神田順先生より:モリスに学ぶものは何か

【日記・論】神田順先生のコメントを頂いた。



ウィリアム・モリスと現代」トークを終えて


去る19日に、このトーク・イベントを開催。自分でもわからないモリスを勝手ながら飲み込んで、質問や意見というかたちで、モリス研究の権威、川端康雄教授と話し合った、というより「ぶつけてみた」と言ったほうがいいのかもしれない。
知れば知るほど面白くなるモリスだが、これを現代の目線で解き明かすのはかなり難しい。
そういうところに、ご参加くださった神田順先生(東大名誉教授、日大教授、「建築基本法」制定準備会々長)がご自分のフェイスブックに書いてくださった。感謝である。先生が言っていることと、私の想いが合っているので、先生のお許しを得て、まずは以下に転載する。これで自分で解説する必要が無くなったと、思いたいくらいである。「多くのヒントが隠されているように思う」は、当夜の参加者の共有認識になったのではないだろうか。




神田順先生によるフェイスブック紹介


ウィリアム・モリスと現代」を聴いて
2014年9月20日 14:15
8月の終わりころ、建築家の大倉冨美雄氏より、ご案内いただいて、「ウィリアム・モリス」名前くらいしか知らなかったが、何かおもしろそうと思ってJIAのトーク・イベントに参加した。参加者は50人くらい居たろうか。まずは、日本女子大の川端康雄先生からモリスについての紹介。アーツ・アンド・クラフト運動、社会主義、ファンタジー文学、モリス商会、保全運動などなど。実に幅広い活躍とそれが、今日もイギリスにいろいろな形で根付いているように思う。
19世紀末に、資本家に民衆の労働が搾取されていることに気づいて、社会主義の概念が望ましい世の中の在り方として、いろいろな人が、感覚的に、科学的に、経験的に唱えていた時代。それを乗り越えた資本主義経済が、さらに強力なパワーをもってグローバルな価値観に抵抗できずにいる20世紀末から今日。モリスの言っていること、やっていることが、そのまま今も当てはまるわけではないかも知れないが、多くのヒントが隠されているように思う。
「社会の変革なくしては芸術の再生は不可能だという認識があった」というモリスの立ち位置は、アガンベンが「ホモ・サケル」の中で、市場経済に乗らない芸術家が世の中に出られないという認識と一致する。工業化が進み、規格が統一され、全世界的に便利になったように見えることが、アートを志し、何か表現しようと思ったときの制約になる。工業製品の中でしか表現できない状況は、芸術家を悩ませているのではないか。建築で何か表現しようと思っても、既製品の中から選ぶという形でしか設計できない、さらには、安全性を達成することすら法規定に乗らないと、社会から受け入れられない。独自の表現をと思えば、べらぼうに金もかかるし、時間もかかる、あるいは実現できない。
多少とも経済的に豊かであったからこそ、アーツを生活に取り込み、クラフトマンの活躍の場を提供できたというようなところもあったのであろう。ユートピアを描く際に、ベラミーとの違いが面白い。ベラミーは、労働を最小限にして余暇を楽しむ世界を訴えるのに対し、モリスは労働の中に生きがいや喜びを見出すことこそが求められると批判しているという。確かに、個人にとっては、生きるための労働であればこそ、それが単なる苦痛としてでなく、その中に意識的にでも喜びを見出すことは、労働自体がより豊かなものになる。農業や漁業や文筆業、教育などなどいくらでも想像できる。まさにアーツ・アンド・クラフトに繋がることも良くわかる。しかし、その一方で、その果実が、投資家のもとに圧倒的に吸い取られるとすると、どこかに歪みが破局を生む。ベラミーの描く世界をロシア革命は達成すべく実験したが、うまく行かなかった。モリスの描く社会主義の世界は、達成の途上にあるようには、なかなか思えない。
イタリア滞在経験の長い大倉氏に、イタリアこそ日本が学ぶものを多く持っているのではと投げると、社会制度として非効率や信頼性の低さは、日本の便利さを思うとつらいものがあると言う。職人技を大切にし、その良さを国全体が享受していると言う意味では、日本で消えそうな伝統や技をどのように次世代に伝えていくのか参考になりうるのではないか。経済活性化とか貨幣経済という仕組みの中ではなく、そのような意識を、価値観や生き方、法律や社会制度に反映することができれば、変わりうるのではと思った。


大倉追記:アーティストが「工業製品の中でしか表現できない状況」については、先生との間で意見調整があった。