深町秋生の序二段日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-12-13 石原慎太郎の目指すもの「嫌悪の狙撃者」 このエントリーを含むブックマーク

嫌悪の狙撃者 (1981年) (中公文庫)

嫌悪の狙撃者 (1981年) (中公文庫)

石原愼太郎の文学〈2〉化石の森

石原愼太郎の文学〈2〉化石の森


とある仕事で、話題の人物・石原都知事の本を読み返していた。


石原慎太郎小説は、肌にあうものが少なく、代表作のひとつ太陽の季節」も、「どうです! 若者らしいでしょう!」という押しつけがましさが嫌だった。


もっとも昔の青春小説なのだから、そう感じるのもしょうがないけれど、「太陽の季節」に限らず、まず既成モラルへの挑戦というテーマうんぬんの前に、ヨットボクシングモーターボートナイトクラブ、親分の息子とつるんで豪遊とか、体育会系で友人自慢な感じが鼻持ちならず、なにかといえば金持ち大学生であったりとか、職業が医者という設定なども気に食わなかった。「ヨットなんか知らねえよ、タコ!」というか。


もうひとつの代表作・長編化石の森」にしても、長すぎて読めなかったが、とにかくドストエフスキーがやりたかったんだろうなあと思った覚えがある。


そんなわけで合わない作品が多いけれど、数年に一度は読み返してしまう作品もある。「嫌悪の狙撃者」だ。この小説だけは好きだ。金持ちでもなく、孤独タクシードライバー少年の話だからかもしれない。


かぎりなくノンフィクションに近い話であって、昭和40年の少年ライフル魔事件について書かれた作品である。神奈川県座間市の山のなかで、十八歳のガンマニア少年が、三人の警官をおびき寄せ、狙い撃ちにして死傷。そこからカージャックなどをして渋谷に逃れ、銃砲店を襲って立てこもり、数千人もの渋谷の群集や数百人の警官隊に向けて無差別に発砲したウルトラバイオレンスな事件である。


偶然居合わせた(と自称する)都知事や、渋谷フルーツ店店員で、その後ピストル魔となった永山則夫が、大昂奮して事件を見守ったというエピソードもある。


夏のうだるような暑い日に、銃をぶっ放し続ける少年。その弾は都知事の周囲で野次馬していた酔っ払いのケツにぶち当たる。取り乱す酔っ払いを醜悪でみっともないと断じ、発砲する犯人に共感していくのである。


 私は一瞬、犯人に重なった自分を感じていた。いやそうではない。私の内に在る犯人を、というべきだったかも知れない。

 あと小さな店の中にたてこもった犯人が、今、銃弾に託してぶちまけ、溢れさせている彼の憎しみなり嫌悪に、もの蔭に立ちすくみながら私はいわれもなく共鳴し共感していた。醜悪な犠牲者を銃弾で屠るという彼の行為を、私は私自身の内に感じることが出来た。

(中略)

 そうなのだ。彼はあのおぞましい酔っぱらいだけではなし、この私をも狙っているのだ。あの酔漢だけではなく、私もまた彼にとっては醜悪で愚かでおぞましい周囲でしかないのだ。

 そう感じた時、重ねてある戦慄が襲った。それは前以上に深く濃い、彼が示している嫌悪と拒否への共感だった。自らの周りのすべてを憎んで嫌い、その嫌悪を、照準した銃で狙撃するという何よりも歴然とした行為で表現し切っている人間への渇きに似た讃歎だった。何故か私は、怖れながら晴れ晴れしたような気持ちになっていた。


晴れ晴れしたような気持ち(笑)。バカな酔っ払いが撃たれてすっきりし、嫌悪と拒否に共感する。大衆社会に対する嫌悪を代行した純粋犯罪だと感じ入って、彼はこの事件にのめりこんでいく。この事件を小説化しただけでなく、議員になってからは、死刑判決の下った少年の減刑恩赦の嘆願を法務大臣にしている。


またこの作品の後書きで、都知事はこう書いている。


「嫌悪」こそが今日の人間が生きるための情念である。「嫌悪」だけが、自らを正しく見出し、己の生を生きるための情熱を与え得る唯一の術だ。「嫌悪」の遂行こそが現代における真の行為なのだ。それが遂行される時にのみ、真実の破壊があり、革命があり、創造があり得る。「嫌悪」に発する、精神的に凶悪な思考だけが真に知的なものであり得る、等々、私は私なりにその主題を発展させていったのだが。


「嫌悪」の遂行こそが現代における真の行為なのだ、というが、このときすでに国会議員だったことを考えると、ずいぶんと大胆な発言である。今だったらどうだろう。炎上くらいはするだろうか。文学者としてはすばらしい文章だと思うが、政治家の文章として読むと、これはかなりぞっとさせられる。


さて石原都知事への悪口は、自分のもふくめて大層いっぱいあるわけなのだが、老害だとか認知症の表れじゃないかという悪口に対しては、ちょっと首を傾げたくなる。わりと若いころから忠実に、一貫してこういう有様なのだということで、今回は取り上げた。


ふつう人間、歳を取っていけばモリシゲ的に丸くなるものだし、いい人ぶりたくもなるものだが、都知事に関してはブレがないように思える。尻を撃ち抜かれた酔っ払いのように、現在も大衆を変わらず嫌悪し、侮蔑し、醜悪でおぞましいものだと考えている。本人だって何度も何度も「お前らはとことんバカで無価値で、虫けらみたいに殺してもいいとさえ思ってるんでございますよ」と懇切丁寧に表明しているにもかかわらず、それでも議員知事職につかせて、権力を与えるのだから、それを選ぶほうもどうかしているという話ではある。都民というのは度し難いアホ……とまでは思わない。べつに山形出馬していても、ふつうに当選していただろうから。


「NOといえる人」「裕ちゃんの兄」「文壇の重鎮」と、ぼんやり支持する理由はあるのだろうけれど、そうして「慎太郎知事がんばって」と応援している人間に対しても「け、くだらねえ。死ね、カス」というのが、彼の変わらぬ信念なのだと思う。暴言を吐いて新聞記事になってもさっぱり懲りないところを見ると。もしかすると「こうまでお前らをディスってるのに、それでも選ぶお前らって救いがたいバカだね」とさえ考えてるのかもしれない。やっぱりおれの考えは正しかったのだと。


ひょっとすると都知事の考えがいまいち世に伝わっていないから、彼はいつまでも大物政治家で、都政を好き放題にやっていられるのかな、と考えた時期もある。なんたって彼の文章ときたら長ったらしくて読みづらいし、文学なんてたいして読まれはしないものだし。メディアはなにをしている、と怒りに駆られたものだった。彼の実像をちゃんと伝えるべきだろうと。


しかし最近はそうでもなくて、彼のパンク宣言は充分に、都民国民なりにきちんと伝わっていて、ちゃんと理解されたうえで選ばれているんじゃないかと思うときがある。寛容や隣人愛やリスペクトよりも、嫌悪と拒否と侮蔑の王国にしたいと、積極的な意志でもって都民(というか国民)は、彼の政治に加担しているのではないかと思う。あの渋谷でライフルを無差別にぶっ放した少年のように。


もはやそれほどまでに、閉塞や苛立ちによって病的に侵食されているというか。そんな時代や空気が、都知事都知事たらしめているような気がする。改めて読み返して、そんなことを思った。



誰も書けなかった石原慎太郎 (講談社文庫)

誰も書けなかった石原慎太郎 (講談社文庫)

太陽の季節 (新潮文庫)

太陽の季節 (新潮文庫)