企業法務戦士の雑感 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2018-01-01

[][][]「維新」も「革命」も、狙って起こすものじゃない。

新年も明けました!ということで、新聞紙面にも毎年恒例の“お屠蘇記事”があふれている。

元旦の紙面に載っている、ということは、当然書いた記者は旧年中に稿を上げているのだろうから、別にほろ酔い加減で気前の良いことを買いている、ということではないのだろうが、どうしても、こういう時の記事を冷めた目で見ると“浮いてみえる”ものが多くなってしまうわけで・・・。

新年展望特集のサブタイトルに至っては、「維新再び」というキーワードまで踊っているのだが、当の「明治維新」にしても、最近Buzzワードになってしまっている「革命」の本家本元版にしても、あくまで後世の歴史家が評価したゆえに、画期的な出来事として歴史に刻まれただけであって、まさにその時、その場にいた当事者たちは、後々それが歴史の転換点、と位置付けられることになろうとは夢にも思わず、目の前のことに向き合い、処理することだけで精一杯だったはず。

そして、「革命を起こそう」などという気負った意思に基づく行動は、大抵がただの“変”で終わってしまう、というのも歴史の常である。

過去の歴史を紐解くまでもなく、ここ10年、20年の間に起ったことを振り返っても、Eメール、検索エンジン、動画サイト、スマートフォン、そして、様々なSNSツール、と、一部の企業が開発した技術&サービスが密やかに浸透した結果、ビジネスもライフスタイルも激変させてしまった、というのが現実だろう。

要は、誰かが大上段から振りかぶって「変えてやろう」なんて力まなくても、新しいモノはどんどん世の中に出ていくし、その結果、様々なコトが変わっていく。

そこにあるのは企業・サービス間のシビアな競争原理と、ライトなユーザーの肌感覚だけ。

毎年、「特集」で語られる“展望”は、政府サイドから発信される「産業政策」に寄りかかっていることが多いし、特に日経紙のようなメディアになってくると、その傾向が顕著なのだけど、これまで繰り返されてきた現実を冷静に見つめ返すと、もう、お国が「産業政策」なんてものを振りかざして無駄な予算を投入するのはいい加減やめた方がいいんじゃないか、と思わずにはいられないし、その周りをブンブン飛び回っている人々に対しても、「高邁な理念を大声で叫んでいる暇があったら、少しでも今よりいいモノ作って結果出せ!」という感想しか抱けない。

世界をひっくり返すような大発明を生み出す土壌がなければ、先入観にとらわれずに、今起きている「事実」と、目まぐるしく移り変わる「現象」を正確に把握した上で、新しいもののいいとこどりで、少しずつそれまでとの“違い”を生み出していくことが大事なわけで、そういう地道な試みの積み重ねが、あとあと振り返ったときに「大革命」になるんだよ、ってことを、何かと世の中浮かれ気味な新年にこそ、書き残しておく次第である。

 「経営者が占う・・・」シリーズ。

なお、ついでに・・・ということで、今年も実施されている「経営者が占う2018年」の企画について。

為替相場にしても、株式市場にしても、基本的に不確定要素しかない世界なのであって、正確に一年の見通しが立てられたら誰も苦労しない(というか、それではそもそも「相場」というものが成り立たない)から、あくまで「占い」でしかないのだが、2017年に関しては、一昨年に比べると比較的良い線の予想になっていた。

特に株価に関しては、多くの経営者が慎重な予想に終始する中、高値23,000円(実際には23,382円15銭)、安値18,000円(実際には18,224円68銭)というレンジで予測を立てた金川千尋・信越化学工業会長がほぼ的中。

筆者自身、昨年、ここまで景気が年の後半まで持続するとは思っていなかったこともあって、年後半に23,000円台、という予測*1を見た時は、まさかね、と思ったものだったが、終わってみれば、強気の予測を立てた人の勝ち。

それもあって、今年の予測では多くの経営者が、高値25,000円以上、というかなり強気な予測を立てており、中でも金川会長は、高値28,000円(8〜9月)という“超強気”予想である*2

多少長く生きてしまったゆえとはいえ、長年、侮蔑の対象でしかなかった“バブル”の波に、まさに今自分たちの世代が呑み込まれている、と思うと、かなり複雑な心境ではあるのだが、個人的には今の景気実感に素直に従って、このシナリオに素直に乗っても良いのかな、と思っている*3

*1:他にもSMBC日興、大和という大手証券会社の方々がこの手の予測を立てられていた。

*2:ちなみに、同氏の安値予測は21,000円(1〜2月)、ということで、年明け早々の調整局面を経て反転、というシナリオをお考えのようであるが、さてどうなるか。

*3:多くの会社では団塊世代の退職と少子化で、そんなに手を掛けなくても国内のコストは順調に削減できるし、一方で、中国東南アジアの市場は快調に伸びていて、00年代に地道に市場開拓と先行投資をしていた会社はまさに「取り返せる」時期に差し掛かっている。リタイアした世代を支えるための国家財政をどうする、という問題はさておき、個々の企業単位でいえば、国内の生産年齢人口の減少はさほど響いていない(むしろプラスに作用している面もある)、というのがここ数年で分かったこと、なのではなかろうか。要は、今や日本企業にとってすら、「日本」は生産活動の場所でも、需要がある場所でもなくなりつつある、ということで、「投資のリターン」だけで企業を存続・成長させることができるのであれば、それはそれで理想的なカタチであるようにも思える。

2016-09-19

[][]最上級のパフォーマンス、再び。

リオ五輪の閉会式のハンドオーバー&東京プレゼンテーションを見た時は、これを超えるパフォーマンスを目にする機会は当分巡ってこないだろうな・・・と思ったものだが、約1カ月後、再びパラリンピック閉会式、という大舞台でさらに素晴らしい奇跡を目撃することができた。

流れる映像の一部にオリンピックのそれの使い回し感があったことは否めないし*1、“マリオ”的なアトラクションの要素も、会場を派手に使ったマスゲーム的な要素があったわけでもない。

だが、その分、生身の人間にスポットを当て、障碍というバリアを逆手に取った芸術性と迫力を前面に押し出す、という舞台は、少なくともテレビで見ていた視聴者にとってはより凄味を感じさせられるもので、今、五輪の時のプレゼンテーションと見比べても、遜色ない、というか、遥かに凌駕するものだったように思えてならない*2

スポットライトが当たった3人以外にも、車椅子のダンサーダウン症ダンサー等々、様々な障碍を持つ人々が同じ舞台の上に立って、それぞれの表現で「TOKYO」を描く。

その姿の美しさ、神々しさをどう表現すればよいのか、あの10分間の間は、ただ息をのむばかりで上手い言葉が見つからなかった、というのが本当のところである。

オリンピックのパフォーマンスに比べると、より“椎名林檎色”が強まっていたことや、もしかしたら一部の世代にしか響かないかもしれない「東京は夜の七時」*3ハイライトの曲として流れていたことなど、好き嫌いが分かれる要素が多かったことは否定しないが、自分は、あらゆる選手たちがメディアが創り上げるスターシステムに組み込まれ、ともすれば主役が自分たちと同じ人間だ、ということを忘れてしまいそうになるオリンピックとの対比で、戦いの中に生身の人間臭さが残っているパラリンピックを象徴するようなプレゼンテーションだったな、と、最初から最後まで好意的に受け止めている。


これで、「4年後」に向けたスタートは完全に切られることになった。

オリンピックにしても、パラリンピックにしても、「プレゼンテーション」はあくまで“ショー”、多少の誇大宣伝は許される、と言ってしまえばそれまでなのだが、リオの舞台で描かれたクールで美しく情感あふれた「東京」の姿が、4年後、ただの幻、ということで終わってしまったら開催国としてはやはり失格、ということになってしまうだろうと思うわけで、「開会式であれだけのパフォーマンスを再び見せられるか」という分かりやすい懸念以上に、描かれた世界にどうやって現実を近付けるか、ということにも我々は挑み続けないといけない・・・と思った次第である。

*1:ただ、前半の1964年のエピソードのくだりはとてもよかった。

*2:広い会場でそれがどこまで伝わったか、というのは分からないが、テレビには部分的にしか映らなかった背景のCGなども相当凝っていたようなので、会場にいればいたなりの迫力はまた感じられたのかもしれない。

*3:自分は思いっきりツボだったが(笑)。

2016-08-22

[][] 10分間で魅せた最上級のパフォーマンス

リオ五輪の閉会式、引き継ぎセレモニーがあることは過去の大会の記憶やら諸々の情報やらで分かっていたのだけれど、これをやるとは・・・、というサプライズ演出で2020年にバトンが渡されることになった。

一国の首相にコスプレをさせたことに始まり、その後のショーに至るまで見た人の価値観によって大きく評価が変わってくる中身だったとは思うが、自分は、10分間という短い時間の中で「日本」を表現する上で一連の演出はほぼベストに近いものだったと思うし、五輪の閉会式本番、という大舞台で、ああいう思い切ったエンターテイメントを提供することにゴーサインを出した関係者の勇気を率直に称賛したいと思っている。

元々、「日本人が伝えたいと思っている日本」と「外国人が思っている日本」は重なりそうで重なり得ないものだから、この種の世界的なイベントで行われるPRには、“強調するのそこかよ!”というフラストレーションが付きものなのだが、そこは割り切るしかないところ。

そして、過去のビッグイベントでのパフォーマンスに比べれば、今回のそれは、「閉会式」という華やかな場に違和感なく溶け込んでいけるショー性と入れ込んだ中身のバランスが抜群に良かった。

個人的には、2020年の最大の不安は「開会式」だと思っていただけに、椎名林檎や中田ヤスタカにプロデュースを委ねるようなこの路線がそのまま本番まで継承されるのであれば、不安材料は多少なりとも解消される*1

「10分」では済まない開会式の演出となると、各所からあれもこれも、という注文が付くことは避けられないだろうし、いろいろ詰め込もうとすればするほど、後々まで笑い種になる悲劇的な寸劇に陥ってしまう可能性は高いのだけれど*2、どうせ地元でやるからには思い切って、その時、一番脂がのっている世代のクリエイター達の価値観一色で染めたものを世界に見せつけてくれ、と思わずにはいられない。

まだまだ先の話だと思っていても、気が付けばすぐ、の話だから・・・。

*1:これで蜷川実花が加われば、色艶華としては最高レベルの演出が期待できそうである。

*2:例えば、「巫女が蝶々夫人のBGMで点火する」というような悲劇。

2013-01-25

[][]“実名報道”をめぐる議論に思うこと。

とうとう10人目の日本人犠牲者が出てしまったアルジェリア人質事件。

事件の背景等について、まだはっきりしないところは残っているものの、プラント建設という仕事に誇りを持って世界中を飛び回っていた犠牲者たちの無念を思うと、何とも言えない気持ちになる。

だが、そんな悲しみの余韻に浸る間もなく、今、我が国で盛り上がっているのが「実名報道」をめぐる議論だ。

この事件の一報が報じられ、やがて悲痛な報が流れるようになっても、一向に犠牲になられた方々のお名前が公表されない、ということについては、自分も違和感はあった。

政府のコメントは、

「(日揮が)ご家族の皆さんは動揺していて、そこだけは勘弁してほしいと言っている。今の時点で発表するつもりはない」(日本経済新聞2013年1月25日付け朝刊・第38面))

と、もっぱら日揮側の要請によるものである、というものだったが、これが通常の事故、事件であれば、たとえ犠牲者となった社員が“純然たる被害者”であったとしても、当局から一方的に氏名等が公表されるのが常で、会社はそこから波及する様々な対応に追われる・・・というのが現実だったはず。

遠い異国の地の出来事で、日本の当局自体が正確な情報を十分に把握しきれていなかった(ように見える)という特殊事情はあったものの、その意味では「異例」の対応だったと言えるだろう。


今回は結局、某大手新聞社が“実名”をすっぱ抜いて報道し、それに対して一部の被害者側から抗議の声が上がったことで、「被害者の実名を公表することの是非」、さらに、「メディアの事件・事故被害者への取材の在り方」へと一気に議論が燃え上がっていくことになった。

(正式な経緯は良く分からないのだが)確かに、情報提供者に対する取材と、そこから得た情報を公表する経緯には、いろいろと議論を呼ぶところもあったようだ。

ただ、個人的には、

「実名を公表すること」

と、

「実名が公表されることに付随して生じるメディアの取材、報道の在り方」

の問題は切り分けて考えられるべきだと思っている。


世間的にはどんなに無名の人物だったとしても、その人には、「名前」とともに築かれてきた人生がある。

特に、今回のようなケースでは、犠牲となった社員の方々が「会社の中でどういう地位にあり、これまでどういう功績を残してきたのか」、そして、「なぜ、彼らがアルジェリアの地にいたのか」ということを社会全体で共有して、しっかり語り継いでいかない限り、異国の地で流れた血も報われないだろう*1

その意味で、「氏名、役職」の一切が公表されないまま、という状況は、犠牲者の名誉のためにも、決して好ましいことではなかったと思う*2

もちろん、事件、事故の性質によっては、「実名」を報じられること自体が被害者や、その家族の名誉を傷つけることもあるのは確かだ。

でも、本件がそういう事件ではないことは、事件発生直後から分かっていたことだったようにも思うわけで*3、事件解決後もなお、「一切公表しない」という対応が取り続けられたことについては、議論の余地があるように思われる*4


一方、「実名公表」に付随する取材、報道の在り方については、自分も、ネット上で展開されている一連の批判に賛同するところが多い。

結局、犠牲者の実名がメディアで流れ始めてからの各社の報道と言えば、「悲嘆にくれる家族の悲しむ姿」とか、「ご遺体と対面した家族の悲痛な表情」といったものばかりで、周辺取材も、取材しやすい実家の家族や古い知り合い等から得た、と思われる、「どこで生まれ育って、どんな人となりで・・・」といった、紋切り型のものばかり。

悲しむ遺族の姿を映すことによって、“共感力”の強い多くの読者が一緒に「非道な犯罪行為」への憎しみを駆り立てることを期待する、というのは、メディアの手法の一つとしてはあり得ると思うし、それ自体を全否定するつもりはないが、ありとあらゆるテレビ、新聞メディアが同じことをする必要はあるまい・・・*5

報道する側としては、「被害の実態を検証するための事実報道」だ、と主張するのだろうけど、悲嘆にくれる家族の側としては、各メディアが用意している“紋切り”記事に流し込むだけの、同じような質問を繰り返し投げつけられる、という迷惑なことになるわけで、事件の本質とは必ずしも関係しないこの種の取材を延々と行うことに、公益的な意義があるとは自分には到底思えない。

取材のタイミングにしても、これまで悲痛な不安感の中で時を過ごし、これからも葬儀の手配等、いくら時間があっても足りないくらいのあわただしさの中を過ごさなければならない遺族に対して、このタイミングで行わないといけないのか・・・という素朴な疑問がある。

“スープの冷めないうち”に、関連報道を次々と紙面化して耳目を引きたい・・・というのが取材サイドの思惑なのかもしれないけれど、そんなのは知ったこっちゃないわけで、じっくり周辺取材を行って、ご遺族や会社関係者が落ち着いた頃に、“証言”を集めて完成度の高い記事を書く、というアプローチの会社が一社くらいあっても良かったのかなぁ、と思うところ。


既に「メディアスクラム」を憂慮する声が強いことから、今後は、各メディア側でも何らかの“自制”をせざるを得なくなると思われるが、あまりにも目に余る取材、報道を繰り返していると、結果的に、「実名公表そのものを予防的に禁止する」という流れに向かっていかないとも限らないわけで、各メディアが自分で自分の首を絞めないようにするために、現状の問題点について、真摯に反省し、やり方をちょっとでもいいから改める、といった姿勢が今まさに求められている・・・。

SNS上で繰り広げられる、純粋な“正義感”から出てきているメディア批判が、勢いを増していくさまを見るたびに、そう思えてならない。

*1:1月25日付けの日経紙朝刊に掲載されている田島泰彦・上智大教授の「被害者遺族の思いを受け止める配慮は欠かせないが、重大なテロ事件の被害者らがどんな人でどんな仕事をしていたのかなどを客観的な事実として記録することは大切」というコメントも、大意これに近いことを仰っているのではないかと思われる。

*2:もちろん、日揮側も、行方不明者や犠牲者の家族が一番大変な時期に、取材攻勢に晒されて更なる心労を負わせてしまうことを危惧していただけで(この点については後述)、どこかでタイミングを見て、公表するつもりはあったのだろうと思うけど。

*3:過去の人質事件では、「人質」になった日本人がバッシングに晒された例もあったから、日揮側でもその辺を危惧したのかもしれないが、今回は幸いにもそういう流れにはならなかったように思う。イラクとは異なり、本件は元々国内で話題になっていなかった北アフリカの政情に絡む事件だったから、これまでネット住民の関心も薄かっただけで、今後風向きが変わる可能性が全くないとはいえないのだが・・・。

*4:余談ではあるが、自分と血のつながった近しい親族は、昔、不慮の事故で命を落とした。だが、翌日新聞に掲載されたのは、たった数行のベタ記事だけ(しかもローカル面)。しかも、某大手紙などは、被害者の職業と年齢を報じただけで、氏名すら掲載しなかった。ちょうどその頃、大々的に報じられていた日航機の事故の報道とのギャップが大きすぎて、葬儀に集まった親族たちが皆口をそろえて、「これじゃあ、○○ちゃんも報われないよねぇ・・・」と言っていたことが、今でも自分の心の奥には残っているし、故人の名前を報じるかどうか、というのは、それだけセンシティブな問題だ、ということなんだと思う。公表された場合のデメリットについて考慮が必要なのは当然のことだが、「家族にストレスを与えない」という目的達成のために、“より制限的でない”手段がなかったかどうか、は、後日振り返って検討されるべきではなかろうか。

*5:おそらく日揮側からの情報が十分に取れていない状況だと思われるだけに、やむを得ない面はあるのだろうが、周辺取材にしても、「日揮がアルジェリアで行っていたプラント建設プロジェクトがいかなる意義を持つもので、その中で犠牲者たちがどのような役割を果たしていたのか、ということについても、もう少し光が当てられて然るべきだろう・・・と自分は思っている。

2010-08-15

[][]終戦記念日に一冊。

5年を一区切りと考えれば、節目の年に当たる今年の終戦記念日だが、例年以上に静かに過ぎ去っていってしまったような気がする。


これが時の流れ、といえばそれまでなのだが、せめて年に一度くらいは思いを巡らせてみる必要があるだろう、ということで、8月に入ってからこの日に向けて、浅田次郎氏の↓の最新刊を読んでいた。


終わらざる夏 上

終わらざる夏 上


終わらざる夏 下

終わらざる夏 下


浅田氏はあくまで小説家であってノンフィクション作家ではないから、上記作品も、ルポルタージュでも“戦史”でもない、ただのフィクションに過ぎない、ということは最初に断っておかねばなるまい。


そして、本作品が、「背景設定のある程度の部分までは、丹念な取材に基づく(であろう)細かいディテールが描かれていても、途中から作者の強い思い入れが前面に出て、最終的にはフィクション&ファンタジーの世界に落ち着くことが多い浅田氏の作風」を象徴するような作品であることにも留意する必要はあろう。


小説の手法としては有効なこの手の手法も、使われている素材がセンシティブなテーマの場合には、読後感を微妙なものにするのは否めないわけで、本作品に関しても、上巻の終盤から下巻にかけて、“ファンタジー色”のあまりの強さに当惑せざるを得なかったのは事実である*1


終戦間際で、大戦の勝敗の帰趨もほぼ見えていた時期、という特殊な時代設定があるとはいえ、登場するすべての人物に(結果的に相対することになるソ連兵にまで)、“厭戦””反戦”的な感情を露呈させ、行動させているあたりは、これを“ファンタジー”と言わずに何と言おう・・・*2




もっとも、そういうところを離れて、本作品の場面場面を見れば、いろいろと思うところもある。


例えば、大本営参謀のやり取りから始まり、聨隊区での人選、召集令状の送達を経て、一人の人間が兵隊として動員されるまでの一連の流れ。


この流れは、現代における会社内での異動辞令発付までの流れともほとんど変わらないわけだが、このエピソードは、誰一人いかがわしい私心を挟むことなく自らの職責を忠実に遂行しても、根底的な目的自体が誤っていれば、最終的にもたらされる悲劇が甚大なものになってしまう、ということ、そして、世の中で今動いているシステムの「目的」さえ変えてしまえば、現在の世の中の仕組みをそんなにドラスチックにいじらなくても、再び“悲劇”を大量生産する世の中に戻すのは簡単だ、ということをうかがわせるものであるわけで、身に染みて考えさせられるところは多い。


国家指導層から末端の市民に至るまで、判断の当・不当の問題として括られるような事象は多々あったとしても、善・悪の価値基準で語られるような(少なくとも明確に「悪」と分類されるような)判断・行動は存在しなかったんじゃないか、というのが、先の大戦に関する歴史的事実に接するたびに自分が抱く感想である。


だが、そう考えると、「悲劇の時代」と「平和な現在」との敷居は、想像以上に低いんじゃないか、と思えてくるわけで・・・。


“万が一”に備えて、悲劇の連鎖を防ぐために何ができるか。


それが、自分がこの先何十年と考えていくべきテーマになる・・・。


そんな気がしている。

*1:この辺りの評価は、Amazonの書評欄に書かれている評価に激しく共感する。多彩なエピソードを取り込み過ぎて主題がぼやけた、等々の評価についても。

*2:この辺りは軍部指導層=「悪」、それ以外の国民=「被害者」という戦後の歴史観の顕れかな、と思ったりもする。

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