物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2010-08-28

『瞳の奥の秘密 El Secreto De Sus OJos』(2009)スペイン・アルゼンチン合作 ファン・ホゼ・カンパネッラ(Juan Jose Campanella)監督 この不毛で無味乾燥な世界での真実の愛とは?

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評価:★★★★★5つ

(僕的主観:★★★★★星5つ)

■見に行った動機・視聴後の感想〜ファン・J・カンパネラ監督のエンターテイナーとしての技巧が秀逸

第82回アカデミー賞外国語映画賞を受賞したアルゼンチンを代表する監督ファン・J・カンパネラの作品。マイナーな映画作品まで全然視線が届かなかったんですが、『千の天使がバスケットボールする』樹衣子さんと『ノラネコの呑んで観るシネマ』ノラネコさんが、なかなか評価していたこともあり、見に行きました。それだけではなく、これからは南米映画・文学だ!という意味不明な(笑)そこはかとない思いが昨年からずっとあって、何かみたいなと常々思っていたので、いいチャンスだったのです。なぜ僕が「南米」について見なきゃなーと思っていた文脈がかなり整理できたので、いいきっかけになりました。物語三昧の文脈でいうと、この南米って「世界が滅びてしまった後の日常で、夢も希望もなく生きていくにはどうすればいいのか?」ってことを濃厚に描く作品なんですよね。中南米の映画や文学には、その陽気なラテン民族の気質に相反して、暗くドロッとした情念を描く作品がとても多い。この流れは、ヨーロッパ映画、特にスペインなどやっぱり同じラテン系のもう最盛期が過ぎ去ってしまった「斜陽」の世界の中で、いかに生きるか?ってのが基調低音のように横たわっているからこそ起きる現象なんだと思う。世界が滅びた後の空虚感とテーマが重なるのは、「最盛期を過ぎた斜陽」の中で、生きることというのが、「成長、夢、希望」というモノを人生に織り込まないが故に、ある種の弛緩した、茫漠とした感覚が世界観を覆うんだと思う。英国やフランス、ドイツにはないさらにもう一歩踏み込んだ「最盛期を過ぎた感覚」があるのは、イタリアにはローマ帝国が滅び去った後、スペインでは大航海時代の反映が過ぎ去ったあと、南米でも同じように旧世界から捨て去られたような感覚が、そういったた「黄昏感」に拍車をかけているのだと思う。


全体的には、素晴らしい映画だった。特に、普通のなら「ここでめでたしめでたし(=犯人の逮捕)」の後から始まる後半の緊張感が素晴らしい。自分のテーマ抜きにもアルゼンチンの名優リカルド・ダリン(Ricardo Darn)の渋みの光る演技、過去と現在を同時並行で描くのに混乱させない秀逸な脚本・テンポ・カメラワーク。どれをとっても一級品だった。Aを打てないタイプライターと寝室のメモなど、小技が見事に光る意味深なカットの積み重ねなど、全体的な総合力の高さが光る。全米で人気テレビシリーズの『ロー&オーダー:性犯罪特捜班』や『Dr.House』などを手がけた経験値故か、これほどマイナー色の強い作品なので、娯楽作品として一般受けしそうなエンターテイメントにしあがっている。アルゼンチンでは大ヒットだったようだが、よくわかる。アカデミー賞外国語映画賞には珍しく、大衆受けしそうなエンターテイメント感があることも、素晴らしいと思う。


■あらすじ

刑事裁判所で働いていたベンハミン(リカルド・ダリン)は、定年を迎え、25年前に起きた忘れ難い事件をテーマに小説を書くことにし、事件当時の判事補でベンハミンの上司だったイレーネ(ソレダ・ビジャミル)を訪ねる。今では彼女は検事となり、二人の子供の母親にもなっていた。ベンハミンの人生を変えた事件は、1974年のブエノスアイレスで、銀行員のリカルド(パブロ・ラゴ)と幸せな新婚生活を送っていた23歳の教師リリアナ(カルラ・ケベド)が惨殺され、ベンハミンは凄惨な現場に衝撃を受ける。やがて容疑者としてリリアナの幼馴染であるイシドロ(ハビエル・ゴディーノ)という男が浮上し、ベンハミンたちは様々な困難を乗り越えて遂にイシドロを逮捕するのだが・・・・

■軸は、25年以上に渡るラブストーリー〜真実の愛とは何か?

公開ももうすぐ終わりということもあって、基本的には、全部ネタバレしますので、それを前提に読み進めてください。


いろいろな多重な軸によって進行される物語なんですが、僕はこの物語の骨となる軸となるベンハミン・エスポシト(リカルド・ダリン)と彼の上司のイレーネ(ソレダ・ビジャミル)の25年にもラブストーリーがこの話の中心だと思いましたので、その線で描写してみたいと思います。


アメリカのエール大学を出て検事補としてエリート街道を歩むイレーネと、高卒のたたき上げのベンハミンは、二人とも互いを思っている節はうかがえるのだが、二人を分ける差が大きすぎて、なかなか一歩を踏み出すことができない。特に、基本的にこの作品は、不器用で一徹者的な雰囲気を醸し出すベンハミン(リカルド・ダリン)の主観で進むため、彼がエリートのイレーネに対して強いコンプレックスを抱いており、それが故に、イレーネが他の男と婚約しても何も言いだせないというヘタレぶりです。ただし、これはわからないのでもない。アルゼンチンは、決して貧富の差が小さいわけではなく、アメリカの大学に留学するくらいの家の出のイレーネと叩き上げのベンハミンでは、たぶん今の僕らでは想像もできないような階級の壁があるのではないか、と僕は思います。特に、まだ1974年。ペロンの時代です。これから軍事クーデターが発生して3万人が犠牲になったとも言われる軍事政権による弾圧「汚い戦争」に繋がっていく不穏な時代背景です。この背後に、南米特有の極端な階級社会が背景にあったことは否定できないと思うのです。


複雑な物語を貫く軸として、高嶺の花のイレーネに「愛している」と言えないベンハミンのヘタレぶりがいかに克服されるか?(苦笑)を設定すると、この物語が非常にシンプルな問いかけをしていることが分かります。結局は階級の壁やコンプレックスが邪魔をして、イレーネに告白できないまま、25年が過ぎ去り定年を迎えたベンハミンから物語が始まります。けど、逆に言うと、25年たって老人になっても色褪せないほど深い情熱的な愛であったということでもあります。


あとは、彼が「何をきっかけ」にその愛を告げることができるか?ということを物語の構造上のポイントとして見るのがいいと思うのです。

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この作品は、若い美人の女教師(カルラ・ケベド Carla Quevedo)が暴行を受けて殺された25年以上前の事件を、刑事裁判所で働いていたベンハミン(リカルド・ダリン)が定年後の1999年から振り返るという「過去の出来事」と、現在のベンハミンの行動が、二重構造で映画を進行させるのが特徴になっています。ちなみに蛇足ですが、暴行される前の新婚時代のリリアナ(カルラ・ケベド)の写真が何度も出るのですが、うーん、すげぇ美人。いやこりゃー夫のリカルド(パブロ・ラゴ)が忘れられないのも無理ないほどの美人です。


このレイプされて惨殺されたリリアナの事件を、ベンハミンはずっと忘れられないまま、定年後それを小説に書こうとするのですが、なぜそんなに彼がこの事件を忘れられないかといえば、夫のリカルド(パブロ・ラゴ)の妻のリリアナへの愛が、ちょっと常軌を逸していて(僕は途中犯人は夫なのかも?ぐらいに思っていましたよ)、その死後もずっと忘れられない深い深い愛に、「真実の愛」を見出したからなんですよ。自分には届かないと思って諦めかけているイレーネへの愛を思い返して、リカルド(パブロ・ラゴ)がなんと深い愛を妻に注いでいることか、と感銘を受けたんですね。それが故に、上からの反対を押し切って、捜査を進めてイシドロを逮捕することにつながります。


イシドロを逮捕したところからこそ、スリラー&サスペンスとしてのこの物語のドキドキする展開がはじまります。


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先程も、ちょっと書きましたが、1974年はイザベル・ペロン大統領の時代(映画で有名なエビータは、前妻ですね)で、この後、アルゼンチンはクーデターが発生して軍事独裁政権で、3万人の死者を出した「汚い戦争」の時代に入っていきます。その背景を知っていれば、なぜレイプと殺人事件を犯したような犯人であるイシドロが、簡単に釈放されて、しかも大統領のSPになっているかはわからないと思います。まともに法が機能していない時代だったんですね。


ある時代の状況が、個人史としての物語に密接に絡みついているあたり、イ・チャンドンの「ペパーミント・キャンディー」やポン・ジュノの「殺人の追憶」といった韓国映画に通じる部分もある。

そう言えば韓国もアジアのラテン民族と言われるが、その映画文化に歴史のダークサイドが暗い影を落としているあたりも共通するのかもしれない。



ノラネコの呑んで観るシネマ

http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-398.html

ペパーミント・キャンディー [DVD]

殺人の追憶 [DVD]


もちろん南米では司法取引は、よくある話なんですが、、、、、死刑がないこの国では終身刑で、犯人が生涯苦しみ続けるのを見たがっていたリカルドにとっては、この釈放は、全く耐え難いものだった。またこのイシドロの復讐によってベンハミンは同僚を殺されてしまうことになり、身の危険を感じた彼は、イレーネのいるブエノスアイレスから地方に離れていくことになる。冒頭の、列車に乗ったベンハミンを追いかける女性はイレーネで、このシーンですね。このシーンは上手い。


・・・・・・・・・そして25年が経過する。


そして、ベンハミンは小説を書き始めるのだけれども、それは、この空虚な自分がなぜかと問いかけると、25年前に、愛していたイレーネに愛を告げられなかったことがその基盤にあることを気づくんですね。この文章では詳しく説明していないが、自分の身代わりとなった友人の死への贖罪も同時に含んでいます。もちろん最初から気づいたわけではなく、小説を書いていく過程で、彼の「空虚」というモノが、自分が本当に思っていたことと向き合うことなく、それを見ないようにして生きてきたが故のモノであることが分かってくるんですね。


けど、イレーネに会いに行っても(昔の同僚としてね)、「私は、正しく未来を向いていきたいし、過去は振り返りたくない」と、なんか意味深に言うなーと思ったいたんですが、この子って、すげーツンデレなんでしょうねぇ(笑)。もの凄くお固い気真面目な女性で、机の上には、かわいい子供たちの写真が飾ってあり、その気真面目で検事にまで出世しており、彼女には過去を振り返る理由も動機なんかもありゃしないんですね。ほんとは。・・・・・もし、ベンハミンを愛してさえいなければ。


けど、ここにきても、ベンハミンは何も言えない。まー言えないですわな、定年過ぎたおじいさんですから。言う意味もほとんどない。イレーネに、全てを捨てろという理由がないモノ。そこで、彼は、リカルドに会いに出かけるんですね、、、、ここからがほとんどホラー(苦笑)なんですが、愛に行って、リカルドのあの「真実の愛」はどうなったのか?って、問いかけるんですね。それは、彼の「真実の愛」の行動がどうなっているか?で、ベンハミンが持つ「真実の愛」をどこまで貫ければいいのか?ということと重なり合っているんですね。どうなんだろう?この部分って、見ている人はスッとわかるものなんだろうか?。ベンハミンがなぜ過去にとらわれているか、なぜ「ちょっとぐらい無理をしても切実にその答えを追求しなければならないのか?」ってことが、、、、。といっても、明示的にないだけで、物語上は凄く単純な問いかけの構造になっているので、ちょっと考えればすぐわかるとは思いますけれどもね。でも、この「過去の直視できなかったもの」がベンハミンの内面に、夜も寝れぬほど大きくわだかまったいることが、はっきりとわかっていると、この後の問いかけや行動が非常に明快に理解できるので、ここははっきり理解しておきたいところだと思う。ベンハミンが、リカルドに、なんの必要性もないのに(もう25年もたっているんだぜ!)、奥さんへの愛はどうでしたか?と迫るのは、自分の過去に向き合えなかったものと、どう向き合うかの手掛かりになるからなんですね。ところが・・・この先からの展開は、確かに、全然予想することができませんでした


そして、実は、当時、ベンハミンを狙っていたイシドロを見つけ出して、殺してしまったんだ!ということをリカルドは、告白するのです。だからもう、終わったんだ・・・・と(アルゼンチンに時効はあるのかな?)。「もう過ぎたことなんだから、忘れろ!」と諭すわけです。しかし、ベンハミンは納得できません。なぜならば、彼自身も身代わりで死んだ友人のことやイレーヌへの愛を押し籠めてきたことが、忘れることができないからなのです。またなぜならば、「殺しただけでは、気は晴れない。殺すことなんて、永遠の安息を与えるだけじゃないか!。やつには終身刑で、じっと地獄を味わい続けてほしい」といったいたリカルドとの過去の言葉と矛盾するからです。


・・・・そして、夜にリカルドの家に忍び込むと・・・・・。そう、25年前に監禁したイシドロがいるのです。そしてずっと、監禁し続けていた・・・・・(ホラーにもほどがある)。彼の愛は、本物でした。。。。。その愛を貫いたんです。しかしそれにしても、リリアナという女性は、物凄い魔性の女性だったとしか思えません。普通の銀行員のリカルドのその後の人生をこれだけ支配して、そして自分を殺した相手であるイシドロも幼馴染なんですよね。子供のころからリリアナの側にいて、いつも熱い視線を彼女に向けている写真が残っているのです。その偏執的な目が、ベンハミンに気づきを与えて逮捕に至るのですが・・・。


そして、この激しい「真実の愛」を見て、ベンハミンはやっと、自分が向き合うべき真実に向き合い、イレーネのもとへ駆けつけます。


「簡単じゃないわよ」


と、笑顔で囁くイレーネに、確信に満ちた表情で彼は、愛のを告げるのです・・・。


この物語の脚本は、過去にずっととらわれ続けたリカルドの貫いた愛を見て、ベンハミンが自分の真実に気づいて向き合うという構造になっています。この映画の解釈としては、「真実の愛」を体験することで、ベンハミンの止まっていた時が動き出すところに、深い感動が訪れます。そして、リカルドの狂気のような深く切ない愛の深さがその背後を支えているところに、人間存在の愛というものの深さと壮絶さを思わせてくれます。素晴らしい映画でした。


■最盛期が過ぎ去ってしまった「斜陽」の世界の中で

さて、映画そのものの講評が終わったので、最初に戻りましょう。「物語三昧の文脈でいうと、この南米って「世界が滅びてしまった後の日常で、夢も希望もなく生きていくにはどうすればいいのか?」ってことを濃厚に描く作品なんですよね。中南米の映画や文学には、その陽気なラテン民族の気質に相反して、暗くドロッとした情念を描く作品がとても多い。」こう、僕は言いました。


なぜかずっと南米の文学や映画のこの「黄昏時の深みのある人間関係の情念」を描く傾向が、僕の中で注目していたのですが、この映画を見て、何となく気づきを得たような気がします。それは、この黄昏時の感覚の背景には、「マクロのレベルで夢や希望を描かない」ということを前提に作られた世界観なのではないか、と思うのです。


というのは、南米の世界観というのは、僕には基本的に「終末感」に彩られているように思います。独裁者、革命、クーデター、極端な貧富の差、メスティーソ、絶望のギリギリで活動を続けるカソリック教会、貧困が支えるマフィアと麻薬、、、まぁ住んでいたわけでもないので、ステレオタイプなとらえ方をしている可能性は否定できませんが、南米を代表する映画や文学には、どうしても軍部と大衆を先導する軍事クーデターといったも極端に変動する「現実」をベースに描かないわけにはいきません。その現実に対する二つのアプローチとして、1)ラテン民族の極みとして(苦笑)ひたすら陽気に、明日のことを考えず、酒と女(異性)のことだけを考えて、サッカーに酔いしれる。もしくは2)その反動として、非常に深く人間関係の情念を追求する・・・・。1)も2)も、どちらもマクロのレベル(政治や経済)に全くリンクしておらず、近代社会の基本である「経済の成長」にもリンクしていません。そこには、明日も変わらない日常、永遠の日常が続く世界です。その中で生きていくということは、何も考えず刹那的な快楽や刺激をかみしめていきるかか、「何か変わらないもの」を「心の中に見出して」追求していくこと、の二つになると思うのです。


先日、「永遠の日常」に関することで、下記の記事をリンクしたんですが、僕の大きなテーマとして、この無味乾燥な日常を、、、なにも大きなことが変わることもないこの世界を、どうやって生きていくのか?という問いがあります。そういうのってないですか?。少なくとも僕の個人史のの中では、ビルゲイツにもナポレオンにもなれないとわかってしまった時、しょせん自分というちっぽけで無価値な存在に、意味を見出すことはできないなーと思いました。ようは目的志向で生きるパワーが無くなるんですね。もちろん、結果がなければ頑張れないなんていうのは、子供の小賢しい屁理屈なんですが、まぁそういったモノじゃないですか。受験勉強とかのために頑張る学校生活もそうでしたし、毎日仕事をしに乗らなければいけない満員電車でも同じこと思います。


『らき☆すた』に見る永遠の日常〜変わらないものがそこにある

http://ameblo.jp/petronius/entry-10048130571.html

スウィングガールズ』 矢口史靖監督 なにもないところからの充実

http://ameblo.jp/petronius/entry-10018327514.html

『フラガール』 李相日監督 いまの日本映画の魅力が凝縮

http://ameblo.jp/petronius/entry-10017996846.html

『血と砂』(1965年) 岡本喜八監督 三船敏郎主演 戦争と音楽を扱った典型的な悲劇

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100824/p1


一方の答えとして、自分の仕事を見出して、そこの分業の断片にコミットしながら、組織に貢献して世界のマクロの成長に貢献するということが、近代社会の社会人として必要なであることはある種の自分の倫理なので、まぁそれはやりましょう。結果がでなくとも、そこは「やる」のが大人だと思うからです。それに、きちっとマクロを理解して、その断片に誇りを持って仕事をすることは、決して難しいことではないと思います。なぜならば、それが僕らの「社会」を支えていることだから。数百年の近代の理想を支える組織にコミットすることは、というか、社会を支える「仕事」にコミットすることは、決して小さくない充足があります。


けどね、人間は「役割」とか「だけでも」生きられません。組織の役割は、しょせん肩書の価値でしかないともいえます。「素の自分」というのはある種の幻想ではありますが、それでも、動物としての自己という部分、裸の自己という部分が、ある程度満たされなければ、「役割」とかマクロの断片として認められるような社会的な承認だけでは、生きてけません。そして、近代社会は、「役割」がとてもタイトな社会である故に、反動として、そうでない「自由」への逃避が生まれます。


まぁ、ちなみに本当は、社会と個人という「間」には、中間集団があって、組織や何よりも親密圏としての家庭が存在します。本当はそこを論じるのが、筋なんでしょうが、昨今だと、どうしても、社会と個がだ理恵くとにつながる回路が注目されてしまいますよねー。それだけ、都市社会というのは、共同体の基盤が破壊されてバラバラな分断社会だってことでしょう。まさにこれが、セカイ系の土壌なんだと思う。まぁここから、家庭や組織につながる話は、また別の機会に。


さて、終末をめぐるテーマ、、、「世界が滅び去った後」という設定は、この社会的な「役割」の網の目を外した時に、動物としての自分、肩書のない自分が、どのような価値を持つのか?ということを、示すものだと僕は思って今まで注目してきました。なんで、世界が滅び去った廃墟が、あんなにも美しく魅力的に、何かに解放されたように映るのかといえば、現代の後期近代資本主義社会の複雑に成り立ったシステムの網の目の「外」を暗喩しているからなんだと思います。


さて、しかしながら、これがシステムの「外」を暗喩しているものだとすれば、そもそも、システムに「取り込まれていない」と想定されるものを具体的に提示できれば、同じ効果が発揮できるはずです。この『瞳の奥の秘密』における「真実の愛」という設定は、つまりは、外面的な刺激に全く影響を受けない「素の自分の持つもの」として設定されています。銀行員のリカルドの愛は、最終的には、法律さえも乗り越えて(=近代のシステムの外に飛び出して)表現されました。時代はペロン政権下の凄まじい時代ですが、その背景が暗い影を落とすことは落とすのですが、逆に言うと、イレーネにもベンハミンも、こういったマクロの政治経済の動きにはほとんど影響を受けていない(少なくとも物語の契機の主要因たりえません)。僕は南米映画を見ているといつも不思議に思うのですが、あっとスペイン映画もそうですが、まったくマクロの影響に個々人の人生は翻弄されても、心の動きとかそういうものが、ずっと背景の奥にあるような「そこはあまり関係ないのだ」という諦観があるように見えるんです。このへんのニュアンスがうまく伝わるでしょうか?。たしかに、ベンハミンも、イレーネも、リカルドも、アルゼンチンの政治のマクロに支配されたでしょうが、「それは所与のもの」としてあまり、生きるための重要な要因として全面に出てきていないのです。これが、高杉良の経済小説とか、幕末の激動の物語だと、歴史や組織や出来事そのものが主人公じゃないですか?。けれども、この作品では、結局は、全て内面と近しい人の人間関係の問題なんですよね。そこですべてが完結している。これって、終末の世界だと思うんですよ。個々のミクロの人生を、マクロと連動することを「あえて拒否している」という形での。なぜ拒否するかといえば、そのようなあまりにダイナミックなマクロは、コントロールする・できるものではないので、風景や天災のようなものなんです。自分が立っている大地について、あえて、無理に考え抜いたり、例えば重力をないことにしよう!とか、普通の人は考えませんよね。コントロールできないものだから。


この「マクロのレベルはコントロールできない」ということを前提として、マクロの出来事に「支配されない」そのシステムの網の目から抜け出ているものを「ほんとうのもの」とするのは、ある種の宗教性の志向であって、基本的には、一般のわれわれにはできないことです・・・・が、「それを求める思考」がこういう作品に出ているのではないのかなぁと思うのです。アンディ・ウォーフォールという現代アートの作家がいたんですが、このポップの塊のような作品を作り上げた彼の部屋には、小さなマリア像だけが飾られたシンプルな部屋だったとかいうエピソードがあるのですが(だと思う、うろ覚えなので真偽は不明)、なんかそれを思い出すんですが、結局は、システムに規制されない「内面の真実」という部分に目が向かえば、それは宗教性に転嫁しやすいのかな、とも思うんですよ。なんか、あれだけ麻薬と金とってイメージがある南米に、どうしてもキリスト教が深く根付いているような感覚があるのは、そういうことなのかなと。


南米の風土というのは、そういうのが前提となってしまう・・・・あまりに激しい政治変動で、マクロレベルのコントロールができるという感覚に対する「あきらめ」があって、それで内面と周りの人間関係に絶対性を求めるという風土を生む。この絶対性のバリエーションが、様々な物語を生むんだと思う。システムに支配されない外部がどこにあるか?って話。


僕は、今後の日本の進むべき方向性が、国家モデルとして、イタリア化かフランス化(笑)だと思っているんですが、一言でいえば、黄昏の国ということです。ウルトラハイブランドと日常を楽しく生きるアートを沢山抱え込んだ文化国家として、永遠の日常を生きるようなライフスタイルを維持される。まぁー宇宙開発とかで激動のことが訪れない限り、今後100年くらいはこの線だろうと思っています(言い換えれば、僕の生きているうちは(笑))。そうした時に、こうした南米やラテン民族の紡いできたライフスタイルってのは、非常に興味深いのです。この無味乾燥な日常を、経済的な「成長」なしで、どうやって生きていくか?ってこと。ああ、そう思うと、ヨーロッパというのはさすがなんだなー我々の200年先をいっている。東アジアがああいうふうに練れた空間を作るのに軽くそれくらいかかるだろうなーと思う。


・・・・この先は、たぶん、いろいろ面白い考察ができると思うのですが、いまはこのへに留めておくにします。