物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2011-01-23

『ヒックとドラゴン』(原題: How to Train Your Dragon)』 ディーン・デュボア クリス・サンダース監督 エンターテイメントを外さない善悪二元論の克服としては到達点の脚本

ヒックとドラゴン ボーン・クラッシャーの伝説エディション [DVD]

評価:★★★★★5つ

(僕的主観:★★★★★5つ)

■とにかく飛行シーンが素晴らしい!


素晴らしいアニメーションだった。脚本、映像、演出どれをとっても超がつく一流で、ノラネコさんが絶賛するだけあるレベルだった。大人も子供も年齢を関係なく感動ができる水準で、ハリウッド映画とは思えない重厚さのあるラストシーンも白眉です。さすがドリームワークス。ディズニー系では、出来ないだろうなという、最後の渋い終わり方がたまりません。また、何が一番注目と言えば、ドラゴンとヒックが空を飛ぶ飛翔のシーン。3Dがまさに3Dである意味を持つ見事なシーンで、たぶんこれまでアニメーションで描かれてきた「空を飛ぶ」というシーンの集大成的な美しさ。監督は宮崎駿の飛行のシーンを徹底的に研究したといわれていますが、たしかに、天才アニメーター宮崎駿の飛行シーンに見慣れている僕のような世代にとってさえ、これは!と思わせる飛行シーンの素晴らしさでした。ジュェームス・キャメロン監督の『アバダー』に匹敵する異郷体験を感じるシーンでした。



■寛容によって敵と味方を分けることを乗り越える


僕の読みの文脈でいえば、「善悪二元論の超克」というテーマからすると、エンターテイメント(=わかりやすさと感情移入のしやすさ)としては、ほぼ限界の、言い換えればこのテーマをエンターテイメントにするならばほぼ完成形の脚本であるといってもいいと思う。このあたりの構造は丁寧にノラネコさんが分析されているので、引用させていただこう。


さて、人間とドラゴンを共生させる道を開いたヒックだが、物語の終盤で大きな自己矛盾に直面する。

切羽詰まった余裕の無い状況ではあるものの、ドラゴンの巣から出現した桁違いの超巨大ドラゴン(ほとんど怪獣だ)に対して、彼は躊躇無く戦う事を選択するのである。

不思議な事に、それまで彼が実践してきた理解と寛容の精神は、超巨大ドラゴンに対しては全く示されない。

おそらく、このボスキャラを、他のドラゴンとは完全に異なるスケールとデザインテイストに仕上げたのには意図がある。

当たり前だが、人間は自らに近しい存在をより理解しやすい。


ドラゴンは人間とはかなり隔たった存在だろうが、それでもトゥースや島を襲うドラゴン程度であれば、心を通じたり、飼い慣らしたりする事も可能に思える。

だが、クライマックスで登場するボスキャラは、スケール感が違いすぎて、理性ではわかっていたとしても、ヒックにももはや“ドラゴンの同族”とは捉えられないのだろう。

むしろヒックはトゥースと友達になった事によって、ドラゴンたちを支配するボスキャラを“共通の敵”として認識してしまい、自己矛盾に気付いていないのだ。

この物語で、ヒックは無知と不寛容から生まれる悲劇を、人間の知性と勇気によって乗り越える可能性を示し、同時に人間の限界も示している様に思える。

彼は一つの戦争を終わりに導いたが、別の戦争を避ける事は出来なかった。

私はこれをリアルに感じたが、物語のあり方としては唯一引っかかった部分でもあり、賛否が分かれるポイントだろう。



しかし、これは予め意図された矛盾だと思う。

なぜなら、最後の戦いが終わった後で、ヒックはある重い現実に直面するのである。

この描写、ハッピーエンドに水をさすと、ファイナルカットの段階でスタジオ幹部から反対意見が多く出て、物議を醸したらしい。

なるほどこれがディズニー・ピクサー系作品なら想像し難く、ある意味ドリーム・ワークスらしいとも言えるこの結末は、結果的に大正解だったと思う。

これはヒックがトゥースと同じ痛みを知ったという以上に、戦った事の代償を身をもって支払ったと言う事でもあり、彼の心の矛盾が肉体に象徴的に転化された描写なのである。

たとえどんな理由があろうとも、犠牲を伴わない戦争などあり得ないのだ。



http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-397.html

ノラネコの呑んで観るシネマ

ラストシーンが、そもそもこの映画のテーマである「理解と寛容」の枠に入らない超大型ドラゴンとの「新たなる戦争」によって引き起こされる根源的な「理解と寛容を維持するためにやはり戦争(=敵味方の峻別)が必要だった」という矛盾点と整合しているところが、この作品を完成形だという理由です。現実の世界でも、実際に乗り越えられていない(=答えのない)ものだけに、変にメタ的な手法で乗り越えるのではなく、素直に大衆娯楽の基本形を押さえながら、出来る限界がここなんだと思う。


■敵と味方を分ける思考方法〜善悪二元論のおさらい


善悪二元論の対立というテーマについては、これまでさんざんこのブログで取り上げてきたのだが、簡単に再度おさらいすると、人間というのは敵と味方に物事を分けて、敵を倒すという「認識の方法」に非常に、染まりやすい生き物なんですね。これで世界を理解すると、非常に世界はすっきりするし、なによりもその認識方法が行動に転嫁するのが容易。誰にとってかと言えば、もちろん、為政者にとっても統治される民衆にとっても、どっちにとっても理解しやすく動機が調達しやすくすぐ行動に移せるという、揃っているものなんです。けど、この「戦って戦って・・・・・」その果てに何があるかと言えば、それは核戦争のリスクでよくわかったのですが、人類の滅亡なんですね。既に聖書の『黙示録』では、善悪二元論が、最終的には、アポカリプスス(黙示録)という最終戦争を要請することが示されていますね。この認識方法は、ほとんどすべての社会を形成する基礎の認識体系ですが、非常に限界のあるものなんです。特にエンターテイメントの世界では、この「物事を善と悪(=味方と敵)の二つに分けて人々の心を動員する方法」の限界は、強く認識されているのですが、かといって、これに勝る手法(=大衆動員・娯楽としての感情移入の容易さ)がほとんどないというのっもまた事実ではあるんですね。僕はこの手の物語を見る時に、「善悪二元論」をいかに克服して「その先を見せてくれるのか?」ということをこれまでの物語観察で主軸に置いてきました。しかし、わかってきたのは、「敵を倒す」というドラマツゥルギーは、人間に感情移入させるベーシックなもので、これに勝るわかりやすさ(=感情移入のしやすさ)というのは、ほぼあり得ないんですね。この『ヒックとドラゴン』の映画は、このギリギリの地点の最高のバランスに到達しており、「その先」こそを見せてくれませんが、脚本としてはほぼ完ぺきだと僕は思います。


「その先」を見せる手法は、


1)クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』と『父親たちの星条旗』による異なる視点からの描写という演出方法や、

硫黄島からの手紙 [DVD]父親たちの星条旗 [DVD]



2)『機動戦士ガンダムシリーズ』の3軸と複数組織による政治の泥沼を描く手法や、

機動戦士Zガンダム -星を継ぐ者- [DVD]機動戦士ガンダム00 (1) [DVD]機動戦士ガンダムSEED 1 [DVD]



3)ケヴィン・コスナー監督主演の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(Dances with Wolves)やエドワード・ズウィツク監督の『ラストサムライ』(The Last Samurai)のように殺すべき敵に対してシンパシーを感じてしまったアウトサイダー(本流からの脱落者)を主人公に据える、

ダンス・ウィズ・ウルブズ 通常版 [DVD]ラスト サムライ [DVD]


4)アーサー・C・クラークの『地球幼年期の終わり』のように現状のルール自体を超越する存在を描くことで善悪二元論という現状のルール自体を無効化する、

幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)


等々の様々な手法が開発されていますが、そもそも人間を動機づけて動員するには、敵と味方という「境界線を作らなければならない」という基礎中の基礎のルールに対するメタ的なアプローチでしかないんですね。境界を設けて「外と内を作りだす思考形態」に対しては、「理解と寛容」以外の対処方法はないのですが、それはつまり「対処療法」以外ないという意味でもあるんですね。さらにいうと、現実の世界は、この「善悪二元論による動員」と「理解と寛容」という二つのものが対立して、物事が動いていると考えていいと思います。人類史上このへんの「理解と寛容」が強烈に意識される政治体制は、多民族国家の帝国を築いた場合で、典型的なのが、ローマ帝国ですね。彼らの基礎価値観には、レスプブリカ(共同体)への忠誠という二元論的な価値とワンセットに、寛容がその主軸に据えられていました。だからこそ他民族統治し、長期にわたる繁栄が確立されたのです。ちなみに、このあたりは、アメリカのハリウッド映画が非常に先鋭的に意識しているテーマなので、80年代のハリウッド映画を見るならば、慶応義塾大学の鈴木透教授の『現代アメリカを観る―映画が描く超大国の鼓動』などが、参考になります。

ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上)    新潮文庫


ちなみに、


5)小説の橙乃ままれさんの『まおゆう魔王勇者』や少女漫画のおがきちかさんの『ランドリオール』のように、いったん二元的な物語を終わらせた「その直後」から物語を始めるという手法で、「その先」を語ってしまうという手法が最近では見られるようになってきた気がします。


ただし、このどちらも近世を舞台装置として扱ったという類似点があって、それは「人間がお互いに殺し合う二元的認識を生きる動物」であることを「テクノロジーのイノヴェーション」によって、現代に脱皮したとういう部分の歴史的事実を利用できるからなんだと僕は考えています。たとえば、『まおゆう魔王勇者』は、ドラゴンクエスト的な魔王と勇者の二元的殺し合いによってバランスが組まれている停滞した中世社会に、じゃがいもや農法を持ち込んで生産力を向上させることで世界の「在り方」そのものを変えようとしました。同時に、メイド姉による宗教的認識の変換を同時に描いており、まさにここは近代の発祥と構造的に同じです。『ランドリオール』も緩やかながら絶対王政制度から議会制度に移り変わる、認識の変換点をあげいていることが、この物語の中心点であると思います。『ランドリオール』では描かれていませんが、こうした宗教的認識、人間の個人の内面の変換が発生するということは、社会の生産的基盤構造が変化していることと期を同一していないとあり得ないと僕は思います。これらは、言い換えれば、テクノロジーのイノヴェーションによって、世界の基礎的なインフラストラクチャーが変わらない限り、人間の認識や世界の構造というのはあまり変わらないということです。まぁマルクスの上部構造下部構造議論をしたくないので、ニワトリ(生産力)が先か卵(人間の認識)が先かという議論はここではしないですが、どっちみちワンセットでないと、「いまある世界」というのはなかなか変わらないということで、「その先の物語」を描く時には、歴史の大河を描いた群像劇にならないと、どうも難しいということが分かってきました。これは、3)でいうガンダムサーガや栗本薫さんの描いたグインサーガにみられるように、2軸を超えた3軸、、、言い換えれば多国間同盟の世界を描くには、大河小説の群像劇にしなければならなという過去の発見と重なると思います。

まおゆう魔王勇者 1「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」
まおゆう魔王勇者 1「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」


Landreaall 17巻 限定版見知らぬ明日―グイン・サーガ〈130〉 (ハヤカワ文庫JA)