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物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2014-11-01

より多様性の獲得へ−日常系から完全に無菌な状態(=男性の感情移入視点が存在しない)へ至り、そこからゆり的な微エロへ

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日常系、無菌系から微エロまでは自然に展開しますよね!




by LD教授


今回は、日常系とは?のtagのシリーズの流れなので、ぜひとも読み込んでおいてほしいなーと思いつつ。


『桜Trick』 2014年 Japan タチ著 石倉賢一監督  日常-無菌系の果てに現れた微エロ

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20141015/p2


『ゆゆ式』(2013) 原作:三上小又  監督:かおり 関係性だけで世界が完結し、無菌な永遠の日常を生きることが、そもそも平和なんじゃないの?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140504/p1


LDさんと話していて、また無菌系から微エロまでの変化において、とても興味深い発見があったので、メモしておきます。というのは、LDさんがここで新しい概念を出してきたんですよね


恋愛可能線



というものなんですが(どっちだったか忘れた(苦笑))、これは、僕がLD教授に、「無菌系から微エロまでは自然に展開する」というのは、なぜですか、教えてください!と質問したところからはじまります。



というのは、僕は前の記事でも書いたように、この作品を見たときに、すべての定義が明らか日常−無菌系になっているにもかかわらず、無菌系じゃないみたいだ!と思ったんですね。何で思ったのか?を問い直してみますと、優ちゃんと春香さんのこの濃厚な百合関係をみせられて、、、それでくらくらしちゃって、違うと思ったんですね。これもう少し自己分析をしてみると、僕の中では、友達と恋人の関係をどう違うものか?という質問をしたときに、、、、ああ、えっと、この質問は世の中で定番ですよね?。男女の友情はありえるか?という質問にたとえるとわかりやすい。僕は、男女に友情がありえると思ったことは無いんですね。自分の経験から言っても、濃い友情と恋愛の差が、僕にはまったくわからないんですよ。栗本薫が、男同士のボーイズラブについて、同性同士の友情は「肉体的に受け付けないだけの恋愛」だといっていたのですが、境目って、肉体的に受け付けるかどうかに過ぎないので、異性同士であれば、もう確実にそのまま恋愛にスライドしてしまうので、友情なんかありえないって僕は思っているんですね。


いいかえれば、友情と恋愛は、本質的には同じものだと僕は定義しているわけです。この肉体的に受けつけるかどうか、というのは、趣味嗜好の問題なので、異性同士のほうが一般的には、受け入れられやすいですが、それって現代の状況からすれば多数派のマジョリティというだけで、概念的なものに過ぎないわけです。ようは、肉体的に同性の身体が好きですといった時点で、このハードルというか制限は簡単になくなります。



さてここまで来ると、異性同士、同性同士も差異がないとなります、、、、そうすると、友情と愛情の境目の部分が、どうなっているか???といえば、僕は、そもそも、無いという認識をしているはずなのです。要は濃度の濃さぐらい?。



ところがですね、、、、、僕は、この系統の最高傑作だと思っている『ゆゆ式』を見て、そういう恋愛的なモードになったことも無ければ、感じてもいなかったのですね。日常−無菌系には、そういうものは無いという風に僕は感じていたようなのです。

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しかし、これって矛盾ですよね?



だって、同性同士の友情は、恋愛とまったく差がないと定義しているにもかかわらず、『ゆゆ式』の3人には、そういう関係性で僕はみていないって言うわけです。



さて、LDさんの説に戻りましょう。



そもそも、人間の本質として、そこに関係性があれば、すぐに恋愛可能線が発動してしまうのだ、とLDさんは言います。そもそも物語としての起伏、起承転結を起こすには、たとえばそれが同性同士であっても、、、たとえば、女の子同士でも、もう一人の違う女のこと仲良く離していて、、、何で、あのことあんなに楽しそうに話してたの?という嫉妬が生まれると、そこに関係性の深まりが生まれて、、、、という風に、そもそも、無菌系であったとしても、そこに人間の関係があれば、そういう恋愛に突入していくのは自然なのだ、と喝破します。もちろん、同性同士はそうならないなどの概念的な制限は、つど作品の条件設定にはあるかもしれませんが、内在的にはそういうベクトルが働いている、とLDさんはいいます。



しかしながら、日常ー無菌系には、それをエスカレートさせない装置があった!!とLDさんはいいいます。



そこには、監視員!!!がいるのだ!!!!というのです。



『苺ましまろ』の伊藤さん(のぶ姉)がその典型的存在(ロールモデル)だ、とLDさんはいいます。


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少しこの概念を説明するために、そもそも日常系から無菌系に至るプロセスを思い出してみましょう。それは、男性主観の感情移入対象が削除されて、消去、去勢されていく過程と我われは定義しました。その最終形態の無菌系には、そもそも男性のキャラクターが登場しないですし、感情移入の第三者的キャラクターも存在しません。第三者的というのは、たとえば、『らきすた』のこなたのお父さんのような保護者ポジションであったり、登場する女の子たちの恋愛潜在線を巧みに排除していく過程が、日常系の無菌化プロセスであったとすれば、『けいおん』『ゆゆ式』『桜Trick』などの昨今の作品は、この雑菌(=男性の主観・視点、感情移入先)が、なくなっていった最終形です。


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しかし、それまでは監視員がいた、とLDさんは喝破します。『苺ましまろ』における、伊藤さんは、ほぼ主人公格のキャラクターと位置づけながら、4人の幼女のお姉さん的ポジションに存在します。しかし、、、ここで重要なのは、彼女がタバコを吸い、振る舞いがまさにおっさんなところにLDさんは注目します。これって、まだ男性の感情移入先の名残だといえるわけです。しかしながら、もう男性ではなくなっています。ここで『お姉さん的』な4人の幼女に好かれるポジションであることが重要です。


そうです!!!。本来は、4人の幼女の関係性の中に、人間本来のさがとして、恋愛可能線が存在するのでそれが発動してしまうのが普通なのですが、監視員の存在を設けることで、お互いが恋愛をしてしまうことが起きないように誘導しているというのです!!!これは目からうろこが落ちました。なるほど(←ほんとか?(苦笑))。



閑話休題




えっとですね。その監視員がなくなって、完全に無菌な状態(=雑菌がいない・男性の感情移入し先、存在、視点が存在しない)になってくると、そもそも人間関係の本来的に持ってい恋愛潜在線が表に出てきて、アクティヴに見えるし、歯止めが効かなくなるのは、自然なことだ、、、という意味で、LDさんは、無菌系から微エロになるのは自然なことなんですよね、といったわけです・・・・・。


LDさんって、、、さすがだよなぁ、、、こんなちょっとした一言でも、ここまで掘り下げると、定義からロジックが出てくるわけだから、、、いつも感心してしまいます。


ちなみに、これはかなり制作者サイドも自覚的だろうとLDさんはいいます。この日常・無菌系からゆり系に向かう典型的な作品を、LDさんは、『ゆるゆり』としていますが、、、まさに、タイトルからして、緩い百合ってなっているんですもんね。

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ただ、「ゆるい」とあるだけに、まだこの時の百合は、ギャグの文脈の中で、さらっと書かれているだけでした。しかしながら、それが、『桜Trick』では、ガチ!に行くわけです。優ちゃんと春香さんのキスって、、、、もうめっちゃ濃厚ですよね。あれってもう、凄い肉感的で、毎日SEXしまくっているのとほとんど変わらないと思うんですよ(笑)。それに、本人たちの自覚も、ガチ!です。僕がこの作品を見て、この二人の将来はどうなってしまうのか?と、現実の同性愛の問題とひきつけて連想して、いろいろ悩みこんでしまったのは、彼女たちの関係がガチだからなんですよね(苦笑)。ギャグに流せない(苦笑)。この二人、本物じゃないですか!!。かといって、物語中では、まだまだ受け入れ態勢が進んでいない日本の現代(2014年)の状況で、どのような自覚を持って戦うとか、親にどういうのか?とか、どうやって稼いでいくのか?とか、そのへんのシビアな話は出てきませんので、それで、僕ははらはらしちゃうんですよね〜。


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さてさて、実は、僕の今回の記事で言いたい主題はこの先にあります。



そもそも日常系、無菌系の作品は、百合好きな人からすると、そもそも最初から「そこ」にゆりゆりな関係はあるじゃないか!!!として、そう読み替えて、見ています。BLの業界の人が、消しゴムと鉛筆にも受けとたち(あれ、ネコだっけ?それとも、攻めだっけ?←いまいちわかりきっていない)の関係を読み替えてしまったり、するのと同じで、そこに関係性がある限り、恋愛可能線(線なのでベクトルが存在します=矢印と考えてもいいです)は必ずあるので、それを強調してみようとすれば、それは確かにできるわけです。なので、最初からそういうものはあった、とは言い張れるわけです。


もちろん物語には、このベクトルのコントロールが本筋や世界観によって形成・支配されています。たとえば、日常系から無菌系の流れの大きな主目的は「男性の感情移入先を削除していくこと」であったわけです。それは、主な視聴者である男性が、自分の競合者を無くしていく過程で作中に男性キャラクターを消去していく流れで、最後には、自分の視点さえなくしていこうという力学があったわけです。つまりは、70-90年代のナルシシズムの檻、個人の自我や主観がすべてに優先されるという個を重要視して、個の揺らぎを追求した文脈の中で、出てきた完成形の一つなわけです。かわいい女の子たちが、ほかの男に(自分にすら)奪われない汚されないで、きゃははウフフする姿が見たいっていう欲望が生み出してきたものなんですよね。究極の安全志向。競争が存在しない空間。


・・・・ところがどっこい、物語のキャラクターにも自律性がありますので、そう設定すると、いろいろ思いもしなかった副次効果というか結末に向かうんですね。男の子が、たくさんの女の子を自分のものにしてキープするハーレムメイカー類型では、男の子がすべての女の子に平等で接する構造から、女の子がバトルロワイヤルで男の子を奪い合う、女の子主体の方向へ舵を切る物語に変化していく、、、ヒロインの逆襲という構造を僕らは見てきました。同様に、日常・無菌系では、女の子たちが関係性で戯れる姿を、雑菌(=男の視点)なしで見ていたいという欲望が、女の子同士の恋愛の方向へ物語のドラマトゥルギーをすすめることになったわけです。そこにいる少女たちを、他の男に奪われたくない!!!と極端に進めた結果、物語の中に他の女性に女の子を奪われてしまったという皮肉です(笑)。


しかしながら、構造が変わる時は物語だけではなく、視線の出し手(=視聴者)も変わってしまうもので、、、、そもそも女の子を奪われる男性の視点を排除しようという傾向の中で、男性自体が女性の視点の中に感情移入していくというトレーニングでもあったわけで、男性が総じて女性の関係性の中で生きることの面白さを勉強していく過程になったわけです。異性の視点をストレートに(屈折した自己の中にある異性の視点ではなく=それは大体差別感情ですしね)体験することは、見事なセンスオブワンダーだと思うのです。特に、男の子的な世界観は、成長をベースにするマッチョイズム的な世界観なので、それをに対する適応不全を起こしている現代では、この視点の獲得は、なんか、すげぇいいんじゃない?って僕は思います。僕のような、成長至上主義のマッチョイズムくんには、絶大な癒しとセンスオブワンダー、そして自分か理解できない他者への共感の扉をもたらしてくれます。


またもう一つ言うと、ハーレムメイカー(一人の女の子がたくさんの女の子を囲う)や日常無菌系を見てくると、、、やっぱりさ、、、本当の恋愛って、一対一のほうがいいんじゃねぇ!(その亜種である三角ラブコメの復権)とか、いやいや、女の子がかわいくなるのは、輝くのは、男の子がいて恋した時がベストだろう!!ということにみんなやっぱり気づいて(笑)、『恋愛ラボ』のように複数の男女で構成される作品への発展も見られます。

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ここにきて古典に、王道に回帰したのか?とみんな思うと思いますが、僕の答えはNOです。


過去に戻ったわけではありません。僕らは、多様性を獲得したのです!。


この多様性の訓練こそが、様々な視点への仮託への自由になれる、、、、物語をよりよく楽しめるための重要な想像力の筋トレになると僕は思うのです。一見、過去の王道ものに回帰しているように見えますが、多様性を獲得した状況では、全体における位置づけや、コモンセンス(常識)が王様の位置に君臨して他の可能性を抑圧することがとても弱くなります。


なので、僕はこの文脈の流れをずっと終えたことは運がよかったと思います。最初は、戦争映画やSFの作品、善悪二元論などのテーマで追っている時に、「非日常」という概念が出てきました。それは、その後に現れる日常系との比較で、日常と非日常を比較する流れで出てきた概念でした。


ここでは、歴史学者のレスター伯さん(僕より世代的にかなり若い)と話していく中で、物語のとらえ方が、団塊のJr(いま40台の僕の世代)と、それ以下のたぶん1980年代以降の生まれの世代にどうも断層があるという気づきでした。この世代の断層の上と下で、日常と非日常の「順序が逆転している」ことを発見したのでした。彼らは、もう生活の体験のほとんどが日常に埋没しており、帰るべきところ、ノスタルジーを感じるところ、「日常」をベースに感じるのです。なので、非日常は、ありえない、憧れる何かになります。逆に僕の世代より上は、帰るべきところ、ノスタルジーを感じるところが、非日常となります。これは、団塊のJrの世代までが、祖父の世代(直接に接する可能性が高い家族)に戦争経験者がいたことと、かつ高度成長期の非常にを生き抜いて競争してきた非日常を日常として生きる団塊の世代を親に持っていたこととか、、、また、その3代で生活環境が、ほとんど同じとは思えないほど激変してしまったことがあると思います。自分の生きている風景が永遠に続くように感じられることが、イコール日常です。永遠の日常って言いますよね。けれども、高度成長期や戦争体験は、自分の見ている日常の風景が、激変して変化していくという非日常を生きることになったことになるのです。


この辺は複雑なロジックなので、もう少し考えていきたいのですが、、、、はっきりわかっていることは、団塊の世代Jr以降の1980年代以降の生まれの世代は、世界観がすべて「日常」をベースにしており、非日常はとても非現実的に感じる感受性を持っているようだ、ということです。なので、非日常的な物語設定を構築しようとしたときに、転生もののように、異世界に富んでいくことや、バーチャルリアリティの中に入るというような、非日常がいま生きて生活している日常の延長線上にあるという風には感じられない感受性があるからこそ、こういう設定が生まれるわけです。


ということで、新しい世代に適応した、日常系というカテゴリーが生まれることになります。


日常系の定義は、関係性のフレームアップ(ミクロのクローズアップ=マクロの背景の消失)です。また時間感覚の消失(=日常の風景自体が永遠に変化することがないというあきらめの境地=成長による世界の変化がないというあきらめ)もあげられます。



この系の可能性分岐として、無菌系が存在します。



この無菌系は、感情移入対象である男性主観の視点を削除することでした。これ、僕が、ずっと宮崎駿さんの解説の文脈で語ってきた、彼の「男の子を主人公とした物語が描けなくなった」という話と重なることです。


『風立ちぬ』 宮崎駿監督 宮崎駿のすべてが総合された世界観と巨匠の新たなる挑戦

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130802/p1


つまり、男性主観の削除というのは、宮崎駿が言った「男の子を主人公とした物語がつくれない」と同じことですよね。もう一つ言うと、庵野秀明監督が、『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビシリーズで、世界を救うための選ばれた典型的な英雄であり主人公である碇シンジ君が、物語を放棄したこととも同じことです。ようは、男の子の主体性が確立できていないわけですよね。



なんで?



と問う時にこのブログの読者は、もう答えはわかっていますよね。男の子の英雄、主人公が指し示すことは、つまりは、成長を無邪気に信じる高度成長期のマッチョイズムです。成長するということが、無邪気に、無前提に、信じることができなくなったからなんです。成長することこそ、正義!正しいのだという信仰が揺らいだのです。繰り返しますが、成長自体が悪いわけではないですし、これ自体が世界からなくなったわけではサラサラありません。成長することの正義も、男の子的価値観のマッチョイズムも、十分に健在です。何が変わったかというと、この価値観が、時代の支配的なパラダイムの王座であることをやめたことなんです。少なくとも、日本に置いて、高度成長期が終わった1980年代の終わりにこれはとどめを刺されました。その回収と「次」へのアノミーの時期が、90年代2000年代なのだろうと思います。これは物理的にも、失われた20年と一致しますね。日本の高度成長が崩壊したこと、ストックで生きる経済に構造変化したのにライフ詩タイルが全くそれに適合できていない不適合の時代です。


男の子たちは(=高度成長を前提として無邪気に未来の成長を前提とした人たちなので、男女など性別は問いません)アノミーに、いいかえれば、生きる目的を喪失してしまったのです。自殺率の上昇は、この高度成長期のアンシャンレジームが壊れて、次のモデルが獲得できていない状況でのアノミーに対応していると僕は思っています。まぁ「生きる目的」といっても、これまでの高度成長=坂の上の雲を目指す適応の形式が失われただけで、人間本来のありようが変化したわけではサラサラありません。



さて、日常系-無菌系は、まさにこの背景を基礎として、その「次」として出てきたものの一つになるわけです。



まずはっきりと打ち出されたテーゼがあります。



それは、成長をあきらめろ!!!です。



なので、基本的に永遠の日常(=風景が変わらない=成長がない)のです。



またもう一つは、この世の中で最も大切な価値があるものは、大事な人との関係性の記憶なのだ!という喝破です。



この前提の中で、生きていることを楽しむのはどういうことか?を問うたのがこれらの作品が指し示していることだと思います。



まず、風景。成長しないと変わらない????。いや違いますよね、四季は廻るのです。大きな成長がなく、何も変わらないような日常も、風景自体をクローズアップしてよくよくみてみると、ふだん自分が住んでいる無味乾燥な風景こそが、キラキラに満ちた濃度と密度を持ったものであることにみんな気付くのです。海外に脱出しなくても、エリートになって世界を変えなくても、目の前にある風景は、きれいじゃないですかって!。


そして、その美しい変わらない風景が意味を持つのは、大事な人たちと戯れている、いま、そこに価値があるからです。


しかし「友達と戯れる」ってどういうことだ??という疑問が生まれます。


成長ばかり志向してきた人々には、そんなことがわからいのです。「もっと、もっと」と道端の花も見ないで、遠くの「志」とかばかり見ている人には、ミクロの関係性のフレームアップの戯れによって「今ここにあることの至高性を感受する」という技術がありません。ちなみに、これは技術です。そしてこれが、男性マッチョイズムの成長至上主義の世界で排除されていた、女性の独壇場であったこと、とりわけさらに社会参加からかなり遠ざけられている少女の特権であったので、まずはロールモデルに女の子が選ばれたんだろうと思います。

タナトスの子供たち―過剰適応の生態学
タナトスの子供たち―過剰適応の生態学

そこに、男性感情移入視点(=男の子のキャラクター)がないために、女の子しかいないわけで、女の子に感情移入することによって、この視点によって世界を感受する技術をトレーニングしていけるわけです。10年ぐらい前のブログのはじめのころには、日常を扱った物語ってつまらないので基本的に嫌いなんですよねって、言いきっています。それはなぜか?といえば、まず一番は、そういう感受性が自分の中にセットされていないので、そういうことの微細さや感覚が、甘受できないから、全然面白くなかったんだろうと思います。これに気づかせてくれたのは、岡田斗司夫さんのオカマエンジン、という発想です。少女漫画を理解するときに、どうすればいいのか?という問いへの答えでした。なるほど、自分の視点じゃない、他者の視点の想像力をどう自分の心の中に作るかが、他者を理解する第一歩なんだな、と理解しました。自分の心の中に他者を構築することで、異なるタイプの感受性の形式を筋トレして修練して構築していく。それはまずは自分とは異なるものという形での仮託の対象になりますが、それを長期間継続して修練して積み重ねると、スイッチの切り替えがゆるくなり、ほとんど自分同様に「自分」と統合されていくことになります。

30独身女、どうよ!?

さて、そうやって永遠の日常の中で、関係性にフレームアップして、生きていくと、、、、そうですね、、、人生が楽しくなるんですよね。これを学べたのは、僕のような成長至上主義で生きている人にとっては、凄い価値があるものでした。ちなみに、もついろん成長至上主義がなくなったわけではありません。それが、パラダイムの王座の座を失っただけで、巨大な勢力として、大きな意味ある価値として君臨している現状は変わりません。けど、それはそれ、これはこれ、という多様性の棲み分けが可能になったのです。幸せになるには、縛りからの自由が重要で、たとえば成長至上主義に生きている人は、こうした成熟(その時々を戯れ、一回性の時の至高性を感受する)が重要ですが、逆にいうと新しい世代では、成熟をベースに生きている人にとっては、成長至上主義的なマッチョイズムを獲得できることが、逆に幸せにつながると思うんですよね。なかなか世界は皮肉です。簡単に、反転する。


僕が、このブログは日記的なものなので、数年前に、友達がいっぱいできた!趣味を通して関係性に戯れているとなんて幸せなんだ!と言い出したのを長くブログを見ている人は覚えていると思います。これは技術なので、習得可能なのです。少し時間はかかりますが。海燕さんやLDさんら友人たちと、もうほとんど女子会としかいいようがない行動をヤロー同士(笑)で遊びまわっているは、なんとなく皆さんわかると思います。


ちなみにねーこの感受性の獲得は、同性同士でつるんだほうが、、、特に男性はいいような気がします(僕は女性ではないので断言できませんが、女の子同士も同じな気がします)。若かりし頃、あれほど女の子と遊んだのに、こういう解放感は、まったく訪れませんでした。それは、僕のアプローチが悪かったのがいまではわかるんですが、つまりは僕は恋人を探す意識で女の子に接していたんですね。何が違うかっていうと、性欲にリンクしてしまうことと、1対1の関係性に「閉じ込められて」対幻想になってしまうんですよ。性欲は、暴力や薬物と並んで、容易に自分をだましたり、おかしな関係性を作り上げてしまいやすい(=いいかえれば、バランスの悪い幻想を構築してナルシシズムにこもってしまいやすい)ので、なかなか健全にならないような気がします。やりようですがね。また対幻想は、ナルシシズムの檻(=個幻想・妄想とか)の2人閉鎖型ヴァージョンですからね。物語の類型でも、男性に対する女性による救済やファム・フアタルなどの形式は、結局は、それは男のナルシシズムなんじゃない?と時々思ってしまうんですが、やはりこれが出口がないものだからだと思います。


それでもって、この異なる感受性を獲得することが「技術」だと強調するわけは、ずっと問い続けている「内発性がない人間はどうやったら獲得できるのか?=絶望している人が自分で自分を変えることは可能なのか?」というあの設定に深くかかわる問題だからです。はっきりといいかえれば、僕は、内発性(=人生を楽しめること)は、努力によって習得できる技術なんだ!ということが言いたいわけです。なぜならば、それは自分の経験の実感・体感からかなり普遍性がある形に分解できる「技術」なんだという手ごたえが最近あるからです。


ちなみに、クンフーとか修業とか言っているのは、これが時間と手間が非常にかかる「積み重ね」の技術習得だからです。プロフェッショナルになるには、1万時間のトレーニングが必要?とかよくいわれるじゃないですか、計算的には1日12時間労働で3年間の感じですね。ランチェスターの法則でしたっけ?。これ、僕がいつも言う、なんでも3年は我慢が必要なんじゃねぇ?っていう体感法則と、がっちり一致します。僕が、あれ??、ブログ初めて友達ができたんじゃね?と思い始めたのが、始めてから数年後で、自覚してさらに数年後に、明らかな自己の解放感があったのを考えると、まぁそのとおりなんでしょうねぇ。結構大変ですよ。



>祭りを起こす才能(=内発性)って、どうやって獲得するものなんだろう? またその構造はどうなっているんだろう?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131225/p1

やっぱ趣味と友達がないと、しあわせになれんよねー

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131030/p1




さてさて、けどね、、、僕はこの辺(=友達ができた!)で終わりかと思ったら、、、そうじゃなかったんですね!!!



ようは、無菌系が同性同士のゆり的な微エロに突入するとすれば!。これは、BL(ボーイズラブですね!)と(笑)。LDさんが興奮していましたが、、、、、ようはね、ゆりやBLの文脈に対して、蒙が開かれたような理解度が急上昇したんです。えっと、どういうことかといえば、ようは、見る人が見れば、関係性の中には恋愛可能線が常に隠れているわけです。というか、関係性の本質は、それだといえるでしょう。この関係性の本質に関する、自由度を獲得したということです。具体的な例は、『ゆゆ式』で、ゆずちゃんって、ゆいちゃんのこと好きですよね???どう考えても。でもこれ、僕は「見えていたのに見えていなかった」んですが、ゆうちゃんのゆいちゃんLOVEってかなりガチですよねっ!!これ、言われるとわかると思いますが(LDさんも超同意してた)彼女、マジガチですよ(苦笑)。でも、僕全然気づかなかったんですよ、、、『桜Trick』で「そういう可能性の視点やベクトルがあるんだ」ということを体感するまでは。そういう物語内在の、恋愛可能線が、自由自在とまではいかなくとも、相当の自由度を持って感じられるようになってきました。これか!!!腐女子の皆さんが見ているものや、百合好きの皆さんが見ている世界はこれなのかぁ!って。関係性は複雑だとしんどくはあるんですが、その分、世界が豊穣で満ちるものとなります。これって、無味乾燥そうな薄っぺらい「世界」が、キラキラとした輝きと複雑な豊穣性を持って現前してくるのです。いやーセンスオブワンダーだなー。


また一つ、前へ進んで、多様性を獲得したなーとうれしい今日この頃です。


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ちなみに、僕が過去、マリみてで「この先が見たい」といっていたことなども、この恋愛可能線をベースに考えると、かなり違って見れると思いますし、、、また同時に、僕が、このラインで考察をして文脈を考えて「その先」を見たかったというのは非常に妥当だと思うんですよね。そういう意味では、物語を楽しむにあたって、これほど感受性の筋トレをさせてくれるものは久々でした。いやー楽しいっす。


マリア様がみてる ハローグッバイ』 今野 緒雪著 ついに祐巳・祥子編の終わり、大好きだが一点不満があります!

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090110/p1

マリア様がみてる―ハローグッバイ (コバルト文庫)