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ふろりあんのさらに新しい日記

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プロフィール

Florian

大魔導士兼魔法学校の師匠のよしなし事

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2007-02-13

論理による具体化の話

まず前提から。

C4の席上において、立命館大学高田先生が、「プログラミングという世界分析の方法を、コンピュータ技術者以外の一般の人にも養わせることが、プログラムを教えるという意味である」のようなことをその発表「子供プログラミング、大人のプログラミング」において行いました。

で、それに対して、(だれも質問しないのをいいことに(^^;)) Florian が「文系の人たちは、論理によって世界を分析、再構築することによって、分析している対象の世界(の自分の中での認識)が壊れるような獏たる不安を感じてるっぽいんだけど、それについて何か感触とかありますか?」というひじょーにアレな質問をしたことが発端です。

ちなみに高田先生が答えて曰く「特にない。というか、論理的に分析するのってやっぱり重要だと思うし……」。いや、重要だとは思います、もちろん私も(^^;)。


この場合の「文系の人」というのは、たとえば大学の学科のことではありません。職業のことでもありません。

ものすごくおおざっぱないい方をすれば、「世界を論理によって解釈しようという方向性を持たない人」のことを「文系」ととりあえず呼んでいます。この文章の中ではカギカッコつきで「文系」と以降記しましょう。

では、「文系」の人はどうやって解釈しようとするかというと、「論理化できない何か」で理解しています。論理化できないので、そもそも彼らが見ている世界を正確に再現するのは困難ですが、とりあえずおぼろげな理解を元に話を進めます。

実際の世界は結構複雑です。論理は、観察の結果導き出されますが、論理を組み合わせて現実を再構築しようとしても、完全に同じものが出来上がることはあんまりありません。そもそも、論理による記述は有限種/有限個のフレーズによって行われますので、不定数な因子によって構築される現実は有限のフレーズでは記述しきれません。

このため、論理はほとんどの場合「この部分はほにゃららとみなす」という枝切りをした上で成り立っています。

逆に、枝切りをしないよう心掛けた論理記述のためのフレーズがとにかく膨れ上がり、結果として再構築がえらい困難(できなくはないけど、人間の頭の限界が先にきちゃう)になります。

そのうえ、論理を導き出すのはかなり大変です。人間言語による表現方法は、意思決定機関(「思考」と呼んでもいいかもしれません)の動きとは無関係のもののようですので、その2つを結び付けるのはかなりのストレスになります。ストレスを受けながら、その上たいして役に立たない(ように感じる)のであれば、わざわざその方法をとる意味は薄いです。

なので、論理による記述ではなく、頭の中のもやもやしたもの(これを「感性」と呼んでもいいかもしれません)を元に現実解釈と再構築を行い、結果として不完全にならざるを得ない論理記述をしない方針も取りうるだろうとは思います。むしろ、論理を表現するストレスや、そこまでやっても不完全な記述しかできない上に、それ自体がコミュニケーション論理は聞く側にも論理を立てる素養を要求するので)や現実の再構築に対して役に立たないのであれば、論理化から一歩身を引いて考える人の方が多くなるのも理解できます。

結果として、どちらがいい、悪いという話ではなく、いわゆる「理系」よりも「文系」の人の方が絶対数としては多くなり、そのため、「文系」の弊害の方が表に見えやすくなり、「理系的思考を育成しよう」(文系的思考は推進しなくても増えるから)という号令が目立つのではないかと思われます。


で(長い前置きだった(^^;))、はじめの話に戻りますが。

文系」の人たちは、「理系」的な思考法にどうも恐怖を覚えているみたいなんですよ。

いろいろ話を聞いていると、その「解釈」する際に、論理によって再構築可能な方法論を提示すると、それによって解釈対象物の自分の中での価値がなくなるような気がする、というか。

ええと、微妙にぴったりするかどうかわからない例なのですが、ここでの「文系」の人たちは論理の方法論の一つ「還元主義」を嫌がります。

たとえば「愛というのは、脳内の化学物質のことである」という論があったとしましょう。確かに感情は内分泌系に作用されますので、この話自体はえらい乱暴ですがさほどずれたことは言っていないと思います。

でも、「文系」の人は、その論自体を否定にかかります。

それによって「愛」自体をおとしめられた。「愛」はもっと高尚なもので、そんな単純な再現方法が許されるはずがない、と。

ともあれ、その「恐怖の根源」みたいなものがなんなのかは、残念ながら根っから理系の私には正確に理解できていません。でも「文系」の人に対してもコンピュータプログラミングを推進(というか、教育)せざるを得ない現状においてはなんとかしてその恐怖をおしてでも世界の論理による分析をさせなくてはならないのです。

だから、同じ境遇のように見える高田先生に「何か感触があるか」という質問をしたのでした。


さて。以降、話は遥か彼方まで脱線します。

かつて、アラン・ケイポップカルチャーの弊害としてインスタントな理解で思考停止してしまうという状況を指摘していました。単純な二分化法で世界をばったばったと切りまくる世界理解は、確かに非常に明快ですが、そのために正しい理解(いや、そんなものがあると仮定して、ですが)を阻害する現状があるのであれば、世界の様々な問題を解決することはこれから先の未来も相変わらず難しいのかもしれません。

これは、適当な理由をでっち上げて、それがあたかも妥当であるかのように錯覚させる疑似化学や、ある地点での思考停止を強要する、一般的な意味での宗教なども同根です。

しかし、先述した通り、複雑な世界を複雑なまま論理化することもまた難しく、逆に論理化しないままだとその世界を何らかの方法で再現するのはさらに難しいです。結果として、単純な方法論を持って、八割がた正しいっぽいように見える論理化で手をうって、不完全ながらも工学的にはおおむね妥当という線での世界の再構成を目指す形になります。

うーむ、もしかして、この「八割がたで手を打つ」こと自身が誤りだったりするのかなぁ。とはいえ、立ちどまってても何も生まれないしなぁ。

現世の生産性を求めざるを得ないしがない一市民にはポップカルチャー批判はつらすぎます(;_;)。


……というようなことを思った今日このごろだったのでした。

propellapropella 2007/02/14 02:31 面白い深い考察、勉強になります。私も論理の側の人間として共感する所が多い一方で、とても好奇心が惹かれるのは Florian さん自身についてです。

話の腰を折るような話ですが、Florian さんの質問にあった「世界が壊れる」という表現や、獏たる不安を、恐怖の根源、「愛」自体をおとしめられた、等といった強迫的な言葉遣いに、Florian さん自身の心の闇を感じずにはいられません。何と言うか、Florian さん自身が論理を恐れる心、文系的な内面を持っていて、自分自身への恐れを文系批判に転化しているような印象を受けるのです。根っから理系の人に書ける文章ではありません。

それは多分表現者なら誰でも内に持つ心の魔物なのでしょう。お門違いなコメントと知りつつ Florian さんなら分かってくださると思い書き込みました。

FlorianFlorian 2007/02/14 08:25 自分の中に論理化を恐れる心の闇があるかどうかは、私自身よくわかっていません。
ただ、私自身が「論理で考える」ということをしていないのは確かです。私の中での思考は、もやもやとした直感そのものであり、論理化(もうちょっと推し進めて「言語化」ないしは「シリアライズ」といった方がいいかもしれません)は直感を表現するためだけに使用されています。MVCにたとえると、思考自体がモデルであり、論理化はビューに徹するようなイメージです。
その上で、思考が論理化プロセスからのフィードバックによって影響されないよう心掛けています。これは、論理化はしょせん表現手段であり、表現すべきもの自体はもっと高度で豊かである(はず)という意識から生まれています。実際のところ、論理化もしくは論理そのものは直感の内側にあるであろう何かにはどうやっても計算量で勝てないので、論理自体を中心においちゃうと自分の直感にたたきつぶされるというか、口から出た「心にもない言葉」の弱さを思い知っているというか。
ただ、コミュニケーション不全の存在(直感を元に共感してもらえることはほとんどない)と、現実再構築が困難であった(いわゆる創作活動は直感だけでは成り立たない)という長い時間をかけた経験から、直感を直感のまま表現することに対しては大きな反省があります。たぶん、このあたりが今回書いている文系批判の根っこです。
実際、反省をふまえて、論理化に対してかなり訓練を積みました。これによってあたかも「論理で明確に考えている風」でも、論理によって結論を導いているわけではないという現状が生まれています。まぁ、見る人が見ると「こいつ、思いつきでしゃべってるだろ」と露骨にわかるんですけどね。


しかし、強迫的な言葉ですか……。直感に当てはまる言葉を選んでいったらあんな語群になってしまったので、わざわざ強迫的にしようとしたわけではないんですよね。やっぱり闇が深いのかなぁ。

W−1@自宅W−1@自宅 2007/02/15 01:58 「例え」としては妥当だとは思うけどね>オイラ

「思春期を迎える前からプログラム書いてた側」としての例で言えば、我々プログラマってのは、当初はコンパイラ(オイラはMSX-BASICだったのでインタプリタ)の吐くエラーメッセージ1つ1つに自分を否定される感覚を味わい、それをデバッグしてバグを潰して歩く行為によって、思考の再構築を得ている・・・・と、この話を解釈してます>オイラ
オイラの解釈に従って言えば、「自身が持つ旧来の価値観を破壊し、新たな知識・情報の元に再構築する作業に慣れている・慣れていないと言う分類での(今回の)「文系」・「理系」と切り分けてしまう」のですが。

どっちにしてもね、Florian は『闇が深い』のでは無く『自縄自縛』の傾向があるんじゃないかと思うでょ(笑)

#それと、「擬似『科』学」ね>元記事

abeeabee 2007/02/15 02:35 いまさらながら構成主義について勉強し始めています。
今の議論とは少し違いますが、
http://gipvodn1.shinshu-u.ac.jp/el/e05a1/class0.html
ここで説明されている、強固な素朴概念(重いものがはやく落ちるなど)への執着を反例の提示により認知的葛藤を起こさせて科学概念に置き換えるという話が面白かったです。

FlorianFlorian 2007/02/15 23:57 あー、逆です>W-1
「旧来の価値観を破壊するのが嫌」な人が「文系」なのではなくて(それはあまりに文系に対して失礼だろう(^^;))、「論理で解釈したがらない人(論理以外では破壊されても気にしない)」が論理を怖がっているのはなぜだろう、というはなしですがな。
しかし、自縛傾向があるのは確かだねぇ(爆)。

W−1@会社W−1@会社 2007/02/16 12:49 なるほど、例えば食べた事の無い食材を食べた時に「こんなに美味いものがあったのか!」と価値観が再構築される過程に論理は入ってないわな。

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