プロとアマチュアの差

昨年地に落ちたと言われていた法科大学院人気が、
今年になってから盛り返しているらしい。


「Law School News」という老舗サイトに、
出願状況等を掲載しているページがあるが
http://ytk.houkadaigakuin.com/data/houka18.htm)、
倍率1倍ショックが相次いだ昨年に比べると、
全体的に比較的高い競争率が確保されている。


ついこの前まで“ローバブル”と揶揄されていた
初年度に比べても遜色ない数字に迫っている学校もあると聞く。


この「好景気」の背景には、
早い時期から法科大学院を意識してきた学部生が
卒業の時期を迎えるということに加え、
現行司法試験の合格者数が来年から激減することで、
既卒者も一斉に矛先を変えてきた、というのがあるようだ。


もっとも、修了者数に比して、新司法試験の合格者枠が圧倒的に少ない、
という、法科大学院のシステムが抱える構造的な問題は、
何ら改善されていない。


審議会等での「お偉方」の議論を見ていると、
「別に法曹にならなくても、企業とかで知識は生かせるでしょ」的な
発言が目立つ。
法科大学院は単なる試験対策の場ではない」
法科大学院で勉強したプロセスこそが重要なのだ」
という、いつもながらの理想主義的な発想をお持ちの方も多いようだ。


2、3年の教育課程で、しっかりとした知識と思考プロセスを身につけていれば、
どんな場所にいってもやっていけるはずだ、
というのは、自分自身も学部卒業の時に言われたことだし、
当時はそういうものだろう、と思っていた。


だが、それから長い年月を経て、
現実はそんなに単純なものではない、ということを、
自分は痛いほど思い知らされている。


法学系教育の効果、としてよく言われている、
論理的思考力(論理展開の緻密さ)、
反対説、反対利益へのバランス感覚、といったものは、
そもそも法学系教育だけがもたらす効果ではない*1
したがって、そのような「効果」は、
世に出たときに、何ら追い風になるものではない、というのが一点。


さらに言えば、法学系教育によって培われた独特の思考プロセスに
一日の長があるとしても、
世の中でそれを発揮できる場面は限られる。


最高権力者の言動を見るまでもなく、
“ワンフレーズ”のシンプルな思考が重宝される今の世の中において、
正当なバランス感覚を重んじる発想は疎んじられる傾向にある。


また、そもそも世の多くの人々は、
論理に裏打ちされた“議論”を好まない。
大抵の物事は、まず感情から発する“結論”が先にありき、なのであって*2
“論理”はその結論をもっともらしく導くための
“お化粧”のようなものに過ぎない。


どんな会社でも叩き上げの法務部員は概して議論好きだし、
そのような方々の中には、
実に緻密な思考力をお持ちだと感じさせられる方も多くいる。
だから、同業者の集まりには、それなりの面白さがある。


だが、ひとたび組織の中に戻れば、
彼・彼女たちは、マイノリティの“アマチュア”集団に過ぎない。
得意の法律知識を活かして、小手先のテクニカルな議論に加わることはできても、
既にできあがっている議論のベースをひっくり返してまで、
一から論理を組み立てるような権限は決して与えられないし、
そういうスキルを求められてもいない。


要は、法曹や研究者の方々のような“プロ”のコミュニティでは、
活かすことのできる能力であっても、
“アマチュア”としての企業法務部員には活かすことのできない能力、
というのは確実に存在する、ということである*3


大量に法曹が養成されるようになって、
“プロ”と“アマチュア”の領域が近接化するとしても、
共通言語と共通論理を持つ同質なコミュニティの中で仕事をするのと、
雑多な集団の中でマイノリティとして仕事をするのとでは、
圧倒的に感覚は異なる。


何らかの理想を抱いて、
“アマチュア”の世界に飛び込んだ人々にとっては、
このような“プロ”との差が、
社会的なステータスだとか、報酬だとかの問題よりも、
ずっと大きな問題になってくると思う。


今後法科大学院の修了者が大量に世に送り込まれることで、
“アマチュア”の裾野が広がっていくとしても、
それが浸透するまでには、まだまだ時間がかかるだろう。
それまでの間に、“アマチュア”の世界に飛び込んでいく人々は、
否が応でも、捨て石としての役割を果たさなければならなくなる。


今、法曹養成システムを動かしている方々に、
そこまでの深謀遠慮があるのだとすれば感服するほかはないが、
少なくとも自分には、彼らが「自分たちの教え子を捨て石にする」
という“覚悟”をもって制度設計しているようには見えない。
仮に、教え子を「捨て石にする」ことを前提として制度設計したのであれば、
それはそれで、教育者として失格だろう。


これまでの司法試験は、
自分の意思で挑戦して、自分の意思で撤退すれば良い試験だった。


法律の“プロ”を目指すのは本人の自由で、
挑戦していた過去をどのように使うかも本人の自由だった。
(“アマチュア”の世界で生きても良いし、全く違う世界に行くこともできた。)


だが、新しい司法試験は、
法科大学院に行けば法曹になれますよ」
法科大学院に行けば法曹になれなくても社会で役に立つ人材になれますよ」
という一種の公的な“お墨付き”の下で育てられた法科大学院生が、
挑む試験である。


法科大学院修了”の肩書を負った以上、
修了者は否が応でも“プロ”の世界に挑戦することが宿命付けられるし、
制度設計者が唱える「理念」に忠実に従うなら、
その目標を突破できなかった場合でも、“アマチュア”の世界に身を投じることが
半ば義務付けられることになろう*4


“プロ”になったものは、競争が激化しようが、何だろうが、
自己責任でやってもらえば良い。
だが、“アマチュア”の世界に飛び込んで、
“プロとの差”に直面した彼・彼女達にどういうフォローをしていくか、
制度設計者たちが、そこまできちんと考えているようには見えないところに、
法科大学院”という法曹養成システムの最大の問題点が潜んでいるように
思えてならない。

*1:法学一筋に生きている先生方の中には、そうではない、という方もいらっしゃるのかもしれないが・・・(笑)。

*2:それが偉い人の一声で導かれるものなのか、会社としてのアイデンティティによるものなのか、そのコミュニティにいる人々の“常識”に基づくものなのか、様々な要因は考えられるが、それはここではたいした問題ではない。

*3:そもそも、プロのコミュニティでも、上記のような“能力”を存分に活かせるかは疑わしいのであるが・・・。

*4:法科大学院を出た時点で、一定の色眼鏡がかかることは必至だから、全く関係のない世界に飛び込むことは、そう簡単ではないように思える。

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