物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2015-02-28

Top 12 Girls: Tyanna Jones - AMERICAN IDOL XIV

TOP12Girlsの中では、Tyanna Jonesが一番よかったなー。まぁ、貫禄だもんね、この子。。。。とはいえ、16歳なんだよね(苦笑)。16歳でこの貫禄か、、、。いやーほんとうに、うまい人は、Qassimもそうだけど、ずばぬけてうまいんだよなー。感心する。

House of Bluesのstageが僕的には一番よかったなー。

こういう生い立ち聞くと、アメリカって本当に多様だよなーって思う。出自やルーツや生活環境の格差がむちゃくちゃだもの。

Your Top 24, Revealed - AMERICAN IDOL XIV

毎週楽しみにしている。ついにTOP24まできた。

2015-02-27

Top 12 Guys: Qaasim Middleton - AMERICAN IDOL XIV

Top24が出そろった。デトロイトのステージ。Top12 BoysのQaasim。彼が素人だなんて、信じられないよっ!。いやーめっちゃうまいっ!。

2015-02-22

『ゴールデンカムイ』がめっちゃおもしろかったです。

ゴールデンカムイ 1 (ヤングジャンプコミックス)

ずっとおもっているのは、北海道を、アイヌをテーマにした物語を見たいなーって思っているんですが、久々の大ヒット。なんとなくでKindleで見たんですが、これがめちゃくちゃいい。なによりも、アシリパかわいいしねっ!(これ重要)。そんで、203高地で戦った帝国陸軍の精鋭部隊が出てくるところとか、主人公が退役軍人であるところとか、、、、めっちゃおもしろいです。凄くわかりやすくエンタメにしているけれども、著者は相当勉強して自分で解釈しているよなーってすごい楽しいですっ。北海道をテーマにした物語には、新選組の土方歳三榎本武揚の蝦夷共和国、五稜郭、脱獄、アイヌの反乱などの歴史のピースだけではなく、大陸に近い極寒の冬の風景の中で、自然と共生して生きる、、、マタギなどのテーマもあり、物語の宝庫だと僕は思うんですよね。まだ、僕自身は、読めていないのですが読みたい物語がたくさんある。でも、読むためにはもう少しアイヌや歴史の知識が必要で、出会いがないかなーといつもおもっえいたんですが、これとてもいいですね。すでに2巻も出ていて、まだ続きそうで凄いうれしいです。マイナーなテーマなので、エンターテイメントと両立させて、面白くさせて続けるのはとても難しいと思うので、めっちゃうれしいです。

邂逅の森 (文春文庫)

これは東北の物語ですが、マタギのはなしですね。この辺とつながってくると、日本の東側のさらに東の地域の壮大な世界がつながってきて、凄い面白いと思うのです。それはシベリアやアラスカともつながる壮大な太平洋の円環なので。このへんは、日本史の中でいえば、どちらかというと辺境的なポジションになるし、天皇家の王権が届かなかったところなので、隠されている歴史になるんですよね。でも、それだけにぞくぞくするほどおもしろい。この辺もっと勉強したいっす。高橋克彦さんの『火怨 上 北の燿星アテルイ』とかもおもしろかったなー。

王道の狗1 (中公文庫 コミック版 や 3-30)

『ゴールデンカムイ』を読んでいて、ずっと思いだしていたのは、安彦良和さんのこの本です。僕は大好きでたまんないのんですが、ちなみに、これを読んで、、、、そうですね、、、『百姓貴族』を読むと、なんというか、北海道の大地に移民してきた人の一代記が凄い繋がる気がするんですよね。著者のおばあちゃんとかの話を聞いていると、それ単発では、そういう話かーと思うんですが、『王道の狗』で自由民権運動ではっちゃけた人が、北海道に逃げるように移民してきている歴史的背景の一つを知っているとそのルーツでこれなのか!!!と、いろいろなものが壮大につながる気がするんですよ。

百姓貴族 (1) (ウィングス・コミックス)

あとは、ブルーレイが再生できなくなったんで(VAIOのSONYめっ!!!)途中になっている海燕さんに進められている渡辺謙さんの『許されざる者』を見ないとなーというか、見たいんだけど。。。。

許されざる者 [DVD]

2015-02-18

Hollywood Week#1-4: AMERICAN IDOL XIV - Jaq Mackenzieがお気に入りです!

最近、記事がかけていません。順調にいろいろ消費しているので、書きたいことはたくさんあるのですが、なかなか。。。。最近安定して楽しんでいるのは、AMERICAN IDOL XIV(アメリカンアイドルシーズン14) ですね。日本では、シーズン4と5は見たんですが、それ以降手に入れられなくて、残念ながら見れていなかったのですが、アメリカに住んでいればFOXでみれるし、なによるも電話投票できるじゃん!と思いだし、久しぶりに思い出して、毎週めちゃくちゃワクワクしながら見ています。それにしても、前回見てから、10年もたったんですねぇ。いつの間にかシーズン14。最近は、視聴率が低迷しているそうだけれども、ずっと見ていない僕にとっては、そういうマンネリ感は全く感じないなー。

というか、いきなりここで紹介しても知らない人がいると思うんですが、アメリカンアイドルは、2002年からFOXで放映されている長寿のアイドルオーディション番組で、もともとイギリスの人気番組『ポップアイドル』番組フォーマットを持ち込んだものですが、いまやアメリカの象徴的ともいえるような怪物番組に成長しています。全米のテレビ界の歴史を塗り替える高視聴率をたたき出してきた国民的公開オーディション番組、といわれていますね。2000年代は、各国でも類似のものが作成されたそうで、日本で全く同じものが生まれなかったのか、不思議でなりません。なんでだろう?。世界中で模倣番組を生んだはずなのに。とにもかくにも、2000年代を象徴する番組で、同時にアメリカのカルチャーのコアの一つともいえるような国民的番組です。前に、アメリカの大人気の小説で映画化をされた『Hunger Game』は、この怪物番組の視聴者参加型の生放送公開オーディション番組で凄まじい候補者(10万人くらい?)から選ばれていくシステムを知らないと、面白さが半減、というかそもそもわからないと思います、と書きました。アメリカンアイドルの形式になれている人は、ああ、あれか!って思うはずなので。なので、一度シーズンを一つだけでも見通してみると、かなり物事の見方が変わると思います。ぼくらは、アメリカの文化やサブカルチャーは深く広く享受しているので、その深さと多様性を理解できると、面白さに深みが増すと思うんですよね。何でもは見れないですが、面白いものは、好きでも見たいじゃないですか。

ハンガー・ゲーム [Blu-ray]

それにしても、こうして毎週リアルタイムで、各地域のオーディションからコツコツ見ていると、日本で見ている時に気づかなかったことが多々気づきます。まずは、自分が住んで、馴染んできているのもあるのですが、アメリカとひとくくりにしてしまいやすいけれども、各statesや都市でカルチャーやあり方が違うんですが、その多様性がじわっとわかってきたところで、各都市のオーディションを見ていると、地域性の違いや雰囲気の違いを強く実感するようになってきました。ナッシュビルでは、カントリー系が多かったんですが、あれってあそこがカントリーミュージックの本拠地の一つだからですよね。審査員のHarry Connick, Jr.の出身地であるニューオーリンズなんかは、ちょっとした外の映像を見ても、もはや普通のアメリカとは思えないほど違う土地で、、、彼が地元の人と早口でしゃべり始めると、もうさっぱり何言っているのか、、、というか、英語なのか。それは???そもそも???という感じになります。そもそも黒人英語は、本当に英語とは思えない。最近南部の映画で『Driving Miss Daisy(1989 USA)』を見たんですが、南部の英語は本当全く分からん、、、。なんというか、まだ本当になんちゃっての英語力ですが、ああ、それぞれに全然違うんだなぁ、、、と字幕なしで見ていると、痛感します。Jennifer LopezやKeith Urbanと、時々スペイン語で話している時があって、いきなり切り替わるので、????って感じですよ。いやーアメリカという言葉の中に隠れてしまう、、、、北米大陸の中の多様性を最近じわじわと感じるようになってきました。こういうのも、こっちの日常を生きていないと、たぶん全然わからないと思うんですよね。こんなに違うんだ、、、、と。


ちなみに、やっと現在は、Hollywood Weekの3週目。今日の夜(水曜日と木曜の夜にやっています)が3週目ですね。僕ら夫婦の今のお気に入りは、なんといっても、Jaq Mackenzieです。いやーこの子、上手いのもうまいんだけれども、なんというかキャラクターがいい。なんか猫みたいな感じが、もーかわゆーて。絶対セミファイナルまで残ると思うので、その時は、電話投票をしないと!!。

ちなみに、歌のうまさでは、Jaxだなー。彼女圧倒的な感じがする。優勝の最有力候補じゃないかなーとか思います。

Trevor Douglasも、オタクっぽくて、途中で終わるかなーと思っていたけど、、、この子も引き出し深いよなー。

まぁ、楽しんでいるので、コツコツ記事に思い出として残しておこうかなーと思います。

2015-02-07

『Lee Daniels The Butler/大統領の執事の涙(2013 USA)』  アメリカの人種解放闘争史をベースに80年でまったく異なる国に変貌したアメリカの現代史クロニクルを描く

大統領の執事の涙 [Blu-ray]

評価:★★★★★星5つ

(僕的主観:★★★★★5つ)


■アメリカの人種解放闘争をベースに80年でまったく異なる国に変貌しアメリカの現代史を描く

『Lee daniels the butler(2013USA))』 邦題『大統領の執事の涙』 を見ました。アイゼンハワーからレーガンまでの7人の大統領に34年間仕えた実在のアフリカ系アメリカ人のユージン・アレンの生涯をベースにした映画で、非常な大作で見応えある作品でした。映画を見るときに、何を目的に見るか?という視点で楽しみ方が非常に変わってしまいます。僕の場合は、アメリカの歴史を知りたいというそもそもの軸と目的があります。その観点からすると、人種解放闘争という軸でアメリカの現代史を実在した人間の人生をベースに再構成し直している点で、とても分かりやすくアメリカの現代史を体感させてくれるので、素晴らしく感じました。アメリカの歴史に興味がある人には、『フォレスト・ガンプ/一期一会(1994USA)』に並んで現代史を網羅できる良作だと思います。

フォレスト・ガンプ 一期一会 [Blu-ray]

そして、人種闘争の歴史を軸においてアメリカ社会を見るときに、冒頭で主人公のセシル(フォレスト・ウィテカー)は、母親をレイプする白人農園主に父親が抗議する、、、おい、と声をかけただけで、その場で撃ち殺されるシーンから始まります。そして、その白人の犯人の罪にも問われません。この場面は僕にとっても非常にショックなシーンでした。それは、アメリカの黒人奴隷の人生を主観体験で体験できる傑作、Steve McQueen 監督の『12 years a slave/それでも夜が明ける(2013USA)』を直前に見ていたのですが、そのあまりの過酷さと悲惨さに声もなく打ちひしがれていたのですが、それは日本で言うと明治維新前の1800年代の話であるから、ある種の過去の話という気持ちがあったんです。けれども、つい最近のオバマ政権の誕生まで主人公のモデルとなったユージン・アレンという人は生きており、言い換えれば、私は1970年代生まれの日本でいうところの団塊のJr世代なのですが、自分を基準に考えると、自分の祖父、祖母の世代に当たる人なわけです。僕はおじいちゃんの記憶はかわいがってもらったこともありよくあるのですが、その人と同世代の現在にまだ生きている人の子供時代である1929年の南部アメリカが、『12 years a slave』で描かれた世界と何ら変わらないのです。これは、正直衝撃でした。自分の生きている「現代」と直接に地続き(家族に関係者が生きている時代)が、まだそんなものだったとは!・・・・このセンスオブワンダーは計り知れないものがありました。一緒に見た妻も、絶句していました。えっ、こんなに最近まで、これほど黒人奴隷ってすさまじい差別があったわけ?、、、と。星5つを文句なく付けるだけあって、この作品は、骨太で素晴らしい上にアメリカの現代史の重要な流れを網羅できる素晴らしい作品ですが、そうした文脈読み的な見方をしなくても(言い換えれば知識がなくても)、娯楽としてもあきさせない素晴らしい作品出来ですので、なかなかのお薦めの映画です。ただし明確に現代史の人種解放の歴史を軸に描かれていることからも、『12 years a slave/それでも夜が明ける(2013USA)』と連続で見ることをお勧めします。どちらも決して短くない作品な上に重いですが、見応えと、センスオブワンダー(自分ではそうぞもできななにかに出会うこと)、アメリカという国の歴史の深さを感じられる、凄い作品です。


それでも夜は明ける/12 Years a Slave(2014 USA)』 Steve McQueen監督 John Ridley脚本 主観体験型物語の傑作

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150120/p1


12 Years A Slave/それでも夜は明ける


それにしても、1929年の南部の、あまりに現代の2000年代のアメリカと違うことに驚きます。主人公のセシルは、7人の大統領に仕えますが、大きく、ドワイト・アイゼンハワーが率いたいわゆるコンフォーミズム(思想的不寛容が蔓延り、社会の問題意識宇失い、ただ現状の豊かさを満喫すればいい、といわれる時代傾向の呼び名。アメリカの軍事大国化と対共産主義のための思想引き締めによって引き起こされたもの)が蔓延した繁栄の1950年代から、その反動で、社会的な問題意識が爆発したジョンFケネディらの公民権運動や、カウンターカルチャーやベトナムの反戦運動の1960年代、そしてリチャード・ニクソンの衰退の1970年代を経て強いアメリカの復権を掲げるロナルド・レーガン政権の1980年代と移り行く中で、それを眺め続けるだけの狂言回しの役に主人公のセシルは徹します。脚本が見事(というかセシルの人生そのものなのですが)で、主人のいる空間の空気になり切ることが要求されたハウスニガーの職業的な役割と、白人がなすことに何一つ言わない関わらない黒人の差別される立場という、主人公が内在的に抱えている役割と、映画の脚本上の「狂言回し」の役割を見事に重ね合わせて設計されているところは、さすがのハリウッド映画だと唸らせられます。そして、この壮大なアメリカの現代史というクロニクルを見た果てに、バラク・オバマ政権が誕生するわけです。人種闘争の歴史という軸で「これ」を眺めると、このことがいかに物凄いことであり、まだ生きている1920年代を知る黒人からすると、そしてその生きてきた人生を考えれば、とてもじゃないけれどもありえるとは思えないような出来事なわけです。しかし、それは現実に起きたのです。過去に、僕はアメリカのドラマや映画で、たとえばFOXのドラマ『24』なので叡智ある指導者としての黒人の大統領がたくさん描かれるようになっていて、アメリカも随分変わったよな、と語っていましたが、まさか本物が現れるとは思いもよりませんでした。

24 -TWENTY FOUR- シーズン1 (SEASONSコンパクト・ボックス) [DVD]


ホワイトハウスのオーバルルームという、ある種の会議室的な、最もアメリカの権力者の中枢で、外部からの波にさらされにくいはずの場所において、民衆のうねるような力が、それをじわじわと着実に変えてゆき、その果てに、アメリカは全く異なった国に変貌していきます。そういう意味では、アメリカがいかに民衆の力によって変化する究極のPeople’s nationでることがわかります。かつて、アメリカの建国の父たちは、アメリカを指してmore perfect unionと呼びました。これはいつまでも完全になることはない、絶えざる完全を目指す運動体としてアメリカを定義したということです。歴史家ランドルフボーンは、この国の歴史は常に未来にある、と書きました。普通の国は歴史というのは過去にあるものだけれども、アメリカの本当の歴史というのは「まだ訪れていない未来」に実在するのだ、という意味だそうです。

Dreams from My Father: A Story of Race and Inheritance


ここでは現代史を見るという視点で映画を紹介しましたが、いつも思うのですが、日本のようなとても古い歴史を持つ国からすると、アメリカは若く歴史がない国だというような言われ方をします。しかし、これはちょっとおかしいな、と思うのです。アメリカに住んでいると、日本やヨーロッパ旧大陸に比べると、確かに、中世やローマ帝国もなければ古代史もありませんが、その代わりにアメリカには「近現代史」があるんです。アメリカの歴史博物館や、その価値を伝達させるための様々な施設や展示の仕組みを体験していくと、この国がいかに自分たちの歴史を大事にしているかがわかります。なぜならば移民によって構成されるために、アイデンティティが曖昧不明確になりやすく、過去の伝統を保守しようといってもそもそも建国の理念が「変わっていく未来にこそアメリカの本質がある」と憲法に定義してしまっているので、古い伝統に縋るというアナクロニズムがとてもやりにくい。なので、歴史とは何か?と問うと、この国「近現代史」こそがアメリカにとって歴史なのですね。そして、この直近の近現代史の保存、伝達に関するアメリカの情熱は、常軌を逸しているほどの気合が入っています。大枠な歴史がない分、細分化して、各移民ごとにだったり、もうものすごい細かい保存の仕方です。たとえば、ワシントンDCのスミソニアンやアメリカ自然史博物館に行けば、その細分化のすさまじさが体験できるでしょう。日本が敗戦によって戦前の近代化の歴史を黙殺して教育に組み込まないことと比較すると、アメリカの歴史への情熱は、凄まじいものがあります。たとえば、Japanese American History musium(日系アメリカ人歴史博物館)がありますが、ここでは、第二次世界大戦の英雄であり、いまなおアメリカ陸軍の最大の模範となり教科書に掲載されている日系アメリカ人の志願兵のメモリアルがありますが、日系移民への恥ずべき差別を謝罪することが議会や大統領によってなされており、それを確実に残そうという意思が溢れています。もちろん、これはアメリカの恥部そのものであり、アメリカという移民を受け入れる自由と平等の社会においては、限りなく恥ずかしいことであるにもかかわらずです。そういうことから目をそらさない、ありのままに記述し続けようとするアメリカの強い原理を感じます。また、歴史が無意識に浸透するほどないアメリカにおいては、こうした博物館や映画などのシステムは、重要な価値伝達教育の媒体でもあります。アメリカの学校に通っていると、テーマに沿った課題で自分で調べてスピーチするという課題がアホみたいにたくさん出ます。その時に、たとえば、さきほどの日系人アメリカ人歴史博物館でもいいですし、空母が好きならば、NYなどに博物館(Intrepid Sea-Air-Space Museum)として退役の空母が設置されているのですが、そこに行ってみて、キュレイターや管理の人に、いろいろ質問することになっています。実際に聞きに行ってみようという課題ですね。そこに行くと驚きます。なぜならば、そういったキュレイターの人々はほとんどが、その展示物が、実在にかかわりがある人なんですね。僕が、質問すると「そうだんぁ、、、おれがナチとたたかっていたときでは、、、、」とか「この飛行機のレプリカは、俺が朝鮮半島で撃ち落とされた時に、、、、」とか、えっ????まじで????あなた退役軍事ですか?、つーかリアルに体験した人で、この展示物の内容って、あなたの体験ですかっ!!!!みたいな会話がすごくよく聞けます(笑)。これ最初は驚いていたんですが、こちらでは当たり前なんですね。なぜならば、移民で構成され、同じ歴史をもたない人々の、さらにまっさらな子供たちに「アメリカという価値を伝達していくこと」とは何か?といえば、「アメリカで実際に会ったこと実際に体験した人から子供に語らせること」が重要だ、という社会的な強い意志があるようなんですよ。なので、アメリカには歴史がない国だからというようなステレオタイプなことを言う人は、何もわかっていない人だと思いましょう。歴史の定義が違うのです。こと近現代史の保管、伝達に関しては、世界で最も進んで、かつ本気で行っている国家であるといえるでしょう。まぁ、アメリカの国内の歴史で閉じてしまうところが、孤立主義で引きこもりがちなアメリカらしいとは思いますが。そして、アメリカで閉じて引きこもっても尚、世界に影響が大きすぎて、世界史になってしまうところが、なかなかこの国の凄くかつ困ったところでしょう。


そして、そのような目で、この1929年から80年ほどの歴史を概観すると、アメリカという国は、まったく異なる国に変貌していることがわかります。この変貌のすさまじさを、感じるのに本当に素晴らしい映画でした。


ちなみに、アメリカ社会における「アメリカ的価値の継承」という問題テーマは、クリント・イーストウッド監督に強く表れています。なので、この問題が興味深い人は、なんといっても、『グラントリノ』がおすすめです。


さらにもういっちょいっておくと、日本は僕は素晴らしい成長・成熟を遂げて凄い国だと思うんですが、いやぁ、、、アメリカに住んでアメリカのことを勉強していると、もうほんと、さすがアメリカ対した国だよって、驚きあきれるほど凄いです。一昔前とは全く違った国に変貌している。この成長力、分裂と統合を振り子のように繰り返し、極端から極端に振れながら、前に進んで行く偉大な国家のことを、正当に評価し、よくよく理解しないと、本当にダメなんだろうな、と思います。井の中の蛙になることが日本のような、思い込みが激しい集団心理を持つ国には、最も危険なことだからです。偉大な、民主主義と資本主義を継続させる近代国家の先輩として、よくよく彼らを分析しなければ、本当に道を踏み外すと思います。

インビクタス/負けざる者たち』(原題:Invictus/2009年アメリカ) クリント・イーストウッド監督 古き良きアメリカ人から人類への遺言

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100815/p5

グラン・トリノ・・・・・評価額1800円/ノラネコの呑んで観るシネマ

http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-301.html

グラン・トリノ [DVD]


■アメリカという国家においての社会改良の運動はどうなされるのだろうか?

アメリカの人種解放闘争史を考える上で、様々な人々が強烈な当事者意識で社会を変えていこうと戦ってきました。アメリカの歴史を、特に現代史を勉強していて強く思ったことは、彼らは自らの手で社会をよりよく(とは限らない場合もあるのですが)変えていこうと願い、社会工学的プラグマティツクにそれを成し遂げているという実績が積み重なっていることです。古き伝統を持ち、社会的連続性が高く、様々なる社会の仕組みが古く保守されている日本という国に生まれた日本人なので、物事は「自分の手で変えられる」という意識はほとんどありません。日本の歴史、特に昭和の近代史を読んでいても、自分の手で何かを変えたという感じが何もしません(苦笑)(明治に自分たちの手ですべてを変えているのですが…そのあたりの話はまた今度)。とはいえども日本も様々な社会変革の運動はあった(いまもある)のですが、吉田茂がつくったアングロサクソンへのただ乗りスキームが長く機能していることもあり、主体性がかなりない感じがするんですね。まぁ、そういった日本の現在はさておき、アメリカはよく実験国家と呼ばれます。それは、この国が「人工的につくられた国」であり、その他の国家とは来歴が全く異なる国家で、建国の時点から、人々の意志によって建設され、メンテナンスされ、駆動するという「人工的」な国であるためです。

実験国家アメリカの履歴書―社会・文化・歴史にみる統合と多元化の軌跡

そうした国である前提を考えるまでもなく、アメリカでは、自分の国をよりよく変えようとした人々が、実際にそれを成し遂げていく過程がたくさん見れるのです。じゃあ『成し遂げる?』ってどういうことか、というと、実は「社会が実際に変わったこと」が成し遂げることでは、どうもないようなんですね。非常に微妙なことを言っていますが伝わるでしょうか?。ベティーフリーダンでも、マーティンルーサーキングJrでも同性愛でも進化論の教育論争何でもいいのですが、アメリカにおいてある集団が、既得権益を壊して社会の在り方を変えようと志した時に、ほぼ確実に戦略目標としてあることに集中します。そして、それが達成できたら、すぐ解散しちゃう感じなのです。それは何か、というと憲法改正です。もしくは事実上の憲法改正に等しい条文解釈の変更です。最高裁の判断を変えさせることですね。最高裁が司法が独立して機能しているからゆえのことでもありますね。アメリカの社会運動家は、ほとんどの成功ケースは、これを目指すんです。仮に、ジムクロウのように、奴隷解放宣言が出された後それを空文化させる法律ができても、30年、100年単位で、憲法を変えると、確実にアメリカは変わります。アメリカの歴史は未来にあり、人口国家であるところの拠り所は人々が社会契約した憲法にあるからです。現代国家とは、そういうものなのです。国家は社会契約と憲法によってできているわけですから。たとえば、黒人解放運動の歴史を紐解いてみると、W・E・B・デュボイス(1868-1963)は、黒人が差別されている構造が続くの白人がその基本的人権を踏みにじっているのだと考え、それを、変えるために全米黒人地位向上協会(NAACP)を組織します。この組織の最大目的は、1896プレッシー対ファガーソン判決で合憲とされてしまった、南部が主張する「分離すれども平等」というジムクロウ法を廃止に追い込むことでした。そしてこの法廷闘争が、公民権運動の導入部として機能していくことになります。本当に、アメリカという国の中での組織は、振る舞いが戦略的だな、といつも思います。社会を変えるということは、法律を変えて権力の仕組みを変えることだということが、徹底的に意識されていないと、こういう発想は全く出てこないと思うのです。これはやり西欧的なアソシエ−ショズムの伝統があるからできることなのか、とため息とともに羨ましさを感じます。


ちなみに、社会運動このような社会工学的プラグマティツクな行動と実績と、日本の社会運動家の在り方を比較するには、ぜひとも、日本の社会運動の現代的なありかたを透徹して内部から解体分析した本として、小林よしのりさんの『脱正義論』があり、これは必読だと思います。その差に驚くはずです。僕は、あまり小林よしのりさんが好きとは言い難いのですが、この体験型体当たりの手法のマンガは、本当に素晴らしい現代日本史のアーカイブになっていると思います。ゴーマニズムスペシャル版は、必ず読むようにしています。いつも素晴らしい気づきがあるから。そういう意味では大ファンかもですね(笑)。バイアス(=偏っていること)をちゃんと理解して読めば、これほど素晴らしい作品はないと思います。特に、この作品は、僕の人生の中でも目から鱗が落ちるもので、日本の社会運動が、なぜ社会工学的にまったく意味をなさない尻切れトンボですべて終わってしまうのか、よくわかりました。1960年代の安保闘争学生運動が、なぜほとんど意味もないものとして雲散霧消したのか、最後はあさま山荘事件や国際テロのような内ゲバやテロリズムに出していったのか?の一つの大きな解釈として、僕はずっと意識しています。日本の在野の人々が、社会工学的な意識がなく、すべてが「自意識の空転とナルシシズム」に収斂して、「世界」に至ることなく「自分」に閉じこもる傾向があるのは、日本の市民社会の弱さの一つの特徴だと僕は思うのです。これは文学の私小説の発展の歴史も同じものだと思っています。

ちなみに、反対の部分を言えば、日本は権力の座にある体制側の人間には、こうした与党的当事者意識はとても強く、けっして夢ばかり夢想する国家でも民族でもないのですから、市民社会や体制側の「権力の扱い方」の伝統が非常にどこ間違っている証左だと僕は思うのです。また僕らサブカルチャーやエンターテイメント好きの人々にとっても、好きなテーマであり物語解釈の重要なポイントである「日本的自意識の在り方」、いいかえれば、ナルシシズムの檻や「自分探し」やルサンチマンの在り方から、それにリンクするビルドゥングスロマンに至る成長と、この話にストレートにリンクして重なるところに、とても興味深く観察しています。この小林よしのりさんの『脱正義論』は、大傑作です。日本の歴史を眺めるにあたっても重要な視座だと思っています。特に日本的文脈で社会運動を主導するリベラルや左翼の行動が、なぜ日本ではほとんど当事者意識を獲得できず、最終的な成果を獲得できず、体制側に参画して与党リーダーとなることができないのかの、日本的構造の答えの一つがここにあります。山本七平さんや司馬遼太郎、半藤一利さんらが悩んだ、日本的空気の意思決定の問題点のあり方の理由が、ここにあります。

新ゴーマニズム宣言スペシャル脱正義論

ちなみに、この文脈では、高橋和巳さんの『邪宗門』も同時に読みたいところです。このテーマは、近代国家における社会改良、社会工学、近代国家建設がどのようになされるのか?ということの「実際的な部分」を考え抜いていくと、どうなるのか?。それが日本という土地の文脈であれば、どうすればいいのか?ということが考え抜かれています。『邪宗門』の主人公は、日本をよくするには、最後には宗教しかないのじゃないか、と堕ちていくことになります。もちろん、社会改良を目指す選良たる主人公は、最初は左翼でありマルキストです。日本においては、リベラルや左翼が、体制側に距離置いて社会をどう改良していくかと考える時に、基本的には、マルキシズムと宗教に頼るしかなかった厳しさがよくよく出てきます。そしてマルキシズムは、最終的に全体主義(=総力戦への準備)と侵略による経済権益の拡大での弱者の救済にとってかわられ(というか接続し)、宗教は天皇制に絡めとら(というか一体化して)れていきます。日本的文脈の中に、社会工学的な「国を実験場として人工的に改良していく」というヨーロッパ的な社会思想を導入する時に現れた具体的な変数がそれしかなかったからなのでしょう。日本の社会工学的な変数として、天皇という存在を利用して意識したのは、幕末から近代国家建設に至る時期ですが、これはすさまじい威力を持った社会遺産なのですが、、、、このパーツでだけでは、何かが足りないのでしょうね。

邪宗門 上 (河出文庫)


■体制内改革と体制外改革のどちらが世界を変えるの?〜キング牧師とブラックパンサー、マルコムXまで

社会がどれだけ激震に見舞われても、彼自身はほとんど変化しない。成長した長男のルイスが自分たちの未来のために公民権運動に身を投じる事にも、自らの役割に甘んずるセシルは、理解を示そうとはしないのだ。父親に拒絶されたルイスは、やがて武装闘争路線の過激な黒人解放運動、ブラックパンサー党の結党に関与し、一方の次男はベトナム従軍によって国への忠誠を示すという正反対の道を歩みだす。しかし、セシルが頑ななまでに主張しない生き方にこだわる間にも、彼の仕えた7人の大統領、即ち民意が、少しずつ、少しずつ社会を変革してゆく。国の成り立ちからの多様性故に、その葛藤の激しさは日本の様な比較的均質な社会とは比べ物にならない。何より、人々の強烈なまでの当事者意識の強さがある。マーティン・ルーサー・キング牧師、マルコムX、そして多くの無名の若者たちの犠牲と献身によって生まれたホワイトハウスの外側の大きなうねりは、オーバルルームに決断を迫るのだ。

本作を見るとアメリカはやはり究極のPeople’s nationであり、民主主義の巨大な実験場なのだと感じる。 




大統領の執事の涙・・・・・評価額1700円/ノラネコの呑んで観るシネマ

http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-718.html


さてさて、なぜ上記のアメリカと日本社会の社会変革の運動の在り方の違いを考えたかというと、僕はこの作品を見ている時に、主人公の二人の息子が、アメリカ社会をよくするために選んだ手法の差を、物凄くビビットに、この文脈で感じたからなのです。


長男のルイスは、武装闘争路線の過激な黒人解放運動ブラックパンサー党に入り、その後政治家になっていきます。次男は、アメリカという国家に忠誠を誓うためベトナム戦争に従軍するという道を選ぶのです。僕はアメリカのたくさんの映画を見て来たんですが、たぶん白人側の物語ばかり見て来たのでそう感じると思うのですが、ベトナム戦争に従軍したりそれを支えたいわゆるサイレントマジョリティーの層と、1960年代のベントナム戦争反対と公民権運動、黒人解放運動を支えたリベラル層は、全然別のもののように思っていました。どちらかというと、ベトナム戦争に従軍したりサイレントマジョリティーを構成するのは白人保守層だというイメージでいたのです。けれども、この次男が、国への忠誠を示すためにベトナム戦争への従軍を選ぶ姿勢を見ていると、単純な人種の違いだけではなく、もっと根深いものがあるように感じられたのです。これは僕は、日系2世のアメリカに忠誠を尽くしアメリカ人になるために、戦争に志願しヨーロッパ戦線で大活躍をして、アメリカ人として認められていくプロセスと非常に重なって感じます。ちなみに、サイレントマジョリティー的な最もわかりやすいイメージは、映画『フォレスト・ガンプ/一期一会(1994USA)』のガンプです。南部、白人、愚直なまでにまじめ、一番大切なものを理解して、それしか見つめていない、、、などなど。しかし、この次男の示す姿勢は、まさに、これです。この次男の生き方は、父親の生き方と重なります。

父親のセシルは、ハウスニガーとして執事のプロフェッショナルとして、白人社会に迎合し、支配され、順々に従い、その役割を得ることで、人生を生き抜きます。しかし、彼らは、その体制内部に食い込み、そこでプロフェッショナルな役割示し続けることにより、黒人の存在感を示し続け、その能力を示し続ける最前線の兵士でもあるわけです。またそれだけではなく、そのように体制に迎合して支配に従順でも、そこで高い給与を得続けるからこそ、二人の息子に高い教育を与えることができるのです。「次代の選択肢」として、次男は国家に忠誠を誓い、長男は国家に戦いを挑みますが、そのどちらも、父親が稼いだお金で、高い教育を受けたからこそ高い次元での選択肢が生まれているわけです。父が屈従の中で稼いだ金で教育を受けておきながら、父親の白人社会への従順さを責める姿勢に、セシルは激怒します。この辺りは古き価値観を背負う家父長的なセシルと、新しいリベラルな子供たちとの価値観の違いがありながらも、父親が1920年代の目の前で父親が純で撃ち殺されても犯罪にならない世界から這いあがってきたセシルの過去を知るにつけ、僕は非常に息子のルイスへの感情移入が難しくなりました。なぜならば、僕は団塊のJrの世代の人間なので、価値的にも気持ち的にも世代的にも、この息子の方に感情移入するのが普通なのです。しかし、父親のセシルの過去をずっと追っていれば、ほかにどうしようもなかったことは、よくわかるのです。むしろ、あの悲惨な環境から、ここまで息子を育て社会で認められるまで成長してのし上がってきたことは、賞賛に値こそすれ、それ以上を要求するのはもう不可能だと思うのです。また、あまりに仕事人間であり、仕事のことを話すことができないセシルは(ホワイトハウスに努めるので機密が守らなければいけない)、家庭的には「だまって俺についてこい」的な典型的な家父長的なものです。そのせいで、セシルにべた惚れの奥さんは(オペラ・ウィンフリーが熱演しています)、非常に寂しい思いをし、アルコールに逃げたり浮気をしかけたり(実際していたかは直接的な描写はなかったのでわかりませんが・・・・)、また二人の息子は激動の60年代にふさわしく、命があるかわからないような厳しい状況が続き、家庭は崩壊寸前に追い込まれています。でも、これをどうにかできただろうか?といえば、僕はNOだと思うのです。あの、1920年代の黒人奴隷のシステムが色濃く残る南部から、「ここ」まで来ただけで、それ以上、何を要求できるのだろうか?と思うって、僕は絶句してしまいました。妻と一緒に見ていたのですが、これは、もう父親が権威主義的で家父長的だからといって文句が言える問題じゃないよね。あの南部の綿花畑に奴隷としているのに比べたら、文句を言えないよね。どうしようもないよね、とつぶやいていましたが、非常に同感でした。時代、というものがあるのだなぁ、と思いました。1920年代から射程で歴史を眺めると、1960年代以降のリベラルなダイバーシティーが許容されるべきという我々の「常識」は全く通用しないだなぁ、と。歴史を、現在から断罪することがいかに醜く無駄なことか、と強く思います。フェミニズムリベラリズムは重要な価値観ですが、その視点でこの父親のセシルを断罪することは、感情的にとてもできそうにありません。時代には、時代の限界と制約があるからです。それがわからない人は、たぶん歴史を、人間的なるものを直視できないんだろうと思います。原理だけに生きる苛烈さもありますが、僕はそれは時系列の「時間」というものに対して、不誠実であると思います。


さて、ここで、公民権運動の指導者キング牧師を失ったあとに、黒人解放闘争が過激化していく過程を僕らは歴史によって知っています。大きくアメリカという国の根幹を社会変革していこうとしたときに、大きく二つの姿勢が黒人にはありえたと思います。非常にシンプルです。


それは、


1)非暴力で体制内改革か? 


2)暴力で体制外改革か?


の二つです。1)は、まさにMartin Luther King, Jr.です。2)は、マルコムXやブラックパンサー党です。ここでは個別の話はしないですが、アメリカにおける人種解放の歴史を知る上で、この3つはある程度でいいので知っていないと、話になりません。どれもすべて映画で見れるので、ぜひとも見てみましょう。キング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)を中心に、1965年の公民権運動を描いた映画『Selma(セルマ)』もおすすめですね。あとこの辺の話だと、『ドライビングミスデイジー』とかですね。

パンサー [DVD] マルコムX [DVD] ドライビングMissデイジー [DVD] 



これって非常に大雑把に言って、何かを変えるときには、内部から変えるか?、それとも外部から変えるか?という二つの選択肢があります。たとえば、同じことが、日系人の強制収容所キャンプでも、派閥争いになって日系アメリカ人のグループは二つに割れました。アメリカ軍に志願してアメリカに忠誠を近く究極の体制内改革の道を選んだグループと、アメリカとあくまで戦い日本と天皇に忠誠を誓おうとしたグループです。この過程は、山崎豊子さんの『二つの祖国』にでてきますので、ぜひ読んでみてください。興味深いですよ。別に、マイナーなことを穿り返そうとしているのではなく、日系アメリカ人は、模範的マイノリティーと呼ばれ、アメリカの敵である大日本帝国からの移民であり、当時アメリカとも恥部ともいえるような差別によって敵国の人間としてManzanarなどの強制収容所に入れられるという国からの辱めに受けがら、それでもなおアメリカ人たろうと究極の努力をし、真のアメリカ人だとアメリカ中から認められるようになった、アメリカの人の中かのアメリカ人の物語なのです。

二つの祖国〈上〉 (新潮文庫)


さて、『二つの祖国』は、この志願してアメリカ人になろうとした日系二世の人々のその後は描いていませんが、それはまさに、アメリカ合衆国陸軍の模範と呼ばれるヨーロッパ戦線での活躍となります。アメリカ合衆国史上もっとも多くの勲章を受けた部隊として知られるこの部隊です。僕は『二つの祖国』を読んだ時に、たしかタミヤという青年だったと思うのですが(うろ覚え)、こいつが凄いいやな奴なんですね(笑)。というのは、『二つの祖国』の主人公天羽(あもう)だったと思いますが、彼は大学も日本で出ていて(当時は為替レートの関係で日系人は日本でぢ額を卒業するのは普通だった)日本への思いとアメリカへの思いに悩み苦しみながらどちらとも答えが出せないで苦しむ誠実な人なんです。けれどもその『二つの祖国』の間で悩み苦しむ彼を馬鹿にして、俺はアメリカ人になるんだ!と強烈に自意識を振りまく男なのです。僕は日本人で、日本への忠誠を前提に物語を見ているので、このタミヤという男の尊大で確信に満ちた態度がすごく嫌な感じを受けたんです。でも、しかし、そんな態度の彼が、これから向かう先は、適性国人として差別されながらアメリカ軍に志願するという、凄まじく困難な道です。実際、日系アメリカ人部隊は、ヨーロッパ戦線の激戦区に投入され続け、ありえないような死傷率をたたき出しながら、最前線でナチスドイツ軍の精鋭部隊を撃破していくことになります。なので、僕は、彼がただ単にいやなやつなだけではなく、ある「覚悟」があった人間なのではないか?と読んでいて思い、その小説を読んだ時はテーマではないので、描かれなかった彼のその後が気になって仕方がなかったんです。何年も後に、ワシントンDCのスミソニアンのある地区のアメリカ歴史博物館のWW2において、アーカイブとして戦争の歴史で一兵士のインタヴューがたくさん残っていて聞けるのですが、そこに「ある兵士の記録」という一兵卒で片腕を失った兵士の録音があり、それを聞いている時に、、、、鳥肌が立ったんですね。その一兵士のインタヴューは、ダニエル・イノウエでした。名前も小さくしか書かれておらず、後にアメリカ合衆国上院議長になったことも書かれていませんでした。ただ素の彼は、アメリカに忠誠を誓い、自分の居場所は、祖国はアメリカだけなのだ、、、、自分に続くすべてのアメリカ人の子供が生まれによって差別されないために自分たちは戦うと、淡々とかたっていました。


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全米が賞賛した故ダニエル・イノウエ上院議員の生涯

http://matome.naver.jp/odai/2134957942416339301


もっとも出世した人は、442部隊出身のダニエル・イノウエ上院議員(ハワイ州選出)ですね。最高位は、上院名誉議長。合衆国大統領、副大統領が死んだときに、継承権第三位のポジションです。また、日系人の初のアメリカにおける参謀総長である第37代のEric Ken Shinsekiの登場も、ダニエル・イノウエ上院議員の影響があったといわれます。アメリカ軍には、日系アメリカ人の将軍が多いので知られています。ようは、体制内部で、奴隷のように差別され蔑まれながらも、アメリカ人以上にアメリカ人らしく生き、アメリカ人であること認めさせていくわけです。先日彼がなくなった時に、オバマ大統領が哀悼のスピーチをしていますが、もちろんのこと、オバマ大統領はハワイで育っているので、彼にとって彼の地元も上院議員は、子供のころからダニエル・イノウエなわけです。そして、すべてのアメリカ人の子供にとって、生まれによって差別されることなく生きることができるアメリカを作りだした偉大なる先達でもあるわけなのです。アメリカの人種解放闘争の歴史を語る時に、日系アメリカ人の物語を抜きには語れないのです。ちなみに蛇足ですが、ダニエル・イノウエさんは、大日本帝国に叩き潰されたハワイを、合衆国最強の要塞とし、海軍の巨大な基地に作り上げ、二度と帝国にこの地は踏ませないと、ハワイに基地を誘致していく人になります。



ちなみに、ちょっとずれるのですが、『マスターキートン』を書いた浦沢直樹さんの作品で『パイナップルARMY』(という傑作がありますが、この日系アメリカ人の傭兵の話ですが、日系のアメリカ人で軍人といえば、442連隊とゴーフォーブロークン(当たって砕けろ)の合言葉で、敵に突撃していく勇猛果敢な軍人という意味があり、そのイメージや背景があると、こういった作品のことでもいろいろ連想が生まれますので、おすすめです。


パイナップルARMY コミック 文庫版 全6巻完結セット (小学館文庫)




話がずれてきましたが、戻します。そしてこのキーワード・・・・・体制内改革と体制外改革という言葉を見ると、僕には自分がずっと追い続けてきたある一つのテーマが浮かび上がってきました、



これです。この話は今後深くするつもりで、僕の考察の中心になっていくテーマなので、この辺は読んでおいて、いろいろ映画などを見ておいてくれるとうれしいです。さて、体制内改革と体制外改革を考えるときに、このセシルの二人の息子は、まさにこの真逆の選択肢を選ぶわけです。次男は、軍人となる道を選びました。そして、長男は、ブラックパンサーとして、暴力をいとわない過激路線に向かうことにあります。ここで僕は、見ていてすごい不思議な感じを受けたんですよ。それは、これまでの見て来た映画のイメージでは、アメリカにとって「正しい選択」をしたのは、1960年代にベトナム反戦運動をしたリベラルの選択だというイメージが強固にありました。僕が一番子供のころのイメージで残っているのは、少女漫画で成田美名子さんの『Cipher』でしたねぇ(笑)。この主人公たちの両親たちが、ベトナム反戦運動でデモをアメリカの良心と呼んでいたのが、なぜか忘れられなかったんですよねぇ。少年時代の僕には、アメリカに行ったの経験っていうのはないので、アメリカのイメージって『エイリアン通り』とか吉田秋生さんの『BANANA FISH』とかが強烈だったんですよねぇ(笑)。

Cipher (第1巻) (白泉社文庫)


また話がずれた。。。。えっとですね、アメリカの1960年代のリベラルの選択が正しかった、というイメージが僕には取ってもあったんですね。僕はアメリカ人ではないし、アメリカの情報を摂取していたわけではないので、とてもバイアスがかかったイメージではあるのですが、少なくとも、マルコムXやブラックパンサーなどの武力闘争を選んだ人々を支持するイメージはさっぱりなかったんですよ。キング牧師が白人い支持されたのも、アメリカ人になるとして、アメリカ人としての権利を強く訴え、キリスト教の牧師でああったキング牧師の意見は、アメリカの支配層や中間層(当時の白人のベビーブーマー世代)にとって受け入れやすかったんですね。一言でいえば、体制内改革ですよ。『同じアメリカ人なのに、同じ権利がもらえないのはおかしい!』という戦略。

けれども、ガンジー的な非暴力の内部から変える戦略を採るということは、我慢に我慢を重ねる行為でもありました。自意識や尊厳がすり減っていくんですね。あきらかに白人が不当な差別やありえないような過酷な暴力をふるってくるのに、それをなんで黒人が我慢し続けなければいけないのか?というのはとても理解できることです。このあたりの苦悩をリアルタイムの物語で追うと、胸がいたくなる思いです。公民権運動が進んだのは、当時テレビ放送で、非暴力の黒人をこれでもかと痛めつける警官や州兵、KKKの姿が映し出されたからでした。そこで非暴力の黒人尾姿勢は、たくさんの人(特に白人中間層)に共感と恥ずべき行為を自分たちがしているという意識をもたらしたのです。しかしながら、この激しい暴力はさらに激しさを増し、キング牧師の暗殺を機に、対向のために少しづつ武装闘争路線が選ばれていくのです。マルコムXは、イスラム教徒で、なぜ白人の暴力に黙って耐え続けなければならないんだ!と叫んだ人でした。もちろん、キング牧師のようなアメリカ社会に広範な支持を受けるということはありえませんよね。白人が奪ったものを返せ!と叫ぶようなことを、白人の今の世代が肯定することはありえませんから。ということで、僕は武装闘争路線を選んだパンサーやマルコムXは、どうアメリカ社会に受け取られているかよくわかりませんでした。しかし、この映画では、黒人が主人公で黒人の監督が撮影しているというのもあるのかもしれないのですが、長男の方に物語はクローズアップされます。いままでならば、マイノリティとしてアメリカ人になるために、ベトナムに志願した次男を「アメリカ人としての正しさ」として描いたと思うんですよ。けど、次男は、ほとんど描かれません。父親と息子の葛藤は、ひたすら長男と父親で描かれます。そして、あっさりベトナムで戦死してしまう次男とは別に、キング牧師と一緒に非暴力を戦い、その後ブラックパンサーの結党に参加した長男は、後にアメリカの下院議員として当選していく姿が描かれます。いろいろあったが、長男の方が、長く深くアメリカの社会の歪みたいしてコミットしているんだ、という話が描かれるのです。


これを見て、なるほど!!!!と思ったんです。


僕は、長期的な戦略では、非暴力による体制内改革にしか、世界は変えられないと思いこんでいる節がありました。別に暴力を使わないのが偉いのではなく、現状既に既得権益を持ってしまった層のマジョリティから譲歩を得るための戦略は、それしかないと思っていたからです。マクロを変えるには、時間が、最低一世代30年はかかるという思いがありました。どんなに過去、現在に権利を奪われ泥棒のように搾取されたとしても、一旦出来上がったマクロの仕組みを壊せば、多大な混乱とマイナスが社会全体のマクロを覆います。けれども、尊厳=ディグニティーの問題を考えると、我慢するのだけが解決手法だといわれると、それは、それで苦しい話だろうと思うのです。それは、僕は、ガンダム00の、記事を書いたときにLDさんが、ソレスタルビーイングは「わがままな子供だ」と評した問題と、僕自身が、地球連邦政府が形成されつつあり、世界が漸進的に進むのに、それなのに小数を救えないから!といってテロリストになるルサンチマンは、おかしいのではないか?という問題と、密接に絡みます。


この悲しい世界で家族を求めてさまよう物語類型〜スメラギ・李・ノリエガとソーマ・ピーリスちゃんの遍歴

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081228/p1

ルイ >> どうでしょうね。宇宙進出の段階に至っても、軌道エレベーターは三本生まれてしまった。そして国家的に宇宙産業に貢献できないなら、そこは切り捨てられていく・・そういう世界ではありますよね。まぁそれも眺めていれば数百年で解決、というか切り捨てられた国家が消えて終わるでしょうけど、今ある想いの話なんで、それは勿論マクロ視点からすれば糾弾されうるし、されたときに反論する言を持たないでしょう。でも、そこで声を上げる事をやめていいのかって・・・・・・・・・・・・・・・・・テロリズムの論理以外の何物でもないのは何故だw

中略

ルイ >> 最大多数の最大幸福、とやらに人間が皆迷いなく邁進できるなら、その種は人間なのかって話・・・なのかも。とにかく、CBがペトロニウスさんの理屈でもって論破されちゃうのは、さすがに意図してのものだとは思ってます。嫌いなのは、仮初の良い人っぷりをアロウズ作って演出してることだけでw



漫研より

http://www.websphinx.net/manken/


いま先ほど書いたように、奪われたものを返せ!といって武力闘争路線に進むのは、尊厳=ディグニティの問題だと、僕は書きました。逆にいうと、僕は、尊厳以外は全く価値がないと思っていたんですね。要は、ただのテロリストだと。僕は感覚的には、バーグの保守主義が正しいと思っている人なので、性急な革命は社会の連続性と成長を失わせるだけで、トータルではなにも意味がないと思っている節があったんですよ。なので、CB(ソレスタルビーイング)の問題は、尊厳だけの問題で、マクロ的にはただのテロリストだろうという思いがあった。しかし、アメリカの偉大な変化を見てゆき、その歴史において1960年代のリベラルが行った歴史的遺産の再評価が進んで行く現状を見て、その結果として出てきた、これらのアフリカ系アメリカ人の業績を見て、そうか、体制内改革(非暴力)の戦略と、体制外改革(暴力を含む)戦略とは、二つの両輪であって、どちらが正しいというものではないのかもしれない!と思い始めたんですね。これは、社会を変えようとする時に、この二つがバランスよく登場して、組み合わさって、世界は、社会は変わるのだ!!!と。僕にとってこれは驚きの大発見でした。


ここにおいて、僕がテーマとしてずっと掲げてきた体制内改革と体制外改革のどちらが正しいのか?という対立のテーマに新しい答えのがもたらされてきたように感じたのです。


もちろん、体制外改革で暴力を含むものがなければならないといってもテロリストを容認するという意味ではありません。しかしながら、アメリカの黒人解放の歴史は、リンチ(lynch)との戦いでもありました。リンチの伝統とその発動のメカニズムなどの歴史的な話は、下記の本が素晴らしいので、それを読んでほしいと思います。

性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶 (中公新書)
性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶 (中公新書)

黒人関連のこれまで上げてきた映画などを見れば、黒人がどれだけ日常的に白人の暴力にさらされ、いつ殺されるかわからない恐怖の日常の中で生きてきたかがわかるはずです。これは、対抗できる組織的暴力がなかったためでもあります。もちろんアジアの植民地の扱いだって、そうです。法律とそれを施行し強制できる暴力とはワンセットのものなのだと思うのです。アメリカ社会における黒人の地位向上というのは、過去に奪われた基本的人権(権益)を、「返す」ということになるとなると、現在の既得権益者(白人)は、その人が特別に黒人に何か悪いことをしたのではなく、生まれたときからそういう構造の中で生きてきたにもかかわらず、自分たちの利益を他者に明け渡さなければならないことになります。それって、非常に難しいことですよね。ましてや権力と暴力を独占している人々が、それを返還する必要性など感じるわけがないと思うのです。リンカーンの自伝や映画を見ても、なぜ奴隷解放宣言がなされたかといえば、倫理や道徳の問題よりもまずは、北部の産業にとって安価な労働力がほしくて、南部の綿花栽培のプランテーション構造を破壊したくて行っていることは歴史的事実です。

リンカーン [Blu-ray]

だとすると、体制内改革側(非暴力)の意見が強い意味を持つには、もしこれを受け入れていかなければ、どんどんテロリストや武装闘争路線の方向に人材がシフトしていって、たいへんなことになるぞ!という入れ子の構造の脅しが存在しなければ、前に進みにくいと思うのです。そういう意味では、社会の中で変革のプロセスが進むには、どちらの発想も同時にないとだめなのではないか?と思うようになりました。必要というよりは、尊厳の問題があるし、100年後や1世代後に仮に平等になっても、そんなことよりも、いままず自分の大切な人を何とか守りたいとか、あまりに踏みつけられてボロボロになった尊厳を自分が生きている時に回復したいというのは、必ずある一定の数が社会には存在するはずなのです。また包摂の問題もあります。もし社会が、差別される人々や弱者に対して、ある一定数の社会に影響を与えてしまうほどの数のテロリストや組織を生み出してしまうのであれば、それはその社会から健全性が失われているという証左でもあると思うのです。この辺の、ではそのグラデーションのラインはどこなのか?、どれくらいの比率のどれくらいのレベルを、許容できないか?というのは、まさに時代や環境の変数によって変動することだろうと思います。


常識的に考えてテロリズムや武装闘争路線を許容するのは非常に厳しいし、僕の価値観や肌感覚的に合わない。それは、僕が「幸せに育った子供」だからだと思います。LDさんが、ガンダムOOでセツナに対して、下記のようなこと言っていました。

LD >> …でも、俯瞰してみると、セツナを中心とする「世界が平和的に一つにまとまって行こうとするから見捨てられる人々」ってのはいるんですよね。その彼らが「俺達を見捨てている事を思い知れ!」ってテロに走るのは実は分る話…だと僕は思ってしまう。

しかし、そうでない人々も社会にはたくさんいます。そうした様々な社会の矛盾を、様々な形で受け入れる器を作り、そして社会全体を正しい形で変えていく方向に向かわせるメカニズムがあって初めて、社会は漸進的に良くなっていくのでしょう。僕は、この『大統領の執事の涙』という映画を見て、今まで焦点が当てられていなかった(ように僕には感じた)ブラックパンサーなどの武装闘争路線を選んだ人々が、アメリカの多様性が認められていく社会環境の中で、再評価され始めているのだ、と驚きを感じました。もちろん、学者ではないのでブラックパンサーのその後を僕が詳しく知るわけではありませんが、このことは、公民権運動の時代、、、あの熱き1960年代のアメリカでの出来事が、きちっと歴史的に評価されはじめているのだろうと思ったのです。イスラム原理主義などの現実での行動を見ていると、国家機能が全く機能していない地域において、教育や様々な公的システムが提供しなければならないものを提供して地域を再生産することに資していることがわかっています。なので、現実に見捨てられた地域で支持があり、組織が拡大されていくのです。ブラックパンサーなどが、黒人の地位向上のために教育や踏みにじられた尊厳のケアに奔走し地元に教育を根付かせようと奮闘し行き、、その後、緩やかに武装闘争路線が力を失っていく過程で、有力な政治家として地元の支持されて、アメリカの権力機構に浸透していく様は、まさに、この映画で描かれている長男の生き方そのものでした。これが、一人の黒人執事の物語でありながら、幅広い年代のマクロの移り変わりを描いたクロニクル(年代記)的な描き方をしているからこそ、わかったことだったと思うのです。だって、この性急な長男は、30年以上の時間を経て、腰の据わった本物の政治家になっていくのです。それを描くのは、単発の物語でテーマが区切られていたらできなかったと思うのです。いろいろな状況が成熟しなければ、ありえないような深みのある映画で、オバマ政権の誕生によって、アフリカ系アメリカ人の映画が素晴らしく充実していくという背景もあってこそのものだったと思います。やっぱり、オバマ政権の誕生って凄かったんだな、、、と。思います。



自分の思考の履歴にとっても、この体制内改革と体制外改革の対立軸で、、、、日本的な表現で似た問題意識としては、キャリアとノンキャリアの対立(もしくは企画と現場の対立)、僕がずっとテーマの基礎に置いてきた『踊る大捜査線』の現場と会議室の話とストレートにリンクする話で、この問題意識に、時代背景が変わって、あきらかに『踊る大捜査線』の映画の表現が古くなってきた、その次ぎ、がどういうものなのか?ということをずっと考えていたので、この次の話題のための大きな材料を得たような気がしました。


この話は、また書くと思います。えっと、伝わってますよね???どうだろう、、、、青島刑事(現場・ノンキャリア)と室井さん(企画・キャリア)が、官僚的で現実の犯罪にうまく対処できなくなった警察という大組織を変えていこうと思った時、現場から変えるか?それとも、偉くなって(=体制内改革のことですね)変えるか?と問うたときに、その対立と止揚を描くことがこの物語の大きなテーマでした。そして日本的な根深い社会の構造とこれはリンクしていたので、非常に強い魅力を持ったのです。しかし、すでに、現場が!!!とか叫んでいる表現は当たり前になってしまい、古くなりました。現場ばかり叫びすぎ、現場の意思決定がリーダーの権力発動を縛ることによって(下克上)、日本は統一した行動ができないで崩壊するというのが、日本的なマクロの病であることはわかってきました。なので、現場現場言っているのは、実はむしろ害悪だったんだ!というのが日本においてはわかってきました。日本社会の問題点は、リーダーの意思決定が組織に貫徹しないこと、リーダーを選び組織を統合する運営ができないことが問題点なのだからです。そして、エリートにならなければ、組織は変えられないとかそういう古いエリート主義も実はなくなりました。現実具体的に言えば、日本社会において200年近く近代の建国を支えたブレスオブレージュである一高・東大・勅任官的な、科挙的な仕組みが、大学(エリート教育)の大衆化と社会の成熟化によって全く機能しなくなったからです。今の時代は、事件はどこで起きているのか?と問えば、みんなシンプルに答えることができます。事件は、現場と会議室の両方で同時におこっているんだ!と誰もが知っているはずです。そして、その両方が理解できるほどに、日本の一般市民レベルの教育水準は上がっているのです。エンターテイメントで人口に膾炙しているというのは、そういうことだと思います。


では、どうするんだ????というのは、僕にとっても重要な問いです。それは、日本の組織というものが持つ文脈をどう評価して変えていくか?というのは、ビジネスマンとしてとても興味ある問題設定だからです。ようは、日本社会において、なぜ明治建国以来、せっかく大成功(日清・日露戦争の勝利や50-70年代の高度成長)しておきながら国が迷走して崩壊するのかと問えば、明治建国時代にはあったのブレスオブレージュが失われて、そうでなくともリーダーが育ちにくく、統合した指揮権が発動しにくい日本社会の病をさらに深めているからなんです。そしてそれは、頑張って取り戻せるものではなくて、エリートとノンエリートが峻別されて、エリートに莫大な富と名誉のメリットがある代わりに、信じられないほどの重い責任を負わせるという英雄が英雄たること要求する社会構造だったからです。ノブレスオブレージュによる、リーダーとしての自覚とその役割が、極端な個人の成長をもたらすという立身出世主義のシステムが、機能しなくなり、それに代替するノブレスオブレージをこの大衆化して英雄、エリートが存在せず、いなくなった社会で、どのように作りだすことができるのか?ということが、いま現在の日本には問われていることになります。この話は、まさに脱英雄譚の英雄譚という文脈とかかわるのがわかると思います。



・・・・前の話と僕の中では繋がっているけど、なんか支離滅裂になってきた(苦笑)ので、今日はこれにて終わりにします。

『東のエデン(2009 Japan)』 神山健治監督  ニート(若者)と既得権益世代(大人)の二元論という既に意味のなくなった二項対立のテーマの設定が失敗だった

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20141009/p1

『GATCHAMAN CROWDS』 中村健治監督 ヒーローものはどこへ行くのか? みんながヒーローになったその先は?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131015/p1

海燕の『ゆるオタ流☆成熟社会の遊び方』

西暦2013年の最前線。『ガッチャマンクラウズ』がテン年代のコンテクストを刷新する。

http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar322009

踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!』  本広克行監督  秀逸なテレビドラマの「続き」〜ただし、もうそろそろこのテーマでは限界があるよね

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110318/p3

『容疑者室井慎次 THE JUGEMENTDAY』本広克行監督

http://ameblo.jp/petronius/entry-10003814797.html

『交渉人真下正義』本広克行監督

http://ameblo.jp/petronius/entry-10001734077.html

『現在官僚系もふ』

http://ameblo.jp/petronius/entry-10012763386.html

物語を評価する時の時間軸として過去〜日本社会を描くとき

http://ameblo.jp/petronius/entry-10012793578.html


踊る大捜査線 THE MOVIE [DVD]

2015-02-05

7日の土曜日の午後からたぶんレスター伯さんとラジオをします。

歴史家のレスター伯さんに、いろいろ教えてほしいので、お願いしたので、たぶんできたらなーーと思いつつ。

2015-02-01

『そして父になる(2013 日本)』  是枝 裕和監督  僕は、子供たちが10代後半になった時に何を思うのかを見てみたい

そして父になる Blu-rayスタンダード・エディション

評価:★★★★★星5つ

(僕的主観:★★★☆星3つ半)

まず最初に言うべきことは、大傑作である、ということ。個人的に自分の中の評価文脈として「家族をどうとらえるか?」について異論があり違和感があるので、微妙な判定の評価を上記でしているように見える。しかしながら、愛した息子がもし他人の子供だったらという、ありえないとは言い切れない設定を通して、あなたがにとって子供とは、家族とは何なのですか?という問いかけを鋭く投げかけ観客に迫る脚本、丁寧な演出は、見事な映画でした。ただし「あなたにとって家族とはなんなのか?」を根本からシミュレーションさせられて問いかけられるのは、とても重い作業であり、精神的に落ち着いている時に見るのが無難な作品だとは思います。しかしながら、逆にいうと、見る価値のある素晴らしい骨太の映画だといえるでしょう。おすすめの一本です。是枝裕和監督は、『ワンダフルライフ(1999年)』(★5つです)しかみていないのだが、普通の人が普通に抱える、しかしながら深くその人の人生をえぐるような葛藤を、丁寧にけれんみなく演出する様が強く記憶に残っている。この2作を見て、これだけのレベルを維持しているということは、他の作品も見る価値があるのは間違いないですね。機会をとらえてコツコツ見たいと思います。この監督は、たぶん監督しての力量が★5アベレージな人に思えるので、たぶん全作品見るべき価値のある邦画の監督だろうと僕は思います。素晴らしいです。


ワンダフルライフ [DVD]


この作品では、建設関係のエリートサラリーマンの野々宮良多(福山雅治)と、地方の小さな電気屋さんを営む斎木雄大(リリー・フランキー)の家族の対比の中で、家族とは何か?子供とは何か?父親とは何か?ということが、根本から問い直される構造になっている。


僕はこの脚本を素直に見て、どんな物語かを一言で問えば、「良多(福山雅治)が、父親に「なって」いく物語」といえると思いました。物語は膨大なものを含むので、シンプルにまとめるのがいいとは言えないのだが、僕はここをメインにこの作品を鑑賞した。そして、そうした場合、非常に納得がいかなかったことが2つあるのです。



一つは、良多(福山雅治)は悪い父親だったのか?


もう一つは、幸せの価値観が家族と一緒にいる時間や6歳の子供への共感と距離が近い関係性だけでいいのか?



という問題意識です。


はっきりいって、二つともぼくは映画が主張するところの価値観と真逆の意見を持つので、全編を通して非常に納得がいかなかった。


1)一つは、良多(福山雅治)は悪い父親だったのか?


まず、これです。妻も賛成していましたが、エリートサラリーマンの良多は、十分すぎるほどよい父親じゃないか?ということです。あれだけのレベルの仕事をやっていて、妻を専業主婦に押し込めている傲慢な押し出しの強いビジネスパーソンにしては、信じられないぐらい、良い父親だと僕は思いました。たとえば、そもそも、お受験にコミットしている時点で、かなりの時間を父親が割いているのは間違いありません。お受験が親のエゴ的文脈だというようなステレオタイプは、帝国的企業がグローバルに君臨する中での人材競争の厳しさを理解できていない甘い意見なので、僕はとても一面的な意見だと思っています。丁寧にやさしく姿勢の人を見る視点を物語に設定すると、教条主義的な左翼視点にすぐ視点が堕してしまうところが表現者にはあるような気がします。その方が無難で受け入れやすいし、マーケティング的に理解しやすくなる(特に日本の文脈では)ので。

たとえば「お受験」というものを、あたかも親のエゴ的な文脈で使っているあたりも古臭い感覚である。いまどきは貧しい家庭とて習い事や受験には熱心な時代だ。特にその究極たるお受験というものは、教養と知性をわが子に残したいという、親として最大の愛情行為であり、家族一丸となって戦わねば勝ち抜けない、まさに家族愛そのものである。この厳しい時代にわが子を守るのは、親亡き後は教育(によって身に付く実力)だけなのである。


超映画批評

http://movie.maeda-y.com/movie/01790.htm

あえて、是枝監督がわかりやすく文脈を作るためにステレオタイプを想像したのだろうという意見は、僕も賛成ですが、やはりここへの違和感は、ちょっと拭えなかった。そもそも、僕には、この厳しい競争の社会で、子供が生き抜くことを教えることが親の使命だと思っているので、その場合は、サバイバルに必要なポイントは2つです。一つは、1)まずは金を稼ぐ力。社会で生き抜くための立場を競争で勝ち抜く力です。そして同時に、これは斎木雄大(リリー・フランキー)の家族の方で示されているのですが、2)人生を受け入れて楽しむ力です。この二つはどっちがかけても、人生は不幸になりやすく、自立して生きてはいけません。後で説明しますが、2)の文脈に過剰に寄っていて、人生は競争であって、より高いスキルを身につけていかなければ、食べていくことも厳しいのだという過酷な現実を無視しているように僕には思えてしまうのです。そのために、お受験が有効かどうかは、正直微妙だしわかりません。けれども、親が、自分の人生を顧みて、自分が生き抜いていくのに価値があったものを考えて、それを子供に共有させようとするためにコミットする行為は、マイナスの文脈に置かれるものでは全くないと思う。そして、サバイバル技術の教育は、時に子供にとって過酷になる可能性が高いのも、否定できません。獅子が谷に子供を突き落す例えは、そこからきているわけです。


また、そもそも子供が起きていられる時間の帰ってきている描写が多々見られます。僕は忙しかった時期は、海外出張ばかりで帰宅も酔っ払って2時ぐらいが普通でしたし、子供時代を振り返っても小学校や中学校の頃、平日に父を家で見たことがありません。ほんとうに、仕事に捧げて子供を意識の外に置いている人は、そもそも子供とのアクセスポイントがほとんどないはずなんです。それに比べると、僕は、良多(福山雅治)は、かなり父親としては完成されちゃんとしている人だと思うのです。だとすると、物語脚本的には、良多を成長させるポイントを描くとなる、そもそも完成されていて問題点がない役割をコミットしている人に、さらに問題点を指摘して変化させなければなりません。僕は、それが理解できませんでした。もちろん、子供が取り替えられて、血がつながっていなかったというありえないようなイレギュラーなことが起きているので、葛藤が深く起こされ、通常よりもさらに深いレベルでの父親に「ならな」きゃいけない状況に追い込まれるのはわからないのでもないので、納得できないわけではないのですが・・・・これど、文脈的に、良多がそこまで告発される理由は、成長をさらに要求されなければいけない、構造的マクロの要件を感じられないのです。だって、良多と慶多の父親と息子の関係は、非常にちゃんとして愛情満ちていると思うもの。なんでも太陽のように輝く完璧な幸せ関係なんてありません。みんな、いろいろ限界や不満を抱えながらも、それでも、バランスで何とか家族をやっているもんなんであって、なんでもそんなにもっと、というのは、僕は納得できないなー。良太が、これ以上要求されるべき、ものがあるとは思えない。


また、


そして挫折を知らないような良多の内面を徐々に描き、一見冷酷にも感じられる彼の行動の“なぜ”を明かしてゆく構造はさすがに上手い。良多は幼い頃に自らも実母との別れを経験しており、それ故に慶多や琉晴がこれから乗り越えなければならない感情を良く知っている。彼は完璧な夫、父という傲慢な仮面の下で自分なりに葛藤し、苦しみながら内なる父親像を模索しているのだ。

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ここでノラネコさんが指摘しているように、良多は、この登場人物の家族の中で、最も、まだ6歳の慶多や琉晴が、今後10台になり大人になっていき、物事をより深く理解していく過程で得るであろう葛藤と感情を先取りして理解しています。たぶん、彼の一見冷たいポーズには、これらの時間が解決し、時間が熟成して乗り越えなければいけない苦しみを前提に考えているので、それについてクール(客観的で距離を置いた形)になってしまうのであろう。しかし、それは、僕からいわせれば、まごうことない本物の愛情である!と思います。いまは、斎木雄大(リリー・フランキー)の家族のほうが、楽しく関係性の温かさに満ちているかもしれませんが、僕は成長して年を取ると、この感覚は逆転する可能性が高いと思います。ましてや子供が取り違えられ、6年間異なる親に育てられたという過去の出来事(トラウマ?とは言わないかもしれませんが)がこの二人の人生を複雑に重くします。ましてや、電気屋さんとあの年齢であれくらいのマンションに住めるスキルを持つ父親とでは、あまりに世界の生き方が異なるので、その差も、この二人に大きな葛藤を呼び起こすでしょう。どっちに育てられるのが幸せだったのか?と。比較の対象がなければ、そんなことは関知せず、自分の世界の中に閉じこもって完結すればいいのでしょうが、慶多や琉晴には、それはできないでしょう。そもそも斎木家族の年収レベルで3人の子供がいれば、そもそも大学に行けるかかなり厳しくなると思います。そういったことが、今後の人生で、ずっと「ありえたかもしれないもう一つの人生」として常に物理的な差を見続けなければいけないのです。それは、大きな葛藤を呼び起こすと僕は思います。



2)もう一つは、幸せの価値観が家族と一緒にいる時間や6歳の子供への共感と距離が近い関係性だけでいいのか?


もう似たようなことを上でざっくり言っているので、わかると思うのですが、僕は、


建設関係のエリートサラリーマンの野々宮良多(福山雅治)

と、


地方の小さな電気屋さんを営む斎木雄大(リリー・フランキー)の家族


の対比


上記の対比構造を見たときに、優劣が見いだせない!と思っているのです。


えっともう少し敷衍して説明しなければいけないのですが、僕は日本の表現には戦後の左翼の影響が色濃く残っているために、イデオロギー的な視点が色濃く反映していると思うのです。『蟹工船』でもなんでもいいのですが、そうしたレフトサイドのバイアスは、貧富の差が激しく、しかし高度成長によってそれ解決帰結する方向へ進んで行く時代には、メインであることは当然の帰結であり、人々の過半の意識だったのはわかるんです。なので、通常は、こういう家族の対比を描くと、斎木雄大(リリー・フランキー)の家族

の貧乏だけど、愛情に満ちていて、家族が常に一緒にいて仲良しという家族の方が、より正しくあるべき姿だ!というバイアスがかかるように思えます。とはいえ、さすがに現代の作品なんで、斎木夫婦にも粗野なネガティヴなイメージを付加していて、どっちが単純にいいかわからない風にしていますが。


しかし、全体を通して、仮に脚本の本筋が、福山が「父親になる」=成長しなければ、変化しなければならないというポイントに置いた時点で、福山の問題点をつつくシナリオにならざるを得ません。でも、先ほど言ったように、福山の父親像が、問題点があるとは僕には思えないんです。


そして、この二つの家族が優劣がないとすれば、次に問われるのは、異なる価値観のもとに生きている家族(=ユニット)を解体して別の価値観と接続することはいいことなのか?という問題意識が、僕の中にあると思うのです。とても難しいことを語っています。総論としてこのブログでも世の中の思想でも、多様性(ダイヴァーシティー)を受け入れることが最も大事なことである。かつ、日本人は極度に硬直して、それを拒否る傾向があって、それが様々な問題点を引き起こすので、多様性を接続することが重要であるとこれまで何度も言って来たことと反対のことを言っているからです。


個人としては、そうです。けれども、家族として、本当にそうなのか?とこれを見ていて思ったのです。


家族の重要な価値の一つは、価値観を伝達すること、であると思うんですよ。いや、究極の個人主義は、SF的にいうとチューブベイビーで家族と切り離すことによって成立するというのは、もうSFのディストピアモノの重要な思考実験ですよね。まっさらな個人というのは、まず家族という価値伝達装置を切り離さないと生まれないと考えているわけです。その価値伝達の部分を、どこまでも平均的に薄めていくのは、どうなんだろうか?なかなか悩みます。


レダ1 (ハヤカワ文庫JA)


逆に言えば、共同体的なものを破壊するのに、家族を壊すのがもっともいいわけです。全体主義やスターリニズムですよね。価値観や生活様式が全然伝達しなくなるからでしょうね。そんでね、、、、僕は、この二つの家族の優劣が見いだせないとすると、にもかかわらず。どちからというと、リリーフランキーの家族の方に福山が引きずられている印象を受けるんです。ようは、仕事ばかりしていて、子供のことをちゃんと時間を取っていなかった的なステレオタイプなね。でも、優劣がない(と僕は思う)ので、どっちかに染まるのは、非常に納得がいなかかったんですね。僕の価値観が、福山の家族の方と近いので、あれだけちゃんと父親をやっている状態で、長期の子供の心も見ている(=福山の自分の過去の父親や母親との関係は、くすぶりながらも大きなテーマとして自分のなかで意識されています)状態で、斎木ファミリーの価値観や生活様式に染まっていく必要がどこにあるのか?って。


ましてや、高度成長期の時代は、そうした「幸せに生きること=成長を捨てること」というイデオロギーは、既に僕の中では消滅しました。時代が変わったのです。


本当の豊かさとは、選択肢があることだ、と僕は知っています。


成熟も成長も、どっちも選べるし行ったり来たりできるのが、真の幸せです。なので、どちらかが「真の幸せだ」というイデオロギーは害悪あって一利もありません。これが、成長至上主義の真っただ中の1980年代までの日本ならば、迷うことなく「真の幸せ」は、成長を否定するところにある「何か」になったと思います。時代が成長しか選択肢がない中では、その反対をオルタナティヴに選択する可能性を示唆することに意味があった。けれども、その後、成長の反対(と僕がここで仮定する)成熟に時代は振れました。そして、どっちも選べる時代状況の中で、成長の反対、成長の否定だけを選択肢として正しいとする方向性は、なんだかとても古臭く感じてしまいます。もちろん、まだ団塊の世代の人々は社会の支配層に残っており、日本社会はまだまだ色濃く高度成長期のアンシャンレジームを残しています。なので、社畜的リーマン男性が、もう少し会社ではない何かにコミットすべき時間を、大切なものは何か?と考えコミットするべきというテーマは、十分生き残っているとは思いますけれども。でも、この世界は競争です。この減d内後期資本性の中で、帝国化しつつあるグローバル社会の中で、ちゃんと生きていこうとすれば、福山の家族のようなライフスタイルは、決してひどいとは思いません。


ということで、ここは、僕の中の思い込みとはまで極論じゃないと思うけれども、感情的にとても違和感を感じるところだったんです。なので、うーん、なんか、ちょっとイデオロギー的なものを見せられた納得しがたい感覚が残ってしまいました。映画としては、素晴らしいし、脚本も、わかりやすく、見やすくまとめるという意味で、絶妙なものですし、そこは評価を下げるまでにはならないんでしょうが・・・・僕は、家族関係の話には、もう少し先や新しいものが見たいという文脈的動機が強いので、どうしても評価が下がってしまうのでしょう。


福山の家族とリリーフランキーの家族のどちらが、より幸せの「あるべき姿か?」というのは、僕は等分に思えるので、なんか、福山が成長してしまう(=変化するという物語の根幹ポイントは、わかりやすいけど陳腐だと思ってしまったんです。それは、価値基準として、選択がなされてしまっている、と思って。価値基準は、優劣がないなら、選ぶものであって、押し付けられるのはおかしいと思うんですよね。まだ6歳という絶妙な年齢で、親に価値判断を委託させているところも、なかなか考え抜いている状態だと思うんですよ。もう少し大きくなって、中学や高校で、自分の選択肢の幅を考えたときに、どっちがいいか?って非常に話は逆転すると思うからです。小さいときは、そりゃー親がいっぱい同じ目線レベルで遊んでくれる方が、いいにきまっていますからね。でも、何でもいいところ取りはできない。それが現実ってやつだと思うんですよ。



閑話休題





さて、あともう一つは、ノラネコさんが下記でいっていたポイントがとても興味深かった。


むろん、なぜ登場人物が子供たちに真実を伝えないのか、伝えた上で答えを共に探さないのかという疑問もある。真実を明かさない事で生まれる矛盾を、端的に表現しているのが、子供を交換した後で良多が琉晴に自分を「パパ」と呼ぶようにと言うシーンだ。「パパちゃうよ?」と言う琉晴に、良多はそれならばと「向こうはパパとママ、こっちはお父さんとお母さんと呼ぶんだ」と子供からすれば意味不明な事を要求する。だが「なんで?」と聞き返す琉晴に、良多はきちんとした答えを返せず「なんでだろうなあ・・・」と言葉を濁すことしか出来ない。真実を語っていないのだから当然である。しかし、大人にも重すぎる事実を、子供に全てをオープンにして、彼らにも責任を負わせるという選択は、日本人の多くにとってリアルには感じられないのではないか。生みの親と育ての親、血縁と歳月、そのどちらも真実には違いなく、何をどうすれば正しいのかという明確な線引きは難しい。最も残酷な事実をうやむやなままに、可能な限り状況を繕おうとするのは良くも悪くも日本人の国民性と言えるだろう。この映画の、優しすぎて真実を語る事を躊躇する大人たちもまた、リアルな日本人なのだ。終盤の良多と慶多の長い散歩は本作の白眉だが、彼らの心が通じ合う様も良い意味で曖昧で、決して明快な言葉が紡がれている訳ではない。その意味で、この映画は極めて日本的な物語であって、実に邦画らしい邦画だと言える。海外での相次ぐ受賞は、むしろこの辺りのドメスティックなテイストが評価されたのではないかと思う。


ノラネコの呑んで観るシネマ

http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-677.html


子供に真実を話すかどうか?というポイントは、確かにあると思う。


尚、あまりに素晴らしかったので、次の日に妻と二人で、往年の大傑作『クレイマー、クレイマー(Kramer vs. Kramer 1979 USA)』を見直しました。取り違えという葛藤がないですが、仕事人間であったテッド・クレイマー(Dustin Hoffman)が、妻が出て行ったしまったことによって、強制的に子供の面倒を見る過程で、父としての愛情と自覚に目覚めていく脚本の構造は、とても似ていると思います。

クレイマー、クレイマー [Blu-ray]

評価:★★★★★星5つ傑作

(僕的主観:★★★★★5つ)


そこで、ダスティンホフマン扮する父親のクレイマーは、子供に明確にすべての真実を説明しているシーンがあります。母親が自分の可能性を求めて出て行ったこと、それは父親である自分が妻を一つの型に当てはめて強制がしたために反発が起きてしまったこと、それは明確に自分の罪であることなど、赤裸々に「わからないかもしれないけれど」と真実を語ります。これをもって、欧米の文化と日本というステレオタイプな図式にできるかどうかは、まだ類例が少ないぼくにはわかりません。けれども、少なくとも、クレイマークレイマーに置いては、父親が息子に理由を明確に一つも隠さず説明しています。しかし、『そして父になる』で福山も、リリーフランキーの家族も、どちらも明確には話していないようです。また福山が子供に「なんでだろうなー」というシーンは、真実は話すべきではないという態度が、全家族に共通している表現を示唆しています。


このあたりの家族に対するアプローチ感覚の違いを、日本的なもの?なのか、それとも、時代的に固有のものなのか?はまだ僕にはわかりませんが、現代の日本人の平均的な発想は、確かにこの『そして父になる』の映画だろう、と思います。そういう意味で、本当に邦画らしい邦画であって、これは見るに値する素晴らしい作品でした。見れてよかったです。