深町秋生の序二段日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-07-24 TBSの自己実現。(相手を殺して)明日にきらめけ。 このエントリーを含むブックマーク

誰も書かなかったアムウェイ―アムウェイ・ビジネスへの疑問

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地獄のマルチ商法 (桃園文庫)

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先日のTBSK−1MAX」を見て、たぶん来年あたりから一気に興業がやばくなるだろうなと思った。今日はスポーツテレビについて。


中量級選手による立ち技格闘技のイベントだが、それを魔裟斗ひとりがひたすら支えてきたのだと改めて実感させられる。それにしても川尻との対決は、試合内容こそはひどいものだったけれど(水に飛びこんだ牛をワニが食らうようなものだった)観客の興奮はケタ違いだった。魔裟斗といういかにもな名前にあのホストっぽいマスクということで、敬遠する人も少なくないが、練習魔と強心臓で頑固な格闘技ファンをも唸らせていた。


しかし興業自体はつまるところひたすら魔裟斗頼りで、興奮がケタ違いだったということは、それ以外はさしてエキサイティングしていなかったという証拠でもあった。そのあたりは当然、K−1側も意識していたようで、TBS総合格闘技の英雄である山本KIDを拝借してきたが、その結果、韓国ムエタイ男に失神KOさせられるというむごいオチが待っていた。スタッフは頭を抱えたことだろう。受身が取れずに首がぐにゃりと曲がったまま倒れたKIDに、わざわざ「立ってくれなきゃ困るんだよ!」と言わんばかりに(まるで梶原一騎プロレス漫画に出てくる悪徳レフェリーのような)、テンカウントを取るところが印象的だった。


そんな魔裟斗も今年で引退するわけだが、それ以後の興業ははたしてどうなるだろうか。今からどきどきである。次世代の選手が健闘はしているものの、ゼニが取れるファイターになっているかといえば、まだその域には達していないと率直に思う。


今までテレビでは他の選手の攻防を映さずに、魔裟斗やKIDの過去の試合ばかり流していた。その弊害がいよいよ噴出してくるだろうと思う。その場の視聴率しか考えず、まるで焼畑農業のように推し進めていったTBSリングものの宿命であるように思える。たとえばKIDの負けを「試合勘を取り戻せていないようですね〜」などと谷川氏は解説していたが、単純に対戦相手の韓国ファイターが強かったという話だろう。しかしろくに対戦相手を紹介もしない(三冠ムエタイチャンプというあやしげな肩書きが与えられていたが、なんの三冠なんだかさっぱりわからない)ので、英雄KIDがどっかの馬の骨にのされたようにしか見えず、KIDがまるでその程度のやつにやられる三流のように映ってしまうのだ。フジ系のK−1ヘビー級アンディ・フグピーター・アーツといった外国人選手のプロデュースに成功したのだから、イケメン揃いの中量級外国人だってプッシュすれば国民的な人気を獲得する可能性だってあっただろうに、あくまで「魔裟斗の前に立ちはだかる強豪外国人」という役割しか与えられなかった。まるで力道山ボスだったころの日本プロレスみたいな売り出し方だ。


TBSという放送局は人間対人間という「闘い」をほとんど描こうとはしなかった。夢をかなえるか、かなえないか。サクセスするかしないかというあくまで「自己実現」の場として描いてきたと思う。魔裟斗がいるK−1中量級はまだマシなほうだ。図式としては魔裟斗対強豪外人、魔裟斗対ポスト魔裟斗という形であり、つねに魔裟斗の引き立て役として消費される運命にあったが、ライバルという役割ぐらいは与えられていた。


だが亀田ファミリーのときはそれさえなかった。TBS全体が前のめりになってプロデュースし、「亀田家」はよくも悪くも日本中の注目を集めるにまでいたったが、その巨大な名声に比べて対戦相手に関してはえらく不透明だった。戦跡や年齢すらあやしく、わかっているのは国籍ぐらい。タクシーの運ちゃんだったとか屋台引いていたとか、その後コクのある情報が入ってきては、すれっからしの格闘ファンをよろこばせていた。もうこれにいっては「亀田東南アジアの某選手」という図式で、相手不詳のファイトが提供されていた。じっさい次男の大毅クンが早めにどかどかパンチを入れてKOすると、もう相手の選手はお役ごめんとばかりに一切映ることはない。亀田家が夢にときめいて、明日にきらめくかどうかが重要なのだ。


しかしTBSが総力を合わせてプロデュースするほどの実力があったかどうかはあやしいものだった。長男にはそれなりの実力がともなっていたけれど、国民的な注目を浴びるほどのものではなかった。その差をなんとかしようとあがき、ごまかし、元ミニマム級チャンプランダエダと対戦することで破綻が訪れ、社会面の記事になるような大騒動を生んだ。次男にいたってはパニックに陥って内藤レスリングばりのタックルをきめて視聴者の怒りを買った。


先日「ROOKIES」の映画版を見た。まあこれがまたひどいわけだったのだが、そのあたりはもう省略していいだろう。どうひどかったかは今月の映画秘宝宇多丸氏のシネマハスラーを参照していただきたい。あの映画版は、亀田家プロデュースに失敗したTBSの捲土重来といえる。あの映画でもやはり闘いはなく、あるのはアメリカンウェイな自己啓発だけだった。闘いを描くことが目的ではないため、敵が何者であるかもろくに語られず、粛々と進行しなければならない高校野球という場で、教師が長々とタイムを取って生徒たちに説教をかまし、堂々と遅延行為を行いつつ、「布団売るぞ! 洗剤売るぞ!」というマルチ商法の集会みたいに自分たちがひたすら盛り上がっていたが、このあたりは亀田家で用いられた方程式とまったく同じだ。映画では野球の魅力がこれっぽっちも描かれなかったけれど、亀田家を取り上げたときもボクシングという競技をまともに描いてはいなかった。野球でもボクシングでも、試合というのは相手の夢を砕くことなのだが、そうした悲劇性を消し、ときにはルールさえ無視して「夢をかなえる自分たち」という不気味な物語をつむぎつづけていた。自分たちが盛り上がるためなら他人や法律などシカトしてもかまわないというカルト宗教みたいな臭いがした。ここで大事なのは「説教する」「みんなで大声をあげる」「勝利に号泣する」なのであって、つまるところ競技はなんだっていいのだ。


これは戦時の大本営発表とよく似ている。戦っている相手を人間として描かない。昔は敵を鬼畜と称した。人間のものではない異形のものとして扱えば、相手の夢や命を粉砕しても心が痛まない。亀田や「ROOKIES」の相手は、よくわからないゴーストだった。「これほど教育上、悪影響を与える映画もねえなあ」と私は思ったのだが、まあこの厳しい世のなかでは、人の夢を砕いておきながらもなんら痛みを感じないくらいの無神経さが必要なのかもしれない。そういった意味では教育上、正しいのかとも思い返したりもした。家に帰って「ブリー」「グランド・セフト・オート」をやって精神のバランスを保ったけれど。(相手を殺して)明日にきらめけ。


グランド・セフト・オートIV【CEROレーティング「Z」】

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BULLY(ブリー)

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