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2014-07-28

『Re:ゼロから始める異世界生活』 長月達平著  永遠を生きる不老不死の類型の物語への答えの一つ

Re:ゼロから始める異世界生活1 (MF文庫J)


「でも、俺はお前と明日、手を繋いでいてやれる」


「――――」


「明日も、明後日も、その次の日も。四百年先は無理でも、その日々を俺はお前と一緒に過ごしてやれる。永遠を一緒には無理でも、明日を、今を、お前を大事にしてやれる」



「――――ッ」


「だから、ベアトリス。――俺を、選べ」




第四章129 『――俺を選べ』

http://ncode.syosetu.com/n2267be/300/


ああ、、、素晴らしい。あまり抜き出すと、もったなさすぎるので、僕のメモレベルって、、、一番大事な場所だけれども(苦笑)、、、、この物語は、なんと素晴らしいのだろう。僕が吸血鬼モノ、永遠の生命モノの類型で提起した課題に完璧の答えている。しかも見事なシンプルさで。見事ですよ、長月達平さん。これ、ベアトリスの造形と存在を設計した時から、確実にこの会話は想定されていたと思う。まさに彼女の存在の本質にかかわる会話になっている。彼女が救済されるためには、この答えしかないんだもの。


今回の記事の問いは、不死の時、永遠の時を生きる人が、救済されるにはどうすればいいのか?です。


これを考える時に、まず前段階として、(1)人を愛するということはどういうことなのか?=(2)人を救済するとはどういうことなのか?という問いがあります。


僕の答えは決まっています。上記で、イコールで結んだように、僕は、人を愛することと、人を救済することは、ほぼ等分だと考えています。そして、もう一つの言い方であれば、他人を愛するということは、その人の本分を全うさせてあげること、その手助けをすること、それとともにともに倒れることを許容すること、です。


難しいですね、、、、僕はよく言うのですが、相手のことが好きだったら、相手の「本分を全うさせてあげたい」と思うのではないでしょうか?という問いかけをします。


「本分を全うさせてあげたい」というのは、その人の魂の本質が、きちっと達成され、自己実現され、世界に示されること、を言っています。えっと、もっとわかりやすくいえば、その人の「魂がほんとうにしたいこと」をするようにしてあげるということです。そして、ここでいう「魂がほんとうにしたいこと」をするということは、イコールその人が救済されること、であると僕は考えています。その人の存在、実存に関わる自己表現が昇華された時、その人が生きていた「意味」とか甲斐があった、ということだと僕は思うのです。


たとえば、エミリアの本質は、銀髪のハーフエルフで、世界から忌み嫌われて差別されることにあります。彼女はそのことによって、世界からつまはじきにされ拒絶され苦しんだ幼少期を生きてきました。彼女が「そのような姿である」ことは彼女自身のせいではありませんが、これから逃げても始まりません。だって、彼女の存在そのものだもの。なので、彼女が王になるという決意は、彼女の実存の自己表現に関わることになります。王になって、このような差別される世界に、差別される人々の居場所を作ること、のみならず、差別があるこの世界を漸進的に少しでも、そうでないで生き方がありえるような世界に変えるために人生をささげること、彼女の王になるという決意はこうなります。なので、彼女を愛するならば、どうしても、この根幹の部分に対する共感(=失敗したらともに死ねる覚悟)と、それに協力できるだけの「何か」が必要になります。


僕が言うこの(1)人を愛するということはどういうことなのか?=(2)人を救済するとはどういうことなのか?という問いの答えは、このようなものです。長くぐじぐじ説明してもわかりにくい人にはわかりにくいと思うので、まぁ、そういうもんだと思って先に進めましょう。


その具体的な例は、タイプムーンの『Fate stay night』の記事で書きました。士郎がセイバーを救うということはどういうことなのか?、セイバーが士郎を愛するということはどういう意味と結末をもたらすことになるのか?という問いかけです。


『Fate stay night』 人を本当に愛することは、愛する人の本分を全うさせてあげること、、、たとえがそれが永遠の別れを意味しても

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080802/p2


この記事は、2006年10月13日に書いているんですね。もう8年近くも経過しているんだ、、、。僕はこの記事が凄く好きで、それは、僕が、Fateを好きな理由の根幹の一つだからで、何度読み返しても、自分で自分が納得します(笑)。それは、人が救済されるということはどういうことなのか?の、本質が描かれているからだと思うのです。もう少し優しい言葉で云えば、セイバーが救われるには、幸せになるには、どうすればいいのか?ということを分析してちゃんと理解すると、愛している士郎は結ばれないということになってしまうという構造があるってこと。人の世界に生きるということは、時にこういう、どうにもならなさが厳然とあり・・・そしてそうだからこそ、世界は悲しく、そして美しいと思うのです。このどうにもならなさの本質までたどり着いた、士郎とセイバーの愛は、本物だと、真実だと僕は思うのです。

フェイト/ステイナイト[レアルタ・ヌア] extra edition


このころ(2008年)くらいは、そこまで吸血鬼モノ、永遠の生命モノの類型まだまだそれほど広まっていなかったと思うんですが、不死のテーマは、本当に広く深くエンターテイメントの世界に展開していますね。たぶんその嚆矢となった作品を、最近のサブカルチャーで探すならば、なんといっても高橋留美子さんでしょう。この人は本当に天才だと思います。ほんとうに選ぶテーマがいちいちツボというか経絡非行の致命傷をつくような鋭さを持っている人です。


僕ぐらいの1970年代の生まれの人は、読み切りで読んだことあると思ういますが、結構長いシリーズなので。最初の『人魚の森』が、単行本が1991年ですね。素晴らしい大傑作なので、ぜひとも漫画で経験してみてください。また、不老不死や永遠の命を扱った物語の類型としては、古典ともいえる作品なので、クリエーターの方は必須だと思います。


人魚の森 (るーみっくわーるどスペシャル)


あらすじは、500年ほど前に、漁師の湧太が、人魚の肉を食べてしまい、不老不死になったところから始まります。人魚の肉を食べても、必ずしも不老不死になれるわけではなく、身体が適応しなければ、なりそこないという化け物になってしまう確率も高く、なかなか湧太は、自分の仲間を見つけることができません。そして、戦国、江戸、明治、大正、昭和の長き時をさすらい続けます。そして、、、とうとう人魚の里を見つけ出し、真魚を見つけ出すことになります。


この物語を読めば、不老不死がいかに苦しく地獄かが変わります。何が苦しいかというと、孤独です。同じ時を生きることができないのです。それは、他者がいないも同じ。なので、この物語に置いて、重要なテーマは、どうすれば同じ時を生きることができるのか?という他者(=伴侶)を探す旅という形式になります。これにはいろいろな方法があって、一つ目には、老いる身体に戻る方法を探すことです。もう一つは、自殺です。さらには、老いることない仲間を探し出すこと。この3つぐらいしか論理的には解決方法はありません。あっと、実は、グレンラガンや異界王など、これとは違ったアプローチでこの、不死性を使おうとするマクロの指導者たちがいるのですが、その話はまた今度。個人の実存をベースに、個人が幸せになるためにはどうすればいいのか?という視点でさらに続きを追ってみたいと思います。


たとえば、最近では、西尾維新さんの物語シリーズの吸血鬼、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの話は、まんま、このテーマですね。吸血する行為は、この永遠に世界の同時性のグランドルールから切り離されてしまう地獄を分かち合う仲間を得る行為ですが、それって凄く難しいと思います。なぜならば、『人魚の森』でも、人魚の肉を食べた人はほとんどがなりそこないになるんですが、それと同じように、永遠の時を生きるという地獄に耐性のある、それでも自我が保っていられるほどの強さを持った人間は、ほとんどいないからだろうと思います。なので、ハートアンダーブレードにしてみると、あららぎくんに出会えたのは凄い僥倖なので、まぁ手放さないでしょうねー(苦笑)。


傷物語 (講談社BOX)

このテーマは、同じように、赤松健さんの『魔法先生ネギま!』のエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルのテーマがまさにそれですね。このキャラクターが主人公ではなく、脇役(でもないんだが・・・)キャラで登場してくるところは、本当にこの類型のテーマが広く広がってきた証だろうと思います。だってこれだけの情報量で、全体像がわかってしまって違和感が持たれないくらいだから。また、その後のネギ自身やネギの父親などは、明らかにこの不死性のテーマを色濃く身に投影しています。特に先ほど、マクロの指導者が、不死性を使って、人類の進歩とマクロの課題に貢献しようとする物語類型があるといいましたが、それと同じ形です。ネギもほぼ永遠とは言いませんが、人の身ではありえない時間を生きて人類に貢献したであろうことが、まだ謎は明らかになっていませんが、ほのめかされています。

魔法先生ネギま!(23) (少年マガジンコミックス)


さてさて、ここまで来てやっと、最初の『Re:ゼロから始める異世界生活』のベアトリスの話に戻ります。


永遠の時を生きる不老不死の存在が、ナルシシズムの檻と同じ、世界の同時性のグランドルールから切り離された絶対的な孤独を生きています。同時性のグランドルールとか、すごいマイ用語っぽいテキトーな言葉を使っていますが、ようは、同じ「時間」を生きていないという意味で使っています。「時間」というのはハイデッガー的?に使っています。死というエンドポイントがあって、そこへ向かっていっているものを指しています。なので「死」がない時点で、この時間感覚の中に生きているものではなくなってしまいます。もっと簡単に言えば、同じルールの中に生きていないので、物事に関する感覚が全く違ってしまうということが言いたいのです。そしてこうした基礎的な感覚が共有できればければ、もちろんのこと共感はありえなくなってしまいます。というか、基礎的というか、死が厳然とあって、そこですべてが消失してしまうからこそ、いま生きている時間に「意味」が生まれるわけであって、要は生に意味がないことになるわけですね。まぁ、理論的な整合性とか定義とはどうでもよくて、永遠の不老不死を生きる人と普通の寿命がある人間が仮に愛し合ってしまえばどうなるか?ということを考えれば、すぐこの問題点はわかるわけです。


新装版 ロードス島戦記 灰色の魔女 (角川スニーカー文庫)


僕らの世代(1970年だから60年代生まれ)ならば日本人の作りだすファンタジーの原型の一つともいえる水野良さんの大傑作『ロードス島戦記』のパーンとディートリットが、思い出されます。僕は、残念ながらこの辺は知識が少なくて、TRPGとかよくわからない、なんちゃっての人なんですが、、、それでも中学時代に『ロードス島戦記』をむさぼり読み、、、日本のファンタジーの黎明期の一つをよく覚えています。そこで、、、、まだ恋人?になり切れていない?けど、深く深く絆を結んだパーンとディートリットを見て、これほどの絆を深く結んでしまった二人は今後どうなっていくのだろうか?。、先に死んでしまうパーンを見取って、ディートリットはどうその後生きていくのだろうか?ということが書かれていたのが、胸にとても残っています。非常に単純な話、寿命が違いすぎるので、一人は片方を残してすぐ死んでしまうのです。


この問題をどう解決するか?というのは、吸血鬼モノ、不老不死モノ、永遠の命モノなどの物語類型には、重要なポイントです。


ほとんどの永遠の命を生きる吸血鬼たちは、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードにしてもエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルにしても、恋愛に非常に憶病になっているケースが多いです。経験は膨大で老成している割には、処女とは言わないまでも、初心な心のままで長く過ごしているケースが多い。それは、人間と交わることに対して恐怖があるからですね。必ず自分を残して死んでしまうわけですから。絆を結べば結ぶほど、時の流れに洗い流されてそれが消え去っていくことの恐怖が勝るのだろうと思います。


まぁこういう構造があるから、ロリババア的な、キャラクター造形が生まれてきたんだろうと思います(笑)。


ちなみに、『Re:ゼロから始める異世界生活』は、作者がガチな年上好きのせいか(←だよね?)、物凄い確率でロリババアというか、このタイプのキャラクターの宝庫ですよね。ベアトリスにしても、リューズ、そして主人公のエミリアにしても、見事な精神年齢と肉体年齢のズレがあって、、、膨大な情報量(ページ文字数がそもそも膨大=作品世界が広大で深い)、時系列がかなりの長さまで含めてプロットが複雑に構成されている、きちっとエンドポイントを設定して、語りたい本質があってキャラクター造形が設計されているなど、なろうネイティヴとしては例外的な普通の商業小説の高いレベルの製造の仕方に則った構造をしているからこそ、可能なものだと思います。というのは、エミリア時系列的にとても複雑な人生を辿っていて、かつ精神年齢と肉体年齢が非常にずれています。こういう「設定」自体はすぐ作るのは可能ですが、彼女のようにその言動や口癖、態度も含めて、確かにとても幼いんだけれども、年寄り臭いというようなことを、実感できるのは、ほんとうに最初の最初から慎重にキャラクターを設定していないとできないことだと思うんですよね。感心します。物凄い芸が細かい。そして、、それが、かわいくて、魅力的だったりするのは、感心します。よくこんなの書けるな、、、って。リゼロってホント傑作です。


さて、話がまたそれましたが、普通の寿命がある人間と永遠の不老不死を生きるものとの出会い、関わり、そして恋愛を描くときに、同じ時を生きることができない、また寿命があるほうが先に死んでしまうということを、どう答えるのか?というのが、この問題で重要だということがわかったと思うのですが、ベアトリスという400年の時を生きてきた少女を、外の世界に連れだすには、ではどうすればいいのか?というエピソードの問題設定がスバル君には課されます。


その答えが、これです。


「でも、俺はお前と明日、手を繋いでいてやれる」


「――――」


「明日も、明後日も、その次の日も。四百年先は無理でも、その日々を俺はお前と一緒に過ごしてやれる。永遠を一緒には無理でも、明日を、今を、お前を大事にしてやれる」



「――――ッ」


「だから、ベアトリス。――俺を、選べ」




第四章129 『――俺を選べ』

http://ncode.syosetu.com/n2267be/300/


これ、僕は思うのですが、間違いなく、この作品を作る前から想定されていた会話だったんじゃないかな、と思います。この長月達平さんは、こういうコアの煌めきの部分があってそこから逆算して物語を作るスタイルを取っている気がします。僕の勝手な思い込みですがね。とはいえ、これが、吸血鬼モノ、不老不死モノ、永遠の命モノなどの物語類型に対しての見事な答えになっているはわかると思います。のみならず『魔法先生ネギま』でも『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』でもそうなんですが「最初の一歩を踏み出すことの勇気」というテーマにしたての答えとのシンクロを持っています。


『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』  理不尽な孫の手著 異世界転生の日常やり直しセラピー類型の、その先へ

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131105/p1


無職転生 ~異世界行ったら本気だす~ 3 (MFブックス)


「最初の一歩を踏み出すことの勇気」というテーマというのは、現代商業エンターテイメントのもっとも重要なテーマとして、「ある」し「あるべき」だと思うものなのですが、物凄く端的に言うと、引きこもりをどのように外の世界に連れだせるか?ということです。もう少し難しく言えば、ナルシシズムの檻に囚われがちな現代社会の都市文明の生の在り方なの中で、どうやって、リアルに踏み出す勇気を、、、それも最初の一歩の勇気を調達するか?という問いです。もっと文学的に言うと、他者がいない世界にどのように他者を招来するか?というあの往年の文学の大テーマにつながっていくものです。そして、これが、現代社会には最もポピュラーでかつ先鋭的に表れているテーマの一つでもあると僕は思っています。これは、僕が最近よく話題している内発性をどのように獲得するのか?というテーマともほぼシンクロしています。


やっぱ趣味と友達がないと、しあわせになれんよねー

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131030/p1

祭りを起こす才能(=内発性)って、どうやって獲得するものなんだろう? またその構造はどうなっているんだろう?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131225/p1

本当に自分がしたいことは何なのか?、無償でなんの報酬がなくても楽しくやり続けることは何なのか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140603/p1


細かい具体的な話は端折りますが、ベアトリスは図書館の中で400年間引きこもっています。。。。ふとこう書いて、ちょっとうらやましいな、、、と思ってしまった(苦笑)。本に埋もれて永遠の時を過ごすとか、なにそれ、、、幸せそう、、、、。と、マイン(『本好きの下剋上 〜司書になるためには手段を選んでいられません〜』)ならいうでしょうねぇ。まぁ、それはさておき、そこから外の世界に連れ出すときに、何が言えるか?ってことです。しかも、永遠の命を生きる人にとって、すぐ死んでしまう普通の人からいわれることは、無責任極まりないものに感じられるはずです。だって、しょせん、すぐ死んじゃっていなくなってしまうんですから。


けど、、、、僕はこのテーマを思う時にいつも思い出すエピソードがあります。それは、相田裕さんの『GUNSLINGER-GIRL』のペトルーシュカとアレッサンドロのエピソードを強く思い出すのです。僕はこのエピソードは、本当に大好きで、大好きなだけではなくて、、、、惚れ惚れするような感動があるんですよね、、、。最初に読んだ時の衝撃は今でも忘れられません。というのは、この義体と担当官って、被支配者と支配者、奴隷と主人そういう関係なんですよね。主従関係がある。こうした関係性は搾取だけの関係しかありえず、、、、というような視点だけで眺めていたんですよ。常に担当官が優越の状態で、その搾取に対してどう考えるか?という、被害者的視点ばかりでものを考えていたんです。けど、アレッサンドロが、ペトルーシュカには短い寿命しか無い話を聞いて、まったく動揺しないんですね。それは、


自分だって、いつまで生きられるか全然わからないのに、、、、とつぶやくんです。


まぁ、彼はスパイのような極端な職業についていてかなり刹那的に生きている人なんですが、このような死生観に諦念を持っていても不思議ではないんですが、それにして僕にとって目から鱗だったのは、僕は、支配と被支配、、、抑圧しか見えていなかった被害者意識に対する後ろめたさとかそういうものしか見ていないうちに、物語は先に進むんだって、感心したんですよ。そうか、、、支配-被支配の関係に見えて内実はいくらでも変わりうるし、人の意識によっていくらでも変化してしまうんだということがわかったからです。ここでは、完全に意識が対等なんですよ。なので、ペトルーシュカとアレッサンドロは対等の恋愛をしている。物理的に支配-被支配の関係であっても、いくらでもこういうことはあり得るんだって。



GUNSLINGER GIRL(8) (電撃コミックス)

『GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 静謐なる残酷から希望への物語 1

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130103/p1


『GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 静謐なる残酷から希望への物語 2 〜非日常から日常へ次世代の物語である『バーサスアンダースロー』へ

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130104/p1


『GUNSLINGER GIRL』 6〜10巻 相田裕著 成熟した大人の恋の物語の挿入から生まれる立体感

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081028/p1



なので、物理的に不死者と普通の寿命の人間の関係性も、そこには、物理的に一人は、現在の時間の流れの中に生きておらず、かつ、相手はすぐに視点でいなくなってしまうという現実があるかもしれないが、しかしながら、その関係性をどう捉えるかは、そうした物理的構造とは別のところにあるというかのせいがあるわけです。



もちろん、スバルの答えは、この物理的な構造をどうにか解決したわけではありえません。ガンスリだって、いやあれは支配と被支配で抑圧なんだ!搾取なんだ!と言い張ることも可能でしょう。実際物理的にはその通りなので。何も解決はしていないんですよ、物理的に。


でも、ベアトリスは、出てきたでしょう?


明らかに、ペトルーシュカとアレッサンドロは幸せだったでしょう?なおかつ、アレッサンドロは、次の現実に足を踏む出すことができたでしょう?(ラストは言っている人は知っているので、ここでは書かないっすけど)。


それは、構造的なものが物理的に解決していなくたって、人が生きるということの意味を考えれば、スバルの言っていることは、一つの正しさがあるからです。それは、人間というのは一瞬の刹那の「いま」を生きて積み重ねている、という現実です。


そして、その「いま」のインプロビゼーションが、、、、「いま」の密度が濃く鮮やかで価値があればあるほど、それは、永遠に等しい意味を持つのです。


これはなにを言っているかというと、普通の一般人は「死」があるからこそ、生きる時間が限られてくるので、生の煌めきが充実するという構造を持つことになります。けれども、現代社会の病は退屈だと、中島梓はコリンウィルソンはいいました。ハイデガーは、人間の生はほとんどが家畜のようなものだ、といいました。ようは、仮に死があったとしても、現代社会の人間は、「生」に意味に気づくことはほとんどできない構造を生きていることになります。


『自殺島』 森恒二著 バトルロワイヤルの果てには、新たな秩序が待っているだけ〜その先は?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110601/p7


自殺島 1―サバイバル極限ドラマ (ジェッツコミックス)


そうなんですよ、、、、そもそも、人間は、「死」があるから充実した生の時間を生きるというグランドルールというか公式があるわけですが、それが、まともにできている人間というのは実はとても少ないのです。中島梓は、岸田秀は、人間はめちゃくちゃに壊れたラジオのような状態で生まれてくる。なので、電波を受信するのがいつも困難な状態だ、といいました。

ものぐさ精神分析 (中公文庫) コミュニケーション不全症候群 (ちくま文庫)


特に現代社会はその傾向がとても強い。不死者から見ると、人間一般の持つ死があることによる生の充実感という「潜在能力」というものは、非常にうらやましい価値があるものに見えます。不死者には、物理的にできないことだからです。しかしながら、じゃあ、一般の寿命のある人間が、この「潜在性」を使い切って生きているかというと、全然そんなことはないんです。物理的にそういう構造を、潜在的に持っているだけで、使っているわけではないんです。これは、僕も今気づいたのですが、不死者の物語類型をたくさん見て、慣れてきたときに、、、、それが日常化してくると、、、いや、、、不死者の人々が言うほど、一般の人が幸せに生きているか?といえば、、、そんなことないんじゃないか?と思うようになってきたんですよ。だって、こんなにも内発性がないことに悩み、リア充をうらやみ悶え苦しみ、そしてナルシシズムの檻の中から抜けられない、最初の一歩が踏み出せないと、嘆き続けているのが、我々の姿じゃないですか?。それが、一般の寿命のある人の生の過半なんですよ。


そうなんです、、、、何もしなければ、「潜在力の差」は格差になるでしょう。不死者は、存在自体が一般人よりハンデがある格差を背負っているようなものかもしれません。「死」がないわけですから。けれども、それは「潜在」、、、単純に可能性であって、使えるかどうかは別問題なんですね。ここで重要な分析というかひらめきなんですが、実は、生を充実して生きること、意味あるように生きる(=内発性を維持し続けて現実にコミットして生きる)ことというのは、「死」があるが故に時間に意味を見出せるという人間一般の構造とは、関係ないのではないか?という気づきです。つたわっているでしょうか???。これ、僕は凄い自分的には驚きの気づきなんですが、、、、スバルが言っていることも同じこと言っています。


永遠の今=極度の生の充実があるようなきらめきの瞬間


というのは、


実は、ある種の努力と偶然など様々なものが絡まって生まれるものではあるのだが、そのなかに必ずしも「死」があって生に意味を感じるという構造が必須ではないってことなんです。というかあまり関係がない。たしかに、一般人の「死」がありうるという現前性や臨在性が迫るので、すぐに生の充実感覚が発動しやすいという発生率の高さは、確かにあります。


これって、『自殺島』の分析の時に、戸塚ヨットスクールの話をしたんですが、器質的な病気でない限り、死ぬような目に肉体を合わせてやると、ナルシシズムとか引きこもりとか動機レスとかは一発でなくなるというのは事実なんです。なので、生の充実を意味を実感できない現代都市文明の退屈にさいなまされた場合は、死を身近に感じる環境に置いてやれば、すぐに生のキラキラの充実は戻ってくるのは、当たり前事実です。けど、人権などのリスク回避が構造的にビルトインされて維持されている無痛社会の現代都市文明では、こういうのを偶発的に意識せずに、リスクを維持しながら生活世界を生きるような空間環境設計は許されません。少しでも肉体的リスクの回避をできるように人間は都市を設計してきたんですから。これは、バトルロワイヤルモノの分析をしたときに、ずっと語ってきたないようです。ようは、生を実感できないならば、文明を無に帰して、原始時代の万人の万人に対する闘争の状態のリスク無限大の社会に戻してやればいいのだ、と。このテーマの大傑作が『ファイトクラブ』です。主人公が、なぜ生の殴り合いに傾倒していくかは、このロジックですべて説明がつきますし、なぜ世界を滅ぼそうとするのかも非常に理論的に整合性がとれます。宮崎駿の作品のテーマもこの構造が色濃く反映しています。

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さてさて、、、、けれども、発動の確率が高いだけで、基本的には、その発動がしないような仕組みをどんどん人類社会は都市文明というブランケットを作って、生の充実(=物理的な肉体のリスク実感)から遠ざかるようになっているんです。なので、全然発動しないで、生の不毛観や無意味感が社会を覆うようになります。


あれ、それって不死者の悩みと同じじゃないの?って思いません?


そう、不死者が目新しくないときは、人類と構造的に違うというその「物理的な部分」ばかりに目が言っていたんですが、それって、実は目的である生の充実を実感するということから逆算すると、条件は実はあまり変わらないんですよ!!!(目から鱗!)。ようは、都市文明のブランケット構造は、生の現実から肉体を遠ざけて、充実から回避させる仕組みになっているので、それは不死者が、死という契機を失っている構造文脈とほぼ同じなんです。


ここにきて、、、、では、どうやって生の充実(=内発性)を獲得して現実にコミットできるか?という問いに至ることになります。そこでは、不死者であることは、まったくディスアドバンテージにはならないんです。(エウレカ!!!)


そこで、、、、スバルはいうわけです。


「明日も、明後日も、その次の日も。四百年先は無理でも、その日々を俺はお前と一緒に過ごしてやれる。永遠を一緒には無理でも、明日を、今を、お前を大事にしてやれる」


これは、非常に単純です。



メメントモリ(=死を忘れるな)の対である、カルペ・ディェム(=今を生きろ)です。



もちろんどうやって?ということはここでは示されていません。でも、ほぼわかりますよね。先日、対等目線ということを書きましたが、「そこに生きている」という現前性、臨在性、迫真性をどう獲得するか?ということなんですが、それは、他者がこの世界に存在することの実感を持てということです。


どうやって他者がいることを実感するか(=対等な存在として実感する)というのは、個別具体的になるので、抽象的にはこれ以上のことが言えません。けど、スバルは、いっていますよね、俺はお前と一緒に過ごしてやれる、って。これってまんまんですよね。。。。つたわっているでしょうか?。強烈な絆を結んで他者が存在していることは、それだけで世界の充実につながるんですよ。他者の存在自体が、ナルシシズムの檻の破壊につながる唯一の方法ですから。けれども、他者とシンクロすることは、自我に囚われて生きている人間には構造的に難しい。中島梓が言う、人間はめちゃくちゃに壊れたラジオとして生まれてくる、です。そしてそれを直す過程が、生きていくということ、成長するということだ、と。


ボーイミーツガール


スバルはいっているわけです。おれはお前に出会えた、と。お前は、俺に出会ったんだ、と。


それは他者につながる契機。


ここで絆の問題、、、、他者とのつながりという実感はどのように発動するのか?という問いになってくるわけです。


この話は、また今度。これ以上長くても何なので(笑)。まぁ、絆と関係性の話、ロマンチック・ラブイデオロギーなどの話は、ずっとこのブログでしてきているテーマですよね。要はどのように他者を実感できるか?、他者とは何なのか?、どうすればいいのか?ってテーマです。かなりの答えはわかっているはずです。このブログは日記形式なので、友達がいなかったペトロニウス君が、友達を見出していくビルドゥングスロマン(笑)になっているので、ずっと読んでいる人には、実感できるはず(笑)。


さて、それだけじゃあないです。


このブログで、LDさんや海燕さんと話しているテーマは、永遠の日常を充実して生きるというテーマでしたよね。これって、接続ですよね。そして、永遠の日常を生きる不毛観を、どうキラキラさせる充実に変えられるか?という問いは、僕のずっと追っているテーマでもあります。


また、サブカルチャーの領域では、不死性の永遠を生きるということと、永遠の日常を生きるということが接続してしまうという現象が起きています。これって、同構造のテーマなので、当然重なるんですよ。


その最前線は何か?といえば、さすがですね、、、、赤松健さんですね。『UQ HOLDER!』まさに、不死者の生きる永遠の日常で、それでもどのような目的や充実がありうるのか?という問い自体が世界観が構造になっています。凄いです。さすが。


UQ HOLDER!(3) (少年マガジンコミックス)


いやー楽しいこといっぱいです。