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パラム、ドル、ヨジャ〜済州島に多いものみっつ〜

2009-01-13

[]「パラダイス・ナウ」

 遅まきながら、きのう「パラダイス・ナウ」を見ました。

http://www.uplink.co.jp/paradisenow/



 この映画を見ながら、わたしは、また10日の集会で聞いた岡真理さんの言葉を思い出していました。



 岡さんのお話は、終始一貫して、聴衆の胸を打つすばらしいものばかりだったのですが、そのなかで、一番わたしの胸に響いたのは、ガザが封鎖をされたとき、ガザが困難な状況に陥っていることを知ったとき、わたしたちが声を上げていれば、わたしたちが行動を起こしていれば、こんなことにはならなかったのではないでしょうか、このような最悪の事態を回避できたのではないでしょうか、という言葉でした。


 映画の舞台は、イスラエル占領地のヨルダン川西岸地区の町ナブルスです。主人公は、ナブルスで暮らす青年、サイードとハーレド。自動車修理工として働く二人に、ある日、自爆攻撃の指令が下されます。殉教者としての運命を受け入れる二人。組織の指示に従い、二人の青年は、淡々と自爆攻撃を行う戦士へと、姿を変えていきます。サイードの方には、やや戸惑いが見えます。これが正しい方法なのかと、ためらいを覚えているようでもあります。一方、ハーレドの方は、殉教者としての死を、神の意思として疑うことなく、サイードよりも積極的に選び取ります。そして、すらりとしたスーツの下に爆弾を仕込んだ二人の青年は、自爆攻撃を行うべく、イスラエルとの境を隔てているフェンスをくぐり抜けるのでした。


 まず、ガザがこのような悲惨な状況になってしまったことを考えると、ほんとうに、わたしは、遅きに失してしまったことを痛感しました。パレスチナの人々が、ナブルスのようなイスラエルの占領地下で、暴力と抑圧を受け、そうして、希望を奪われたままの状態で暮らしていること、そのこと自体、もうすでに十分に、不正義であり、悲惨であり、わたしは、イスラエルに対して、抗議を弾劾をしていかなければならなかったのです。占領地の暮らしの十分な悲惨さ、それに加えてガザような完全封鎖、そうして、その完全封鎖の状態での軍事攻撃による大虐殺。岡真理さんのおっしゃられるように、ガザの封鎖の時点で声を上げていれば、いえ、ガザが封鎖される以前に、イスラエルによる占領の不当さに声を上げていれば、ガザの虐殺も、ガザの封鎖も、そうして、サイードやハーレドのように、自爆攻撃によって命を落としていく若者たちの命も、防ぐこと救うことができたのかも知れません。


 この映画は、自爆攻撃をテーマとして扱っていますが、自爆攻撃の「暴力」性について、その是非を問おうとしているのではないように思いました。といって、「暴力」性を不問にしているわけでも、自爆攻撃を肯定しているわけでもないと思いました。わたしが、この映画を見て、自爆攻撃を「暴力」だと感じたのは、ただ一点、その決定、命令が「組織」によって行われているということでした。サイードやハーレドのような青年たちが、パレスチナの人々への抑圧、暴力をほしいままにしているイスラエルに怒りを覚え、その怒りを自らの命と引き換えに、イスラエルにぶつける。わたしは、彼らの怒りのあらわし方が、他の誰かの命を奪うという行為で示されるならば、それは結果として「暴力」になると思います。ただ、彼らが自爆攻撃をしてでも、怒りをぶつけたい、抵抗をしたいと思う「意思」を「暴力」だとは思えません。でも、組織は、そんな彼らの「意思」を、組織の「方針」に従わせようとします。そのとき、彼らの怒りや抵抗をあらわしたいという「意思」は、「暴力」の遂行としてのみ、決定されることになります。彼ら自らの「意思」の決定を、組織が奪い取ってしまうのです。わたしは、自爆攻撃の「暴力」性は、このひとりひとりの「意思」を奪い取る「暴力」にあると思いました。いかに、組織化し、組織的に抵抗運動をしなければ、強大な占領者であるイスラエルに対して、打撃を与えることはできないとしても、そのために、ひとりひとりの「意思」の決定権を奪い、目的のために個人を手段化すること、この「暴力」性を認めてしまっては、イスラエルがパレスチナの人々の「意思」や「希望」を、暴力によって抑圧し奪い取っていることと、結局は同じことをすることにつながるのではないだろうか、わたしには、そのように思えるのです。わたしは、国家や組織による「暴力」だけは、絶対に肯定してはいけないと思います。だから、軍隊や、国家暴力である死刑、そうして、たとえ、不当なものに対する抵抗組織だとしても、ひとりひとりの意思決定を奪っているのであれば、その組織は、不当なものに対する正当な理由をいくら持っていたとしても、それは不当なものと同じ「暴力」であり、肯定されるべきものではないと思います。


 わたしは、この映画では、「暴力」によって誰かの命を奪うこと、その是非に関しても、また映画の中で問うてはいないように思いました。

 映画の中で、スーハという女性が登場し、ハーレドに対して、自爆攻撃に対する批判を行います。スーハは、自爆攻撃という「暴力」を非難し、イスラエルに対してモラルで闘わなければならないと主張します。パレスチナ人の命を奪うイスラエルの暴力に対して、パレスチナ側が同じことをすれば、それは、モラルにおいて同じ最悪のレベルに落ちてしまう、だから、同じ暴力で闘うのではなく、モラルで闘わなければいけないと言います。けれども、ハーレドは反論します。相手にモラルがなければ?と。相手にモラルがあれば、それに対してこちら側もモラルで応じる。どれだけ、モラル的な態度を示せるのか、相手にモラルがあるのであれば、こちら側もモラルで対抗することができるでしょう。でも、相手にモラルがなければ?むしろ、相手こそが、アンモラルに開き直って、自分たちにモラルの欠片もない暴力で襲い掛かってきている時に、モラルで対抗することに何の意味があるのか?ハーレドの反論は、わたしにはとても現実的だと思えました。でも、だからといって、アンモラルに対して、アンモラルで対抗すること、それもまた不毛なことなのではないだろうか、わたしにはそのように思え、やるせなくなるのでした。


 どうして、歴史や現実の世界では、暴力や抑圧を受けている人に、よりいっそうのモラルが、モラル以上のモラルが、アンモラルに対抗するために、ウルトラモラルのようなものが要求されなければならないのでしょうか。不正義を強いられている人こそに、よりいっそうの正義を示すよう求められるという、この逆説はいったい、なんなのでしょうか。暴力に対して非暴力で応じ、不正に対して、非の打ち所のない態度で臨まなければならない、いったいなぜ、困難や苦しみを受けている人に、よりいっそうの試練が与えられなければならないのでしょうか。なんの葛藤も試練もないわたしたち、平和でのんきなモラリストだけが、「暴力」はいけない、「報復」はどちらも悪い、などと容易にそのように言えるのでしょう。



 ただ、そう言っていたハーレドが、自爆攻撃に対して考えをあらためる機会が訪れます。わたしは、それは、ハーレドが自爆攻撃がモラルではないとか、暴力だからいけない、と思ったから、考えが変わったのではないと思います。映画のなかで、ハーレドが町の風景を静かに見つめるシーンが出てきます。ナブルスの町並みをみはるかす風景、その中に、子どもたちが、凧揚げをして楽しそうに遊んでいる姿がありました。そのときの、ハーレドのおだやかな表情が、わたしには、とても印象的でした。わたしは、このとき、ハーレドは、命を失うのではなく、生きてみようと思ったのではないかと思いました。誰かの命を奪うかどうかの善悪の議論ではなく、自分の命を救おう、もう少し生きて、世界が変わるかも知れないという希望を持ってみよう、楽しそうに凧揚げをして遊ぶ子どもたちを見ながら、幼かった自分を、まだ絶望していなかったころの自分を思い出し、そうして、もう一度希望を持って生きてみようと思ったのではないか、そんな風に思ったのでした。

 絶望というカケラで埋め尽くされた風景しかないと思っていた一部分に、平和な穏やかな、ひとつの景色のカケラを見つけた。そのとき、ハーレドの心の空白の風景の中に、「希望」という小さなカケラが埋め込まれたのかも知れない、生きようと思う「意思」を取り戻したのかも知れない、わたしはそう思ったのでした。


 だから、もし、わたしたちが自爆攻撃が「暴力」だというのならば、それを止めるのは、彼らから奪っている「希望」や、生きようと思う「意思」を返すこと、奪わないことです。そして、わたしたちがしなければならないことは、世界には、まだ「希望」があるということ、平和な穏やかな景色がきっと戻ってくること、それをパレスチナの人々に示すことなのだと思います。


 「パラダイス・ナウ」は、今見ると、よけいにツライものがありますが、でも、「希望」を失わないためにも、これ以上、「希望」を失い、たくさんの「命」までもが失われることがないためにも、まだごらんになっていない方は、ぜひ、今見てほしい映画だと思います。


パラダイス・ナウ [DVD]

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