大倉 冨美雄 の デザインエッセイ 〜OK Design〜

2019-01-14 くつろぎの午後に このエントリーを含むブックマーク

あれ? ちょっと不思議。

普段、見掛けるより洒落た男女が多い。

ここは東京都庭園美術館。天気も良い連休の最終日。


考えるまでもなく、この展覧会が 「エキゾティック×モダンアール・デコと異境への眼差し」 というので、ファッション系などの関係者が少なくないからだろうと予想はできる。それにしても、いくらかでもセンス・アップした日常風景が日本で見れるのは楽しい。パリコレのモデルになるだけで大変な競争があることは、コシノジュンコさんのテレビ番組で教えて貰ったし。

意外と魅力的な女性が多い、なんて言っていると、「展覧会を見に来たのだろう?」と言われそうだが、展示の中には参考になる作品があった。

菅原精造。 パリに行っていた漆工芸家。1905年にジュエリー工房ヴジェーヌ・ガイヤールの要望で渡仏する同じ漆工芸家辻村松華に随行した。1912年頃は、デザイナーで後に建築も手掛けたアイリーン・グレイに漆を教えながら、彼女のスタジオで働いていた、という。黒く等身大、木製漆塗りのモジリアーニ風の顔長の女性像はセンスがあって美しい。

ジャン・デュナン。 スイスの真鍮工芸家だが、1912頃年に菅原に出会い、その技術を学んだ、という。二つの漆塗りの壺が展示されていたが、そのグラフィック処理もセンスがあり、これはオレに近いな、と思わせた。(データは同館チラシから)


1912年と言えば、明治45年、大正元年である。菅原やジャンはその後どうなったのか。

12月6日の当ブログ 「大正の時代を想う」 にも書いたが、ヨーロッパへの憧れは凄いものだったのだろう。「浜辺の歌」 が出来た年だ。翌年に藤田嗣治もパリに向かっている。

気分が ノスタルジックでなくなるが、アメリカでF.L.ライトが「ロビー邸」を設計したのが1907年、M.デュシャンが例の便器を展覧会に出して物騒をかもしたのが1917年だった(例の歴史比較趣味:笑)。

菅原はその後、どうしたのか。

話が飛ぶ。昔、このブロブのどこかに描いたような気もするが、ミラノに着いた年の夏、学生が帰郷して不在の学生寮(貸出していた)に在留していたが、そこの倉庫のような所に住んでいた日本の爺さんが居た。学生食堂はやっていたので、朝晩そこに居て(突然、大声でカンツォ―ネなどを歌いだし、残っていた学生達の失笑を買っていた)、空いた時間は寮出入り口の階段に腰かけて古雑誌を並べて売っていた。真夏なので、シャツにふんどし一ちょうの姿だったようにも記憶している。一度、声を掛けてみたら、歌手で、「これからオペラ座で歌うよ」と言った。

高度成長期前の1970年代頃までのヨーロッパには、夢が失せて日本に帰れなくなった芸術家があちこちにいたのではないか。

一緒には出来ないが、菅原はその後、どうしたのか。


ネットで調べてみたら、あった。上の話とは大違いの様だ。ただし、本当に近年の記録というのは問題。

元フジTVパリ支局長・熱田充克著「パリの漆職人 菅原精造」(白水社刊/2016)が彼のことを調べ、語っている。

また摂南大学の川上比奈子教授が彼について論文を書いていた。(「デザイン学研究」日本デザイン学会・Vol.63、No 2017 )

いずれにしてもフランスでは、アイリーン・グレイとともに知られているようだが、日本ではほとんど無名。これは我々の責任なのかもしれない。

取合えず簡単に書いておくと、山県県酒田市の出身らしく、家具などの技術も学んでいて、アイリーンと共同で家具開発や、建築までやったらしい。これでは自分と大して違わないではないか。

生涯帰国することはなく、パリ郊外に墓もあることが判った。

どうしてこう… もっと調べなければ。




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