効用を考えて伝える

ヤマハギターアンプなどが好調という記事です。
アンプ・ミニコンポ…新生ヤマハ「伝統と革新の融合」 :日本経済新聞

私は中学の頃エレキギターが大好きで、ヤマハのアンプを使っていい音を出そうといじくり回していました。大人になって眺めてみると、当時とは違う考えが浮かんできたので記してみます。日経さんの記事はその性質上「ヤマハが好調ですよ」と伝える目的のもので、商品の「効用」についてあまり伝えていません。「効用」について私なりの考えを述べようと思います。

エレキギターを弾いたことのある人は、小さい家庭用アンプは音があまりよくないと思ったことがあるのではないでしょうか。

しかしながら、動画を見るとなかなか悪くありません。この動画ではアンプの近くでマイクから音を拾っているため、自分が聞く感覚とは隔たりがあるのです。CDなどで聞けるプロの音も、大半はこのように録音されています。ギターアンプはオーディオ機器と違って、数m先の人間の耳に届けることに特化されていなません。音量を上げれば迫力は出ますけど、家庭用としては近所迷惑です。

また、ギターアンプは「音の歪み」を「エフェクト」として利用する特徴があります。電気信号や本体の歪みが味のある音として評価されます。数m先の耳にピュアな音を届けるオーディオ機器的なアンプは、ぶっちゃけつまらないのです。

「エフェクト」と「耳に届く音」を両立させるためには、電子的に「エフェクト」シミュレートした音をオーディオ的なスピーカーで再生することがひとつのよい方法です。私個人は、エフェクター機器とオーディオ用スピーカーを都度接続して使うことが多かったのですが少々面倒と感じることもありました。そこを接続なしで手軽に使えることがヤマハのアンプの「効用」だと思います。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。まわりくどい説明で申し訳ありません。

現代の世の中では、単なる機能やデザインだけで高価な商品を購入することは少ないです。商品を開発する人はいかに「効用」を実現するか考え、営業をする人はいかに「効用」を伝えるか考えているものだと思います。

ものづくりの世界、まだまだいろいろやれると思います。

今年ふりかえり

web上で2ヶ月、ブログで3ヶ月ほど行方不明になっておりました。おひさしぶりです。
このまま年を越すのもなんかつまらないので、今年の出来事を振り返ります。
転職しました
その後、こうして怒濤のように日々が過ぎました。営業職は未経験ということもあって日々ついていくだけでいっぱいいっぱいでした。その日々のなかで自分自身にたくさん変化があったと思います。それはさすがに、今日ここで書ききれないのですが、今後はブログ上でも変化や気づきをできる範囲で表現していきます。
転職活動しました
あたりまえですが、転職前には転職活動がありました。このことは、あえて転職後のこととは分けて考えたいです。これは、自分は何をしたいのか、何ができるのか考える時間だったからです。こういう体験も、一生の間にそう多くできるものではないですね。
Bloom Style参加
link1:http://d.hatena.ne.jp/FDmountwill_mills/20100730/1280441641 link2:http://d.hatena.ne.jp/FDmountwill_mills/20100601/1275344684
現在はvol.7まで刊行されています。これもたいへんエキサイティングな体験でした、もともと見ず知らずの人同士が、web上からのコミュニュケーションで雑誌をつくること。振り返れば無茶な部分もあったのかもしれませんが、一緒に参加した人たちの思いがこうして形になり、刊を重ねるごとに作業や体裁が洗練されていくことは思っていた以上の驚きがありました。
富山twitter交流会参加
link:http://d.hatena.ne.jp/FDmountwill_mills/20100502/1272797933
これも忘れられない体験です。この地域で新しいことをやろうと、イベントや地域の活動など行動している人たちがいる。去年までの僕は、そういうことを考える機会がなく新鮮な体験でした。
iPhone購入
今年はiPhone4が発売でしたが、その直前に3GSを入手しました。4まで待つ気はなかったです。結果は大正解。地図を見たりメールを見たり、本当に手放せません。
自分を振り返る時間をもてたこと
去年までは毎年同じような体験しかしてこなかったため少しマンネリ気味でしたが、今年は激動でした。こうして得られたものは、自分を振り返る時間がもてたことです。世の中には自分の知らない世界がたくさんありました。その体験は、自分のことをより深く考えてみようというきっかけにもなりました。
将来のイメージをよりはっきりできたこと
去年までといまとの違いとして、自分の将来に向けてのイメージがよりはっきりと描けています。いままでと違う職種に就いてそれまでの将来イメージがなくなったにもかかわらず、今のほうがはっきりしたイメージが自分のなかにあります。意外なことでした。
本をじっくり読めたこと
フルタイムの仕事から離れていた時期がありましたが、その間ゆっくり読書ができていました。いま思うとぜいたくな時間です。その結果はこのブログに直接に表われていますね。学んだことは、未経験の仕事や新しい人間関係づくりにも役立っています。
新しい人との出会い
こうして、自分の置かれた環境がたくさん変化していくなかで、新しくたくさんの人と出会いました。また、いままで知り合った人とも違った側面で接する機会ができたため、改めて違った関係ができてより多くのことを知るきっかけとなりました。

予想外の出来事が連続で、いわゆる偶有性というものを肌で感じ続けた一年でした。来年は、自分がこうして出会った人たちに受け入れられる存在となり、互いに実りある活動をしていきます。以上、よいお年を。

世界は相互に繋がっている―『フォーリン・アフェアーズ・リポート2010年9月10日発売号』


フォーリン・アフェアーズ・リポート2010年9月10日発売号

フォーリン・アフェアーズ・リポート2010年9月10日発売号

 レビュープラスさまから献本が届きました。いつもありがとうございます。
 フォーリン・アフェアーズ・リポートという雑誌について、僕はよく知りませんでした。ウェブサイトはこちら(link:英語Foreign Affairs Magazine: analysis and debate of foreign policy, geopolitics and global affairs link:日本FOREIGN AFFAIRS JAPAN)まずは、この雑誌がどういうものであるか、雑誌から引用して紹介してみます。

フォーリン・アフェアーズ外交問題評議会(CFR)について
 1922年にニューヨークの外交問題評議会(CFR)によって素管された外交専門誌フォーリン・アフェアーズは、冷静の理論的支柱とされたジョージ・ケナンの「X論文」、れい線の大きなパラダイムの一つを提供したサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」など、時代の節目ごとにその後の世界を予見する重要な論文を発表し続け、国際政治、国際経済、グローバル・ビジネスの意思決定に携わる者の必読誌として世界的な権威と名声を確立している。
 国際主義思想と政策を啓蒙するCFRは、フォーリン・アフェアーズの発行に加えて、研究会、講演会を数多く主催し、その一部をリポートや議事録として公開する一方、時事問題に関する専門家へのインタビュー、分析をウェブ上で公開することで、グローバル市民の国際問題への理解を深めようと試みている。
 フォーリン・アフェアーズ・リポートは、フォーリン・アフェアーズ論文だけでなく、CFRの議事録やリポート、専門家によるインタビューや分析も掲載することによって、フォーリン・アフェアーズの重厚な議論を時事性と背景分析の中に位置づけ、ワシントンでいま何が争点とされているのか、グローバルなアジェンダは何なのかを伝えることを目的としている。(冒頭より)

 僕の立場を振り返って、グローバル・ビジネスに関わる場面があったかと思い返してみました。大げさなことではないし、自分が深く関わったわけではありませんが、商品を海外で売ろういう話には何度か出会い。多少の手助けをすることが何度かありました。当時はそれに対して深く関わろうとも思いませんでしたが、今後はその機会が増えるだろうし深く関わる予感があります。

ドル

 「特集1 迫り来る準備通貨危機」はドルについての記事3編です。世界の基軸・準備通貨として存在してきたドルが変化しようとしているという内容です。たまたまギリシャ危機でユーロが低迷しましたが、その存在感は無視できないし、アジアでは人民元もあるという内容などが取り上げられていました。僕にとって、この辺りは少々難しい内容で、あまり理解はできなかったのですが、ドルが世界唯一の基軸・準備通貨であった時代から変化があるとすれば、どのようになるか変化に対して敏感であらねばと思いました。いまの僕の状況では、直接に海外と取引などがあるわけではないのですが、いつどこで関わるかわからない状況だからです。

アフリカや中東

 「特集2 緊張高まる中東情勢」の記事に加え、ケニアやアフガンや北朝鮮の情勢を紹介した論文や記事もありました。日本で生活していると実感しづらいこともあるのですが、世界にはこれほど緊張した局面もあるということも心に留めておきたいものです。先日、尖閣諸島沖の問題にて、日本と中国の間に緊張が走りました。無頓着ではいられません。
 また、世界には複雑な諍いのなかで暮らし、問題に立ち向かう人たちがいるという事実を知ることにより、自分の身の回りでおこりつつある諍い程度のことは何てちっぽけなものだろうと思うようになりました。つまり、困難で大規模な対立や問題に立ち向かう人がいるのだから、自分の身近な出来事に対しても立ち向かおうという勇気が湧いてくるということです。

水や食料について

 「世界的水資源不足の時代へ―ペットボトル飲料水は何を意味するか」は最も実感を伴なう記事でした。僕は経済や国際情勢について直接触れて感じる機会はあまり多くないのですが、水はかならず接するものだからです。世界には水不足に悩む国がありますが、日本は水資源という点で大きく恵まれています。「下水は廃棄物か資源か(P.72)」という章は、処理済みの下水を活用する例が紹介されていました。水不足に悩むオーストラリアにて、炭鉱の粉じんが舞うのを抑えるための水として、日本から処理下水をタンカーで運ぶという予定もあるそうです。

世界の多様性と相互依存

 この雑誌は僕にとってやや難しい内容が多かったのですが、はっきりイメージできたことがひとつあります。水が不足する国もあれば、豊かな国もあります。通貨が強い国もあれば、そうでない国もあります。互いに不足するものがあり、相互依存で世界が回っていく様子が眼に浮かびました。
 いまの世の中、いつ海外との積極的な取引に直面するかわかりません。また、グローバルな経済のなかでいつ自分の身近に変化がおこるかわかりません。個人的には、このような国際問題にもう少し興味を持つ機会を増やしていきたいと感じました。

数と時間と論理が行き届いた言語世界―『日本人の英語』

日本人の英語 (岩波新書)

日本人の英語 (岩波新書)

 論文や大学院入試にて、英文を扱う機会がありました。高校では重点的にやらない分野ですし、大学以降はあまりまじめに勉強していなかったからです。大学受験問題にみられる選択や穴埋め式はそれなりにできましたが、英作文は苦手で、英語を書くときには苦労した思い出があります。この本を読んで、当時に悩んでいたことがいろいろと氷解しました。

 私のみてきたかぎりの日本人の英文のミスのなかで,意思伝達上大きな障害と思われるものを大別し,重要なものから順(descending order of severity)に取り上げてみると,次のようになる.
1.冠詞と数.a,the,複数,単数など意識の問題.
2.前置詞句.
3.Tence.文法の「時制」.
4.関係代名詞,that,whichなど.
5.受動態.
6.論理関係を表す言葉.
(P.7-8を参考に抜粋)

 かつて、先生に英文を添削していただいた時のことを思うと、上記で挙げられた点に関する指摘が多かったように思いました。ですから、英文をうまく書けるようになるためには、やはりこれらの点が重要なのでしょう。この本では、上記の重要なものから順番に解説が進んでゆきます。最初の方に登場した解説の「 a は名刺につくアクセサリーではない(P.10)」などは、僕のように英語が苦手な者にとって、新鮮な印象を受けました。英語を「日本語で考えながらつくる(P.4)」という意識がはたらきく場合に、不自然な英語になりがちなのだと思います。日本語の思考に慣れ親しんでいる僕としては、数や時制や論理という切り口を重視してものごとを考えるということそれ自体が新鮮な刺激でした。
 現在の日本で働いていると、様々な国の人と接する機会がありました。また、日本のなかでも、村落共同体的なつながりを重視して権力に対して従順な地域がある一方で、権力を倒すような維新に向けて一丸となるような気質の地域もあって、人びとの意識というものはそれぞれ違います。交通や通信という物理的技術が発達するほど、違う気質や論理をもつ人同士の交流は、多くなるものと思われます。すなわち今後の社会では、いろいろな国や言語を背負った人と接する機会が増えるため、違う立場にある人の意識を理解できないと、考え方の行き違いがおこる場面が増えるはずです。
 人との関わりにおいて、年齢や性別や気質の違いなどにいちいち目をつけて、異質なものを排除するようなやり方は、この社会状況ではうまくいきません。ですから、単語をや言い回しを覚えるだけでなく、言語―ことばのあやーの背景にある論理構造を理解することが重要です。これは英語に限らず必要なことですが、英語に接することは考えの違いを体験してみるという意味において、ひとつの有用な手段だと思いました。

基本のキホン―『理科系の作文技術』

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

 学生時代に図書館で読んだ記憶がります.レポートを書き始めた頃でうまくいかず悩んでいましたが,この本を参考にしながらひとつづつ完成させてきた思い出があります.理科系に限らず,論文や仕事の文書について,重要なことがたくさん書かれています.
 いま改めてこの本を読むと,仕事で同僚が文書をどのように書けばよいか悩んでいたときのことを思い出します.主に若手の人に多かったケースで,文書について誰が読むものかということ意識していない人の場合,あまり重要でないことに悩んで、多くの時間を費やしてしまうということが多かったです.
 社内の報告書などであれば,誰が読むものか特定するのは簡単です.経営者や管理職にとって重要な情報が何か,生産部門や営業部門の担当者レベルが必要とする情報は何か,そこを理解しておけば時間の浪費を回避できます.論文や商品の説明書などのように,ある程度不特定多数の人が読むことを想定したものもあります.この場合は,社内向けのように特定の個人まで思い浮かべることは不可能ですが,読む相手が何を求めているかを考えてみることは可能ですし,やはりそこが重要です.

 これらは自明のことかもしれないが,初心の執筆者にとっては,自分の書こうとする文書の役割を確認することが第一の前提である.(P.16)

 自明なこととしているためか,この本であまり多くは触れてはいないのですが,この点を意識しているかどうかが,仕事の文章をつくるうえで重要です.
 文章作成のテクニックのうえで「重点先行主義(P.31)」「スケッチ・ノート法(P.54)」「トピック・センテンス(P.64)」などの解説は,基本的な考え方として,どんな場面でも役に立つものだと感じます.本の後半では,個別の文章例についての解説や,手紙や説明書などの例を紹介など,より具体的な記述になっています.つまり,自明なほどの基本を示した後で,具体例を挙げるという本の流れになっており,この本自体が「重点先行主義」で書かれていて,初心の執筆者にも理解できる形になっていて,気持ちよく読めます.日常的な仕事の文書でも,こうして書くと気持ちがよいと,何度も感じました.
 今の自分を振り返ってみても,個別のテクニックについてうまく出来ていない場合もあると感じました.文章のルールについて,少し無頓着だったと気づきました.こうして,昔に読んだ本を改めて読み直すことで,気づくこともあるというのは新鮮な発見がありました.
 この本は内容が古いと感じる箇所もあります.たとえば,横書きの文章に読点〈、〉句読点〈。〉のかわりにカンマ〈,〉ピリオド〈.〉を使うルールは,いまでは無視して良いと思います(この記事ではあえてそのルールで書いてみましたが,少し違和感がありますね).PC普及前の時代に書かれた本のため,ワードを使った文書作成やパワーポイントを使ったスライド作成にはそぐわない記述もありますが,それでも内容の9割は十分に役立つと思います.時代を超えて読み継がれるべき名著と思いました.
 

領域横断は目的ではない―『社会学入門』

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

 様々な専門分野に関しての知識がある人について、人は憧れを抱くものです。著名な社会学者についても、その意味において憧れを抱く人は多いのでしょう。僕もそのような感情を抱きがちでした。しかし、領域横断的な知は結果であって目的でないと述べられていました。

レヴィ=ストロースフーコーといった、現代の社会学の若い研究者や学生たちが魅力を感じて呼んでいる主要な著者たちは、すべて複数の―経済学、法学、政治学、哲学、文学、心理学、人類学、歴史学、等々の―領域を横断する知性たちです。
 けれども重要なことは、「領域横断的」であるということではないのです。「越境する知」ということは結果であって、目的とすることではありません。何の結果であるかというと、自分にとってほんとうに大切な問題に、どこまでも誠実である、という態度の結果なのです。(P.8)

 単にたくさんのことを知識として知っている人は、たしかに冷静に考えるとつまらないものです。現代では、個々の事象のことであればインターネットで検索が出来て、ひととおりのことはわかるという事情があります。知識として単に知っている、という状態は現代社会において価値を低下させました。この本は、著名な学者の名前や概要をまとめるなどして、社会学という立派な学問体系を示すような形にはなっていません。その意味ではいわゆる「〜学入門」というタイトルからイメージできる内容とは異なります。扱われるのは、個々の問題です。個々の問題に対して誠実な態度を示すことを通して「社会学入門」の役割を果たす、ということがこの本の特徴でした。
 「1.鏡の中の現代社会(P.24)」にて、インドや南米を旅した体験談が語られます。これらの国は日本と比べて「近代化」が進んでいない面があります。キツイ・キタナイ・キケン、という言葉で言い表せる体験も多いそうです。かつては、日本もアメリカもヨーロッパ諸国も、「前近代」でした。

 社会の「近代化」ということの中で、人間は、実に多くのものを獲得し、また、実に多くのものを失いました。獲得したものは、計算できるもの、目に見えるもの、言葉によって明確に表現できるものが多い。しかし喪失したものは、計算できないもの、目に見えないもの、言葉によって表現することのできないものが多い。(P.38-39)

 ぼくたちは今「前近代」に戻るのではなく、「近代」にとどまるのでもなく、近代の後の、新しい社会の形を構想し、実現してゆくほかはないところに立っている。積極的な言い方をすれば、人間がこれまでに形成してきたさまざまな社会の形、「生き方」の形を自在に見はるかしながら、ほんとうによい社会の形、「生き方」の形というものを構想し、実現できるところに立っている。
 このときに大切なことは、異世界を理想化することではなく、〈両方を見る〉ということ、方法としての異世界を知ることによって、現代社会の〈自明性の檻〉の外部に出てみるということです。(P.40)

 以降、新聞などのメディアの記録や、文献参照、統計データなどから「前近代」と「近代」「現代」への変遷を、読みといてゆきます。
 都市化され個人がアトム化して存在感を希薄にした現代社会にある種の問題意識を持つとして、再び共同体を導入したいと考えて実行する人がいたとします。前近代へのその素朴な憧れは〈両方を見る〉ということによって、ひとつの幻滅に至るのです。この本では、新聞に寄せられた短歌の研究が紹介されていました。

一人の異端もあらず月明の田に水湛え一村眠る 田附昭二
犇めきて海に墜ちゆくペンギンの仲良しということの無残さ 太田美和 (P.98)

 前近代的な日本の共同体には、助け合いというメリットがあったのかもしれません。しかし、その共同体には異端を許さない不自由さがあったのかもしれません。また、大東亜戦争のように、仲良しな「空気」からの「同調圧力」によって、誤った方向に社会全体が大きく動く可能性があります。その前近代性は、現代においても「継起的」に受け継がれているといいます。

 ひとつのものが死滅して、それに代わって新しいものが出現するという仕方ではない。ひとつのものは生きつづけ、その上に立って、新しいステージが展開し、積み重ねられる。
 どのように「現代的」な情報化人間もまた同時に「近代人」である。個我の意識や合理的な思考能力をもって世界と対峙する力、時間のパースペクティブの中で未来を見とおす力を身にそなえている。(P.161)
 人間をその切り離された先端部分において見ることをやめること、現代の人間の中にこの五つの層*1が、さまざまに異なる比重や、顕勢/潜勢の組み合わせをもって、〈共時的〉に生きつづけているということを把握しておくことが、具体的な現代人間のさまざまな事実を分析し、理解するということの上でも、また、望ましい未来の方向を構想するということの上でも、決定的である。(P.162)

 ですから、たとえば共同体を復活させようという働きかけは、前近代から生きつづけた「同調圧力による不自由性」を再び活性化させる可能性があるという認識をもち、その弊害を回避することが必要となります。だから、現代の都市問題に対峙して実行しようとと思ったときには、必然的に歴史などの知識が必要となり、結果として領域横断的な知が形成されるのでしょう。

*1: 0.生命性|1.人間性|2.文明性|3.近代性|4.現代性(P.161)

ひと昔前の暮らしを現代に持ち込む―『楽しいぞ!ひと昔前の暮らしかた』

楽しいぞ!ひと昔前の暮らしかた (岩波ジュニア新書 (522))

楽しいぞ!ひと昔前の暮らしかた (岩波ジュニア新書 (522))

 著者の新田穂高さんは、スポーツ専門誌の編集者を経てフリーライターとなったそうです。そのためか、スポーツ的な動作について鋭いと感じる箇所があります。

 フーッ。鍬を振る手を休めて腰を伸ばした。無効から若葉の山が迫ってきた。振り返ると、塗り終えた畦がまばゆく光っている。
 「この達成感って自転車に似てるよな。くろかけはスポーツだよ」
 ぼくはひとりでうなずいた。そして、風景を眺めるだけでなく、風景をつくる、いや、風景そのものになってみたいという願望が、じつは趣味のサイクリングが高じた結果なのかもしれないと、あらためて気がついたのだった。(P.76)

 むかしの暮らしには、スポーツに似た身体の使い方が要求されますし、多くの人が協力が必要です。必然的に、身体が鍛えられて共同体のコミュニュケーションがうまく機能するようになっています。身体の不調にしてもコミュニュケーションにしても、現代人の不満として例に挙がることが多いものです。著者は、ライターとして楽しく読みやすい文章が書けることが、ひとつのスキルとしてあって、このような生活が実現できているのだと思います。その意味では、メディアという第三次産業が著者の生活を支える基本でもあるのでしょう。ですから、この本で紹介されるような内容は都市で生活する現代人からはかけ離れているわけではなく、工夫することによって誰もが体験できる部分があると思います。
 ベランダでだってガーデニングはできるし、地域の人びとに呼びかけることだってできる。昔の暮らしにはそういうものがあって、それが望ましいという感覚は誰もが感じていることと思います。それを実行してみよう、という気持ちが湧いてきて、明るい気分になれる本でした。田んぼや山と人の生活がより活き活きとしたものに見えてきます。自然の営みは、日々ひとつとして同じ表情を見せることがありません。人工的に強度を保った工業製品にはない、ひとつの魅力だと思います。