あなたの正義は誰を殺しますか このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2007-10-10

承認の問題

昨日チャットで話して見えてきたのだが、非モテの問題は私にとって大した問題ではない気がしてきた。というか、悩みの症状の一つに過ぎない。まあさほど悩んでいるわけでもないんだけれども。

私の抱える非モテの根っこにある問題は、承認されるされないの問題である。

名づけるなら承認欠乏症だ。

  • 私はこの世に生きていても良いですか。
  • 動物を殺して生きても良いですか。
  • 植物を殺して生きても良いですか。
  • 有限の資源を使ってしまっても良いのですか。
  • 私が便利に生きるために他人様に迷惑をかけてもよろしいのですか。
  • 私が楽しむために他人様に何かしていただいても良いのでしょうか。
  • 今すぐ死ななくても大丈夫ですか。
  • 私さえいなくなれば助かりますか。
  • 私が消えると嬉しいですか。
  • 運動のできない私は死ぬべきですか。
  • 勉強のできなくなった私は消えるべきですか。
  • 金の稼げない私は腹を切るべきですか。

などなど。そんなことを、折に触れて思ってきた。

モテるとかモテないとかは問題ではない。

異性によってとか同性によってとかの区別はあるが、己の存在に価値があると認められない、または負の価値があると認定される、看破される、そういうことがツライのだ。

私のそういう症状の延長線上で考えると、「彼女ができたのに非モテがこじれている」なんてのを説明可能になる。その異性によって存在を承認されたり価値があると認めたりされたいのに、それが不足しているのだろう。「彼女」のほうも「彼」がまさかそんなものを欲しているとは思うまい。

私が現在悩みも苦しみも時折思い出すほどの軽度で済んでおり、のほほんと構えていられるのは、承認がそこそこ足りているからであろう。

家族が金銭的に凹んでいる時に支え。

会社で「できなかったことができるようになった」「こんなに儲かった」「こんなに不良品が減った」などと結果を出して「君に頼んで良かった」と言われ。

そういう経験が無ければ、他者に感謝され承認されなければ、自分を承認することができなかった。

多分今でも、自己が存在して良いという自信をちゃんと持つことはできていない。

でも、昔のような、明日の私は存在して良いのか?存在するべきなのか?という切羽詰った思いは、もう抱えていない。

だから私は別にあせっていないんだ。

あせっていないのがいけない、と親族には言われるのだけれども。

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