深町秋生の序二段日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-11-15 職業にして失うということ このエントリーを含むブックマーク

ピアノ弾き即興人生

ピアノ弾き即興人生

山下洋輔の文字化け日記 (小学館文庫)

山下洋輔の文字化け日記 (小学館文庫)




山下洋輔の新刊エッセイピアノ弾き即興人生」を読んだら、おもしろいくだりがあった。


音楽を職業としていると、どうしても音楽を普通に聴くことはできなくなる。それゆえテレビから流れるちょっとした音楽にも苛立ってしまうというお話。どんな音楽であれ、耳に入ってくると、つい批評したり、なにかをそこから学ぼうとしてしまうという。落語やNHKの「ラジオ深夜便」といった人の言葉を誘眠剤代わりに聴くときがあるけれど、音楽ではそうはいかない、眠るどころではないらしい。




たとえば、昔の歌謡曲でも、六〇年代ヒットパレードでも、モーツァルトでも、聴こえたとたんに神経がピリピリする。「そうか、こういう風に曲を作っていたのか」「この編曲はどうなっているのか」「この曲が作られた背景にはどういう社会的音楽的状況があったのだろう」などと要らぬ考えに迷い込む。そのうち、自分の知識の無さに情けなくなったりして、安らかに眠るどころではない。もはや音楽を普通の人のように聴くということができないのだろうか。


(中略)


昔はそうでもなく、何でも聴いて栄養にしていたような気もするが、今では、音を聴くというのは、自分のものなら反省だし、他人のものなら「この人と一緒にやることになったらどうするか」などという邪心を含んでの、勉強になってしまう。因果なことだ。


だからなるべく音は聴きたくないのだが、テレビなんかを見ているとこれが工夫を凝らした音楽のひっきりなしの大展覧会になっている。CMはもちろん、大事故政治問題の報道のバックに平気で音楽をつける。この瞬間に番組はもはやニュースではなく創作ドラマに限りなく近いドキュメンタリーになってしまうということに気づいているのだろうか。こちらは自然にその音楽のつけかたのセンスを測ってしまう。ショーに参加してしまうわけだが、たいていはイライラする。このようにむやみに音楽をつけるのには反対だが、もはやそういう音楽業界もあるわけで、同業者としてはことさら言い立てて営業妨害する気はない。それに考えれみれば、自分だって音楽もろともCMに出たりしたこともあるわけで、テレビの「音楽汚染」についてとやかく言える立場ではない。でも気になる現象だ。

 

なるべく音を聴きたくない、というのもすごい告白だと驚いたが、山下洋輔ほどの巨人でも、そういうことがあるのかと妙に安心した。オフのときや寝ているときでさえも、どんなたぐいの音楽であれ、聴きまくってそうな印象があった。


小説をほとんど読まなくなって数年が経つ。海外小説はちょこちょこ読んではいるけれど、国内の小説に関してはほぼ全滅だ。仕事がらみでないかぎり、手に取ることはない。なぜならやはり純粋に楽しめないからである。批評したり、学んでしまったりと大変面倒くさい。イライラもひどければ、おもしろければおもしろかったで、ひどいジェラシーに襲われる。


また、自分の作品ですら手一杯なのに、人さまの創作まで見たいとは思えなくなってしまう。推理作家協会から、毎年のように「今年の小説ランキングのアンケート」が届くのだけれど、ランキングをつけられるほど読んでいないので、スルーするしかなかったりする。


小説家が「小説読めない」とこぼすのは、「締め切りが苦しい」と並んで、わりとよく耳にするフレーズではある。かの浅田次郎氏もエッセイで言っていたと思うし、元書評家だった馳星周氏も、作家になってからはマンガばかり読んでいるという。そういえば昔、NHKBSの「マンガ夜話」にも出てらっしゃった。『ベルセルク』のときに。


相手が小説を書いていると知ると、嬉々として文壇事情や、ベストセラー小説の解説をしてくださる方がいる。ひどいときは、「作家なら、もう読んでいるはずだろう」と、いきなり「○○という作品をどう思うか」と議論をふっかけられたりする。読んでねえっつーの。


そういう流れになると、「サッカー選手は、たぶんオフのときはサッカー観戦なんてしないだろう。それと同じで、他の作品も文壇のこともさっぱり知らないし、知りたくもない。大好物だって一週間も食い続ければ飽きるのと一緒で、毎日何年もゲップがするほど小説漬けなのだから、小説の話はあまりしたくない」と、わりと冷ややかに告げることにしている。


なかには、サッカー観戦も大好きな生粋サッカー馬鹿や、小説を執筆したあとに、他人の小説をがむしゃらに読む生粋小説馬鹿もいるのかもしれないけれど、「好きなことを職業にする」というのは、そういう因果なものだと思う。


太田和彦氏の居酒屋エッセイのなかに、「漁師町には、いい居酒屋はなし」というフレーズがよく登場する。まあけっこう探せば、いい居酒屋がごろごろ見つかるわけだが、基本的には、漁師たちは魚など見飽きてるので、その土地にはうまい居酒屋よりも、芸のないカラオケスナックばかり存在しているという話である。


食べ物関係は、この「好きなことを職業にする」ことの悲劇の最たるもので、たとえばラーメンが大好きだからといって、ラーメン屋になったり、グルメライターになったりすると、「もうラーメンなんか見たくない」という事態に陥るはずである。心だけでなく、肉体そのものが受けつけない。「スープのダシに昆布鶏ガラが使われていて……」とか「メンはちぢれタイプで柔らかいが、かん水は」とか、やっぱり頭がごちゃごちゃして純粋には味わえなくなりそうだ。


バブルが弾けて、フリーターという存在がもてはやされた我らが青春、90年代のころといえば「せっかくだから、自分の好きなことで食べていこうぜ」というやっかいな風潮があった。自分もそうした考えにうかうか乗ったクチである。


しかし好きなものを職業にするというのは、「自分がもっとも好きなものを、もう純粋に楽しめなくなる」「自分がもっとも愛したものを、もっとも憎悪するようになる」という悲劇やリスクがつきまうことでもある。ピュアな心を失うというか。


好きなものを職業にできる、というのは誰もがその機会に恵まれるわけでもないので、それはそれでたいへんな幸福といえる。しかし、「もっとも好きなものは職業にしないでおく」という幸福も確実に存在する。ついこの間まで、薬屋のサラリーマンをやっていて、頭痛薬や風邪薬を作っていたのだが、べつに薬に対しては思い入れがあるわけではないので、そこで働いていても「もう薬なんか見たくもない!」という事態は最後まで訪れなかった。それと学生のとき、地元の業務用冷蔵庫の製造会社から内定をもらっていたのだが、こちらで働いたとしてもきっと「業務用冷蔵庫なんて見たくもない!」とは思わなかっただろう。


NHK教育テレビで、労働する若者をとりあげる番組があって、いかにも「それが好きだから職業にしました!」というような、情熱を燃やすあんちゃん、ねえちゃんがいっぱい登場するけれど、なんとなく見ていてハラハラする。


さして思い入れもないものを職業にして、自分が好きなものは、けっして職業にしない。そうすると、好きなものをいつまでも純粋に好きでいられるし、愛や楽しさだって持続するだろう。筆をいっそのこと折ってしまえば、また小説とはピュアな関係に戻れるのかもしれないが、もうしばらくは執筆活動を続けたいので、小説を愛しつつ、憎悪する毎日がこの先も続きそうではある。


参照サイト

http://www.sakuranbo.co.jp/livres/sugao/index.html熊谷達也×池上冬樹対談「今、あらためてアマチュア時代を振り返って」)

自選 ニッポン居酒屋放浪記 (新潮文庫)

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太田和彦の今夜は家呑み

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