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2009-01-29 竹村真一『明朝体の歴史』思文閣出版

[][]竹村真一『明朝体歴史』思文閣出版

江戸時代初期の認識を、竹村真一『明朝体の歴史』を読みながら想像してみる

  • 竹村真一
  • 『明朝体の歴史』
  • 思文閣出版
  • 昭和61年7月刊

f:id:FeZn:20090130104147j:image

明朝体の歴史

明朝体の歴史

明朝体の歴史に関する各種記述

以前から、webやら紙の本やらで、明朝体の歴史に関しては相矛盾する……と言えそうな言説がアチコチにある。僕が仕事として編集したうちの初期の本では、コラムの中でこんなようなことが書いてある。

「明朝体は元々、中国僧侶が、平らな筆で書いた」

一方、僕自身の「FeZn/Bookmark(http://fezn.exblog.jp)」におけるエントリでも言及したと思うけれども、こんな意見だってある。

「明朝体はヨーロッパ人が作った書体だからか、中国人は明朝体が嫌い」

ここには矛盾があるようであり、同時に「複数の投影像から、本体を探す手がかり」になりそうでもある。

まあそれについては孫先生論文やら講演(……僕もレポート書かなきゃなあ)参照、ということで。

漫画中の武蔵と明朝体

課長 島耕作』弘兼先生の作品(たぶん「黄昏流星群」の中の1シリーズだと思う)で、宮本武蔵マニアというか研究家の現代人女性江戸初期にタイムスリップして、宮本武蔵本人に出逢う話がある。ニヤリとさせられるところや意外な解釈もあり、中身は結構面白かった。

手元に無いのだけれど、リンク先を確認してみる限り、多分この本だと思う。

黄昏流星群 (15) (ビッグコミックス)

黄昏流星群 (15) (ビッグコミックス)

その中で、現代から持ち込まれた書物を目にした武蔵が問う。「なんだ? この定規で引いたような文字は」

こたえていわく、「それが現代……未来の文字なのよ」と。(手元に現物がない為、このへんも例によって“記憶スケッチ”で。)

僕や、僕のような人間は、ここで若干の違和感を覚えるわけで。

なぜかと言えば、明朝体は決して、単純に「明治以降に輸入された活字書体であり、江戸初期の武士にとってそれは奇異なものと写った筈」とは言えないのでは? と思うから。

まして、作中の武蔵は比較的晩年と言える年代でもあったし。そして彼は、ある意味ではインテリであったのだし。

ひとことで(超・大ざっぱに)言うと、14世紀〜15世紀には既に原・明朝体の活字による活字版の印刷物(基本的には経文)は存在し、日本にも入ってきていたのでは? と僕の知識は騒ぐ(無理矢理ツッコミ箇所を探している、とも言えるカモ)。禅にも造詣の深かったであろう武蔵は、それを目にしていたと考えるほうが、自然じゃあないかと思えるのだ。僕としては。

(ただし、現代と江戸初期の文化ギャップを簡単に示すことのできる架空エピソウドの構築としては、よい選択ではあろうことには異論は全くない。)

『明朝体の歴史』

さて、そういうわけで今日は『明朝体の歴史』(竹村真一)の読書感想文っというか読書メモをとりつつ、そのあたりの疑問についても考えてみよう。……という企画。

明朝体の歴史それ自体については、weblog「明朝体・考」(http://www.nagamura.jp/moji/minchou/)を参照していただくのが良いのではないかと想像する次第。

  • 竹村真一
  • 『明朝体の歴史』
  • 思文閣出版
  • 昭和61年7月刊
明朝体の歴史

明朝体の歴史

『明朝体の歴史』目次

  1. 東洋印刷文化の起こりと進展
    1. 東洋での印刷の始まり
    2. 中国の印刷起源
    3. 朝鮮の印刷
    4. わが国印刷の黎明とその発達
  2. 文字文化の奔流
    1. 書体の変遷(一)
    2. 書体の変遷(二)
    3. 書体の変遷(三)
    4. 書体の変遷(四)
    5. 書体の変遷(五)
    6. 書体の変遷(六)
  3. 明朝体の源流(一)
    1. 楷書の直線化
    2. 書写の名残り
    3. 版彫刻の分業化
    4. 明朝体の完成
  4. 明朝体の源流(二)
    1. 初期明朝体が形成される様相
    2. 隠元の渡来と万福寺の創建
  5. 明朝体の源流(三)
    1. 黄檗僧の「明朝体楷書」
    2. 模刻本について
  6. 鉄眼禅師の一切教開版
    1. 鉄眼の一切教開版に至るまで
    2. 刻蔵の実
    3. 黄檗宗門下の開版類
    4. 明朝体の発展
  7. 明朝体移行期の諸刻本
  8. 明朝体の代表的な書風と刻師
    1. 明朝体の木活字
    2. 刻師仲間の慣習語
    3. 版木師の実状について
    4. 明朝体の幾何学構成と画線の太さ
  9. 明朝体の定着と活字文化
    1. 中国に来た外国人の事跡
    2. わが国における近代邦文活字と明朝体

整版が主流となった理由についてのメモ

同書p.40

〜その木活字には印刷界で非常な関心が持たれたものであったが、再版の時などには現在のようなシステムとは違い、再び組むのに手間がかかった。その不便さのため、この年代あたりからはこの整版の方式に戻りつつあった。

→「整版の時代に戻りつつあった」という件については、この節の本題ではないのだけれど、ここでメモ。

日本で江戸時代、(それ以前の試行の歴史があったにも関わらず)活版ではなく整版での印刷が主流であったのか? という疑問に対しては、いくつかの説明がなされてきた。

  • いわく、「日本語使用する文字種の、あまりの多さから、活字ではなく版木に直彫りするほうが効率的だった」
  • いわく、「政府江戸幕府)の言論統制制作の一環として、『どこの版元が何を刷ったか』記録・証拠の残る整版とするよう政策が進められ、活字版は発達しなかった」
  • いわく、「(すくなくとも大衆向け出版物では)連綿体が基本であり、それを活字で再現するのは困難であった」

……などなど。

これも、先の例と同様、互いに矛盾しないのかもしれない。おそらく一つの理由だけが決定的だったのではなく、複数の要因があって、その状況を成り立たたしめていたのであろうから。


楷書の成立

p.45-46

楷書は三国時代から六朝時代に早く書く必要から隷体より変化した書体で、最初は今隷という名で隷書のなかまであった。それがのちに楷書というようになった。

(中略)

このように楷書の形に変化していっても、唐の時代までは依然として隷と呼ばれ、明確に楷書といわれたのは宋代以後のこととされている。

(中略)

秦では篆書を楷、漢では八分を楷といって書体の名ではなく、ただ格式のある書の意味であり、唐代に至って初めて厳正に書体の名として楷書と呼ぶようになった。つまり唐の時代までは楷書という書はなかったということになる。

そうかー。我々が認識し当時の人が楷と称する書体は、AD二百数十年代あたりから発生し始めた、という僕の認識はちょいと(いやかなり)ツギハギで事実誤認といえるわけか。むろん僕が念頭に置いているのは“完成形”ではなく“萌芽”のほうなので、唐代ではなくもう少し前の時代にフォーカスをあわせねばならない(萌芽のほうは六朝時代で合ってたので、その意味では間違いない。)のだけれど、

しかし楷書・隷書などの書体名は、現在のように明確に分かれてはおらず、混交していた時代があったわけか。

考えてみればそれは当然の話で、人類学者的視点からすると「当時の人の認識」というものをきっちり考える必要は大いにあるわけなので、このあたりは参考にせねばならないところ。

あと、「楷書手」という官職名称があった(p.46)そうで、このへんも脳にメモメモ。

宋代の手書き書体と印刷書体

これまで自分は「手書きの書体」と「印刷の書体」を、“同一概念中の別平面のもの”として、ついつい分けて考えてしまう癖があったような気がしてきた。いま現在この本を読んでいて、「なるほど、当然のことではあるけれど、これらは一つながりのものなのだなぁ」と思わされた。

pp.64〜65

宋時代における開版の文字には、初頭三大家の典型と顔真卿の影響からきたものがあり、そうした楷書がこの時代盛んになた木版の刻書体として適当であったと考えられる。その理由は、

(一)比較的直線的で刻版の作業には容易であること、

(二)当時は木版印刷が実用化されたばかりで、量と費用の点から一般大衆の隅々までは行き渡らなかったこと、

(三)テキストとして使用されるため正しい文字を正確に表現して、常に端正な楷書にしなければならなかったためといったことによる。

これが量産化されるにしたがって、彫る時間を短縮するために、文字が次第に直線化されていったのが「宋朝体」と呼ばれた、とのよし。ただしここでいう「宋朝体」は、現代でいう「宋朝体」とはニュアンスが違うらしい。

この書体の誕生の直接のところでは、禅僧の書風と版本とは無関係であった、と。(p.65)

北宋書道世界では、最初の皇帝三人の70年間を「伝統派」の前期、それよりあとは「放縦な書が発展した」後期、と分けて考えるとの由。

だから、初期の書……ということは、かっちりした書体・書風がベースとなった、といえるわけで、後の元王朝においては、復古主義的になり(←ちと違うかな)宋の前期、どころかそれ以前の書に戻る傾向があった模様。

宋代における「手書き書体から、印刷用書体の誕生」は、その前からその後に至る「印刷の文字の歴史」を追う中で、常に意識しておく必要がありそうだ。

(いや、当然のことなんだけれど、現代においては「実態の乖離」と「用語の齟齬」があるので、ついつい《別物》として考えがちだった。

なるほど、そのあたりに二つの平面の結節点があるのか、と得心がいった。

元の時代の版本の書体は、(思いっ切り省略すると)いくぶんか新たな特徴を獲得しつつも宋時代のそれを継承し、より直線化が進行したものとなり、それは日本で開版されたものにも影響を与えた。(pp.68-69)


楷書体の明朝体化

印刷物の増加などの、社会によるスピードの要請に対して、彫りやすいように、直線を主体とした書体へと次第に変化していった。が、これは必ずしも時代の推移に伴い順次並行して起こったわけではなく、彫刻者その他の条件によってかなり違ったという。(p.75)

楷書体から明朝体が生み出されるプロセスについては、p76からp78に書かれている。

p.78

明朝体の縦線が太く横線が細いのは、文字を縦に並べた時、読み易くするためだといわれていて、実際もそれには違いない。縦線を太く書くということは、古来から楷・行・草ができた時にも、大体は横に比べて縦は太いのが普通であった。筆で縦線を引くときはどうしても力が入り易く太くなるわけで、これは極めて自然なことであった。

(中略)

改めて意識的に太くなるように、誇張した方がよいということに気づいたのだと考えられる。このように明朝体において、書体として横画に対して縦画を太くするものだと決定したこと、つまり明朝体の発生は文字の一大革命といわねばならないだろう。

このあと本書では、軽く年代を追って「楷書の直線化&縦横差の強調化」すなわち「明朝体の確立」の歴史を追っていく。

p.87

以上、列挙した例によっても明らかなように、初期の明朝体は当時楷書体から移行した経緯によって、縦線の横線に対する太さの比は大きくはなく、横線が太めにできているもので、後世に至って意識的に縦が太く、横が細くなっていった。

このように明代初期の正徳から嘉靖にいたる年代は、次の万暦の初め一〇年間を合わせても約七〇年間で、長い文字の歴史からすると、極く僅かな間ではあったが、この間に版刻の書体が転換して、明朝体が生まれてしまったという変わりかたは、まことに急激なものであった。しかし、その胎動期における直線化の歳月は発生に比較して長かったということができる。

後のほうのページでは、このような書き方もしている。

p.180

明朝体は中国宋・元時代以来の楷書体からの変形であって、(中略)年代が進んで元末から明の時代になると、(中略)時間を節約せざるを得なくなり、なるべく画線を単純化して直線的に彫るようになった。それでも初めのうちは楷書の書道的な名残も残されていたが、ますますそれが単純化してついてに明朝体が生まれた。


あと、これもまた当然のことに気づいた。

ここで登場するようなテクノロジー(木版印刷)においては、「版下」の図像は必ずしも「印刷物」のそれと100%一致するものではない。

ついつい、現代(……といっても最近は殆ど使わなくなったけれども)のテクノロジーに則って考えてしまうと、版下とはすなわち刷版に光学的その他の手段によって転写するものであって、その図像は事実上(陰影反転等はするかもしれないが)完全に転写される。

しかし、木版の版下においては、あくまでもそれを職人の手によって「なぞる」ものであった。人間の手が介在し、しかも正確性ではなく迅速性・効率性が要求される現場においては、再現性はそれほど重要なものではなかったわけだ。

もっとも、そうであっても無論のこと版下の書風の影響は受けている場合もあるようであるし、また場合によっては版下作成者への敬意からか、効率追求の中でも能う限り元の楷書(というか、筆の味わい)を再現しようとしている例もある模様。そしてそれこそが、「はね」や「うろこ」を生み出したと、著者は述べる。(p.76)

あと、個人的に興味深いなぁと思ったのは、「縦線専門、横線専門などの分業による効率化が行われていた」(←大雑把に書いた)という記述。(p.77)

比較するのは双方にとって失礼なのかもしれないけれど、どこかのテレビ番組で見た、現代中国の「贋作工場」を思い出す。その工場では、ある骨董絵画の複製を量産していた。手法はシンプルにし効果的。

話が逸れたが、つまり「版下から刷版への転写」は、現代においてはミクロン単位の正確性を求められる「作業

」だが、過去において「書体を変化させ、新しい書体を生み出す過程」として機能した、という点に僕は注目したわけだ。(これは著者の意見ではなく、僕の見解。)

僧の書く「明朝体楷書」

p.104

宇治の万福寺などの話があって、)

ところで、それら一部の中国僧に版本の版下を書いたのかと思われる、明朝体のような書を書いたものが数多いのに驚くのである。

ここにきて漸く「禅僧の書」と「明朝体」の話が噛み合ってくる。

ここで挙げられる事例は、版下を書いたものではなく、隠元禅師などの長寿の祝いとして作成された、寄せ書きのようなものらしい。

これは日本の例だが、同様の例が中国にもある。しかもAD500年前後にまで遡ることができる(pp.116-117)

だがこれは、石に彫られた文字なので、角張らせたほうが効果的に見えるから、ともいえる。

なぜ手書きで、印刷書体のような書き方をする必要があったのか?

……という問いに対して、著者(竹村真一)はこう書いている。

p.117

なぜ前記のような明朝体の楷書を書く必要があったかというと、中国やわが国とも出版事業が盛んであり、特にわが国の寛文年間では仏教関係が最も多きを示していたからである。僧侶が中心となってその事に当たっていたので、版下の文字としてその書法を自ら体得する必要があった。

(中略)

印刷文字の明朝体を以上のように眺めてくると、その形の本源は中国の奥深いところに存在していることが知られる。

(中国僧による「明朝体楷書」の例はp140から始まる数ページにある。)

つまりこの説によれば、「版下となる文字を書くため」に、あるいは「彫りやすい=版下として使いやすい文字とするため」に、修得した文字であるということになる。

このあと、長野規矩也の本から以下の部分を引用している。

p.117

「版本には諸家の特徴がそのまま現れるということは、殆んどないといってよい。書家といわれる人の書いた版下によって、刻するということは、普通は稀である。

以下略

ここで「模刻」「覆刻」などの用語を含めて解説がある。(pp.117-119)

鉄眼禅師の話

第六章は丸々一章を割いて、鉄眼禅師による一切経開版について、それこそ禅師の生い立ちにまで遡って詳述している。

清朝の木活字印刷手順と用語

さてさて、これもメモ書き。

pp.161-162

『欽定武英殿聚珍版程式』

木活字の本の組み方、刷り方などについて解説した本。

※「聚珍版」は「木活字」を言い換えたもの。

  1. 成駒木子……駒の作り方。
  2. 刻字……宋体の文字を書き、裏返して駒に貼り、彫る。
  3. 字櫃……文選ケース。康煕字典準拠配列
  4. 槽版……=「組ゲラ」=「組盆」(※)
  5. 夾条……インテル。4種類。
  6. 頂木……込物(発音は「コミモノ」?)
  7. 中心木……鼻罫。=中心の線。
  8. 類盤……文選箱。
  9. 套格……罫線のある組盆。
  10. ハイ書……拾い組み。
  11. テン版……ムラ取り。
  12. 校対……=校正

※:(組盆という言葉が僕の記憶にない。どっかで調べ直さねばならないかな。)

日本における明朝体移行期の例

→実例

pp.16-167

  1. 古文真宝……1651年
  2. 浄土宗名目上下……1681年
  3. 見聞随身鈔……1650年
  4. 浄土伝戒論……1651年
  5. 伊洛淵源続録……原刻1496年、日本1649年
  6. 五雑組……1612年以降
  7. 浄土略目図見聞……1675年
  8. 唯識三類選要……1733年
  9. 梅花心易鈔……(江戸初期)

→現場の用語

p.170

版木師の独特の用語

  • 横画の筆の押さえ(ウロコ)
    • →「鯖の尾」
  • 縦画の筆の止め納め
    • →「いなご尻」

→書者名つきの明朝体

pp.170-171

  • 源蔵明朝体……同名で二種類。
  • 佐太郎明朝体……森下佐太郎
  • 川村明朝体……川村某
  • 弥太郎明朝体……上記の川村の弟子、安井台助の子。

このほかに

  • 「清八さん」……篠原清八郎(平河町の“天神山”富田六佐衛門、の子)
  • 酒井勝太郎
  • 亀戸の「粂さん」……詳細不明
  • 玄魚 (「明治から大正にかけての筆耕の名手」)
  • 交来 (同上)
  • 素岳 (同上)

※このあとも人名リストはいくつか出てくるのだけれど、とりあえず、ここでの紹介は省略。

明朝体のウロコの分類

p.178

第一類から第九類まで、九つに分類した表。

平筆明朝体説という爆弾

そしてページを進めていくと、本題「その2」にちょうどゆきあたる。

p.179

明朝体を書くために平筆を平らに持って横に引くと細い線が書け、そのまま縦に書くと太い線になるとの説もあるが、そのような方法では横画終筆には三角形の「ウロコ」は生まれ出ないであろう。また他の線画の筆の止めの形もできないと思われる。

……うわぁ。否定されてしまった。

冒頭に書いたように、僕が編集した本の中で「平筆説」が載ってしまっているわけで。

とはいえ、(実験できる内容を)実験せずに、本に書かれている内容を鵜呑みにするのは賢いとはいえません。(どちらにしても、ね……)

平筆の持ち合わせはなかったので、簡易カリグラフィーペンで実験したことがあります。それを用いた場合は、「横画終筆のウロコは再現可能」。……で、まあ、それは本来の道具ではないので「あまり意味は無い」上に、払いや縦線の止め部分の再現は困難だったわけですが。

(それに、p.178の図でいうところの9種類のウロコすべてを再現するのは困難でしょうし。)

これについては、改めて実験した上でエントリにしてみたいところ。たしか某店で、いろいろな種類の筆が売っていると思うので、いつか買ってきて実験しようかな……いつになることやら。

……硯や墨、どこに置いたっけな……。いや、持ってるハズなんだけどなぁ。

結局武蔵は

剣豪と明朝体

えぇと、さて本題「その1」、「晩年の宮本武蔵の目に明朝体は奇異なものと写ったのか」については、「いまいちよくわからねぇ」ってのが現時点。

経文や陽明学の本(口絵p.4)などにおいては武蔵生前から日本に入っているものがあるようなので、目にしていないと断言はできないワケで。

たぶん、武蔵は見たんじゃないかなぁ。……と、個人的には思う。

ただし、イマドキのそれとは、書風・サイズetc.が余りに違うものなので、見知っていたとしても「異質なものとして写った」であろうとは想像できる。縦画と横画の太さの差が変わってくるだけでも、随分と印象は変わってくるだろうし。(というか、そもそも架空の話に推論を掛け合わせるのは思考遊戯以上の意味は無いんだけど)

こういうのは宮本武蔵を専門的に勉強研究・探求している人や、そうでなくとも印刷史研究の専門家に訪ねれば一発で解決がつくような気がするものの、

まあ今回は「ふつうの角度&ふつうでない角度から《書体史の本》を読む」ってぇ目的(?)は無事に読み終えつつあり。

一般論としての受容

(諸々の版本の、明朝体の“太さ”を比較して)

p.189

四書五経類の中に入るものは、概ね太い文字で、特に慶長年間以降は太い明朝体が多く、そして明朝体に十分に慣れた江戸時代中期から末期のものには、細い明朝体が多く見受けられ、かつ美しいものが多いことが分かった。


明治以降の明朝体の話

さて武蔵は横に置いといて、

本書の第9章(p.192以降)からは、明治以降を扱う。

そのあたりについてメモ&戯言メモメモ。

中国で活動した外国人
  1. ロバート・モリソン
  2. サミュエル・ダイアー
  3. リチャード・コール
  4. サミュエル・ウェルズウィリアムス
  5. ウィリアム・ガンブル
日本の近代活字探求者
  1. 木村嘉平(三代目)……木版の彫り師。パンチ式欧文活字を研究。
  2. 川本幸民……蘭学者オランダ人から「電気模造機」の利用法を習って、「電鋳法」による活字母型の制作に成功。(……って、この話はあんまり知らないな。あとで調べたい。)
  3. 大鳥圭介(本文では何カ所か「大島」になってる模様。正誤表で訂正が入っている。)……最初は小銃弾を溶かして鋳造に挑戦。のちに錫製活字へ。
  4. 本木昌造&弟子たち
  5. 印書局と活字局
  6. 内閣印刷局の活字製造
  7. 築地活版、秀英

p.200

フルベッキの紹介によって、上海の美華書館の館長ウィリアム・ガンブルが帰米の途中を長崎に迎え、活字鋳造と電気版についての詳細なる指導を約六ヶ月にわたって受けた。

……と、ここでは「6ヶ月説」を採用

(これについては別途エントリを建てる予定。→たぶん http://fezn.exblog.jp/ で。)

新聞の活字について

野村宗十郎ポイント活字

築地活版製造所の寄稿として製文堂の野村宗十郎が、アメリカ式ポイント制について書いている。(p.205)

そのあと明治36年、東京築地活版製造所から、アメリカ式ポイント活字が「内国勧業博覧会」に出品、大阪毎日新聞社報道。いくつかの新聞社(大阪毎日を含む)が採用。

新聞活字の小型化と扁平化

pp.206-207

  • 明治41(1908)年 10ポイント
  • 大正03(1914)年 9ポイント
  • 大正11(1922)年 7.5ポイント
  • 昭和15(1940)年 6.286ポイント

小さくなりすぎたので(非難が高まり)、対策

  • 昭和16(1941)年 7.3×6.3ポイントの扁平活字

現在(昭和61年)の新聞活字は、新聞協会工務委員会によって定められた、独自の「倍数制」を使用。

新聞社のドット文字

pp.207-208

朝日新聞のドット文字:

  • 基本1倍扁平文字
    • 横110ミルス × 縦88ミルス
    • → 2.794mm × 2.235mm
    • = 10U × 8U

→文字サイズに関するメモ

 1ミルス=1000分の1インチ

 1U = 0.2794mm = 11ミルス

→ドット文字におけるサイズ単位

 →1ドット=2.2ミルス(p.208)


その他

参考文献リストは、印刷史だけではなく宗教文化、紙、書道、書誌学、渡来僧、地方史などに及んでいる。

あと、本書『明朝体の歴史』には15ページにおよぶ索引がついている。

というわけで

……さて、ようようにして、感想文終了。

感想文というか、メモ羅列か。

読み始めたのは昨年末だから、今日(1/28あるいは日付変わって1/29)まで、かなり時間がかかった。

慣れない分野を読むのもそうだし、メモしながら読むと、いっそう。(でも、メモせずに読むと、ついつい「積んである次の本」に手を出してしまい、アウトプットできないので、《無理にでもアウトプットする習慣》の復活のためにも。)

あと、「慣れていると思っていた分野」も、昨今「どうやら本によって書いてあることが違うぞ?」と気づいて以降、注意を払いながら読むことになると……結局同様に時間が掛かるわけで。

まあそんなこんなで終了。

来週には文字系イベントが二つ三つあったりするので(http://calendar.fezn.com/ 参照)、どちらかに参加できるように思案&日程調整中。

そのあたりは、ふだん文字系の内容を書いている「FeZn/Bookmark」(htttp://fezn.exblog.jp)にも書くかも。

※余談。

  • このエントリの実際の作成日は「2009/01/22 02:26〜2009/01/29 00:41」あたり。
  • はてなダイアリーの使い方に慣れるため、という目的もあって作成した。(普段なら「FeZn/Bookmark」のほうで書く内容だし。
  • 原稿はおおむね、「はてな記法」を覚えておいて、キングジムの「Pomeraポメラ)/黒」で作成。
    • HTMLワープロ専用機で打っていた時代を思い起こしながら……。ま、トレーニング。その経験のゆえか、結構この手順でも実行可能なものだった。exblogだとこうはいかないから、こっちに軸足を移すことも検討中……
    • まあこの方法だと、バッテリ制限の緩い環境で、本と一緒にあちこちに持ち歩いて文章をつづることができる、という利点がある。一方弱点としては、現行機種のファイルサイズ制限「8000字」はあっさり突破してしまうあたりだろうか。
キングジム デジタルメモ ポメラ  DM10 パールホワイト

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