2011-09-24 イニストラード大型プレリリーストーナメントin板橋まとめ
先月諸事情の結果、遊戯王から距離を置いてMagic: The Gatheringを始めることにした。といっても完全に初めてではなく、5〜6年ぶりにプレイすることとなったわけだが。
今回は新しい大型エキスパンションの発売ということで、スタンダードの環境も大きく変わることになり、新規参入にはちょうどいい機会と思い初めてMtGのトーナメントに参加することとなった。
以下、僕が参加した板橋大型プレリの記録である。
午後からのシールド戦に参加。強そうな人が多いのと大会初参加なのでちょっと緊張。
6パック開けて引いたレアは《瞬唱の魔道士》、《嵐霊》、《ヴェールのリリアナ》、《クルーインの無法者》、《ケッシグの檻破り》、《解放の樹》、《ケッシグの狼の地》の7枚(《無法者》のような両面クリーチャーは各パック1枚必ず入っており、レアかぶりもある)。
赤緑で行こうか迷うがせっかくプレインズウォーカーを引いたので黒緑で行くことに決定。赤はアンコモン以下がパッとしなかったこともある。色に合わせて引いたカードをほとんどそのままぶちこんでデッキが完成。貴重なクリーチャーが少なくなりすぎないよう気をつかった。
結果的に言うと黒を選んだのは正解だった。《死の重み》2枚《死体の突進》2枚《夜の犠牲》《飢えへの貢ぎ物》など除去が豊富に手に入り、非クリーチャーを削るのに苦労したほどだった。これら除去は大活躍をみせた。
緑も《待ち伏せのバイパー》が地道にライフを削り、《ただれ皮の猪》や《ケッシグの檻破り》が大暴れをみせるなどクリーチャーの質の高さを感じさせた。
クリーチャーというと白も飛行が多く、リミテッドではかなりの強さを発揮すると思われる。
逆に青・赤はメインの色にするにはやや苦しそうな印象。
基本的に僕のデッキは《リリアナ》などの爆弾カードを隠し持ちつつ、黒の除去で序盤を有利に進め、多く手に入った中〜大型のクリーチャーで押し切るデッキとなった。飛行が《吸血鬼の侵入者》1枚しかないのが苦しかったが、除去でなんとかなるだろうと考えた。
1回戦。
相手は気さくな人でホッとする。初戦から怖いオーラを出している人とはやりたくない。相手は青白緑。《リリアナ》を出してドヤ顔するが装備品付きに即殴られて退場という凡ミスを犯す(プレインズウォーカーのルールをよくわかっていなかった)。続けて《解放の樹》を出すが装備品付きの《不可視の忍び寄り》に延々殴られあっという間に死ぬ。2本目では《不可視の忍び寄り》を《飢えへの貢ぎ物》できっちり落とすことに成功し、その後は相手が事故ったのかこちらが《吸血鬼の侵入者》で延々殴り、途中相手の《骨塚のワーム》が4/4に巨大化しヒヤリとしたが押し切って勝ち。3本目もクリーチャー展開で圧倒して勝ち。
2-1
2回戦。
正直この対戦はあまり覚えていない…。《霊炎》の1点火力に少し苦しめられたが殴っていたらそのまま勝った。
2-0
3回戦。
1本目は3ターン目で《リリアナ》召喚、忠誠度カウンターが5個・相手が手札0枚になったところで相手が投了。相手は青赤緑…だったような気がする。2本目では相手はサイドチェンジで大きくデッキを変え白青にしたようだったが、除去しつつ展開・攻撃で完封。相手の《信仰の縛め》をこちらの《茨潰し》で破壊して勝利を決めたところに象徴されているが、完全に「噛み合った」対戦だった。
(ところで帰宅して読んだ『マナバーン2012』に載っていた日本選手権4位の井川良彦さんがこの3回戦で対戦した人に顔も名前も非常に似ていたような気がするのだが対戦した相手の名前をメモしなかったため確認ができなくなってしまった。気になる)
2-0
4回戦。
相手は白黒。1本目は除去を飛ばしつつ《マルコフの上流階級》などで殴りクリーチャーも展開、こちらライフ30・相手ライフ3(5だったかも)になったところでほとんど勝ったと思ったが、ここでこちらが息切れしている間に相手が次々とクリーチャーを展開、アドバンテージを稼ぐとともに《天使の監視者》で5点クロックされ逆転負け。《解放の樹》で時間稼ぎを行おうとしたが《悪魔の狩人》で無力化されどうにもならなかった。2本目もこちらが《悪魔の長帷子》で強化した《流城の巡回兵》などで一気に攻め込むが、相手のライフを4点まで削ったところで1本目と同様の展開になり、《アヴァシン教の僧侶》でクリーチャーを無力化されつつ《礼拝堂の霊》などの飛行クリーチャーで畳み掛けられる。こちらも《解放の樹》《ホロウヘンジのゴミあさり》でライフを回復し粘るがどうにもならずやはり敗北。
0-2
2本とも惜しいところまでいきながら逆転負けしたのは悔しかったが、良いデュエルだった。デッキの力は拮抗していたから、負けた原因があるとしたら、相手のプレイングは上手くて僕は下手だったということに尽きるだろう。そりゃ「《死体の突進》で対象は…呪禁(じゅきん)忘れてたー!」とか「(《スレイベンの民兵》にブロックされて)トランプルでダメージ受ける感じですっけ…?」とか「フラッシュバックって墓地7枚なくても普通に使えるんですよね…?」とかやってるようじゃまだまだすぎるw
(ちなみに対戦の間はプロプレイヤーのガンスリンガーを見学していました。中村修平さんがデュエル中に出すオーラを見て「これが遊戯王にはいないプロというものか」などと考えていました)
結果としては3勝1敗。MtGをやり始めたばかりにしては上出来だと思う。
勝者プレゼントのブースターパックでは《月皇ミケウス》《屋根の上の嵐》《うろつく餌食の呪い》《内陸の湾港》フォイル(←!!!)を引き、金銭的な面では完全勝利と言ってよいだろう。(というか神話レア出すぎじゃないのか。3枚引いたぞ)
そういうわけで今回プレリリーストーナメントに参加して大変満足した。今後もイベント等に参加していろいろ学んでいきたいと思う。
僕自身の課題としてはルールを細かいところまできちんと把握すること、複数のクリーチャーが絡む戦闘でベストな選択をとれるようになること、ゲームを大局的に見てアドバンテージをどうとっていくか/手持ちのカードをいつ使っていくかについての経験・勘を磨いていくことが必要だなと感じた。
2011-02-02 雑文003 哲学2.txt
※この文章は僕が大学の講義の「哲学2」の試験対策に書いた個人的なまとめノートです。よって正確さや丁寧さに欠けますが、せっかく書いたのでここに置いておきます。
知覚と実在
知覚とは個人の意識に生じた像であり、実在とはその知覚を生じさせたおおもとの「もの」である。普通私たちは実在を認めるし、知覚も実際生じると考える。果たして本当にそうだろうか。考えてみよう。ここでは3つの立場を見てみる。
- 素朴実在論
この立場では、個人は知覚しているものがそのまま実在であると考える。リンゴを見ればそれがそのままリンゴの実在であると考えるし、コップに触ればそれがそのままコップの実在であると考える。しかしこれではすぐに不具合が生じる。というのも、例えば錯覚など、その知覚がそのまま実在ではない場合に説明がうまくいかなくなる。そのとき知覚と実在が異なること、すなわち二元論を認めざるを得ないが、このような錯覚は容易に起こりうる(例:まぶたを指で押してみると物が二重に見える)ので、実在一元論的な考えと二元論的な考えが行ったり来たりすることになる。これは整合性に欠けるのでこの立場は成り立つとは考えにくい。
- 意識・実在二元論
実在を認め、我々は知覚の像を介することによって実在を見たり感じたりしている、と考える。二元論に一貫した立場である。ここで生じる問題が2つある。
・実在の世界は「どこ」にあるか?
知覚の像を介して実在を見ているという考えは、まるで実在を知覚というテレビによって生中継で見ているようなものである。そうすると映されている実在そのものは一体どこにあるのだろうか。我々が知覚を通してしか実在をとらえられないならば、実在の世界がどこにあるかは結局わからない。知覚の世界と実在の世界の位置関係を我々は全く知ることはできないのである。
・知覚像が正確であるとどうすればわかるのか?(外界の懐疑)
例えば「遠くからみると蛇に見えたが、近くに寄ると縄だとわかった」という場合を見るに、我々の知覚は必ずしも実在と正確に対応しているわけではない。それと同様なことが我々の知覚全てに言える。そしてその知覚が正しいか誤りかは決してわからない。なぜなら我々は実在の世界を知覚を介さずに取り出し知覚と比較検討することはできないからである。
- 意識一元論
以上のような問題を考えると、そもそも実在というもの自体が怪しくなってくる。そこで、いっそのこと実在というものを認めず、全ては知覚であると考える立場が出てくる。この立場では、存在することとは知覚されることであり、知覚されることのないものは存在し得ないと考える。しかしこの立場では、自分が知覚するもの以外は何ものも存在せず、他人の意識も存在しないと考える、独我論に陥ってしまう。
他我問題
我々は普通、他人の知覚や感情のあり方は基本的に自分と同様なものであると考える。この考えは「自他の同型性の信念」と呼ばれる。果たしてこの考えは妥当だろうか。我々は他人の心の中を知ることはできない。あくまで推測することしかできない。他人の怒りや悲しみは自分のそれとは全く異なるものかもしれない。ここに、他我認識に対する懐疑が立ち現れる。この懐疑をさらに進めると、全ての他人は心を持たないゾンビ(哲学的ゾンビ)にすぎないと考えることさえできる。こうした問題にどう対処すべきだろうか。
ひとつには、他人の心は類推することができると考える立場がある。他人があるふるまい(怒ったり泣いたり)をしているときその人の内面がどのようなあり方をしているかを、自分がそのふるまいをしているときの自分の内面と対応させて推測するわけである。しかしこれは明らかに自他の同型性の信念に基づいた考えであり論点先取である。また、そもそも他人に心を認めないゾンビ説には全く意味を成さない。
そこで、「他人の痛み」とはその人の行動パターンないし行動の傾向性を意味する、という考え方が現れる。これは行動主義と呼ばれる。これによると「私の痛み」は感覚として、「他人の痛み」は行動パターンとして解釈されることになり、懐疑は回避される。しかしこの場合においても、独我論的・ゾンビ説的考え方から逃れられていないという問題が残る。
さらに他我というものそれ自体の意味についても問題になる。例えば「リンゴの赤」という知覚については、その色が他のものに貼りつけらればそれは赤いものの連想になる。しかし「痛い」という感覚はうまくいかない。その「痛い」という感覚はあくまで自分の知覚でしかないため、これをそのまま他人に貼りつけても、「他人の腕に自分の痛みがある=私が他人の腕に痛みを感じている」というおかしなことになってしまう。これでは「他人の痛み」などは結局存在できない。
行為と意志
行為とは何だろうか。行為と非行為(自然現象)はどう区別したらよいだろうか。人間以外の生物、猫やクラゲや銀杏の木などのふるまいは行為なのだろうか。そうしたことを考えてみよう。
まず、意志が原因で生じた運動が行為であると考える立場がある。これは意志行為説と呼べる。これによると脊髄反射や生理現象は行為ではなく、何かをしようとする意志を伴わなければ行為はありえないということになる。しかし、次のような問題点がある。
・意志など存在しないのではないか?
我々は普段「腕よ上がれ!」という思念を出して腕を上げているわけではない。実際には腕を上げずに、腕を上げるときの心の状態を再現することはできない(それがどのような状態なのか我々自身もわからない)。したがってそもそも意志という心の状態が存在するのかどうか疑いの余地がある。また、意志という心の状態が能動的に生み出されたものでないかもしれない。置かれている状況に影響を受けて「意志」なる状態が生じ、その結果腕が上がったのかもしれない。その場合結局自然現象・生理現象と変わらない。
・無限後退
我々が能動的に意志という心の状態を生み出し、それによって腕を上げることができたとする。問題はその能動性である。「意志という心の状態を生み出す」ということも行為であるから、そのための意志が必要となる。こうして、「「「「意志という心の状態を生み出す」ための意志」のための意志」のための…」という風に、無限の意志が必要になる。しかも順番が遡っているため、これではどこから意志を開始すればよいのかわからない。
以上のように意志行為説には問題がある。ここでこの考え方から離れ、行為のもつ「意味」という観点から行為と非行為を区別しよう。
まず、行為には理由がある。理由(reason)とは人間の行為に対する意味付けである。対立する概念として原因(cause)がある。原因とは自然法則であり理由とは区別される。そうして区別された理由というものが伴うのが行為なのである。また、意図を伴うこともあるが、全てではない(意図せざる行為)。
また、行為は様々な記述を受ける。例えば、ある人が首を横に振ったとする。その人は虫が飛んできたから首を振ったのか、それともNOという返答のために首を振ったのかは記述の仕方によって異なってくる。「首を振ることによって虫をはねのけた」では因果的意味をもって再記述されることになり(これを因果的生成という)、「首を振る事によってNOした」では社会規約的意味をもって再記述される(これを規約的生成という)。このような再記述が要求されるとき、人はその行為に対し「なぜ?」と問いかける。「なぜ腕を上げたのか?」という問いに対し「ストレッチをするためだ」という再記述が行われる。この再記述によって腕を上げる動作に意味が付与されることになる。
このように、行為には様々な意味が伴っている。そのように考えたとき、猫やクラゲや植物が行為しているかどうかは、我々の問いかけ・意味付けにかかっていることになる。猫が喉をゴロゴロと鳴らしたとき、「猫は生理現象によって喉を鳴らした」と原因を記述するならばそれは行為とは認められない。「猫は気持ちが良いことを示すため喉を鳴らした」と理由を記述するならば行為と認められる。つまり、我々の猫に対する態度によって、行為か非行為かが区別される。その態度は文化的・社会的合意によって形成される。例えば枯れ葉が落ちることに植物の理由を見る(アニミズム)社会ならば、その社会では植物の行為というものがありうる。
2010-06-13 哲学1 レポート 完成稿.txt
課題:モノは暗闇で色をもたないであろうか?
ロックは第一性質と第二性質を区分する議論のひとつとして、『人間知性論』(第2巻第8章19)のなかで以下のように述べている。この文章をもとに、問いに答えなさい。
「斑岩の赤と白の色を考察しよう。光を岩に当らないようにだけしよう。すると、色は消えうせる。岩はもはや私たちのうちに色の観念を少しも産まない。光が戻ると、岩は色の現象をわたしたちのうちにふたたび産む。光の在不在によって斑岩に何か真実の変更が行われていて、暗闇ではだれにもわかるように岩は色をもたないのに、光のなかの斑岩には白さと赤さの観念が真実にあると、だれにもせよ考えることができるか。なるほど、この硬い岩のある部分から跳ね返る光線によって赤さの観念をわたしたちのうちに産み、ほかの部分からは白さの観念を産む適性のある分子配置を、岩は昼も夜も持っている。が、岩にはどんなときにも白さや赤さはなく、ただそうした感覚をわたしたちのうちに産む力能をもつ組織があるのである。」
1.ロックのいう第一性質と第二性質の区別とはどのような区別であるか。
2.引用文はどのような意味でこの区別の理由になっているのか。あるいはなっていないのか。
3.引用文では「 暗闇ではだれにもわかるように岩は色をもたない」と述べられている。しかし、岩は暗闇の中でも色をもっているといえないのだろうか。自らの見解を述べなさい。
4.「音を発しているベルは真空中におかれても音を発しているといえるだろうか」。この問いに答えるとともに、「暗闇のなかの色」と「真空のなかの音」とでは事情が違うのか否かについて(とくに媒質の役割を考慮しながら)考えなさい。
1.ロックのいう第一性質と第二性質の区別とはどのような区別であるか。
第一性質
物体の本源的性質。
物体が人間の主観や感覚から独立して備えている。
それはいかなる状態においてもそうである。
リンゴにおいては、形・大きさ・数など。
第二性質
物体がもつ、第一性質によって多彩な感覚を生む力能。
人間の主観に現れ、感覚的に受容される。
第一性質とは異なり、物体の状態などによって失われうる。
リンゴにおいては、色・味・匂いなど。
2.引用文はどのような意味でこの区別の理由になっているのか。あるいはなっていないのか。
斑岩のもつ、形(あるいは分子配置)や存在そのものといった性質はたとえ暗闇においても変化しない。しかし色という性質は、光が失われたことにより消失してしまっている。再び光で照らせば色は復活することから、岩の形が変化したということでもない。すると、光で照らす/照らさないといった状況によって失われる性質(色)とそうでない性質(形、存在)の差が岩という物体に内在している。ここに区別すべき2つの性質が確かに存在し、それがまさに第一性質と第二性質なのである。
3.引用文では「暗闇ではだれにもわかるように岩は色をもたない」と述べられている。しかし、岩は暗闇の中でも色をもっているといえないのだろうか。自らの見解を述べなさい。
「岩は暗闇の中で色をもっているといえるか、いえないか」
この問いに答えるためには、まず「色をもつ」とはどういうことかを定義しなければならない。
3-1.「色」とは何か
まず常識的に考えると、「色」とは、物体から反射してくる光のことであり、その波長の違いが色の違いとして感じられるようなもののことである。しかし、そうした認識は、キュッパース・ニュートン・ガリレオ・金子隆芳・大山正らによって否定されている。また、ベンハムこまのような錯覚の例を考えると、色というものは単純に光の反射と考えるだけでは不十分である。「色」とは何かというのを考えるとき、我々はそのような常識的見方からさらに一歩踏み込んで、「色」とはそうした光が人の網膜によって知覚されて脳内で感覚として現れたもの、と考えなければならない。つまり「色とは、それを知覚する人間の外部に客観的に存在するものではなくて、人間の感覚の内部に生じる主観的なものにすぎない。」これが色彩の哲学における一般的見解であった。これを前提として議論を進める。
3-2.色を「もつ」とはどういうことか
それでは、ある物体が色を「もつ」とはどういうことであろうか。
これについては、3通りの定義が考えられる。
①その物体が、ある色に対応する波長をもつ光を反射するような分子配列を表面に持つ
②その物体が、色という感覚を人間の内部に生起させている
③その物体が、色という感覚を人間の内部に生起させることができる(生起させる力能を持つ)
①を定義として認めるならば、「岩は暗闇においても色をもつか」という問いに「もつ」と答えることができる。しかし、この定義を認めることはできない。まず我々は3-1において、このような定義の仕方を否定した上で「色は人間の感覚の内部にのみ存在する」という前提をたてたのだった。よってこの定義は棄却せざるを得ない。
②はどうであろうか。この定義に従うならば、先の問いに対して「もたない」と答えることができる。実際、暗闇においてその人は岩の色を知覚していない。ここで、「人間が知覚していないならばその色は存在しないとは奇妙で直観に反する」という反論があるかもしれない。しかしこうした意見は色が人間の知覚と独立して存在することを前提としており、ここでの議論の前提と反する。「色は人間の感覚の中にのみ存在する」という今までの仮定から推論をすると、このように「人間が知覚していないならば色は存在しない」と考えることができる、というわけである。(細かいことを言えば、仮に人間以外の生物で暗闇の中でも岩の色を知覚できるものがいたらどうなのか、という意見があるだろうが、そのような場合には観測者であるその生物にとっては確かに岩は色をもつと言えるだろう。②の定義の下では観測者によって問いの答えは異なるのである。奇妙かもしれないが、これは色が観測者の感覚の中にしか存在しないという前提に合致しているため誤りとは言えない)
その点、③の定義は②よりも直観との親和性が高い。光の下では確かにこの岩の色を感じられるのだから、この岩は③の条件を満たす。この定義に従うならば、「もつと言えるが、暗闇の中ではそれを確認できない」と答えることができる。これはより現実的な答えである。
3-3.結論と回答
筆者である私としては、この③の定義と回答を支持したい。
4.「音を発しているベルは真空中におかれても音を発しているといえるだろうか」。この問いに答えるとともに、「暗闇のなかの色」と「真空のなかの音」とでは事情が違うのか否かについて(とくに媒質の役割を考慮しながら)考えなさい。
ベルの場合においても同様に、「発していると言えるが、真空中ではそれを確認できない」と答えることができる。これは、「暗闇のなかの色」と「真空のなかの音」という2つの問題が実質的に同じものであることによっている(つまりこの両者で事情は違わない)。このことをよく見ていこう。
まず「暗闇の中の色」を考えると、光の下では色をもつとほぼ確実に言える斑岩が、暗闇の中では色をもつかどうか疑わしくなっている、というのがそもそも3の問題であった。この問題が生じたはもちろん、(常識的な見方からすると)色を生み出す光が欠けていたのが原因であるが、もう少し踏み込んで、光が無いと色が見えないということをより抽象的に考えてみる。ここで要請されるのが「媒質」という概念である。
人間は網膜によって物体を視覚するが、物体を直接網膜の上に置いたとしてもその物体を見ることはできない、というのがアリストテレスの論であった。するとどうして人間は物体を視覚できるのかというと、それは物体と網膜の間に「距離(奥行き)」があるからであり、こうした「距離」あるいは「奥行き」を形成するのが「媒質」であり、特に視覚の場合はその媒質とは「照明」のことである、というのが授業でなされた説明であった。
この概念を導入して問題を考え直す。本来岩は人間に色という感覚を引き起こす力能をもつものの、暗闇の中にあって「照明」という媒質が存在しなかったために、その媒質が仲介することによって実現するはずの人間の知覚が成立しない以上、(色は人間の感覚の中にしか存在しないのだから)暗闇においては岩の色は存在しているとは言えないというのが問題の構造であった。
同様のことがベルの問題についても言える。「ある物体(斑岩←→ベル)が媒質(照明←→空気)を通じて人間の知覚を引き起こし、その人間の内部に感覚(色←→音)を生じさせる」という本質的構造は変わらない。
したがって、「暗闇のなかの色」と「真空のなかの音」で事情は違わない、ということが確認できた。
2010-05-22
時間割を見る
月2 基礎統計
評価方法:期末試験
負担:☆☆
教材:教科書、パワポ、板書
授業はほぼ教科書と同一。
高得点を狙う。
対策:授業中に教科書を読み進め、それが終わったら練習問題を解く。
月3 哲学1
評価方法:期末試験
負担:☆☆
教材:パワポ
内容は「色彩の哲学」。
テストの問題が未知。過去問入手の必要あり。
寝てて聞いていない部分が多く、危険科目の一つ。
色彩学については個人的に興味が湧いてきたので調べる。
対策:教授の著書を図書館から借りて読む。
月5 日本思想の歴史的組成
評価方法:出席(たまに)、レポート(未定)
負担:☆
教材:プリント
第1講で教授が単位あげる宣言。
教授の語りも上手いし良い授業なのだが、寝てしまう。
まとまった時間があるときに復習する。
火1 法1
評価方法:期末試験
負担:☆☆
教材:板書(少ない)
逆評定評価「神」。
寝坊し2講連続で聞いていないところがあり、危険科目の一つ。
テストの内容も知らない。過去問入手の必要あり。
火2 基礎演習
評価方法:出席、発表、質問
負担:☆☆☆
発表内容は「大学入試制度」について。6人班で全3回発表。
グループでの話し合い、調査、プレゼン作成、問題提起など仕事が多い。
ただ第3回の発表の負担は軽くなる予定(その代わり第2回がキツい)。
火3 情報
評価方法:出席、ミニレポート、レポート、(期末試験?)
負担:☆
教材:パワポ
レポートは「電子マネーの功罪」について。
高得点を狙う。
対策:教科書を読む、過去問を見る、予想問題をつくる
火4 中国語一列
評価方法:期末試験
負担:☆☆
教材:教科書
単語を覚えていないせいでだんだんと授業についていけなくなりつつある。
勉強法のビジョンは見えているので土日を使ってやりこむ。
高得点を狙う。
対策:発音、ピンイン、単語の暗記、作文、教科書を読む、過去問を見る、予想問題をつくる
火5 美術論
評価方法:レポート3000〜4000字(ただし締切は9月予定)
負担:☆
教材:教科書、パワポ
西洋伝統絵画の見解き方について学べる。まさに「教養」という感じ。
レポートの内容は美術館に行って実際に絵を見てそれを分析。字数が多いが、夏休みにやればよいので負担は軽い。
評価方法:ほぼ出席のみ、毎回1問以上問題を解く
負担:☆
教材:板書、プリント
逆評定評価「神」。実際、神。わかやすい。
水1 数学2
評価方法:期末試験
負担:☆☆☆
教材:板書、演習問題のプリント
逆評定評価「神」。実際、神。
100優を狙う。
対策:演習問題を全て解く。定理の証明を再現できるように。適宜問題集を買って演習量を補充。
水3 英語1
評価方法:出席、期末試験
負担:☆☆
教材:教科書
Worksheetの糞さに絶望した。
高得点を狙う。
対策:教科書とスクリプトを読み込む。
水4 中国語演習
評価方法:出席、期末試験
負担:☆☆
教材:教科書
対策:一列と同じ。
水5 物理科学1(文科生)
評価方法:期末試験(自分で書いたノートの持ち込み可)
負担:☆☆☆
教材:教科書、板書
授業がカオスにまみれているので自習が最重要。
高得点を狙う。
対策:定理の理解、適宜参考書を買って問題演習。
木1 数理科学1(文科生)
評価方法:期末試験
負担:☆☆
教材:板書
「じっくり学ぶ数学1」「多変数関数の微分」と内容がかぶっており、負担が軽い。
高得点を狙う。
対策:ノートの復習、数学1の自習。
木2 英語二列
評価方法:出席、課題(reading, writting)
負担:☆☆☆
教材:『本を読む本』、『Different Games, Different Rules』、Worksheet
課題図書の『本を読む本』とテキストの『Different Games, Different Rules』を読み、宿題のプリントに解答(英作文)、プリントアウトして提出と負担が重い。
ただし期末試験は無い。
木4 記号論理学(文科生)
評価方法:期末試験
負担:☆☆☆
教材:板書、プリント
高得点を狙う。
木5 学術俯瞰講義 ネットとリアルのあいだ
評価方法:ほぼ出席のみ
負担:☆
教材:パワポ
講義については当たり外れはあるが僕は基本的に楽しんで受けてます。
木6 科学技術が拓く未来社会
評価方法:出席、レポート3回以上
負担:☆
教材:パワポ
工学方面の会社の偉い人を呼んで講義をしてもらう授業。
授業後にはファカルティハウスで懇親会が開かれる(軽食あり)。
正直、講義の内容よりも授業後のタダ飯と雑談目当てで受けている。
レポートは1回あたり2枚程度。だがそれでもやる気が出ない。
評価方法:期末試験
負担:☆
教材:パワポ
様々なテーマの脳科学の研究を紹介される授業。
講義を聞き続けるだけの簡単な授業。正直テスト対策とか何すればいいのか。
対策:講義の内容をよく理解する、余裕があれば教授の著書を読む
金2 中国語二列
評価:平常点30%(小テスト10、聞き取り10、読み10)、期末試験70%(中間:期末=3:7)
教材:教科書
教官から女神の雰囲気が漂う。
対策:一列と同じ。
金3 スポ身(卓球)
評価方法:レポート
負担:☆
教材:教科書
金4 経済1
評価方法:期末試験
負担:☆☆☆
シケ対担当。最重要科目。
100優を狙う。
対策:教科書、参考書を全て読む。シケプリ作成の過程で用語や概念の理解を深める。過去問を読み、予想問題をつくる。
金5 じっくり学ぶ数学1
評価方法:問題を50題解いて提出
負担:☆
教材:板書、プリント
逆評定評価「神」。実際、神。わかりやすい。先生の教育に対する熱意がパネェ。