人びとの意識の表れ―『「しきり」の文化論』

「しきり」の文化論

「しきり」の文化論

 仕切が人間関係(社会的関係)を仕切る装置であるという言い方は、結果的なこととしてある。むしろ、わたしたちの人間関係(社会的関係)がどのように考えられているかが仕切に反映されると言った方がいいかもしれない。どのような仕切であれ、内部と外部という領域の関係を形成する。してみれば、仕切は、ある社会において、またある時代において、人びとが何を自らの内とし、何を外としたかを反映している。(P.4)

 たとえば、住宅地における仕切という装置は、文化の違いを反映し、以下のような状況をつくりだします。

住宅における「しきり」

 欧米の住宅街では、住まいを柵で囲むことが、あまり多くないように思える。それに対して、日本ではどれほど住宅が相互に接近していても塀で囲むことが一般的である。(P.13)
 わたしたちは、どれほど小さな居住空間であろうとも、自らのテリトリーあるいは所有であることを鮮明に示さずにはいられないということなのだろうか。(P.12)
 垣のもともとの機能は、人や動物の侵入を防ぎ、あるいは防風林のように風害などから守るということにあった。農村では、とりわけ、風害や獣害から守る目的があったが、江戸時代の城下町につくられた武家屋敷でもさまざまな生け垣がつくられた。こうした垣は、木や竹によってつくられており、矢来垣、光悦垣など洗練されたデザインを生んでいる。そのほか、日本では神社や墓地など神聖な空間を囲む垣がつくられてきた。玉垣、瑞垣といった名称そのものが、聖なる場所を囲む垣を意味している。(P.70)

 日本の住宅は、伝統的に内部と外部を仕切る装置について、多様なデザインが投入されています。障子、蔀戸、縁側などさまざまな具体例が紹介されています。また、住宅内部において、ふすまや畳などによる仕切の事例が紹介されています。デザイン史は著者の柏木博先生の専門分野でもあり、豊富な事例がわかりやすく列挙されている部分は、分量が少ないながらもさすが読み応えがあります。それは、自然と共生するためのアイデアであったり、組織の序列や各々の立場や役割を明確にするという機能など、生活上での情緒的な安定をもたらす機能を果たして来ました。かつての日本人の「しきり」をデザインする能力には感銘を受けますし、これからも続いていくものだと感じました。
 一方で、欧米の近代では産業革命により労働集約型の工業が発展します。労働者のアパートメントという住宅には、労働のための監視という面を感じます。時代のパラダイム・チェンジのなかでそれが推奨され、日本でも当時の欧米的な住宅の形式が推奨されるようになったのだと感じました。そのうち、工業発展の産物として、ガラスや鉄骨などの建材や施工技術が発展しました。それらの新技術を活用してミース・ファン・デル・ローエが提案したバルセロナ・パビリオンは、労働生産性という観点で考えられたものではなく、人びとに空間の広がりという情緒を感じさせるものとして提案されたものだと思いました。工業技術の発展は高機能の建材などを産み出すなど、人びとに恩恵をもたらすものですが、人びとが過ごす空間において労働監視という観点だけでは、人びとの暮らしを機能させることは不十分であり、情緒的な安定をもたらすためのデザインも常に求められているのだと思います。

オフィスにおける「しきり」

 20世紀の労働集約型産業の写真が出ています。タイプライターを扱う人が数十人もいて、均質な家具が並ぶ無機質な空間の写真が紹介されています。労働生産性を向上させるうえで、ひとつの機能を果たしていたものだとは思うのですが、いまの目で見ると不気味な恐ろしさを感じます。

 今日のオフィスは、70年代にしだいにつくられていったオープン・システムのデザインを基本にしている。しかし、そのインテリアデザインが、情報の流れとコミュニュケーションを中心に考えられているとは言え、コンピュータをはじめとして様々なエレクトロニクス・メディアが入り込んできた今日のオフィスにおいては、はたして、70年代のインテリアデザインがいまだに「軍事的有効性」を持っていると言えるのだろうか。(P.267)

 僕が思うに、コンピュータの操作技術は個人的のスキルであり、職場がコントロールすることが難しいものです。いかに情報がオープンなインテリアをつくろうと、コンピュータのディスプレイは複数の人が監視するには向いていません。したがって、情報はクローズしがちになります。具体的な問題としては、業務の各担当者が何をやっているかがお互いに理解していない状態が出現します。ある人は、コンピュータを使い込んで操作技術に長けており、高い生産性を有しているかもしれません。コンピュータをうまく使えずに画面の前でさぼっている人との違いを、容易に発見できるとは限りません。
 そこで、コミュニュケーションを復活させるための装置が必要になります。それは今後、いわゆるインテリアデザインだけの領域だけでなく、社内SNSクラウドコンピューティングといった装置としても発展するように思います。

わたしたちの領域全般としての「しきり」

 わたしたちは、自らの個人的領域を組織するということがどのようなことかあまり問うことをしないまま、個人的なものを次々に手にいれてきたのかもしれない。その結果、けして「わたしの領域」を強固にするものという意識はないまま、「わたし」をしきり、それぞれがアトム化してしまったということかもしれない。(P.197)

 台所やラジオ・テレビにはじまり、コンピュータや携帯電話にいたるまで、かつて共同で所有されていたものが急速に個人所有に置き換わるという時代の変化がありました。アトム化とは、この影響をうけて個人という存在が周囲から孤立した存在になりがちである、という意味と理解しました。
 実際に目撃していないにもかかわらず、自分は他人から悪口を言われているのではないか、という被害妄想を抱く人もいます。アトム化した、見えない他人についての恐怖が根底にあると思います。オフィスで働く仲間にしても家族にしても、根底には必ず信頼があると僕は信じています。人はこれまでの歴史において、さまざまな「しきり」を考案し活用し、人間観関係づくりや社会関係づくりに役立ててきました。現代において、それを実現する工夫が再度求められていると感じました。

挨拶も、意見の違いも、当たり前の現実―『コミュニケーションの日本語』

コミュニケーションの日本語 (岩波ジュニア新書)

コミュニケーションの日本語 (岩波ジュニア新書)

 コミュニ〈ュ〉ケーションという言葉のほうが一般的な気がしますので、この記事では〈コミュニュケーション〉と表記します。
 さて、コミュニュケーション力ということがよく言われていますが、自分の体験を振り返ってみても、実体をイメージして話をしていることもあれば、漠然としたイメージで「コミュニュケーション」を捉えている場合もあります。そのなかで、常に具体的に意識しなければならない部分について、やさしく書かれているのがこの本です。
 話の前に表情・挨拶・わかりやすく・きちんと話を聞く・気配り、といったことが、ジュニア向けにやさしく書かれています。
 コミュニュケーションの基本的な部分をわかってストレスなく実行できることは、ひとつひとつの言葉や動作が相手にどう伝わるのか、ということの理解が必要です。それは、決して難しいことではなく、社会で生活するうえでは無意識に行っていることだと思います。ただ、人には疲れているとき、調子が悪い時、機嫌が悪い時などがありますが、それでも人に失礼な行動はしてはならないものです。身体化して無意識に行われていたコミュニュケーション動作がうまくいかないとき、この本に書かれているような、言語化した理論に立ち戻って考えると、適切なコミュニュケーションに復帰できる可能性がより高まると考えました。だから、やさしい内容だからといっておろそかにできないものだと思います。
 なかでも、「5意見の違いを切り抜ける(P.127)」は読み応えがあります。話し方やコミュニュケーションの本はいろいろありますが、意見の違いの場面に力を注いて書かれているものは案外と少ないです。実際には、意見の違いという場面がコミュニュケーションのなかでいちばん困難ですし、よく出会う場面だと思います。意見の違いを言うと、相手は非難されたと感じたり、そこから攻撃を受けたりします。それを避ける方法は、ジュニア向けの本に書かれているように、基本として身につけないといけません。

 そこで、そういうコミュニュケーション上の障害を乗り越えるために、「言いにくいことを言う場合の作戦」を考えてみるというのはどうでしょう。どのように言えばいいか、という「表現」への視点を持ってみるのです。こう考えてみることで、自分の心をコントロールすることもやりやすくなります。(P.134)

 作戦として「〜のではないか」と断定を避けて提案する方法や、「あるいは、こうも見られる」という意見の相対化、などは日常的に行われています。自分の意見が言い難い、と日々感じている人がいたら、意識して活用しましょう。また、絶対に相手を拒否しなければならない場面も、生活のうえでたくさん出会います。

 「とにかくいやだ」は、理由をすっ飛ばして断る表現です。特に、「とにかく」を繰り返して言われると、相手はそれ以上言えません。どうしようもない場合は、このようにして、自分の気持ちをはっきり言うといいでしょう(P.159)

  僕も以前に、職場の先輩からこのことを強く言うように注意されたことがあります。職場全体で、意見を言うことはいいことだという合意が出来ていたのですが。それを逆手に取って「目上の人がこうやれといったら、一切何も言わずにやれ、それが世の中の常識だ」という「ひとつの意見」を全体に広めようとする人もいました。これを受け入れれば、組織のなかで人が意見を言わなくなってしまい、会社の方針に根本的に逆らうことになり、その意見を言う人は非常識で横暴な人物思われてしまいます。

 「私だけがエライ」という思いになっていないかを反省してみることが必要です。「私だけがエライ」と考えてしまうと、「エラくない」ほかの人の心を直接コントロールしようと考えがちです、しかし、そうすることで、かえって、思いは空回りし、心はすれ違うものです。(P.164)

 僕は、空回りしているように見える人にこそ、機会を見つけて話しかけるようにしていました。「自分だけが横暴でない」や「相手はひどいやつだ」などという思いを抱きたくなかったからです。暴力や恫喝については確実に拒否し、専門機関による指導や懲罰を行うことも必要です。それは置いといて、コミュニュケーションによって解決できる場面は案外多いと思います。お互いのことを尊重し合って、いいコミュニュケーションをしていきたいものです。たとえ空回りしていても、僕が信頼する仲間のことは、確かに「エライ」と信じていますから。
 

ひと昔前の暮らしを現代に持ち込む―『楽しいぞ!ひと昔前の暮らしかた』

楽しいぞ!ひと昔前の暮らしかた (岩波ジュニア新書 (522))

楽しいぞ!ひと昔前の暮らしかた (岩波ジュニア新書 (522))

 著者の新田穂高さんは、スポーツ専門誌の編集者を経てフリーライターとなったそうです。そのためか、スポーツ的な動作について鋭いと感じる箇所があります。

 フーッ。鍬を振る手を休めて腰を伸ばした。無効から若葉の山が迫ってきた。振り返ると、塗り終えた畦がまばゆく光っている。
 「この達成感って自転車に似てるよな。くろかけはスポーツだよ」
 ぼくはひとりでうなずいた。そして、風景を眺めるだけでなく、風景をつくる、いや、風景そのものになってみたいという願望が、じつは趣味のサイクリングが高じた結果なのかもしれないと、あらためて気がついたのだった。(P.76)

 むかしの暮らしには、スポーツに似た身体の使い方が要求されますし、多くの人が協力が必要です。必然的に、身体が鍛えられて共同体のコミュニュケーションがうまく機能するようになっています。身体の不調にしてもコミュニュケーションにしても、現代人の不満として例に挙がることが多いものです。著者は、ライターとして楽しく読みやすい文章が書けることが、ひとつのスキルとしてあって、このような生活が実現できているのだと思います。その意味では、メディアという第三次産業が著者の生活を支える基本でもあるのでしょう。ですから、この本で紹介されるような内容は都市で生活する現代人からはかけ離れているわけではなく、工夫することによって誰もが体験できる部分があると思います。
 ベランダでだってガーデニングはできるし、地域の人びとに呼びかけることだってできる。昔の暮らしにはそういうものがあって、それが望ましいという感覚は誰もが感じていることと思います。それを実行してみよう、という気持ちが湧いてきて、明るい気分になれる本でした。田んぼや山と人の生活がより活き活きとしたものに見えてきます。自然の営みは、日々ひとつとして同じ表情を見せることがありません。人工的に強度を保った工業製品にはない、ひとつの魅力だと思います。

領域横断は目的ではない―『社会学入門』

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

 様々な専門分野に関しての知識がある人について、人は憧れを抱くものです。著名な社会学者についても、その意味において憧れを抱く人は多いのでしょう。僕もそのような感情を抱きがちでした。しかし、領域横断的な知は結果であって目的でないと述べられていました。

レヴィ=ストロースフーコーといった、現代の社会学の若い研究者や学生たちが魅力を感じて呼んでいる主要な著者たちは、すべて複数の―経済学、法学、政治学、哲学、文学、心理学、人類学、歴史学、等々の―領域を横断する知性たちです。
 けれども重要なことは、「領域横断的」であるということではないのです。「越境する知」ということは結果であって、目的とすることではありません。何の結果であるかというと、自分にとってほんとうに大切な問題に、どこまでも誠実である、という態度の結果なのです。(P.8)

 単にたくさんのことを知識として知っている人は、たしかに冷静に考えるとつまらないものです。現代では、個々の事象のことであればインターネットで検索が出来て、ひととおりのことはわかるという事情があります。知識として単に知っている、という状態は現代社会において価値を低下させました。この本は、著名な学者の名前や概要をまとめるなどして、社会学という立派な学問体系を示すような形にはなっていません。その意味ではいわゆる「〜学入門」というタイトルからイメージできる内容とは異なります。扱われるのは、個々の問題です。個々の問題に対して誠実な態度を示すことを通して「社会学入門」の役割を果たす、ということがこの本の特徴でした。
 「1.鏡の中の現代社会(P.24)」にて、インドや南米を旅した体験談が語られます。これらの国は日本と比べて「近代化」が進んでいない面があります。キツイ・キタナイ・キケン、という言葉で言い表せる体験も多いそうです。かつては、日本もアメリカもヨーロッパ諸国も、「前近代」でした。

 社会の「近代化」ということの中で、人間は、実に多くのものを獲得し、また、実に多くのものを失いました。獲得したものは、計算できるもの、目に見えるもの、言葉によって明確に表現できるものが多い。しかし喪失したものは、計算できないもの、目に見えないもの、言葉によって表現することのできないものが多い。(P.38-39)

 ぼくたちは今「前近代」に戻るのではなく、「近代」にとどまるのでもなく、近代の後の、新しい社会の形を構想し、実現してゆくほかはないところに立っている。積極的な言い方をすれば、人間がこれまでに形成してきたさまざまな社会の形、「生き方」の形を自在に見はるかしながら、ほんとうによい社会の形、「生き方」の形というものを構想し、実現できるところに立っている。
 このときに大切なことは、異世界を理想化することではなく、〈両方を見る〉ということ、方法としての異世界を知ることによって、現代社会の〈自明性の檻〉の外部に出てみるということです。(P.40)

 以降、新聞などのメディアの記録や、文献参照、統計データなどから「前近代」と「近代」「現代」への変遷を、読みといてゆきます。
 都市化され個人がアトム化して存在感を希薄にした現代社会にある種の問題意識を持つとして、再び共同体を導入したいと考えて実行する人がいたとします。前近代へのその素朴な憧れは〈両方を見る〉ということによって、ひとつの幻滅に至るのです。この本では、新聞に寄せられた短歌の研究が紹介されていました。

一人の異端もあらず月明の田に水湛え一村眠る 田附昭二
犇めきて海に墜ちゆくペンギンの仲良しということの無残さ 太田美和 (P.98)

 前近代的な日本の共同体には、助け合いというメリットがあったのかもしれません。しかし、その共同体には異端を許さない不自由さがあったのかもしれません。また、大東亜戦争のように、仲良しな「空気」からの「同調圧力」によって、誤った方向に社会全体が大きく動く可能性があります。その前近代性は、現代においても「継起的」に受け継がれているといいます。

 ひとつのものが死滅して、それに代わって新しいものが出現するという仕方ではない。ひとつのものは生きつづけ、その上に立って、新しいステージが展開し、積み重ねられる。
 どのように「現代的」な情報化人間もまた同時に「近代人」である。個我の意識や合理的な思考能力をもって世界と対峙する力、時間のパースペクティブの中で未来を見とおす力を身にそなえている。(P.161)
 人間をその切り離された先端部分において見ることをやめること、現代の人間の中にこの五つの層*1が、さまざまに異なる比重や、顕勢/潜勢の組み合わせをもって、〈共時的〉に生きつづけているということを把握しておくことが、具体的な現代人間のさまざまな事実を分析し、理解するということの上でも、また、望ましい未来の方向を構想するということの上でも、決定的である。(P.162)

 ですから、たとえば共同体を復活させようという働きかけは、前近代から生きつづけた「同調圧力による不自由性」を再び活性化させる可能性があるという認識をもち、その弊害を回避することが必要となります。だから、現代の都市問題に対峙して実行しようとと思ったときには、必然的に歴史などの知識が必要となり、結果として領域横断的な知が形成されるのでしょう。

*1: 0.生命性|1.人間性|2.文明性|3.近代性|4.現代性(P.161)