死の壁

死の壁 (新潮新書)

死の壁 (新潮新書)

  • 死にまつわる様々な問題。「人生の問題に正解はないp11」一方、死(死体)は事実。事実を考えることで見えてくる問題。

(ここで言う情報化社会とは、)本来、日々変化しているはずの人間が不変の情報と化した社会のことを指しています。p27
〜〜(明確に日々変化する身体と対比した)脳中心の社会と言っても良い。p28

人間が不変の情報と化した。

  • 昔の人は、この「人間は変わらないのになぜ死ななければならないのか」との疑問に、「魂」という概念を作り出し、納得していた。それが近代では科学的根拠がないとして否定。
  • そもそも人は変わるもの。「変わらない」との前提に立つとおかしくなる。

「あの時は血迷って戦争をしかけたけれども、あれは本当の私たちではないのです。今の平和な私こそが本当の私です。」ということです。p31

  • 変わって当然、死ぬのが確実な存在である。それが、近代化により「死ねない」存在になった。
  • 「死」が日常生活から離れる。ex.土葬→火葬、水洗便所の普及、現実的身体の非現実化。

一時期、脳死の問題で揉めたのも当然のことでしょう。客観的に決められていた生死の境目は実はそう簡単なものではなかったのですから。それまでは法律に則して死亡時刻を決めるように、客観的に決められるとどこかで思っていたのですが、そんなことは、決められやしないのです。p66

  • 死んでいるかどうかの判断ができない → 江戸時代の解剖の対象:刑死体(誰もがそれを死体と判断できる。)
  • 尚、ここで問題になっている「死」は、科学的「死」(そんなものが存在するかしないかは別として。)ではなく、社会的「死」。即ち社会が一致してそれを「死」と認められるかどうか。

死体には三種類あるのです。〜〜「一人称」「二人称」「三人称」〜〜死体についても、これとまったく同じ区別をつけて考えることが出来る。p77

  • 「一人称の死体」:私の死体。→認知出来ないので、存在しない。→自分の死への恐怖も意味があるのか。
  • 「二人称の死体」:親しい人の死体。→これは死体でありながら、死体には見えない。
  • 「三人称の死体」:アカの他人。→抽象的死体。

大抵の人は、受付でもらった塩を自宅に入るまえに身体にふりかけるでしょう。ではなぜ、身体を清めなくてはいけないのか。それは死んだら最後、相手に対して手のひらを返している証拠ではないでしょうか。p88

死と生を明確に区別する。そのことで独特のコミュニティーを形成?

「死んだ奴は我々の仲間ではない」というルールを暗に示しているのです。

  • ex.戒名、「非人」などの被差別民。
  • この世(日本)はメンバーズクラブのようなもので、排他的で仲間意識が強い。その為、死者などは人間(ジンカン)には入れず、明確に線引きされる。

エリートは加害者p137

  • エリート教育とは本来、一般人が忌み嫌う重責を担うための責任や覚悟を教えるものであった。
  • しかし今の社会では「平等主義」が隅々まで蔓延し、エリートという地位だけが形骸化して残った。
  • 結果、人々から「特定の人にある責任を負わせる」意識が消え、エリートから「重責を負う責任や覚悟を負う」意識が消えた。
  • 安楽死問題について、殺される立場(死ぬ人や将来死ぬ人(自分))と 殺す立場 (医者)両方に立った議論が必要なのに、されるのは前者ばかり。責任を後者に押しつけている自分たちに気づくべきだし、それによって背負うべき責任をどこかに消し去っているという事実に目を向けるべき。
  • 日本には昔からタテマエとホンネは違う、との考えがある。ex.人殺しは許されない社会で、間引きの存在。

現代において、安楽死の基準を法律で定めようとするならば、それは、この共同体のルールを天のルールにするとは言わないまでも、明文化して表に出してしまおう、ということです。タテマエに近づけようとしていると言ってもいいでしょう。p156

それは、難しいこと。明文化=近代的と考えられるのでなんでも明文化されがちだが、社会には常々明文化できないルール、風潮がある。(ex.アメリカの陪審員制度による「人間の裁量」という曖昧な判断余地。)それを無視すると、どこかでおかしくなる。

意識化することを一つの目標とするのは、学者としては正しい立場なのかもしれません。しかし、私はどこか根本的に見落としている点があるような気がするのです。言語に絶するというか、どこかで言葉に出来ない領域というのがあるのではないか、あってもいいのではないかと思うのです。156

時間を無駄にした。

今日もジャニスに行った。
この前借りて全額バックされたクーポン券を使って、20枚弱借りられる予定だったので、30分以上使って個人的にはかなりアツいセレクトをした。小走りでレジに行くと、クーポンはまだ使えなかった。曇ったメガネをかけたパパイヤ鈴木みたいな店員が使えるの明日からですとか言っている。6000円弱の支払いは無理かつ嫌だったので全部キャンセルした。ジャニスまでの往復1時間、それと店内での30分間を彼には返して欲しかったけど、明らかに俺が悪いのでそんなことも言えず、ヤケになってメシ食って帰った。なんか「カロリー」とかいう店だったけど、店の大きさと比べ明らかに大きすぎる業務用暖房が全快で効いている狭い店内は、テーブルも料理も脂っこい。汗かく準備は万端である。まあとりあえず今日はミスったなと感じた。