企業法務戦士の雑感 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2016-09-19

[][]最上級のパフォーマンス、再び。

リオ五輪の閉会式のハンドオーバー&東京プレゼンテーションを見た時は、これを超えるパフォーマンスを目にする機会は当分巡ってこないだろうな・・・と思ったものだが、約1カ月後、再びパラリンピック閉会式、という大舞台でさらに素晴らしい奇跡を目撃することができた。

流れる映像の一部にオリンピックのそれの使い回し感があったことは否めないし*1、“マリオ”的なアトラクションの要素も、会場を派手に使ったマスゲーム的な要素があったわけでもない。

だが、その分、生身の人間にスポットを当て、障碍というバリアを逆手に取った芸術性と迫力を前面に押し出す、という舞台は、少なくともテレビで見ていた視聴者にとってはより凄味を感じさせられるもので、今、五輪の時のプレゼンテーションと見比べても、遜色ない、というか、遥かに凌駕するものだったように思えてならない*2

スポットライトが当たった3人以外にも、車椅子のダンサーダウン症ダンサー等々、様々な障碍を持つ人々が同じ舞台の上に立って、それぞれの表現で「TOKYO」を描く。

その姿の美しさ、神々しさをどう表現すればよいのか、あの10分間の間は、ただ息をのむばかりで上手い言葉が見つからなかった、というのが本当のところである。

オリンピックのパフォーマンスに比べると、より“椎名林檎色”が強まっていたことや、もしかしたら一部の世代にしか響かないかもしれない「東京は夜の七時」*3ハイライトの曲として流れていたことなど、好き嫌いが分かれる要素が多かったことは否定しないが、自分は、あらゆる選手たちがメディアが創り上げるスターシステムに組み込まれ、ともすれば主役が自分たちと同じ人間だ、ということを忘れてしまいそうになるオリンピックとの対比で、戦いの中に生身の人間臭さが残っているパラリンピックを象徴するようなプレゼンテーションだったな、と、最初から最後まで好意的に受け止めている。


これで、「4年後」に向けたスタートは完全に切られることになった。

オリンピックにしても、パラリンピックにしても、「プレゼンテーション」はあくまで“ショー”、多少の誇大宣伝は許される、と言ってしまえばそれまでなのだが、リオの舞台で描かれたクールで美しく情感あふれた「東京」の姿が、4年後、ただの幻、ということで終わってしまったら開催国としてはやはり失格、ということになってしまうだろうと思うわけで、「開会式であれだけのパフォーマンスを再び見せられるか」という分かりやすい懸念以上に、描かれた世界にどうやって現実を近付けるか、ということにも我々は挑み続けないといけない・・・と思った次第である。

*1:ただ、前半の1964年のエピソードのくだりはとてもよかった。

*2:広い会場でそれがどこまで伝わったか、というのは分からないが、テレビには部分的にしか映らなかった背景のCGなども相当凝っていたようなので、会場にいればいたなりの迫力はまた感じられたのかもしれない。

*3:自分は思いっきりツボだったが(笑)。

2016-08-22

[][] 10分間で魅せた最上級のパフォーマンス

リオ五輪の閉会式、引き継ぎセレモニーがあることは過去の大会の記憶やら諸々の情報やらで分かっていたのだけれど、これをやるとは・・・、というサプライズ演出で2020年にバトンが渡されることになった。

一国の首相コスプレをさせたことに始まり、その後のショーに至るまで見た人の価値観によって大きく評価が変わってくる中身だったとは思うが、自分は、10分間という短い時間の中で「日本」を表現する上で一連の演出はほぼベストに近いものだったと思うし、五輪の閉会式本番、という大舞台で、ああいう思い切ったエンターテイメントを提供することにゴーサインを出した関係者の勇気を率直に称賛したいと思っている。

元々、「日本人が伝えたいと思っている日本」と「外国人が思っている日本」は重なりそうで重なり得ないものだから、この種の世界的なイベントで行われるPRには、“強調するのそこかよ!”というフラストレーションが付きものなのだが、そこは割り切るしかないところ。

そして、過去のビッグイベントでのパフォーマンスに比べれば、今回のそれは、「閉会式」という華やかな場に違和感なく溶け込んでいけるショー性と入れ込んだ中身のバランスが抜群に良かった。

個人的には、2020年の最大の不安は「開会式」だと思っていただけに、椎名林檎中田ヤスタカにプロデュースを委ねるようなこの路線がそのまま本番まで継承されるのであれば、不安材料は多少なりとも解消される*1

「10分」では済まない開会式の演出となると、各所からあれもこれも、という注文が付くことは避けられないだろうし、いろいろ詰め込もうとすればするほど、後々まで笑い種になる悲劇的な寸劇に陥ってしまう可能性は高いのだけれど*2、どうせ地元でやるからには思い切って、その時、一番脂がのっている世代クリエイター達の価値観一色で染めたものを世界に見せつけてくれ、と思わずにはいられない。

まだまだ先の話だと思っていても、気が付けばすぐ、の話だから・・・。

*1:これで蜷川実花が加われば、色艶華としては最高レベルの演出が期待できそうである。

*2:例えば、「巫女が蝶々夫人のBGMで点火する」というような悲劇。

2013-01-25

[][]“実名報道”をめぐる議論に思うこと。

とうとう10人目の日本人犠牲者が出てしまったアルジェリア人質事件。

事件の背景等について、まだはっきりしないところは残っているものの、プラント建設という仕事に誇りを持って世界中を飛び回っていた犠牲者たちの無念を思うと、何とも言えない気持ちになる。

だが、そんな悲しみの余韻に浸る間もなく、今、我が国で盛り上がっているのが「実名報道」をめぐる議論だ。

この事件の一報が報じられ、やがて悲痛な報が流れるようになっても、一向に犠牲になられた方々のお名前が公表されない、ということについては、自分も違和感はあった。

政府のコメントは、

「(日揮が)ご家族の皆さんは動揺していて、そこだけは勘弁してほしいと言っている。今の時点で発表するつもりはない」(日本経済新聞2013年1月25日付け朝刊・第38面))

と、もっぱら日揮側の要請によるものである、というものだったが、これが通常の事故、事件であれば、たとえ犠牲者となった社員が“純然たる被害者”であったとしても、当局から一方的に氏名等が公表されるのが常で、会社はそこから波及する様々な対応に追われる・・・というのが現実だったはず。

遠い異国の地の出来事で、日本の当局自体が正確な情報を十分に把握しきれていなかった(ように見える)という特殊事情はあったものの、その意味では「異例」の対応だったと言えるだろう。


今回は結局、某大手新聞社が“実名”をすっぱ抜いて報道し、それに対して一部の被害者側から抗議の声が上がったことで、「被害者の実名を公表することの是非」、さらに、「メディアの事件・事故被害者への取材の在り方」へと一気に議論が燃え上がっていくことになった。

(正式な経緯は良く分からないのだが)確かに、情報提供者に対する取材と、そこから得た情報を公表する経緯には、いろいろと議論を呼ぶところもあったようだ。

ただ、個人的には、

「実名を公表すること」

と、

「実名が公表されることに付随して生じるメディアの取材、報道の在り方」

の問題は切り分けて考えられるべきだと思っている。


世間的にはどんなに無名の人物だったとしても、その人には、「名前」とともに築かれてきた人生がある。

特に、今回のようなケースでは、犠牲となった社員の方々が「会社の中でどういう地位にあり、これまでどういう功績を残してきたのか」、そして、「なぜ、彼らがアルジェリアの地にいたのか」ということを社会全体で共有して、しっかり語り継いでいかない限り、異国の地で流れた血も報われないだろう*1

その意味で、「氏名、役職」の一切が公表されないまま、という状況は、犠牲者の名誉のためにも、決して好ましいことではなかったと思う*2

もちろん、事件、事故の性質によっては、「実名」を報じられること自体が被害者や、その家族の名誉を傷つけることもあるのは確かだ。

でも、本件がそういう事件ではないことは、事件発生直後から分かっていたことだったようにも思うわけで*3、事件解決後もなお、「一切公表しない」という対応が取り続けられたことについては、議論の余地があるように思われる*4


一方、「実名公表」に付随する取材、報道の在り方については、自分も、ネット上で展開されている一連の批判に賛同するところが多い。

結局、犠牲者の実名がメディアで流れ始めてからの各社の報道と言えば、「悲嘆にくれる家族の悲しむ姿」とか、「ご遺体と対面した家族の悲痛な表情」といったものばかりで、周辺取材も、取材しやすい実家の家族や古い知り合い等から得た、と思われる、「どこで生まれ育って、どんな人となりで・・・」といった、紋切り型のものばかり。

悲しむ遺族の姿を映すことによって、“共感力”の強い多くの読者が一緒に「非道な犯罪行為」への憎しみを駆り立てることを期待する、というのは、メディアの手法の一つとしてはあり得ると思うし、それ自体を全否定するつもりはないが、ありとあらゆるテレビ、新聞メディアが同じことをする必要はあるまい・・・*5

報道する側としては、「被害の実態を検証するための事実報道」だ、と主張するのだろうけど、悲嘆にくれる家族の側としては、各メディアが用意している“紋切り”記事に流し込むだけの、同じような質問を繰り返し投げつけられる、という迷惑なことになるわけで、事件の本質とは必ずしも関係しないこの種の取材を延々と行うことに、公益的な意義があるとは自分には到底思えない。

取材のタイミングにしても、これまで悲痛な不安感の中で時を過ごし、これからも葬儀の手配等、いくら時間があっても足りないくらいのあわただしさの中を過ごさなければならない遺族に対して、このタイミングで行わないといけないのか・・・という素朴な疑問がある。

“スープの冷めないうち”に、関連報道を次々と紙面化して耳目を引きたい・・・というのが取材サイドの思惑なのかもしれないけれど、そんなのは知ったこっちゃないわけで、じっくり周辺取材を行って、ご遺族や会社関係者が落ち着いた頃に、“証言”を集めて完成度の高い記事を書く、というアプローチの会社が一社くらいあっても良かったのかなぁ、と思うところ。


既に「メディアスクラム」を憂慮する声が強いことから、今後は、各メディア側でも何らかの“自制”をせざるを得なくなると思われるが、あまりにも目に余る取材、報道を繰り返していると、結果的に、「実名公表そのものを予防的に禁止する」という流れに向かっていかないとも限らないわけで、各メディアが自分で自分の首を絞めないようにするために、現状の問題点について、真摯に反省し、やり方をちょっとでもいいから改める、といった姿勢が今まさに求められている・・・。

SNS上で繰り広げられる、純粋な“正義感”から出てきているメディア批判が、勢いを増していくさまを見るたびに、そう思えてならない。

*1:1月25日付けの日経紙朝刊に掲載されている田島泰彦・上智大教授の「被害者遺族の思いを受け止める配慮は欠かせないが、重大なテロ事件の被害者らがどんな人でどんな仕事をしていたのかなどを客観的な事実として記録することは大切」というコメントも、大意これに近いことを仰っているのではないかと思われる。

*2:もちろん、日揮側も、行方不明者や犠牲者の家族が一番大変な時期に、取材攻勢に晒されて更なる心労を負わせてしまうことを危惧していただけで(この点については後述)、どこかでタイミングを見て、公表するつもりはあったのだろうと思うけど。

*3:過去の人質事件では、「人質」になった日本人がバッシングに晒された例もあったから、日揮側でもその辺を危惧したのかもしれないが、今回は幸いにもそういう流れにはならなかったように思う。イラクとは異なり、本件は元々国内で話題になっていなかった北アフリカの政情に絡む事件だったから、これまでネット住民の関心も薄かっただけで、今後風向きが変わる可能性が全くないとはいえないのだが・・・。

*4:余談ではあるが、自分と血のつながった近しい親族は、昔、不慮の事故で命を落とした。だが、翌日新聞に掲載されたのは、たった数行のベタ記事だけ(しかもローカル面)。しかも、某大手紙などは、被害者の職業と年齢を報じただけで、氏名すら掲載しなかった。ちょうどその頃、大々的に報じられていた日航機の事故の報道とのギャップが大きすぎて、葬儀に集まった親族たちが皆口をそろえて、「これじゃあ、○○ちゃんも報われないよねぇ・・・」と言っていたことが、今でも自分の心の奥には残っているし、故人の名前を報じるかどうか、というのは、それだけセンシティブな問題だ、ということなんだと思う。公表された場合のデメリットについて考慮が必要なのは当然のことだが、「家族にストレスを与えない」という目的達成のために、“より制限的でない”手段がなかったかどうか、は、後日振り返って検討されるべきではなかろうか。

*5:おそらく日揮側からの情報が十分に取れていない状況だと思われるだけに、やむを得ない面はあるのだろうが、周辺取材にしても、「日揮がアルジェリアで行っていたプラント建設プロジェクトがいかなる意義を持つもので、その中で犠牲者たちがどのような役割を果たしていたのか、ということについても、もう少し光が当てられて然るべきだろう・・・と自分は思っている。

2010-08-15

[][]終戦記念日に一冊。

5年を一区切りと考えれば、節目の年に当たる今年の終戦記念日だが、例年以上に静かに過ぎ去っていってしまったような気がする。


これが時の流れ、といえばそれまでなのだが、せめて年に一度くらいは思いを巡らせてみる必要があるだろう、ということで、8月に入ってからこの日に向けて、浅田次郎氏の↓の最新刊を読んでいた。


終わらざる夏 上

終わらざる夏 上


終わらざる夏 下

終わらざる夏 下


浅田氏はあくまで小説家であってノンフィクション作家ではないから、上記作品も、ルポルタージュでも“戦史”でもない、ただのフィクションに過ぎない、ということは最初に断っておかねばなるまい。


そして、本作品が、「背景設定のある程度の部分までは、丹念な取材に基づく(であろう)細かいディテールが描かれていても、途中から作者の強い思い入れが前面に出て、最終的にはフィクション&ファンタジーの世界に落ち着くことが多い浅田氏の作風」を象徴するような作品であることにも留意する必要はあろう。


小説の手法としては有効なこの手の手法も、使われている素材がセンシティブなテーマの場合には、読後感を微妙なものにするのは否めないわけで、本作品に関しても、上巻の終盤から下巻にかけて、“ファンタジー色”のあまりの強さに当惑せざるを得なかったのは事実である*1


終戦間際で、大戦の勝敗の帰趨もほぼ見えていた時期、という特殊な時代設定があるとはいえ、登場するすべての人物に(結果的に相対することになるソ連兵にまで)、“厭戦””反戦”的な感情を露呈させ、行動させているあたりは、これを“ファンタジー”と言わずに何と言おう・・・*2




もっとも、そういうところを離れて、本作品の場面場面を見れば、いろいろと思うところもある。


例えば、大本営参謀のやり取りから始まり、聨隊区での人選、召集令状の送達を経て、一人の人間が兵隊として動員されるまでの一連の流れ。


この流れは、現代における会社内での異動辞令発付までの流れともほとんど変わらないわけだが、このエピソードは、誰一人いかがわしい私心を挟むことなく自らの職責を忠実に遂行しても、根底的な目的自体が誤っていれば、最終的にもたらされる悲劇が甚大なものになってしまう、ということ、そして、世の中で今動いているシステムの「目的」さえ変えてしまえば、現在の世の中の仕組みをそんなにドラスチックにいじらなくても、再び“悲劇”を大量生産する世の中に戻すのは簡単だ、ということをうかがわせるものであるわけで、身に染みて考えさせられるところは多い。


国家指導層から末端の市民に至るまで、判断の当・不当の問題として括られるような事象は多々あったとしても、善・悪の価値基準で語られるような(少なくとも明確に「悪」と分類されるような)判断・行動は存在しなかったんじゃないか、というのが、先の大戦に関する歴史的事実に接するたびに自分が抱く感想である。


だが、そう考えると、「悲劇の時代」と「平和な現在」との敷居は、想像以上に低いんじゃないか、と思えてくるわけで・・・。


“万が一”に備えて、悲劇の連鎖を防ぐために何ができるか。


それが、自分がこの先何十年と考えていくべきテーマになる・・・。


そんな気がしている。

*1:この辺りの評価は、Amazonの書評欄に書かれている評価に激しく共感する。多彩なエピソードを取り込み過ぎて主題がぼやけた、等々の評価についても。

*2:この辺りは軍部指導層=「悪」、それ以外の国民=「被害者」という戦後の歴史観の顕れかな、と思ったりもする。

2010-08-11

[][]改正臓器移植法初適用事例に思うこと。

臓器移植法改正をめぐって、党派を超えた議論が繰り広げられたのはもう一年前のこと*1


結局、法案は可決成立したものの、その後の政権交代等もあって、大きな議論が湧き上がることもなく静かに施行日(平成22年7月17日)を迎えていた。


そして、一昨日くらいから、「本人の書面による意思表示がなくても、家族の承諾で脳死判定し、臓器を摘出することができる」という改正法のキモを初適用した“画期的事例”が、あちこちで報じられている。

「日本臓器移植ネットワーク(東京・港)は9日、20代の男性患者が病院で脳死と診断され、家族の承諾のみで臓器提供を実施すると発表した。関係者によると病院は関東地方。男性は家族に口頭で提供の意向を示していたが、意思表示カードなどはなく、7月17日に施行した改正臓器移植法に基づく初のケース。」(日本経済新聞2010年8月10日付朝刊・第1面)

一応、改正法の内容を確認しておくと*2、従来、

第6条第1項 

 医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないときは、この法律に基づき、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる

第3項

 臓器の摘出に係る前項の判定は、当該者が第一項に規定する意思の表示に併せて前項による判定に従う意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がないときに限り、行うことができる。

とされていた規定を、

第6条第1項

 医師は、次の各号のいずれかに該当する場合には、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。

第1号

 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないとき。

第2号

 死亡した者が生存中に当該臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって遺族が当該臓器の摘出について書面により承諾しているとき。

第3項

 臓器の摘出に係る前項の判定は、次の各号のいずれかに該当する場合に限り、行うことができる。

第1号 

 当該者が第一項第一号に規定する意思を書面により表示している場合であり、かつ、当該者が前項の判定に従う意思がないことを表示している場合以外の場合であって、その旨の告知を受けたその者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がないとき。

第2号

 当該者が第一項第一号に規定する意思を書面により表示している場合及び当該意思がないことを表示している場合以外の場合でありかつ、当該者が前項の判定に従う意思がないことを表示している場合以外の場合であって、その者の家族が当該判定を行うことを書面により承諾しているとき。

と改めたのが昨年の改正であり、従来死亡した者の明示的な意思がなければ決して成し得なかった臓器移植を、「移植のために臓器を提供する意思がないことを表示している場合(及び「脳死判定に従う意思がないことを表示している場合」)」を除いて「家族の承諾だけ」でできるようにした、というのが、改正の趣旨であることが分かる。



さて、当初ニュースを聞いた時は、そんなに違和感がなかった今回の改正法適用第1号事例だが、その後、「家族の同意」の背景事情がチラホラと聞こえてくるにつけ、いくつかの疑問が湧き上がってきた。


その最たるものが、

「脳死と判定された20代男性は臓器移植に関するテレビ番組を見た際、家族に「臓器提供したい」と話していたことが10日、分かった。男性は意思表示カードを所持していなかったが、家族はこの時の男性の意思を尊重したという。」(日本経済新聞2010年8月10日付夕刊・第15面)

というくだり。


先にも述べたように、今回の改正では、「臓器提供を行わない(脳死判定に従わない)」という意思を本人が表示していない限り、臓器移植を行うことは可能だから*3、脳死と判定された男性が、どういう状況で「臓器移植する意思」を表明したか、ということは、直接的には、脳死判定及び移植の可否を判断する上での要素とはならない。


だが、「テレビを見た際に話していた」というレベルの話で「本人の意思あり→ゆえに承諾」という帰結に至ったかのようなニュースを聞いてしまうと、“大丈夫か・・・?”という思いに駆られるのも確かだ。


改正法の下で、「家族の承諾」により臓器移植を行うために本来必要なのは、「臓器提供の意思がない」旨の意思表示がないことの証明であろう。


しかし、一般論として常に言われるように、「ないこと」を証明するというのは、実は相当に難しい*4


そして、多くの場合には、日頃の本人の言動等から、「提供の意思がない旨の意思表示がない」ことを推認せざるを得ない、ということになるはずだ。


そう考えると、「テレビを見た際に話していた」というレベルで、「意思表示がない」ことの推認を十分に働かせることができるのかどうか、考えれば考えるほど分からなくなる*5


まだ完全には機能を停止していない家族の身体を目の前にして脳死判定&移植に承諾した、本件のご家族の勇気ある決断に対してとやかく言うつもりはない。


本人が「テレビを見た際」にした話が、前記記事のトーンとは異なる、とても深い話(家族としては何としてもその意向を通してあげたいと思うような)だった可能性も十分にあるだろう。


だから、今我々が目にしている情報だけで、今回の移植そのものを批判するのは失当だと思う。


だが、やはり個人的な思いとしては、ドナーカードにより明示的に臓器提供の意思を表示した人以外の人からの臓器移植には慎重であってほしいと思うし*6、法が改正されたからといって、本人に意識があったときの意思の探究を十分に行うことなく、安易に“家族の承諾”だけで移植を進めるような現場での運用*7は避けられるべきではないか、というのが強い。


“美談”だけが独り歩きしそうな気配がある今だからこそ、なおさらそう思うのである。

*1http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20090623/1245774330など参照。

*2:ウエストロー社が提供している現改比較表が分かりやすいので、挙げておくことにしたい。http://www.westlawjapan.com/laws/2009/20100717_83.pdf

*3:第2条1項には「死亡した者が生存中に有していた自己の臓器の移植術に使用されるための提供に関する意思は、尊重されなければならない。」という旨の規定があるが、条文の建てつけ上は精神的条項と言わざるを得ないように思われる。

*4:自分は臓器提供の意思がない旨明確に表示したドナーカードを常に持ち歩くようにしているのだが、それでも、何らかの事故にあってから、脳死状態に陥るまでの間に、タイミングよく家族がそれを見つけてくれる保証はどこにもないわけで・・・。

*5:条文上、「提供の意思がない旨の意思表示」は、書面によることを要しない(提供の意思がある場合の条文の反対解釈)と考えるべきなのだろうから、なおさらである。

*6:“承諾”の責任を負う家族が余計につらい思いをすることになるわけだから・・・。

*7:繰り返しになるが、今回の移植が安易に行われた、とは自分は思っていない。これは、あくまで、今後に対する憂いである。

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