物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2014-08-30

コードギアス反逆のルルーシュを見直しました!

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最近忙しすぎて、記事が全く書けません。とはいえ、アメリカは今3連休なので、9/1はlabor dayですので、さすがに少し余裕がある。昨日、こつこつ毎日1-2話ぐらいで、ストレスの緩和のために見続けた『Code Geass: Lelouch of the Rebellion』のR2を見終わりました。いやーえがった。僕、反逆のルルーシュ、物凄い大ファンなんですよ。リアルタイムの時も、たくさん記事を書いていますよね。なので、この胸にとても残っている。文脈的に意味があっただけではなく、たぶん物語としてととても好きなんだろうと思います、こうして見直すということは。


古い作品って、見るのを躊躇するんですよね。ましてどんなに名作でも一度見たものは。これだけまだ見ていないものが溢れていると、なんだか時間の無駄なような気がして、時間は限られているので、、、、だけど、だからこそ、贅沢って感じがします。また年齢が変わったり、経験が変わってみると、見方も凄く変わるので、こういうのいいですね。記事こそ書く余裕はないですが、精神の平衡を保つためにも、毎日Kindleで漫画を大人買いしたものを見続けていたりします。ああ、こういうのがこれだけ容易に手に入るって、今の世界は素晴らしいですね。ほんとうに。


これ、一気に通してみると、いろいろなことを思いました。


一つには、R1というか、最初のシリーズが圧倒的に名作で出来がいいってこと。それは、日本が植民地となりエリア11という支配されているところでのレジスタンスという、非常に物語のテーマが絞られていて、そこを丁寧に描いているからだろうと思う。このテーマは、やっぱりおもしろいんですよね。ニッポン・バンザイという叫びは、戦前のイメージが強くて、あまりイメージがよくないのですが、レジスタンスで描かれたり、イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』の栗林中将のバンザイのように、意味や文脈が変わって描かれると、センスオブワンダーがあって、凄い感動します。レジスタンスものでは、僕はアメリカのドラマで『V(ビジター)』というのがあって、あれが好きだったなー。

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また、僕は全作品中圧倒的に、枢木スザクが大好きなのですが、、、、大好きというのとは違うかなぁ、、、現代日本人のヒーローを描くと、これって凄いモデル的なヒーローだなって思うんですよ。だって、物凄い矛盾溢れている。命を守ることや、すべてを守ることに固執するが故に(絶対平和主義的な)、自分が壊れていく様や、それ程の平和主義者なくせに、軍人になって凄い武力を持っているという矛盾。彼の価値は純粋に、軍事力としての部分が多き。。。存在そのものが武力なんです。結果ではなく、手段に優先順位を置く極端さ。その矜持と自覚。そしてなによりも「それならば自分はこの世界に生きる必要性を感じません」と言い切る、手段に殉じる強烈な殉教精神。そして、その殉教精神がただの自殺や逃げに収まり切れない何か大いなるものにつながっている王の器を感じさせるところ、、、まぁ、LDさんのスザク解釈そのままですが、R1では、そのスザクのキャラクター性が、十全に表現されており、R1はまさにスザクが主人公といってもおかしくない、レジスタンス・ニッポンの象徴のような存在でした。この、矛盾溢れる、平和を志向するのに暴力的存在であったり(本人は矛盾で凄い苦しむし、悲しいんだけど、ものすごく強かったりする)、手段に殉じようとする忠義的な、合理性では測れないような極端な思い込み(=外からはミステリアスに見えるところ)って、現代日本をすごい感じさせる気がします。タイプムーンの衛宮士郎なんかもこの造形に近いと思うんです。この全てを救おうとして、自分が壊れていくことや、結果を重視する合理精神を超えて、手段へのこだわりを見せる、、、ものすごく甘くバカなんだけれども、それが貫かれると一種のすがすがしさと感心をもたらすんですよね。すげぇ、不可解な人なんだけど。これって、現代日本だよなーて思うんですよ。


CLAMPさんのキャラクターデザインもいいんだろうなー。CLAMP的には、スザクのデザインが、明らかに主人公格ですよね(笑)。僕は、スザクが、物凄い好きです。ちなみに、CLAMPさんも、ちょうちょう好きです!!!

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もう一つは、R2の、、、なんというのだろう、何人かの友人は、R2って出来が悪いっていうんですよね。話がおとぎ話の様に極端だし、話が飛びすぎるって。僕は多分、当時の評価も同じこと書いているんですが、R2絶賛しているんですよね。それは、この作品が、R1で広げすぎた風呂敷を、ちゃんと1)物語的に収束さえようと意思しているところ。2)またその時点でありうる物語的(SF的?)文脈のすべてを書き切るという荒業に出ているところです。


何度も書いているんですが、商業作家というか、作家の一番重要な部分の一つは、広げた風呂敷をどう収束させるか?というところにあります。アイディアだけで広げるのはできるんですが、それを収束させるのには技術と根気と力量が必要です。そして、完結しないと、傑作としてアーカイブに残りません。相田裕の『ガンスリンガーガール』を僕が絶賛する理由はそこに有ります。そして、作家の人に聞くと、この風呂敷を収束させるさ行ってつらく険しくしんどいってみんな言うんですよね。少なくとも僕が知る限りでは。それは、もう結論が決まっているところへ落とし込んでいく「作業」になるからだろうと思います。これが、ちゃんとできているってのは、僕は、R2は素晴らしいと思うのです。仮にそのために、24話で話が描ききれないボリュームになって、演出の丁寧さが失われたとしても、僕はギリギリ破綻しないラインで保たれている、そのぎりぎり感が素晴らしいと思いました。

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コードギアスが、演出の丁寧さ、、、言い換えれば各エピソードの積み上げを、ショートカットしたことには、僕は意味があると思っています。けっして尺が足りないからだけではなく、たとえば100万のキセキのエピソードでは、特区ニッポンからレジスタンス分子を分離するために、確かにあの話は政治的な可能性としては、物凄い論理的にわかるものです。というか、あれしかないでしょう。けど、ユーフェミアが構想したナンバーズとの共存政策は、世界政府への一歩なので、あれを超えて物語を進めようと思うと、凄まじい積み上げが、、、それこそ、24話まるまる描く話になってしまいます。けれども、それでは、R1と同じで、ニッポンという一国家や民族のレジスタンスの物語になってしまいます。それでは、もうパターンなんですよ。それを超えようと思うって、尺を残そうとすると、百万のキセキで一気に話を進めなくてはいけない。


その後、超合衆国で、ニッポンと同じような状況の各国を連邦的に同盟を結ぶ方法、軍事力を一元的にもたせる(これかわぐちかいじさんの『沈黙の艦隊』でやってましたねー)こと、これって、ようは世界政府の樹立の物語なんですよね。ガンダム・サーガで僕がいつも話しているテーマにつながっていく。


じゃあ、ナショナリズム(=ニッポンのレジスタンスの物語)から、地球連邦政府に飛躍するために、論理的に物語の世界ではどういう分岐があるかといえば、5つ(いまぱっと思いついたので整理しきれていないですが)あるんですね。その5つをすべてちゃんとわかるように描いているんですね。これって、真のグローバリズムが成立して、世界というつ政府が成立するにはどうすればいいのか?という、ガンダムサーガの世界と現代の僕らの世界の間にある問題点なんですね。次の世界政府に行くためには、逆に言うと以下のような問題点と解決方法がある。


1)シャルル・ジ・ブリタニアによる力による1国による世界制圧(ネオリベラリズムですね!)


2)ゼロが志向した超合衆国:各国政府が軍事を放棄して同盟を結ぶことによる世界政府の樹立・純粋軍事力の確立をどうするかの問題(グローバリズムの追及ですね)


3)集合無意識に人が統合されることによる戦争のない世界の成立(SFの最大テーマである全体と個の結論ですね!)


4)シュナイゼルによるダモクレスによるシステム(=核ミサイルのような戦略殲滅兵器)による恐怖による平和の確立


5)そして、世界の憎しみを一人の人格に集中させることによる、王自らが犠牲になることによる人類の統合ですね。

 

それぞれに、既に過去の先例があります。2)の純粋軍事力って、かわぐちかいじさんの『沈黙の艦隊』ですね。これは、4)のダモクレスのシステムと同じものでもあります。戦略原潜で、世界中に核ミサイルによる恐怖で戦争をなくすことです。これは、現在まで続く米ソの戦略とほぼ同じですね。お互いが同じだけの戦略核兵器を持ってバランスすれば、世界は平和になるという考え方です。これ、現在の人類の基礎構造となっている考え方です。そして事実、この危ない状況下で、人類はまだ生きている。

沈黙の艦隊(1) (モーニングKC (192))


3)は、少し角度が違うのですが、SFの全体と個という究極のテーマの一つで、これがもっとも有名なのは、アーサ−・C・クラークの『幼年期の終わり』と庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画ですね。この辺の全体と個のテーマをうまく説明している評論では、中島梓さんの『道化師と神』がおすすめです。同時に栗本薫さんの小説『レダ』と『メディア9』の3作を読むと、完璧にこのディストピアモノやSF古典テーマの骨格が完璧に理解できるようになると思います。この3作は手に入れるのが難しいかもしれないですが、現在でも色褪せない読みやすさと面白さ、そして、SF古典の中心テーマを非常によく理解している人が、その自覚をベースに描いた作品であるので、僕はペトロニウスの名にかけて傑作であり読む価値があると思います。

幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫) 新世紀エヴァンゲリオン TV版 プラチナ コンプリート DVD-BOX (全26話+ディレクターズカット版4話, 660分) [DVD] [Import] レダ1 (ハヤカワ文庫JA) 

あっちなみに、3)はCの世界のこと言っていて、これは、弱者であった時の記憶を色濃く持った為政者がよくこの発想にたどり着きます。ようは、ミクロで人間が信じられないことと、マクロを体験した時の人類の欲望のありかたの醜さ、どうにもならなさが重なって、人類なんかなくなってしまえ!!!!(デビルマンですね)と思いつくか、人間に、自分と他者がいるという構造的問題点があるからこそ、こういう争いが起きるのだ!!!という事実から、ならば人類の自己と他者という壁をなくしてしまえば、お互いがわかりあって、戦争や争いはなくなる!と考えることですね。とても論理的ではあります(苦笑)。


改訂版デビルマン(4) <完> (KCデラックス )

このテーマはいろいろありますが、人類補完機構シリーズを描いたアメリカの作家のコードウェイナー・スミス(Cordwainer Smith)の『ノーストリリア』(Norstrilia)とか『第81Q戦争』 (The Instrumentality of Mankind)とか、古典でありますねぇ。ちょっとずれるけれども、非常に古典的な貴志祐介さんの『新世界より』とか沼正三『家畜人ヤプー』なんかも、人類を作り替えてしまおう!という志向性は、この集合的無意識に人間を溶かしてしまえ!(構造的に人類という種を作り替えてしまえ!)という発想と同じなのかもしれません。ふと思いました。この辺どれも大傑作なので、続けて読むと、面白いですよ。『家畜人ヤプー』は、ちょっと読むのはしんどいので、確か漫画化されていたので、そっちで読むといいかもです。これもどこに力点を描いて描くかで、作品の焦点が変わってしまいますね。一番典型的なのは、やはりクラークの『幼年期の終わり』が王道ですね。小川一水さんが『フリーランチの時代』という短編集で、最初に書いているのが、これだったはず。ああ、あれは、集合無意識に溶けるのではなくて、人類が違う種になってしまう話でしたね。

新世界より(上) (講談社文庫) 第81Q戦争―人類補完機構 (ハヤカワ文庫SF) 家畜人ヤプー 1 (バーズコミックス) フリーランチの時代 (ハヤカワ文庫JA)


このへんは、SFに全体と個というテーマがあると認識して読まないと、なんでさまざまな作家が、いろいろなパターンを追求してアイディア勝負で物語をつくるのかが、わからなくなります。この辺は教養がいる見方ですね。ちなみに、最近でこのテーマは、水島監督の00の劇場版でしたね。これ、ルイさんに、見ろ見ろって言われてたんだよなー。。。。懐かしい。


『劇場版 機動戦士ガンダムOO ―A wakening of the Trailblazer―』 水島精二監督 人類の正しい発展の次の段階とは?http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20121207/p1

劇場版 機動戦士ガンダムOO ―A wakening of the Trailblazer― [DVD]


そして、5)は、なんといっても永野護の『ファイブスター物語』のアマテラスの帝ですね。まぁ、これは読んでいないと、ちょっともったいなさ過ぎるでしょーという日本のエンターテイメントの世界で現在進行中の生きる伝説なので、まず読みましょう。まぁ簡単にアウトラインを言うと、アマテラスという皇帝がいるんですが、その彼が、ずっと殺し合いをしている星団中に大侵攻をするんですね。そして星団をすべて統一する。しかしそれは、一つに統合することの出来ない人類を一つにまとめるための手段だったんですね。自分に憎しみが集中すれば、バラバラだった民族や国家が統合すると。そして、彼は星団統合後、自分の部下に自分を殺すためのレジスタンスを作り、自分を殺せという命令を出します。もちろん秘密裏にね。まさに、ルルーシュがやったことと同じでしょう?。人類は敵がいれば統合するという、逆に言えば、敵がいる限り殺し合い続けてしまうという黄金律というか人類の存在の在り方を逆手に取ったわけですよ。この物語類型は、たくさんでています。


ファイブスター物語 (3) (ニュータイプ100%コミックス)


たとえば、

『ヴァンパイア十字界』7巻 城平京:著 木村有里:画 そこまで個人がマクロを引き受けていいものか

http://ameblo.jp/petronius/entry-10042160254.html

『ヴァンパイア十字界』 "THE RECORD OF FALLEN VAMPIRE"

http://ameblo.jp/petronius/entry-10041498470.html


ここで、この話の類型を僕が初めて見つけたときですねー。

ヴァンパイア十字界1巻 (デジタル版ガンガンコミックス)


話が長くなりましたが、ようは、コードギアスR2って、この時代に展開している、「現代のわれわれの社会」と「地球統一政府がある世界(ガンダムの世界)」の間にある飛躍を超えるには、どういう可能性の分岐があるか?というテーマがあって、エンターテイメントの世界では、上の5つぐらいの可能性の分岐の物語類型がつくられ続けているんですが、、、コードギアスR2の凄いところは、この全てをちゃんと描いているんですね。たった24話の中に。それは、これまでの作品では、物凄い尺を使って描かれてきています。『ファイブスター物語』なんかを見ても、わかりますが、もう終わらない物語級の長さです。それくらい、もう一つ現実のわれわれが体感していることを超える概念を物語でわかるように表現するには、難しい技術だからなんだろうと思います。それを、ショートカットしている(積み上げが弱くなる)とはいえ、破綻せず、物語のダイナミズムを失わずに描き切ったのは、僕は本当に素晴らしいと思いました。これ一気に見ると、そのすごさが凄く感じます。よくこの短い中に、これだけの巨大な類型を5つも突っ込んだなって。特に、ラスト10話しぐらいで、一気にこの可能性の分岐を、シャルル→シュナイゼル→ルルーシュと一気に畳みかけます。これは本当に荒業ではありますが、僕はその挑戦意欲と、完成度は、大成功のレベルだと思います。だからこそ、もう一度見直したくなるんだろうと思います。


そういえば、びっくりしたのですが、アメリカで買うと、アニメのDVDって、めっちゃ安いんですね。なんでだ???。


Code Geass Lelouch of the Rebellion R2 - Coffret 2/3 (Saison 2)

2014-08-23

永遠の日常を楽しく生きるライフスタイルを追求すること、それが日本(のライフスタイル)が世界を支配する第一歩だ!(笑)

ゆゆ式 (6) (まんがタイムKRコミックス)


ちょっち今月は、めっちゃめちゃ忙しいので、まったく記事が書けてませんーさすがに。この記事ほっといたままなんで、新鮮さがなくなりそうなんで、まだざっくりだけど喘げて起きますー。


『ゆゆ式』(2013) 原作:三上小又  監督:かおり 関係性だけで世界が完結し、無菌な永遠の日常を生きることが、そもそも平和なんじゃないの?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140504/p1

ラスボスのいなくなった世界では、日常が続いていく関係性の物語へと変化する

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130622/p4


このあたりの記事の思考の続きです。コンセプトを理解していないと、たぶん何言っているかわからないと思います。エネルギーがないので、そこまでわかりやすく書けませんので、申し訳なく。ちなみに『ゆゆ式』の話を書いたら艦隊コレクションと中国の反日暴動の話になったので、こりゃ同じ記事ではないわ(笑)とおもって、分割して捨て置かれているものですが、せっかく面白いので、再構成してみています。まぁ、いつもの物語三昧クオリティなので、わけわからんでしょうが、ずっと読み続けている解釈力の合う人には、わかるかも?知れません。


ハーレムメイカーから永遠の日常を楽しんで生きる無菌系に至る物語の類型の系譜

http://www.ustream.tv/recorded/47099287 


これは、LD教授と、現代日本の物語の中で、物語のドラマトゥルギーの構造が、どのような展開がされたのか、その系譜を話したものでした。

一対一のラブコメのヒロインの序列が崩れていく中で、その最終到達地点として、ハーレムメイカー(男の子に対して多数のヒロインがいて、そのヒロインの一人を選ぶという圧力が存在しなくなってしまう状態)という物語類型があるんですが、この「その後」がどうなるのか?というところで、男性視点が去勢されて、女の子だけの関係性にシフトしていって、、、、これは、日常四コマ系でアニメ化されている『らきすた』や『けいおん』などの女の子だけで永遠の日常を関係性だけで戯れて生きる類型と接続しているのでは?という、僕らの系譜の理解の一つです。

この話は物語三昧や海燕さん、LDさんらの界隈では基本フォーマットのような話なので、みなさんご存知かと思います。ようは、ラブコメという物語の形式が、1対1という関係性から、三角関係(3人)に変化して、それが、1対多(=ハーレム状態)になってという系譜の展開をしたという話です。論理的には、僕はらは、この1対多(=ハーレム構造)からどこへ行くか?と考えたときに、2つ考えました。


1)多 対 多 (男女同数の対置構造)


2)1 対 1 物語の王道、基本に回帰する


この二つです。しかしこの二つは同じことを言っていて、1)の多対多になった場合は、それが、男女同数でいる場合は、結局「どこをフォーカスすするか?」ということで、2)の1対1になってしまうからです。これらの方向性を、ペルソナや『恋愛ラブ』などの作品ぐうにその可能性を見出していましたね。


しかし、現象としては、こうした論理的な展開以外に、まったく別の系に突入したものがありました。それは、僕らが、空気系、無菌系と呼び、これらの日常系の頂点と考えている『けいおん』や『ゆゆ式』などの作品群で、それは、男の子(=視点)がなくなってしまう!というものでした。


これは僕の宮崎駿の履歴を追った批評の展開と全く同じロジックの話だと僕は最近感じています。


これが、何を表しているかといえば、宮崎駿が、今の時代は少年を主人公にする物語が描けなくなったといっていたことです。ようは、良かれと思い善意溢れる努力を突き進むと、それがどうしてもマクロ的にコントロールできなくなり、世界を全体主義や戦争へ突入させて滅びに結びついてしまう。そうした構造が見えている中で、男の子的な少年の夢を成就させる、自己実現させる方法が宮崎駿には見いだせなくなったのだと思うのです。そうして、少女ばかりが主人公になっていくことになります。未来を夢見て生きる(=少年の夢)ではなく、現在の日常を楽しむ視線に変化したことを指しているのだろうと思います。このあたりは、永遠の日常をめぐる言説というか、解析は、物語三昧とLDさんとは、散々やり続けているので、つながりを実感していただけるのではないかと思います。


『風立ちぬ』 宮崎駿監督 宮崎駿のすべてが総合された世界観と巨匠の新たなる挑戦

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130802/p1

無菌系とは、、、、『けいおん』や『ゆゆ式』のような、女の子の視点だけで構成された、関係性の微細な揺らぎの身を追っていく世界観です。系譜的に言えば、それまで男性的視点を仮託する『俺の妹がこんなにかわいいわけがない』や『らきすた』のような、ヲタク的な男の子の視点が中心の軸にあったものが、それが失われたもの、ともいえると思います。


この男の子の視点が失われるという現象は、そのまま宮崎駿監督が「女の子の視点でしか世界を描けなくなった」という話と、非常に共通しています。


さて、この先については、まだ現象が確認されていませんし、論理的にも特に、これっていうものもないと思うので、少し思考をずらして、物語の世界ではなく現実の世界の話に、この現象の構造的な類似点を見てみたいと思うのです。


全く違うのですが、えっとね、最近(もう半年も前の話だ・・・・・)、半藤一利さんの昭和史の講義録をじわじわ聞いているんですね。けどね、面白いことに気づいたんですよ。日本の戦争責任のことについていろいろ考えていた時のことです。海外に住んで、海外の視点で見ると、世界の共通した認識に、日本は過去、枢軸国側の一員として世界征服(苦笑)を企んだというフレーズがよく出てきます。ポツダム宣言にも書かれていることなので、これ、世界の歴史の共通見解です。枢軸国のナチスドイツと一緒に並べられて絡まっている話なので、事の真偽とか、日本側がほんとうにどうだったか?、いわんや、日本人がどう認識しているか?とかは、どうでもいいことです。ようは、国際政治の舞台では、基本的には、日本はそうだったよね!ということを前提として語られるのです。日本人が、これに反論したければ、まず「この前提」を前提として理解して、知識として強く持ったうえで、国民的な統一意見として反論するなり、説明しなければならないんですが、、、この日本以外の国が共通として認識している歴史に日本のマスコミ、民衆は非常に無知ですね。このあたりが、日本の極端な右翼化や、世界の動きと全く見当違いの方へ暴走する、明治建国以来の日本の構造の様で、1945年の敗戦で一度国が滅びても、それでもまったくかわっておりません。これって日本人の文化的な気質なんでしょうねぇ。。。こういう構造を変えることこそが、選良の義務だと思うんですが、、、なかなかねぇ、、、。


『なぜ日本は〈嫌われ国家〉なのか ──世界が見た太平洋戦争』 保阪正康著  せっかくなので反対方向の意見を同時に読んでみよう!

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140412/p1


おっと話がそれた。←いつものこと。


なので、うん、諸外国は、旧枢軸国の悪の帝国として、世界を支配しようとした日本は、いったい公式のストーリーで、その次に何を目指したのか?ということです。


それは外に暴発して膨張しない平和国家として生きる、という道でした。


石原莞爾が当時新聞で(どのつらさげていう!とは思いますが)東洋のスイスを目指す!といっていますよね。スイスが傭兵国家で国民皆兵の凄い軍事力の強い国であることとかは、無視したのかもしれませんが、、、それともよくわかっていっていたのかな?。大前研一さんも、ずっとスイスの国家としての在り方を注意している言動をいっていますよねー。


この路線は、非常に諸外国に支持されている、と僕は思います。なんといっても、当時の毛沢東や周恩来(日本にめちゃくちゃに侵略された当事者たち)が、これを高く評価している言動が多くみられることです。また、戦後、50年以上たって、この路線が、非常に真摯に追及されているということは、世界中の人がよくわかっている事実です。戦前の非常に極端な危うい国であるということがまだ払拭さてはいないものの、それでも事実として平和国家を追求していることは、基本的にはわかっているはずです。何せ、事実ですから。


日本側からしても、吉田茂が作ったこのスキームは、凄い意味があるものでした。アングロサクソンとの同盟スキーム、、、言い換えれば、日米同盟を根拠して、米軍に日本の防衛を肩代わりさせることです。いろいろ矛盾はあるし、問題もあるのですが、この50年に日本が達成したものは、戦前の日本がどれほど望んでも得られないものでした。


それは、大日本帝国の建国の理念、そしてその国体の維持のための基本構造に置いて致命的な問題点があったことを解決したのです。


なんといっても、


1)石油の確保(資源確保) → 全世界のシーレーン防衛、自由貿易体制の確立(強大な海軍による世界の海の制圧)


2)生産力が極端に小さく、アメリカや列強から比べると、爪に火を点す様な生産力を何とか全体主義的に傾斜するしか列強としての強さを維持することができなかった。この生産力を何とか上げたい。


3)中国のような巨大な大陸の消費市場を自分専用として確保する → 中国はできなかったが同じ大陸であるアメリカ市場を全面開放してもらえた!


これ、米国との同盟によって、すべてが成立してしまいます(苦笑)。特に、2)は圧巻でした。いまでは歴史になった過去のことですが、1980年代の設備投資は2倍以上もあるアメリカをはるかに上回り、日本の生産能力は全世界に対応できるほどの規模を誇りました。事実上の世界一です。また、日本が満州や中国に夢見た大陸の巨大市場は、アメリカ市場を本気で開放してもらえたがゆえに、そこの攻略をすることで、2)の生産力の事実上の世界一レベルの達成を成し得ました。


これってすごいことですよね、これによって、アメリカの産業の中核であった自動車産業、エレクトロニクス産業は、ほぼ壊滅に追い込まれて、自壊していくまで追い詰められることになります。僕は将来は、GMは、トヨタに買われるんじゃね?と思っています。この懐の深さ、そして、気前の良さは、いかに物凄い富める国であるといっても、アメリカすげぇ!と思います。アメリカは、日本を思想的にもかなり支配し、相当の影響下、事実上の軍の支配下に置いているといえども、、、それでもここまで!!!いろんなものを日本に気前よく渡していること、、、また同時に、日本が、それに答えうる能力を持っていること(アメリカ市場を開放しても、アメリカ市場を支配し、イノヴェーションを起こし、わずか30年ぐらいで全世界の生産力を握るほどの規模に成長するなんざ、簡単にはできません)。こう思うと、歴史的に、日本はアメリカとの同盟は、めっちゃ相性がいいんだな、と思います。気質的にも、全世界で、たぶん勤勉さという意味では、アメリカ人と日本人は、とても共通しているように実感します。いや、これって、精神的には結構ツンデレ気味に喧嘩し続けているんだけど、身体の相性はよくて困っちゃう(苦笑)とかそういう感じなのかなーって思います。いや、どっちも、巨大文明(=ヨーロッパや中国)の辺境に位置する鎖国気味の国なので、とっても純朴で真面目なんですよね。また、とっても民主主義的気質(=民主主義は、分権的なので、お互い自立しようとして非常に個人同士や派閥同市はケンカっぱやくなる)で国内で殺しあっているほど仲が悪いんだけど、いざ戦争になる怖いぐらい一致団結して、戦争がめっちゃ強い。アメリカは憲法(=大統領)、日本は天皇に、何かあると狂信的に統合するので、この辺も似てるなって思う。しかも両国とも基本的に海軍国(←これもの凄い重要)。


ということで、日本の1945年後の世界は、この平和国家として、経済専念するという、戦略目標を十分に満たす基盤を備えていました。吉田茂すげぇな。というか運がいいな。日本。


そして、戦前の日本の目標として、列強の最先進国としての文明レベルに到達する!という物理的目標は、なんと、1980年代に達成してしまうのです。経済的には、物質基盤的には、日本が欧米に遅れているというのはもう言えないでしょう。80年代に世界一になってから、既に20年以上が過ぎ去りました。30年を過ぎれば、それもストックとしてこなれて安定すると思います。現在競争力では、世界27位ぐらいに位置づけられる資料を見たことがあるのですが、こういう統計資料は、たとえば、資産の多さで見たらどうか?とか前に書いた部分は、ほとんど考慮されていないフローの、言い換えれば現在の現状だけを見たものばかりで、僕これを見て一喜一憂するのは無駄だと思うんですよ。会社が、株価だけを見て一喜一憂しても(重要ではあるにせよ)仕方がない部分と似ています。


世界中の誰もが、日本が、衰退しつつある構造があるとはいえ、人類のフロントランナー的な最先進国であることに疑問は持たないでしょう。いまの日本の構造は、政治システムがかなり新しい時代に抵抗するのが遅れていたり、高度成長期の環境からの変化に対応できなくてスタックしている等の問題はありますが、西ヨーロッパやアメリカで起きる出来事とほぼ同じ現象が起きます(移民反対に対する右翼の台頭や社会からはじかれたものの世界に復讐するような劇場型犯罪の頻発など)。また最先進国に共通する、ベビーブーマー世代、高度成長期のボリュームゾーンが、80歳を超える超高齢化のステージに突入していく人口構造の逆ピラミッド型の形成など、、、その部分に関しては、むしろ前人類史の中で日本が最初に突入している状態にあります。また、WW2以降は、人類史に置いて最も戦争が少なくなった時代ではありますが、こうした戦争による既得権益の一掃など、戦争の効用というべきものがなくなった世界において、どのように生きるのが、社会を壊さないで行けるのか?という挑戦も、日本はフロントランナーだと思います。

戦争の功罪について、米国で大論争「米国は戦争が大好き」と説く論客も 堀田 佳男 2014年5月14日(水)

http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20140512/264387/?P=1

War! What Is It Good For?: Conflict and the Fate of Civilization from Primates to Robots
War! What Is It Good For?: Conflict and the Fate of Civilization from Primates to Robots



ところがですね、、、、そう1980年代に物質的な「坂の上の雲」だったヨーロッパ文明の導入がほぼ終わると、じゃあ、次は何をするの?ということが問われるんですね。


そこで、1980年代から日本は迷走をはじめます。ちなみに、日本だけが迷走しているわけではありません。西ヨーロッパやアメリカなど、フロントランナーの国は、すべてどっか狂って迷走しています(苦笑)。賢明な国などありません。みんな生き残るので精いっぱいなのです。そうすると、自分の頭で考えて、自分の文化的な根源にフイットして、そして、現代文明の基礎構造にマッチした、もういっちょいうと後期資本制の社会に適応した「なにか」が必要になるわけですよ。僕はその答えは、もうわかっていると思っています。それは、



永遠の日常をどう生きるか?



ってことなんだろうと思います。成熟と成熟の違いを僕はいつも考えているといういましたが、成長はここ数百年、ヨーロッパ文明が追及して全世界のスタンダードになったので、みんなよくわかっていて、これをシステム的に安定させる資本主義も、世界中にインストールが終わっています。


しかし、もう一つの目標である成熟。平和国家として、生活世界の充実を追求していく!という方向性には、まだまだ問題点がかなりあります。過去の人類史のような安定して時が止まった朝鮮王朝の500年や徳川将軍期の300年や、中国文明の在り方では、基本路線、東洋文明のほうが明らかに日常に向いていると思いますが、ダメです。というのは、ヨーロッパ文明、近代文明、資本主義社会との同時並行性がないとだめだという条件が、現代にはあるからです。


でね、、、そうすると、日本社会は、この生活社会の充実、、、普通の人が住む世界での充実ってなんなのか???(ヤンキー化するんだよ!)ってことが凄く重要な裏命題にあったんですよね。1945年から、日本は、米国に外交や軍事を譲り渡したがゆえに、「そこ」に邁進してきたんですよね。

半藤一利 完全版 昭和史 第一集 CD6枚組


その結果が、僕は、関係性の微細な動きに敏感になって、世界を肯定的にキラキラ見ながらマクロを無視して生きるという永遠の日常を生きる知恵なんではないか?と結びつくんですよ。1980年代以降の日本は、もう一度、豊かさとは何か?ということを、坂の上の雲の目標が終わったが故に、探しに出るたびに出ます。けど、実は答えはもうわかっています。それは、あとで書きますね。


さて少し戻って、


関係性だけで世界が完結し、無菌な永遠の日常を生きることが、そもそも平和なんじゃないの?


と、こういうことが言いたかったんです。1945年を境に、戦後日本の話になると、とたんに話がつまらなくなるんですね。人類史とか、世界とかとまるで関係ない、内部の内政の話とかばかりになってしまうからなんです。歴史を物語ファンタジー的に考えると、戦前の明治建国から太平洋戦争まで、事の善悪はともかく、物凄いドラマチックで、英雄とか、物語的なことじゃないですか。けど、それ以後って、ひたすら平和で、戦争もしない、マクロは考えない、無視する、日常だけを追求するということですよね?。もちろんのこと、物語として考えたら、おもしろいわけがないじゃないですか?。全然血沸き肉踊らない。

半藤一利 完全版 昭和史 第四集 戦後編 CD6枚組

このこと一つでも、戦前の日本と現代の日本は、全く違う国なんだな、と思うんですよ。



で、平和って何よ?


ということを考えたときに、沖縄の琉球王国の日本併合の時と台湾の植民地政策のことを思い出したんですね。なんで、これがうまくいったの?というと、日本に支配されたの封建領主の上の層が解体されたんですよね。そいつらが権利を奪われた。けど、庶民はどうだったか?というと、日常生活が劇的に改善しているんですよね。この時代の、植民地併合のお題目は、封建社会の打破と、庶民の文明化ですよね。そこには、それを正統性というかは別にして、とても強い効果があったんだろうと思います。昭和史の半藤一利さんの1945年以降の最初の思い出の一つは、ペニシリンです。自分の妹?だかが熱を出して、高価だけれども、ペニシリンを売ったら一発で治った。と。半藤さんの下の妹さん(弟だっけか?)はかんりとしが離れてて、それは、肺炎で何人も死んでいるからなんですよね。けど、アメリカが持ち込んだ、ペニシリンが、それを劇的に変えた。シラミとかで毎日かゆいのが当たり前だった生活が、DDTで一発でなくなった。これが凄い印象的だった、と。


何が言いたいかというと、為政者が求めるもの(=マクロの要求)と、庶民が求めるもの(=ミクロの要求)ってのは、かなり食い違うんだなってことです。


ようはね、普通の人にとっては、一番大事なのは、日常の生活のクオリティなんです。


意外にこれが忘れさられているけれども、というか、これは別物としてちゃんと分けて同時に考えてないといけないんだなーと。


先日、下記のような記事を書きました。

『なぜ日本は〈嫌われ国家〉なのか ──世界が見た太平洋戦争』 保阪正康著  せっかくなので反対方向の意見を同時に読んでみよう!http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140412/p1

ここで目から鱗だったのは、自分自身の海外体験から合わせて、日本人は、日本民族は、ミクロレベル(=日常の等身大の生活レベル)では、先で一番といってもいいほどほぼすべての国に尊敬されて、素晴らしいと思われている。けれども、マクロレベルでは、集団になると何をするかわからない、暴走しやすいとても危険な国家だと思われているという、別の次元で正反対の認識が海外にある、ということでした。ちなみに、中国や韓国だけが、日本を敵視して嫌悪していると思いこんでいる能天気な人は、『レイルウェイ』のような映画を見てみるのをお勧めしますよ。素晴らしい映画ですが、日本人にはとても耳が痛いです。明治建国以来半世紀にわたって西と東で海を分割して支配した偉大なる日英同盟のパートナーですら、こういう風に思う伝統が深く残っているんですよってこと。

レイルウェイ 運命の旅路 [DVD]



まぁ、ほんと、話が全然違う方向に、、、、『ゆゆ式』の話ではなかったのか????。


えっとね、日本民族のもっとも、特質的なところってのは、どうも日常を深く楽しむところっぽいんですよね。最近の仮説。それは、下記の本を読んで、鎖国してマクロが全く関係がなくなって江戸時代の日本が作りだした文明を見れば、よくわかる。もちろん、大日本帝国を形成したり、豊臣秀吉や織田信長を見ると、半面、ドカンと外に出て、いっちょやったるでーというような好戦的な面もあるので、半分づつなんだろうと思うのですが。

『逝きし世の面影』 渡辺京二著  「異世界たる古き日本」へ僕らをいざなう最上級のファンタジーにしか思えない

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20101117/p4

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)


しかし人々の幸福度は富とほとんど相関がなく、自分の生活に意味があるかどうかが大事だ。江戸時代の平均寿命は40歳前後で平均年収は今の1割ぐらいだったが、人口の圧倒的多数を占める百姓には自治を認め、経済を支える商人には権力はないが非課税で、その富を文芸や美術に使った。その結果、江戸は世界でも最高水準の文化を生み出した。

貧しくても権力と富を平等に分配して幸福度が下がらない生き方を、江戸時代の人々は工夫したのかも知れない。その間接的な証拠は、日本でキリスト教が普及しなかったことだ。それは不幸な時代に流行するので、日本社会の幸福度は相対的には高かったのではないだろうか。ここには、これから衰退する日本が学ぶべき知恵があるような気がする。


長期停滞時代の生き方

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51883137.html

この本は、人生の中でベストといってもいいくらい良い本です。ぜひとも読みましょう。世界観がひっくり返ること請け合いです。同時に、『クアトロ・ラガッツィ―天正少年使節と世界帝国』を読むと、日本人が、日本民族が、変な右翼的なイデオロギーではなく、どれだけ素晴らしいのかって、とても充実して地に足がついたレベルで感じれるはずなので、超お勧めです。

クアトロ・ラガッツィ―天正少年使節と世界帝国


ちなみに、日本人が、日常生活のクオリティを極度に、偏執狂的に追及していく性質がある民族であるのは、日本のとても強みです。というのは、もちろん日本に、世界征服を目指すような悪の帝国のような好戦的な気概や構想力があるのか(アメリカやヨーロッパのように)といえば、僕は十分にあると思います。大日本帝国の形成、満州建国と独立経済圏域構想、大アジア主義など、事の善悪は置いておいて、けっこう実績もあります。けど、こういうのは、できる民族って、たくさんいるんですよね。ある程度民族的に数がいて土地が豊かならば、それなりに自然と帝国まで行くんですよ(滅びるけど)。けど、永遠の日常を、経済のパイがあんまりっ増えなくても、ものすっごくクオリティを上げて楽しんで充実して生きるって、そんなことができる民族や国なんて、ほとんどありません。大衆的なエンターテイメント(貴族層が楽しむだけではなく)を発明して維持運営するような民族や国家も、ほとんどないと思うんですよ。個人的には、いまのところはイギリス、日本、アメリカぐらいじゃね?と思っています。暮らしたことないのでわからないけど、たぶん西ヨーロッパ諸国もそうじゃないかなーと思います。いまはここに台湾や韓国が入りつつあると思います。なので、世界中にリトル秋葉原をつくって、ソフトパワーで世界制圧だってのは、とてもいい平和的な競争力で、僕はいいと思うんですよね(笑)。マジで、ジョークではなく。だって、海外に来ると、日本の子供向けのアニメーションの強さに、衝撃を受けます。これは『逝きし世の面影』にもありますが、日本人が伝統的に、子供をとても大切にしたり、にもかかわらず、大人と切り離して別物として扱うということをしないという伝統があるので、子供向けのエンターテイメントが、信じられないほど高度に発達したがゆえなんですね。いま僕はアメリカに住んでいますが、アメリカの子供への、ポケモンとかの浸透具合、すさまじいですよ。任天堂でもいいですし。セーラームーンとかプリキュアシリーズの、女児が世界を戦って守る!!なんてエンターテイメントは、日本が想像した偉大なソフト・プラットフォームです。これ、世界中の子供が見てる。世界はグローバル化して共通化しているんですが、こと子供向けのエンターテイメントの領域では、日本の作りだした形式が、プラットフォームとして支配的だと僕は思います。理由は簡単。そんな子供向けの領域に、力を割くことなんかしないからです。


中国の「反日カード」を、日本の「日常」で無効化しよう

http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20140421/263214/?rt=nocnt

「艦これ」の娘たちとはしゃぐ中国の若者

http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20140325/261694/

日本人の「普通」が中国人の「劣等感」を刺激する

http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130702/250508/

細かいが重要な「生活インフラ」が段違い

 たとえば、私は中国出張中、限りなく3つ星に近い4つ星ホテルに宿泊するが、そのサービスや質は日本の5000円以下のビジネスホテルよりもずっと下だ。ロビーには豪華な装飾があるし、Wifiは通じるし、バスタブもある。見た目も設備も、日本のビジネスホテルとほとんど同じだ。

 だが、ポットの横に置いてある紅茶のティーバックを開けようとしても、なかなか開かない。袋の切り込みがちゃんと入っていないからだ。歯磨きのチューブの蓋もきちんと噛み合わず、閉まらなかったりする。お風呂にお湯をためて入ったあとは、排水がきちんとできていないので、トイレの前まで水浸しになってしまう。こんなことは日常茶飯事だ。

一見、日本のビジネスホテルと同じコーヒーやお茶のパック。しかし、味はともかく封の開けやすさが違う。

 日用品で最も日本との違いを実感するのは、ノートやボールペンの品質だ。

 中国のノートはちょっと強く書くと紙に穴が開き、ボールペンはすぐにかすれて書けなくなる。外出先でストッキングが切れたときも、間に合わせで買うストッキングは、価格は日本並みにするくせに、半日穿いたら伝線してしまう粗悪品ばかり。

 「日本で売られている文房具やストッキングも多くが中国製なのに?」。もっともな疑問だが、日本で売っている中国製品と、中国で売っている中国製とは雲泥の差がある。

 以前、香港在住の友人がフェイスブックに「日本のコンビニで150円くらいで売られているエクレアはすごくおいしい。あれと同じレベルの商品は、香港では1000円出しても買えない」と書いていて、思わず「その通り!」と唸ったが、中国でも同様だ。買えないどころか、それだけ「低価格で高品質」のものは中国中どこを探しても売っていない。10万円の高級輸入ワインはよく目にするのに、「日本に普通にある、ちょっといいもの」は中国には存在しないのである。

f:id:Gaius_Petronius:20140427041242j:image


キャプテン翼の巨大像、香港に出現

http://www.huffingtonpost.jp/2014/06/08/captain-tsubasa_n_5468025.html


上記の「中国の「反日カード」を、日本の「日常」で無効化しよう」というタイトルはすごくいいなぁーと思うんですよ。まさに正鵠を射ている。もっと広げると、争いが日常の世界を、日本の「日常」で無効化しよう!!みたいな感じです(笑)。いまアメリカに住んでいると、この国も、本当に豊かさが懐が深い国です。その豊かさは、金だけじゃない。日常生活のクオリティです。いうまでもなく、日本の日常の成熟の素晴らしさは、アメリカンウェイオブライフのプラットフォームの上に載っています。上記にも書きましたが、これは資本主義と近代文明のプラットフォームにらないと、安定しないからです。なので、やっぱり人類史におけるアメリカの位置づけは凄いなって心底思います。


まっ、とにかく、これまでは、生活環境の質を上げるということにリソースが回ることは、人類史上それほどありませんでした。まずは国家間の競争とかに勝ち抜かなきゃいけないからでしょうね。けど、実際、もっとも反映している大帝国は、中華帝国、ローマ帝国、そしてアメリカにせよ、どの文明も、その時代の生活レベルの高さ、一般の人々が満足を持ってい生きられるライフスタイルの成熟差は、凄い高かった気がするのです。たとえば、ローマ帝国なんかは、現代と生活水準なんてほとんど変わりませんよ。基本的なものはほとんど同じ。まっ、けど、アニメと漫画と映画がないけどね!(笑)。


まぁ、そんなことを思った今日この頃です。上手くまとまっていないけれども、いいたいことは、ずっと僕が考えてきていることの最前線が、マクロでもミクロでも、どっちもつながってくるんだなってことです。


・・・・・という記事を数か月前に書きかけてて、止まっていたので、、、まとまり切っていないけど、とりあえず新鮮さがなくなりそうなので、上げておきます。ついでに、佐々木俊尚さんと海燕さんの以下の記事を読むといいですよー。

自分でつくるセーフティネット~生存戦略としてのIT入門~


海燕の『ゆるオタ流☆成熟社会の遊び方』

『艦これ』は政治的に正しい!

http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar598269


■参考記事

『シャイニングハーツ しあわせのパン』 2012年 川崎逸郎監督 永遠の日常を生きることは幸せなのか?、それともこれ以上どこにも生きようがない袋小路の地獄なのか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140202/p2

僕は友達が少ない』 原作 平坂読著 いまの若者が求めるのは居場所感とコミュニケーションの戯れなのかな?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20120502/p4

第12話 「僕は友達が…」  そうか、恋人じゃなくて、友達が欲しかったんだ!これはびっくり目からうろこが落ちた。

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130329/p1

ヒミズ』 (2012年 日本) 園子温監督 (1) 坂の上の雲として目指した、その雲の先にいる我々は何を目指すのか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130419/p1

『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』 原田曜平著 世界はメガリージョン(=広域大都市圏)と地方・郊外の二極化が起きるのか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140316/p1



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2014-08-03

『バーサス・アンダースロー』が商業連載化!! タイトルは、『1518!(イチゴーイチハチ!)』


うっわーすっげー楽しみ!。


もちろん知っていると思いますが、出会った最初から物語三昧は、『バーサス・アンダースロー』をスーパー押しです。見た最初から、★5つのペトロニウスの名にかけての傑作認定です。予習のために『GUNSLINGER GIRL』を全巻買ってすぐ読みましょう(笑)。超読みたい、、、けど、雑誌は手に入れにくいんだよなぁ(涙)。


『GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 静謐なる残酷から希望への物語(2)〜非日常から日常へ・次世代の物語である『バーサスアンダースロー』へ

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130104/p1


GUNSLINGER GIRL(15) with Libretto!II (電撃コミックス)

2014-08-02

【8月物語三昧ラジオ】いつものごとくお題は決めておりません(笑)

【漫研ラジオ】

http://www.ustream.tv/channel/manken


http://www.ustream.tv/recorded/50873981


日曜日JST14時ごろから8月の物語三昧ラジオをします。


LD教授に、海燕さん、そしてもしかしたらレスター伯にも参加お願いできるかもしれません。


最近は、メインメンバーというかこの界隈では、新世界の話の展開が盛り上がっております。なので、LD教授にその辺のおさらいをもう一度してもらいたいと思います。なにしろ、川上量正さんとかにも新世界の話は言及されていましたからねー(笑)。さすがっす。LDさんと海燕さん。レスター伯爵とは、太陽の女の子と歴史の話がしたいなー。あと近代スポーツの話とかー。そこまで時間あるかどうかわからんけどー。


ちなみに、いま僕の中で異様な熱い盛り上がりを見せているのは、この漫画です。いま書評を書いているけど、凄いおすすめです。『まりんこゆみ』。どんなもんだろ?と設定が設定だし、女の子凄いかわいいけどまぁ、かわいい絵柄すぎるので、まぁイロモノかな・・・・とか思っていたんですが、、、、任官式のくだりで号泣しました(笑)。物凄く素晴らしいです!!。ちなみに、これほとんど、原案の人の自伝だと思います(笑)。まじでめっちゃすげぇ。物凄い燃えます!。ちゅーか、続きマジで気になるんですが、、、。ちなみに、最初はイロモノ化と思ったんだけど、ちゃんと論理的整合性もあって、いや、それはたしかに、、、できるなぁ!!!と感心した(笑)。なれるよ、日本の女子高生、海兵隊員に(笑)。

まりんこゆみ(1) (星海社COMICS)

2014-07-28

『Re:ゼロから始める異世界生活』 長月達平著  永遠を生きる不老不死の類型の物語への答えの一つ

Re:ゼロから始める異世界生活1 (MF文庫J)


「でも、俺はお前と明日、手を繋いでいてやれる」


「――――」


「明日も、明後日も、その次の日も。四百年先は無理でも、その日々を俺はお前と一緒に過ごしてやれる。永遠を一緒には無理でも、明日を、今を、お前を大事にしてやれる」



「――――ッ」


「だから、ベアトリス。――俺を、選べ」




第四章129 『――俺を選べ』

http://ncode.syosetu.com/n2267be/300/


ああ、、、素晴らしい。あまり抜き出すと、もったなさすぎるので、僕のメモレベルって、、、一番大事な場所だけれども(苦笑)、、、、この物語は、なんと素晴らしいのだろう。僕が吸血鬼モノ、永遠の生命モノの類型で提起した課題に完璧の答えている。しかも見事なシンプルさで。見事ですよ、長月達平さん。これ、ベアトリスの造形と存在を設計した時から、確実にこの会話は想定されていたと思う。まさに彼女の存在の本質にかかわる会話になっている。彼女が救済されるためには、この答えしかないんだもの。


今回の記事の問いは、不死の時、永遠の時を生きる人が、救済されるにはどうすればいいのか?です。


これを考える時に、まず前段階として、(1)人を愛するということはどういうことなのか?=(2)人を救済するとはどういうことなのか?という問いがあります。


僕の答えは決まっています。上記で、イコールで結んだように、僕は、人を愛することと、人を救済することは、ほぼ等分だと考えています。そして、もう一つの言い方であれば、他人を愛するということは、その人の本分を全うさせてあげること、その手助けをすること、それとともにともに倒れることを許容すること、です。


難しいですね、、、、僕はよく言うのですが、相手のことが好きだったら、相手の「本分を全うさせてあげたい」と思うのではないでしょうか?という問いかけをします。


「本分を全うさせてあげたい」というのは、その人の魂の本質が、きちっと達成され、自己実現され、世界に示されること、を言っています。えっと、もっとわかりやすくいえば、その人の「魂がほんとうにしたいこと」をするようにしてあげるということです。そして、ここでいう「魂がほんとうにしたいこと」をするということは、イコールその人が救済されること、であると僕は考えています。その人の存在、実存に関わる自己表現が昇華された時、その人が生きていた「意味」とか甲斐があった、ということだと僕は思うのです。


たとえば、エミリアの本質は、銀髪のハーフエルフで、世界から忌み嫌われて差別されることにあります。彼女はそのことによって、世界からつまはじきにされ拒絶され苦しんだ幼少期を生きてきました。彼女が「そのような姿である」ことは彼女自身のせいではありませんが、これから逃げても始まりません。だって、彼女の存在そのものだもの。なので、彼女が王になるという決意は、彼女の実存の自己表現に関わることになります。王になって、このような差別される世界に、差別される人々の居場所を作ること、のみならず、差別があるこの世界を漸進的に少しでも、そうでないで生き方がありえるような世界に変えるために人生をささげること、彼女の王になるという決意はこうなります。なので、彼女を愛するならば、どうしても、この根幹の部分に対する共感(=失敗したらともに死ねる覚悟)と、それに協力できるだけの「何か」が必要になります。


僕が言うこの(1)人を愛するということはどういうことなのか?=(2)人を救済するとはどういうことなのか?という問いの答えは、このようなものです。長くぐじぐじ説明してもわかりにくい人にはわかりにくいと思うので、まぁ、そういうもんだと思って先に進めましょう。


その具体的な例は、タイプムーンの『Fate stay night』の記事で書きました。士郎がセイバーを救うということはどういうことなのか?、セイバーが士郎を愛するということはどういう意味と結末をもたらすことになるのか?という問いかけです。


『Fate stay night』 人を本当に愛することは、愛する人の本分を全うさせてあげること、、、たとえがそれが永遠の別れを意味しても

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080802/p2


この記事は、2006年10月13日に書いているんですね。もう8年近くも経過しているんだ、、、。僕はこの記事が凄く好きで、それは、僕が、Fateを好きな理由の根幹の一つだからで、何度読み返しても、自分で自分が納得します(笑)。それは、人が救済されるということはどういうことなのか?の、本質が描かれているからだと思うのです。もう少し優しい言葉で云えば、セイバーが救われるには、幸せになるには、どうすればいいのか?ということを分析してちゃんと理解すると、愛している士郎は結ばれないということになってしまうという構造があるってこと。人の世界に生きるということは、時にこういう、どうにもならなさが厳然とあり・・・そしてそうだからこそ、世界は悲しく、そして美しいと思うのです。このどうにもならなさの本質までたどり着いた、士郎とセイバーの愛は、本物だと、真実だと僕は思うのです。

フェイト/ステイナイト[レアルタ・ヌア] extra edition


このころ(2008年)くらいは、そこまで吸血鬼モノ、永遠の生命モノの類型まだまだそれほど広まっていなかったと思うんですが、不死のテーマは、本当に広く深くエンターテイメントの世界に展開していますね。たぶんその嚆矢となった作品を、最近のサブカルチャーで探すならば、なんといっても高橋留美子さんでしょう。この人は本当に天才だと思います。ほんとうに選ぶテーマがいちいちツボというか経絡非行の致命傷をつくような鋭さを持っている人です。


僕ぐらいの1970年代の生まれの人は、読み切りで読んだことあると思ういますが、結構長いシリーズなので。最初の『人魚の森』が、単行本が1991年ですね。素晴らしい大傑作なので、ぜひとも漫画で経験してみてください。また、不老不死や永遠の命を扱った物語の類型としては、古典ともいえる作品なので、クリエーターの方は必須だと思います。


人魚の森 (るーみっくわーるどスペシャル)


あらすじは、500年ほど前に、漁師の湧太が、人魚の肉を食べてしまい、不老不死になったところから始まります。人魚の肉を食べても、必ずしも不老不死になれるわけではなく、身体が適応しなければ、なりそこないという化け物になってしまう確率も高く、なかなか湧太は、自分の仲間を見つけることができません。そして、戦国、江戸、明治、大正、昭和の長き時をさすらい続けます。そして、、、とうとう人魚の里を見つけ出し、真魚を見つけ出すことになります。


この物語を読めば、不老不死がいかに苦しく地獄かが変わります。何が苦しいかというと、孤独です。同じ時を生きることができないのです。それは、他者がいないも同じ。なので、この物語に置いて、重要なテーマは、どうすれば同じ時を生きることができるのか?という他者(=伴侶)を探す旅という形式になります。これにはいろいろな方法があって、一つ目には、老いる身体に戻る方法を探すことです。もう一つは、自殺です。さらには、老いることない仲間を探し出すこと。この3つぐらいしか論理的には解決方法はありません。あっと、実は、グレンラガンや異界王など、これとは違ったアプローチでこの、不死性を使おうとするマクロの指導者たちがいるのですが、その話はまた今度。個人の実存をベースに、個人が幸せになるためにはどうすればいいのか?という視点でさらに続きを追ってみたいと思います。


たとえば、最近では、西尾維新さんの物語シリーズの吸血鬼、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの話は、まんま、このテーマですね。吸血する行為は、この永遠に世界の同時性のグランドルールから切り離されてしまう地獄を分かち合う仲間を得る行為ですが、それって凄く難しいと思います。なぜならば、『人魚の森』でも、人魚の肉を食べた人はほとんどがなりそこないになるんですが、それと同じように、永遠の時を生きるという地獄に耐性のある、それでも自我が保っていられるほどの強さを持った人間は、ほとんどいないからだろうと思います。なので、ハートアンダーブレードにしてみると、あららぎくんに出会えたのは凄い僥倖なので、まぁ手放さないでしょうねー(苦笑)。


傷物語 (講談社BOX)

このテーマは、同じように、赤松健さんの『魔法先生ネギま!』のエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルのテーマがまさにそれですね。このキャラクターが主人公ではなく、脇役(でもないんだが・・・)キャラで登場してくるところは、本当にこの類型のテーマが広く広がってきた証だろうと思います。だってこれだけの情報量で、全体像がわかってしまって違和感が持たれないくらいだから。また、その後のネギ自身やネギの父親などは、明らかにこの不死性のテーマを色濃く身に投影しています。特に先ほど、マクロの指導者が、不死性を使って、人類の進歩とマクロの課題に貢献しようとする物語類型があるといいましたが、それと同じ形です。ネギもほぼ永遠とは言いませんが、人の身ではありえない時間を生きて人類に貢献したであろうことが、まだ謎は明らかになっていませんが、ほのめかされています。

魔法先生ネギま!(23) (少年マガジンコミックス)


さてさて、ここまで来てやっと、最初の『Re:ゼロから始める異世界生活』のベアトリスの話に戻ります。


永遠の時を生きる不老不死の存在が、ナルシシズムの檻と同じ、世界の同時性のグランドルールから切り離された絶対的な孤独を生きています。同時性のグランドルールとか、すごいマイ用語っぽいテキトーな言葉を使っていますが、ようは、同じ「時間」を生きていないという意味で使っています。「時間」というのはハイデッガー的?に使っています。死というエンドポイントがあって、そこへ向かっていっているものを指しています。なので「死」がない時点で、この時間感覚の中に生きているものではなくなってしまいます。もっと簡単に言えば、同じルールの中に生きていないので、物事に関する感覚が全く違ってしまうということが言いたいのです。そしてこうした基礎的な感覚が共有できればければ、もちろんのこと共感はありえなくなってしまいます。というか、基礎的というか、死が厳然とあって、そこですべてが消失してしまうからこそ、いま生きている時間に「意味」が生まれるわけであって、要は生に意味がないことになるわけですね。まぁ、理論的な整合性とか定義とはどうでもよくて、永遠の不老不死を生きる人と普通の寿命がある人間が仮に愛し合ってしまえばどうなるか?ということを考えれば、すぐこの問題点はわかるわけです。


新装版 ロードス島戦記 灰色の魔女 (角川スニーカー文庫)


僕らの世代(1970年だから60年代生まれ)ならば日本人の作りだすファンタジーの原型の一つともいえる水野良さんの大傑作『ロードス島戦記』のパーンとディートリットが、思い出されます。僕は、残念ながらこの辺は知識が少なくて、TRPGとかよくわからない、なんちゃっての人なんですが、、、それでも中学時代に『ロードス島戦記』をむさぼり読み、、、日本のファンタジーの黎明期の一つをよく覚えています。そこで、、、、まだ恋人?になり切れていない?けど、深く深く絆を結んだパーンとディートリットを見て、これほどの絆を深く結んでしまった二人は今後どうなっていくのだろうか?。、先に死んでしまうパーンを見取って、ディートリットはどうその後生きていくのだろうか?ということが書かれていたのが、胸にとても残っています。非常に単純な話、寿命が違いすぎるので、一人は片方を残してすぐ死んでしまうのです。


この問題をどう解決するか?というのは、吸血鬼モノ、不老不死モノ、永遠の命モノなどの物語類型には、重要なポイントです。


ほとんどの永遠の命を生きる吸血鬼たちは、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードにしてもエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルにしても、恋愛に非常に憶病になっているケースが多いです。経験は膨大で老成している割には、処女とは言わないまでも、初心な心のままで長く過ごしているケースが多い。それは、人間と交わることに対して恐怖があるからですね。必ず自分を残して死んでしまうわけですから。絆を結べば結ぶほど、時の流れに洗い流されてそれが消え去っていくことの恐怖が勝るのだろうと思います。


まぁこういう構造があるから、ロリババア的な、キャラクター造形が生まれてきたんだろうと思います(笑)。


ちなみに、『Re:ゼロから始める異世界生活』は、作者がガチな年上好きのせいか(←だよね?)、物凄い確率でロリババアというか、このタイプのキャラクターの宝庫ですよね。ベアトリスにしても、リューズ、そして主人公のエミリアにしても、見事な精神年齢と肉体年齢のズレがあって、、、膨大な情報量(ページ文字数がそもそも膨大=作品世界が広大で深い)、時系列がかなりの長さまで含めてプロットが複雑に構成されている、きちっとエンドポイントを設定して、語りたい本質があってキャラクター造形が設計されているなど、なろうネイティヴとしては例外的な普通の商業小説の高いレベルの製造の仕方に則った構造をしているからこそ、可能なものだと思います。というのは、エミリア時系列的にとても複雑な人生を辿っていて、かつ精神年齢と肉体年齢が非常にずれています。こういう「設定」自体はすぐ作るのは可能ですが、彼女のようにその言動や口癖、態度も含めて、確かにとても幼いんだけれども、年寄り臭いというようなことを、実感できるのは、ほんとうに最初の最初から慎重にキャラクターを設定していないとできないことだと思うんですよね。感心します。物凄い芸が細かい。そして、、それが、かわいくて、魅力的だったりするのは、感心します。よくこんなの書けるな、、、って。リゼロってホント傑作です。


さて、話がまたそれましたが、普通の寿命がある人間と永遠の不老不死を生きるものとの出会い、関わり、そして恋愛を描くときに、同じ時を生きることができない、また寿命があるほうが先に死んでしまうということを、どう答えるのか?というのが、この問題で重要だということがわかったと思うのですが、ベアトリスという400年の時を生きてきた少女を、外の世界に連れだすには、ではどうすればいいのか?というエピソードの問題設定がスバル君には課されます。


その答えが、これです。


「でも、俺はお前と明日、手を繋いでいてやれる」


「――――」


「明日も、明後日も、その次の日も。四百年先は無理でも、その日々を俺はお前と一緒に過ごしてやれる。永遠を一緒には無理でも、明日を、今を、お前を大事にしてやれる」



「――――ッ」


「だから、ベアトリス。――俺を、選べ」




第四章129 『――俺を選べ』

http://ncode.syosetu.com/n2267be/300/


これ、僕は思うのですが、間違いなく、この作品を作る前から想定されていた会話だったんじゃないかな、と思います。この長月達平さんは、こういうコアの煌めきの部分があってそこから逆算して物語を作るスタイルを取っている気がします。僕の勝手な思い込みですがね。とはいえ、これが、吸血鬼モノ、不老不死モノ、永遠の命モノなどの物語類型に対しての見事な答えになっているはわかると思います。のみならず『魔法先生ネギま』でも『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』でもそうなんですが「最初の一歩を踏み出すことの勇気」というテーマにしたての答えとのシンクロを持っています。


『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』  理不尽な孫の手著 異世界転生の日常やり直しセラピー類型の、その先へ

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131105/p1


無職転生 ~異世界行ったら本気だす~ 3 (MFブックス)


「最初の一歩を踏み出すことの勇気」というテーマというのは、現代商業エンターテイメントのもっとも重要なテーマとして、「ある」し「あるべき」だと思うものなのですが、物凄く端的に言うと、引きこもりをどのように外の世界に連れだせるか?ということです。もう少し難しく言えば、ナルシシズムの檻に囚われがちな現代社会の都市文明の生の在り方なの中で、どうやって、リアルに踏み出す勇気を、、、それも最初の一歩の勇気を調達するか?という問いです。もっと文学的に言うと、他者がいない世界にどのように他者を招来するか?というあの往年の文学の大テーマにつながっていくものです。そして、これが、現代社会には最もポピュラーでかつ先鋭的に表れているテーマの一つでもあると僕は思っています。これは、僕が最近よく話題している内発性をどのように獲得するのか?というテーマともほぼシンクロしています。


やっぱ趣味と友達がないと、しあわせになれんよねー

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131030/p1

祭りを起こす才能(=内発性)って、どうやって獲得するものなんだろう? またその構造はどうなっているんだろう?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131225/p1

本当に自分がしたいことは何なのか?、無償でなんの報酬がなくても楽しくやり続けることは何なのか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140603/p1


細かい具体的な話は端折りますが、ベアトリスは図書館の中で400年間引きこもっています。。。。ふとこう書いて、ちょっとうらやましいな、、、と思ってしまった(苦笑)。本に埋もれて永遠の時を過ごすとか、なにそれ、、、幸せそう、、、、。と、マイン(『本好きの下剋上 〜司書になるためには手段を選んでいられません〜』)ならいうでしょうねぇ。まぁ、それはさておき、そこから外の世界に連れ出すときに、何が言えるか?ってことです。しかも、永遠の命を生きる人にとって、すぐ死んでしまう普通の人からいわれることは、無責任極まりないものに感じられるはずです。だって、しょせん、すぐ死んじゃっていなくなってしまうんですから。


けど、、、、僕はこのテーマを思う時にいつも思い出すエピソードがあります。それは、相田裕さんの『GUNSLINGER-GIRL』のペトルーシュカとアレッサンドロのエピソードを強く思い出すのです。僕はこのエピソードは、本当に大好きで、大好きなだけではなくて、、、、惚れ惚れするような感動があるんですよね、、、。最初に読んだ時の衝撃は今でも忘れられません。というのは、この義体と担当官って、被支配者と支配者、奴隷と主人そういう関係なんですよね。主従関係がある。こうした関係性は搾取だけの関係しかありえず、、、、というような視点だけで眺めていたんですよ。常に担当官が優越の状態で、その搾取に対してどう考えるか?という、被害者的視点ばかりでものを考えていたんです。けど、アレッサンドロが、ペトルーシュカには短い寿命しか無い話を聞いて、まったく動揺しないんですね。それは、


自分だって、いつまで生きられるか全然わからないのに、、、、とつぶやくんです。


まぁ、彼はスパイのような極端な職業についていてかなり刹那的に生きている人なんですが、このような死生観に諦念を持っていても不思議ではないんですが、それにして僕にとって目から鱗だったのは、僕は、支配と被支配、、、抑圧しか見えていなかった被害者意識に対する後ろめたさとかそういうものしか見ていないうちに、物語は先に進むんだって、感心したんですよ。そうか、、、支配-被支配の関係に見えて内実はいくらでも変わりうるし、人の意識によっていくらでも変化してしまうんだということがわかったからです。ここでは、完全に意識が対等なんですよ。なので、ペトルーシュカとアレッサンドロは対等の恋愛をしている。物理的に支配-被支配の関係であっても、いくらでもこういうことはあり得るんだって。



GUNSLINGER GIRL(8) (電撃コミックス)

『GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 静謐なる残酷から希望への物語 1

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130103/p1


『GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 静謐なる残酷から希望への物語 2 〜非日常から日常へ次世代の物語である『バーサスアンダースロー』へ

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130104/p1


『GUNSLINGER GIRL』 6〜10巻 相田裕著 成熟した大人の恋の物語の挿入から生まれる立体感

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081028/p1



なので、物理的に不死者と普通の寿命の人間の関係性も、そこには、物理的に一人は、現在の時間の流れの中に生きておらず、かつ、相手はすぐに視点でいなくなってしまうという現実があるかもしれないが、しかしながら、その関係性をどう捉えるかは、そうした物理的構造とは別のところにあるというかのせいがあるわけです。



もちろん、スバルの答えは、この物理的な構造をどうにか解決したわけではありえません。ガンスリだって、いやあれは支配と被支配で抑圧なんだ!搾取なんだ!と言い張ることも可能でしょう。実際物理的にはその通りなので。何も解決はしていないんですよ、物理的に。


でも、ベアトリスは、出てきたでしょう?


明らかに、ペトルーシュカとアレッサンドロは幸せだったでしょう?なおかつ、アレッサンドロは、次の現実に足を踏む出すことができたでしょう?(ラストは言っている人は知っているので、ここでは書かないっすけど)。


それは、構造的なものが物理的に解決していなくたって、人が生きるということの意味を考えれば、スバルの言っていることは、一つの正しさがあるからです。それは、人間というのは一瞬の刹那の「いま」を生きて積み重ねている、という現実です。


そして、その「いま」のインプロビゼーションが、、、、「いま」の密度が濃く鮮やかで価値があればあるほど、それは、永遠に等しい意味を持つのです。


これはなにを言っているかというと、普通の一般人は「死」があるからこそ、生きる時間が限られてくるので、生の煌めきが充実するという構造を持つことになります。けれども、現代社会の病は退屈だと、中島梓はコリンウィルソンはいいました。ハイデガーは、人間の生はほとんどが家畜のようなものだ、といいました。ようは、仮に死があったとしても、現代社会の人間は、「生」に意味に気づくことはほとんどできない構造を生きていることになります。


『自殺島』 森恒二著 バトルロワイヤルの果てには、新たな秩序が待っているだけ〜その先は?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110601/p7


自殺島 1―サバイバル極限ドラマ (ジェッツコミックス)


そうなんですよ、、、、そもそも、人間は、「死」があるから充実した生の時間を生きるというグランドルールというか公式があるわけですが、それが、まともにできている人間というのは実はとても少ないのです。中島梓は、岸田秀は、人間はめちゃくちゃに壊れたラジオのような状態で生まれてくる。なので、電波を受信するのがいつも困難な状態だ、といいました。

ものぐさ精神分析 (中公文庫) コミュニケーション不全症候群 (ちくま文庫)


特に現代社会はその傾向がとても強い。不死者から見ると、人間一般の持つ死があることによる生の充実感という「潜在能力」というものは、非常にうらやましい価値があるものに見えます。不死者には、物理的にできないことだからです。しかしながら、じゃあ、一般の寿命のある人間が、この「潜在性」を使い切って生きているかというと、全然そんなことはないんです。物理的にそういう構造を、潜在的に持っているだけで、使っているわけではないんです。これは、僕も今気づいたのですが、不死者の物語類型をたくさん見て、慣れてきたときに、、、、それが日常化してくると、、、いや、、、不死者の人々が言うほど、一般の人が幸せに生きているか?といえば、、、そんなことないんじゃないか?と思うようになってきたんですよ。だって、こんなにも内発性がないことに悩み、リア充をうらやみ悶え苦しみ、そしてナルシシズムの檻の中から抜けられない、最初の一歩が踏み出せないと、嘆き続けているのが、我々の姿じゃないですか?。それが、一般の寿命のある人の生の過半なんですよ。


そうなんです、、、、何もしなければ、「潜在力の差」は格差になるでしょう。不死者は、存在自体が一般人よりハンデがある格差を背負っているようなものかもしれません。「死」がないわけですから。けれども、それは「潜在」、、、単純に可能性であって、使えるかどうかは別問題なんですね。ここで重要な分析というかひらめきなんですが、実は、生を充実して生きること、意味あるように生きる(=内発性を維持し続けて現実にコミットして生きる)ことというのは、「死」があるが故に時間に意味を見出せるという人間一般の構造とは、関係ないのではないか?という気づきです。つたわっているでしょうか???。これ、僕は凄い自分的には驚きの気づきなんですが、、、、スバルが言っていることも同じこと言っています。


永遠の今=極度の生の充実があるようなきらめきの瞬間


というのは、


実は、ある種の努力と偶然など様々なものが絡まって生まれるものではあるのだが、そのなかに必ずしも「死」があって生に意味を感じるという構造が必須ではないってことなんです。というかあまり関係がない。たしかに、一般人の「死」がありうるという現前性や臨在性が迫るので、すぐに生の充実感覚が発動しやすいという発生率の高さは、確かにあります。


これって、『自殺島』の分析の時に、戸塚ヨットスクールの話をしたんですが、器質的な病気でない限り、死ぬような目に肉体を合わせてやると、ナルシシズムとか引きこもりとか動機レスとかは一発でなくなるというのは事実なんです。なので、生の充実を意味を実感できない現代都市文明の退屈にさいなまされた場合は、死を身近に感じる環境に置いてやれば、すぐに生のキラキラの充実は戻ってくるのは、当たり前事実です。けど、人権などのリスク回避が構造的にビルトインされて維持されている無痛社会の現代都市文明では、こういうのを偶発的に意識せずに、リスクを維持しながら生活世界を生きるような空間環境設計は許されません。少しでも肉体的リスクの回避をできるように人間は都市を設計してきたんですから。これは、バトルロワイヤルモノの分析をしたときに、ずっと語ってきたないようです。ようは、生を実感できないならば、文明を無に帰して、原始時代の万人の万人に対する闘争の状態のリスク無限大の社会に戻してやればいいのだ、と。このテーマの大傑作が『ファイトクラブ』です。主人公が、なぜ生の殴り合いに傾倒していくかは、このロジックですべて説明がつきますし、なぜ世界を滅ぼそうとするのかも非常に理論的に整合性がとれます。宮崎駿の作品のテーマもこの構造が色濃く反映しています。

ファイト・クラブ [DVD]


さてさて、、、、けれども、発動の確率が高いだけで、基本的には、その発動がしないような仕組みをどんどん人類社会は都市文明というブランケットを作って、生の充実(=物理的な肉体のリスク実感)から遠ざかるようになっているんです。なので、全然発動しないで、生の不毛観や無意味感が社会を覆うようになります。


あれ、それって不死者の悩みと同じじゃないの?って思いません?


そう、不死者が目新しくないときは、人類と構造的に違うというその「物理的な部分」ばかりに目が言っていたんですが、それって、実は目的である生の充実を実感するということから逆算すると、条件は実はあまり変わらないんですよ!!!(目から鱗!)。ようは、都市文明のブランケット構造は、生の現実から肉体を遠ざけて、充実から回避させる仕組みになっているので、それは不死者が、死という契機を失っている構造文脈とほぼ同じなんです。


ここにきて、、、、では、どうやって生の充実(=内発性)を獲得して現実にコミットできるか?という問いに至ることになります。そこでは、不死者であることは、まったくディスアドバンテージにはならないんです。(エウレカ!!!)


そこで、、、、スバルはいうわけです。


「明日も、明後日も、その次の日も。四百年先は無理でも、その日々を俺はお前と一緒に過ごしてやれる。永遠を一緒には無理でも、明日を、今を、お前を大事にしてやれる」


これは、非常に単純です。



メメントモリ(=死を忘れるな)の対である、カルペ・ディェム(=今を生きろ)です。



もちろんどうやって?ということはここでは示されていません。でも、ほぼわかりますよね。先日、対等目線ということを書きましたが、「そこに生きている」という現前性、臨在性、迫真性をどう獲得するか?ということなんですが、それは、他者がこの世界に存在することの実感を持てということです。


どうやって他者がいることを実感するか(=対等な存在として実感する)というのは、個別具体的になるので、抽象的にはこれ以上のことが言えません。けど、スバルは、いっていますよね、俺はお前と一緒に過ごしてやれる、って。これってまんまんですよね。。。。つたわっているでしょうか?。強烈な絆を結んで他者が存在していることは、それだけで世界の充実につながるんですよ。他者の存在自体が、ナルシシズムの檻の破壊につながる唯一の方法ですから。けれども、他者とシンクロすることは、自我に囚われて生きている人間には構造的に難しい。中島梓が言う、人間はめちゃくちゃに壊れたラジオとして生まれてくる、です。そしてそれを直す過程が、生きていくということ、成長するということだ、と。


ボーイミーツガール


スバルはいっているわけです。おれはお前に出会えた、と。お前は、俺に出会ったんだ、と。


それは他者につながる契機。


ここで絆の問題、、、、他者とのつながりという実感はどのように発動するのか?という問いになってくるわけです。


この話は、また今度。これ以上長くても何なので(笑)。まぁ、絆と関係性の話、ロマンチック・ラブイデオロギーなどの話は、ずっとこのブログでしてきているテーマですよね。要はどのように他者を実感できるか?、他者とは何なのか?、どうすればいいのか?ってテーマです。かなりの答えはわかっているはずです。このブログは日記形式なので、友達がいなかったペトロニウス君が、友達を見出していくビルドゥングスロマン(笑)になっているので、ずっと読んでいる人には、実感できるはず(笑)。


さて、それだけじゃあないです。


このブログで、LDさんや海燕さんと話しているテーマは、永遠の日常を充実して生きるというテーマでしたよね。これって、接続ですよね。そして、永遠の日常を生きる不毛観を、どうキラキラさせる充実に変えられるか?という問いは、僕のずっと追っているテーマでもあります。


また、サブカルチャーの領域では、不死性の永遠を生きるということと、永遠の日常を生きるということが接続してしまうという現象が起きています。これって、同構造のテーマなので、当然重なるんですよ。


その最前線は何か?といえば、さすがですね、、、、赤松健さんですね。『UQ HOLDER!』まさに、不死者の生きる永遠の日常で、それでもどのような目的や充実がありうるのか?という問い自体が世界観が構造になっています。凄いです。さすが。


UQ HOLDER!(3) (少年マガジンコミックス)


いやー楽しいこといっぱいです。

2014-07-24

『トンイ(Dong Yi)』  2010 韓国 李丙勳(イ・ビョンフン)監督  朝鮮王朝の歴史と地政学的条件が気になる、、、もっとわかるとドラマや映画が楽しめるから頑張って勉強しようと思う今日この頃

トンイ DVD-BOX V [本編6枚組]

評価:★★★★星4つ

(僕的主観:★★★★★5つ)

■ついに、トンイ見始めました。やっぱり韓国ドラマは危険です(笑)

宮廷女官チャングムの誓い』や『イ・サン』を手がけたイ・ビョンフンが監督の作品ということで、見よう見ようと手元に置いていたのだが、、、、基本的に韓国ドラマは危険だと思っているんです。これたぶん60話ぐらいあるはずなので、ようは60時間これに拘束されるんですね(苦笑)。通常、アニメなんかで撮りためているものを一気に見ようとすると、意外に面白くなかったり、ニコニコ動画のリアルタイム性みたいな、その時の盛り上がりが共有できないと、見るのいいやって、全部を見るのって難しいものです。見よう見ようととりだめておいて、見始めた最初の数話でめんどくさくなってやめてしまうことが多々あります。けど、これまでの韓国ドラマで、見始めて途中でやめることができたことは、一度もありません(苦笑)。これ、物凄い危険な劇薬だなーといつも思っています。ましてや、僕が手元にあるのは、評判とか、自分の興味の文脈とか、かなり厳選されたものなので、まずつまらないなんてことはないんですね。いやほんと危険です。しかし、アメリカに来てから気絶するように寝ることも多くて、ストレスもたまっているので、子供を寝せた後に、毎晩奥さんと共有できる何かストレス解消を探さなければいけないということで、、、禁断のこれに手を付けました(笑)。友人の韓国人が、だけでなくいろいろ、同時期に何人も、これいいぞ!ってFacebookで話題にしていたりしたんで、これは何かの啓示だろうと思ったんです。いや、、、それ以来、平均1.5話ぐらい?毎晩、疲労で睡眠が不足しててやばいのに、妻と見続けています。やっぱり、止まらないよ、これ。

イ・サン DVD-BOX I


■背景知識が気になる、朝鮮王朝の歴史が気になる今日この頃

韓国ドラマの面白さのコアは、ソープドラマとしての面白さなので、マクロがメインで全面的に描かれているわけではありません。このようなエンターテイメントをもって、朝鮮の歴史を語ろうとしても、まぁ無理があるとは思います。とはいえ、これは時代劇ですし、基本の人物などは歴史に沿っています。なので、おおざっぱな構造でも、いろいろなマクロの疑問が出てきて、凄い興味深いです。この楽しみ方は、ドラマそのものの面白さとは少し違った楽しみ方ではあるのですが、東アジアの歴史を読み解いていく上では、朝鮮半島がどのような歴史を持っているのか、楮を、地政学的条件を持っているのかを、理解していくとぐっと広がりと深みを持つようになります。なので、全く知識がないなりに(そもそもほぼ知識は皆無なので)いろいろ思ったことを考えてみようと思うのです。僕は知識がほとんどありませんが、そういって勉強できて、ちゃんとわかってから、、、とか言っていると、いつまでも何も始まらないので、わからないなりに自分の頭でえいやって仮説を立てながら考えていきたいと思います。


これは、李氏朝鮮の第19代朝鮮王粛宗 (スクチョン)1674年 - 1720年の時代を描いた作品ですね。


舞台となるこの時代、17-18世紀頃ですね。僕が気になっている光海君の少し後の時代の人ですね。このドラマを見ていて不思議なのは、矛盾する下記2点が並立している舞台背景があることです。


1)粛宗 (スクチョン)が絶対王政的な強大な権力を、自分一人で独占しているように見える


2)西人(ソイン)と南人(ナミン)という大きな党派があって、それが権力を独占しようと争い続けている


ちなみに、ウィキで見る限り、これは事実です。これって、見ててすごい不思議なんですよ?。不思議に思わないですか?。だって、そもそも2)の貴族(リャンバン・両班)の党派が政治権力の実務を独占している状況にあるわけです。だとすれば、国王は、権力が持てるはずがないんです。


中国王朝を見るとわかりますが、皇帝がなぜ独占的に国家運営をすることができるかというと、国の実務を動かす官僚を科挙によるリクルーティングシステムで皇帝自らが選抜して、直接任命しているんです。また、宦官は、もちろん皇帝の奴隷です。これが何を意味するかといえば、中国における貴族の力をそぐためにやっているわけですね。重要なのは、だれが政治の実務を動かしているか?です。皇帝が一人で、実務を動かすことはできません。実際に実務を動かす人が権力を握るんです。皇帝が絶対権力を所有するのは、実務を動かす官僚の任命権を独占的に握っているからですね。


貴族が官僚的な政治の実務を握ると、皇帝や国王などのトップの権力は極端に落ちます。貴族は、自分自身の領地をもち、自分自身が、血統的に継続する自分の家の主なので、全てを皇帝に支配されているわけではないからです。王朝の最初期は、皇帝なり国王が、貴族を任命するので強く支配権がありますが、その後時間がたって代替わりすると、貴族は独立的な力を持つようになります。


ということで、、、、両班(朝鮮の貴族)が強く、政治権力の運営実務を支配しているように見る李氏朝鮮で、国王の絶対権力が維持されるのが、とても不思議なのです。しかも歴史的に事実のようですし。。。なんで???って思います。


さらに、朝鮮王朝における軍事力は、いったいどこにあるの?誰に指揮権があるの?というのがよくわかりません。チャングムもそうなんですが、朝鮮王朝は徳川幕府よりも長い500年の治世があるわけで、基本的にとっても平和なんですよ。平和ボケしすぎるほど、平和慣れしているといってもいい。なので、ドラマでも、ほとんどのケースがこうした後宮の権力争いや、だれの寵愛を受けるかなどの、とっても内輪向けの揉め事ばかりが題材に上がっています。

宮廷女官チャングムの誓い DVD-BOX I



さらにいうと、この平和ボケしている朝鮮王朝の、平和(=戦争がない状態)は、どのような地政学的条件で形成されているのか?というのが気になります。



これ見事に、世子(セジャ)=皇太子の後継者問題のテーマで出てくるんですよね。


朝鮮王朝の皇太子は、だれが決めるというか承認するかっていうと、なんと、中国が承認するんですね。これ普通に物語で描かれているけれども、いや、、、まってよ、、、独立国である朝鮮が、なんで、そんなもっとも重要なことを中国の承認を得ないとだめなわけ???って、、、というか、仮にそういうことがあったとしても、当然のことながら、そんなことは、独立国として不愉快なことはない!!と政治権力争いのテーマになってもおかしくないと思うんですが、国王も貴族も、だれもこのことを全く疑問視している風には描かれていないんですね。これ、物凄い不思議でした。


同じ時期の日本で、天皇や将軍の後継者を中国の承認を求めるなんてはなしになったら、国内で政権交代が起きるほどの反対が出ると思うんですよね。基本的には、日本も朝鮮も、巨大な中国王朝からすると辺境の朝貢国なので、構造的には、それは事実なんですが、、、とはいっても、日本でそれがあまりあからさまになったら、大問題になると思うんですよ。


ここでなんで、こんなに貴族の両班の中で、全く疑問がないんだろう、、、と思っていたら、1636年の丙子胡乱についての記事をこの前見つけました。


丙子胡乱の辛い記憶

地理的に中国に近いので、その顔色を伺う必要があるとは理解できます。しかしそれにしても同盟国からの、しかも自分を守ってくれるための案をすべて蹴ってしまうとは……。

鈴置:「地理」だけが理由ではありません。中国の言うことを聞かなかったため、殴りつけられ踏みつけられた屈辱の「歴史」による部分も大きいのです。

 11月1日、韓国の歴史学者、ハン・ミョンギ明知大学教授が『丙子胡乱』(ピョンジャ・ホラン)という歴史小説の出版記念会を開きました。

 韓国の各メディアはこれを大きく取り上げました。「丙子胡乱」こそが、現在の韓国人の対中恐怖心の源であり、現在の国際情勢と二重映しになる歴史的事実だからです。

 これは丙子の年――1636年の12月、「後金」から国号を変えたばかりの清帝国が、服属を拒んだ朝鮮朝(李氏朝鮮)に大量の兵を送って攻撃し、2カ月で降伏させて冊封体制に強引に組み込んだ事件です。

野蛮人に土下座

 この戦争は今でも韓国人のトラウマになっています。清は女真族に建てられた国家です。朝鮮人は彼らを自分よりも劣った野蛮人として見下していた。その女真族に戦で負けたため、当時の王様、仁祖は土下座して和を請わざるをえなかった。

 漢民族に服属するのならともかく、野蛮人の建てた清帝国の属国になるとは大いにプライドが傷ついたのです。

 ちなみにその少し前には、同じく野蛮人の日本が攻めて来ました。しかし、明に助けられて撃退に成功しています。だから7年間に及ぶ日本の侵攻よりも、たった2カ月間で終わった「丙子胡乱」の方が大きな事件だった、という韓国人も多いのです。

 今でも、当時に清が朝鮮に建てさせた「大清皇帝功徳碑」がソウル市内に残っています。「愚かな朝鮮王は偉大な清皇帝に逆らった。朝鮮王は猛省し、この碑を建てた」との文言が碑に刻まれています。

 それに敗戦の結果、数十万人の朝鮮人が捕虜として連れ去られ、多くは戻れませんでした。敗戦に続く冊封体制下でも「清国に逆らった朝鮮」は大量の朝貢品や若い女性を送らざるを得ませんでした。


「異様な反日」を生む「絶望的な恐中」

http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20131119/256047/?P=3

2012年ぐらいの韓国で大ヒットした『神弓-KAMIYUMI-』は、この時の題材をとったものですね。


【初回限定生産】神弓-KAMIYUMI- ブルーレイ&DVDセット (2枚組) [Blu-ray]


えっと、僕はあんまり朝鮮史には詳しくないんですが、朝鮮半島を見るときには、大きな歴史的な条件として、


中国との関係に置いて絶望的なまでの恐怖が刻み込まれていること


中国大陸と地続きという地政学的条件が故に、最強の陸軍国たる中国に対して軍事的に優越することが非常に難しい


こういった諸条件が、地政学的(単に地理的なもの)と歴史の記憶に深く刻み込まれていることがあるらしいということです。そして多分ですが、李氏朝鮮は、非常に強烈に明(漢民族の王朝)に対して臣従していますが、このパックス・チャイナとでもいうべき、中華帝国の周辺国・衛星国として冊封体制に組み込まれると、驚くぐらいに国が安定するのでしょうね。中国は巨大な国なので、臣従している限りは、そこまで野蛮人が住む周辺国に攻めてくることはあまりありません。朝鮮王朝は、500年続いています。ただし当然のことながら軍事的には、中国に頼るわけですから、


・軍事的に強国になるのが非常に難しい&対外戦争や内乱の契機がないので文官が統治する傾向が強まる


・たぶん国内で中国と結ぶとかの派閥争いが常態化して、かつ軍事力が弱いので政治闘争的な内ゲバなになりやすい



こういう構造が、500年ぐらい続くわけです。ちなみに、ベトナムのように周辺国なんですが、中国としょっちゅう戦争して、しかも、ほとんど勝っているという国もあります。中国との軍事力の格差が圧倒的にあるにもかかわらず、、、ベトナムは軍事的には強国ですよねぇ。ああ、、そういう意味では、ベトナムとかチベットとかの歴史物語を見てみたい、、、。時代劇のいいものないかなぁ、、、。


さて現在の韓国は、北朝鮮に比較すると物凄い予算規模の上の近代国家なのですが、韓国は戦争になったら北朝鮮(&中国軍)に全然勝てると思っていないように見えるんですが、、、不思議ですよね。国力はありえないくらい差がついているのはずなのに。いくらなんでも、北朝鮮とでは軍隊の装備やレベルで差がありすぎるだろうと思うんですが、、、まぁ、陸軍の規模は凄いですが、、北朝鮮、、、けど、伝統的に戦争には自信がない国なんだろうと思います。それは、たぶん歴史の蓄積なんだろうと思います。そもそも、ここ数百年は、軍事的には負けの経験ばかりですからねー。


でも、現代戦争史の中での屈指の名将である白善ヨプ将軍が登場するなど、本当はそんなに弱い国とは思えないんですが、、、、けれども、国の構造が、軍事的に暴走して「外に侵略拡大する」ような暴力に偏ることが少ないのかもしれません。そこへいくと、日本や中国、ベトナムとかは、相当に暴力的な国です(苦笑)。日本なんか、小国で辺境国のくせに、軍事的には相当気合が入っいます。国の傾向から行って相当内向きで、細かいことが好きな日常コミットな文化伝統があるはずなんですが、、、戦国時代から大日本帝国の近代まで、軍事的には、歴史が証明していますよね。歴史って重要なんでしょうねー。おれはやれる!!!と思いこめる(=妄想・幻想)があるのとないのでは、国の統合や意思統一のレベルが違ってくるのでしょう。


あっと、近代の朝鮮の歴史を見るのに、この白善ヨプ(Paik Sun-yup))将軍自身による伝記は、素晴らしく面白いです。しかも、この本の凄いのは、そもそも日本語で書き下ろされている!というところです。彼は、元満州国軍の士官で、日本の教育を受けているからできることなんですね。父の代に、朝鮮が他国の植民地にされる暗い絶望の時代を経験した後、国が分断される中で、自由主義陣営の同盟国として韓国を建国していく部分のダイナミックな歴史が、主観の記述で読むことができます。韓国陸軍の建軍の父であり(なんと30台で将軍かつ参謀総長!)、朝鮮半島ひいてはアジアにおける自由主義陣営防衛の英雄である彼の様な人の伝記が、日本語で読めるというのは、なんと素晴らしいことなのでしょう。ちなみに、彼の人生を一言でいうと、漫画のチートキャラのような大英雄です(笑)。もう人間の器でかすぎて、めまいがします(笑)。もう少しわかりやすく言うと、そうですねー田中芳樹さんの小説のヤン・ウェンリーみたいな感じです。・・・いや、もっと勇猛果敢かな?。朝鮮戦争でほぼ韓国、アメリカ軍とも徹底に次ぐ撤退でめちゃくちゃに追い込まれてボロボロの時に、将軍自らが先頭に立っておれに続けーと敵軍に突入していった逸話は、軍事マニアの中でも有名な話だそうです。ちなみに、それで、弱卒の韓国軍を馬鹿にしていたアメリカ軍が、その行動に非常に感動して韓国軍を信用するようになり、大反抗に出るきっかけを作ったことになるといわれています。戦術的にだけではなく、戦略的にも見事な突撃だったそうです。この辺の部下に向けたスピーチとか胸が熱くなりますよ。これ、マジであったことなのか!と思うと。ちなみに当時の韓国陸軍は、素人を寄せ集めただけの集団で、戦いの中で指揮官や訓練された軍事が損害に次ぐ損害でほとんどおらず、学生などの動員で何とかしのいでいるような状態だったんです。その弱卒部隊で、中国軍と北朝鮮の大部隊をうち破っていくのです。ちょっと考えただけでも、熱い話でしょう?。

連日連夜の激闘は誠にご苦労で感謝の言葉もない。よく今まで頑張ってくれた。だがここで我々が負ければ、我々は祖国を失うことになるのだ。我々が多富洞を失えば大邱が持てず、大邱を失えば釜山の失陥は目に見えている。そうなればもう我が民族の行くべき所はない。だから今、祖国の存亡が多富洞の成否に掛かっているのだ。我々にはもう退がる所はないのだ。だから死んでもここを守らなければならないのだ。しかも、はるばる地球の裏側から我々を助けに来てくれた米軍が、我々を信じて谷底で戦っているではないか。信頼してくれている友軍を裏切ることが韓国人にできようか。いまから私が先頭に立って突撃し陣地を奪回する。貴官らは私の後ろに続け。もし私が退がるようなことがあれば、誰でも私を撃て。さあ行こう! 最終弾とともに突入するのだ


— 白善、1950年8月21日


文庫 若き将軍の朝鮮戦争 (草思社文庫)


そんな背景を考えなら見ていると、歴史大河ドラマ、時代劇というのは本当に楽しいです。こつこつ、朝鮮の時代劇はこれから見ていきたいです。まぁ、そういう背景ないしにも、とても楽しいので、超見る気になります。