2012-02-09
『バンド・オブ・ブラザース』(Band of Brothers) スティーブン・アンブローズ著 スティーブン・スピルバーグ トム・ハンクス制作総指揮
評価:★★★★☆4つ半
(僕的主観:★★★★☆4つ)
中身の解説については、やはり、まだまだヨーロッパ戦線や戦争の歴史について学び中であることから、あまり書くことができない。なので、印象の断片と、それと、スピルバーグが描く市民主義的価値観、という僕の観察の文脈を説明したいと思う。
まずは、印象から。アメリカ国立歴史博物館で、自由の代償という展示を見たのだが、そこで独立以前からアフガニスタン戦争までの全てもアメリカの戦争を並べて展示しているのですが、ベトナム戦争が、大量のヘリを投入した初の戦争であったことが説明されていて、巨大なヘリの実物大の模型が展示されていたんですが、それを見て、ああ、それぞれの戦争には、それぞれの当時の最新鋭の戦術がシンボルの様にあるんだな、と思ったことでした。もちろん、ノルマンディー大作戦のエアボーン、降下兵がヨーロッパ戦戦の一つのシンボルなんだな、と。Twitterで教えてもらったことによると、このエアボーンという兵種は、なかなか使いどころが難しく、その後の戦争では使われることがあまりなかったようなのですが、、、、。このバンドオブブラザーズを見ていると、この兵種が、非常に特殊な訓練のいる難しい職種で、降下兵と歩兵の2つの徽章をつけていることは、エリートとは違うんでしょうが、ある種の、すげぇやつ!という風にアメリカ軍内では思われていたみたいですね。特に、この物語部隊は、志願兵(ボランティアー)によって構成される部隊で、それだけに徴兵された兵士などとは、レベルが違う、という風に表現されています。
物語を見る上で、歴史的なマクロを語るわけでもなく、個個の戦闘のみくるの断片を描いているので、そもそもそれなりに歴史の流れを知っていて、かつ、この航空降下兵という特殊な職業がどういう機能を軍事的の持っていたのかを知らないと、よく意味がわからないかもしれません。なんといっても、第二話のノルマンディー上陸作戦に先立って、前線を遥か先のドイツ軍部隊のど真ん中に、ガンガン飛び降りておくシーンが、この物語の最大の印象的なシーンでしょう。たぶん、エアボーンが、最も大規模に使用された最初で最後の戦争でしょう。アメリカのこれもかという大物量の航空機が密集する夜間の空で、ドイツ軍の高射砲により周りの飛行機がバンバン撃墜され燃えさかる飛行機からもダイビンングです。このシーンのカッコ良さは、本当に胸のぐっときます。
さて、降下兵の僕が理解している見るべきポイントを説明しましょう。まずは第一に、この兵種は、敵が構築している最前線にいきなり歩兵を落とすという手法から、歩兵や陸を動く兵種にとって一番最悪の状態である、包囲されている、そのど真ん中にしかも統制とれていないバラバラの状態で投げ込まれるのが「前提」となっている、ということがあります。それだけに、歩兵部隊としての練度は、非常に高くないと、話になりません。そもそも、陸上の戦闘で最も最悪に状況である敵中に包囲されているが、前提って、どんな戦術だよ、と思いますが。最初のノルマンディーの降下作戦では、たくさんの兵士が、荷物や武器を全て無くしてしまった状態で、暗闇の中に飛び込んで行きます。しかも、ドイツ軍の高射砲によって、乗っている飛行機が次々に落とされていく中でです。このシーンの残酷さと、そして、凄まじい格好良さは、見てみないとわかりません。本当に凄い奴らです。
また、彼らは軽武装の歩兵部隊であるということも見るべきポイントです。つまりは、戦車の高機動による突破が基本戦術の現代戦で、ライフルといくつかの武器だけの歩兵部隊で、最前線に突入していく部隊なのです!!!。
実際に、ドイツ軍の戦車が現れた途端、あれほど強かった部隊が、簡単にやられてしまいます。戦車部隊には、基本的にはが立ちません。エアボーンは、先行部隊なので、戦車が追いついてくるのは、少しあとになります。それまでに、ノルマンディー上陸作戦を成功させるために各所内陸部の砲台を制圧するのが任務なんですが、そこにたどり着くまでに、戦車が現れると、全く相手にならないのですいかに、陸軍歩兵として優秀でないと、務まらないかがわかるでしょうか?。ウィンターズ少佐が、どこかのシーンで、「包囲されるのには慣れている」と呟くシーンとかは、鳥肌ものです。そういう部隊なのです。この部隊の指揮官であるウィンターズは、この部隊を率いて、ノルマンディー上陸を阻む高射砲や陣地を、最初の時点では銃さえ落とした状態で落としていくわけです。いまでの戦術の教科書に乗るくらいの見事な制圧作成だった様です。これらの業績が評価されて、大尉であった彼は、途中から少佐に昇進して行きます。ちなみに、この登場人物が、全て本当にいた人というのも、ぐっとくる話です。
さて、次に、僕がこの作品で見えるべきポイントだと思うのは、もっと鳥瞰した視点になりますが、スピルバーグが描く戦争作品の市民主義的視点です。
別に市民主義的という言葉があるわけではないので、僕の文脈を説明すると、いわゆる、近代、現代国家を成り立たせる価値の一つに、市民、シティズンシップの道徳倫理があると僕は考えているのですが、それは、僕ら現代の先進国の成熟国家の人々の基本的な常識です。例えば、一つは人権。人の命の価値が、個人の自由が、非常に重要なものであること。こういった、人間の歴史を振り返れば、そんなのどう考えても嘘だろう?というような、建前的な、しかしそれなしでは現代の巨大な国家、共同体を構築できない重要な理念です。日本人には、理解しにくいですが、この人権や自由平等などの概念には、常識として、「その防衛のために命をかけることが正しい」というコインの裏表の概念があります。ギリシアの都市国家の昔から、オクシデント(西洋文明)の市民とは、共同体防衛のためい戦争にいく人々のことを指します。今回のアメリカの長期の出張で、price of freedomという文字を戦争に関する展示、記念碑で何度見たことかわかりません。アメリカ合衆国には、国を、自由を、仲間の市民を守るために戦争を行うことは、重要な義務であり価値なんです。仮に、その戦争が間違っていても、たぶん、関係ないのでしょう(苦笑)。というのは、国家が倒れてさえしまわなければ、大義のため、共同体の為に「個人が命を投げ出した」ことは、非常に尊ばれることだからです。それは、否定できませんよね。悪いのは、目的を誤った政府なのですから。
中国―隣りの大国とのつきあいかた (神保・宮台マル激トーク・オン・デマンド)
ちなみに、日本の靖国問題と比較すると、日本が近現代国家としては、非常にねじ曲がっている歴史を持つことがわかります。ドイツも同じでしょうが、自己の国家の「正しさ」が保証されていない状況で、歴史を描くこと、教育をすることは、難しい。それも、隣国の中国や韓国との歴史教科書問題という、サンフランシスコ平和条約にまで遡るある種の外交的手打ちがある中では、なかなか健全なナショナリズムを形成することが難しい構造的な問題があります。日本は、A戦犯という「悪者」を作り出すという「物語」を作成して、そこに責任を押し付ける事で、天皇と日本国民そのものが悪であったという物語を回避しました。ドイツのナチズムと同じですね。それによって、悪かったのは戦争犯罪人であり、日本国民そのものや天皇ではなかったという、外交上のストーリーを前提に、平和条約を結びました。だから、日本国家が、日本人が、A級戦犯を悪くない!と主張することは、先の戦争において、原因を追求すべき悪がいなくなってしまうので、イコール、日本の戦争は正しかった、と外交的に主張する事と同義になります。それならば、平和条約など結ばない!と諸外国が、怒り狂うのは、外交上の前提なので、当然の事だと思います。日本は、負けたのですから、その理由はいるわけです。もし、A級戦犯の物語がなければ、日本人を奴隷にし尽くすか、国家解体をしなければ、ならないでしょう?。だって、日本人そのもの、日本の文化や存在そのものが、悪なんだとすれば。もちろん、そのシンボルである天皇の処刑からはじまって、日本文化の解体をしなければならなかったはずです。だって、戦勝国にすれば、それは、当然の権利です。コードギアス反逆のルルーシュのエリア11ですね、まさに。二級国民として奴隷化した上での、植民地としての併合。村上龍の「五分後の世界」でもいい。その選択肢、国民総奴隷化と、A級戦犯にすべてをおっかぶせて軍閥東郷らによる一部の人間による暴走という物語で、それを回避したんです。なぜ、極東軍事裁判で、日本の国体や天皇を守るという使命感に燃えて、たくさんの人が、この物語を捏造したかといえば、日本という共同体の消失を恐れたからなんですね。最近、僕は、この時代になんで、こんなに陛下を守る!とかいって、クレバーな人々が、わけのわからない努力をしていたのかがよくわからなかったのですが、この文脈であれば、非常に理解しやすい。そうすると、山崎豊子さんの「二つの祖国」のこともよくわかるようになりました。この文脈があれば、いろいろなことが読み解きやすくなります。イエデオロギー的には、この時にこそ、天皇を処刑して、日本国民の「古き古層」を破壊しつくして、新しい日本を作り出そう!とか、アメリカの州になるべき!という考え方だってあったはずです。
ちなみに、近代国家としては、自国の歴史の連続性の正当化がしにくいという意味で、非常にダブルバインドな苦しい状況です。しかしながら、ドイツが、ネオナチや極右の台頭を抑えながら、EU、ヨーロピアンユニオンという国家を超えた地域共同体の設立、そしてなによりも、その維持の基盤として貢献しているのは、単純に危機や社会問題で国が追い詰められた時に、ナショナリズムに回帰できない、という縛りがあるゆえに、より高次の価値観へコミットすることができるからです。ギリシャの財政問題破綻へのドイツの態度を見ていると、このことがよくわかります。ギリシャは、いま陰謀論が非常に根強く、しかも、ギリシャのコミュニティを破壊されるわけにはいけない、ドイツなどの金持ちが金を出すのは当たり前だ、というシンプルなナショナリズムが浸透中ですが、これだけ、こんな小国にこけにされたことを言われても、ドイツは、右翼的な暴発をせずたんたんと、ヨーロピアンユニオンへの価値へコミットしています。もちろん、現代社会の移民による同質性のコミュニティーの崩壊危機は常に、右翼の台頭、テロリズムの誘発、全体主義、ナショナリズムへの傾倒を志向しますので、それを政府が、またメディアが、そして国民が、我慢しなければなりません。おかしな話ですよ。自国の福祉政策や失業問題などを差し置いて、他の国を支える為に財政出動をするなんて、国民が許すはずがないですから。これは、深刻なナショナリティーへの危機意識、自分たちがナチを産んでしまつたという歴史意識抜きには、僕はあり得ないと思います。なので、次世代の現代国家としては、意外に、旧来のナショナリズム一辺倒の国よりも、いい選択ができるのではないか、と思う時もあります。
逆にいえば、日本の近代史の総括としての重要な問題点は、明確な戦略目的なきまま軍部、マスコミ、大衆の暴走を許し、泥沼の戦争拡大、侵略を継続してしまったという徹底的な反省がないままなので、健全な右翼的意識の台頭ができない点にあります。というのは、本来常識的な国家としてバランスオブパワー(多国間地域安全保障の枠組みは現代の常識)のために、最低限の自己防衛軍事力の維持、さらには、地域の安全保障のためにバランスとしての軍事力維持(たとえば中国が軍拡したら、それに対抗できる軍事力は常に維持しなきゃなりません。それがリアルな軍事か技術か経済か外交かはいろいろ選択肢はあるにせよ。バランスが崩れるほうが、戦争拡大の可能性を生みますので)なんかが必要なんですが、こうした常識的な軍事力の維持やナショナリズムの維持を支持する層が、現代の日本社会においては、先の戦争においての反省がないお気楽な古い意味でのナショナリストばかりなので、この選択肢が選べないのです。これは苦しい。戦前の日本がヨーロッパ列強からの自衛戦争的被害妄想が強いものであったにせよ、それを世界のバランスや平和のために制御しきれなかった国としてのレベルの低さ、流されてしまったことへの痛烈な反省なしには、戦後世界の枠組みへの復帰はあり得ません。当時としては全否定はしにくいにせよ、現代的視点(民族自決の概念がある)からは、確実に否定される歴史認識ですから。本来は、正しい意味での日本の右翼意識やパトリオッチズムは、先の戦争の失敗に対する強い反省の上に立脚した政治勢力によってしか肯定され得ません。日本国内だけではなく、諸外国もそうでなければ、とてもじゃなければ安心できないし、特に東アジア諸国にしてみると、誇りの問題からも(彼らは戦勝国ですから!)そんな甘えた日本の戦前肯定は許せないでしょう。日本の現代政治が非常にねじくれているのは、先の戦争や日本の1945年以前の国体を否定している層が、本来若干右翼的でかつ常識的な軍事力、防衛力、バランスオブパワーの要求をするべきなんですが、そういった層がいないという点でしょうね。考えてみれば簡単に分かりますよね。戦前を肯定して、自衛戦争史観を肯定するということは、他民族への侵略を、現代の今!2010年代になっても肯定している!ということになるんですから。そんなの、現代で許されるわけがありません。いってみれば、旧社会党とか共産党とか(これは極端か、、、)そういう日本の戦前を全否定している政党・政治勢力「こそ」が、日本の軍備拡大(基本的にアメリカに肩代わりしてもらっているのは異常な状態で不健全です)や対中国包囲のバランスオブパワーと日米同盟の強化をうたうべきなんですよ。。。と僕は思う。政治勢力的にも、そういった政党が権力を握れば、中国や韓国軟化も安心して付き合えると思うんですよね。手ごわいだろうけど。・・・日本人の当時の意識としての、被害妄想(自衛戦争史観)は非常に理解できるし、リソースがない貧乏国の苦しみを感じて、非常に日本人としては理解できます。歴史認識としては、祖父たちの世代の苦労は、よくわかる。けれども、同時に、じゃあ、その周りの影響を受けた人々の認識をどう包括するの?って視点が欠けた、独りよがりの歴史認識でもあります。祖父の世代って、旧植民地の人間だって当然入るんですよ。以外に、これが抜けている、と思う。彼らも当時は日本人なんですから(併合しているんだから当然!)。旧宗主国の責任論は、外交の世界では常識的な認識です。ましてや旧宗主国としての責任もあります。東アジアの地政学的バランスにどのようなんていをもたらすかのビジョンや、旧植民地の人間の自尊心をどう維持するのか?といったことに対する認識のなさは、統治する側として許されることのない怠慢というかレベルの低さだと思います。そういった過去の日本の非常にお粗末であった、しかも負けてしまった国体を、あれは正しかったんだ!というのは、政治的には幼稚なロジックで、まぁ、とても弱い立場の日本で卑屈になるのはわかるけど、その被害妄想・自衛史観意識が、とどまることのない侵略戦争の拡大につながったんじゃなかったけ?って意識なしに主張されると、なんだかなーと思います。ちなみに、一つか加えておくと、日本の政治思想の現実認識のなさは、じゃあ戦前の日本や自衛戦争史観というある種の事実である出来事に対して、全否定する勢力は、それはそれでだめだなーと思います。だって、そういう政治勢力は、そこからイコール軍備放棄や憲法九条など、ファンタジー空想的平和論に話が接続するんですよ。そじゃー話にならない。
おっとまた盛大に話がずれました。
近代国家の基本的な価値として、自由や平等、人権などの理念的な価値があって、その為に、命をかけて防衛することは尊いことである、という意識がある、という話でした。その建前的な価値を、非常にクリアーでシンプルに表現するのが、スティーブン・スピルバーグの戦争映画だと僕は思っています。「シンドラーのリスト」「プライベートライアン」「バンドオブブラザーズ」。もともと、親族にナチスの強制収容所がいるなどユダヤ人のアイデンティティーが強いアメリカ人にとっては、こうした理念的な価値への帰依、称揚は、当然理解できることです。こうした理念的価値がなければ、弱いものが殺されて迫害されるのは、当然の帰結になってしまいますから。
また、チェンバレンの弱腰が、ナチスの台頭を招いたとする西洋の歴史意識は、やる時には武力で介入するのを躊躇してはいけないという反省があります。そう、理念を守るのは、言葉ではなく、武力であるべき、それも素早い、という意識があります。このへんの意識は、イスラエルの建国や彼らの防衛意識を見ると、形振り構わずでも強くなければ殺される、という凄まじい恐怖心がわかります。このへんのルーツからネオリベ的な精神が出てくるので、ブッシュJr政権時のアメリカの高圧的な軍事行動は、成る程な、とおもいます。なかなか両義的ですが、アメリカは、理念を背景にした戦争の方が、凶暴になりやすいです。
さてさて、では、長々と書いてきましたが、スピルバーグが描く市民主義的価値観が、なぜ見所のポイントか?というと。これは、昨今の成熟した先進国の物語では、そもそも、この近代国家の原理である市民主義的価値が信じられない、その自明性を疑うような物語が、多く生まれるようになっているからです。僕らのような、2000年代の日本に生きる世代にとっては、そもそも、クラシカルな意味での古典的市民主義的な価値なんて、すでに相当実感が薄いはずです。例えば、最近、見た「ウィンターズボーン」という映画は、ヒルビリーという市民的な法律の価値の外に生きておる共同体の絆の世界が描かれています。ここで、重要なのは、共同体の絆と法律的な市民社会の、並存ができないキワを描いている部分です。僕は、この成熟してリベラリズムが、個の価値が極まった現代で、もう一度共同体の絆が重要という実感を持っているのですが、物語お最前線では、それが、現代市民主義価値との対立という部分が強調されているような機がしてならないのです。また、「ファイトクラブ」でも「風の谷のナウシカ」「マトリックス」でも「アキラ」でもなんでもいいのですが、基本的には、現代近代国家を支えるシステムへの疑義、批判が、基本的には、近代国家のキングスベンをぶち壊して、世界が終わったあとの生き残りの廃墟の中での、古き共同体の絆の復活というような、文明の後退が描かれやすい。新しい価値が見出せないので、どうしても、破壊と過去への回帰が描かれてしまいやすいのです。
こうした中で、もう一度原点に戻って、市民主義的な価値の再確認をしようという作業自体は、僕は、なるほど、と思うのです。また、なんで第二次世界大戦なのか、といえば、アメリカでさえも、自己の正統性になんの疑いも持たなくて済む戦争は、この辺りが限界なのです(笑)。そういう意味では舞台をここに持ってくるのは、現代を視野に入れると、卑怯だとは思うのですが(笑)、でも原点という意味では、もう一度、市民主義的な価値とはなんで、そこへどういう疑義が生まれているか?、どんな次の可能性があるか、ということ考えるためのは、いい教材だと思うのです。しかも、実話ですしね。本人も出てくるので、アメリカ社会の原点とが何かを見るには、いいドラマだと思うのです。
2012-02-07
『伝説の「どりこの」 一本の飲み物が日本人を熱狂させた』 宮島 英紀著
「どりのこ」って、知っていますか?
戦前は、ずいぶん有名な飲み物だったみたいです。なんというか、カルピスみたいなもんだと思う。日本オリジナルの飲み物。
聞いてみたら、年配の人は意外によく知っているようだった。
いわゆるマクロの「歴史」とは違い、こういう当時のものを追っていくのは、それはそれでとても興味深い。
意外に興味深いのが、この本は事実上、講談社の歴史を追うことになっていることで、著者は綿密に講談社に取材している。
けれど、これって角川書店が出している本なんだよね(笑)。それは?なんで??って思いました。意外に、そこらへんのとても興味深いです。
そして、どりのこの販売を中心として、近代国家の興隆期の企業の、なんというか、不思議な共同体的なあり方が垣間見られて、非常に面白かった。あっと、詳しくは読んでもらえればわかるですが、大日本雄辯會講談社には「少年部」という子どもを雇う部署があって、「学校出ていなくても偉くなれる」という野間社長の理念の下、社員見習いをさせながら教育をしていたという部署があったんですね。これ、凄く面白い。教育制度が整っていなかった近代化初期の国家では、こういうのありなんでしょうね。野間社長を父親とする、不思議なムラ共同体的な姿が垣間見れます。戦前の企業には、こういう企業イコール家父長制と言い切っては語弊があるでしょうが、社長を父親とする共同体を形成するような家族的な仕組みを持つ企業が多数あって、そういうのって、理想の実現を目指す宗教共同体みたいな雰囲気を漂わせていて、近代後期の株式会社しか経験にない僕からすると、不思議な魅力を漂わせていて、大正ロマンではないですが、そんな香りを感じさせてくれます。
2012-02-04
『あめのちはれ』 びっけ著
なんだろう、凄く好きなんだよなー。何度も読み返しています。普通の少女漫画読むより、ずっと恋愛っぽい感じがするし、男の子の視点だけれども、女性の視点が良く入っていてとてもうまいと思う。
なんか、、、、それにこの「女の子たち」が、物凄くかわいーんだよなー。なんでだろう。男の子が雨が降ったら女性化するってよくあるストーリーなんだけれども、男の娘って系列でもないんだろうけど、いや、、、そうなのかなぁ、、、むしろ普通の女の子を描写するよりも、凄く女らしくなってしまう感じがするのはなぜなんだろう。絵柄ももちろん大好きだ、というのはあるけれども、なにか視線やそういう構造的な理由がありそうな気がするけどなー。
でもまー悠君をはじめ、男の子がみんな、まっすぐで、いいなーと思う。ギムジナウムものの良さって感じがする。
銀翼のファム 14
うーん、なんだろうなぁ、やはりなんか、入りきれない。この大帝国を瓦解させるのは、内部での反乱でしかあり得ないのはわかるし、伏線を貼っているように見えるけど、なんか、理解し難いんだよなー。
ケイオス移民団が壊滅して、あの女性の将軍が反旗をって、、、なんか、あの女性の将軍、バカあじゃない?とおもってしまうんだ。感情的には、すごく切ないのはわかるけど。仮にも中枢の首脳部にいる将軍で、自分の仲間たちが囮で全滅させられる生贄になる事ぐらい見抜かないとおかしいと思うんだよね。そんな低レベルで、あの地位には登れなかったはずだ。しかも、ある意味異民族で差別されている立場でしょう?。総統?の理念や方向性も、わからないなりに、、、というか、わからないのならば、スパイなり行動のチェックなりの情報機関を持つのが、あれくらいの中枢にいるリーダーだとおおうんだよね。それが、あまりに、レベルが低い。
全体として、脚本のマクロの流れで、ケイオス移民団などの帝国に併合された民族が、バラバラになる力の方に傾いて、帝国が解体するのはわかる筋なんだよ。けど、そこに至る道筋の演出が、ものすごくレベルが低い感じがして、ああ、、、、ここにいる連中は、無能、、、というか、支配者として資格がないな、、とおおちゃうんだよね。。。そうすると、リアリティが、失われてしまう。それで入っていけなくなる。脚本の大筋は、オーソドックスで当たり前の方向なので、なんら問題はないとおおうんだよ。けどねぇ、細かい演出が、なんか気になる。
主人公たちのもとへ、アウグスタからの手紙がくるシーンも、あんな攻撃能力を持ったベスパが、目の前におりてくるまで、警告も射殺もされないなんて、理解しがたい。だって、ついさっき、帝国に爆撃を受けてとしが壊滅しているんだよ?。なのに、、、、。もうそれだけで、気になって見る気が失せる。なんか、こういう当たり前のところに繊細な演出がされていないと、バカにして居るのか?って感じてしまうんだよねー。これどうなんだろう?。真面目にやってこうなのか、、、それとも、、、。
でも、こんなイライラするのは、きっと好きだからなんだろうなー、とか思う。どんな、ツンデレだ、、、おれ。
2012-01-26
『黄金の王 白銀の王』 沢村 凛著 政治という物は、突きつければこういうものだと思う。けど、こんな厳しい仕事は、シンジくんじゃなくても、世界を救えても、ふつうはだれもやりたがらないんじゃないのか?
批評:小説(Japan), 自意識という病からの脱出〜Escape from sickness of self-consciousness, ★★★★★星5, Masterpiece
評価:★★★★★5つのマスターピース
(僕的主観:★★★★★5つ)
二人は仇同士であった。二人は義兄弟であった。そして、二人は囚われの王と統べる王であった――。翠の国は百数十年、鳳穐(ほうしゅう)と旺廈 (おうか)という二つの氏族が覇権を争い、現在は鳳穐の頭領、ひづちが治めていた。ある日、ひづちは幽閉して来た旺廈の頭領、薫衣(くのえ)と対面する。生まれた時から「敵を殺したい」という欲求を植え付けられてきた二人の王。彼らが選んだのは最も困難な道、「共闘」だった。
あらすじ
この本を読んで思い出したのは、パレスチナ紛争と中東のことでした。この世界、翠の国は、まさに部族社会でであって、各部族が凄惨な殺し合いを重ね続けるという「復讐の論理」によって歴史が積み重ねられている国です。この中で特に、王位を争う鳳穐(ほうしゅう)と旺廈 (おうか)という氏族のそれぞれの頭領がこの物語の主人公です。
素晴らしい物語は数ページ読んだだけで引き込まれて、時を忘れる。そして傑作の物語は、その息もつかせぬ緊迫感が、読了まで継続するものだ。この本もまさに、そうした至福の読書体験を読者に与えてくれるでしょう。
まずは、この殺し合いの続く、お互いを見るだけで「殺せ」と肉体が叫んでしまうほど深く因習づけられた対立の申し子でありそのおのおのの氏族の棟梁である二人が、戦乱がうち続き、強大な大陸の国家が攻めてくるという危機を見越したうえで、どうやって、「その歴史が蓄積する復讐と恨み」を打ち壊すことを志していくか、行動に移していくかを見る様は、素晴らしくスリリングな体験でした。特に僕のブログの読者は、なぜパレスチナでは、ああいう氏族、部族社会で殺し合いが始まると、何千年も殺し合いが止まらないのか?。なにが、「そうではない」地域や国々と、そういう紛争地帯の「違い」なのか?ということを良くテーマにあげてきたことを分かってもらえると思います。ここには、その具体的な答えとそのことの凄まじいほどの難しさが、描かれています。
ここに登場する二人のひづちと薫衣(くのえ)は、「100年先の子孫の幸福を達成する」ために、言い換えればマクロの論理を徹底的に意識し突き詰めたが故に、その時代のだれにも理解されず、愛されず、尊敬されず、嫌われ、憎まれる道を選んで、いいかえればミクロの本能や大事なもの全てに背を向けて、マクロに殉じることを決めました。これこそが、リーダーであり「王」であるということ。人々を導くという「責務」を追った役割を貫徹することです。彼らの選んだ道の困難さに、僕はほんとうに感動しました。
■誰はばかることなく、万人に薦めたい!といえる、大傑作の小説
めずらしく、マスターピース認定。文句なしの大傑作です。帯かな?日本ファンタジーの最高傑作と銘打っているが、言いすぎかな?(笑)とは思うけど、決して誇張とは言えない、素晴らしい作品。前にも書いたけど、ファンタジーとして読むというよりは、読書人、、、読書を趣味とする人ならばぜひに読んでみたい、と思わせる渋く光る重厚な作品です。久々に、誰はばかることなく、万人に薦めたい!といえる、大傑作の小説に出会いました。非常に知的で複雑でありながら、、、、というか射程がマクロをとらえていながら、それを行う登場人物の苦悩(=ミクロの人間関係)が、複雑な彩を成し見事にクロスしバランスしている。僕が愛する系統の物語です。ライトノベルなどに読みなれている人には、難しいし読みにくいかもしれないが、これくらいの本格的読書の入口にある作品を読めるように、味わえるようになると、読書というものの知的エンターテイメントを「味わう」醍醐味がわかるはず。
特に、小説家になろう、とかファンタジーをライトノベルを読み慣れている&書いている人には、ぜひ読んでほしい。これが、中世レベルの国の指導者になった場合に発生する通常のマクロの悩みなんだ!。こういうことの解決方法を考えることこそ!小説家の、物語作家の、世界構築する!ということの醍醐味なんだと思うよ。そして、この悩みを解決し、真に国を富まし、人々を幸せに導くことということは、指導者(=主人公)に、こういう個人の苦悩が存在するということを。全能感だけでは、世界は回らないのだ。本当の充実、本当の勝利、「ほんとうのこと」ってのは、苦悩の超えた先にあることを。
なかなか気付かないけれども、日本のエンターテイメントの歴史に残る田中芳樹さんの『銀河英雄伝説』には、歴史(=マクロ)視点による非常に切ない問いかけがありました。基調低音として、善政をしく独裁者と、悪政を実施する民主主義ではどちらがまともなのか?、ということ。政治学でいえば、ポピュリズムの悩みを扱ったテーマです。ギリシアポリス政体以来の悩みで、西洋文明の最大のテーマの一つですね。民主主義が、一番独裁者を生み出しやすい、さもなければ衆愚政治一直線、という。この悲劇を一身に浴び苦悩し続ける男がヤン・ウェンリーという人でした。萌えとは言わないが、それ以外の豪華絢爛な装飾・ガジェットがあまりに凄いので、忘れてしまいがちだが、このマクロ視点の大きな枠があるからこそ、その時に消費されるだけで終わる(それが悪いわけではないけれども)物語に終わらなかったんだ、と僕は思います。偉大な語り継がれる物語ですもんね。銀英伝。
■こういうカテゴリーが明確にしにくいものは売りにくいだろうなー。
たぶんマイナーであろう、売り方が非常に難しいであろう、こういった作品を丁寧に拾って文庫化する角川のマーケッティングは、素晴らしいなーと思う。こういうカテゴライズが難しく、販売読者層がはっきり想定しにくい小説という物は、売り上げの予想がつきにくいと思うのだ。しかしながら、こういうカテゴリーの「はざま」にある作品や小説家に、可能性はたくさんあるんだろうと思う。しかしながら、こういったカテゴライズが難しい、集客力というか、販売想定顧客が集団として定義しにくいものは、マーケティング(=売り方の仕組みづくり)が難しいんだと思う。売り上げの予想がつきにくいものは、予算付かないのが基本だしね。この辺なんとか、ならなんかなーとは思う。既存の販売方法じゃあ、限界があると思うしねー。でも、ちゃんと知らされれば、これくらいのレベルの本は、読書ということをちゃんと趣味にしている層には重要があると思うんだ。ちなみに、ライトノベルとかアニメーションなどの組み合わせの販売って規模が大きいんだけど、あれって、ポケモンを小学生、幼稚園は戦隊ものや仮面ライダーとかいった、ある種の、「型」というか、そういったその年代(=中学から高校生・大学)に特有の様式化された文化、見たいなもんなんだと僕は思ってくるようになった。それはそれでありだと思うのだ。
いまの『乃木坂春香の秘密』『アマガミSS』『真剣で私に恋しなさい』だっけか?忘れたけど、ルイさんとLDさんと話している時に、よく「僕らはここまで弱っていないよ!」って、ルイさんがいうらしいんだけど(笑)このセリフは凄い深い文脈を理解しないと理解できない含蓄が含まれている。これは、ハーレムメイカーなどに代表される男の子をターゲットとした全能感を満たす物語群に対しての評価軸で、どの程度、作り手が、受け手の自我がどれほど弱いかを想定しているのだろうか?という「読み」に対して行われている評価なんですよ。ようは、女の子が空から降ってきて、自分の好きな女の子がすべて自分だけを好きで、男のライバルがゼロの状態で、、、、そこまでお膳立てがされていて、さらに様々な、男の子にとって都合がいい設定がでデフォルト(=前提)されていると、ようは作り手は、それくらい世界がその主人公(=受け手の感情移入対象)にとって、容易で楽チンな状況でないと、受け手の自我が耐えきれないと想定しているってことですよね。いまのエンターテイメントの販売ってこの層が一番消費するので、手っ取り早くこの層を狙い撃ちにしている。もちろん、ここが最も大きなボリュームゾーンなので、ここを狙うのはわかります。またミックス的な商法で、販売のレバレッジ(=売り上げを倍増させる)が効く部分でもあるので、ここを狙うのは本道ではあると思う。
こういう層がボリュームゾーンにいる時に、あえて、自我の弱いことをゆるさない!、耐え抜くことこそあるべき姿だ!と強く主張する作品ってのは、非常に売りにくいです。求めているものと逆行するからです。けど、人間や社会は、そんな癒しだけでは成立しません。やっぱり物語全体が豊かであるためには、こういう反対方向で、かつ魅力ある作品が生み出されることも大事だと思うんだよね。
あと、実際には、いまの最大のボリュームゾーンは、団塊の世代のシルバー層(いまの60−80代)なんだよね。また、そもそも、出版文化を支えるのは、渋いレベルの知的なレベルの高いものを享受するのに慣れた、さまざまなグループがいるわけですよ。物語的なことに限っても、純文学、推理小説、ミステリ、怪奇小説、BL小説(笑)とか、エロ小説でも、なんでもいいわけだけど、こういう層の中で、必ずしも上位の層に入るレベルってのは、売り上げに結びつかないんだけど、安定して「趣味・習慣」として書き手と読み手が微妙なグラデーションを持って、様式化している。純文学とかは、時代とのダイナミズムやリンクを失って完全に、歌舞伎や能に似て「過去を守る・再現する様式化された文化」になり下がってしまっているけれども、それぞれの固定化した価値集団に分化して島宇宙化するのは、多様化の時代の前提だし、そもそも良いことなんですよね!。価値が一つなんて、ひどい時代なんかあり得ないもの。とすると、出版、エンタメ、物語文化の担い手が考えることは、1)これらの様式化した集団の維持メンテナンスと、2)時代のダイナミズムを反映するボリュームゾーンの獲得と、3)これらの狭間・境界にあるものを掬いだして新しいものを作り出す、とかそういったことが必要で、特に3)が重要なんだですよね。これって、ハイエンドからローエンドという製品の付加価値の多さの問題と、3)は既存製品に対する新製品の開発ラインアップをどれだけ維持できるかってことなんですよね。・・・って、ここは今テキトーに考えたのであまりまじめに取らないでほしいのですが(笑)、でも、狭間にあるものをどう掬いだして新製品を涵養するか、というのは重要なことなんですよね。既存の維持も、そういった異端児なしでは、腐っていくだけになってしまいますから。イメージとしては、ミステリの領域とかに、西尾維新が出たみたいな感じ。西尾維新が、推理小説やミステリか?というと、本質がわかるいまではかなり疑問だけど、けど、そこの基礎やマーケットや様式から出発しているということは、否定できないですもんね。
話がそれた。
■ファンタジー政治小説?思索小説?〜カテゴリーするのは難しいし意志、売りにくいと思うが、これは世に残すべき傑作だ!
この小説をカテゴライズするなら?って言う話なんですが、解説で小谷真理さんは、思索小説というようなカテゴリーで、ル・グィンをあげている。ようは、政治哲学などマクロの概念を具体的に物語の形で表現する社会シミュレーション小説とでもいう物ですね。日本の作品でいえば、小川一水さんの『老ヴォールの惑星』「ギャルナフカの迷宮」という短編を思い出しました。あれも、閉鎖された極限状況に置かれた人間集団が、どういう風に秩序を獲得していくかというその過程を描いた物語ですね。ル・グィンなどは、日本語でないし、日本の文化的伝統を踏まえていないが故に、読者にフィーリング的に?って感じさせることが多い気がするが、なかなかこのレベルの小説は、日本ではない。そういう意味では、沢村凛さんは、『リフレイン』を始めこの系統は得意のようで、しかも、日本語で構築されているが故にとても読みやすく入りやすい。
■政治という物は、突きつければこういうものだと思う。けど、こんな厳しい仕事は、シンジくんじゃなくても、世界を救えても、ふつうはだれもやりたがらないんじゃないのか?
とりあえず、結論を言っておけば、友人に勧められたのですが、非常に面白かった。何が面白かったか?と問えば、その「厳しさ」が面白かった、です。
厳しさとは、
1)人間理解の厳しさ
2)マクロの仕組みという外部のどうにもならなさ
3)人間関係の彩が織りなす結論が、全能感(=主観の欲望の発露ではない)に至らない
という意味で。
『瞳の中の大河』 沢村凛著 主人公アマヨクの悲しいまでに純粋な硬質さが、変わることができなくなった国を変えてゆく
前回の記事で上のように書いた。まさに、それがさらに推し進められたような印象。読んでいて思った。この二人の「指導者」は、あまりに正しい。最初にも書いたのだが「100年先の子孫の幸福を達成する」ためにマクロに殉じる。それが、その個人の人生の犠牲に成り立つことは明白だ。これは、ノブレスオブレージであると思う。これを読んでいてい思ったのは、王である二人が、なぜここまで苦しまなければならないのか?ってこと。政治としては、非常に正しい。この世界のマクロの環境からは、これしか手法がなかっただろうと思う。政治家というものは、王というものは、ここまでやらなければいけないものなんだ、とまざまざと感じました。僕はこれを見て、ずっと南アフリカ共和国のネルソン・マンデラを思い出す。『インビクタス』ですね。リーダーとして、100年先を考えると、周りの人間がまったくそれを理解できなくなって、その人を排斥しようとす始めるんですよね。
僕はこの文脈を考える時に、『新世紀エヴァンゲリオン(TV版)』のシンジくんはどうして、エヴァに「乗りたくない!」といって、世界を守ること、かわいい女の子を守ることを拒否したのだろう?って、いつも考えているテーマを思い出します。![NEON GENESIS EVANGELION vol.01 [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51D8T8KHF1L._SL160_.jpg)
これは、個人がマクロのために犠牲になることを耐えられないと拒否することなんですが、そうはいっても、普通、世界を守れるチャンスが与えられたり、かわいい女の子を守るチャンスが与えられたら、自分の生きている意味が用意されるようなもので、トライするものだろうと思う。少なくともいまの僕はそう考えるし感じる。けれども、1990-80年代当時は、社会的に自尊心がめちゃめちゃに壊れ始めた時代で、自尊感情への防御意識が凄くセンシティヴで、自分自身の脆弱な自我を何とか守るために、外から来る要請をすべてシャットアウトする自閉モードで対処することが、凄く実感に合っている時代でした。
この「高らかな拒否」、、、、僕は乗らない!と最後まで言い切るのは、時代の実感とてもっていたと思う。けど、こと個人は、それでいいのだし、そういう道もあるが、国家とか「公(おおやけ)」てのは、そうはいえないものですよね。シンジ君が別に自滅して死ぬのは、それはそれで悲劇でも仕方がないし、世界にとってはどうでもいいけど、それによって影響をもし世界が受けるのならば、、、ようは、その他の人々の命に関係する場合は、やっぱり責任と役割は発生せざるを得ない。
みんながみんな、ぼくはやりたくない!といっていたら、社会は崩壊してしまいます。それは、拒否をできるリベラリズムが機能している社会という「基盤」を壊す行為なので、実は、許されない罪なんじゃないかって気がします。「個人の自由」と「公へのコミット(=自己犠牲)」というのは、とても危うい関係を示していますね。
この過酷な王の物語を読んでいると、けど、そんな苦しいだけの人生が、その国と公にとって正しくとも、個人にとって耐えなければならないほどのものなのか?って思います。けど、シンジくんのように「逃げる」という選択肢は、この二人(ひづちとくのえ)はにはありません。それは、王という役割に生まれついてしまっているからです。逃げることもできない彼らは、彼らが唯一自由であれる方法選択します。それは、「与えられた役割」に対して、自らが能動的に自由意思でコミットすることにって、自分自身が制御うすることです。「与えられた」ものを「自分自身のものにする」ということで、この設問を回避します。これは、とってもノーブルなものです。
でも、こんな個人(=指導者・王)ばかりが犠牲になるのってありなのか?とも思います。それって、自己犠牲の称揚じゃないですか?。
この問題を丁寧に追っている物語の傑作は、マヴラブオルタや村上春樹、村上龍を始めたくさんありますが、近いところでふと思い出すのが、橙乃ままれさんの『まおゆう』のメイド姉の話を思い出させます。この問題に異なるアプローチを投げかけたからです。この作品の主人公「勇者」は、世界の不条理を一身に引き受けて「世界を救うため」に一人で戦います。魔王も一緒ですが、それは二人で一人なので、言っていることは同じことで、これは「英雄の物語」なのです。けれども、物語の終盤で、世界の不条理を一身に引き受けて戦う勇者に対して、ただのモブキャラで「救われるだけ」の存在だった、その他大勢の代表として、メイド姉は、自分が勇者になると宣言します。このくだりを少し長いですが引用してみます。
さて、メイド姉が、「人間にならなければならない!」という、命題を最初の登場のシーンに、ドラマツゥルギーとしてセットされていたことを説明しました。そして、彼女は人間であろうと、悩み続けます。そして、旅へ出て、彼女は、虫けらではなく「人間であるために」何をしなければならないか?との答えに、
「勇者の苦しみ」が欲しい
と、答えます。
これが、(3)で語った「全体と個」におけるこの自己犠牲を超克することだということが分かるでしょうか?。彼女は、ただ単に「他人に迷惑をかけなくて、自分で独立して生きられる」という「だけ」には留まることなく、この世界の構造から、「責任」を一人(正確には二人で)で背負う魔王と勇者が生贄になることによって成立するこの世界の、、、世界が成立するための「責任」を背負うという苦しみを、自分が負担してこそ、「人間である!」と喝破するのです。
これが、「内面の発見」による自己確立というファーストステップを経て、セカンドステップとして自分の周りの「世界」を成立させている「構造」を、支えるものこそが、人間である!という二番目のレベルまで、彼女が到達しているのです。
人間であることは、マクロの重圧や理不尽な仕打ちに打ち勝って自分で自分を「独立」させていく、ということが必要です。
けれども、他人に迷惑をかけなくて、ただ独立して生きているだけでは、それもまだ人間ではないと彼女は言うのです。
そう、個人を超えた「公」の部分に自分をコミットして、「誰か選ばれた才能があるモノ」を当てにするような虫けらではなく、自分のできる限界で「全体」のために戦うこと・・・・
そして、ここが素晴らしいのですが、彼女は「世界を守る」とか「世界を支える」といった、全体が尊いから、全体のために自己犠牲になるとは言っていません。それは全体主義です。
彼女は、「世界のマクロを支えるために不可能なことに全身全霊をかけて戦う勇者と魔王」の「苦しみをシェア」することが、人間なんだ!といっているんです。
微妙にな論理の問題があるのが分かるでしょうか?。ここでは「公(おおやけ)」にコミットするのが尊い!といったような、「公」が「個」に勝る価値があるから、「公」にコミットしろといっていないんです。
みんながみんなでいられるための「公」・・・・それを支える仲間である同胞を一人ぼっちにしはしないんだ!といっているんです。これ微妙な違いですが、物凄い違うことなのが分かりますよね?。
ここに至って、彼女は、(3)で語った英雄譚に関する構造的倫理欠陥に対して、はっきりと、宣言するのです。「誰かがみんなのために犠牲になるのは間違っている!」と。そこに才能の有無とかそういう物は関係ない。そこで逃げたら、そいつは虫だ!と彼女はいっているのです。
これが、僕がずっとブログで説明してきた、並行世界の物語の類型における90−00年代の「ナルシシズム(=内面)からの脱出」の問題を、見事にクリアしているのがわかるでしょうか?。ここまでの話では、この世界の並行世界問題にまだ触れていないのですが、にもかかわらず、はっきりと、この「ナルシシズムからの脱出」が、全て語られて、それが決断によって行動にコミットすることによってしか脱出できないことがはっきり示されています。しかも、脱出の理由が、はっきりと「そこに自分と同じくらい大切な「他者」が存在するのならば、その人の苦しみをシェアするのが、世界に対する貢献だ!」と見事に喝破しています。この構造がしめされている時点で、この世界が光の精霊によるループする並行世界だ、ということが示されても、特に分岐を経験させることも、碇シンジくんのように逃げられなくなるんまで追い詰められる演出がなくとも、その解決方法が簡単に示されます。ここでは、「幻想の領域に逃避する」という90−00年代の病がまったく存在しません。並行世界のモチーフ、脱出のテーマ、虫けら(=ナルシシズムの病)という全てのテーマを扱い踏破しているにもかかわらず、ここに出てくる主人公たちは、キャラクターたちは、だれ一人、幻想におぼれる者はおらず、現実に、自分の「役割」を通してコミットして、コミットすることによって「役割」を超えるという自由意志による自由を手に入れています。
そして、彼女が、ただのメイドであった、、、、いや農奴であった少女は、「世界を背負う苦しみを引き受ける」という覚悟を持った時、「勇者」と名乗り、呼ばれるようになります。
そう、、、、だれもが、「世界を支える苦しみを引き受ける」という覚悟を持った時に、物語の主人公になるんだ!と、言っているんです。これは、抽象的いえば、「個」を自立させ(=内面の自由とナルシシズムのからの脱出)、その「個」を持つ「他者」の存在を認めて、共同で世界を成立させる苦しみを引き受ける時、、、それは、真の意味で「現実を現実として受け入れて体感している時なのだ!」といっているのです。ここで、俗にいえば、真のリア充、本当の意味での実存の充実は、こういう現実認識があって初めて、訪れるものだといっているんです。
これは、見事なまでの、、、、90−00年代の問題点をすべて答えるというステップを踏んだ上での、見事なビルドゥングスロマン(=旅を通しての自己成長物語)になっているんです!。
魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 ママレードサンド(橙乃ままれ)著 メイド姉が目指したモノ〜世界を支える責任を選ばれた人だけに押しつける卑怯な虫にはなりたくない!(4)
沢村凛さんのこの作品は、ここまで最前線の物語がかたられているわけではありません。どちらかというと、非常に古典的なノブレスオブレージの物語です。理想的な王がいた、という話だからです。けれども、とてもおもしろかったのは、このようなマクロを説明するような思索小説で、とても人間が生きているように感じたからです。だから、凄く実感を伴って読めました。まずはなんといっても、小説がとても上手なんでしょう。あと、マクロの視点に飛躍しないで、個人のミクロの視点の苦しみをじっと追い続けるのが作者の信条というかテーマなのでしょうね。デヴュー作の『リフレイン』もそうでしたし。『瞳の中の大河』もそういう渋い作品ですよね。
■自尊心マイナスがデフォルトであっても、生き抜く強さを持つには何によって支えられるのか?
後、もう一つ。薫衣(くのえ)の人生は、非常に過酷なものでした。マクロに殉じて、それ以外のすべてが失われている人生は、人間には耐えられるものではありません。このひどい人生の中で、何が彼を支えたのかといえば、二つです。
一つは、ひづちが薫衣(くのえ)の意思と行為の完全なる理解者であったこと。それにともなって、ひづちという地味だけれども希代の傑出した王が、全身全霊をかけて薫衣(くのえ)のことを「理解している」ことを示し続けたことです。よくいわれるじゃないですか、どんな過酷な仕事も、金や名誉だけではやりきれない、誰かが自分の「苦しみ」を見ていてくれる誰かがいて、認めてくれることが本当に一番重要なことなんだって。そういう意味では、非常に地味なのですが、ひづちという王は、ほんとうのほんとうに人間と「世界の理」ってやつをよくわかっている人だったんだと思う。物事を変えていくこと、、、本当の改革というのは、こういう細心な注意と普段の積み重ねでなされる、とても英雄らしくない仕事なんだろうと思う。中国の古典でも、一番難しいの守成の時期のリーダーだ、と言われます。
裕仁天皇の昭和史―平成への遺訓-そのとき、なぜそう動いたのか (Non select)
そしてもう一つは、にお(ひづちの妹)との夫婦関係でしょう。この人は、マクロをメインで書くのに、こういう人間が何によって心が動くかということに、とても繊細な理解があるんだなーとこの夫婦関係の描写を見ていて思いました。におは、最終的に薫衣(くのえ)の帰るところになっていました。あまり難しいことを考えたのではなく、ただ単に、ちゃんと真摯に向き合い、時間を重ねてきたものだけに持ちうる到達点なんだろうと思います。本当の家族、本当の夫婦になる、というのはこういうことなんだろうと思います。
人間が、過酷なことに耐えていく時に必要な「絆」というものが、どんなものをか、ここではよく表わしていて、ぐっときました。ひづちは承認を、におは感情的な包摂を代表している、と分析的に書くのはいかにもでよくないが、そういうものなんでしょう。
そう考えると、、、ひづち、におの生き残った鳳穐(ほうしゅう)一族の直系のこの二人は、不思議なくらい、人間としてよくできた安定した人でしたね。親族が軒並み復讐に燃えるルサンチマンを抱えた氏族社会バリバリなのに、、、、それは、そういう意味では、なんでこういう人間が生まれたかといえば、この国の開祖である王の作り出した合理的な国学の良心の結集点だったのかもしれない。説明する気力が尽きてきたので、細かく書かないけれども、このファンタジーの国では、殺しあっていた氏族社会を一つにまとめた王がいて、その人は宗教が嫌いだったらしく、合理的な考えと指導者の、人間としての正しい心構えを唱えた実学的な哲学を国の柱とした。その伝統の教えての体現のような教師に、ひづちも薫衣も教えられて育ったという設定なんですよね。ある意味、この理念教育の果てに登場した、ということなんでしょう。そういうロジックが、よくよく練られてつながるところも、思索小説だなーと思います。
まぁへ理屈は、どうでもいいんですが、久しぶりに素晴らしい読書でした。
2012-01-22
『ぷよます』 〜何も社会的な成長や価値にコミットされていないローカルな勝負がもたらす果実とは?・いま目の前に限りなくシリアスにコミットすることの楽しさ
そんなにぷよます好きなら、見ろよ!と、友達に怒られました。アイドルマスター。見ないとな、、、。なんでも、とてもいい出来だそうだ・・・。
さて、本題。ぷよますを語るにあたって、この物語持つメタ的な仕組み、アイドルマスターのキャラクターによって形成されている部分などを語ることは、とても興味深いのだけれども、そこは、村上裕一さんの『ゴーストの条件』的な長い説明が必要とされてしまうので、今回は、それは置いておく。
というのは、僕がこの物語で言いたいことは、もっと違うことにあって、ああ「勝負というもの」ってこういうものだよなーと、いろいろ思うところがあったので、そこを話したい。僕は、ブログのカテゴリーでベイシックスキルというものを作っていて、これって、僕の語りって、すぐ説教的になってしまうので、どうも、どう生きるべきか?ということに、僕はいろいろいいたくなってしまう、うざい人みたいなんだよね(笑)。ただ、これは、聞いてくる人にはいうけど、基本的に、自分にかしているとか、自分が信じていることの表明なんで、まぁ、うざかったら無視してくれればいいんで、と思っています。ただ、意見、というのは、「その人がどんな人か?」「何に喜びとや怒りを感じるか?」ということが、その人のキャラクターがわかっていないと、何をいっているか結構わからないことが多いんだよね。だかた、まー僕のこの垂れ流しのブログも、きっとそういうのを読んで、嫌い、とか好きとか思って、そうして読んでくれないと、ある程度複雑なことは、よく伝わらないと思うのです。
さてさて、では、ぷよます、の何に惹きつけられたか?って。この作品は、ようは、初代ぷよぷよが、アイドル事務所で盛り上がっています、というただそれだけの作品なんですよね(笑)つまり、まず大事なことは、
勝負のフィールドが、何も社会的な成長や価値にコミットされていないという、ローカルな勝負だ、という事が、僕は注目に値します。
というのは、そもそも、僕は、いい大学にいっていい会社に入ってと、スクールカースト的なものからウィンプ議論でもなんでもいいのですが、社会的な価値で選ばれないものには全く意味がない、まずはそれありきなんだ!ということを、ずっと教育されてきた段階のジュニア世代だ、ということです(笑)。だから、抜き難くこの価値観に支配されて生かす。しょうがないじゃん、そう育てられちゃったんだから。また、それで成功して生きているので、疑問の持ちようがないんですよ。また週間少年ジャンプの友情、努力、勝利も、実は背景にこういう「上昇して成功していくこと」に価値があるという高度成長的な価値観がリンクしていたことは、疑いようがありません。現代では、それが変質して、「仲間という絶対的なもの」への信仰にシフトしていると僕は思うのですが、まぁ、それは置いて置いて、そういう前提で世界を眺めている人が、このなんの役にも立たない、なんの社会的な勝利や価値をもたらさない勝負に、普通は、なんの意義も持たないはずですよね。・・・・・しかし、僕は、異常に感動したんです。これに。それは、とよだみのるさんの短編でスロットに死ぬ気でコミットしているうちに、コミットしていることそのもの、集中力が極限まで極まっていくことによって、自由を体感する、という物語がありました。これ、自由の一つの答えなんですよね。人間が、いま、ここ、という環境の奴隷であることから、集中力によって時間と空間を自己コントロールする全能感を得ることが、解放につながるというやつです。チクセントミハイ?だっけ、えっと、フローの概念ですね、これ。
でも、僕はいつも思っていたんですが、極限の集中力による、こういう解放の解脱って、ちょっと小乗仏教的というか、宗教的すぎるというか、、、あまりに、個人的にすぎる世界観だよな、といつも思っていました。個人として、このかけらを感じる様になると、集中力のコントロールということができる様になるので、非常に有用です。また、「そこ」があれば、社会がどんなに自分にとってツライところでも、頑張れるという個人のサンクチュアリを形成できます。けどさーなんか、ちょっと極端すぎるんだよなーっていつも思っていました。まぁ、日本社会でいう「道」がつくものは、というか東洋的な宇宙観でいえば、これは、ある種、個人がうる最高の解脱なんだろうと思うので、この方向性は、まあありだな、と思います。けど、、、
そう、もう少しそういう極端なのではなくて、何かにコミットすることがもう少しフルーツフルなものをもたらすものはないのかな?という様なことを、僕は考えていたんです。
が、根っからが競争社会で生きているので、どうも、もう少し社会にコミットして、集団で、、、というを考えると、どうしても、社会的になんの価値があるのか?とか、ゼロサムゲームを想定してしまうんですよね。僕は、受験戦争で勝ち抜いた人なので、自身の拠り所が、物凄く「そこ」になっています。受験に意味はない、というけど、勝ち残るために極限の努力をして、勝ち残った人にしてみると、なにを言われようが「おれはやった!」って自負があるはずですもん。その成功幻想は、社会的な有用性は現代ではかなり失われていますが(笑)でも、ペーパーワークなどの現代社会に必須な基礎スキルの鍛錬によるもおなので、そう入っても、。強いです地頭ある人の能力は、ない人とは、断然違いますよ。けど、僕のブログを読んでいる人は、ギリギリの競争の果てにある喜びと同時に、人間には、なんとういか、ゆうきまさみさんの『究極超人あーる』のような無意味に、ただそこにあることコミットする、そういう生き方もあるんじゃないの?と、僕が考えてきたことがわかると思います。でも、それって、どうやるのかが、競争のエスカレーターに乗っている自分には、よくわからなかった。僕の、自分探しの趣味(笑)は、この競争のエスカレーターを「降りないで」どうやって、競争でない価値にコミットできるか?でした。非常に贅沢な設問でした。
僕は、これを二者択一で考えていたんですね。ずっと。でも、ここ6ー7年ぐらいで、実は、この二者択一の発想は、極端に偏った自分を矯正するにはよかったのですが、実際に生きていくときに作法として、実は、こんがらがって分けられないものなんじゃないか、と思うようになってきました。特にここ最近。これ、具体的な例は、『ハンターハンター』を見てて思いついたのですが、あれって、『ドラゴンボール』のような強さのインフレがないじゃないですか。これは、勝つということに体する考え方の違いからきていますよね。ドランゴンボールは、勝つことが数字の基準でわかる、わかりやすいものでした。けど、ハンターハンターは、この世の中が組み合わせや、戦略、戦術によって、いろいろな勝ちかた負けかたがあるのだ、という前提があります。だから、物語が長く続くんですよね。また、必ずしも絶対的に強い相手が勝つとは限らない。だからこそ、世界なんですがね。僕らの世界も、そうじゃないですか。人間万事塞翁が馬。
さてはて、僕は、どうも、
社会的に無意味だけど競争にコミットして、いいかえれば主観ではなく、第三者と共有される現実にコミットして、
そのときの人間関係の展開の成熟を通して、いまそこにあること、いまここで出会った関係に絆を結ぶこと、
さらには、その競争が、単一基準での競争ではなく、競争を通して多様性が感じられ、ルールを遵守することと、ルールをメタ的な意識を持ちながら克服、改変すること、
ってことに、どうもキーがあるらしいみたいな抽象的なことを最近考えていて、それに、びたってぷよますってはまったんですよね。おお、やっとプヨますの話かよ、俺って本当、意味不明というか、前提長すぎる文章書くよなー。さて、僕が、ぷよますの背後に見ていた、勝負の凄みってのは、抽象的には上記の通りです。そして、これって、僕がいくつか掲げていた人生の設問に凄くはまるんですよね。というのは、ミキが象徴的なんだけど、このぷよます勝負で強くなるほど、芸能界という自分の本流のフィールドでのポジションも強くなっていますよね。なにをいっているかというと、ローカルな勝負でもなんでも、そこに深くコミットして結果を出した人は、勝負強さや勝負において必要な何らかのものを深く学び得て、本流においてもそのノウハウが使用できるようになる、という法則があるように僕には思うんです。なぜならば、勝負という物は、組み合わせなどの戦術でいくらでもひっくり変わるものだし、そもそも、ルール自体をメタ的に更新していくことが、そのときの勝負ではなくとも、生き残って時間軸を長く見れば、いくらでもあり得るものだからです。だから、様々なタイプのルールで、さまざまな勝ち負けの方法を理解して体感している人は、戦略・戦術の自由度が非常に幅広く柔軟に持てるようになると思うのです。
まぁ、ちなみにこの死生観、宇宙観が極まるとネイティヴ・アメリカンの哲学というか生き方になるんだよなーと思います。いま、この時を生きる。そこに宇宙のすべてがある、というやつ。
・・・・・なにがいいたいのか、いまいちわからんくなった、、、、。
ようは、ぷよます見よう!ってことがいいたいだけ。
いいたいことは、これだけだとおもっていたけど、この記事数カ月泣かせてあるんだけど、、、自分が言いたいことが分かってきた、、、、
「いま、ここ」で頑張れて結果が出せて楽しめないやつなんか、ダメなんだってことがいいたいんだろう、、、、
逃げる正しさもある、けど、にげるただしさ、「いまここでない」ところに行くことの正しさだけが喧伝されるのは、間違っていると思うのだ。どっちも等分の選択肢。
偽物語1-3話
僕は、人間としては、カレンちゃんが一番好きなんだよなー。この子、凄い男気あるよね(笑)。
そうか、、、ガハラさんのデレはこういう風なのかー。読んではいたが、、、アニメで見ると、同じものなんだけど、動きがあるだけに、違う角度から感じる。
絵にすると、来てるね(笑)。カンバルといい、『偽物語』って、おおっ、これはアニメ化するぞ!ってわかった西尾維新が、調子に乗ったのが良くわかるねー(笑)。
『ラストエグザイル‐銀翼のファム‐』13話感想 艦隊戦がかっこいー!
おおっ、今週は艦隊戦がカッコよかった。こういうなんというかバランスが取れて、世界が展開するところは、GONZOだよねー。文句ばかりですが、楽しく毎週見ています。←わかると思うけど、僕にしては、非常に珍しいことで、そういう意味ではなかなか楽しい作品なのです。
この前、LDさんと話してた時に、最近、銀翼のファム一気にみたんだよー、というと、ああーーーあれですかーと、かなり否定的な見解(苦笑)。でもわかるなー、GONZOの作品って、すべての作品が、★3つ半(=見ればそれなりに楽しい/いいかえれば見る必要性や動機はない)なんだよね。映画とかにすると最悪になるんだけど、毎週のアニメーションならば、確実に一定のクオリティを維持してくれる制作集団なんですよね。そういう意味では、常に平均値な集団なんですよね。理由は、いまはどうだかわからないけど、数年前にいくつもみたときに「これって集団政策の悪さが極端に出ている」といったことがあります。よくよくいろいろな部分でバランスが良く「練りこまれて、よく相談されている」んだけど、突き抜ける個人の狂気がまったくない。特にアニメーションは、集団政策なので、監督になどどこかに中心点の狂気がないと、格段に気の抜けたものになりやすくなる。その見事なくらいに平均値をキープするのがGONZOの特質だと思うなー。これも、まったくその分析結果と寸分たがわない印象を受ける。個人的に「このファンタジーの世界観」と村田さんの絵柄が好きなので、楽しく見れるんですけどねー。人に紹介するほどか、と言えば常にNO。
そうそう。アウグスタ!。こういう大帝国を統治する少女皇帝!って設定好きだなー。これって、やっぱひみことか巫女を追うにいただく伝統があるってのと日本は、あるような気がするなー(←すげぇうそっぽい)。『蒼海訣戰』とかのいよ陛下とか小川一水さんの『復活の地』スミル皇女を思い出す。にしても、、、属州艦隊を囮に使う、、、、なんというか、囮に使う必然性が戦略的には説明がまだないのでいいとしても、戦術的にさっぱりわからない。ただ単に殺したかったとしかおもえない使い方だけど、それにしても、戦略的になんで移民団を殺したがるかの説明があいまいで、、、こういうところは、演出が凄い下手で、世界観は練られているんだけど、統一したリーダーのもとで「どんな順序で出せば」受け手が誤解しないか?ってのが全然考えられていない。SFって設定ばかり複雑にして、この「見ているほうがどういう順番で情報を受け取るか」について、凄い鈍感になるケースが多いよなー。『フラクタル』の演出もそうだった。SFのだめな例って、同じ演出に失敗の傾向を示すよなー。
2012-01-21
アマガミSS+ plus 第3話 「桜井梨穂子 前編 ユウグレ」 感想
何も文脈関係なく、たんたんと楽しんでいますー。
っても、、、幼なじみ、、、かぁ、、、、。これって僕はわからないんだよねー。実際に、いないので。継続的に、ずっと一緒というのは、経験ないものなー。経験ないので、この属性の関係性の実感がわかない。いちおう、こんな楽しそうなものがない人生なんて!ということで、自分の子どもには、幼なじみ育成計画!というプロジェクトを発動させて、着々と経験値を積ませているが(笑)、、、しょせん自分じゃーねーもんなー。
でも、幼なじみで、子どものころから学校が一緒で、それでそのまま結婚する人って、意外にいるんだよね。大多数とは言わないけど。僕は、男女の仲って、一番怖いのは「飽き」だと思うんで、それだけ一緒にいても飽きないのか、ある種の諦めというか安定した状態に入っているのか、、よくわからんですー。でも、基本的に、幼なじみと結婚する人は、沸点というかテンションが安定している穏やかな人が多いような気がする。たぶん、そこらに転がっている新しい関係性の物語の目にあまり心が動かされな人が多いんだろうと思うなー。そういう意味では、僕とは人種というか種族が違う系統な人間なのだろう。
というか、りほっち好みじゃないのかもなー。僕は癒し系属性よりも、頭が切れる系が好きなんだよねー。あきらかに。自分の思考のスピードが早いもんで、子どものころから「お前の言っていることは意味が分かんない」といわれつづけたもんで、意味がわかる人しか友達にならないほうがいい、という結論に到達しているんだよね(笑)。だから、僕が意識しないでしゃべっていても、話にすぐ追いついてくれる人が好き、、、。とすると絢辻詞かぁ、、、。うーん、、、、(苦笑)。あれほど尻に敷かれまくるのもなー(苦笑)。
しかし、こう2話だけで話が続くと、なるほどなーと思う。物語の典型例というか、そういうののズラしや趣向を見る、というような、連歌的なニュアンスを感じてしまう。幼なじみの、なんというか安定感のあるところに告白とか付き合いを発生させるにはスパイスがやっぱりいるのねーとかとか(笑)。
2012-01-18
コロニアル・ウィリアムズバーグ (Colonial Williamsburg)に行ってきた!
病めるアメリカを観る〜The United States that gets sick is analyzed. , 空間と記憶のコントロール, Califolnia,WashingtonDC,2011
大学時代からの念願だったコロニアルウィリアムズバーグに行って来た。くわしくは、ここのサイトをもてくれればいい。
ウィリアムズバーグのサイト
僕がここに執心した理由は、なんちゃってアメリカ・ウッオチャーとしては、アメリカの空間管理手法の変遷を知りたいと思っているからです。
サイトを見てみればわかるとおり、独立以前のアメリカの首都、大英帝国の辺境植民地のバージニア州の一都市を、18世紀のそのままに再現し、それだけでなく、そこに住む人々の日常も、テーマパークのイベントとして毎日再現しているという凝りようです。
どうかんがえても、アメリカのある種特殊な性癖を凝縮したようなオリジナルのものに見えませんか?。実際に、どのように運営されているか、ずっと見てもたかったんです。
また大学時代に授業で読み込んだ「ミニットマンの世界」という北部のコンコードの街の歴史書や独立革命のエピソードから、いわゆる歴史好きが遺跡名所を巡るみたいなもので、実際い、その時の建物は、食べ物は、気候は、服装は、そういう具体的なものが、ものが見て見たかったんです。ワシントンのエピソードなどは、アメリカの神話でありポピュラーな物語なので、これがわかると、いっきに世界が広がります。物語好きとしては、このへんの、より深く物語を楽しむために、教養を深めより多く広く現実を体感してフィードバックさせる、という修行?(笑)は、スパイラルのプラス効果があるのでやめられません。現実と文字情報の交互のフィードバックは、時間と空間を超え、より深い認識をもたらすと思いますよ。まぁ当たり前のことですが。意識するとしないとでは、大きく違う。
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せっかくなので、見るべき文脈を二つ紹介しておきます。
1)アメリカの空間管理手法の伝統
アメリカには、空間を管理して作り込んでしまうという伝統があります。色濃く出ている例は、なんといっても国立公園や公園の設計、建設、維持、管理です。世界で最も、国立公園制度が、発達している国なのです、アメリカは。シエラクラブなどの例もいいのですが、なんといっても、一番わかりやすいのは、ニューヨークのセントラルパークでしょう。あんな都心のど真ん中に、200年以上も前の自然が、そのままの形で残されています。けどね、これって、考えて見ると物凄くおかしなことなんです。だって、その周りが大都市になっても、そのままの自然の形をずっと残し続けるというのは、ある空間を切り取って、その周りの環境がどれだけ変化しても、同じ状態に「管理維持し続ける」という偏執狂的な意識がないとできないことだからです。
よくいわれるのは、イギリスやフランスの庭園設計の伝統を引き継いでいる、と言われます。イギリスの田舎の貴族の屋敷や公開されている公園などに行ったことがある人は、その徹底した人工的な造り込みに驚嘆すると思います。いい例が、メイズ(迷路)ですね。生垣で空間を囲って、その中に入り込んだ人間の行動を、誘導、管理するという意識の表れです。アメリカでも、トウモロコシ畑にいくと、よくコーンメイズがありますよね。あの伝統です。日本の庭園の伝統の夜に、あるものを生かしながら「見たて」をするのとまったく異なる文化です。このウィリアムズバーグの総督官邸の裏の庭も、感動するくらいのイギリス式庭園で、お決まりのようにメイズもありました。ちなみい、ガバナーパレスを説明してくれた解説員の人は、ここのメイドになりきったたぶん大学生ぐらいの女性で、テンション高くてノリノリで、おお、まさに当時のメイドだ!、って感じで、
ちなみに、この空間を設計し、管理し、作り込み、そしてそこの中に入った人間の経験や視点を誘導、管理するというノウハウが、アメリカでは、テーマパークの運営、特に、ディズニーランドに結実して行くことになった、と僕は仮説を立てています。
2)アメリカとは何か?ーアメリカ人とは誰のことか?
もう一つの視点は、アメリカは、非常にミクロまで詳細に調べ抜いた歴史というよりも生活様式そのものを再現するのは情熱に溢れています。
これは、アメリカ歴史博物館のところでも書いたのですが、アメリカについて勉強する時の、最初の「見方」というか「視点」の一つに、「アメリカ人とは誰のことをいうのか?」というものがあります。これは、アメリカ社会でよく問われる強い衝動のことで、社会的にもそうですが、そもそも、そこにいる個人が強くこれに、必ず悩むようになっています。考えれば、単純ですよね?。アメリカには、日系アメリカ人、イタリア系アメリカ人、アフリカンアメリカンなんでもいいのでしが、絶対頭に〜系という風に、つきます。簡単な話、移民によって形成されている人工的な国家だからです。ここで、ネイティヴアメリカンの話は、持ち出さないでください。話がややこしくなるので。話し本質は、これによって変化しないしね。さて移民国家であるので、自分が、何者であるか?というのが、三代もすぎると、わけがからなくなってくるんですよ。実際、タイガーウッズとかフセイン・オバマ大統領なんかは、典型的で、もう世界中の人種が混ざりすぎて、俺って何者?って感じになるんですよ。タイガーウッズなんか、タイ、オランダ、アフリカとかもう全人種混ざっています。彼は自分を、カブリネイィジアンとか呼んでいましたね。なので、どうしても、意識的に、自覚的に、自分のルーツはなんなのか、ということを意識して調べて、自己確立しないと、自分が何者であるか、わけがからなくなるんですよ。コミュニティの所属と自己確立(アイデンティティ)は、そもそも、自分が、何ものかと、自分で定義しないといけないですが、それが、非常にわかりにくいのですよ。
僕は、こうした動機が、どうも、自己のルーツの確認という意識に収斂して、アメリカ社会の極端な、過去の生活様式やルーツの再確認、再現志向を生み出しているのではないかと仮説を立てています。
また、アメリカは、メモリアルを作るのが大好きな国民で、ワシントンDCでも思いましたが、ワシントンメモリアル、リンカーンメモリアルとか、ほんとうにこつこつあった出来事をメモリアルとして形に残そうとします。死を美化しやすい国民性でもあると思うんですが、あかなり度が超えていると思い、すごい偏執狂的です。もちろん、国民国家形成の常套手段でもあるので、ここは、必ずしもアメリカ特有とは思えませんがね。ちなみに、ロサンゼルスのリトルトウキョウは、エリソン・オニズカストリートというのがあって、オニズカ大佐の像が置いてあります。オニズカ大佐は、チャレンジャーの事故でなくなったアメリカの宇宙飛行士ですね。
さてさて、こういう文脈から、僕は、ウィリアムズバーグという歴史保存のテーマパークをぜひ一度は見て見たいという風に思っていました。
で、結果の感想ですが、いやー超面白かったですよ。もう一日ぐらい泊まってゆっくりしたかったぐらいです。
まずはキャピトル、議事堂から見たんですが、意外に小さいと思ったのですが、中は重厚でした。二回火事で消失しているんですが、1930年に初期の建築で立て直したものが、現在のものだそうです。入り口にいくと、ツアーガイドさんが、もちろん当時のままの服装で待っていて、この建物の説明ツアーを当時の人になりきった感じで説明してくれます。たぶんボランティアに近いものらしいので、以下にも好きでたまらないぜ歴史!みたいなノリで、非常にいい。ディズニーランドやユニバーサルスタジオのツアーに参加するイメージを思い浮かべてくれればいいです。
時間によっては右側の市民議会で、独立革命時代の議論を再現しています。ここでは、アメリカ独立宣言に先駆けて、ヴァージニアの大英帝国から独立が宣言されています。事実上アメリカで最も裕福で指導的な立場にあった、ここヴァージニア議会が、アメリカ独立を先導したんですね。ちなみに、アメリカの国軍は、ほぼここのヴァージニアのミリシアなどを中核とした軍隊が、そのままなりました。ちなみに、ワシントンは、ヴァージニアの軍人でした。僕の時のツアーガイドさんは、議事堂で独立宣言を書くに当たって、私有財産の絶対と、人が平等であるという部分で、黒人は、財産なのか?それとも人なのか?と論争が起きたことを、当時のマジソンらが、これこれこういうことをいった、という風に再現しながら、説明してくれました。超面白い。ちなみに、子供には不人気で、そりゃーすげぇむずかしいはなしですが、僕には、この話が一番理解しやすかった。そもそも知っているエピソードばかりなので。
ちなみに、総督(ガバナー)の席があって、その周りに議員たちの席があるのですが、この規模と部屋の機能とか、ガイドさんが再現してくれる当時の会話聞いていると、なるほどなるほど、ああ、この大帝国の辺境の植民地は、はっきりいって広大な自治権があったんだな、というのがよくわかりました。ようは、あまりにイギリスから遠すぎて、管理し切れていなかったんだろうと思います。だから、地元の人々が、自己でいろいろなものを整備して、管理、維持しているってのが、よくよくわかりました。はっきりいって、数千人ぐらいの小さな街ですし、官僚機構も軍隊さえも!ないんだから、地元の自治以外で来ようはずもない。いや、見て見ると一発ですよ。ああ、こりゃー課税なんかしたら、ぶちぎれて、独立だぁ!と叫ぶのわかるわ、、、って。ちなみに、議事堂の壁には、当時のイギリスのキングジョージと奥さんが飾られており、至る所に英国国旗で、おお、植民地なんだなーと感心しました。ここが、大英帝国の辺境都市であるのが、よくわかりました。
それぞれの建物には、当時の服をきた解説員がいて、当時そこの建物でどんな生活をしていたかなどを解説してくれる。うーん、しびれるくらいミクロ。これ、小説とか歴史を書く人には、凄い想像力のアシストをしてくれると思う。建物も道具も服装も、当時そのままに再現するかオリジナルが残っているのだから。
特に、僕が興味深かったのは、武器庫。18世紀のイギリス軍やミリシア、ヴァージニア州軍の武装がどういう状態だったのか、どんな武器を使っていたのかがわかる。基本的に、大英帝国の軍隊は、ほとんど駐在しておらず、常備軍は存在しない状態。では、どうやって現地の治安維持やインディアンや他のライバル帝国であるスペインやフランス帝国との戦いをしていたかというと、ミリシアという義勇兵と言うか地元の、おっさんたちが、年に何回か訓練をして、自分で武器を保管して、なにかあれば馳せ参じるという仕組みになっていたらしい。ようは、国民皆兵に近い状態で、源頼朝の下での鎌倉幕府の御恩と奉公みたいなものだと思えばいい。でも、逆に言うと、治安維持や対外戦争も、アメリカ側から言うと、自己防衛しているわけだから、イギリスに文句言われる筋合いがないと思うのは、よくわかる。逆に言うと、遊軍的な少数の軍隊で、大英帝国という大きな領土を効率よく支配している仕組みだったんだろう。これで、キングジョージが、極端な課税をかけなければ、うまくまわっていたのかもしれない。ボストンティーパーティの代表なければ課税なし、というのは、こういったマクロ構造があって、イギリス軍の規模や海外派遣能力では、北米植民地を抑えきれないだろうという目算があったのだろう。また民衆も、自治をして、自己防衛をしているんだから、そこはほぼ独立国家に近いわけで、言われのない中央集権権力にいらっとくるのは、よく理解できる。アメリカを学ぶ時に、非常に重要な理解のポイントは、この国が、一見、フェデラリストの伝統と強い大統領権限によって、中央集権的な構造に見えてしまいやすいが、まったくそうではないということ。学問の世界では、分権的と呼ばれるのですが、ようは、自分たちのことは自分たちで決めて自分たちは自分たちで守る、ということです。前にもいいましたが、ギリシア的な常識として、コミュニティーを守ること、戦争に参加することが、市民の定義であり義務なんですが、それをやっているのに、国政への参加資格がないというのは、アングロサクソンの伝統でもギリシアローマン文明の伝統でも、どちらにせよ、ありえないんですよ。より北部のピルグリムファーザーは、もちろん神聖政治ですから、つまりは新興宗教団体が国を脱出して自分たちのコミュニティーを作り上げたわけですから世俗の権力を嫌いますし、ヴァージニアのように最も規模が大きく富める植民地が自立的な伝統があるとすると、基本的に大陸的な土地の広大さを反映して自分たちのことは自分たちで決めるというか、もっといってしまえ、もう好き勝手に生きる、という伝統があるのですね。コミュニティーごとに。
学問の世界では、常識なのですが、日本社会は、徳川幕府時代から大日本帝国時代も含めて、400ー500年近く強烈な中央集権国家であって、この「分権的である」ということが、マクロ的に概念的に理解しにくいのです。この概念を実感して理解するというのは、タウンミーティングなどの民会やグラスルーツの政治的影響の伝統がない僕ら日本人にはものすごく難しい。
これは、アメリカを理解する時のキーポイントの一つなので、よく覚えておくと実践的だと思いますよ。
集権論の伝統は、これがわからないと、さっぱり意味不明ですから。この概念に不案内であれば、たくさんのアメリカの映画や小説、政治的な動向が、意味不明になってしまいます。それを、連邦政府的な中央集権の仕組みだけで理解すると、とても理解が歪みます。
ちなみに、日本の戦国時代は、近現代からすると理解できないくらい分権的なので、この概念が理解できれば、同時に分権的なものがどういうものなのか、が逆輸入的に理解することができる、とも考えています。とはいえ、さらっと表でみるとわからないものは、構造的に分解して分析的に理解しないと、他の文化圏、他の構造の中にいる人間には、まったく理解できないものです。その理解の難しさを意識しておくと、またその体感的に難しいことの理解の努力をしていると、見えないものが見えるようにり、世界の複雑さの多様性の面白さがわかるようになります。マクロ的な概念や抽象的な概念は、「わかった」と思えるのが非常に難しいのです。世界を体感するのは、難しいという、ある種の謙虚さがない人間は、いつまでも狭いパースペクティブの中で生きて行くことになってしまいます。さてさて、武器庫の話に戻ります。ここで、当時の主要な武器であったマスケット銃を見れました。おお、まおゆうだ!とか、「ラストサムライ」の時代とか、西部劇の時代は、これだったんだーとしきりに感心。ちなみに、当時の命中率は、ぜんぜんダメで、戦術としては、400ー500人が並ばないと、意味をなさないもので、そういう意味では、シビルウォー(南北戦争)の時には、命中率が80-90%となり死者の数が跳ね上がったと行っていました。そういう意味では、まだまだ、ミリシアなどの当時の地元の自警団レベルの治安組織や軍隊と、大英帝国が遊軍的に派遣している舞台との、練度の差が、それほど大きくならないという意味でもあったんだな、と理解できました。特に、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の時代以降から明治維新付近まで、日本の軍事テクノロジーや戦術理論の発展は、全て止まってしまうので、この辺りの17-18世紀の軍事力の行使というもの、武器のレベル、被害の大きさなどが、どういったものなのか?というのが、穴になっていたので、これを見れたのは、非常に興味深かった。物語的にも面白いし、ワシントンの逸話から独立革命、南北戦争までの歴史は、自分でもアメリカウッチャーとしてそれなりに全体像の知識もあることから、とっかかりがあるので、頑張って勉強してみるかな、と思う今日このごろ。老後の歴史遺跡巡り旅のねた仕込みとして(笑)。それに、物語好きとしても、この辺の歴史は、日本人には不案内ということもあり、ここを理解できると、アメリカの物語や文化の理解が段違いになるし、非常に秀逸なアンテナになると思うんですよ。一般的な日本人が知らないというのは。
・・・・・それにしても、生きててよかったーと思います。こんなところに旅できるんだもん。知識を持って、こういう異郷に行くと、まるでファンタジーの異世界に転生したような、不思議なドキドキがあります。旅って素晴らしいですね。
2012-01-14
『星を追う子供』 新海誠監督
評価:★★★3つ
(僕的主観:★★☆2つ半)
意外、、、つまらなかった。前作まで、コンスタントに非常に面白い作品だったのに。。。宮崎駿が監督をしないで失敗したジブリ作品のような印象。へんにファミリー層向けというか、層の拡大を狙ったのが、裏目に出ているような感じ。全体を見て何がやりたかったかといえば、これは『シュナの旅』をやりたかったんじゃないかな、と思う。そんな印象を受ける。けど、それをするならもっと、マイナー方向に攻めるべきだったし、妙に大人しくなっているので、死という喪失感を抱えたときの心象風景という宗教的な領域に踏み込みにくくなっている。イアザナミ、イザナギだっけ?日本の古事記神話を通して、死の喪失感の納得と再生を語るというテーマは、非常によくあるもので、昔少女漫画の短編でたくさん見た覚えがある。観念的に走ると、このテーマって出てきやすいんだと思う。けど、テーマは素晴らしいんだけど、これを具体的なイメージや映像にするのが凄く難しくて、けっきょく、何それ?てきな、普通の話になってしまいがちなんだよね。この系統の話でもっとも、成功したのって、たぶん宮崎駿の『シュナの旅』なんだと思う。チベットの神話を、モチーフにしたやつだと思う。これは、映像化されなかったのが(マイナーになるからやめたんだろうと思う)本当に惜しいと思う出来だった。
『未来日記』 これってそういうオチだったんだ、、、
battle royaleものの果ては?, 並行世界の物語の系譜
評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★★3つ)
途中まで読んでほったらかしにしてあったんですが、、、レンタルで借りて読んだ。これって、バトルロワイヤルものの例の系列に入るものだったんですね。マドカマギカと並んでLDさんがいつも話すので、不思議に思っていたんですが、そういうことだったのかーと納得。個人的には、なぜだか、ぜんぜん入れない物語だったなー。良い出来だし、素晴らしい漫画だったけど。
『ラストエグザイル‐銀翼のファム‐』12話感想
この物語ってのは、ファムの、グランレースという自由に空を飛ぶ(=戦争のためではなくて、楽しみのために)ことへの憧れが基軸を占めるので、まぁちょっと、動機がいまいち弱いとは思うけど、天真爛漫に空が飛ぶの好きっ!って叫ぶファムはかわいいのー。作品の質がどうのこうのではなくて、やっぱり凄く感情移入というか共感するのは、僕も空飛ぶのが大好きっ!という気持ちがあるからだろうなー。ヴアンシップというこの乗り物が、いったい何の力学で空を飛ぶのは不明だけれども(笑)、こういう数人乗りのバイクに近いような空飛ぶ乗り物があったらなーと、心底思います。宮崎駿でも、ヒックとドラゴンでも、なんでもいいのですが、やっぱり飛翔する感覚というのは、素晴らしい。SFの世界ってのは、風景というか空間そのものがセンスオブワンダーなんですが、そういう世界の中で、三次元を自由自在に自分の意思で飛べたらな、、、と本当に思いますねー。こういう物語は、理屈抜きに好きだなー。こういう異世界って、たぶん隣の国家の情報ってなんもないんだろうと思うんだけど、18−19世紀の地球もそうだけど、まだ世界がセンスオブワンダーに満ちていた時代に生まれたってのは、大変そうではあるけど、うらやましい気がするなー。100−200年前の海外旅行って、こういう感じだったんかなーとかとか。
ディアンのキャラがいいなー。先日、風邪でぶっ倒れたおかげで(笑)、いっきに11話まで見れたので、楽しく視聴できる。あんな風にまとまった時間なかなかとれねーからなー。12話は、まさかの温泉回。鎖国された国のディアンちゃんの回でした。というか、みんなロシア語なんだけど、発音めちゃうまくない?って気がするんですが、、、。
ふむ、、、たぶん、ジゼが一番好きだなー。
2012-01-13
一話見逃したー。
一話見逃したけど、さっき2話みてましたー。
『ラストエグザイル銀翼のファム』もそうだけど、今季は、意外にアニメが楽しめそうな気がする。『傷物語』もあるし。あーあと、終わっちゃったけど『アイドルマスター』もみないとなー。ああ、日本手いいなー(笑)。あと、なにがあるかな、、、、。
それにしても、なにげに、アマガミSSって、僕はまっているんだなー。レスター伯さんありがとう!って感じ。なにげに、過去の記事見たら、覚えてなかったけど、かなりの記事数かいているんだね、、、おれ(苦笑)。
でもまー綾辻さんって、、、、あまりに確実に尻にひかれそうで、僕はうーん、、、(苦笑)。でも、こういう仮面をかぶったこの、素顔を見るってのは、男の夢の一つかもしれないけどねー。
2012-01-11
平清盛の1話を見ました
第一話見た。清盛には、法王の子供という説があるんですね。びっくりした。
最初は、プロローグみたいなもので、清盛の動機を説明するのに、出生の秘密を設定して、そこから逆算するという設計なので、設計が見えすぎると、まあ、、、物語というよりは設定を見ている気になって、いまいち。
しかし、壇ノ浦で平家一門を滅ぼした報告を受ける頼朝が、
清盛がなければ、今の武士はなかったのだ!
と、叫ぶシーンは、いろいろ妄想をかき立ててくれて、凄くよかった。何度もいうけど、僕にとっての、あるべき姿、の源平合戦は、高河ゆんさんの「源氏」なんですよねー。ボーイズラブですけど(苦笑)。めちゃくちゃすぎる話でしたが、僕の中で「あるべき源頼朝像」が確固として確立した話なんですよねー。ぜったい、ああいう性格だよ、頼朝!って今でも思うもん。清盛も。
このセリフは、まさにこの大河ドラマの物語の核心を描くことになるんだと思うんだけど、この第一話からすると、大和朝廷の貴族の犬であって、独自の自立した立場がなかった武士という存在を、自立した存在にした、という物語にするようなんだよね。でも、では、今のこの時点での武士ってなんなんだ?というのが、この描写ではよくわからないなー。そういう意味では、この重要な部分に対する認識のなさは、まさに日本の歴史学な気がするなー。それとお、わかっているけど、バッサリ切り落としたのか、、、?。わからんなー。あと、平清盛の話描くのならば、最近思うのだけれども、日本の歴史の中には、海のネットワークというか、海外に目を向ける人と、国内の土地と人間関係に目を向ける人の争いのダイナミズムがあるみたいで、この勢力争いというか、違いをメインに描いて見せてほしいなーとおもう。前回の、センゴク外伝の桶狭間戦記が死ぬほどおもしろかったのは、織田信長が海運(貿易)と金融のネットワークを背景に力を持っていた人で、それに対抗するというか立ちはだかるのが土地を背景にした大名である今川義元という対立構造が、面白かったからだ。
よく、日本の海軍と陸軍の違いも同じような対立構造で語られることもあるけど、そういうものと同じことなのかな、、、、。というのはね、源頼朝を見ているとわかってきたんだけど、この人って、ひたすら、日本国内の血族の織り成す関係と、その根幹である土地と相続について焦点を合わせているんだよね。けど、多分そのライバルであった平清盛は、その逆のような気がするんだよね。この人、海運、貿易など外を見ていた人にような気がする。日本の歴史をずっと見ていると、この国内と海外のどちらをメインとしていているかで、目指すべき国家像が全然違うものになってしまうような気がするんだ。ヨーロッパでいうと、重農主義者と国際貿易をメインとする派閥との対立に似ているものなのかな、、、。この辺は、イメージはいろいろ聞いたことがあるので、何かおすすめの本でもあれば、誰か教えてください。
『ラストエグザイル-銀翼のファム-』 千明孝一監督 1-11話の感想
評価:★★★☆3つ半
(僕的主観:★★★☆3つ半)
最新話11話かな?までを見たのですが、好きだなー。なによりも、村田蓮爾さんのキャラデザ、すげー好きなんだよなー。これ、たぶん穴という極端な穴を感じないし、一気に11話まで見れたくらいだから、きっと最後まで見ると思う。そういう意味では、いい出来なんだろうと思う。にしても空賊の世界と群雄割拠の時代。凄く凄く良くできている、、、、けど、こういう風にできすぎているSFは、『フラクタル』も『NO6』もそうだったんだけど、どうしても、小さくまとまってしまうのは、なぜだろう。がつぅぅぅぅん!!と思うものにならないんだよね。精緻にロジックというか、設定が組まれているが故に、
人間関係がうまく描ききれない
設定が複雑が故に論理性が優先されて意外に常識的なオチになってしまう
なかなぁ、、、、。必ずこの二点は、SFアニメを作る時は、どうもいつもついて回る問題みたい。アニメって共同作業だから、監督やクリエイターがもつ狂気が、どんどん薄れて、中途半端というか当たり障りのないものになりやすい。特に、SF作品は設定が細かくたくさんあるが故に、コアの狂気が薄れて行ってしまうのかもな、、、。この作品も、メッチャ好みだけど、、、、好みで、出だしがいいが故に、思ってしまうよなー。ただ、この作品のコアは、たぶん空を飛ぶ楽しささなんで、それを忘れなければ、いい秀作ができるとはおもうけどね。でも、秀作では、秀作なんだよなー。まぁ、、、作りてとして、なにを目的とするかにはゆるんだけどなー。こう考えると、今から振り返ると、非常に常識的なSFである『不思議の海のナディア』とか、は、信じられないくらい面白かったんだよな、、、。あれも構造的にいえば凡百なSFなんだよな、、、。それが、なぜあそこまでおもしろかったのか、、、、。監督の才能としか言いようがねえなー。
ちなみに、人間関係、特にミクロの関係が丁寧でないな、と思うのは、たとえば、ジゼとファムが仲たがいする話なんかの演出がそう。あれって、ジゼが自分の価値は「頭が良いこと」だと思っていたんだけど、敵が裏をかいてくることを読み切れなくて自分が失敗したと思いこんでいたり、一度も成功したことが泣い敵艦のエンジンをミリアが成功させたことで、自分の居場所がなくなったと感じたことで苛立ってしまったんだけど、、、彼女がファムにとって狭い意味では価値がない(とまではいわないけど・・・)のはそれらの描写から事実であって、そこが全然解決しないのに、なんとなくうやむやにファムのそばにいることという風に話が収束してしまうのは、?って言う感じだった。少なくとも、自分が「役になっている!」という部分が、情緒的な部分はではなく、もっと物理的、功利的な面でなければ、居場所があるという「自信」がジゼには訪れないはずだと思うんだよなー。少なくともあのテーマを掘り起こしたら、一話では簡単に話が納得までいかないのにさー。。。。言いたいことはわからないでもないけれども、なんというか、ああー話を進めるためだけに早めにジゼの話が展開させられたなーと感じてしまった。なんというか、マクロの大きな謎解きや戦争、政治の話が優先するんで、この系統のSFは、そこがおざなりになって情緒的な感情移入がしにくくなってしまう。マクロを描きたい人にありがちな、ようはミクロの演出が弱くなってしまう、、、、。なんというのだろうなーSFを描くときに、どうしても、背後のテーマ自体が焦点にあって、キャラクターが記号になってしまいやすいんだよね。
とはいえ、11話の過去回想回は、とてもよかったー。なんというか、、、そうか、皇帝の女の子がアウグスタと呼ばれているところのイメージとも重なるんだけれども、こういう空想この古代世界って、ローマ帝国が多分イメージの根底にあるんだろうなーと思う。多民族国家の大帝国。ちなみに、この回想回僕は、魔法先生ネギまの空中の都市を凄い思い出させるなー。

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