遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

今週のお題「生まれ変わったらもういちど私になりたい!」

お題の趣旨は 『楽しい妄想が広がるテーマ』 ですから、実際には有り得ないことが前提ですね。また、 「生まれ変わる」 前の記憶を保持していることもきっと前提でしょう。かつ、 「生まれ変わる」 と云うことは、 「ココロを入れ替えて生まれ変わる」 のではなく、一度この人生が終わることも前提ですね。であるならば、私はまた私に生まれ変わりたい。そりゃそうです、映画 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』 の何作目かにあった様に、スポーツの試合やら競馬などの結果一覧を持って過去へトリップする様なものですから。


生まれ変わり願望は、中には 「大変充実しているからこの続きを生きたい・何度でも再生したい」 と云う羨ましいひともいるでしょうが、大半は現状否定型の無いものねだりでしょう。現在 (の自分の置かれた状況) をどう認識するかは考え方次第でどうにでもなりますが、過去には消し去りたい・なかったことにしたい・やり直したいデキゴトが数多くあるのも事実。私にも思い出すだけで顔から火の出る様な失敗や、相手にとんでもない誤解を生じさせた軽率な行動、ああすればよかったと云う後悔等々、数や馬鹿さ加減では誰にも負けません。手に入らなかったものへの憧れや、失ったものへの未連だってある。


例えばオトコなら、若いかーちゃんをもらい直した? 石○純○さんに憧れるかも。でもあれだけ甲斐性がありかつ女性に対してマメになるのは、きっと並大抵のことではないでしょう。憧れる人に 「生まれ変わって」 みたら当然他人からは決して見えない実像を生きる訳ですから、間違いなく後悔するでしょうね。また何かを失いはしたが、それに代わる別のものを手に入れたと云うことだってある。全てを否定する意味も、世間の物差しと比較する意味も無い。


−−− 先日、 「生き物」 への虐待か? −−− スペインの闘牛のこと - 翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記 の最後に勝田保世さんの著書から 『輪廻の六道』 と云うコトバを引用しました。少しだけ抹香臭いハナシをするなら、これは仏教用語で 『自らの意のままにならない、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄』 を指すそうです。その後大乗仏教が成立して輪廻思想はより一層発展し、 『自らの意思で転生先を支配できる、縁覚・声聞・菩薩・如来』 としての境遇を想定し、六道とあわせて十界を立てるようになったとか。 (ウィキペディア 「輪廻」 より)


私の 「もういちど私になりたい」 願望は、冒頭に記した様な 「楽しい」 妄想とは限りません。「輪廻」 なり 「転生」 があるとしても、私は 「前の生」 がどの様なものであったのか全く記憶にありません。犬だったかも知れないし、しぶとく生きるチャバネゴキブリだったかも知れないし、オトコを手玉に取る眉目麗しい人間の女性だったかも。ってことは、 「次の生」 でも同じだろうから、結局御破算で願いまして 「その時の私」 を生きるしかない。従って願望ではなくて、選択肢の無い現実でもあります。


ただ、結構ミジメで辛いことの多い人生の中で、いっとき 「あの時こうしていればこんなことがあったかも / もし私がこうだったら」 と楽しく妄想にふけることは、ココロの安全弁であったり芸術の原動力となるのかも知れませんね。また無駄かも知れないが何かを求めて奮闘するのも、生きる源泉になる。 「次の生」 だけに期待して今を捨てることは、愚の骨頂とおもいます。人間の細胞は何日間かで全て入れ替わる様ですし、別に性転換やら整形手術などに頼らず考え方を変えるだけでも、この生の中でだっていつでも 「生まれ変わる」 ことは出来るのですから。