メタエグリーマ (3/2)

 エグリーマのところの娘が夜な夜な人の目玉を抉り歩くようになってから二月が過ぎた。最初の内はお役人連中が事件をうまく隠していたようだが、被害者が二桁を越えたところでそれも難しくなった。噂はじきに現実の脅威として人々に認知されるだろう。エグリーマ一族の存在自体が表沙汰になることはさすがにないだろうが、あの娘がこれ以上放置されるようなことはありえない。おそらくは政府の暗士が、あるいはもしかしたらエグリーマの者自らがその手を下すことになるかもしれない。いずれにしても、今回のことでエグリーマは国に大きな借りを作ったことになる。二百年以上も社会の裏を統べてきたエグリーマ一族だが、これからはその力関係も変わるだろう。
「いまいち実感湧かないんですけど、えらくあっさり崩れるもんなんですね。いくら俺たちが最近昇り調子だからって、エグリーマのナンバーワンはあと半世紀は揺らがないもんだと思ってました」
 先ほどから資料を抱えて棚の前を行ったり来たりしていた雑用の男が、仕事に一段落をつけて私の向かいのソファに座った。雑用とはいえ彼も一応は我々ミミソギ党に忠誠を誓う同胞、妙な気兼ねをすることはない。
「畑の外には決して迷惑をかけないというのが、強い力を持ち過ぎた彼らなりのけじめだったからな。絶対の信条、誇りと言ってもいい」
「それをあの娘が破っちまったと?」
「しかも由緒正しい本家の後継ぎが、一族の力を無縁の一般人に向けるという最悪の形でだよ。国に頭が上がらなくなったというのもあるが、支えであった信念が砕かれて内側から瓦解しかけているとも見える」
「は、でも何にしても拍子抜けですよ。なんか侘びしさ覚えちゃうなあ」
 雑用の男は小さくため息をついて軽く両手を広げた。彼の気持ちも分かる。エグリーマの一族が私たちの住む裏世界に落としてきた影は黒く根深い。圧倒的な存在感だけは嫌でも伝わってくるのに、その実体については毛の先ほども明かさない謎の組織。このミミソギ党の中でも連中の深部を詳しく知るのは私くらいのものだ。彼のような若者にとって、エグリーマは神話のような存在だったのだろう。
 彼はそのまま顔を天井に向けて、ゆっくりと部屋中に視線を這わせた。資料棚と二つのソファ、それに小さな机があるだけの狭い部屋を一巡りして、視線はまた私の方に戻ってくる。しかし彼が私と目を合わせることはなく、その視線は私の頭を越えて背後を睨んだ。彼の見つめる先、私の視界の外で扉の開く音がする。
「あれ」
 雑用がすっとんきょうな声を上げてソファから立ち上がり、開かれた扉に近づく。
「きみ、誰?」
 私はゆっくりと首を背後に向ける。開かれた扉が見える。しかし雑用の男の身体が邪魔になって、扉の向こうに誰が立っているのか確認できない。一瞬の後。
「ひい、い!」
 叫びを上げて雑用が床に倒れた。両手で顔を抑えながら、白いタイルの上を這いずるようにもがく。床に少しずつ濁った血だまりが広がっていき、理性の感じられない苦痛の声が部屋の中に響く。
「おい、どうした!」
 私は立ち上がり、拳銃を構えて部屋の奥に引いた。扉の向こうに目をやり、呼吸が止まる。ありえない人物が目の前に立っていた。眼帯をつけた片目の女。件のエグリーマの娘だ。
「馬鹿な! なぜここにいる!」
 娘は雑用の男を部屋の外に蹴り飛ばし、ゆっくりと部屋の中に踏み入った。これから散歩に出かける令嬢のような、清潔な印象の出で立ち。帽子は今は脱いでいて左手にあり、反対の手には血にまみれたスプーンが握られていた。
「あなたが兄さんから奪っていったものを……義眼"ラジカルエグリーマ"を、取り返しに来た」
 娘は私を直視する。その視線に一切の濁りはなく、狂人や傀儡のそれではありえない。彼女に確かな意志があることは明白だった。
「まさか……貴様。暗示が解けたのか? "ラジカルエグリーマ"の暗示が」
「とんだ間抜け。あなたたちミミソギにしてやられたわ。人の目玉を使って兄さんの眼球を補おうだなんて、そんな馬鹿げた妄想をよくも植えつけられたものよ。おかげでたくさんの人に、取り返しのつかない傷を負わせてしまった」
「暗示を受けてのことだろうと……それをやったのはお前だ」
「その通りよ」
 娘の顔に悔しさのようなものが浮かぶ。私を睨みつける視線の力が強まった。しかしそれは闇雲な忘我の怒りではなく、何を是として非とするか知る者の目だ。
「返す言葉もないわ。やすやすと暗示にはまってしまった、私の未熟がすべての原因。あなたたちミミソギに、表の人たちへの気遣いを期待しても仕方ないもの。そして許せない……その義眼は兄さんのものよ。あなたのような人間がはめていて良いものじゃない」
 娘の足が一歩、私の方へ進む。スプーンを持つ右手が軽く持ち上がる。その先から、血が雫になって床に滴り落ちた。
「あなたが私にかけた暗示は全部でいくつ? 兄さんの眼窩を他人の眼球で埋めるという妄執、あなたが兄さんに殺されたという嘘の記憶、秘宝の存在と一族の信念の忘却、正常な判断力の喪失。私が自分で気づいたのはこれだけ」
 娘は私からまったく視線を逸らさず、しかし余裕のある顔でわずかに首を傾けた。
「他にもあるんだったら、解いて欲しいな」
「……くそ」
 すべて気付かれている。私が彼女の兄の眼窩から奪った一族の秘宝、"ラジカルエグリーマ"の瞳術はたしかに非常に強力だった。しかし相手が暗示の矛盾を自覚してしまえば、瞳術は当然その瞬間に解除されてしまう。
「なぜ気付いた……」
「兄さんの"秘宝"のことは知っていても、私の"秘法"のことは知らなかったのね」
「なんだと?」
「兄さんが受け継いだのは一族の秘法"ラジカルエグリーマ"。そして私が受け継いだのはそれと対をなす秘法、"メタエグリーマ"」
「まさか……まさか!」
 声が震えた。足がすくみ、身体が後ろへ下がる。背中が壁にぶつかり、そこに掛けてあった一昨年のカレンダーが外れて落ちる。
「すべての条件が満ちたとき、"すみやかに眼球をえぐる"」
「……なんだそれは! 理由になっていない!」
「それを環境が整ったときと言い換えてもいいし、必要なフラグが立ったときと表現してもいい。私がぼうっとしているときや眠っている時、無意識が頭の余っている部分を使って眼球を抉るための最短最易な方法を探してくれるの。頭の中のあらゆる情報を総当りで順列組み合わせ。素材が足りなければアタリが出ずにやり直し。上手い方法が見つかれば……あとはそれを実行するだけ」
「ば、馬鹿げている……」
「わかる? 暗示が解けているかどうか、それすら問題ではないの。私はただ導かれるまま、示された道筋をなぞっているだけ。自分の役割を、機械のように」
「……ひ」
 スプーンが彼女の目の高さに持ち上げられる。蛍光灯の光を受けて、血にまみれた銀身が湾曲した光を照り返す。それまでと異なる威圧を込めた口調で、娘は私に宣言する。
「ことの次第は既にしかるべき所に報告している。ミミソギも、あなたの独走として今回の事件を処理するでしょう。あなたが裏切ったエグリーマにも、あなたが組したミミソギにも、もうあなたの居る場所はない。抉リ入道、観念しなさい」
「……畜生!」
 私は三発の銃弾を続けざまに発砲したが、娘はまるで何でもないという顔でそれらを避けていく。照準は定まらず、娘の身体にはかすりもしない。しかし一発が運良く彼女の持つスプーンを弾いた。高い金属音が響き、忌々しいエグリーマの象徴は壁で跳ねて私の足元に転がった。私はすぐさまそれを片足で踏みつける。娘の動きが止まる。
「動くな!」
 私はもう一度銃口を彼女に向けた。彼女の失われた左目と開かれた右目、その中間に狙いを定める。弾はもうないが、相手がそのことを知っているはずはない。
「はは、動くんじゃあないぞ……! スプーンがなければ貴様など!」
 僥倖に私は思わず笑い出す。エグリーマにとっての唯一の武器、スプーンは奪われた。スプーンのないエグリーマなど一介の暗殺者と大差ない。銃が使えなくとも方法はいくらでもあった。状況はこちらの有利だ。
 しかし娘の表情に動揺はない。それどころか
「あは」
 愉快そうに、口元を緩ませる。
「暗示を受けている間、ずっと違和感があったの。人の目を抉るときの感触が、以前までとはなぜか違った。でもまともな判断力も暗示で奪われていたから、原因が分からなかった」
「……何を言っているんだ? スプーンなしで何が出来る!」
 一瞬だけ感じた勝利の予感が遠ざかっていく。一体こいつの自信は何なのだ?
「暗示が解けて思い出したのよ。本当に間の抜けた話。だって私はメタエグリーマとして子供の時からずっと、他のエグリーマと異なる特殊な訓練を受けてきたんだから。私が以前どうやって眼球を抉っていたか、それはつまり……」
「馬鹿な……」
 怖気がする。既に助からないことを知ってしまったかのように、私の身体は逃げようとすらしない。目の前の薄笑いが俺の思考を凍結させる。その口が、白い歯と赤い舌を覗かせながら少しずつ開いていく。


「さあて……眼球えぐっちゃうぞー」


 エグリーマの娘の丹念に鍛え上げられた美しい"指先"が、何かを摘むような形で私の左の目に伸びた。