法科大学院の真実(?)

一昨日のエントリーを
“ボツネタ”という人気サイトで取り上げていただいたおかげで、
http://d.hatena.ne.jp/okaguchik/20051106
大量のアクセスをいただいている。


法科大学院の構想が発表された時は、
ちょうど自分自身が、学問としての法律の面白さに
目覚め始めた頃だったので、
正直心魅かれるものを感じていた。


なので、↓のようなサイトを見ると、
複雑な気分になる。
(「これでいいのか、法科大学院!」http://lswatch.blog32.fc2.com/


元々“学問と実務の架橋”的なキャッチフレーズには
胡散臭さを感じていたし、
子供の頃から何度も「受験」という関門をくぐらされてきた経験からして、
どんな試験でも、「試験のための対策」をしなければ勝ち抜けない、
という事実は変わらないと思っていたので、
薄々予想はできたことではあるが、
全国各地の法科大学院の自習室で、
似たような会話がささやかれていることを想像すると、胸が痛む*1


ちなみに、自分は、
上記サイトの中のいくつかのコメントには、
学生ゆえの“認識の甘さ”を少なからず感じるし*2
今、大学の教官が言っていること、やっていると言われていることは
決して間違ってはいない、と思っている。


判例になっている事例をしっかり分析したり、
資料を集めてレポートを書く訓練を続けていれば、
法律家として必要な“素養”は確実に身に付く*3


だが、問題は、
いくら“素養”を身につけても、
それを“活かす場”がなければ意味はない、ということであって、
“活かす場”にたどり着くためには、
新司法試験を突破するか、
あるいは“アマチュア”である法務部員に活躍の機会が与えられる企業*4
に就職するしかない、という現実があるにもかかわらず、
そのような現実に対して、
大学の教官にしても、制度設計をしているその他の人々にしても、
あまりに無頓着(であるように見える)ことにある。


学生時代、授業では常に最前列に陣取り、
試験前になると丁寧な字で書いたノートコピーを配ってくれる友人がいた。
彼女は、実定法のゼミにもいくつか所属していて、
夜遅くまで、図書館で熱心に文献を探している姿も良く見かけた。
おまけに課外活動では法律系サークルに所属して、
法律相談までこなす、まさに「法学部生の鑑」のような存在であった。


しかし、「彼女なら絶対受かるだろう」という
衆目の一致した見解にもかかわらず、
結局、彼女は、卒業するまで一度も、
試験で得意の論文を書く機会さえ与えられないまま、
受験生生活を終えた。


本人は、決して敗因を語ることはなかったが、
いわゆる予備校的勉強スタイルを決して取らなかった
彼女の頑なな姿勢に一因があったのではないか、
と周囲にささやかれていたのも、また事実である。


時代は、LECのカリスマ講師・I氏が私塾を開き、
近隣のキャンパスで宣伝勧誘を大々的に行い始めた時期と重なる。
学生に序々に浸透していく“予備校信仰”に焦りを感じた教官たちが、
授業中から、露骨に予備校批判を行い始めた時代でもあった。


尊敬する人、と聞かれて、
真っ先に民法を担当していた某教授の名を上げ、
その師の教えに忠実に学生生活を過ごした彼女に、
突きつけられた残酷な結果。


それを「要領」の問題、と片付けるのは簡単だろう。
だが、自分はそんなに簡単には割り切れないものを感じている。


法科大学院構想の裏には、
門戸を広げることで、
「理念」に忠実に努力している学生たちをすくい上げよう、という意図も
少なからずあったと聞いている。


だが、新制度の下でも、
しっかりと受験対策をこなした人間と、
修了まで「理念」に忠実にカリキュラムをこなした人間とでは、
歴然とした戦績の差が出るのは間違いないように思われる*5


「3回の受験機会の間には必ず受かる」という発言が、仮に真実だったとしても、
20代、30代の人間にとって、1年の持つ意味は重い*6


ましてや、学部+2年ないし退職後2年、という
“ハンディキャップ”を背負った上での1年となればなおさら・・・。


既に書いているように、
“アマチュア”である企業法務の世界は、
理念に忠実に生きた“元・法科大学院生”を素直に受け入れられるほど
成熟してはいない*7


となれば、
せっかく身につけた知識を活かす機会を与えられぬまま、
夢を断念せざるをえなくなる、という“悲劇”が
全国各地で繰り広げられることは、大いに予想されることである。


いくら試験問題や試験制度をいじったところで、
「試験」という関門をくぐらせる限りにおいては、
“悲劇”をゼロにすることは不可能だろう*8


だが、“悲劇”を増幅させないために、
打つことのできる手はないのか?


制度設計の段階で散々コブシを振り上げた方々には、
制度設計の時と同じくらいの情熱を込めて、
上記の問題について検討する義務があると思う。


そのような検討がなされている痕跡が、
いまだ見当たらない、というのは、残念でならない。
自分の大学の学生を教えることで手一杯なのか、
それとも、自分の教え子たちを世の捨て石にする覚悟なのか、
単に2年前のことなど忘れてしまっただけなのか・・・*9


なお、蛇足ではあるが、
「今の司法試験受験生はレベルが落ちた・・・」的な発言をされている
偉い先生方を見ると、
毎年入社試験の選考で、「最近の学生は・・・」とつぶやいている、
中年管理職*10の姿を思い出す。


得てして、そのようなことをいう人々は、
年のせいで、自分の若い頃を忘れてしまっていることが多いので、
若手社員の間では“取扱注意”のフラグを立てているものであるが、
よもや、先生方に限って、そんなことはあるまい(笑)*11

*1:現に、会社を辞めてローに行った友人も、同レベルのグチを良くこぼしている。

*2:合格率の低さは、第1期の募集の時点でおよそ分かっていたことだし(おおっぴらに言われていなかったところに“説明義務違反”の問題があることは否定できないが・・・。)、「自分の勉強をする時間がない」というのは単に時間の作り方を知らないだけでは?という疑念が湧く(現に先に挙げたローの友人は“元・現行仮面”だったのだが、「仕事をしていた頃に比べれば天国だ」と言う。単に彼が課題で手を抜いているだけなのかもしれないが(笑))。「試験には決して出ないようなマイナーな判例」って、どんなものを指しているのだろう? 今、典型論点といわれている論点にも、現実に出題されて「過去問」になるまでは、あまり注目されることのなかった論点が混じっているはず(逆に、基本書で分厚く書かれている論点でも、現実には司法試験で出題されることが稀な論点は多々ある)。まだ一度も本試験が行われていない「新」司法試験の出題傾向を今から先読みするのは、試験戦略としてもあまり賢い選択ではないと思う。

*3:これは、“プロ”の法曹に限らず、“アマチュア”である企業の法務担当者にも共通して求められる能力だと思っている。

*4:以前のエントリーでも述べたように、必ずしもそのような企業は多くないのではあるが・・・。

*5:択一を突破できなければ論文を書くことさえ許されない、現行試験のような無情さは、少しは緩和されるだろうが。

*6:後から考えれば、20代の1年や2年、どうってことのない時間なのだが、当の本人にとって、そう思えるだけの心の余裕がない、というのも20代ゆえである。

*7:実務で能力を生かせるかどうか、ということもさることながら、法科大学院を修了した時点で“既卒”扱いになるから、未だに新卒採用を中心に据えている企業の採用方針に合致しないのではないか、という疑念も残る。本当に世渡りに長けた人間なら、在学中にさっさと就職活動をして行き先を決めるだろうが、逆に、それだけの要領の良さがあれば、新司法試験で苦しむこともないだろうから、結局貧乏くじを引かされるのは同じタイプの人間になってしまうような気がしてならない。

*8:個人的には、現行試験の制度のまま司法修習期間を延長した方が(修習費用を個人持ちにしてでも)、キャリアブランクを生むことなく、かつ制度設計者が求める“素養”を取得させるための方法としては、ベターだったように思えてならない。

*9:大量に輩出される合格者を法曹界でどのように処遇するか、という話は、既に話題としては出てきているようであるが、その「大量に」輩出される合格者の数倍もの「不合格者」が輩出される、という現実からも目をそむけるべきではないだろう。

*10:否、自分の世代でも同じようなことを言う人間が最近増えてきているが・・・

*11:人は得てして、経験を重ねることによって自分が“成長した”と勘違いし、さらに悪いことに、そんな“成長した”自分を基準に、物事を考えがちになる。だからこそ、どんなコミュニティでも、“世代間闘争”は永遠に消えることのない伝統行事として受け継がれることになる。

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