遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

翻訳家 山岡朋子さん その50: 南米ベネズエラのこと その3  講演会メモから

講演会 「ベネズエラ文学を語る」 での質疑応答中様々なやりとりがありましたが、私が興味があってメモを取ったのは以下3つ;

  1. ベネズエラ女性の活躍

  2. 文学作品のPDF無償提供

  3. 「詩」 に関するコメント


● ベネズエラ女性の活躍


データの裏付けはありませんがベネズエラで暮らした経験から判断しても、例えば日本と比べて、様々な分野での女性の活躍が目立ちます。前回紹介のイレネさんの様に政治の世界での活躍、あるいはビジネスや文学の世界での活躍。これは中南米全般に云えることかも知れませんが、ベネズエラでは特にその傾向が顕著なのかも。


政界・文壇など華やかな世界以外でも、たとえば会社の様な正規雇用の世界から道端の物売りの様な非正規の世界まで、とにかく女性が目立ちます。もちろん純粋な?野心家も才智あふるる女性もいらっしゃるでしょうが、様々な事情からオトコを頼らず、オンナであり母であり父であり一家の大黒柱であり、とにかく全ての機能を果たさなければならないのでやむを得ず、がきっかけとなっているケースも多いのではないか? 講演の中では、" --- Las mujeres (venezolanas) salieron a la calle y no regresaron." と紹介されておりました。


私が会社勤めをしている頃、中南米以外に駐在経験のある方に伺ったところでは、アジアなどでも女性の進出が著しい国がある様です。(すると相対的に男性は−−−)


中南米ではマチスモ、日本だと男尊女卑やら亭主関白の伝統? がありますが、たとえば男らしさの象徴の様な 『九州男児』 の場合; 私は九州の男性に何の反感も憧れも持っておりませんよ、念のため。大昔鹿児島の女性とお付き合いがあった頃よく言われたのが、 「オンナあっての九州男児、オトコだけでは役立たず」 と云う様なことでしたっけ。亭主関白だって、奥さんあっての関白。中南米も日本も実質完全に女性に主導権握られていますね。ですから女性の進出を拒絶する様な風土を排して活躍の場が確保されたら、あるいはその様な場に放り出されたら、間違いなく女性の方がツヨイのでは。


また蛇足かつ偏見かも知れませんが、ベネズエラは、男女関係に関してフランスと似たところがある様な気がします。私が住んでいた時のさる大統領の私設秘書と云うか愛人 (注:その後その元大統領とアメリカでご結婚なさった様ですね) に関しては、その名前から出身地から仕事ぶりまで国民周知の事実でしたし、秘書の日 *1 は何故かホテルが宿泊予約で一杯になるとか、とにかくおおらかでしたね。あれ、アイツは結婚してなかったっけ? などと云う野暮は無し。女性の進出と関係があるのかは --- どうなんでしょうかねぇ。(セクハラも相当あるのかも知れませんが)


● 文学作品のPDF無償提供


聴衆の男性から 「チャベス政権となって文学の世界は何か変わったか?」 の質問がありました。講演者からは、特に変化は感じられないと云う回答があり、かつ確か司会者 (外交官) から回答の補足として紹介があったのは、 "Editoriales Ayacucho " などでインターネットを介して文学作品が無償で提供されていると云うことでした。もし質問者が反チャベス的な回答 (出版統制や弾圧がある、的な回答) を期待していたのであれば残念ってことですが。


帰宅後調べてみましたら、どうも以下サイトを指す様です;


Biblioteca Ayacucho Digital (通常の書籍紹介ページと分かれている)
http://www.bibliotecayacucho.gob.ve/fba/index.php?id=103


urlから判断してベネズエラ政府の一部門ですね。PDFにて無償提供されているのは全て中南米の作品で、本日時点で計166作。そういえば山岡朋子さん(横山朋子さん名)翻訳の 『ルス、闇を照らす者』 の原作 "A veinte años, Luz" も、作家のHPから直接ではありませんが、リンク先 http://www.abuelas.org.ar/ (祖母たちのサイト) から無償でダウンロード出来る様になっていますね。


出来るだけ多くの読者に気軽にアクセスしてもらい中南米文学をアピールしたい、もっと知ってもらいたい、と云うサービス提供者の意図に鑑み、中南米文学やスペイン語を学ぶにあたっては最大限利用すべきですね。


● 「詩」 に関するコメント


聴衆の女性から、 「日本では詩が読まれなくなって来ているが、ベネズエラではいかがか」 と云う趣旨の質問がありました。またか、と云う気がしましたが、


講演者か司会者から、「今の世代は、娯楽のバリエーションが我々の(=昔の)世代と比べて格段に多く、詩以外にも楽しいものが沢山あることを認識すべき。ただしマルチメディアで芸術を表現する新しい方向も見えてきており、それをきっかけとして詩に特化していく若いひともいるのではないか」 と云った趣旨の回答がなされました。


この回答には諸手を上げて賛成!! どうも日本では、詩とは本で読むもの、と云うのが 「正当な」 楽しみ方と思われているのではないか? 幸か不幸か私はその様な楽しみはネクラとしか思えず、むしろ音になった朗読なり音楽として楽しむ 「邪道」 に走りましたから、響きのよいスペイン語にのめり込んだ訳でして。(でもこの頃、日本語でもいいものが沢山あるな、と、今更ながら認識を新たにしています。)


「詩が読まれない」 なんて嘆くひとがいたら、言っちゃ悪いがそれは余程観察力の無いひとか、頭の固いひととしか思えません。駅前やひとの集まるところで、ギターかかえてオリジナルの歌を歌っている若いひとを見かけませんか? またそれに聞き惚れてその周りに座っている人達は? 結構いますよね? あれは正に、表現の方法は昔と違うが 『詩』 を楽しんでいるのではありませんか? 感情を表現する方法は、昔と違って今はバリエーションが非常に多いのですよ。私は、詩と歌とは本質的には同じものととらえています。


『詩』 は言葉のアートですね? 上述の如く表現方法が変わるし、加えて言葉そのものも変わっていきますね。生きた人間の行為ですから。 『詩』 をどこかの時代と方法に固定して定義付けて楽しむのは、それは個人の勝手です。好みの問題ですからね。私の大好きなフラメンコなんて、その最たるものです。


でも、意外と質問者はそれを承知のうえで敢えて質問なさったのかも。またか、と思う私がヒネクレているのかも知れませんネ。

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*1:“el día de la secretaria”、上司が秘書に感謝を捧げる日。ネットで見る限り中南米特有? アルゼンチンの場合、今年は9月4日。




出典: http://www.tarjetas.com/dia-secretaria/tarjeta-dia-secretaria-950-114.html

デジタルカード屋さんの宣伝ページより。