak監督も会場に来て挨拶をした。どういう理由か、この作品はI-Maxのような特大のスクリーンで上映されたが、手持ちのHDカメラを多用した作品のためあまり適切な上映環境とは思えなかった。(左の写真は上映会場であるScotiabank Theatreのエントランスと劇場をつなぐ巨大階段。)

B班河原はジャ・ジャンクーの助監督を務め、デビュー作『ワイルドサイドを歩け』が好評だったHan Jieの監督第二作『Mr. Tree』(前作に引き続きジャ・ジャンクーがプロデューサーとして参加している)を見る予定だったが、時間が合わずやむなく断念。トロントはすべての会場がダウンタウンに集中していて移動も少なく快適ではあるけれど、それでも会場間の移動や食事の時間などを考えて上手くスケジュールを組むのは毎度のことながら頭を悩ませてしまう。まあ、それが映画祭の楽しみのひとつではあるけれど。

一本逃して時間が出来たので、B班はオンラインで購入しておいたチケットの受け取りのため、キング通りにあるBell Lightboxへ向かう。昨年完成し、前回のトロント映画祭に合わせてお披露目されたこのBell Lightboxは近年商業的重要性をますます高めているトロント映画祭の勢いを象徴する施設だ。ダウンタウンの中心部に位置するこの建物には映画祭の本部が恒常的に置かれ、ギャラリー・スペースやライブラリー施設、そして計5スクリーンの劇場があり映画祭以外にも一年を通して様々な上映プログラムが提供されている。マルチ・スクリーンの大型上映施設はシネマ・コンプレックスならぬ「シネマテーク・コンプレックス」といった趣で、シネマテークと商業主義がしっかりと融合されたという印象だ。(その商業主義的な雰囲気は建物上階に入った高級コンドミニアムや建物内に出店された流行りのレストランによっても際立たされている。とはいえここでの映画文化の多様性が映画祭の商業的成功によって担保されているのも事実なわけだから、これはむずかしい問題だ。)隣接する土地には「シネマ・タワー」と名付けられたタワーマンションの建設が予告されており、そこでは工事用のクレーンを使った即席のアトラクションが催されていた。(右下の写真)。原初的な視覚装置のようなそのアトラクションは「シネマ・タワー」という名のビルの建設工程に必要不可欠な、まるでそれがなくてはビルが立たない儀式のようなものに見えた。



『Hanaan』終了後、再び合流し、休憩を挟んだ後に、夜9時からの三本目の上映へ。「Wavelengths 1: Analogue Arcadia」はカナダが誇る芸術家マイケル・スノーの代表的な実験映画『Wavelengths』(1967)の題を冠したプログラムのうちの一つだ。会場は『Le Havre』と同じくアート・ギャラリー・オンタリオ(AGO)に併設された映画館。北米ではアートギャラリーが実験映画を積極的に製作・上映を手がけることが多くなってきていて、ギャラリーと映画の関係が議論されることも多い。4月のメカスのインタビューでも映画館で上映されない映画については話題になった。その点ではTIFFでは「Wavelengths」を映画館で上映していることは特筆したい。今回のラインアップではアーティスト・フィルムメーカーとして注目を集めるTacita Dean(10月からはテート・モダン、タービンホールでの展示が決まっている注目アーティスト)の作品『Edwin Parker』からローカルな(オンタリオ州に隣接する米NY州を拠点とする)Joshua Bonnettaの作品「American Colour」などを含む非常に多彩なものだ。会場は『Le Havre』と同様に埋まっており、映画館という環境も幸いしてか、7作品の上映の途中で席を立つ人も数えるほどしかいなかった。

Tacita Deanのタイトルにある「Edwin Parker」は、今年7月に他界した芸術家Cy Twomblyの本名だ。本作品でDeanはまるでRobert Wisemanの超越的なカメラのように淡々とParkerの姿を記録する。スタジオで仕事をする「芸術家」Twomblyの姿はピントがはずれてぼやけて見えないが、飾り気のないダイナーで食事をするParkerは姿だけでなく南部訛りの声まではっきり聞き取れる。Deanの作品群には米国のダンサー・振付師であるMerce Cunninghamの記録もあるが、これもCunninghamが他界する前年に発表されている。

「Wavelengths」のプログラマーAndréa Picardは、上映前にDeanが使っていたロンドンのラボが突然閉じてしまった話、そして今年になって相ついで亡くなったGeorge KucharやAdolfas Mekasを含む実験映画のキープレーヤーの話などをして実験映画の転機が訪れていることを強調した。