東大が「カレッジ・オブ・デザイン」を新設!

2024年2月20日の時点で、以下の様な情報があり、関わる「日本デザイン協会」(NPO)の会員に伝えた。

 

 

NPOJDA会員の皆様へ

 

東大が「カレッジ・オブ・デザイン」を新設!

 

本日(2/20)の東京新聞報道によると2027年秋に、上記名の5年制新課程を設立する方針とのこと。

一学年100人程度で半数を留学生に。秋入学。授業は英語。文理融合科目で既存とは異なる入試方法を設定。

国際競争力劣化の難題に対応するとのこと。教員は民間企業や海外から研究者を招く。

 

これを見て、改めて感じ入るのは、学部名(?)に「デザイン」を使っていることです。

「デザイン」が如何に、「総合知識力の代名詞に昇格」しているかが判りますね。

参考までに、

 

大倉

猪熊弦一郎は何を伝えようとしていたのか

猪熊弦一郎は何を伝えようとしていたのか

―知らない男が聞きたい事-

 

   猪熊弦一郎と聞いて、これまで、「判っている」 と思ってきた。

それは創作活動からだけで見た個人的な感覚で、「好きか、嫌いか」という評価に近い。

   過日、知人の誘いを受けて、何人かで訪ねた彼の家は何と吉村順三の設計で、その家を依頼したのが猪熊だったと聞いた時には一瞬、これはどういうことだ、と思ってしまった。

   在米中から依頼していたと聞いたのも、凄い信頼関係だと感じた。

   画家と建築家を繋ぐもの、ここからだけでも、この国の文化史に欠けているものを浮き彫りにする視点があるのではないか、と思えてきた。

 

   住宅地の真ん中にある建物は大きく、3階建ての構造はメインが鉄筋コンクリート造りで、一部鉄骨造りとのこと。1階は独立し、2階メインが居間、寝室、大きなアトリエで、3階にある和室に上がる玄関空間には、軽快な鉄骨螺旋階段がある。居間の天井は2200㍉に抑えてあり、ワンルーム内の高めの独立キッチン壁が際立つ。窓は全体にテラス窓のようで、吉村が得意の全引き込み窓と思われ、視線に文句のない気持ちの良い広がりを持つ。

   こんなに意味のある空間で、ワインを交わしながら語り合うことの楽しさを実感した。

   ちょっと残念なのは、2階を越えて育っていたというオリーブの木が、猪熊が亡くなったら、すぐに枯れたということだ。窓からの視野設計は明らかにこの木の繁りを意識しており、猪熊が撮ったと思われる写真には、美しい木の葉の影が居間の床に映り込んでいる。すでに育ち始めている新樹が、大きくなるのが待ち遠しい。

   話を聞いて、その知人が生い立ちや家族関係から、この家を管理していると知った時、「それは最も」と思えた。そして猪熊の活動についても多くを教えて貰った。

 

   ところで、教えて貰って分かってきたこと、あるいは意識に上がってきたことを大略、直感だけで無知を承知で整理してみると、3つ位の論点になりそうだ。

1・ 吉村順三猪熊弦一郎との懇意関係に潜むもの

2・ 猪熊の創作活動における疑問

3・ 猪熊が縁のあった人間関係を通して生み出した「周辺領域(絵画、デザイン、建

           築など)」への関わり意識が、近代アート史の欠落点を埋める事に何らかの意味

          を持つのではないか(仮称 「文化芸術統合社会(TAIS=Total Art Integrative

           Society)の形成と継続的発展への課題)

 以下で、これらの想像を生かして考えてみよう。

(追記について:後段に、本記述を終わった後に得られた情報を、追記として追加している。このため、疑問や不確実なことが、追記で解るような部分も出てくる)。

 

1・ 吉村順三猪熊弦一郎との懇意関係に潜むもの

   「君の好きなものは、今のニューヨークに一杯あるよ」と、6才年上の猪熊にニューヨークからアドバイスしたのが吉村だったそうだ。猪熊がすでに53才の時で、「嫌だったら、そのままパリに行けばいい」と言われ、その提案に乗ってニューヨーク経由、パリ行の直行便切符を買ったそうだ。それにしてもと思うのは、過ってパリから戦時帰国した残念な気持ちがあったとしても、この年で日本を出たままになるかも知れない人生相談を、吉村としていた仲だったとは。

   猪熊は渡米前に丹下健三とも、香川県庁舎の設計に至るまででも関わりがあったようだ。

   それは丹下が大卒後、前川事務所に入所していた時期があり、呼んでくれた知人の父親が前川事務所のチーフ・アーキテクトだったことからも、建設までの関わりを知っていたか、持っていたようだ。

   吉村が皇居新宮殿の設計を依頼され、途中で降りた時にも、猪熊は既に日本に居なかったと思われるが、意見を聞いていたようだ。(余談だが、新宮殿トラブルについては、用語確認のためネットで「吉村順三と皇居新宮殿」で調べたら、何と僕のブログが真っ先に出てきて驚いた)。

   互いに、建築家の社会性について気遣うことがあったからこそ、話し合っていたのだろう。すでに藝大教授でもあり、社会人としても、設計受注者としても、多くの経験を持っていたはずの吉村だった。猪熊なりに、社会に対する独自の考えを持っていたと思われ、吉村を納得させるものがあったのではないか、という気になる。

 

2・ 猪熊の創作活動における疑問

   猪熊の事は判っていると思っていたのは、前述の取り、作品についてであった。

   近代以降の作品の美的価値は、「いいな」というものもあれば、まったくつまらないと思うものもある。

   それは例えば、マルセル・デュシャンの便器(1915)から、モンドリアンらが登場(1920頃)してきたからである。今では、アンディ・ウォーホルの作品、例えば缶詰を並べた絵のようなものにも言え、何とも評価が難しい(経済評価や歴史・社会評価は別として)。

   それには、ちょっと分野専門的な知覚の問題とでも言うべきか、そこから語ることがある。

   偏向を覚悟で、先廻り感じていることを言えば、猪熊の戦後作品の多くは 「表現手段はキャンバスしかない」という思いや、「作家として生きていることの証は、感覚的な時間経過の確認である」 という思い込みから成っている様に思えてならない。そこには、社会評価への何か突き刺ささるものが感じられない、というより、猪熊は、作品にそのようなことを求めようとは全くしなかった、と言うべきだろう。それに、どうも在仏時代にピカソマチスの影響を受けたと思われる体験が、表層的に残っていたのではないか、という気もする。

   それらのことが、アメリカに渡ったら20年も帰らなかった原因も形成していると感じさせる。この印象は、この日の夕暮れの中で、猪熊の制作現場を捉えたビデオまで見せて貰った印象によることが大きい。

   それに何より、建築家を知り、学び、そこから自分の創作に活かそうという気は無かったようだ。

   それが無いと悪いという事でもないし、作品の評価を下げる問題でもないだろう。

   しかし、やはり何か物足りない。この時代のうちに将来を見越して、建築やデザインも飲み込んで活動して欲しかった、という期待のし過ぎなのだろうが。

   この問題は後から見れば、現代アートの深層テーマであり、この時に置き去りにしたことは、AI時代を迎えた現代への提案力を秘めた課題にもなり、そこからも、自分の問題ともなる。だから、「解法を見いだせなかった」 と感じさせるとしても、この時代を生きた猪熊に責を追うような問題ではないのは明らかだ。  

 

3・ 仮称「トータル・アート文化社会(TACS)」 の形成と継続的発展への課題

   猪熊は、1936年(昭和11年)に同志の芸術家達とで、疎開先の高野町(神奈川県相模湖付近)で結成した「新制作派協会」に、13年後、つまり、戦後4年経った1949年(昭和24年:47才)に至り、「建築部」の設立追加を提案しているという。(この間、1938年に渡仏、40年にヒトラーの侵攻を恐れ、急遽帰国)。

   この「建築部」設立には、昔から知り合いで「芸術家村構想」を話していた山口文象に、メンバー相談をして声をかけ、吉村の他、丹下、前川から、谷口吉郎らが加わるハイブリッド集団になったようだ。ここに、戦時の思考停止を越えて、戦後のアメリカ型プラグマティズム的な考え方を通してか、思い至ったことがあったのでは、と思える。(再記:この頃の動きを教えてくれる記述があり、本編の最後に追記する)。

   それにしても猪熊は、剣持勇渡辺力とも仲が良く、教えを受けながら家具まで作っていたのだ。

   それは敢えて言葉にすれば、アートや建築を総合文化として捉え、それぞれの境界を緩め、相互にサポートしながら、日本に現代文化の核を形成する夢だったのではないか、と思いたくなる。ここでは、それを仮に、「文化芸術統合社会(以下TAIS=Total Art Integrative Society)」の形成」とでも言ってみよう。

   しかしこの想いを社会運動にするには、作家の主な傾向である、「創作行為や作品への自己主張」の方向ではなく、産業や経済構造の成り立ちや矛盾、そこに生ずる社会不安への理解や対策への読み込みが必要な社会性への方向だ。デザインなどの新しい情報も知られたのだろうが、この方向を組織化するのは並の作家集団ではとても難しい。また逆に、「俺たちがそんなことをやる必要はない」という独断にも陥りやすい。

   なぜ、そんな身勝手な思考集団にしかできなかったのかは、近代以降の職能分化と共に、日本が明治維新で輸入文化を無批判に受け入れて、伝統文化を混乱させた経緯が大きい。近代建築などはまさにその影響下にあり、社会的に安定した大工の棟梁でも、町が焼かれれば評価も何も残らない歴史に、「作家」という視点を与えた近代ヨーロッパ文化の輸入は、作家個人が衝突して価値を混乱させた。こんな時代では、建築の社会性など主題にしている余裕はない。そしてその残滓は現在まで続いている、

   それは逆に国の統制権を強め、間違った「規制」でも民意主導が見えないのでは従うしかない、と思い込む国民性として表れている、

 

   そんな戦後でも、言わばやり直し文化観と、高度成長期に入り始まりの6年ほどの間で形成したアート、建築人脈が、猪熊の人生資産になった、と共にTAISへの想いも育てていた、と思いたい。しかし、「建築部」を生み出した6年後か、述べたように渡米して20年も帰らなかったのだ。

   「喰えるとは何か」に追い詰められたときに、アメリカは歴史に捉われずに作品を経済評価する地盤ができあがっており、そこにしがみついたのかも知れない。前向きに言い換えると、国家権力の横暴が激しく、全体に狭い思考の固まった日本から出たアメリカで、改めて(初めてか)自由の魅力を手に入れた体験と喜びがそうさせたのかもしれない。

   これで、僕が14歳の時から34才まで、つまり情報集めの時代に猪熊が日本に居なかったことが分る。

   電気メーカーのデザイナーとしてのサラリーマンに限界を感じて休職し、1971年にはニューヨークに居た(30才)のだから、猪熊(69才。滞米16年目)が居ることを知っていれば何かの縁があったかも知れない。しかも、彼は来る人を選ばずで、とても親切だったようだ。しかし三越の包装紙(1950年発表)の魅力は知っていたが、猪熊の事はあまり関心が無かった。グラフィック・デザイナーかとも思っていたし、まして建築人脈に深く関わっていたことも知るはずも無い。渡米後、16年も経っていたのでは、TAISへの熱は無くなっていたのだろう。一方、僕の心もイタリアへ、しかもアンジェロ・マンジャロッティに会いに行くことに奪われていたのだ。

   ある日、マンハッタン南部の画廊をめぐっていた時、ある画廊の女主人が非常に親切で、何かと聞いてくれた。変に日本人に親切だなと思った記憶があるが、この時、「猪熊を知っているか?」と聞かれたのかも知れない。すでに作家としてアメリカでも、かなりの人脈と評価を得ていたと思われる。

 あの時点で逢っていて、ここで問題にしている議論が出来ていたら、と思ってしまう。

 

 今にして思えば、建築部門を加えた時が、TAISの出発時点だったのかもしれない。

 例えば、理念的に参考になる考え方として、ハーバート・リードの「アート・アンド・インダストリー」(1934出版。日本版は「インダストリアル・デザイン」)、「イコンとイデア」(共に1957年みすず書房刊)などが公開されていても、猪熊は既に渡米しており、こういう思想を含めて団体を引き継ぐ者が居なかったということか。最も、デザイン団体も、又、いろいろ別の運動を起こしていた。

 このTAISの概念は残念ながら主義主張としては明確にされず、その結果とは言いたくないが、今でも相変わらずアーティストは各人個別の表現に追い込まれ、現在に至っているし、建築家もアートから離れ、結局、産業構造の中に埋め込まれてしまった。

今や、産業の行き詰りに至り、これまでの経済最優先、社会の限界が語られる時代になっても、TAISを育てられなかったアーティストや建築家、デザイナーには、当然日本社会からのエールは無く、期待もされない事態に堕ちってしまっている。

 猪熊の作品を評価することは別にして、言葉に出来なかったと思える TAIS主義とでも言える運動への可能性から想定すれば、戦前から死に至るまで、猪熊の辿った人間関係を掘り起こし、繋げることが出来れば、建築家や理性を持つアーティストが組んで、新しい文化価値をこの国に定着させようとした足掛かりを見つけることが出来るかも知れない。                    (20231129 大倉冨美雄)

 

追記

 この原稿を読んでくれた例の知人が、興味深い資料を送ってくれた。

 それは 「新制作(派)協会建築部:猪俣弦一郎の活動から」 と題していて、記述は安藤輝美氏(財団法人ミモカ美術振興財団)。僕の疑問にかなり答えてくれた。

 これも驚くのは、この記事が 「ジャパニーズ・モダン/剣持勇とその世界」 という、剣持をテーマにした展覧会のカタログに掲載されていたということだ (出版社:松戸市文化振興財団/編集:松戸市教育員会/発行年:2004年。掲載:P170~174)。既に記したように、剣持との付き合いから、家具設計までしていたのだ (また自己都合の情報だが、滞在許可更新のため、ミラノから一年間帰国した時に、世話になったのが剣持事務所だった。1949:昭和47年。松本哲夫氏が所長)。以下に、安藤氏の解説を活かしながら、本件に関わる要旨を部分意訳しつつ記載させて頂く。

 

建築部の設立と「生活における芸術」

 疎開先に集まったほとんどが滞欧経験者で、暮らすうちに理想都市を計画するようになった。

 その構想を図案化したのが、そのころ頻繁に猪熊を訪ねていた山口文象だった。この図面は見つかっていないが、この時の夢が戦後に「建築部」設立に続いていく。

 「建築部」の設立は猪熊の意見から始まったと山口は言っていて、猪熊本人も多くのインタビューで、「建築家になりたかった」と、建築への情熱を語っていた。自らが家の設計に関わった記録も残っている。

 「当時、建築界を見渡してみると、絵や彫刻のように団体を結成しているものが一つもなかった。だから個人的にピックアップするしかなかった。何より新制作にぴったり合った人、そして建築界を代表する40代、30代。ここに想を練って、池辺、丹下、吉村、山口、谷口、前川、岡田(哲郎)という結論が出た」と、設立会員の選定について山口は語っている。実際の設立会員も以上の7名だったようだ。

 新制作13回展で初めて「建築部」が加わり、丹下が全体の展示計画を担当した。建築は展示の問題があり、図面、模型、写真という媒介に頼るだけでなく、具体化された展示物として家具を持ち込むことになった。

 1951年の15回展で会員の剣持勇が初めて家具を出品。この頃になると家具出品者が増え、建築家も家具を出すようになり、インテリア・デザイナーにとっても登竜門的な役割を果たすようになった。

 「建築部」の設立に猪熊は尽力したが、その理由については、「額縁芸術、展覧会芸術はもう極限に来ている。建築があって、生活造形面にそれを離れた絵も彫刻もない。すべて生活と結びつかなくては意味がない」という理想を抱いていたことが述べられている。

 戦後の思想混乱期を経て、これまでの芸術活動の行き詰りを打開する手段の一つとして、猪熊が選んだのが壁画制作だった。「建築もやり、家具も何も全部総合したものが作りたい」と思っていても、同時に「それは絶対に一人の力では出来ない」ことも認めていた。

 実際、猪熊は壁画やグラフィックデザイン、テキスタイル、新聞雑誌の挿絵なども多く手掛けていたが、その時期は「建築部」設立前後の6年間(渡米直前まで)だったのだろうか。次に取り組んだのが家具だったとあるが、これもこの時期の内か(大倉)。

 

二人のイサム

 家具との出会いは剣持勇イサムノグチによる。ノグチの戦後初めての来日は、1950年で建築部設立提案の翌年、滞在は4カ月ほどだったが。多くの芸術家と交流、講演会も開いている。

 猪熊とは初めてだったが、工芸指導所で谷口吉郎に頼まれた彫刻を作る際に、猪熊の家に2週間ほど滞在した。

 ここでノグチの、公園のプラン、モニュメンタルな塔や家具を手掛けるなど、既成概念に囚われず、新しい発想を柔軟に取り入れる姿勢を目のあたりにした。

 こうしたノグチに、「眠った日本の造形芸術界に新しい黎明を與えてくれたような気がする」と述べ、自己の考えに強い確信を得た。またノグチが、関心を示した日本伝統の陶芸や竹の工法や素材を使って、埴輪や灯篭を創ったことも影響を受け、家具などの自己作品に日本の味を取りいれることで、明らかに影響を受けたことが判る。

 剣持勇との出会いは、作り方のよく分からない家具の模型を、工芸指導所に持ち込んでいた時に、技術指導者としても、剣持がそこにいたからだった(1948年頃)。つまり「建築部」発想の前から家具もやっていたことになる。

 機能や技術の追求ばかりでなく、デザイナーという枠を超えて美を追求する剣持を知って、猪熊は非常な親近感を持ったようだ。

 剣持が所属した国際デザインコミッティーが1955年に発行した小冊子には、「我々は相互間の無知、偏見、それと専門家の独断に反対する。建築家、デザイナー、美術家はグローバルな人類文化のために、緊密な協力の必要性を深く認識しなければならない」との理念がうたわれている。この理念はまさしく猪熊が建築部設立時より、新制作派協会の活動として目指していたことと符合する。

 猪熊の家具に対しても、剣持もまた、その果敢でマンネリズムコマーシャリズムでない取り組みを評価していた。

 この時期の2人の繋がりは、新制作派協会「建築部」の大きな牽引力になった。

 

(大倉付記) ここまで紹介されると、僕の抱いていたというか、そうであってほしいと思っていた猪熊像とほとんど違わないように思えてきた。やはり、問題は渡米後と帰国後の理念的な対応がよく分からないことだ。

猪熊は一体、何を伝えようとしていたのか。彼の生きた時代の行方と共に、疑問は深まる。(2023/12/28)

猪熊弦一郎は何を伝えようとしていたのか

猪熊弦一郎は何を伝えようとしていたのか

―知らない男が聞きたい事-

 

   猪熊弦一郎と聞いて、これまで、「判っている」 と思ってきた。

それは創作活動からだけで見た個人的な感覚で、「好きか、嫌いか」という評価に近い。

   過日、知人の誘いを受けて、何人かで訪ねた彼の家は何と吉村順三の設計で、その家を依頼したのが猪熊だったと聞いた時には一瞬、これはどういうことだ、と思ってしまった。

   在米中から依頼していたと聞いたのも、凄い信頼関係だと感じた。

   画家と建築家を繋ぐもの、ここからだけでも、この国の文化史に欠けているものを浮き彫りにする視点があるのではないか、と思えてきた。

 

   住宅地の真ん中にある建物は大きく、3階建ての構造はメインが鉄筋コンクリート造りで、一部鉄骨造りとのこと。1階は独立し、2階メインが居間、寝室、大きなアトリエで、3階にある和室に上がる玄関空間には、軽快な鉄骨螺旋階段がある。居間の天井は2200㍉に抑えてあり、ワンルーム内の高めの独立キッチン壁が際立つ。窓は全体にテラス窓のようで、吉村が得意の全引き込み窓と思われ、視線に文句のない気持ちの良い広がりを持つ。

   こんなに意味のある空間で、ワインを交わしながら語り合うことの楽しさを実感した。

   ちょっと残念なのは、2階を越えて育っていたというオリーブの木が、猪熊が亡くなったら、すぐに枯れたということだ。窓からの視野設計は明らかにこの木の繁りを意識しており、猪熊が撮ったと思われる写真には、美しい木の葉の影が居間の床に映り込んでいる。すでに育ち始めている新樹が、大きくなるのが待ち遠しい。

   話を聞いて、その知人が生い立ちや家族関係から、この家を管理していると知った時、「それは最も」と思えた。そして猪熊の活動についても多くを教えて貰った。

 

   ところで、教えて貰って分かってきたこと、あるいは意識に上がってきたことを大略、直感だけで無知を承知で整理してみると、3つ位の論点になりそうだ。

1・ 吉村順三猪熊弦一郎との懇意関係に潜むもの

2・ 猪熊の創作活動における疑問

3・ 猪熊が縁のあった人間関係を通して生み出した「周辺領域(絵画、デザイン、建

           築など)」への関わり意識が、近代アート史の欠落点を埋める事に何らかの意味

          を持つのではないか(仮称 「文化芸術統合社会(TAIS=Total Art Integrative

           Society)の形成と継続的発展への課題)

 以下で、これらの想像を生かして考えてみよう。

(追記について:後段に、本記述を終わった後に得られた情報を、追記として追加している。このため、疑問や不確実なことが、追記で解るような部分も出てくる)。

 

1・ 吉村順三猪熊弦一郎との懇意関係に潜むもの

   「君の好きなものは、今のニューヨークに一杯あるよ」と、6才年上の猪熊にニューヨークからアドバイスしたのが吉村だったそうだ。猪熊がすでに53才の時で、「嫌だったら、そのままパリに行けばいい」と言われ、その提案に乗ってニューヨーク経由、パリ行の直行便切符を買ったそうだ。それにしてもと思うのは、過ってパリから戦時帰国した残念な気持ちがあったとしても、この年で日本を出たままになるかも知れない人生相談を、吉村としていた仲だったとは。

   猪熊は渡米前に丹下健三とも、香川県庁舎の設計に至るまででも関わりがあったようだ。

   それは丹下が大卒後、前川事務所に入所していた時期があり、呼んでくれた知人の父親が前川事務所のチーフ・アーキテクトだったことからも、建設までの関わりを知っていたか、持っていたようだ。

   吉村が皇居新宮殿の設計を依頼され、途中で降りた時にも、猪熊は既に日本に居なかったと思われるが、意見を聞いていたようだ。(余談だが、新宮殿トラブルについては、用語確認のためネットで「吉村順三と皇居新宮殿」で調べたら、何と僕のブログが真っ先に出てきて驚いた)。

   互いに、建築家の社会性について気遣うことがあったからこそ、話し合っていたのだろう。すでに藝大教授でもあり、社会人としても、設計受注者としても、多くの経験を持っていたはずの吉村だった。猪熊なりに、社会に対する独自の考えを持っていたと思われ、吉村を納得させるものがあったのではないか、という気になる。

 

2・ 猪熊の創作活動における疑問

   猪熊の事は判っていると思っていたのは、前述の取り、作品についてであった。

   近代以降の作品の美的価値は、「いいな」というものもあれば、まったくつまらないと思うものもある。

   それは例えば、マルセル・デュシャンの便器(1915)から、モンドリアンらが登場(1920頃)してきたからである。今では、アンディ・ウォーホルの作品、例えば缶詰を並べた絵のようなものにも言え、何とも評価が難しい(経済評価や歴史・社会評価は別として)。

   それには、ちょっと分野専門的な知覚の問題とでも言うべきか、そこから語ることがある。

   偏向を覚悟で、先廻り感じていることを言えば、猪熊の戦後作品の多くは 「表現手段はキャンバスしかない」という思いや、「作家として生きていることの証は、感覚的な時間経過の確認である」 という思い込みから成っている様に思えてならない。そこには、社会評価への何か突き刺ささるものが感じられない、というより、猪熊は、作品にそのようなことを求めようとは全くしなかった、と言うべきだろう。それに、どうも在仏時代にピカソマチスの影響を受けたと思われる体験が、表層的に残っていたのではないか、という気もする。

   それらのことが、アメリカに渡ったら20年も帰らなかった原因も形成していると感じさせる。この印象は、この日の夕暮れの中で、猪熊の制作現場を捉えたビデオまで見せて貰った印象によることが大きい。

   それに何より、建築家を知り、学び、そこから自分の創作に活かそうという気は無かったようだ。

   それが無いと悪いという事でもないし、作品の評価を下げる問題でもないだろう。

   しかし、やはり何か物足りない。この時代のうちに将来を見越して、建築やデザインも飲み込んで活動して欲しかった、という期待のし過ぎなのだろうが。

   この問題は後から見れば、現代アートの深層テーマであり、この時に置き去りにしたことは、AI時代を迎えた現代への提案力を秘めた課題にもなり、そこからも、自分の問題ともなる。だから、「解法を見いだせなかった」 と感じさせるとしても、この時代を生きた猪熊に責を追うような問題ではないのは明らかだ。  

 

3・ 仮称「トータル・アート文化社会(TACS)」 の形成と継続的発展への課題

   猪熊は、1936年(昭和11年)に同志の芸術家達とで、疎開先の高野町(神奈川県相模湖付近)で結成した「新制作派協会」に、13年後、つまり、戦後4年経った1949年(昭和24年:47才)に至り、「建築部」の設立追加を提案しているという。(この間、1938年に渡仏、40年にヒトラーの侵攻を恐れ、急遽帰国)。

   この「建築部」設立には、昔から知り合いで「芸術家村構想」を話していた山口文象に、メンバー相談をして声をかけ、吉村の他、丹下、前川から、谷口吉郎らが加わるハイブリッド集団になったようだ。ここに、戦時の思考停止を越えて、戦後のアメリカ型プラグマティズム的な考え方を通してか、思い至ったことがあったのでは、と思える。(再記:この頃の動きを教えてくれる記述があり、本編の最後に追記する)。

   それにしても猪熊は、剣持勇渡辺力とも仲が良く、教えを受けながら家具まで作っていたのだ。

   それは敢えて言葉にすれば、アートや建築を総合文化として捉え、それぞれの境界を緩め、相互にサポートしながら、日本に現代文化の核を形成する夢だったのではないか、と思いたくなる。ここでは、それを仮に、「文化芸術統合社会(以下TAIS=Total Art Integrative Society)」の形成」とでも言ってみよう。

   しかしこの想いを社会運動にするには、作家の主な傾向である、「創作行為や作品への自己主張」の方向ではなく、産業や経済構造の成り立ちや矛盾、そこに生ずる社会不安への理解や対策への読み込みが必要な社会性への方向だ。デザインなどの新しい情報も知られたのだろうが、この方向を組織化するのは並の作家集団ではとても難しい。また逆に、「俺たちがそんなことをやる必要はない」という独断にも陥りやすい。

   なぜ、そんな身勝手な思考集団にしかできなかったのかは、近代以降の職能分化と共に、日本が明治維新で輸入文化を無批判に受け入れて、伝統文化を混乱させた経緯が大きい。近代建築などはまさにその影響下にあり、社会的に安定した大工の棟梁でも、町が焼かれれば評価も何も残らない歴史に、「作家」という視点を与えた近代ヨーロッパ文化の輸入は、作家個人が衝突して価値を混乱させた。こんな時代では、建築の社会性など主題にしている余裕はない。そしてその残滓は現在まで続いている、

   それは逆に国の統制権を強め、間違った「規制」でも民意主導が見えないのでは従うしかない、と思い込む国民性として表れている、

 

   そんな戦後でも、言わばやり直し文化観と、高度成長期に入り始まりの6年ほどの間で形成したアート、建築人脈が、猪熊の人生資産になった、と共にTAISへの想いも育てていた、と思いたい。しかし、「建築部」を生み出した6年後か、述べたように渡米して20年も帰らなかったのだ。

   「喰えるとは何か」に追い詰められたときに、アメリカは歴史に捉われずに作品を経済評価する地盤ができあがっており、そこにしがみついたのかも知れない。前向きに言い換えると、国家権力の横暴が激しく、全体に狭い思考の固まった日本から出たアメリカで、改めて(初めてか)自由の魅力を手に入れた体験と喜びがそうさせたのかもしれない。

   これで、僕が14歳の時から34才まで、つまり情報集めの時代に猪熊が日本に居なかったことが分る。

   電気メーカーのデザイナーとしてのサラリーマンに限界を感じて休職し、1971年にはニューヨークに居た(30才)のだから、猪熊(69才。滞米16年目)が居ることを知っていれば何かの縁があったかも知れない。しかも、彼は来る人を選ばずで、とても親切だったようだ。しかし三越の包装紙(1950年発表)の魅力は知っていたが、猪熊の事はあまり関心が無かった。グラフィック・デザイナーかとも思っていたし、まして建築人脈に深く関わっていたことも知るはずも無い。渡米後、16年も経っていたのでは、TAISへの熱は無くなっていたのだろう。一方、僕の心もイタリアへ、しかもアンジェロ・マンジャロッティに会いに行くことに奪われていたのだ。

   ある日、マンハッタン南部の画廊をめぐっていた時、ある画廊の女主人が非常に親切で、何かと聞いてくれた。変に日本人に親切だなと思った記憶があるが、この時、「猪熊を知っているか?」と聞かれたのかも知れない。すでに作家としてアメリカでも、かなりの人脈と評価を得ていたと思われる。

 あの時点で逢っていて、ここで問題にしている議論が出来ていたら、と思ってしまう。

 

 今にして思えば、建築部門を加えた時が、TAISの出発時点だったのかもしれない。

 例えば、理念的に参考になる考え方として、ハーバート・リードの「アート・アンド・インダストリー」(1934出版。日本版は「インダストリアル・デザイン」)、「イコンとイデア」(共に1957年みすず書房刊)などが公開されていても、猪熊は既に渡米しており、こういう思想を含めて団体を引き継ぐ者が居なかったということか。最も、デザイン団体も、又、いろいろ別の運動を起こしていた。

 このTAISの概念は残念ながら主義主張としては明確にされず、その結果とは言いたくないが、今でも相変わらずアーティストは各人個別の表現に追い込まれ、現在に至っているし、建築家もアートから離れ、結局、産業構造の中に埋め込まれてしまった。

今や、産業の行き詰りに至り、これまでの経済最優先、社会の限界が語られる時代になっても、TAISを育てられなかったアーティストや建築家、デザイナーには、当然日本社会からのエールは無く、期待もされない事態に堕ちってしまっている。

 猪熊の作品を評価することは別にして、言葉に出来なかったと思える TAIS主義とでも言える運動への可能性から想定すれば、戦前から死に至るまで、猪熊の辿った人間関係を掘り起こし、繋げることが出来れば、建築家や理性を持つアーティストが組んで、新しい文化価値をこの国に定着させようとした足掛かりを見つけることが出来るかも知れない。                    (20231129 大倉冨美雄)

 

追記

 この原稿を読んでくれた例の知人が、興味深い資料を送ってくれた。

 それは 「新制作(派)協会建築部:猪俣弦一郎の活動から」 と題していて、記述は安藤輝美氏(財団法人ミモカ美術振興財団)。僕の疑問にかなり答えてくれた。

 これも驚くのは、この記事が 「ジャパニーズ・モダン/剣持勇とその世界」 という、剣持をテーマにした展覧会のカタログに掲載されていたということだ (出版社:松戸市文化振興財団/編集:松戸市教育員会/発行年:2004年。掲載:P170~174)。既に記したように、剣持との付き合いから、家具設計までしていたのだ (また自己都合の情報だが、滞在許可更新のため、ミラノから一年間帰国した時に、世話になったのが剣持事務所だった。1949:昭和47年。松本哲夫氏が所長)。以下に、安藤氏の解説を活かしながら、本件に関わる要旨を部分意訳しつつ記載させて頂く。

 

建築部の設立と「生活における芸術」

 疎開先に集まったほとんどが滞欧経験者で、暮らすうちに理想都市を計画するようになった。

 その構想を図案化したのが、そのころ頻繁に猪熊を訪ねていた山口文象だった。この図面は見つかっていないが、この時の夢が戦後に「建築部」設立に続いていく。

 「建築部」の設立は猪熊の意見から始まったと山口は言っていて、猪熊本人も多くのインタビューで、「建築家になりたかった」と、建築への情熱を語っていた。自らが家の設計に関わった記録も残っている。

 「当時、建築界を見渡してみると、絵や彫刻のように団体を結成しているものが一つもなかった。だから個人的にピックアップするしかなかった。何より新制作にぴったり合った人、そして建築界を代表する40代、30代。ここに想を練って、池辺、丹下、吉村、山口、谷口、前川、岡田(哲郎)という結論が出た」と、設立会員の選定について山口は語っている。実際の設立会員も以上の7名だったようだ。

 新制作13回展で初めて「建築部」が加わり、丹下が全体の展示計画を担当した。建築は展示の問題があり、図面、模型、写真という媒介に頼るだけでなく、具体化された展示物として家具を持ち込むことになった。

 1951年の15回展で会員の剣持勇が初めて家具を出品。この頃になると家具出品者が増え、建築家も家具を出すようになり、インテリア・デザイナーにとっても登竜門的な役割を果たすようになった。

 「建築部」の設立に猪熊は尽力したが、その理由については、「額縁芸術、展覧会芸術はもう極限に来ている。建築があって、生活造形面にそれを離れた絵も彫刻もない。すべて生活と結びつかなくては意味がない」という理想を抱いていたことが述べられている。

 戦後の思想混乱期を経て、これまでの芸術活動の行き詰りを打開する手段の一つとして、猪熊が選んだのが壁画制作だった。「建築もやり、家具も何も全部総合したものが作りたい」と思っていても、同時に「それは絶対に一人の力では出来ない」ことも認めていた。

 実際、猪熊は壁画やグラフィックデザイン、テキスタイル、新聞雑誌の挿絵なども多く手掛けていたが、その時期は「建築部」設立前後の6年間(渡米直前まで)だったのだろうか。次に取り組んだのが家具だったとあるが、これもこの時期の内か(大倉)。

 

二人のイサム

 家具との出会いは剣持勇イサムノグチによる。ノグチの戦後初めての来日は、1950年で建築部設立提案の翌年、滞在は4カ月ほどだったが。多くの芸術家と交流、講演会も開いている。

 猪熊とは初めてだったが、工芸指導所で谷口吉郎に頼まれた彫刻を作る際に、猪熊の家に2週間ほど滞在した。

 ここでノグチの、公園のプラン、モニュメンタルな塔や家具を手掛けるなど、既成概念に囚われず、新しい発想を柔軟に取り入れる姿勢を目のあたりにした。

 こうしたノグチに、「眠った日本の造形芸術界に新しい黎明を與えてくれたような気がする」と述べ、自己の考えに強い確信を得た。またノグチが、関心を示した日本伝統の陶芸や竹の工法や素材を使って、埴輪や灯篭を創ったことも影響を受け、家具などの自己作品に日本の味を取りいれることで、明らかに影響を受けたことが判る。

 剣持勇との出会いは、作り方のよく分からない家具の模型を、工芸指導所に持ち込んでいた時に、技術指導者としても、剣持がそこにいたからだった(1948年頃)。つまり「建築部」発想の前から家具もやっていたことになる。

 機能や技術の追求ばかりでなく、デザイナーという枠を超えて美を追求する剣持を知って、猪熊は非常な親近感を持ったようだ。

 剣持が所属した国際デザインコミッティーが1955年に発行した小冊子には、「我々は相互間の無知、偏見、それと専門家の独断に反対する。建築家、デザイナー、美術家はグローバルな人類文化のために、緊密な協力の必要性を深く認識しなければならない」との理念がうたわれている。この理念はまさしく猪熊が建築部設立時より、新制作派協会の活動として目指していたことと符合する。

 猪熊の家具に対しても、剣持もまた、その果敢でマンネリズムコマーシャリズムでない取り組みを評価していた。

 この時期の2人の繋がりは、新制作派協会「建築部」の大きな牽引力になった。

 

(大倉付記) ここまで紹介されると、僕の抱いていたというか、そうであってほしいと思っていた猪熊像とほとんど違わないように思えてきた。やはり、問題は渡米後と帰国後の理念的な対応がよく分からないことだ。

猪熊は一体、何を伝えようとしていたのか。彼の生きた時代の行方と共に、疑問は深まる。(2023/12/28)

女性を抑え続ける歴史

建築家協会の地域会での定期セミナーに参加できなかったが、今回の「建築を女性の視点で再考する」テーマを考えているうちに、以下の様な文案になった。

 

女性を抑え続ける歴史

 

いつの間にか高齢化。そのせいか、「過去」が何だったのか、関心とこだわる年となった。

そこで、「女性の視点」への建築や建築家の想い以上に気になるのが差別の意識。

私事だが、母親が60代のある時、「離婚する」と言い出し、止めるのに苦労した。

それは、あまりにも遅くなって自我の自由を再認識し、夫から独立したいと思った気持ちの表れだったのか。思えば、戦中の護国奉仕から戦地の夫を想い、家と子供を守り、生きて帰った戦後は夫の会社一途に従ってきた。しかし定年になった夫は家で我儘を通し、母の居所が無くなったのと、子供が独立し出し、初めての余裕がこの気持ちを生んだのではないか。そこには、世間に大正ロマンの残影がまだ残っていた最後の頃におくった青春が思い出されたこともあるのかも知れない。

これは家や街への想い以前の問題だし、個人的な夫婦間の問題で、女性差別の問題とは違う、という人もいるかも知れない。しかし2人が言い争いをしたのを見たこともなく、仲が悪いと思ったことも無かった。言い換えると母は、耐えて生きるのが女の宿命、とずっと思い込んできた節がある。差別は、女性を抑えて見る社会、それに乗る国の形の継承だったのだ。父もそれに乗ってきた。

この小さな事例から考えても、如何に日本社会が女性を封じ込め、それが公然と社会の底流に残って来たかを思い起こさせないか。

女性を抑え続ける歴史

建築家協会の地域会での定期セミナーに参加できなかったが、今回の「建築を女性の視点で再考する」テーマを考えているうちに、以下の様な文案になった。

 

女性を抑え続ける歴史

 

いつの間にか高齢化。そのせいか、「過去」が何だったのか、関心とこだわる年となった。

そこで、「女性の視点」への建築や建築家の想い以上に気になるのが差別の意識。

私事だが、母親が60代のある時、「離婚する」と言い出し、止めるのに苦労した。

それは、あまりにも遅くなって自我の自由を再認識し、夫から独立したいと思った気持ちの表れだったのか。思えば、戦中の護国奉仕から戦地の夫を想い、家と子供を守り、生きて帰った戦後は夫の会社一途に従ってきた。しかし定年になった夫は家で我儘を通し、母の居所が無くなったのと、子供が独立し出し、初めての余裕がこの気持ちを生んだのではないか。そこには、世間に大正ロマンの残影がまだ残っていた最後の頃におくった青春が思い出されたこともあるのかも知れない。

これは家や街への想い以前の問題だし、個人的な夫婦間の問題で、女性差別の問題とは違う、という人もいるかも知れない。しかし2人が言い争いをしたのを見たこともなく、仲が悪いと思ったことも無かった。言い換えると母は、耐えて生きるのが女の宿命、とずっと思い込んできた節がある。差別は、女性を抑えて見る社会、それに乗る国の形の継承だったのだ。父もそれに乗ってきた。

この小さな事例から考えても、如何に日本社会が女性を封じ込め、それが公然と社会の底流に残って来たかを思い起こさせないか。

これからの住宅は

住宅の設計は難しい局面に入った。

その大きな理由は、ハウスメーカーなどが、どんどん設計施工の体制を整備してきたこと。AI技術が設計をある意味でたやすくしたこと、ネット環境が情報の共有をしやすくしたこと、などがある。

ちょっと格好いい住宅などはどんどん造られていて、ネット情報でもいろいろ見れる。

加えて、コストや技術レベルから既存の建材を多く使うので、ますます似たような住宅になる。情報が一般化するほど、クライアントの評価認識のレベルは上がって来たと言え、その分、オリジナリティは消えて行くだろう。

一方、同じような視点から、和室や縁側に見る伝統への美学的な配慮は消えて行き、プランへの配慮は公共アパートで始まったLDKの展開のまま、と言っていいだろう。

 

なぜ、こんなことを書いたかと言うと、自分の家の設計、と言っても別荘だが、を進めていると野心が湧くからだ。出来れば、もう見飽きた住宅は造りたくない。でも、現状の設計概念の行きついている所は、ハウスメーカーの考えや表現とはそんなに違わなくなっている。どうしたらいいか。

この後、この思考の過程を時々記録していきたい。

最近、頭に来たこと

露骨な言い方を許して貰えれば、最近、頭に来たことがある。

自分の縁のあった団体から出された70周年記念出版の書に、6年間理事長だった僕の事が一言もないのだ。

 

最も、高齢者は引っ込んでいる方がいい、という社会通念はある。

それから執筆者は全部、今の自分の視点で生きているわけだし、更に、同業職業の欠点として、自分の事しか関心が無い、言わないという傾向も知らないわけではない。

それにしても、あの時代の、自分の仕事を割いても努力した結果は何だったのか、と思わずにはいられない。

 

その上で更に、判った、と自己了解したことがある。

20年ほど前のあの時代、自団体のために奮闘したが気が付いてみると、それは「外部に対して」だったのだ。

外部への成果はその時代には評価されるが、よほどの社会的に見える成果ならともかく、時が過ぎれば事実化され、忘れ去られていく可能性が高い。例えば省庁との交渉成果や、職能の経済評価を高めた成果などは、内部的な記憶では見えにくいし覚えておきにくい。特に、デザイナーの契約や設計行為の経済評価からの保護などについての苦闘は非常に見えにくい。「契約と報酬のガイドライン」という資料を出版したが、大きな評価は、それが実務ベースで実現するにつれ、時と共に忘れ去られてきた。それは言葉にならないが《大倉がやったことだ。俺は知らない》という無意識の意識になっていくのだろう。

一方、団体内部での組織改革や、いわゆる部活動は、その担当者(理事や部会長、あるいは個人意思での実践者)の努力が大きい。事務局的な視点からすると、内部での調整や活動成果の方が、はるかに記憶に残る可能性がある。

こういうことが、執筆を依頼されると現実化するのだろう。

ここからわかるのは、年史の編集には「個人の思い出の集積集」と、「組織の存在意味に関わる論理的な筋道からの歴史」の二通りがあるということだ。