衝撃だった田中一光、郷愁のスタジオ・ムンバイ

【論】


青春時の衝撃だった田中一光のポスター




明日からデザイン・サイト21・21(六本木ミッドタウン)で「田中一光とデザインの前後左右」展が始まる。

大学生の頃、日宣美展で田中一光のExhibition of Japanese Textiles(1959)という、多分具体的な日程もない展覧会を想定したポスターに衝撃を受けた思い出がある。
今回の展覧会では通路に小さく展示されているだけで残念だが、これを言うからには、田中一光のポスター作品の傑作については自分なりに挙げることが出来る。

上記の作品に続いては
・第8回産経観世能(1961)、同20回のも悪くない。漢字を色で構成するというアイデアが素晴らしい。
冬季オリンピック札幌大会1972(1968)
・Nihon Buyo(UCLA Asian Performing Arts Institute, 1981)
写楽二百年「9つの円形による写楽大首」(1995)
などがある。

一光氏と出会ったことはない。多分、10年もミラノにいる間にそのチャンスを失ったのかも知れない。しかも分野がグラフィック・デザインであり、あれだけ衝撃を受けたのに、大学を出る時にグラフィックから去る覚悟をしたのが、縁が遠くなったきっかけなのかも知れない。

実際、紙の上という2次元だけで、スポンサーの広告の相手をするのでは、男の一生の仕事ではないとその時、思ったのだ。

しかし今になってみると、一光の仕事は、時代も良かったのだろうが、分野を広げなかっただけに、それだけまとまりがあり、何が言いたかったのかが手に取るようにわかる。それだけに僕の正反対のようなことになっているようにも見える。

微笑ましいのは、作品を作る時にかなりの割合で、色紙をカッティングして並べていることだ。ビニール・テープで止めたりしている。多分、こういうことをしているのだろうと思ってはいたが、案の上、という感じ。こういう資料展のような時でないと見れないものなのかも知れない。

一光の素晴らしい所は、抜群のグラフィック感覚である。これは尾形光琳の燕子花図や俵屋宗達風神雷神図で完成された日本人独自の、省略と画面上の起承転結を読み取った上で、色面構成に組み立てるというニ次元空間感性で、この一言で判る人には一光が何に目覚め、何を狙ったかが解るだろう。
ここではグラフィック・デザインが、言うまでもなく商業目的なんかを離れ、印刷された芸術に至ったのだ。

会場に行く機会のある人は、ぜひExhibition of Japanese Textiles(1959)という作品を探して下さい。黒地に光沢のある黒を乗せ、鍵形とライン状のダブル罫線にわずかに深い色を見せた作品です。





郷愁のスタジオ・ムンバイ


間ギャラ(東京赤坂乃木坂にあるTOTOのギャラリー)でやっていて、もう数日でお仕舞いの、とてもユニークなインドの建築家グループ展。




インド。 それは遥かな国であるのに、なにか物凄く日本人の原型になるものを秘めている国のように思える不思議さを持つ。


広くない展覧会場に、一層ごちょこちょした絵はがきのような細かい写真や、多様な模型やスケッチ―スケール(縮尺)から素材、部分模型まで、仕口の実物、材料サンプル、さらには使用工具までが並べてあった。
終りに近づいたからだろうか、その間を沢山の若者たちが覗き込んだり、携帯で撮影したりしていた―中年から上は本当に一人もいない状態だった。
彼らが何か、親近感を持って自分の生き方を探している様にも見えた。
その意味で勝手な推量だが、妙な共感に襲われた―。


学生の頃だろうか、サタジェット・ライ監督の「大地の歌」をアート・シアターで見て感動した。降り続く雨、じっと動かない人間像。ストーリーは忘れたが、何かとてつもなく人間の本質にせまるものを感じたのだ。
あるいはカジュラホーの、男女交合石像の根源的な問いかけ。
あるいは、ラヴィ・シャンカールシタールによる郷愁と官能の音楽。
インド人には、何かしら日本人が忘れた物を教えるものがある。


だから、このグループの考え方は紹介に値する。
それは「PRAXIS」という言い方で紹介されている。
語が感じさせるように、それはプラクティス(実行)に近い。ぐちゃぐちゃ言っているより、スタジオ・ムンバイのリーダ−であるビジョイ・ジェインの言葉をそのまま写す方がわかりやすので転用する。なおムンバイは、近年大発展しているインド最大級の都市で、人口1400万人とか。




「PRAXIS(プラクシス)とは、理論や知識や技能を実演や実行に移すこと、体現すること、あるいは実現することである。場合によっては、考えを実行、応用、行使、実現、あるいは実施する行為を指す」

建築家の仕事には、あらゆるものが含まれる。具体的なものもあれば、漠然としたものも理論的なものもある。つまり、人間の存在に関わることなら基本的に何でも含まれる。「PRAXIS」というものをこのように存在論的に解釈すると、スタジオ・ムンバイの仕事がなぜ反復作業によって成り立っているか、なぜ案を検討するために大型モックアップやスケッチや図面を作成し、素材のスタディを重ねるのかが見えてくる。それはすなわち独自の思想を練り上げ、自発的に組織を形成していくためなのだ。

プロジェクトに取り組むあいだは、場所を念入りに検討し、そこにある環境や文化、人びとが身も心も捧げてきたことに目を向けるようにしている。なぜならそこには、限られた資源を相手に人間が創意工夫を凝らして編み出した建設技術と素材があるからだ。」




ここでは、資格だの、人脈だの、公知度などということは一切言っていない。建築家にあるべき人間の本質をそのまま素直に述べただけだ。今の日本人には泣いても喚いても都市で生活している以上、絶対手に入らないような業務環境だ。
ここには囚われない自然がある。


もちろん建築作品には、納得させられるもの、興味を引くものがある。しかし、述べたように絵はがきのような小さい写真が多く、それらを取り巻く素材や部分模型の展示の方に目が移ってしまう。プランもセットで判りやすく展示されているわけではない。何だか判らなくなってしまった学生諸君も多いのではないだろうか。
良さそうな住宅作品を列記しておく。
(カタログから手撮りした曖昧な写真を添付)


(会場1F)
パルミラの住宅―椰の林があればもう気分が出る。(下の写真の中段左)
・ターラ邸―地下室のプールにゾッとする。

(会場2F)
・ウスタブ邸―リチャード・ノイトラ流の作品。実際、ビジョイはカリフォルニアで仕事をしていたことがあったようだ。(下の写真の上)
・リーディング・ルーム―蛸足のような凄い巨木を視野に取り込んで
・パリ・ヒルの住宅
・コッパー・ハウスⅡ―雨の降る中庭が郷愁を誘う。(中段の右)
・カート・ラスタ561/563―この閉鎖性はどんな空間か。内部の写真が無い。