物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2014-11-13

『まりんこゆみ "Marine Corps Yumi" 』  著 野上 武志  原案 アナステーシア・モレノ  とにかくめっちゃおもしろい!、だけでなく、凄い感動しました。

まりんこゆみ(3) (星海社COMICS)

評価:まだ完結していないめ未評価

(僕的主観:★★★★★星5つ)

素晴らしいビルドゥングスロマンだ!。ものすごい面白かった!!。まだ途中も本当に途中(83話ぐらいまでです)だけど、すっげぇ面白かった!!!。任官の時は、もうそうなるってわかっているにかかわらず、うるっときてしまった。野上武志さんは、僕はよく知らなかったのですが、『萌えよ!戦車学校』などで、ヲタク的要素と軍事オタクの組み合わせで有名な人みたいですね。いやーこの作品は、本当に良かったです。とにかくこまけーことは置いておいて、僕はめっちゃ感動しました。やっぱりエンターテイメントは、とにもかくにも面白くないといけませんからねー。

韓国の徴兵制を描いたマンガの『軍バリ』もだしゲームの『マブラブオルタネイティブ』の任官の時もそうだし(まりも軍曹!)、アメリカのTVドラマシリーズ『バンドオブブラザーズ』の時もそうだけれども、こういう軍隊の訓練キャンプの後の任官式って、問答無用で涙腺がゆるくなるなー。まぁ、あとこれらの系譜でいえば、ハートマン軍曹の『フルメタルジャケット』かな。これで全部網羅しているわけではないけれども、非常に幅が広いので、全部経験していると、なかなかいいっすよ?。


いつも言っていることですが、物語三昧のペトロニウスの理想は、境界を越境すること!です。このケースだと、漫画、ゲーム、ハリウッド映画とジャンルを越境しているし、かつ韓国軍、アメリカ軍、国連軍(架空の世界ですが)など忠誠の対象が異なるのがとてもいいです。軍の訓練を描けば、当然自分の国家への忠誠は描かざるを得ないので、主人公(=感情移入の対象)が、さまざまな忠誠の対象を持つと、とてもいい追体験になると思うのです。全然文脈と関係ないのですが、アメリカのドラマ『LOST』で、主人公格の最も頼りになるナイスガイの男性は、軍人だったんですが。彼はイラク人で、アメリカ人から「軍にいたのか!湾岸戦争か?どこの部隊だ!」(当然、アメリカ軍だと思っている)と聞かれて「イラクの共和国防衛隊だ!(イラクの最精鋭エリート部隊)だ」と答えるんですね。こういうのしびれるなーって思うんですよ。たとえば『グレイズアナトミー』で、スーパーツンデレの韓国系の女性と黒人の外科部長の恋愛の話もよかったと思うんだよねー。この韓国系の女性が、ほんと、憎ったらしくて、小生意気で、成長至上主義で嫌なキャラクターなんですが、、、、、それが恋に落ちて、ほとんど憎み合っていた黒人外科部長と関係が深まるにつれて、めっちゃ可愛くなっていくのとか、、、ロサンゼルス暴動で、アメリカでは韓国系と黒人は、相性が悪いってのを背景に知っていると、ぐっとくる。

僕は、この戦争ものの中で一番おっと思ったのは、韓国の徴兵制を描いた『軍バリ』でした。嫌韓などの隣国との諍いは絶えないものですが、それでもとても身近であり、かつ同じ自由主義陣営として共産党化の波を防衛してきた最重要な同盟国だったわけで(いまでもそのはずなのですが・・・)、その中身が具体的に見れたのは、たとえエンターテイメントでも僕には感動的でした、仲の良かった大学の同級生の韓国からの留学生や部下やビジネスのパートナーなどから、徴兵制の軍隊の体験はたくさん聞きましたが、エピソードは断片ですよね、そういうのは。人生の体験すべてを物語的な時系列でインパクトとコンパクトを合わせては聞けませんから。しかしその断片が、こういう物語を一度でも得ると、一気に結晶化して全体像がリアリティを持って感じれるようになるのです。なので、こういう類のエンターテイメントをたくさんみると、とっても、いいですよ。

フルメタル・ジャケット [DVD]

■よりよい兵士になるためのイニシエーションは、最も優れたビルドゥングスロマンの一つ


ということで、日本の女子高生からいきなり海兵隊に就職したゆみちゃんの成長のビルドゥングスロマン。いやー任官のシーンは、まさかまさかの自分でも、の涙でした。ぐっときちゃって。「日本の女子高生が海兵隊に就職するお話」というイロモノかなって思ったのですが、訓練が始まると、、、えっ、これ『フルメタルジャッケト』のハートマン軍曹の訓練そのままじゃねぇ?って驚きます。もともとの原作者(女性)が、実体験を基に書いているものなので、海兵隊体験記&自叙伝だと思ってくれていいです。なので、凄いリアリティがあります。今注文中ですが、日本人で海兵隊に努めている人の本もあるみたいなんですね、これ超読みたくなりました↓。

デビルドッグ

解説は、いつものごとく海燕さんに丸投げなので、こっちを読んでください(笑)。

日本の女子校生、海兵隊へ! 野上武志『まりんこゆみ』がいろいろ凄すぎる。

http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar599738

ちなみに、僕と海燕さんの出会いとなった旧物語三昧のアメブロブログでの、この記事の話の続きのようなものですね、これ。海燕さん覚えていてくれたんだーとほんわかした気持ちになりました。

『HUNTER×HUNTER』 23巻 富樫義博著/偉大な物語の本質について

http://ameblo.jp/petronius/entry-10009768304.html




これを見ている時に、様々な作品が頭をよぎったけれども、、、『マブラヴ オルタネイティヴ』『バンドオブブラザーズ』『軍バリ』『フルメタルジャケット』『ネットワーク・ソルジャー 連邦宇宙軍シリーズ』などなどですが、やはりこの作品を語る上では、たぶんロバート・A・ハインラインの『宇宙の戦士』が一番いいでしょう。

宇宙の戦士 (ハヤカワ文庫 SF (230))

ギリシア・ローマからのつながる伝統として、「兵役を経験した者は、自らの意志で、自分自身の利益より公共の福祉(社会全体・人類全体の利益)を優先させるからである」という理想というか倫理が、アメリカ社会にはあります。もちろんアメリカは建国において、ギリシャローマをモデルにして建国した国だってことは、押さえておきましょう!。なので、議事堂などの建物がみんな様式がギリシャローマ・スタイルなんですよ。要は一人前の市民は、自分自身のエゴではなく、公共のことが考えられなくてはならず、時に必要であれば自己犠牲もいとわないというのが、「あるべき姿」の理想としてあるわけです。これ、公共の福祉ばかり強調しすぎてファシズムや全体主義を生んだ歴史もあるので、現代では単純ではないんでしょうが、それでも、ある種の近代国家を運営する上での理想の一つであるのです。言い換えれば、近代国家に置いて普遍的な理想の一つであるんです。なので、日本でも十分に成立する発想です。


何を言うかっていうと、軍隊の訓練には大きな壁というかポイントがあって、それは、命をかけなければならない問う前提があることですよね。では、なんのために?という問題が常につきまといます。


「これ」が、通常の学園モノや部活モノと決定的に違うポイントで、より高次の価値(=公共の福祉)に対して、命(=自己)を捧げることができるか?ということが問われてしまうわけです。これって、凄い難しい問題ですよね。ただ現代国家の軍隊は、ここについては、シビリアンコントロールが徹底されてきているというか、軍人は政治に口を挟まずという建前もあって、国家のために命を捧げることに、いちいち惑ってはいないわけです。ましてや新兵の訓練だし、士官というわけでもないですからね。それは成長の後に問われる問題ではあるんですが、少なくとも、これが前提となる。そうすると、非常に、なんというか、価値が高いことへ参加している誇りが得られるんですね。そして、そのため(=命をかける)ための準備をするわけで、それって、並大抵のテンションではないことになるわけです。この『まりんこゆみ』では、そもそも現在戦争をやっていることへ参加するような『バンドオブブラザーズ』の志願兵や『フルメタルジャケット』ととは違うので、そこまでテンション高くないですが、構造上はそういうことですよね。

バンド・オブ・ブラザース コンプリート・ボックス [DVD]


そんでもって、この軍隊で、国家のため、より高次の公共へ自己犠牲をするというものは、アメリカでは、非常に無邪気に信じられていると僕は思うんですよ。もちろん、ベトナムや、イラン、アフガニスタンで、色々なものはかなり揺らいでいます。でも、とはいっても、たとえば、日本は、軍隊に関することは、国論を二分してしまうほど、はっきり定まった意思がありません。そういう国に比べると、アメリカは無邪気なほど、自国への誇りと信頼が成立している国です。まぁ、戦争で事実上負けたことがないですからね。


■アメリカ側から見た世界はどう見えるのだろうか?。歴史や世界は、様々な角度から見よう!


えっとね、僕この『まりんこゆみ』、最近何度も読み返しているんですが、、、、それはね、沖縄の問題を見るときに、僕らは日本人で日本語環境で情報を摂取しているのでしょう?。なので、日本からの一方的な視点でどうしても主観、感情的には固まってしまうんですよね。特に日本のマスコミは、左翼的な視点ばかりで情報を流す上に、何という洗脳的なので、なんというか様々な角度から多角的見るインテリジェンスの視点に欠ける。少なくとも僕はそう。アメリカ人から見る見方ってどうなのか?という視点は、なかなか感じにくい。けど、じゃあ、どうやってアメリカの視点で見るか?って考えたときに、僕は日本にいたころからそういうことを考える人だったんですが、、、、とても難しいんですよね。ようは、普通のアメリカ人やアメリカ軍兵士の日常の体験、教育、過去の景色みたいなものを自分のなかに構築してみなければ、主観の視点って作れないじゃないですか。歴史は好きなので、相当勉強したけれども、、、そもそもアメリカ史、大好きでしたし、、、でも、それってしょせんは知識なんですよね。もちろんマクロの知識はすごく重要ですけどね。けど、、、やっぱり、いまこうしてアメリカに住んでみると、自分が全く「他者の視点(=アメリカ人の視点)」を主観的には体感できていなかったんだな、ってびっくりします。いやーほんと、外国に住むのは、最高にセンスオブワンダーですよ。皆さんも機会があれば、絶対住んだほうがいいですよ。えっとね、要は知識ではなかなか主観の風景みたいなものは、構築しにくいよってことなんですが、けれども、これって自伝とか、漫画とか、物語で、そのキャラクターに感情移入すると、一発で理解できることが多いんですよね。なので、僕は、ゆみちゃんが、一人前の海兵隊になるまでの訓練課程を追っているうちに、今まであった自分の中の知識が急速に、一つの主観に紐づいて世界がくらーになっていくのを感じてびっくりしました。


僕は映画とかが好きなんですが、そもそも海兵隊がどういったものかは、知識でしか知りませんでした。たとえば、映画を見ていると、英語でどうも、変な英語を言っているケースが多いのですが、さっぱりわからないんですよね。たとえばデビルズドッグとか、なぜか船の用語(それも凄い古い言葉で、いまそんなの使っているかな?というよな)が多発するとか、、、なんでそんなこと言うのかわからなかったのですが、、、これで読んでて、すべて理解できました(笑)。あーーーーそういうことだったのかっ!!って。アメリカって、歴史が古いせいか、近代史の歴史を体験できる施設がいっぱいあって、空母とか潜水艦とかいろいろなものを直接乗り込んで見れる博物館がたくさんあるんですが、そこで船の用語(英語)って期限が古く特殊なものが多いので、よく目にはするんですが、うーん、これって、どういう意味なのか?とかどこで使われるのか?とか、よくわからなかったのですが、ゆみが、あっこれ船の用語なんだ!!と驚くシーンで、へーーーーーー!!!って感動してしまいました。なのでこれを分かった後で、アメリカの戦争映画見ると、英語が結構、あっ、あのこといっている!!みたいな発見がたくさんあります。僕は、ミリタリーヲタクになりきれない、知識のなんちゃってくんなので、こういうの凄いうれしいのです。『萌えよ戦車学校』そろえる覚悟です!。

萌えよ!戦車学校―戦車のすべてを萌え燃えレクチャー!

そういう小さなこともそうですが、たとえば、海兵隊の主要な基地は世界に3つあって、アメリカの東海岸と西海岸、もう一つは、何と沖縄なんですね。全然知らんかった。そんな重要な土地なんだ!って。そういえば、このまえアメリカの歴史の本を読んでいて、1970年代の沖縄返還の時に、アメリカの若者がたくさん死んで獲得したアメリカの領土をなぜ返還しなければならないのか?と物凄い反発があったようなのですね。そりゃそーだ。そもそも、日本がしかけてきた戦争でアメリカが勝ったのに、そこでなぜ返還する必要が?って。日本人からすると、いろいろ思うところがある意見ですが、アメリカ人がそう考えるのも、わからないではありません。そういう視点で見ているって思うと、沖縄の見方も凄い変わります。戦争と血で贖ったものは、絶対に死守するってのは、古今東西の市民、国民の基本感情です。それがどんなにおかしなものでもです。日露戦争で獲得した満州の権益を、それってどれほど国益に意味あるの?とよく考えれば思いつつも、日本の国民はそこから手を引くのを許さなかったのと同じです。そういうものなんです。理屈じゃねー。


あと、3巻から海兵隊に任官した後、沖縄に赴任するんで、、、今、3巻のあたりがその辺なんですが、僕は、沖縄は仕事で数回行ったことがあるだけで、特に深い知識があるわけではないんですが、沖縄の話は、このブログで何度もしていますよね。


『激動の昭和史 沖縄決戦(1971/東宝)』 岡本喜八監督 無名の人々のエピソードの緻密さが出来事の深さを感じさせる

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20101015/p1


んで、沖縄って、とても面白いといっては失礼ですが、興味深い歴史を持っている。それは、なんというか境界の狭間にあるからなのか、いろんな国の影響がある歴史を持っているんですよね。基本的に、僕は日本人だし、日本語で情報を見ているので、日本よりの視点で見てしまっているんですが、、、、たぶん中国にも、アメリカにも、そして沖縄に住む人自身にもいろいろ視点があるだろうと思うんですが、なかなか外から見ることってないですよね。ゆみちゃんが、沖縄に赴任して、沖縄を米軍兵士の視点から眺めるのは、物凄いセンスオブワンダーでした。そうか、こういう風に見えるのかって。そんなこと想像したこともなかったので。。。。あっでもそうか、、、僕は、福生のベースに友達がいて何度も入ったことがあるんですが、、あそこはいった途端アメリカのような空間に様変わりするんですよね。というか、あそこアメリカの領土だし。あん時以来のセンスオブワンダーだなーと思って。なので読めば読むほど、海兵隊から見た視点が内在化されるので(というかそもそも面白いし!)なんか、何度も何度も読み返しちゃっています。こういう視点が自分のなかに不通になじんでくると、物事がすごく高くて気に見えて、広い世界が見えるようになった気がするんですよね。あったとえば『誰も知らない基地のこと』とかも面白いんですよね。僕には、米軍基地って日本の基地しか思い浮かばないけど、全世界に700以上ある。これはイタリア人の監督がとったドキュメンタリーですが、こういう視点が広がりを持つと、なんかいろいろ見えるようになって楽しいです。


映画「誰も知らない基地のこと」監督×小林武史 「我々には希望以外の選択肢はない」

https://www.eco-reso.jp/120427.php

誰も知らない基地のこと [DVD]

第1話日本語バージョン

http://sai-zen-sen.jp/special/4pages-comics/marine-yumi/01.html

第1話英語バージョン

http://sai-zen-sen.jp/special/4pages-comics/marine-yumi/01.html#en

ちなみに、英語バージョンもあるので、そっちで読むとまた違った雰囲気が味わえていいっすよ!。あと、独特の軍隊用語とかがあって、ぼくここで初めて、ええっ!この言葉ってここからきてたんだ!!とか発見がいっぱいあって、すげーー楽しいっす。作中でリタという登場人物の女の子に、父親が、僕のかわいい地獄のイヌちゃん!(←なんだよ、それ(苦笑))っていうんですが、これなんのことだろう?って思っていたんですが、Devil Dogsは、アメリカ海兵隊のことを指す俗称ですね。また「一度海兵隊員となったものは、常に海兵隊員である」という意味のOnce a Marine、Always a Marineとか物語中に何度も出てきますが、、、訓練の過程を、ずっと見ながら、要所でさしはさまれることのセリフには、思わず胸がじんと着てしまいます。それに擬音とかいろいろな部分が、原作者がバイリンガルなのもあって、よく作りこまれていて、アメコミと日本の漫画の違いも感じるし、これめっちゃいいっす。



■これこそ、軍隊は学校だ!学園モノなのだ!というこの前の話ととってもつながる気がします。

沖縄編はまだ始まったばかりなので、1-2巻は、ようは若者が海兵隊員になるために訓練所に入って、そこで仲間と苦労して任官するという体験記です。この部分って、一言でいうと学園部活モノとほぼ同じ構造なんだろうと思うんですよね。特にマクロもなにも必要がない。その話は以前下記で書きましたね。これって、部活とかで一生けん枚練習して、試合に勝つというような形式とほとんど物語としては同じなんだろうと思います。ただ、軍隊はそれにしては生々しいし、厳しさのレベルが違いますが、構造はほとんど同じだと思います。


そうか、軍隊って、たのしい学校だったのかぁぁぁぁぁ!!!!!

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140604/p1

ミリオタでなくても軍事がわかる講座 小田中 慎

http://ncode.syosetu.com/n2432bk/

まずは、最初に。

ミリオタの方々ならご存知の事実をひとつ。軍人さんで戦争が好きな人などほとんどいません。どちらかと言うと反戦ですね。

平和な時代の軍人さんは、災害救助や訓練、社交(宣伝)が主なお仕事となります。軍隊内は規律の厳しい学校そのものと思えば分かり易いでしょう。上下(先輩後輩)関係と同期(同級)生、単位としての部隊(クラス)の結束はとても強いものです。そして、実際に事が起きたら即応出来るように日々許される範囲内(予算・法律)でシゴかれ鍛えられています。 

で、平時の軍隊内では、実際に事が起きる事態を願う風潮などほとんどありません。何故ならば、一旦事が起きたら軍隊はたちまち楽しい「学校」ではなくなってしまうのですから。好戦的なのは政治家とポピュリズムに燃え上がった国民(=マスコミに煽られた世論)です。彼らは「やってしまえ!」と叫ぶだけで、実際戦場に赴く人たちを「人間」とは見ていません。軍は国の道具、武器だからです。



始めに・軍人さんは戦争がイヤ

http://ncode.syosetu.com/n2432bk/1/


ただ、、、学園より一つだけ違うのは、やっぱり、『MIND FACK』とこの話の中で言われている、海兵隊員を作りだす部分ですね。ハートマン軍曹式の軍人の鍛え方ですが、ここって、徹底的にいぅたん個人の精神をバラバラに解体して、「仲間」という概念にまとめなおすわけです。


これはもう、海兵隊がどうこうではなく、「仲間」という概念そのものが持つ両義性です。それぞれまったく異なる境遇を持つ少女たちが、ありとあらゆるバックグラウンドの違いを超えて、「同じ仲間」として認められるというシチュエーションには、たしかに「仲間っていいな!」、「アメリゴ合衆国って懐が深い国だな!」と思わせるものが存在しています。


 しかし、それは同時に「仲間の敵」に対しては限りなく残酷になれる条件が整ったということでもあるのです。


 つまり、ここで描かれている海兵隊の訓練とは、日本人とか、スパニッシュとか、資産家令嬢とか、腐女子wといったバックグラウンドの属性をいったん解体して、「海兵隊の仲間」と「それ以外」に再編するという作業であるのですね。


 この悪夢のような訓練を乗り越えたなら、金持ちであろうが貧乏人であろうが、チャイニーズであろうがスパニッシュであろうが関係ない! 同じ海兵隊の仲間だ!


 そして、ワンス・ア・マリーン、オールウェイズ・ア・マリーン、一度海兵隊に入ったなら生涯それは変わることはないのだ! そう云い切れることは実に感動的ではあるのですが、それは「海兵隊の仲間」と「仲間以外」を峻別する思考を生み出すわけです。



海燕の『ゆるオタ流☆成熟社会の遊び方』

日本の女子校生、海兵隊へ! 野上武志『まりんこゆみ』がいろいろ凄すぎる。

http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar599738


これって、、、、けれども、よく考えると、学校空間というのも、、、、ミシェルフーコーが工場労働者を作りだすための監獄洗脳装置と喝破したように、同じものなのかもしれませんね、、、。最近いろいろ思います。


いやーなんか記事がまとまりないですが、まーとにかく面白いってことです。マジおすすめです。


まりんこゆみ(1) (星海社COMICS)

2014-11-08

【11月物語三昧ラジオ】内発性を得るためには?

【漫研ラジオ】

http://www.ustream.tv/channel/manken

日曜日の14時か15時ごろから始めるつもりです。

終わりました。

日本的意思決定の問題点

半藤一利 完全版 昭和史 第一集 CD6枚組


やっと昭和史の全体像がつかめてきました

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20141106/p1


続きです。


それと、やっぱり問うべきは、誰もが無駄だと思っていた対米戦争を、なぜはじめたのか?という日本的意思決定の謎です。


【アゴラVlog】日本はなぜ開戦に踏み切ったか


日本はなぜ開戦に踏み切ったか―「両論併記」と「非決定」 (新潮選書)


これは、日本の大組織、国家のグランドデザイン、制度設計における最大のポイントなので、よくよく問わなければなりません。それも、けっこうわかってきた気がします。ようは明治憲法の問題点はなにか?という問いです。松本委員会の対応を見ても、当時の日本人エリートは、この憲法に問題があったとは思っていないのですね。制度的によくできているものだ、と。民主主義にも、自由主義にもいくらでも運用可能な憲法だ、と。これは、僕もよくよくいろいろ読んできた結果、そうなんだろうなーと思うのです。ただし大きな制度上のポイントあって、僕は今それを2つ仮説でおいています。


1)独裁権力者を生み出さないように多元的制度設計をしている=非常時(=戦争時)を無視した制度設計




2)非常時のリーダーシップは、(1)元老によって憲法外の統合的指揮権を発動し、(2)薩長閥を中心としたインフォーマルな組織で横断的なネットワークで組織の官僚主義・セクショナリズムの硬化に対応する



というふたつの仕組みによって、明治憲法の構造上の問題点をリカバーしています。ちなみに、明治建国から40年近く、日清、日露という大戦争を日本は勝ち抜くのは、この制度が非常によく機能していたからなので、これは制度設計上、付け焼刃で作った割には、素晴らしいものだったと思います。後期では、伊藤博文は、こりゃダメだ、とそのリーダーシップと戦争時の機能不全に、心配して政党政治を作ろうとしていますね。

伊藤博文―知の政治家 (中公新書)

・・・・ともあれ、五箇条のご誓文からはじまって、日本人が自らの手で自国を近代化させた誇りあるものといっていいでしょう。侵略されたり、植民地支配や、共産党による革命でもなく、自力で独力で近代化を成し遂げたことは、我々の誇りといっていいと思います。もちろん、そのために、戊辰戦争をはじめ、血で血を洗う内戦を経験しました。近代国家を作るというのは、そういった血の贖いが必要で、アメリカの南北戦争を見るまでもなく、我々の祖先は、そうやって苦しみ抜いて、近代化を成し遂げたのです。

風雲児たち (1) (SPコミックス)

さて、わかると思いますが、1)と2)は、明治建国の、建国時の具体的な過去の反発として生まれてきたものなので、これは欠陥ではありません。なので、40年たって、この1)と2)が機能しなくなったからといって、明治憲法が欠陥を持った制度というわけではないだ!というのが最近僕がびっくりしたことです。そもそも、1)は、将軍制度(=幕府制度)への批判として生まれました。日本的、ムラ社会構造が起源というよりは、そもそも制度設計として、独裁的な意思決定が生まれないように努力したみたいなんですよ。また、そうやって危機的な国の滅びるかどうかの瀬戸際に置いて、まずは、頂点に据えた明治天皇が、大帝といわれるくらいに、とても積極的な指導者であったこと、、、また革命の元勲である元老と呼ばれる革命を生き抜いてきたすさまじい修羅場を生き抜いた指導者がたくさん日本にはおり、その人たちのインフォーマルな権力が、明治憲法の構造的な問題点をリカバーしてしまったんですね。よく考えれば、こういう危ない革命児たちがいるなかで、制度を多元化してバランスを持たせるのは、非常に理にかなったことかもしれません。


ちなみに、ここから導き出せる結論は、ようは、大きな時代の変化が起きたときに、日本社会は自浄的に組織や社会のコモンセンスをリデザインできる力が弱いんです。なので、大きな時代のパラダイムが変化して、社会の制度設計が現実と合わなくなったときには、なんとしても、憲法(=社会の基盤構造)を変えなければならないんだ!ということですね。もしこれができなければ、外圧によって壊してもらうしかありません。この二つの選択肢しか日本にはないのです。そんで、憲法の変化などの基礎構造の変革は、日本人が強く拒否する、、、、というか、多元的に設計され、かつ、多元的なムラ社会をタコツボ化して生きる、デモクラシー的なボトムの権力が強い日本社会では、バラバラになった村社会がそれぞれに既得権益を握り、根本を変える制度変革を嫌うんですね、、、意思決定がマヒして、何も動かなくなってしまう。

日本人とは何か。―神話の世界から近代まで、その行動原理を探る (NON SELECT)

なので、暴走が起きて、自壊する。日米戦争ですね。ちなみに、外圧による変化は、日本の自滅的戦争による1945年のようなものです。その前を考えれば、徳川幕府と薩長による長く苦しい内戦ですね。ようは、そんな簡単なものではないんですよね、、、、。半藤一利さんが、戦前編の講義の最後で、日本人の何がダメだったかの2番目に、事実に基づかない抽象的な空論、観念論を弄んで、それに固執して現実を無視する傾向があるといっていて、それが、あの悲惨な戦争を導いているといっていました。僕は保守ではないんですが、いやー憲法9条を守ろうとする時の今の日本の感じが、まさにこれに思えてぼくにはしかたがありません。戦前の朝日新聞などの大マスコミや軍部の若手の究極の目標は、貧しく虐げられている人の救済でした・・・・その救済のための具体的な処方は、植民地を拡大して日本帝国の権益を増やすことでした。それが常識の時代だったんですね、歴史的に。。。。なので、そもそも発想のスタート地点は善意で、文句が言いいにくいことなんですよ。でも、結果は。。。。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

・・・・・僕はですね、戦後日本の戦争をしなかったこの平和な日本で育ちました、とても愛しています。けれども、なぜ戦争がなかったかといえば、答えは明白で、(1)日米同盟、(2)自衛隊による防衛戦力の維持でしかありえないわけです。別に日本の特殊事情ではなく、戦争が起きないのは、バランスオブパワーで戦力が拮抗している時だけだというのは、もう歴史の疑いようがない事実です。


とするとですね、、、、高度成長期のシステムが、、、、1945年か以後55年体制なんて言われますが、戦後日本を繁栄に導いた制度って、もうたぶん制度疲労を起こしているんですね。それは随所に感じます。日本の世界的に強かった産業の世界における大敗北を見続けていると、もう旧日本軍の失敗にそっくりなのはみんなが共有するところですよね。日本政府や優秀な官僚の失敗も、みんな同じです。日本人、優秀だと思いますよ、勤勉だし。なのに、なんでこんなに失敗ばかりな上に、みんな不幸そうなの?っていうと、やっぱり時代の歴史的な構造の変化に社会の制度せ設計が合わなくなっているんだと思うんですよ。そんで、日本人はなかなかこれを、自分の力で自浄して、変えることができない。なので、日本を変えたければ、、、、僕は憲法を変えるしかないんだな、と思います。この場合の憲法は、なにも9条とかそういうみみっちいことではありません。別に、現代に合うようにリデザインできるならば、何でもいいと思うんですが、、、、ようは、国民的な意思の盛り上がりで、根本構造を一新しよう!という意識がいるんだなって思うんですよ。なので、たぶんどういう理由があろうと、現状を維持しようと叫ぶ人は、ほとんどの場合、究極的には日本をだめにすることの片棒を担いでいるわけです。ちなみに、大正時代とかには、明治憲法を変えようと凄い議論があったそうですが、欽定憲法を変えるなんて許さん!!という国民の意見で封殺されたそうです。ようは、変化は既得権益層やイデオロギーの観念論を信じたい人にとってすべて悪になるので、反対のための反対の観念論が、日本は随所に登場するのですね。これ、歴史的にダメなんだ、というのが、ずっと昭和史を調べてきてわかってきました。特に今の日本の左翼やリベラルは本当にダメだと思いますね。まぁ、右翼はもっとダメですが、、、何が気持ち悪いかっていうと、やっぱり現実が全く見えていないところだと思うんですよ。あと、理想がピュアで正しければ、どんな嘘も捏造も平気というのは、なんというか戦前から続く左翼思想の伝統のように見えます。別に、原発反対も再生エネルギーもいいか悪いかはわからないし、大局的にはその主義は決しておかしいとは思わないのですが、、、、見てて気持ち悪いのは、やっぱりたとえば原発稼働に関する適法な法治主義のプロセスを捻じ曲げるところとか、明らかに日本の景気が沈んでいることはエネルギーを足元みられて馬鹿みたいに高値で輸入していることなんですが、これは事実なわけですから、『これ』を前提に物事を考えて戦略なり戦術を僕は聞きたいと思うんですよ。その事実を前提に、ではどうするれば?その思想が貫徹できるのか、現実に対応できるのか?ってのをね。だって、すべての話は「事実」から始まるんだから。しかしながら、まったくそう言う事実を「含めて」ものを主張する人っていませんよね。

「空気」の構造: 日本人はなぜ決められないのか


大体において、悪いことは悪いんだ!というような、現実無視、ピュアな理想を信じて進行しない奴は悪だから叩け!みたいな、日本的意思決定の最悪手法である「空気による演出」・・・空気ファシズムとでもいおうか、、、そういもので抑え込もうとするじゃないですか? 科学的な議論も、客観性も何もない。もうそういうのって、思想の正しさ云々よりも前に、日本の近代史は、この空気による現実性の無視によってすべて失敗してきたのだから、まさに、その態度こそを壊してつぶさなきゃいけないものなのは、もうわかっているわけですよ。けど、マスコミを中心に、そこの構造的改革が全くなされていないのが、、、現代日本の問題点なのでしょうねぇ。憲法9条の問題も、思想としては面白いと思うんですが、、、、現実的にこれがあったから平和だった「わけじゃない」のは現実見れば当たり前のことだし、海外は誰もそんなこと思っていない。そんでたぶんこの手の憲法は世界中にたくさんあるし、もちろんパリ不戦条約だっけか?あの辺の思想の系譜の現実化したものなので、それほど珍しいものじゃない。まず、そういう全体像から語る人って、ほとんどいませんよね。僕も自分で近代史を勉強するまで、、、この歳になるまで、ほとんど知りませんでした。平和憲法なんて珍しくもないんだってこと、戦争しないなんていっているものはいくらでもあること。なんか日本の特別さの主張のように思っていましたが、、、それって、ナショナリズムやなんちゃって右翼思想とほとんど同じ感情の表出にすぎないんですよね、、、最近それがよくわかるようになってきましたよ。ユニークなのは、交戦権の否定とかそういう部分で、、、ではそれが、どう機能したか?、国際的な紛争をテクニカルに、現実的に処理する手法として、それをどう提唱できるか?とか、そういう現実的な分析なしには、平和素晴らしい!とか、何言っているわからないどうでもいい空念仏なんか、恥ずかしいだけなんですが、、、そういう恥ずかしい感情の表出以外の、具体的な平和思想の戦略やプラグマティツクな提案とか見たことがありません。。。。ようは、空気によるファシズム状況を作りだすための、道具にすぎないんですよ。専守防衛は、スイスの例からいって、国民皆兵の強大な軍事力の保持から、国土を灰にする気概(本土決戦)が前提になってしまう戦略だというのも、歴史的事実であって、それを語らないで、専守防衛なんて言うのも・・・。なので、本当は言っている人たちはだれも本気じゃないんだと思います。観念論に絶対帰依して、自分の動機の正しさを表出しているだけのナルシシズムなんですよ。本気で実現するってことが、どういうことか全く理解できていないんだ。現実にプラグマティツクにやろうとすれば、そんな唱えているだけで他者を圧殺するいじめ的空気の形成なんかしないと思うんですよね。空気によるファシズム的な状況の形成は、日本の最も失敗する大局を見失わせるやり方なんですから。僕は、そういうの見ていると、、、ああ、本気じゃないんだなーって、しらーっとします。

それでも、日本人は「戦争」を選んだ


半藤一利さんの日本をだめにしたものをまとめると、の、その1では、「日本人は熱狂するとダメな意思決定をするので、熱狂してはだめだ」というのがありました。最近の歴史学の最前線では、サンフランシスコ条約以来の日本の戦争責任の基本的な歴史認識である「すべては暴走した軍部が悪かった=なので、戦争指導者をA級戦犯として処刑」と意見は、もうそんなことは全くない、というのが主流のような気がします。加藤陽子教授の説を追っていると、いかに当時の日本が、民衆による熱狂、大マスコミによる扇動、政治家による追認のセットで戦争が拡大していったのがわかります。つまりは、軍部だけが悪いわけではないのです。軍部は、永田鉄山をはじめとするリーダーに恵まれ権力争いでも皇道派を軒並み追放して「一枚岩」になった珍しい日本の組織なので、そういう意味では、影響力がでかかったのも事実です。しかしながら、山本七平や様々な人が指摘していますが、日本は近代国家であったので、軍部が軍を動かすには、予算が必要なんです。内閣の承認も。昭和史の戦争を見ていると、様々な部分で、それが容易にその敷居を飛び越える。これは、国民世論の後押しがあったからの部分が、凄く大きいと思うのです。つまりは、日本は、いったんシステムがリニューアルされてから時間がたつと(だいたい40年ほど)制度疲労起こして迷走しはじめ、本来変えるべき根本のシステムを観念論で現実を見ないで反対し続けて、そしてその閉塞感を打破するためにもっともやってはいけない方向へ「空気による意思決定」でみんなが間違いだとわかっている一番ダメなところに暴走して自壊するってのが、まぁパターンなんですね。


ということで、日本人は熱狂して何かをするのは、それも危ないのですね。なので、じゃあーーー一気に憲法改正とか言うのがいいかとなると、、、うーん、それもだめそうだなーという気もします。どういうふうに時代の構造がずれたときに、リデザインをするのか?ってのは、実は大きな日本史の謎の、、、問うべき価値のある謎のような気がします。


一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))


ちなみに、なんであんなに、軍部と大マスコミの世論誘導に民衆が弱かったのか?、、、、もちろん、226の影響、、、クーデターと暗殺の恐怖が常に時代を動かしていたのも事実なんですが、この「空気の演出」の構造は、もっともっと知りたいと思っています。ちなみに、明治憲法においては、重臣リベラリズムという安全弁があって、本来は、皇室(皇室は伝統的に親イギリスで、リベラリズム重視の教育を受け続けている)及びそれを補佐する重臣群は、リベラリズムが深く強く根付いていて、これに海軍が結びついて、日本は簡単に極端な方向へ起動がずれないようになっていました。実際、昭和天皇以下、重臣は、君側の奸として陸軍に蛇蝎のごとく嫌われていました。昭和天皇自体も、性急な全体主義的な行動には、一貫して嫌悪しています。226事件の鎮圧に置いても、昭和天皇は、非常に怒り狂っていますよね、最初の最初から。こうした立憲君主主義的というか、華族制度に見られるような既存秩序の安定化のための制度設計の安全弁が、なんで軒並み機能しなくなるかというと、、、、


それは、226がそのコアの一つですが、僕は右翼によるテロリズムを基礎とした「空気の演出」だと思うのです。空気を演出するには、世論を感染させる必要があって、この世論の感染は、テロリズムによって形成されているんじゃないかな?という仮説を最近持ち始めています。きっかけは、『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇』を読んで、このあたりのテロリストの生き様を、ちゃんと主観的に、一通り眺めたからでした。いろいろ読んではいましたが、いまいち、文章だと理解しずらくて、この漫画で一気に世界が広がった気がします。やっぱり漫画はいいですね。イメージができやすい。


ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇
ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇


でも、そうなるとですね、、、、この戦前の右翼思想を追っていくとなると、、、、必然的に、亜細亜主義の思想にぶつかるわけです。これがなんだったのか?ということ。西郷隆盛をスタートに頭山満と受け継がれていくこの思想のコアをかんがえなければならないと思うんです。もう一つ言うと、それは、日本人とは何か?、もう一つ言いいかえると天皇という存在は何なのか?という問いです。やっと、、、ここまで来たなって感じがします。ここに行くことはなんとなくわかっていたのですが、それ以前の勉強が不足しすぎてて、まったく理解できないうちはここに手は付けれないなって思っていたんですが、、、、やっと、、、という気がします。


「日本人」の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで 単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜 近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ)


ちなみに、さすがに小熊さんとか片山さんは一気には難しいので、まずは、安彦良和さんの素晴らしい物語群で予習ですね!!!。


天の血脈(1) (アフタヌーンKC)


ちなみに、『ゆきゆきて神軍』の天皇への告発は、この文脈で考えると、感情的にわかってくる気がします。


【アゴラVlog】目的のない戦争 〜「野火」から「ゆきゆきて神軍」まで〜


いやー最近、すごい面白いです。


未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命―(新潮選書)

2014-11-06

やっと昭和史の全体像がつかめてきました

半藤一利 完全版 昭和史 第一集 CD6枚組

最近やっと半藤一利さんの昭和史の講演録(戦前編1926-1945)の後半のCDを手に入れることができたので、毎日の通勤でコツコツ聞いて、先日とりあえず一気通貫異すべてを視聴できた。1945年の最後の話が終わった後に、昭和天皇による玉音放送を聞いたときは、物凄い大きな感慨があった。何度も聞いたことはあったが、やっと全体像が理解できて、集中して講義を聞いた、そのあとであったが故に、だと思う。巨大な歴史の物語を聞いた感じだった。いや、本当に音声データがあるのはうれしい。本を読むよりも、もっと頭に刷り込まれる。特に後半が手に入らなかったので、前半部分の226までの回を、何回も擦り切れるほど聞き返したので、それで頭に色入りマップができてきたのも、最近の理解の進み具合に関係しているような気がする。勉強するときには、インプットとアウトプットの繰り返しが重要で最近通勤時の空き時間を利用して友人とほぼ毎日話すんですが、それでいろいろなアウトプットが進んでいるというのもあるんだろうと思う。あと、インプットも、本を読むだけではなくて、繰り返し音声で聞いて覚えるのも効果的だなーと思います。・・・・僕は日本史専攻ではなかったですが、当時の受験にこれがあったら、物凄い意味があっただろうなーとしみじみ思います。歴史は流れなんで、重要な年号や出来事、人物を暗記して、「それぞれのつながり」の関係性をある程度網羅した、「流れ」が理解できていないと、まったく手におえないんですよね。統制派の永田鉄山、皇道派の小畑敏四郎など、そもそも整理ができていなくていつも???って思いながら流して読んでいたが、ばっちり理解できてきた。そのおかげで、いまいちピンと来ていなかった片山杜秀教授の『未完のファシズム』の意味が、ぐっと理解できるようになってきた。

片山さんの『未完のファシズム』の話がYoutubeであるのを見つけて聞いていたら、これは池田信夫さんの昭和史について講演?というか勉強会?の一部というかそういうもののようですね。いいなー日本にいれば、絶対行ったのに、、、。有料でいいので、ネットで見れるようにできないのかなぁ、、、。まずは「流れ」を押さえるには、こういう全体像をわかっている人のたこつぼにならない話を、音声で聞けるとすごい手掛かりになるんだよね。特に、いくつかネットに上がっているyoutubeを見たんだけど、目から鱗の視点が多かった。


池田さんの最近の昭和史の記事は、面白いのが多いですね。特に、おもしろかったのは、これ「日米戦争は、アメリカにとっても全く得るところのなかったものだった」という視点。こと冷戦と対ソ連、コミュニズムという観点からすると、東アジアにおけるルーズベルトの世界戦略デザインは、結果としては収支でマイナスであろうという話。


物事は、自分がほんとうに理解できて、事実を押さえて、自分の意見を持つまでは、がんがん受け入れても、盲目的に信じてはいけないので、これがほんとうかどうかはさておき、、、これは重要なポイントだよなと思うのです。というのは、僕自身も日本の教育を受けているので、日本は1945年ですべてががらガラポンとまっさらになっているので、ここで一つの大きな物語が終わっている、と感じちゃうんですが、、、、たとえば、アメリカから見ると、そんなことは全くないんですね。「連続している」感覚があるわけです。そうすると、日本を非武装にして、農耕国家にでもするかという感じでやっていた占領政策が、あれよあれよというまに、日米同盟に変わっていく様は、そもそも、東アジアにおける戦略としては、日本と同盟を結ぶ方がアメリカにとって非常に効率がいいんですよね。というか、双方にメリットがあるからこそこんなに深い同盟が長く続く。世界戦略上非常にいいわけです。半世紀を超える、本気の同盟ですよ。そうであれば、そもそも戦争しなかった方が、アメリカにとって、もっと効率よかったのでは?というのは、よく考えれば、そりゃーそうだ、と思うんですよ。アメリカが、大西洋(イギリス)と比較して、太平洋にそれほど大きな既得権益やりがいがあったか?といえばほとんどないんですもん。そういう意味で、ルーズベルトのWW2のグランドデザインと、特に東アジアの戦略は、かなりアメリカの国益とアメリカを中心とする未来の歴史に対してマイナスだったというのは、僕も、なんとなくそういう風に考えていたので、エウレカ!!!と思いました。だって、地政学上というか、日米同盟が、戦後こんなに機能しているということは、相性がいいわけでしょう?。日本は歴史的にアングロサクソンと相性がいいといえると思いますが、ようは海洋国家で、海軍で世界をバランスさせる国家との相性がいいというわけで、アメリカにとってはイギリスと日本は、常に相性のいい同盟の相手なんですよ。ライバル国家だったので、なかなか難しかったかもしれませんが、大日本帝国海軍にアジア圏のシーレーンの安全保障をさせて、がっつり同盟を結べれば、それでアメリカとしては、十分だった気がします。日本は、本質的にヨーロッパ文明、資本主義の列強国と同じ価値観を持つ近代国家ですので、共産主義やアジアの封建主義に比べて、明らかに同盟しやすいというか、できる唯一の相手だったはず。そうすれば、世界の赤化に対して、もっと楽に対処できた気がしますし、こんなに世界が混乱しなかったかもしれません。日本側も、アメリカに勝てないのはわかっているんだから、そこは謙虚になって、対ソ連、、、というよりは伝統的に対ロシアなんですよね。そう考えて、アメリカと権益を分け合うべきだったんですよ。別に対してアメリカは、東アジアに権益ないんだから。

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51915813.html#more


それと全面戦争するのは、結局は、東アジアにおけるソ連とコミュニズムの影響力と支配を広げただけの結果になりました。国際経済上ほとんど影響力のないソ連が、冷戦という形で世界のヘゲモニーを握ったのも、原爆、核ミサイルの技術流出が故ですもんね。


それで、アメリカは、事実上、もっとも欲していた中国大陸における市場の参入を奪われたわけです。それだけではなく、蒋介石政権(超ウルトラ親米政権ですよね)がちゃんと中国を支配していれば、もっと早めに中国が資本主義でテイクオフしていたと思うんですよ。しかも、めちゃくちゃ親米の国家として。・・・・まぁ、ちなみに、なので、日本の最大のアホ決定は、中国に侵略したことだと僕は思いますねー。満州国までは、かなり国際社会的にグレーとはいえ認められているし、それ以前は、そもそも国際法上合法だし。アメリカも上海事変のころから物凄い硬化していますからね。中国は確実に、統合に向かって国としての力を上げつつある時に、それを無視して統治能力がない政権みたいな扱いをしたのが日本の戦略眼のなさだったと思います。中国へのなんというか、傲慢さは、結局国を亡ぼしていますね。アメリカにしても、中国の市場かが物凄い遅れて、参入も難しくなって、本当にアホな決定だったと思います。僕は、東アジアにおける戦略は、大日本帝国だけが馬鹿だったのか、と思っていたのですが、なるほど、アメリカもそれに輪をかけて馬鹿でまったく先が見えていなかったのか、、、と最近感心しています。


まぁ、歴史にIFはありませんが、「この視点」は、物凄い興味深いです。なんというか、歴史的にありえたかもしれない、そしてその潜在的構造はまだ残っているものですから。


ルーズベルトの開戦責任: 大統領が最も恐れた男の証言

ちなみに、よく日本のWW2の戦争を自衛戦争だといって、アメリカにしてやられたという議論がありますが、、、、この本なんかもそういう文脈でよく読まれていますよね、、アメリカのルーズベルトによる陰謀論。僕、この意見、さっぱり理解できません。アメリカにしてみれば、自国の国益のために何でもやるのは当たり前で、何が悪かったか?と問うならば、それを見抜けなかった日本が悪いのであって、なにが言いたいのかさっぱりわかりません。日本だって、いろいろ策略に謀略しているわけで、なので、日本が悪くなかったとかそういう議論に全くつながるようには思えません。というか、そんなことも見抜けなかった日本のダメさ加減を、さらに宣伝するようなもので、、、、うーん、本質的に何が言いたいのだろうか?って、、、わけわかないんですよ。


日本の自衛戦争で日本は悪くなかった!とか言いたいのでしょうけれども、それが通用したのは、日露戦争ぐらいまでで、そこまでは日本が安全保障中心の自衛戦争の物語を徳川幕府中期からずっと生きていることは『風雲児たち』を読むとよくわかります、、、、、よくわかりますが、、、

風雲児たち 幕末編 23巻


日露戦争以後は、もう国構造が変わっていると思うんですよ。日本は、もうすでにこの時点で『持てる国』になっていると思うんですよ。その自覚が、なかったというのが最悪でしたね。なのに、いつまでも被害者ぶっている。下記の本を読んで、ずっと最近考えているのは、もう当時の大日本帝国は、「持てる国」であったし、世界大恐慌をいち早く抜け出ているのも日本なんですよね。なのに国内の問題点を、自分たちが世界からいじめられているとか勘違いしたのか?それが、ダメだったと思うんですよね。なんでも、わがままがきくわけではなく、そりゃーアメリカのような恵まれ過ぎた国に比べれば、日本がひどく思えるのはわかりますが、、、スイス人の友人が、「日本は勘違いしているよ、君らは資源がないからとても弱い国なんだとかいうけど、スイスなんか山しかないぜ!あってもチョコレートぐらい(巨大なチョコレート市場がスイスにはある)だぜ」といっていたのを、覚えています。そうなんですよねー日本は、すぐアメリカと比較したがるんですが、、、、それは、、、ちょっとうぬぼれすぎです(苦笑)。


持たざる国への道 - あの戦争と大日本帝国の破綻 (中公文庫) 高橋是清暗殺後の日本―「持たざる国」への道



未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命―(新潮選書)

2014-11-01

より多様性の獲得へ−日常系から完全に無菌な状態(=男性の感情移入視点が存在しない)へ至り、そこからゆり的な微エロへ

桜Trick 1 [DVD]


日常系、無菌系から微エロまでは自然に展開しますよね!




by LD教授


今回は、日常系とは?のtagのシリーズの流れなので、ぜひとも読み込んでおいてほしいなーと思いつつ。


『桜Trick』 2014年 Japan タチ著 石倉賢一監督  日常-無菌系の果てに現れた微エロ

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20141015/p2


『ゆゆ式』(2013) 原作:三上小又  監督:かおり 関係性だけで世界が完結し、無菌な永遠の日常を生きることが、そもそも平和なんじゃないの?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140504/p1


LDさんと話していて、また無菌系から微エロまでの変化において、とても興味深い発見があったので、メモしておきます。というのは、LDさんがここで新しい概念を出してきたんですよね


恋愛可能線



というものなんですが(どっちだったか忘れた(苦笑))、これは、僕がLD教授に、「無菌系から微エロまでは自然に展開する」というのは、なぜですか、教えてください!と質問したところからはじまります。



というのは、僕は前の記事でも書いたように、この作品を見たときに、すべての定義が明らか日常−無菌系になっているにもかかわらず、無菌系じゃないみたいだ!と思ったんですね。何で思ったのか?を問い直してみますと、優ちゃんと春香さんのこの濃厚な百合関係をみせられて、、、それでくらくらしちゃって、違うと思ったんですね。これもう少し自己分析をしてみると、僕の中では、友達と恋人の関係をどう違うものか?という質問をしたときに、、、、ああ、えっと、この質問は世の中で定番ですよね?。男女の友情はありえるか?という質問にたとえるとわかりやすい。僕は、男女に友情がありえると思ったことは無いんですね。自分の経験から言っても、濃い友情と恋愛の差が、僕にはまったくわからないんですよ。栗本薫が、男同士のボーイズラブについて、同性同士の友情は「肉体的に受け付けないだけの恋愛」だといっていたのですが、境目って、肉体的に受け付けるかどうかに過ぎないので、異性同士であれば、もう確実にそのまま恋愛にスライドしてしまうので、友情なんかありえないって僕は思っているんですね。


いいかえれば、友情と恋愛は、本質的には同じものだと僕は定義しているわけです。この肉体的に受けつけるかどうか、というのは、趣味嗜好の問題なので、異性同士のほうが一般的には、受け入れられやすいですが、それって現代の状況からすれば多数派のマジョリティというだけで、概念的なものに過ぎないわけです。ようは、肉体的に同性の身体が好きですといった時点で、このハードルというか制限は簡単になくなります。



さてここまで来ると、異性同士、同性同士も差異がないとなります、、、、そうすると、友情と愛情の境目の部分が、どうなっているか???といえば、僕は、そもそも、無いという認識をしているはずなのです。要は濃度の濃さぐらい?。



ところがですね、、、、、僕は、この系統の最高傑作だと思っている『ゆゆ式』を見て、そういう恋愛的なモードになったことも無ければ、感じてもいなかったのですね。日常−無菌系には、そういうものは無いという風に僕は感じていたようなのです。

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しかし、これって矛盾ですよね?



だって、同性同士の友情は、恋愛とまったく差がないと定義しているにもかかわらず、『ゆゆ式』の3人には、そういう関係性で僕はみていないって言うわけです。



さて、LDさんの説に戻りましょう。



そもそも、人間の本質として、そこに関係性があれば、すぐに恋愛可能線が発動してしまうのだ、とLDさんは言います。そもそも物語としての起伏、起承転結を起こすには、たとえばそれが同性同士であっても、、、たとえば、女の子同士でも、もう一人の違う女のこと仲良く離していて、、、何で、あのことあんなに楽しそうに話してたの?という嫉妬が生まれると、そこに関係性の深まりが生まれて、、、、という風に、そもそも、無菌系であったとしても、そこに人間の関係があれば、そういう恋愛に突入していくのは自然なのだ、と喝破します。もちろん、同性同士はそうならないなどの概念的な制限は、つど作品の条件設定にはあるかもしれませんが、内在的にはそういうベクトルが働いている、とLDさんはいいます。



しかしながら、日常ー無菌系には、それをエスカレートさせない装置があった!!とLDさんはいいいます。



そこには、監視員!!!がいるのだ!!!!というのです。



『苺ましまろ』の伊藤さん(のぶ姉)がその典型的存在(ロールモデル)だ、とLDさんはいいます。


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少しこの概念を説明するために、そもそも日常系から無菌系に至るプロセスを思い出してみましょう。それは、男性主観の感情移入対象が削除されて、消去、去勢されていく過程と我われは定義しました。その最終形態の無菌系には、そもそも男性のキャラクターが登場しないですし、感情移入の第三者的キャラクターも存在しません。第三者的というのは、たとえば、『らきすた』のこなたのお父さんのような保護者ポジションであったり、登場する女の子たちの恋愛潜在線を巧みに排除していく過程が、日常系の無菌化プロセスであったとすれば、『けいおん』『ゆゆ式』『桜Trick』などの昨今の作品は、この雑菌(=男性の主観・視点、感情移入先)が、なくなっていった最終形です。


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しかし、それまでは監視員がいた、とLDさんは喝破します。『苺ましまろ』における、伊藤さんは、ほぼ主人公格のキャラクターと位置づけながら、4人の幼女のお姉さん的ポジションに存在します。しかし、、、ここで重要なのは、彼女がタバコを吸い、振る舞いがまさにおっさんなところにLDさんは注目します。これって、まだ男性の感情移入先の名残だといえるわけです。しかしながら、もう男性ではなくなっています。ここで『お姉さん的』な4人の幼女に好かれるポジションであることが重要です。


そうです!!!。本来は、4人の幼女の関係性の中に、人間本来のさがとして、恋愛可能線が存在するのでそれが発動してしまうのが普通なのですが、監視員の存在を設けることで、お互いが恋愛をしてしまうことが起きないように誘導しているというのです!!!これは目からうろこが落ちました。なるほど(←ほんとか?(苦笑))。



閑話休題




えっとですね。その監視員がなくなって、完全に無菌な状態(=雑菌がいない・男性の感情移入し先、存在、視点が存在しない)になってくると、そもそも人間関係の本来的に持ってい恋愛潜在線が表に出てきて、アクティヴに見えるし、歯止めが効かなくなるのは、自然なことだ、、、という意味で、LDさんは、無菌系から微エロになるのは自然なことなんですよね、といったわけです・・・・・。


LDさんって、、、さすがだよなぁ、、、こんなちょっとした一言でも、ここまで掘り下げると、定義からロジックが出てくるわけだから、、、いつも感心してしまいます。


ちなみに、これはかなり制作者サイドも自覚的だろうとLDさんはいいます。この日常・無菌系からゆり系に向かう典型的な作品を、LDさんは、『ゆるゆり』としていますが、、、まさに、タイトルからして、緩い百合ってなっているんですもんね。

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ただ、「ゆるい」とあるだけに、まだこの時の百合は、ギャグの文脈の中で、さらっと書かれているだけでした。しかしながら、それが、『桜Trick』では、ガチ!に行くわけです。優ちゃんと春香さんのキスって、、、、もうめっちゃ濃厚ですよね。あれってもう、凄い肉感的で、毎日SEXしまくっているのとほとんど変わらないと思うんですよ(笑)。それに、本人たちの自覚も、ガチ!です。僕がこの作品を見て、この二人の将来はどうなってしまうのか?と、現実の同性愛の問題とひきつけて連想して、いろいろ悩みこんでしまったのは、彼女たちの関係がガチだからなんですよね(苦笑)。ギャグに流せない(苦笑)。この二人、本物じゃないですか!!。かといって、物語中では、まだまだ受け入れ態勢が進んでいない日本の現代(2014年)の状況で、どのような自覚を持って戦うとか、親にどういうのか?とか、どうやって稼いでいくのか?とか、そのへんのシビアな話は出てきませんので、それで、僕ははらはらしちゃうんですよね〜。


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さてさて、実は、僕の今回の記事で言いたい主題はこの先にあります。



そもそも日常系、無菌系の作品は、百合好きな人からすると、そもそも最初から「そこ」にゆりゆりな関係はあるじゃないか!!!として、そう読み替えて、見ています。BLの業界の人が、消しゴムと鉛筆にも受けとたち(あれ、ネコだっけ?それとも、攻めだっけ?←いまいちわかりきっていない)の関係を読み替えてしまったり、するのと同じで、そこに関係性がある限り、恋愛可能線(線なのでベクトルが存在します=矢印と考えてもいいです)は必ずあるので、それを強調してみようとすれば、それは確かにできるわけです。なので、最初からそういうものはあった、とは言い張れるわけです。


もちろん物語には、このベクトルのコントロールが本筋や世界観によって形成・支配されています。たとえば、日常系から無菌系の流れの大きな主目的は「男性の感情移入先を削除していくこと」であったわけです。それは、主な視聴者である男性が、自分の競合者を無くしていく過程で作中に男性キャラクターを消去していく流れで、最後には、自分の視点さえなくしていこうという力学があったわけです。つまりは、70-90年代のナルシシズムの檻、個人の自我や主観がすべてに優先されるという個を重要視して、個の揺らぎを追求した文脈の中で、出てきた完成形の一つなわけです。かわいい女の子たちが、ほかの男に(自分にすら)奪われない汚されないで、きゃははウフフする姿が見たいっていう欲望が生み出してきたものなんですよね。究極の安全志向。競争が存在しない空間。


・・・・ところがどっこい、物語のキャラクターにも自律性がありますので、そう設定すると、いろいろ思いもしなかった副次効果というか結末に向かうんですね。男の子が、たくさんの女の子を自分のものにしてキープするハーレムメイカー類型では、男の子がすべての女の子に平等で接する構造から、女の子がバトルロワイヤルで男の子を奪い合う、女の子主体の方向へ舵を切る物語に変化していく、、、ヒロインの逆襲という構造を僕らは見てきました。同様に、日常・無菌系では、女の子たちが関係性で戯れる姿を、雑菌(=男の視点)なしで見ていたいという欲望が、女の子同士の恋愛の方向へ物語のドラマトゥルギーをすすめることになったわけです。そこにいる少女たちを、他の男に奪われたくない!!!と極端に進めた結果、物語の中に他の女性に女の子を奪われてしまったという皮肉です(笑)。


しかしながら、構造が変わる時は物語だけではなく、視線の出し手(=視聴者)も変わってしまうもので、、、、そもそも女の子を奪われる男性の視点を排除しようという傾向の中で、男性自体が女性の視点の中に感情移入していくというトレーニングでもあったわけで、男性が総じて女性の関係性の中で生きることの面白さを勉強していく過程になったわけです。異性の視点をストレートに(屈折した自己の中にある異性の視点ではなく=それは大体差別感情ですしね)体験することは、見事なセンスオブワンダーだと思うのです。特に、男の子的な世界観は、成長をベースにするマッチョイズム的な世界観なので、それをに対する適応不全を起こしている現代では、この視点の獲得は、なんか、すげぇいいんじゃない?って僕は思います。僕のような、成長至上主義のマッチョイズムくんには、絶大な癒しとセンスオブワンダー、そして自分か理解できない他者への共感の扉をもたらしてくれます。


またもう一つ言うと、ハーレムメイカー(一人の女の子がたくさんの女の子を囲う)や日常無菌系を見てくると、、、やっぱりさ、、、本当の恋愛って、一対一のほうがいいんじゃねぇ!(その亜種である三角ラブコメの復権)とか、いやいや、女の子がかわいくなるのは、輝くのは、男の子がいて恋した時がベストだろう!!ということにみんなやっぱり気づいて(笑)、『恋愛ラボ』のように複数の男女で構成される作品への発展も見られます。

恋愛ラボ (10) (まんがタイムコミックス)


ここにきて古典に、王道に回帰したのか?とみんな思うと思いますが、僕の答えはNOです。


過去に戻ったわけではありません。僕らは、多様性を獲得したのです!。


この多様性の訓練こそが、様々な視点への仮託への自由になれる、、、、物語をよりよく楽しめるための重要な想像力の筋トレになると僕は思うのです。一見、過去の王道ものに回帰しているように見えますが、多様性を獲得した状況では、全体における位置づけや、コモンセンス(常識)が王様の位置に君臨して他の可能性を抑圧することがとても弱くなります。


なので、僕はこの文脈の流れをずっと終えたことは運がよかったと思います。最初は、戦争映画やSFの作品、善悪二元論などのテーマで追っている時に、「非日常」という概念が出てきました。それは、その後に現れる日常系との比較で、日常と非日常を比較する流れで出てきた概念でした。


ここでは、歴史学者のレスター伯さん(僕より世代的にかなり若い)と話していく中で、物語のとらえ方が、団塊のJr(いま40台の僕の世代)と、それ以下のたぶん1980年代以降の生まれの世代にどうも断層があるという気づきでした。この世代の断層の上と下で、日常と非日常の「順序が逆転している」ことを発見したのでした。彼らは、もう生活の体験のほとんどが日常に埋没しており、帰るべきところ、ノスタルジーを感じるところ、「日常」をベースに感じるのです。なので、非日常は、ありえない、憧れる何かになります。逆に僕の世代より上は、帰るべきところ、ノスタルジーを感じるところが、非日常となります。これは、団塊のJrの世代までが、祖父の世代(直接に接する可能性が高い家族)に戦争経験者がいたことと、かつ高度成長期の非常にを生き抜いて競争してきた非日常を日常として生きる団塊の世代を親に持っていたこととか、、、また、その3代で生活環境が、ほとんど同じとは思えないほど激変してしまったことがあると思います。自分の生きている風景が永遠に続くように感じられることが、イコール日常です。永遠の日常って言いますよね。けれども、高度成長期や戦争体験は、自分の見ている日常の風景が、激変して変化していくという非日常を生きることになったことになるのです。


この辺は複雑なロジックなので、もう少し考えていきたいのですが、、、、はっきりわかっていることは、団塊の世代Jr以降の1980年代以降の生まれの世代は、世界観がすべて「日常」をベースにしており、非日常はとても非現実的に感じる感受性を持っているようだ、ということです。なので、非日常的な物語設定を構築しようとしたときに、転生もののように、異世界に富んでいくことや、バーチャルリアリティの中に入るというような、非日常がいま生きて生活している日常の延長線上にあるという風には感じられない感受性があるからこそ、こういう設定が生まれるわけです。


ということで、新しい世代に適応した、日常系というカテゴリーが生まれることになります。


日常系の定義は、関係性のフレームアップ(ミクロのクローズアップ=マクロの背景の消失)です。また時間感覚の消失(=日常の風景自体が永遠に変化することがないというあきらめの境地=成長による世界の変化がないというあきらめ)もあげられます。



この系の可能性分岐として、無菌系が存在します。



この無菌系は、感情移入対象である男性主観の視点を削除することでした。これ、僕が、ずっと宮崎駿さんの解説の文脈で語ってきた、彼の「男の子を主人公とした物語が描けなくなった」という話と重なることです。


『風立ちぬ』 宮崎駿監督 宮崎駿のすべてが総合された世界観と巨匠の新たなる挑戦

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130802/p1


つまり、男性主観の削除というのは、宮崎駿が言った「男の子を主人公とした物語がつくれない」と同じことですよね。もう一つ言うと、庵野秀明監督が、『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビシリーズで、世界を救うための選ばれた典型的な英雄であり主人公である碇シンジ君が、物語を放棄したこととも同じことです。ようは、男の子の主体性が確立できていないわけですよね。



なんで?



と問う時にこのブログの読者は、もう答えはわかっていますよね。男の子の英雄、主人公が指し示すことは、つまりは、成長を無邪気に信じる高度成長期のマッチョイズムです。成長するということが、無邪気に、無前提に、信じることができなくなったからなんです。成長することこそ、正義!正しいのだという信仰が揺らいだのです。繰り返しますが、成長自体が悪いわけではないですし、これ自体が世界からなくなったわけではサラサラありません。成長することの正義も、男の子的価値観のマッチョイズムも、十分に健在です。何が変わったかというと、この価値観が、時代の支配的なパラダイムの王座であることをやめたことなんです。少なくとも、日本に置いて、高度成長期が終わった1980年代の終わりにこれはとどめを刺されました。その回収と「次」へのアノミーの時期が、90年代2000年代なのだろうと思います。これは物理的にも、失われた20年と一致しますね。日本の高度成長が崩壊したこと、ストックで生きる経済に構造変化したのにライフ詩タイルが全くそれに適合できていない不適合の時代です。


男の子たちは(=高度成長を前提として無邪気に未来の成長を前提とした人たちなので、男女など性別は問いません)アノミーに、いいかえれば、生きる目的を喪失してしまったのです。自殺率の上昇は、この高度成長期のアンシャンレジームが壊れて、次のモデルが獲得できていない状況でのアノミーに対応していると僕は思っています。まぁ「生きる目的」といっても、これまでの高度成長=坂の上の雲を目指す適応の形式が失われただけで、人間本来のありようが変化したわけではサラサラありません。



さて、日常系-無菌系は、まさにこの背景を基礎として、その「次」として出てきたものの一つになるわけです。



まずはっきりと打ち出されたテーゼがあります。



それは、成長をあきらめろ!!!です。



なので、基本的に永遠の日常(=風景が変わらない=成長がない)のです。



またもう一つは、この世の中で最も大切な価値があるものは、大事な人との関係性の記憶なのだ!という喝破です。



この前提の中で、生きていることを楽しむのはどういうことか?を問うたのがこれらの作品が指し示していることだと思います。



まず、風景。成長しないと変わらない????。いや違いますよね、四季は廻るのです。大きな成長がなく、何も変わらないような日常も、風景自体をクローズアップしてよくよくみてみると、ふだん自分が住んでいる無味乾燥な風景こそが、キラキラに満ちた濃度と密度を持ったものであることにみんな気付くのです。海外に脱出しなくても、エリートになって世界を変えなくても、目の前にある風景は、きれいじゃないですかって!。


そして、その美しい変わらない風景が意味を持つのは、大事な人たちと戯れている、いま、そこに価値があるからです。


しかし「友達と戯れる」ってどういうことだ??という疑問が生まれます。


成長ばかり志向してきた人々には、そんなことがわからいのです。「もっと、もっと」と道端の花も見ないで、遠くの「志」とかばかり見ている人には、ミクロの関係性のフレームアップの戯れによって「今ここにあることの至高性を感受する」という技術がありません。ちなみに、これは技術です。そしてこれが、男性マッチョイズムの成長至上主義の世界で排除されていた、女性の独壇場であったこと、とりわけさらに社会参加からかなり遠ざけられている少女の特権であったので、まずはロールモデルに女の子が選ばれたんだろうと思います。

タナトスの子供たち―過剰適応の生態学
タナトスの子供たち―過剰適応の生態学

そこに、男性感情移入視点(=男の子のキャラクター)がないために、女の子しかいないわけで、女の子に感情移入することによって、この視点によって世界を感受する技術をトレーニングしていけるわけです。10年ぐらい前のブログのはじめのころには、日常を扱った物語ってつまらないので基本的に嫌いなんですよねって、言いきっています。それはなぜか?といえば、まず一番は、そういう感受性が自分の中にセットされていないので、そういうことの微細さや感覚が、甘受できないから、全然面白くなかったんだろうと思います。これに気づかせてくれたのは、岡田斗司夫さんのオカマエンジン、という発想です。少女漫画を理解するときに、どうすればいいのか?という問いへの答えでした。なるほど、自分の視点じゃない、他者の視点の想像力をどう自分の心の中に作るかが、他者を理解する第一歩なんだな、と理解しました。自分の心の中に他者を構築することで、異なるタイプの感受性の形式を筋トレして修練して構築していく。それはまずは自分とは異なるものという形での仮託の対象になりますが、それを長期間継続して修練して積み重ねると、スイッチの切り替えがゆるくなり、ほとんど自分同様に「自分」と統合されていくことになります。

30独身女、どうよ!?

さて、そうやって永遠の日常の中で、関係性にフレームアップして、生きていくと、、、、そうですね、、、人生が楽しくなるんですよね。これを学べたのは、僕のような成長至上主義で生きている人にとっては、凄い価値があるものでした。ちなみに、もついろん成長至上主義がなくなったわけではありません。それが、パラダイムの王座の座を失っただけで、巨大な勢力として、大きな意味ある価値として君臨している現状は変わりません。けど、それはそれ、これはこれ、という多様性の棲み分けが可能になったのです。幸せになるには、縛りからの自由が重要で、たとえば成長至上主義に生きている人は、こうした成熟(その時々を戯れ、一回性の時の至高性を感受する)が重要ですが、逆にいうと新しい世代では、成熟をベースに生きている人にとっては、成長至上主義的なマッチョイズムを獲得できることが、逆に幸せにつながると思うんですよね。なかなか世界は皮肉です。簡単に、反転する。


僕が、このブログは日記的なものなので、数年前に、友達がいっぱいできた!趣味を通して関係性に戯れているとなんて幸せなんだ!と言い出したのを長くブログを見ている人は覚えていると思います。これは技術なので、習得可能なのです。少し時間はかかりますが。海燕さんやLDさんら友人たちと、もうほとんど女子会としかいいようがない行動をヤロー同士(笑)で遊びまわっているは、なんとなく皆さんわかると思います。


ちなみにねーこの感受性の獲得は、同性同士でつるんだほうが、、、特に男性はいいような気がします(僕は女性ではないので断言できませんが、女の子同士も同じな気がします)。若かりし頃、あれほど女の子と遊んだのに、こういう解放感は、まったく訪れませんでした。それは、僕のアプローチが悪かったのがいまではわかるんですが、つまりは僕は恋人を探す意識で女の子に接していたんですね。何が違うかっていうと、性欲にリンクしてしまうことと、1対1の関係性に「閉じ込められて」対幻想になってしまうんですよ。性欲は、暴力や薬物と並んで、容易に自分をだましたり、おかしな関係性を作り上げてしまいやすい(=いいかえれば、バランスの悪い幻想を構築してナルシシズムにこもってしまいやすい)ので、なかなか健全にならないような気がします。やりようですがね。また対幻想は、ナルシシズムの檻(=個幻想・妄想とか)の2人閉鎖型ヴァージョンですからね。物語の類型でも、男性に対する女性による救済やファム・フアタルなどの形式は、結局は、それは男のナルシシズムなんじゃない?と時々思ってしまうんですが、やはりこれが出口がないものだからだと思います。


それでもって、この異なる感受性を獲得することが「技術」だと強調するわけは、ずっと問い続けている「内発性がない人間はどうやったら獲得できるのか?=絶望している人が自分で自分を変えることは可能なのか?」というあの設定に深くかかわる問題だからです。はっきりといいかえれば、僕は、内発性(=人生を楽しめること)は、努力によって習得できる技術なんだ!ということが言いたいわけです。なぜならば、それは自分の経験の実感・体感からかなり普遍性がある形に分解できる「技術」なんだという手ごたえが最近あるからです。


ちなみに、クンフーとか修業とか言っているのは、これが時間と手間が非常にかかる「積み重ね」の技術習得だからです。プロフェッショナルになるには、1万時間のトレーニングが必要?とかよくいわれるじゃないですか、計算的には1日12時間労働で3年間の感じですね。ランチェスターの法則でしたっけ?。これ、僕がいつも言う、なんでも3年は我慢が必要なんじゃねぇ?っていう体感法則と、がっちり一致します。僕が、あれ??、ブログ初めて友達ができたんじゃね?と思い始めたのが、始めてから数年後で、自覚してさらに数年後に、明らかな自己の解放感があったのを考えると、まぁそのとおりなんでしょうねぇ。結構大変ですよ。



>祭りを起こす才能(=内発性)って、どうやって獲得するものなんだろう? またその構造はどうなっているんだろう?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131225/p1

やっぱ趣味と友達がないと、しあわせになれんよねー

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131030/p1




さてさて、けどね、、、僕はこの辺(=友達ができた!)で終わりかと思ったら、、、そうじゃなかったんですね!!!



ようは、無菌系が同性同士のゆり的な微エロに突入するとすれば!。これは、BL(ボーイズラブですね!)と(笑)。LDさんが興奮していましたが、、、、、ようはね、ゆりやBLの文脈に対して、蒙が開かれたような理解度が急上昇したんです。えっと、どういうことかといえば、ようは、見る人が見れば、関係性の中には恋愛可能線が常に隠れているわけです。というか、関係性の本質は、それだといえるでしょう。この関係性の本質に関する、自由度を獲得したということです。具体的な例は、『ゆゆ式』で、ゆずちゃんって、ゆいちゃんのこと好きですよね???どう考えても。でもこれ、僕は「見えていたのに見えていなかった」んですが、ゆうちゃんのゆいちゃんLOVEってかなりガチですよねっ!!これ、言われるとわかると思いますが(LDさんも超同意してた)彼女、マジガチですよ(苦笑)。でも、僕全然気づかなかったんですよ、、、『桜Trick』で「そういう可能性の視点やベクトルがあるんだ」ということを体感するまでは。そういう物語内在の、恋愛可能線が、自由自在とまではいかなくとも、相当の自由度を持って感じられるようになってきました。これか!!!腐女子の皆さんが見ているものや、百合好きの皆さんが見ている世界はこれなのかぁ!って。関係性は複雑だとしんどくはあるんですが、その分、世界が豊穣で満ちるものとなります。これって、無味乾燥そうな薄っぺらい「世界」が、キラキラとした輝きと複雑な豊穣性を持って現前してくるのです。いやーセンスオブワンダーだなー。


また一つ、前へ進んで、多様性を獲得したなーとうれしい今日この頃です。


苺ましまろ encore VOL.01 (初回限定版) [DVD]


ちなみに、僕が過去、マリみてで「この先が見たい」といっていたことなども、この恋愛可能線をベースに考えると、かなり違って見れると思いますし、、、また同時に、僕が、このラインで考察をして文脈を考えて「その先」を見たかったというのは非常に妥当だと思うんですよね。そういう意味では、物語を楽しむにあたって、これほど感受性の筋トレをさせてくれるものは久々でした。いやー楽しいっす。


マリア様がみてる ハローグッバイ』 今野 緒雪著 ついに祐巳・祥子編の終わり、大好きだが一点不満があります!

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090110/p1

マリア様がみてる―ハローグッバイ (コバルト文庫)

2014-10-31

これ、漫画うまいねー。

無職転生 ~異世界行ったら本気だす~ 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)



『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』  理不尽な孫の手著 異世界転生の日常やり直しセラピー類型の、その先へ

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131105/p1



この人の漫画も凄いうまいねー。海燕さんが、これはみなきゃっっていうので、早速見ましたが、素晴らしいです。続きが楽しみです。やっぱり絵がつくとイメージが一気に広がりますよね。


無職転生 ~異世界行ったら本気だす~ 5 (MFブックス)

1980年から2000年までに生まれたミレニアル世代と旧世代にある大きな境を

世界は、ミレニアル世代の「自己顕示欲」が社会を揺るがす時代に突入している

http://wired.jp/2014/10/13/millenial/


グローバル化が進み、個人が世界中のネットワークに繋がっている現在、ミレニアル世代は、アメリカにおいて漸進的に、しかし確実に注目を浴びつつある。

というのも、1946年から64年に誕生したベビーブーマーを退け、現在、人口比率においてトップを誇るのは、約8,000万人の、若く自由主義なミレニアル世代だ。転換期を迎えたのは2012年から13年ごろのこと。2013年時点で、アメリカで大学を卒業したての22歳が、最も人口比率の高い年齢だったというニュースは、これからおとずれる変化の序章にほかならない。

これまでの社会では類のみない、デジタルライフに特化し価値観を新たにした世代が、将来の舵を取る時代にさしかかっているのだ。

中略

彼らは歴史上初めての、「世界と繋がっている」ことが常にあるデジタルネイティヴ世代である。ビジネスのターゲットとなる対象人口が多いというのは、もちろんこの世代が最重要視される理由のひとつではあるが、彼らが年上の世代に当てはまらない動向を示すというのもまたそのひとつだ。

中略

ミレニアルは、テクノロジーを扱うことにかけては右に出る世代はないが、自分たちのモラルにおいては思うところがあるようだ。彼らは、年上の世代の方がポジティヴな労働観をもち、他人をリスペクトし、そしてより道徳的だと答えている。彼らはしばし、私主義、つまり自分を中心に据えた“ナルシスト”で、多くの場合自分が正しいと思う自信過剰世代であるとも言われている。




僕は、この関係性の自由度の話を考える時に、この米国のマーケティングでよく言われるミレニアル世代のことを思うんですよ。これは、1980年代以降に生まれた世代のことですね。それ以前とかなり違う、と。世界的にこの世代の存在感は増している傾向があるんですよ。日本は、この世代の人口ボリュームが、小さいので存在感がなかなかわかりませんが、、、それこそ、旧世代に相対する新世代の層なんですよね。




僕は、これの特徴をいま言えるほどよくわかっていないのですが、、、1980年以降の生まれの世代が存在感を増した社会に置いては、なんというか多様性に対する許容度が非常に高くなっている傾向がある気がします。特にアメリカにいるとわかるんですが、もう日本と常識が全く異なってしまっていると感じます。同性愛の話もそうですが、たぶん、セクシャルなものに関する理解が日本の古い世代の常識とはも全く違うんですよ。世代論で片づけるのは、悪い回収方法なんで、ある程度眉唾に考えたいところではありますが、まぁ、このへんに境界というか、大きな考察すべき境目がありそうだってのは、覚えておくと面白いかもしれません。



キーワードは多様性への許容だと思うんですが、、、、



なんというか、、、、アメリカを勉強するときは、まずは、アメリカ人とは何か?という問いを勉強するんですけれどもね、、、、僕が学んだ20年ぐらい前までは、それでもまだ、イタリア系アメリカ人とか日系アメリカ人とか、人種やエスニックはある程度同定できるけどアメリカ人という存在が普通だったんですが、いまでは、1960年代のフリーセックス(人種間を超えるという意味)を経て、リベラリズムが浸透しまくったアメリカ社会で、さらに既に、30年以上時が過ぎて、このアメリカを学ぶときの基本的命題である「アメリカ人とは何か?」という問いが、凄く変化している気がするんです。そもそもこの問いは、〜系(=どの民族集団を出自に持つか)という背景があることを前提に語られています。ランドルフボーンなど、アメリカの未来は、まったく異なってもっと混沌としていくだろうといっていますが、これらが書かれた時点では、それは理念だけの空想であって、現実にありえる話ではなかったんですね。

思想としてのアメリカ―現代アメリカ社会・文化論 (中公叢書)

けど、、、いま、アメリカ社会を見ていると、ドラマや映画などの物語の次元だけではなく、現実にも、、もう〜系の人か?という問いが意味を失うほど、人種やエスニックグループの血が交じり合った人が生まれてきており、しかもそれがかなりの規模の勢力になっており、また60年代のリベラルな時期を越えて、反発も激しいが同時に、肯定も激しい時代を30年以上世代を超えて追及してきました。なので、すっげっえ多様なんですよね。たとえば、タイガーウッズなんか、いくつの民族の血が入っているの?ってぐらいわけわかんですよね。、、、こういう人が増えてくると、アメリカの究極の理念であるその人自身、、、、は、その人個人として見られるべきという、個人主義が絶大な意味を持ってくるのです。民族集団や国家などの、マクロや公など全体に個を帰依することなく、自分を自立させなければアメリカ社会では生きていけません。アメリカ人、というカテゴリー以外に、頼るべきものが消失していくからですよね。日本人なら、幻想でも日本民族とか、ドイツ人あらゲルマン民族とか、いえるかもしれませんが、単一民族ネイションシステムの幻想システムは、過去のようには成り立たなくなってきました。歴史学もどんどん評価が変わっています。アメリカの最近の教科書は、ピルグリムファーザーズ(建国の父たち)の話ではなく、アメリカ大陸の先住民の歴史に始まり、3つの巨大帝国(大英帝国、スペイン帝国、フランス帝国)の狭間で苦しんだ辺境から話が始まります。

検証アメリカ500年の物語 (平凡社ライブラリー―offシリーズ)


こういう社会で物語を見ていると、なんかほんと、変わったなーと思います。いま見直している『グレイズアナトミー』とか見ていると、異人種間のカップルがこれでもかと出てきます。昔はこれってメディアコードというか隠れた規制がたくさんあったんですよ。黒人の男が白人の女を抱くのは許せないとか、そういう伝統?の元ですさまじいリンチや殺し合いが行われてきたんですから。けど、もうそういうのお構いなしになっている気がします。こっちでテレビ見てても、それが普通だよねって感じで出てくるようになっていますし、そもそも現実にそこらにそういうカップルがたくさん歩いているので、、、、。

性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶 (中公新書)


グレイズ・アナトミー シーズン1 コンパクト BOX [DVD]

さて、、、、ぼくは古い世代の人間です。ましてやアメリカよりも1世代分ぐらい遅れているので、さらに古い時代の思考をしています。けれども、別にすべてが日本がアメリカに遅れているわけではもうありません。様々な部分で最先端を走っているわけですから日本も。そういう中で、日本は1945年以降かなり自己を国家意思に纏め上げることにヘジテイトするようになっているので、全体の意思や時代の反映が、物語やエンターテイメントの中に強烈に屈折して出てくる傾向があるとぼくは思っています。なので、やっぱるいこのへんの世代には、かなり大きな境界があるような気がするんですよね。なんで、最近ここが気になっていたりします。ちなみに、この感受性の差は、相当の意識の差になるので、コミュニケーションが、かなり難しいと思います。とりわけ同じ国の中でさえ話が合わないのに、他国になるともうさっぱりな気がします。これ意識していないと、外交とかでもこじれるだろうなって思うんですよねー。他者を、多文化を、他国を理解するのって難しいんですよねー。ほんとうに。