物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2009-11-13

少年漫画の王道とは?〜スケール勝ちとは時間軸の因果が逆転することをまわりに感染させること

先週のラジオの「王」論が非常に広がりを見せて、LDさんが喜んでいました。ツイッターで、相当さらに広がったしね。そのあとで、mixiでいずみのさんが、僕の言っていることは3年前から変わらないって、ほめて(?)くれたので、確かにそうだなーと過去の記事を、掲載してみます。これって、僕のいつも考えていることの核心の議論なんで、これよく読んでおくと、あらゆることにつながると思うので。ちなみに、明日の11時からもLDさんと続きのラジオをする予定です。

http://ameblo.jp/petronius/entry-10019433285.html

↑この記事の再掲ですね。あともう少しで、アメブロの記事はほとんど(60%ぐらい?)移し終わるので、そうしたらどこかで閉鎖しようかな〜と思っています。実際にどうするか分からないですが・・・・。このときは、ネギまのゆえと超の話で盛り上がった・・・3年前くらいですね・・・なつかしいです。


■少年漫画の王道とは?〜スケール勝ちとは時間軸の因果が逆転することをまわりに感染させること


いずみのさんが、少年漫画の王道 とは、


>で、それは何かって言うと、少年漫画の主人公は「スケール勝ち」さえすればいいんだ


と、いっていました。身も蓋もないが、いわれて見るとあまりにおおっと唸らせられる言葉で少年漫画の本質を言い当てていた。すごい、これは本当に本質を言い当てていると思います。あまりのこの言葉が興味深かったんで、これを僕なりに分解してみたいと思います。


超鈴音編を少年漫画のワクに落としこむには?第一部(いずみのさんより)

http://www1.kcn.ne.jp/~iz-/man/garon/1024/1024_a.htm



根拠のない自信と大言壮語なんだけど(笑)、


ネギがエヴァに勝った後で「呪いを解いてあげますから」と言うと、


エヴァは「すぐには無理だろ」、って怒るんですけど、


一瞬ひるんでるんですよね。


いずみのさんより

魔法先生ネギま! (3) (講談社コミックス―Shonen magazine comics (3311巻))

ここが3巻のエヴァのセリフなんですが、これを一つの類型と捕らえると、ようはね下記のような論理の逆転が起こるポイントなんだと思うんですよ。





]斥に正しいので、→勝つ




が逆転して、




⊂,弔ら、→振り返ると論理的



つまりね、ここでいう「勝つ」というのは「何か目的を達成すること」と置き換えてて定義づけてみる。そして、ある目的があったとします。その目的が、達成できるかどうかの確率を考える時は、どう考えるかというと、「それが可能となる条件」と「不可能になる条件」を並べていって、実際問題できるかどうか?という道筋で考えます。そのへんが、物語の整合性が取れている漫画だと、伏線でも全てが終わった後に振り返っても、論理的な整合性がとられている場合が多い。この論理的整合性を持って、その作品の成否を読み取る人は多いようです。


それは当然で、この整合性が破綻していると納得感が薄れるからなんですね。人間の常識的な体感原則からいって、こういう考え方が普通です。

さてこう見ると、物語が、レベルの高いもので成立するためには、


勝つ=目的を達成するための、論理的根拠・整合性があること


が重要なポイントであるのは、わかると思います。


しかしながら、そうするといずみのさんがいった「スケール勝ちをする」ということと矛盾するんですね。だって、スケール勝ちというのは、「根拠が薄弱な時点での確信」を言っているからなんです。つまり、論理的に不可能であればあるほど、そのスケールがでかいと言い換えられますから。単純にいうとね。



ここって、実は面白い分析ポイントだなって僕は思いました。


つまりこれをまとめると、物語の主人公とは、物語の時間の流れの中で、A地点жでは、論理的にはCにしか到達できない状況下にあるにもかかわらず、最終的には○に行きます、と宣言することにその機能的な価値があるとするわけです。Aの地点からは明らかに、丸に行くのは不可能にもかかわらず、です。ところが、いざ物語が終わってみると、○に到達していました、というのがビルドゥングスロマン・少年漫画であって、その○という最終地点から見ると、なるほど、○に来るのはおかしくないな、思わせているということなんです。


жA→B→C    ・・・・→○


精確に言うと、ビルドゥングスロマン・少年漫画とは、○に到達することが目的ではなくて、Aの地点であるにもかかわらず、○という可能性の極限(言い換えると論理的には不可能なレベル)に対して、コミット(=絶対達成する)という宣言をするものである、とすべきで、必ずしも目的が達成される必要は無いと思っています。


つまり、時間軸で考えると、因果が逆転しているんです。


]斥で正しいので、→勝つ


逆転して、


⊂,弔ら、→振り返ると論理的



と先ほどいいましたが、われわれ一般人は、たいていの場合は、快感原則、体感原則の世界で生きています。その常識から沿うと、時間というのは、過去から現在、未来へと流れて行きます。それは同意できますよね?。Aの次はBで、Bの次はCで、、、、という順序のルールが守られていく感じです。これが常識です。


ところが、物語の主人公は、この一般原則に従った時間のルールを、いきなり飛び越えるんですよ。つまり、いまある現実から、実現可能性を考慮して到達する地点をイメージするのではなくて、いきなり目的をどかんと投げつけるんです。


「来週どこに旅行にいこうか?、、、温泉?それとも思い切って海外?」


とか質問したら、


「やっぱりアンドロメダ星雲か、、、いや40億年前の地球でもいいぞ!」


みたいな、意味不明の会話をしているんです。意味が伝わるでしょうか?。本来は、アルファベットの序列であったものに、いきなり違う記号体系を持ってきて○ですとくるわけなんです。そして、上記の表記では、右から左への序列ですが、目的が基準になると、左から右に序列が変わるんです。



жA←B←C    ・・・・←○



わかります?。


因果の見方が、通常の状況から全く逆転することを描いているんですね。上記のエヴァにネギが言ったセリフも、3巻時点で明らかになっている情報を条件として考えると、まったく不可能な話です。実現可能性から考えると、せせら笑う話です。でも、エヴァが、動揺しているでしょう?これは、現実の実現可能性ではなくて、主人公の中にある強い目的志向によって因果が逆転される可能性を垣間見たことへの動揺なんですよね。


つまりは、スケール勝ち、という現象は、時間軸の通常の流れ「現在」から「未来」ではなくて、「未来=到達視点」から「現在」を解釈し直してしまう思考様式の変換を迫る行為だと分析できます。

言い換えると、物語の主人公の中に、こうした因果を逆転させてしまうような、なんらかの「可能性の極限への到達の希望」を、主人公の周りのキャラクタターたちが「感染してしまう」、そしてそれを読んでいる読者が「感じ取ってしまう」現象が起きることを、スケール勝ちとも定義できるわけです。ここでいうスケール(規模の尺度)で勝つという表現は、尺度を全く異なるものへ変換してしまうということを納得させること、といっているわけです。






いずみの@講義中 の発言:


『武装錬金』の主人公性ってのが最近だとわかりやすい例なんですけど



悪役に


「二つの命があるとして、一つだけ救えるとしたらどっちを選ぶ?」


って言われて


「俺は両方を救ってみせる!」って言うのが主人公であると(笑)


武装錬金 (1) (ジャンプ・コミックス)


これなんか典型ですね(笑)。聞いてるほうは、はぁ???とかなるんですが、論理的に考えると(笑)。けど・・・・その勢いとか決意に打たれちゃうんですね。


実はこの「打たれる」って言葉が、次へのキーワードです。


■ビルドゥングスロマン・少年漫画の本質とは?〜聖性に打たれるとき



さて、僕がなぜ、このスケール勝ちという問題にとてもこだわって分析したかというと、

『HUNTER×HUNTER』 23巻 富樫義博著/偉大な物語の本質について

http://ameblo.jp/petronius/entry-10009768304.html

ハンター×ハンター (No.23) (ジャンプ・コミックス)

以前↑ここで書いた大きな疑問がテーマとして僕の中でくすぶっていることへ対して、大きな光を投げかけてくれた気がしたからでした。







というのは、「人を巻き込む」というのは、どういうことか?ということです。


ビジネスの世界では、『人を巻き込んでシゴトをしろ』と、『巻き込む力を身につけろ』とかいいます。僕も、あるプロジェクトでプジェクトリーダーをしたときに痛感したのですが、大きな目的を達成する時は、一人ではできないのです。そんな時、リーダー(=主人公)は、たくさんのキーマンに声をかけて口説きます。「一緒に目的をめざそう!」と。けれども、そこではたと悩みます。このPJが、成功したら、誰が得するのだろうか?ということです。




それは間違いなく、リーダーである自分です。当然ですよね。




けれども、なにも無いところのに「新しい大きな目的」を作り出すときには、そのスタート時点では、ほとんど無償で極めてヘビーなコミットメントを「仲間」に要求することになります。報酬が保証されているようなものは、たいていダメです。けれども、たいてい、そのときに何か報酬の形で返せる『見返り』は、ほとんどありません。だから無償なんですよね。そんな『得するのは自分だけ』という状況で、仲間たちに動機付けする『理由』とはなんなんだろう?と思います。論理的には、あまりないんですね、損得で考えると。これは、現実の世界でも同じですし、物語世界でも『仲間』という単語を使うときには、同じです。ビジネスの世界でも、リーダーリップ論の大きなポイントは、周りの人間や自分自身を、どう動機付ける力を生み出すか?というのが実は究極の問題で、それ以外は枝葉末節の技術論なのです。




ある時、記者がカルロスゴーン(現ルノーCEO)に対して、経営で最も重要な技術は何か?と瞬間的に聞かれて


『Ability to motivate Pepole(人々を動機付けることのできる能力)』



と答えたといいます。これは見事な答えだな、と思います。

>>

ルネッサンス ― 再生への挑戦
ルネッサンス ― 再生への挑戦



そしてもうひとつ。たとえば、定型のシゴトであれば、「金もらってんだろ、やれよ!」と命令すればいいです。けれど、新しいもの生み出したり、何が特別に仕組みを変えるときには、いつでもつきまとう問題があります。




それは、『それをやることが正しいかどうか分からない』ことです。




ある程度大きな規模のシゴトをしたことがある人で、少しものが見える人ならば、実は、ある目的が、部分最適と全体最適に分かれてしまい、必ずしも意図したことが、一見正しいように見えても、正しくなかったということがよくあることが、経験的にわかるはずです。経済学でいう合成の誤謬です。


まぁ、そんな難しいことはいいですが、わかりやすくいえば、ネギまの超鈴音の目的なんか、そうですね。その成功の確率などを考えると、意図は正しくても、それが本当に世界にとって正しいのかは、なんとも言えません。





つまり・・・・・・・・・・リーダーとは、仲間に対して、


・何が正しいか全然わからない闇の状況で、




・ある方向性(=目的)を明確に指し示し、




・なんの見返りの無いにもかかわらず、全身全霊のコミットメント(=献身)を要求し




・かつ、見返りの無い全身全霊の献身を、自分の意思で幸せだと感じる動機付けを与えなければならない


ということです。


・・・・・つーか、無理でしょう(笑)。こんなの。



どんなものでも一度でも『人を指導する立場』『人を動かすこと』に関わったことがあるのならば、他人をコントロールすることがいかに難しく苦しいことかわかるはずです。しかも、長期間(=何年にもわたる)で、大規模な人数のレベルになると、もう他者をコントロールするというのは実質不可能になります。どんな独裁者も、それはできませんでした。



人間を、社会をコントロールするというのは、事実上不可能なんです。



さて、そんな不可能なことを、可能にするリーダーの資質とはなんでしょうか????




それは、天才マックス・ウェーバーの唱えた、カリスマという概念жです。


職業としての政治 職業としての学問 (日経BPクラシックス)
職業としての政治 職業としての学問 (日経BPクラシックス)


ж(Charisma; ドイツ語、もとは(希)χαρις;愛嬌、心をひきつける言葉、行為、恩恵、(神の)恵み→χαρισμα;恩恵の賜物、霊的、道徳的能力、(神の恵みによる)賜物)とは、超人的・非日常的・超自然的な資質・能力・才能のことをいい、カリスマ性のある人物をカリスマと呼ぶこともある



つまりカリスマ性ということなんですが、それってなんですか?って考えたときに、上記の「打たれる」というキーワードに戻るんです。



ちょっと考えてください、なんの見返りも無く、人生を賭けるようなコミットメントを要求されて、しかも、それが正しいのかどうかわからないような状況(もしくはほぼ不可能なこと)で、それでも、それでも「それをしたい・・・とか、こいつについていきたい!」と思わせる力ってなんでしょう?。




それは、何らかの衝撃的な『力』に出会って、それによって雷に打たれるように打たれてしまい、その思いが感染する状況ですよね。




この『力』ってのが、いずみのさんがいう「スケールで勝つ」ということだと思うのです。




もちろん、この『力』が「どのように生まれるのか?」というのは、状況によって千差万別です。それを、どう、作中の仲間達に伝えるのか?、、、読んでいるものに実感させるのか、こそが、ビルドゥングスロマン・少年漫画というものの本質なんではないのか?と僕は思うのです。




この力は、ある種の「狂気の感染力」で、通常ではありえない因果の逆転を、周りの人間に叩きつけて植えつけてしまう力です。


シンプルに整理すると、


極限の可能性を信じるという行為(ここはようは善悪を超える純粋な力だと思います)

常識的な論理ではなく、因果が逆転することを他者に植えつけてしまう聖性?オーラ?




による周りの人間の翻意が発生し、


ここで、止揚が起こり


非論理的なことに対する、仲間を巻き込んだコミットが可能にさせる

というものです。



結論をいうと、素晴らしいビルドゥングスロマン・少年漫画というのは、この「わけのわからない極限の可能性への肯定」と「それが他者に感染していく様」を、どのように描けるか?、どのように読者に納得させることができるか?という部分で決まると思うのです。




一番単純な設問は、




「二者択一で、どっちかしか命を助けることができない!」というリアリティーをこれでもかと描いておいて




主人公に




「どれは、どっちも助ける!」と言わせて助けてしまうことですね(笑)。

(↑いずみのさんも、武装錬金を例に同じことを書いていましたね)



ハンターハンターのゴンが、二者択一をぶち壊す発想の持ち主というのが何度も描かれていることは、このことの伏線ですね。また、「善悪に頓着しない」という評価も、冨樫義博さんが、通常出会ったら『悪』と決められてしまうような行為でも、それを異なる視点から光を当てて、正しさに取り込んでしまおうという、人間の想像力の転換(常識を常識で終わらせない)を迫ろうとしているからだ、と考えられます。そういう意味では、見事な少年漫画の類型なんですね。


そもそも、論理的にとか、常識の延長で考えるとありえない不可能なことが『可能である』ということを信じることに価値がある、ということを読み手に知らしめること、、、、そうした強い思いや希望が、あるリミッターを超えるときに、世界が変わるような狂気の感染が発生すること、、、、必ずしも、世界が、現在の延長線上ではなく、自分の思いが世界に広がって、世界を変える可能性があることを、『信じれる』ことを知らしめるものこそが、真の少年漫画の王道である、ということなんでしょう。


だから、いずみのさんが、この物語の類型を「ありえなバカな話」と片付ける大人といわれる読み方は、想像力が欠如していると喝破するのに僕も大賛成です。これが、子供の教育にとても価値がある(実は、化け物になる可能性もあるので危険な誘いでもあるのですが)とされるのは、わかります。




が、それよりも、結局は、いまのビジネスの世界(だけではないですがね)で最も重要なことは、「いままでの世界にはなかった新しい価値を、仲間を巻き込んで、作り出すこと」であることを考えるとき、結局は、「これ」が大事なんだと、それこそ大人こそが知るべきなのではないかな、と思うのです。


△愨海(続かなかった(苦笑))


■信頼と連帯〜目的の奴隷となることへの倫理的問題


・・・・うーん、これ結局書かなかったんだが、当時の僕が凄くよく考えが進んでいたのが分かる(笑)。これね、海燕さんと話した、栗本薫さんのグインサーガというファンタジーに出てくるアルド・ナリスの回心のシーンをベースに考えているんです。彼が、最終的に「自己愛」の塊である自分を解き放つことによって、世界の価値を知ることになる心の動きを執拗に書き続けていましたもんねー。目的の奴隷であった彼が、世界に「時間を共有する人々」が痛ということを知った・・・信頼と連帯を知ることによって、この世界に一人ではないことを知ること・・・・ナルシシズムの檻を破っていくからなんですね。ナルシシズムの檻を抜けるには、「他者」への心的態度が重要になるんです。

星の船、風の翼―グイン・サーガ外伝(8) (ハヤカワ文庫JA)
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さて、少し戻って、人間は、上記のような暗闇で何かいっぽを踏みだすには、「確認に満ちたビジョン」もしくは日本語的にいえば「志」が必要になります。カツマー(笑)とか成功ノウハウ本は、このビジョニストたれ、目的志向になれ、と何度も説いて回ります。このことの典型は、ナポレオン・ヒルとかですよね。もしくはもっとも古いものでいえば、プロテスタンティズムの予定説の世俗化(セキュラリゼーション)なんですが、もともとはベンジャミン・フランクリンにさかのぼる話です。これは、資本主義社会が、合目的社会であることでドライブしたことを、よくわかっている徳目です。

成功哲学―あなたを変える素晴らしい知恵の数々
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人生を幸せへと導く13の習慣


けれど、これには物凄い大きな落とし穴があるんですね。


合目的であるということは、覇道・・・・じゃないけど、「結果によってすべてを肯定する」という「手段やそれに至る時間の無視」をすることになりやすく、「目的の奴隷」になってしまいやすいのですね。自分の内面にある「目的」のみを追い求めるナルシシズムの檻、に入ってしまうのです。先ほど言いましたが、私たちの住むこの後期資本制の社会は、「合目的志向」の極まった「役割によってコミットされ」「社会にインボルブされる」システムになっています。それ以外に生きていく方法がないのです。

だから、この社会できちっと生きよう(二宮尊徳!!)とか思ったり、勝とう!(カツマー(笑))とか思うと、合目的に「結果」を追求する競争の世界を生きることになります。その世界で、より高次の次元を見ることなしに、ただ単に物質的な「競争による価値」を追求する・・・・これがカール・マルクスさんとかレーニンさんが「ブルジョワシーめっ!」と吐き捨てた生き方ですね(笑)。僕の大好きな中沢新一先生が、ゴミのような人生だ、と笑顔で講義で吐き捨ててました(笑)。・・・あっ書いていていわかったが、僕は二つの概念を混同しているな・・・でもいいや、、、それ説明すると長くなるから(苦笑)。


つまりね、いいかえれば、現代都市文明社会に生きる人間は、すべて合目的を自分に課して「自己啓発」を努力し、そしてナルシシズムの檻に自ら入っていくものなんです。そういう社会なんです。


この仕組みから、現代人は、絶対にのがれることができません。「絶対」にです。


ルサンチマンの力/池田信夫Blog

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51309750.html


勝間氏の「社会変革」についての提言が、デフレ論をはじめとしてトンチンカンなのは、彼女の得意分野が「自己啓発」だからなのだ。後者の分野では、彼女は現代の日本でほとんど並ぶもののないエクスパートだが、斎藤氏も指摘するように、社会変革と自己啓発は逆のベクトルをもつ心の動きである。前者は社会の現状を変えようとする外向きの動きだが、後者は現状を所与として「がんばれば報われる」と考える内向きの動きである。

この二つの動きを駆動している心理は何だろうか。私は、ニーチェのルサンチマンという概念が似合うと思う。これは社会的弱者が抱く恨みや劣等感のような屈折した感情で、それが社会への攻撃に向かうと共産主義のような運動になり、内側に向かうとキリスト教のような宗教になる。乱暴にいうと、キリスト教は貧しい人々のルサンチマンに偽りの救済を売り込む史上最大の自己啓発運動だ、というのが晩年のニーチェの主張だ。キリスト教の与える「人生の意味」は偽りだから、その神学をつきつめると「人生に意味はない」というニヒリズムにたどりつかざるをえない。

・・・というニーチェの予言は現実のものとなりつつあるが、こういう自覚をもつのは、実は一部の知識層だけだ。大部分の民衆は、2000年前のキリスト教徒と同じように「貧しい者も努力すれば救われる」と信じて、何かにすがろうとするので、「生き方」本は同じようなことを書いても売れ続け、自己啓発セミナーや新宗教は次々に出てくる。

ジャーナリストや編集者が自分たちと同じレベルの読者を想定しがちなのに対して、あえて「私は池田さんのブログの読者より下の層をねらってるんです」と割り切って大衆に訴える彼女の戦略は、ビジネスとしては見事なものだが、そこから社会変革は出てこない。それはワイドショーと同じく「新自由主義はけしからん」みたいなルサンチマンに訴えて欲求不満を解消するマーケティングでしかないからだ。

(強調管理人)


うんうん、まさにまさに。僕のいうナルシシズムの檻の駆動力って、、、、なぜ、そんなに意味のないことを執拗に、人が追求するかというと、この「ルサンチマンに追い込まれていくシステム」に無自覚だからなんですね。


目的というもの自体のもつ「設定の無自覚性」に、人が鈍感だからなんです。えっと、つまり、目的って根拠がない・・・・意味がないもの、、、「人生には意味がない」ということが分かっていないんですね。それは、抽象的な思考に慣れている人でないと、たぶん分かりにくいとは思います。知識人とか(ってなにをいうのだろう?)もうあまりに常識過ぎて、語るのも笑ってしまうようなものですが、大衆を駆動するレベル・・・エンターテイメントの世界のレベル、大衆を動員するレベルは、1000年の昔から、きっと変わってはいません。未だ世界最大の歴史上最高のプロパガンダは、「聖書」ですから。


よく読めば、「私の命は永遠である」といったキリストの言葉は、ブッタのいう「色即是空 空即是色」という概念と同じです(←いいきった!(笑))。でも、命は永遠です!と言い切ったほうが、色(私たちの生きる通常の次元)と空(それとは違う次元)が同一のものであることを論理的に説明する仏教より、とってもプロパガンダ的で、人を動員しやすい。もうあきらかに、抽象志向ができない大衆を、「どうやって動員するか?」に凄くフォーカスした作りで、表現ですよ、聖書。歴史上最高のベストセラー(毛沢東語録に次ぐ)といわれる所以です。命が永遠のわけねーじゃねーか、とは言わない(笑)。「永遠」の概念レベルが違うのですが、そういうのは説明しない(苦笑)。汚いなーといつも思います。。。


話がそれた、、、


えっと、実は、これを「社会の中に生きながら」どう克服するか?なんてことは、「正しく生きている」と、一発に分かることなんです。上記でも言っているんですが「自己啓発」というのは、ナルシシズムの檻なんですよ。「自己を変えていくこと」に、「内面に原因を求める」現状肯定の考え方ですから。この考え方の全面肯定、大衆無自覚追求社会が、現代です。


理由は簡単で、社会変革、マジな共産主義運動などの「社会改良」が、大きく進まないようなシステム化された後期資本制の社会に入ったので、「革命」が起きる要素が少なくなったからです。「戦争」が核兵器の登場によって、やりにくくなった社会だから、といってもいいでしょう。えっとつまり、自分のいる階級でも階層でもいいのですが、、、、、外部環境を変えられる可能性が薄いので、「自分の内面をいじってコントロールして」よりよく世界を眺めるように変えてしまえ、という考え方です。


成功ノウハウ本はみんな言います。「世の中の見方を変えれば、みんな幸せになり、成功できるのです!」と(苦笑)。そんなわけないのにさっ♪。まぁある程度、事実でもあるんで、そこがなかなか難しいところ。


いや、この系統の考え方は、内面で幻想を持って自己を誤魔化すんですよねー。・・・これは、「リアルをそのままリアルとして受け入れる」という、現実に生きるにはとても重要な「世界体感」を失わせてしまうんですよね〜。だから外部とのアクセスが凄く悪くなって、ナルシーになる。


これの最も重要な点は、内面に他者がいなくなることなんですね。


この内面に他者を取り戻そうとするムーブメントが、70年代以降の文芸作品の一大主流となります。理由は簡単で、人間としてバランスが失われているんで、つらいんですよ。でも、ナルシシズムの檻の出方が分からない(いや実は分かっているんですが、それは自己幻想を捨ててリアルを直視売ることなので、できないんですよ、幻想に逃げている人々には)。



このナルシシズムの檻に閉じ込められて、世界(=外部性やリアル)とのアクセスを失った、「個人の心の中」にもう一度他者を取り戻すこと、が現代の主題です。エヴァのブームも、村上春樹の台頭も、結局はそれと期を一にしていることです。

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)
ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)


並行世界の物語も、つまりは、心の中ない入っていくというプロセスを採るのは、そもそもが「そういうことが好き」な社会で、人を動員するには、まずその方法しかあり得ないからなんです。そして、それはそのまま「自己」を客観視するという二重思考のプロセスに入るんで、突き詰めていけば、自己幻想を破る仕組みに、導入の時点からなっているんです。


そして、そこで信頼や連帯がキーワードになることは、、、、分かると思うのですが・・・・


ちょっと疲れたので、これもこの辺の書き散らしで終了です・・・すんません。