「ダンス」とは何か

あなたは、ワルツ、タンゴ、ボレロ、ルンバ、サンバ、スロー・フォクストロットの区別がつきますか?                                     追記 〜12/17   19日に更に追記 ●部分        22日に再追記 ●●部分




いい意味で、気になる「所作」が出てきた。
まだうまくまとめられないが「ダンス」のことである。 と言っても、自分が踊りたくなったということでもないけれど。
クリエイティブな「美」の、現実的なアクション(所作)としてダンスはなかなか魅力がありそうだと感じ始めたのだ。 それに文化的な視点からも一言、言えそうだ。
ダンスの神髄についてうんちくを並べるようなことではなく、モヤモヤしているが「ダンス=舞踊」のうち、ヨーロッパ、中南米から輸入された踊りについて、メモしておきたい。

 
これは数日前、ダンスの大きなスタジオ紹介アトラクションとでも言えそうなショーに招待されてから感じたことだ。
この世界を知らない人は驚くと思うが、午後1時から始めてディナーに至り、招待演技まで続き、終わるのが夜の9時半も過ぎる。 出場者数はペアで100組以上、人数とすれば200人を下らない。
実は親戚の奥方がこのダンスにはまっていてあるスクールに通っており、その縁での招待なのだが、自分が踊っているところを見てほしい、あるいは招待された方は見てあげなければ失礼、という関係のプレゼンテーションの場なのだ。
そう、わかっている人にはすぐに頷いてもらえると思うがが、音大卒業生のピアノや声楽のグループ発表リサイタルの巨大舞踏版と思ってもらえばいい。 だからか、出場させてもらえてもそんなに上手くないカップルも少なくない。 多分、ある程度スクールに通い、出場費を払えば出させてもらえるのだろう。
途中からで、50組ほどでも見ていると、表情、仕草、音楽との相性、衣裳の適切さとデザインの美、ストーリー性への適合度など、段々、自分の意識の中で識別意欲が芽生えてきて急に興味が沸いてきた。 でも、恥ずかしながら踊りが始まっても、ワルツ、タンゴくらいしか区別が出来ず、趣味としての教養の低さを恥じるばかりだった。


何が気になったかといえば、ある意味でのその現代的なクリエイティブの総合性だ (平気で「クリエイティブ」と使っているが、その意味については、今度の自著「クリエイティブ〔アーツ〕コア」で免罪符を得たという気になっていることをお許し願いたい)。


まずはその表現の生身の人間性
表情、身振り仕草が時間と音楽によってサポートされ、千変万化するが、やはり上手い、下手がある。体形の美に加え、上手い人は音楽に合わせ自分の感じ方から表情を変え、動きも変わる。 特に女性は男性にエスコートされて踊るからその表現性に全力がかる。 上手くなり、男性のサポートもいいと至福と悦楽の心境になるようだ。 それは見る者にも伝わる。 偉そうなことを言えば、ベートーヴェンも最後には、楽器の音を越えて人間の生の声という音に気が付いたと言われていて、それが第九の「合唱」になったという。 最後に残るのは人体、その表現、その音声ということか。
次にその総合性。
すでに触れているが、体の運動表現による美学、衣裳の美学、時間芸術としての限られたダンス・スタイルによるストーリー性の美学、音楽性の美学、照明効果などの舞台美術としての美学など、趣味レベルのグループ発表にしても、よく観察すると、美の総合性へのアプローチが感じられた。 これは美術、デザイン、建築などにはない、動態的でかつ自己完結的な総合性であり、うらやましいものがある。
そういえばバウハウスでも、オスカー・シュレンマーは舞台表現に関わっていたではないか!(*)



先に文化的な視点と書いたが、日本人も何とか輸入文化を消化出来るところまで来た、というような印象を言いたい。 ダンスをやりたい人はそれだけ自分の容貌にも自信があるのだろうか、半分くらいの男女は化粧効果もあってか、まあまあ見れる風貌と踊りだった。 衣裳のデザインレベルも半分はまあまあ。 何より感心するのは、特に女性のダンスドレスの多様性と高価さ。 一着100万円はするとも思われる、襞(ひだ)やレース、それらに着けられたスパンコールの輝くオリジナル・ドレスのために、女性は、あるいはその亭主は私財を投げ出す。 ドレスアップしてヘビーメイクをして会場を出入りしたり、コーナーで練習したりしてるシーンは、またカーニバルが始まったかという気持ちにもなる。 カネのある人種の遊びなのか、日本人がここまで豊かになったんだ、と思うべきか。  で、思い出すのが映像で比較できるはずもないが、鹿鳴館でのダンスパーティーがどんなものだったのかということ。 今から見れば、きっとサルやブタの集団のようだったのではないかと思えてきてしまう。 それとも、あっという間に、洗練されていたのだろうか。
でも、ちょうどイギリス、アメリカ留学の終わった招待主のご子息が私の隣にいて、言った。 「いやぁ、イギリスのダンス・パーティを見たらこんなの見られませんよ。 ずっとレベルも高いし。 何より年齢がずっと若い。 ここは爺さん、婆さんばかりの巣窟じゃないですか」。


● それでも、と更に思う。 大体日本人は、歌舞伎や日本舞踊で完成された踊りの作法を体内化してきたではないか。 その観点からもダンスは明らかに様式変更不可能な輸入品だ。 その彼我の落差は極端で、日本舞踊の伝統からは一切、学ぶものはないだろう。 全く学ぶものがないとしたら、日本人がこれほどダンスを取り入れて、マネを平気で日常化する(イベントの時だけ「変装する」という意味では非日常だが)のは、かなり凄いことではないか?
当然そこには、体形のヨーロッパ化のような肉体の変形要求まで組み込まれている。マネをマネとも思わないで、ヨーロッパ文化の表現部分を自然に取り込めるようになった近現代の日本人は、やはり、それが全く独創的なことではなくても、実生活に近い何かを生み出し始めているのではないか。
●● それにしても、と改めて思う。 鹿鳴館で洋装してダンスをすることがそれほど社会性があったのだろうか。 ということはそれほど西洋化に憧れていたということになる。 250年に及ぶ閉鎖的な文化を腐乱のように思い、まったく着替えてしまいたいと思ったのだろうか。 男にしても同じで、官僚級はすぐさま洋装化してカイゼル髭などをはやし始める(漱石もか?)。 となれば男にしても妻にはドレスを着させたい、となろう。 シンデレラは明治になってからは早くから輸入され(**)、今次大戦後には白雪姫がディズニー映画として少年少女の憧れの対象になってきた。 フリルのついたドレスを身にまとい、シャンデリアの下で王子様と優雅に舞うのは日本の少女たちの夢のまた夢になってきたような気がする。 結婚式にはロングドレスを着たい、に見るように、今回のダンス・イベントを見ていて、ついに60代、70代の一般女性でもダンス・ドレスを着て踊る夢の実現にたどり着いた。 やっとマネがマネとは思えない程度の時代が到来した。  ここはその晴れの舞台である、と、そんな気がしてきた。



(*)についての注釈:  より正確に言えば、シュレンマーのダンスは「トリアディック・バレエ」と言われ、人体を幾何学形態の衣装でまとい、時計のようにメカニックに動かすような創造ダンスだったようだから、ここで言っているダンスとは全く違う。 それは承知の上で、一般の出来上がった様式を受け継いでいながらクリエイトするという現代デザイン流儀を受け入れてのことだ。つまり、様式の革新の比較ではなく、〔アーツ〕の総合化からの近似性の比較ということ。 なお、同じバウハウスのモホリ・ナギも時間の意識からか、映像、舞台に関わったようだ。
(**)日本への紹介は1886年というから、明治維新から18年あまり後のことだった。












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