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「魔王14歳の幸福な電波」について

2009-01-17

「アンチミステリーVSアンチファンタジー」の行く先 - 『うみねこのなく頃に』の捉え方について

 かつてミステリー素人だった竜騎士さんは前作から一年を経て、取り返しがつかないほど理屈を知ってこの世界に戻ってきました。*1

 前作『ひぐらしのなく頃に』のミステリー的失敗は、いまや語り草とも言えるありさまで知る人に知れ渡っています。その反省と超克のため、竜騎士さんははミステリーというジャンルに関するひと通り以上の素養を学んだようです。ある種の理論武装をした彼が新シリーズとして発表したのがこの『うみねこのなく頃に』で、この辺の話は第一作公開直後の記事『うみねこのなく頃に』のミステリー・リベンジっぷりに書いたとおりです。

 学んだと言っても門外漢である彼はやっぱりどこかズレていて、ミステリーというジャンルの文脈そのものに乗っかって作品を作るということはしてくれません。けれど、『うみねこのなく頃に』がミステリーの文脈をそれなりに理解していなければ決して作ることのできない作品であるのも事実でしょう。

「この作者は一体なにをしようとしているんだ?」という興味と驚き。そういった関心の持ち方ができるのが、『うみねこのなく頃に』という作品です。


アンチミステリーVSアンチファンタジー

アンチミステリーVSアンチファンタジー」というフレーズが本作のお題目です。第三話の時点で発表された、このキャッチフレーズは、本作の構造をこの上なく見事に表していると言えるでしょう。第一話発表段階のキャッチフレーズであった「推理は可能か、不可能か」は言う方も聞く方も意味ジャンル的に屈折させやすかったので、こちらの方が筋がいい言葉だなと思います。

 非現実的な現象の「法則」を枠組みとしてかっちりと定義するタイプミステリーは、過去にも例があります。SF的な現象をミステリーに組み込んだ西澤保彦さんの某作品などはその成功例でしょう。こういった作品ミステリー整合性の中にファンタジーの文脈を組み込む融合的試みとしてとして「ミステリーファンタジー」とでも表現できそうな小ジャンルを作っています。

 けれど、『うみねこのなく頃に』の標榜する「アンチミステリーVSアンチファンタジー」は、上述の「ミステリーファンタジー」とはかなり趣を異にする方向性を持った試みであることを言っておかなければなりません。本作の「ミステリー」と「ファンタジー」は決して融合するのではなく、はっきりと"反目している"ものなのです。

 本作において「ミステリー」と「ファンタジー」はそれぞれ対立するキーワードとなっています。前者は「事件には合理的な真相があるはずだ(魔法などない)」という主張を代弁し、後者は「事件に合理的な真相などない(魔法はある)」という主張を代弁しています。両者は、相手の主張を自分の主張で塗り潰すために、それぞれのやり方で世界を説明しようとします。

 本作の「ミステリー」の側面は、犯人の動機や現実的な再現性すら度外視された過剰に論理的・パズル的なものとして突き詰められています。逆に「ファンタジー」の側面は、作者の嗜好が嗜好なだけにまあちょっとごにょごにょごにょ、といった感じのはっちゃけ魔女幻想です。「ミステリー」と「ファンタジー」、極端に対立する二つの現実認識の是非は、第一話から一貫して本作の中心的テーマとして描かれています。

 世界の合理的な解釈を否定する「アンチミステリー」と、魔法幻想を否定する「アンチファンタジー」。本作の「アンチミステリーVSアンチファンタジー」とは、まさにそういう意味で語られています*2。この異なる世界認識のぶつかり合いは、さながら思想闘争ならぬ世界観闘争の様相を呈していると言えるでしょう。


たたかいの行方

 本作のテーマ着地点としては、まずもの凄くレベルの低いところで「どうせ作者はまともな真相なんて考えてなくて、前作と同じように最後はトンデモで誤魔化すのだろう」*3という、「ミステリー」の敗北的な結末が予想できます。二作、三作と読み進めていって、作中でなんか普通論理バトルが繰り広げられていくのを目にする段になれば、こういう考えの人は少なくなってくると思います。第四作が出た現段階でいちばん楽に予想できるのは、最終的に全ての謎が合理的に解明され「ミステリー」が勝利するすっきりとした結末です。

 でも作品の端々をよく見ていくと、どうやらその結末も安直に過ぎるように思えてきます。現状における本作のあらゆる展開は、読者が「ミステリーの勝利」を信じられるよう、実に親切に誘導してくれています。親切なミスリードだと言ってもいいくらいです。けれど、不合理な「ファンタジー」を合理的な説明で否定する「ミステリー」の勝利、そんな単純な着地点で納得するには、この作品では"あまりにも多くのテーマが語られすぎている"のです。

「全ての事件の謎を説明する真相」が作者の頭の中にあることは、まず自明と考えていいでしょう。でも作者は、全ての謎をひと通り合理的にきちんと説明した後で、最後に「でも嘘でしたー」と舌を出しながら目の前で本物の魔法を見せつけてやることだってできるのです。ミもフタもなかった前作の残念な落ちとは全く別のレベルで、「ミステリー」が裏切られる余地は十分あります。

 じゃあ実は土壇場で合理性が崩壊して「ファンタジー」の勝利に落ち着けばいいのかというと、それもやっぱりただのイタチごっこみたいで物足りません。結局読者としては、"どちらかの単純な勝利にとどまらないその先の何か"が見たくてたまらないのです。『うみねこのなく頃に』は、読者がそんんな結末を求める表現にまで踏み込んでいると思います。

 本作では「魔法=信じること」という文脈の元に、その解釈についてかなりの言葉が費やされています。このテーマは、ミステリーパート推理のために交わされる合理的な言葉と比べても決して劣らない強度で語られます。そこには単なるジャンル語りではなく、個人が世界に対して持ちうる現実認識についての解釈という側面が存在します。

 続く第五話以降では、現実認識としての「魔法」の正しい在り方を巡って言葉が重ねられていくでしょう。それがどういう道筋を辿って物語全体のテーマへの解答に行き着くのかは、現状ではとても予想できません。でも最終的に、この"現実に対する認識の在り方"と"ジャンル的な構造"がひとつのところに結実すれば、それは本作の最後を飾るにふさわしいこの上ない「結論」となるのでしょう。


関連

*1:言ってみたかった。

*2:だから、いわゆる四大奇書とかを指して言われる「アンチミステリー」という用語とは、成り立ちからして必ずしもイコールとは言えないかもしれません。とはいえ、ニュアンスとして"そっちの用法"も当然意識されているだろうことは疑うべくもありませんが。

*3ひぐらし前例があるので、この辺の不信感はまあなかなか拭えないのでしょう。

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