Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

日本語の早道2

日本語の早道1 - Emmaus’の続きである。

わたしとあなた

トラックバックをいただいたkarposさんのエントリー日本語 - 新生★KARPOS
続けて日本語 - 新生★KARPOS。アントワーヌ・キュリオリ。発話操作理論。ふむふむ。なるほど。
ボクのエントリーの<語>においても発話が事の中心だ。それにやはり<語>と言語とを少し意識化して識別することも要かも知れない。(だがボクはリクールのその本を読んでない。karposさんに感謝)。
発話がある。状況や人との関係において必要なら「わたしとあなた」や「主体と客体」を省略も出来るしまた現わすことも可能だという日本語なんだが。なぜそうなんだろう?この後に明らかになる。 しかしやはり、パースペクティブなこととしてそのように見えるかたちで「わたしとあなた」が提示されなければなのだろうか。見えることで見えないことをも知り、また見えないことをも観るということにはならないかな。見える方が分かりやすいことは当然だが。何せ必要なかったら布団だってすぐ畳じまう日本の伝統である。パースペクティブなことはまた別のエントリーとしようと。
まあそれはそうとして、わたし(Je)は発話者そのものだから当然の前提にされるが、では発話の対象者の具体的な「あなた」がない場合はどうなんだろう。しかしモノローグとて発話は対話的であると云える。一人絶海の弧島でも対話的であるのは想像に難くない。更に視野を広げて数学の証明でも対話的構造にあると云ったのはまたしても中井自身である。

言い表わす発話として

だが勢い<語>を言語一般に間口を広めると少し無理が生じる。というより中井はやはりきわめて臨床的なのである。言語における現象や事象を文化言語論や比較文化論として抽出したり還元するのを中井は注意深く識別してためらう。何故か。やはりあの神戸大震災の精神科医の体験があるからか。(無論、文化言語論としての展開も興味があることだし、時枝がソシュール言語学にも精通してもいている意味で言語論そのものも新たな展開になるかも知れないが)。
所謂発話について中井はこう云っている。

要するに、実際において、発話あるいは作文とは、要素を組み立てるプラモデル作成のようなものではない。前の語、句、文に導き出しやすいように、語、句、文を選んでゆくということである。この立場に立つと、語と句と文の相違はではなくなる。音と意味とは、共に接続をなだらかに、生き生きとしたものにするために協力する要素である。詩においては特に、この面が重要であろう。・・・そして、日本語は、特に接続的(演算子的)部分に文法的工夫を凝らした言語であり、演算子的に眺めると、多くの、一見無用と思われてきたものが、生きて見えてくる(これはほぼ同一の文法を持つ朝鮮語においても言えることだろう。ここから日本人論に性急に抽出しないことだ。)

情報の既知・未知


時枝の風呂敷から次に主語を略す理由である既知体験ということを巡らすために中国の古典「春秋」の注釈書「公羊伝」を中井は例に引く。
僖公十有六年。春、王正月戊申、朔、隕石于宋、五。是月、六鷁退飛過宋都。
(春、王の正月戊申、朔、宋に隕石あり、五つ。是月、六鷁退飛して宋の都を過ぐ)
先ずは何かが隕ちた。それが石で五個もあったと。で六と云ってそれが鷁という鳥でそれでもってまたずっと見ていたら後ろに飛んでいっちまった。・・・と記見(記録)している。このように春秋の文は論理や文法でも表現法をおろそかにはしていない。それがまた王道の盛んにするの一法である・・・と中国の「五石六鷁の作法」を例にしながら、人間のニチジョウの発話の伝達のしくみと既知情報の体験過程を中井は説き解してくれる。単なる例の5W1Hではない情報の未知を既知に取り込んでゆく順序が肝要だ。ここが中井の真骨頂だ。情報の既知と未知がうまく接続されないと混乱が生じるのだ。110番の連絡のようにだ。どの言語にもあるのだが、一つの言語における既知領域と未知領域の比はほぼ一定だがこの比が最大なのが日本語であるという(英語学者・枡矢好弘教授)。むむ奥が深すぎるぞ。

風通しのいい<語>

「行く」という行為や「美しい」という形容までもが「どうしたのか」という述語として風呂敷のど真ん中に収まるという深くてこわ〜い日本語。ではなぜ日本語が主語がなぜ補語と一緒になりその補語さえ省略し廃棄される傾向にあるのか、またそのことが滑らかにこのボクらの耳に聞えるのか。あの時の電車のふたりの会話のようにだ。
これからは「時枝の風呂敷」と「情報の既知と未知」のボクの展開なのだが・・・。自在な大きさになる風呂敷は必要によって大きくもなり小さくもなる。既知領域を示した後に未知を既知に織り込む体験過程をいかにスムーズに繰り込むかということが要になってくる。よく本の後書きから読む人がいるが、あれは結論を知りたいのではなく未知を既知情報に取り込みたいからだ。自分との既知の共有を測っているのだろう。だから無論初対面の人にまったくの未知である「よかった」*1という語が風呂敷のど真ん中には来るはずもないのはしごく当たり前だ。発話の過程が特に日本語の接続的特質*2に起因している。<語>の中心に述語がなく語彙だけがその同心円にある周辺を漸層的に進んでノタリクラリとなるともう発話は放漫で意味不明なことにもなる。まして既知の部分が一向に未知の領域に促されないならば遅々として聴く者の苛立ちは隠せない。既知の領域が共有されて用も済ませた風呂敷をいつまでも開いていりゃ余計な馬鹿なことの一つや二つの減らず口を叩く羽目になるというもんだ。だがそれは決して曖昧な人間関係の世界を共存させたものではないことも確かである*3

やはり<語>の本質が静的*4ならいざ知らず<語>は動的*5であってこそなんぼの言葉だということが出来るのではないか。というのもつねに<語>が<語>を呼び覚まし促され次の<語>が導きだされて関わりあうにはそこの空気の淀みがあってはダメだ。ぶつくさ云うより黙って表の窓を開けて風なんかを入れてやる方がおのれの目の前が開けてきてよっぽど気持ちがせいせいしてくるというもんだ。発話者の「私」がいて聞く「あなた」がいる。あるいはその逆もまたある。風通しのいい互いなら(対話的であるなら)いつも生き生きとした新鮮な感覚を持たせてくれるに違いない。しんぼうして既知と未知をようく心せねばならない。またなかなか一見無用と思われる風呂敷も、何だかそう思えば乙なものに見えてくるものも不思議なものだ。日本語の早道は端折っていながら急がば回れというていねいなことに収まりそうだ。

*1:日本語の早道1 - Emmaus’

*2:演算子的あり、ある関数を別の関数にうつす写像である

*3:いみじくもkarposさんが紹介されている日本語 - 新生★KARPOSF.ドルヌ著のまとめにあるように寄席の挨拶で使われる「お後がよろしいようで」という日本語がよくこれを象徴している。これもいわゆる申し送りいう接続と直截さを避けた既知と未知との実例だと云える。

*4:単語やフレーズ等を項に相当する静的な完結として閉じたもの

*5:演算子によって静的でなく動的な非完結的な文法