進化と進歩の区別がつきません><

1:Nanashi_et_al.:2005/07/31(日) 00:44:51
進化と進歩の区別が付かない。


 普段から自然と使い分けてはいますけど、せっかくなので辞書で調べてみました。三省堂現代新国語事典では以下のように載ってます。

進化

  1. 生物が、変化・発達して、よりすぐれたものになること。
  2. ものごとが、よりよい方向に、進んでいくこと。

進歩
     ものごとがよい状態へとすすんでいくこと

 進化の2.と進歩の意味はほとんど同じ文面です。「進化は方向で、進歩は状態を指すのだな」とかいう問題では勿論なく、こんなもの表記の揺れの範囲です。その証拠に、別の辞書で調べたら方向とか状態とかういったニュアンスはなくなっていました。*1

 また進化の1.の意味は2.の中に内包されています。語義的に「進歩だが進化ではないもの」や「進化だが進歩ではないもの」を探すのは逆に困難というか、もろテクニカルタームとして限定用法が求められるフィールドで使われるとき以外は誤用のしようもない気がします。

「種の進歩」と聞くと流石にそれはちょっとと思わないでもないですが、上記の語義と照らし合わせれば決して誤りというわけでもありません。たとえば日本語に進化という言葉がなかったとしたら「種の進歩」という表現に違和感を抱く人もいなかったでしょう。つまりこれは誤用というよりもニュアンスとしてどちらがより適しているかという話で、むしろそういう意味では常に感覚磨きたいなとは思ってますけどそれはそれ。*2

 この手の専門用語をどう使うかの問題って他にもいくつかのパターンがある気がします。ひとつには専門用語を専門用語として使ってるくせにその用法が間違ってる場合というのがあって、たとえば権威づけのために他分野から難しい言葉を引っ張って来といてしかもその用法が全然なってない、みたいなのは一種の疑似科学とも言えるでしょう。同一の権威の元に同じ言葉を使って、しかもその用法がなってない、となれば批判に晒されるのも仕方ない気はします。上記の例とは一線を画するパターンではあるのでしょう。

 一方で「波動」とか「エントロピー」「シュレーディンガーの猫」あたりも科学出自の概念ですけど、権威づけというよりも言葉の比喩的イメージで何か面白いものを表現してやろうとして原義がねじ曲がっていったきらいがあります。この辺りの言葉の是非を問うのはかなりややこしくて、これらを容認することで得をする人を損をする人というのがやはり出てきます。普段何気なく適当に使ってる人にとっては便利な言葉ですが、専門的な用法になれている人には混乱や不快感を招くでしょう。同時に、どこに言葉の権威を見い出すかという問題にも関わってきます。専門用法を優先するか、辞書に載っていることを確証とするか、あるいは自分たちが日頃使っている言葉を信じるか。

 結局、文脈が違うのです。自分と相手の文脈が違う以上、公平を期すならお互いの文脈を擦り合わせるのがいちばんですが、自分の利益を優先するなら相手の文脈を否定する方が理にかなっているとも言えます。要は自分の立ち位置をどこに定めるかという問題にすぎず、どんな主張も相手を否定するような正当性を持ちません。公平をもって正当を主張するのすら一種の傲慢で、何が悪いかというと結局バベルの塔が倒れて神様が人々の言語を分かちたもうたのがいけないのです。人類ははやく絶対言語を開発すればいいと思います。以上、3時間考えてオチは思いつきませんでしたかなしい。

*1:たとえばgoo辞書だと の検索結果 - goo国語辞書 の検索結果 - goo国語辞書

*2:ニュアンスとしてはいつもはっきり使い分けてますがって書いたつもりが書いてなかった。