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物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-04-30

『ムーンライト(英: Moonlight)』(USA 2016年)  Barry Jenkins監督 アメリカのリベラルな社会の最前線〜アメリカ的な文脈で、黒人で、貧困層で、ゲイであるマイノリティとはどういうことか?

Moonlight [Blu-ray]

評価:★★★★4星つ

(僕的主観:★★★☆3つ半)

■アメリカのリベラルな社会の最前線〜アメリカ的な文脈で、黒人で、貧困層で、ゲイであるマイノリティとはどういうことか?

第89回アカデミー賞作品賞受賞作品。とはいえ、個人の感想としては、面白くなかった。確かに素晴らしい出来なのだが、マイナーな作品としての面白さなので、これが大劇場で世界展開して、オスカーを獲得するというのは、少し不思議な感じがする。相当に人を選ぶ映画だからだ。町山智浩さんが、88回のアカデミー賞が白人ばかりの映画が受賞したのですが、今年は『ラビング(愛という名前のふたり)』など黒人の映画がたくさんあって、ハリウッドの多様さがわかるとおっしゃっていたのだけれども、僕的には、なんというか技術や映像の作り込み方が半端じゃなくて、確かに革命的な作品なんだけど、そういう玄人的な作品であって、物語自体はとても単調で内面的な作品なんで、やはり見る人をすごく選ぶ作品だろうと思う。なので主観としては、評価が低い。ちなみに、プランBエンターテインメント(Plan B Entertainment)は、ブラッド・ピットの会社。『12 Years A Slave』もそうだけど、この人はプロデューサーとしての才能も凄いんですね。とはいえ、離婚したばかりだから、家に帰って一人の部屋にオスカー像がごろごろしていると思うと、なんか寂しいですね。ほんとに。


この作品は確かに凄い作品で、その凄みは、なんといっても(1)映像の美しさによるところ。もうひとつは、(2)アメリカ的な文脈で、黒人で、貧困層で、ゲイであるマイノリティという、一般的な日本人からすると共感する要素がほとんどないんですが、凄まじいアメリカ社会のマイノリティの孤独感をこれでもかとフォーカスしている、そのアメリカ的な文脈がセンシティヴに昇華されている作品。アメリカの都市部に住む貧困層の絶望をさらに煮詰めたような場所が黒人たちが住む町。この作品は、基本的に人口の少年シャロンが住む町は、フロリダ。大人になってアトランタにうつっているんですが、ベースはここなんです。それは、監督のバリー・ジェンキンスと、脚本のタレル・アルヴィン・マクレイニーがフロリダのリバティー・スクエアの出身だからですね。ゲイのマクレイニーの脚本を読んで、監督のジェンキンスは、最初おれには関係ないなと思ったんだけど、出身を見たら自分と同じ町で同じ小学校で1歳違いだってことがわかって、この話は、

自分が描かなきゃならないって思ったそうなんですね。町田さんが以下のように書いているんですが、

(町山智浩)この脚本家と監督はその地獄のようなところで育って、ただ、すごく2人とも文才があったんですね。で、学校で先生に「君は天才だから、いい学校に行きたまえ」っていうことで推薦をしてくれて。お金も集めてくれて。特に、マクレイニーというその脚本家は名門イェール大学に進んで、最終的にはマッカーサー奨学金という天才にだけ与えられる奨学金を得ているんですよ。

(赤江珠緒)うわっ、じゃあ自分の才能だけで切り開いてきたんですね。

(町山智浩)切り開いてきた。2人とも、それを見つけてくれた人がいたから良かったんですけど、見つけてくれなかったらね、こうなっていたかもしれないっていう話がこの『ムーンライト』っていう映画なんですよ。だからね、結構キツいんですけど。ただね、ゲイでもないし、貧しくもない、黒人でもないっていう人にとっては関係ない映画なのか?っていうと、実はそうではないんだと。この映画のいちばんのポイントなのは、「自分はいったい何者なんだろう?」って、誰からも肯定されない、否定されてきている主人公が悩んでいる時に、ある人が彼にこう言うシーンがあるんですね。「自分が何か? 自分は何になるのか? は自分で決めるんだ。絶対に他の誰かに決めさせるな!」って言うんですよ。

(赤江珠緒)ああー、うん。

(町山智浩)それがすごく大きいテーマで。これって『ズートピア』と同じテーマなんですね。


町山智浩 映画『ムーンライト』を語る

http://miyearnzzlabo.com/archives/41605


△離▲瓮螢固有の文脈を超えて普遍性がある部分というのは、社会の底辺から、社会で何一つ居場所がなく排除され阻害されている立場から、どうやって自分自身を見出して行くかというテーマなんですよ。この作品の普遍性は、そこにつきる。そしてこのジェンキンス監督と脚本家のマクレイニーの人生を見れば、彼らがなぜこの脚本を書き、そしてそれを世界に訴えたかったかは、よくわかります。彼らはこの地獄のような最底辺の貧困層から、ほとんど運で、そしてプラス才能と努力でのし上がってきたのですが、この抜け出せない地獄で生きる主人公の人生は、「もう一人の在りえたかもしれない自分」なんですから。


とはいえ、僕は「面白くなかった」と思うのは、まずもって△離▲瓮螢の黒人貧困層の置かれている社会的文脈の、その凄みが日本人にはほんとど体感できないので、これを「自分自身にひきつけてみる」というのがすごく難しいと思うからです。ありえたかもしれない自分だ、と思えなければ、おとぎ話やファンタジー(=自分には関係のない話)になってしまうんですが、その場合は物語性がないと入りにくい。しかし物語性は、「自分の居場所を見つける」というとても普遍的哲学的なもので、抽象度が高い問いなので、マイナーテイストなリアリズムで描かれると、この難解なテーマは、なかなかポピュラリティを獲得しにくい。僕は、出来は素晴らしいが、エンターテイメントとして突き抜けているわけではないので、この作品がトランプ政権への批判として賞を取得したと揶揄されるのは、だろうなと思います。もちろん、世に知られるべきすさまじいエネルギーを持った作品であるのは否定しないんですが。アメリカの黒人貧困層の世界を理解する導入では、僕は、まず『Straight Outta Compton(2015 USA)』をおすすめしたいなぁと思います。これもテーマは全く一緒だと思います。ただ、主人公の黒人に音楽の才能があったこと、そしてそれによって破竹の勢いで成功していき、それが崩壊していくまでを描くビルドゥングスロマン(主人公の成長物語)になっているところにカタルシスがある。


『Straight Outta Compton(2015 USA)』 F. Gary Gray監督 African-American現代史の傑作〜アメリカの黒人はどのように生きているか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150915/p1

ストレイト・アウタ・コンプトン [Blu-ray]


△旅人の貧困層をめぐるアメリカローカルな文脈の背景は、上の記事でめちゃくちゃ長く書きましたので、この系列に興味がある人は、ぜひとも読んで、ここで紹介されている作品群をおすすめします。


『ヘルプ 』(原題: The Help 2011 USA) テイト・テイラー監督

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130114/p1

『Lee Daniels The Butler/大統領の執事の涙(2013 USA)』アメリカの人種解放闘争史をベースに80年でまったく異なる国に変貌したアメリカの現代史クロニクルを描く

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150207/p1

それでも夜は明ける/12 Years a Slave(2014 USA)』Steve McQueen監督 John Ridley脚本 主観体験型物語の傑作

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150120/p1

ドリームガールズ』 ビル・コンドン監督作  アメリカの音楽の歴史教科書みたい

http://ameblo.jp/petronius/entry-10041454952.html


アメリカの現代を理解すること、アメリカ映画やドラマの固有のローカルな文脈を理解するときに、African-American現代史の理解抜きには全く不可能だと僕は思います。特に、アメリカの公民権運動以後のリベラリズムが到達している社会がどんなものなのかは、この背景抜きには、全く理解できません。そして理解できないと、この作品は、まったく無味乾燥なファンタジー(自分とは何の関係もない作品)になってしまうと思います。この「自分とは何者なのか?」の問いテーマにする物語は、「自分自身の体感」にひきつけて「自分のこととして」考えられなければ、ほとんど意味をなさないものになると僕はいつも思います。というわけで、アメリカのローカルな文脈を理解しないで、自分自身にひきつけないで見てしまうのが、一般的な日本人だと思うので、この作品は、ほとんど理解できないのではないかと思います。という意味で、面白くなかった作品でした。こういう高踏的な作品は、現実の文脈の体感がないと、「私ってこういう難しいの見ている」というようなある種のオシャレというか見栄というか、「こんな難しいのを見ている自分によぅっているだけ」な人ばかりになりやすいので、僕はぐったりしちゃうんですよね。まぁ、自分もその一員だったので、それを悪いとは言ってはいけないんでしょうが。。。


ちなみに、技術的なことはあまり得意ではないので多くは語らないのですが、,留覗の美しさというのは、原案のタレル・アルバン・マクレイニーの半自伝的戯曲「In Moonlight Black Boys Look Blue(月光の下で、黒人の少年がブルーに輝く)」からきているのですが、黒人の肉体と肌の美しさです。これには光の処理を、もう明らかにオリジナルとは全く違う、新海誠監督の『君の名は』レベルに加工していることによるのですが、これが全編本当に美しい。これによって今後の映画の映像処理の仕方が確実に変わってしまうだろうという町田さんのおっしゃっているのは非常に同感です。そういう意味では、2016年近辺は、画像の作り込みが、異なる段階に至ったエポックメイキングな年なのかもしれません。しかし、この全編をCMのワンショットの切り取りのような美しさで詩的に、幻想的に描く手法ってどっかで見たなと思ったのですが、これってウォンカーウァイ監督ですね。まさにずっと『欲望の翼』を思い何処していたので、なるほどと唸りました。

欲望の翼 [DVD]

不遇のマイノリティ社会、ゲイであることへの戸惑い、イジメにドラッグにネグレクトとモチーフはとことん悲惨なのだが、バリー・ジェンキンスはあえてシチュエーションをドラマチックに盛り上げることを避け、映画ならではの視聴覚言語を使ってシャロンの人生を極めて詩的に描き出す。

構図やカメラワーク、色彩設計や俳優の捉え方に至るまで、全体の画作りがウォン・カーワァイっぽいのだが、やはり相当に研究し、意識しているらしい。

「ぽい」とは言っても、きちんと本歌取りして自分の表現に昇華しているのはもちろんのこと。

筋立ての上では主人公と適度な距離を保ち、主観に寄り添った映像表現とクセの強い心象的な音楽・音響演出が、それぞれの章で自然に彼の心情を語りかける。


ムーンライト・・・・・評価額1750円

ノラネコの呑んで観るシネマ

http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-1004.html


トレイラーを見ていただければ、圧倒的な黒人の体の肌の美しさを感じると思います。



ちなみに、この作品がウォンカーウァイ監督のテイストになるのは、映像が好きというだけではなくて、意味的にも、なるほどと思うんですよ。

こういったモノが映画化されると、ロードムービーのような形式になるのは、こうした状況での主観感覚が「見えるものがすべて意味のないものにしか見えない」という「意味感覚のなさ」が基礎にあるからではないかと思います。いいかえれば、電車の窓の外の流れるふうけのように「そこに触れることができない」ただ流れていくだけの「シークエンスとして、現実を眺める」という主観感覚です。ちなみに、ちょっとずれると、この感覚は、富樫義博さんの描く『ハンターハンター』のゴンが、団長に問いかけた「仲間をあれだけ大切にするお前らがなんで人をゴミのように殺せるんだ?」というというと、リンクしていると僕は思っています。

なお、アメリカでは、同じ「自意識の不安から」「どこかへ逃げ出してしまう」という形式は、ロードムービー的なモノへ昇華したように僕は思います。ヴィム・ヴェンダース監督(ドイツ人だけど)の『パリ・テキサス』やデニス・ホッパー監督の『イージー・ライダー』なんかを思い出します。ヴェンダースは、80年代ですが、この形式がアメリカではやったのは60−70年代だということを考えると、やはり、一世代分ぐらい日本とアメリカの市場では、「受け入れられる」もののサイクルがズれているように感じます。これも、実は00年代ぐらいから、世界がグローバル化して、同期しているように感じるので、昔のようなはっきりとしたサイクルのずれは感じない気がしますが。

これらは類型的にもともとの根は同じもので、消費社会が爛熟して、個人の権利が根強く認められるようになった反動の時代に、「自由とは何か?(=個人の権利と自由)」ということと「責任とは何か?(共同体から役割と責任をコミットすることを求められる)」というもの葛藤によって、発生するもののようです。つまり、消費社会がある一定のレベル(GNPで1万ドルを超えるくらいかな?、それと社会のストックのレベルによるかも)になると、発生する感受形式のようですね。ということは、次の時代(2020年代ぐらい?)のこの形式の名作は、確実に中国本土で生まれることが間違いないと思います。ちなみに、少し先行した形で、香港ではウォンカーワァイ(王家衛)監督の『天使の涙』』(原題:堕落天使,Fallen Angels 1995年)や『欲望の翼』(原題:阿飛正傳,Days of Being Wild 1990年/香港映画)といった名作が生まれました。僕は、これらは根は同じな物語類型だと考えています。

ちなみに、これらの作品に共通しているのは「何かから逃げる」「脱出する」という共通する基調低音のテーマがあることです。はっきりいって、そこに合理的な理由は見いだせません。『パリテキサス』のトラヴィスは理由もわからず、砂漠を彷徨っているところから始まり、最後まで彼には帰るところがありません。物語はこういったように「よくわからないけど逃げている」といった逃走の形式をとります。この「何かから逃げている」という共通の「お約束」を感じてみないと、物語が非常に断片的で、このどの作品も何を言っているか全く意味不明です。僕も初めて見た時に、かっこいーんだけど、胸に響くものがあるんだけど、いったい「監督が何を言いたいのか?」ということが意味的にはまったく理解できませんでした。特に、名作といわれる作品ほど、特にきっちりと「合理的な理由がまったくない」ように物語の脚本を作ります(笑)。

また最初にあげたように、こうした主観感覚は、「意味のつながりを感じられない断片」として、現実の見える風景をシークエンス(=連なりにする)にするという表現形態をとるので、背景を相当解釈する力がないと、全く意味が読み取れません。だって意味を壊すように映像や物語を作るんだもん。ああ、哲学のドゥールーズ・ガタリとかミルプラトーとか持ち出すまでもなく、知識人にとって、80−90年代くらいは「意味を破壊する」ということに全力が捧げられた時代でした。映画などの物語、現代美術のコンテポラリーアートも、『本来自明だと思われていた意味』を解体するということがその主要なテーマでした。これをパラフレーズする言葉が『大きな物語の解体』です。


1990年代から2010年代までの物語類型の変遷〜「本当の自分」が承認されない自意識の脆弱さを抱えて、どこまでも「逃げていく」というのはどういうことなのか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100521/p1

ちなみに、ウォンカーワァイ(王家衛)監督はこの後、『ブエノスアイレス』に到達するわけなので、この「逃げる」という自意識の脆弱さを、もう少しマイルドに言えば自意識のセンシティブさを描くと、本質的に社会のメインストリートから排除されているところに行きつきやすいのかもしれません。なので、マイノリティを扱う話になりやすい。


ブエノスアイレス [DVD]


ただ、僕としては、圧倒的に同じテーマでも、『ズートピア』の方が愛してやみません。それは、やっぱりポジティヴな何かを獲得していく物語を見たいと、せめて物語では現実の悲惨さばかりを注目したくない、と思うからかもしれません。この辺りはリアリズムとロマンチシズムのどっちが好みかという部分になると思います。


『Zootopia ズートピア』(2016米国) 監督 Byron Howard Rich Moore 現代アメリカのリベラリズムの到達地点とオバマ政権への反動への警鐘

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160808/p1


ズートピア MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]


アメリカのローカルな文脈でいえば、白人同士のゲイの物語だった『ブロークバック・マウンテン』の後継者の様な位置づけとも見れて、これを見比べてみるのも興味深いかもしれません。


ブロークバック・マウンテン [Blu-ray]







さて閑話休題。ここからは作品というより文脈の思考。


■あなたは何によって救われますか? 無力だった子供時代の思い出を解決、昇華できるのだろうか?


たぶん『ムーンライト』を見る層の消費者と、僕のようにライトノベルやオタクアニメのどっぷりつかっている層は、ほぼ重ならないと思うので、この比較はまったくわからないと思うのですが(笑)、実はこの作品を見ている時に、ずっと『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』とか学園モノのリア充敵視をテーマにしているライトノベル群のテーマをが凄く思い出されたんです。僕はこのあたりのテーマに、学校空間からの脱出というテーマを見出しています。自意識の脆弱さや自分の居場所を見つけていくマイノリティ的な自己探索の日本的ローカル文脈の展開が、ここにあると思うからです。いって見れば自分史的な、普通の日本人が、なにに不遇感を感じて、囚われて、なにからの解放と救済を願うか、というと、僕は学校だからだと思うんです。学校は、日本的同調圧力共同体主義の、純粋な場所です。きわめて現代の日本の最も日本らしく、日本の純粋性があるところ。


やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。11 (ガガガ文庫)


この集団主義的な同調圧力の空間、そして永遠の日常のテーマ間に代表される楽園としての圧倒的な差異がない世界での日常のキラキラ感あふれる充足というネガティヴとポジティヴが入り乱れる圧倒的な日本固有の体験空間。このあたりの接続感覚は、永遠の日常系を突き詰めていくと、絶望がどれだけ極まるかによってその極まり具合が突き抜けて、強烈なポジティヴに至るというルートがあるようです。それが、日本だと学校空間になるんですが、アメリカのローカル文脈だと現代の郊外の空虚さや中間層の崩壊を描く『ボウリングフォーコロンバイン』や『ストレイトアウタコンプトン』のような世界につながって、それへの限界点が越えると、アメリカでは、ゾンビ・アポカリプスのような「世界よ滅びろ!」という(ウォーキングデッド!やファイトクラブ!)というひゃっはー北斗の拳状態になるという流れがあるようで、この流れは日本も同じで(笑)、『がっこうぐらし』とか?(笑)日常・非日常の認識をどこに見て、どこにテーマを置くかは、凄いマクロに見るとだいぶ似ている構造があって、しかしそれがローカルに展開するとそれれぞれの文脈テーマに分解されているようなんですよね。


『ゆゆ式』(2013) 原作:三上小又  監督:かおり 関係性だけで世界が完結し、無菌な永遠の日常を生きることが、そもそも平和なんじゃないの?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140504/p1

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。8 』 渡航著 ヒッキー、それは確実に間違っているよ

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131129/p1

『ココロコネクト』 庵田定夏著  日本的ボトムアップの世界でのリーダーというのは、空気の圧力を結集する特異点

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130930/p1

頑張っても報われない、主人公になれないかもしれないことへの恐怖はどこから来て、どこへ向かっているのか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20151011/p2


というのは、ここからはかなりのネタバレですが、シャロンという男の子の最も大きいドラマトゥルギーは、幼なじみの同級生ケヴィンとの愛の行方です。しかしながら、子供時代から自分がゲイだという認識がない状態から、狭い共同体社会の黒人ゲットーで、ゲイだといじめ抜かれてきたシャロンは、やっとケヴィンと結ばれそうになった瞬間、そのいじめの構造によって、ケヴィンに手ひどい裏切りにあいます。第三部の大人になったシャロンは、この恋をずっと引きずっているのですが、ある時いきなりケヴィンから電話がかかって来ます。

ここで、僕は『聲の形』を思い出しました。過去に自分をいじめ抜いた人、その人を許せますか?という問い。丸戸さんの『ホワイトアルバム2』でもいいのですが、高校時代の時のテーマを、社会人になっても引きずっていますか?という問い。いいかえれば、学生時代の、自分が子供時代のトラウマを、どうやってあなたは救済するのでしょうか?という問い。

映画『聲の形』Blu-ray 通常版

ケヴィンとの大人になってからの「つながり」というのは僕は奇跡に近いような気がしてしまいます。社会人になって、ましてや彼の様にアトランタという遠いところに引っ越して、全く異なる基盤を築いた後に、10年とかのレベルで過去の出来事なんか、もう全く関係なくなって、どれほど自分の心の奥に深いトラウマがあろうと、そんなものは流れ去ってしまいます。時間は残酷なもので、二度と、戻らない。実際のところ、学校時代のいじめは、いじめたものの勝ちみたいなもので、虐げた側は全く覚えてもいないで、忘れ去るんですよね。そして忘れている限り、それに囚われることも、歪まされることもない、というなんともひどい話です。


ムーンライトは、物語は3部構成で、3人の俳優がそれぞれに10歳、16歳、そして大人になったシャロンを演じています。大人になる間というのは、5年もたつとすべてが全く違ったものになって、もう過去の問題点やトラウマは取り返すことができなくなります。だから正しい在り方は前だけ向いて、未来のために生きるのが一番分のいい賭けなんですが、でも、親からの虐待や性的暴行、いじめ、この時期の教育の喪失などは、もう未来に致命的なダメージを与えるんですよね。また、青春の喪失を描く様々な物語は、この時期に獲得するものは、全て色あせて消え去っていくことがよく描かれます。それが現実だろうし、確率的には、そっちが普通だからです。


そんな、10‐16歳ぐらいの時期の、しかもズタズタに裏切られて破局した恋が、大人になって報われ、解決し、幸せになれるものでしょうか?。僕はそうは思えない。このムーンライトという映画が、CMのようなワンショットの映像美に感じてしまったり、ウォンカーウァイの連想を強くさせるのは、やっぱりそこが、非常に単純で重要なのは、その時の空間の強度や美しさを詩的に写すことに執念が費やされており、意味的にそれはどうなのか?という力強い現実意識がないからだと思うんです。


理由は、まさに現実的だからでしょう。アメリカの黒人の貧困家庭の、繰り返される連鎖は、ほぼ「そこ」から抜け出ることができないものなんです。たぶん殺される以外には。この映画の監督や脚本家は、例外中の例外で、そんなウルトラ天才を確率で考えれば、ないにひとしいんですよね。だから、このテーマを描くと、多分、黒人の成功方法が、スポーツ選手(アメフトかバスケ)になるか、音楽で世に出るかしかないんだろうと思います。それは、プロになるという話で、マイノリティでなくとも、そもそも確率ゼロレベルの狭き道です。


なので、詩的な、どうしようもないことに押しつぶされないで、何とか生きる心の微細な動きを描くような、詩的なものにならざるを得ない。この連鎖が続く地獄で、それでも生きていくときに、あなたはどうしますか?と。絶望を超えた、未来なんかない世界で、それでも自分自身を確立するには、どうすればいいのか?と。


最初の問いに戻りましょう。では、本当はどうやったら救われるのだろうか?、と。


アメリカの黒人は、3つほどパタンがありますよね。NBAのスタープレイヤーになるとか、ラップなどの歌手になるか、極貧からでも選ばれるほど天才で一流大学に行く(この監督や脚本家の様に)・・・・と書いてるとむなしくなりますね。普通に生きてたら薬の売人がいいところで、その場合もすぐ打たれて死にます。黒人ゲットーのアメリカの年の死亡率は、発展途上国やアフリカを下手したら上回りますからね。


無理なんですよね。僕には、通常の人生を生きていると、ヤクの売人になって殺されるか(タフになって強者になる!)、いじめ殺される、もしくはヤク漬けになって殺される、、、、、結局死ぬしか道はないんです。


それ以外で、、、、もっと根本的な部分で、じゃ救われるにはどうするかというと、やっぱり『聲の形』にならざるを得ないと思うんですよ。自分をいじめたやつらとどう向き合っていくか?。このムーンライトの、黒人の狭いコミュニティの世界は、結局、グローバルに世界に飛び立てる基盤を学べないのだから、ずっと底辺の同じところでくすぶっていることを続けるしかない。そうしたら、その狭い閉じられた共同体の中から得る、トラウマをどうやって、昇華していくか?というとても息詰まる狭い世界の話にならざるを得ない。『聲の形』では、狭い地方の田舎の共同体の中で、あれだけ悲惨な目にあった子供が、どうやって大人になって自分自身を見出していくか?は、どうしても子供時代に受けるトラウマをどう解決できるか?ということにならざるを得ない。『ムーンライト』は、子供時代のはじめて抱いた初恋を、もう一度取り戻すことができた、話でした。人種的マイノリティ、性的マイノリティのラブストーリーで、初のアカデミー賞を獲得したことは、政治的な文脈としてとても価値があると思うのですが、物語の類型としては、、、、もちろん王道の話ではありますよね。初恋が実ったわけですから。でも、実際には、ケヴィンは、普通の結婚をして子供までいるわけですから、バイセクシャルなんだろうと思うんですが、どこまで思いが「これから」継続していくか?という疑問もあるし、明らかに自分を導いてくれた役の売人だったキューバ系のファンと同じように、いつかは殺されるであろう危険な役のディーラーという職業についているわけで、これにも未来があると思えない。未来は、非常に暗いんですよ。これを救済というのだろうか、と。もちろん、きっと、ほぼ絶望しかないような、縋るべき希望の可能性もない中に生きているシャロンにとって、「自分が自分である」ことを受け入れてもらえる、しかも、少年時代に手ひどい裏切りがあって人生をずたずたに破壊されたトラウマをいやす形での救済が訪れることは、凄い奇跡であって、自分自身が受け入れられた、生きる意味があった出来事だろうとは思います。でも、「これ」は、選択肢としては、脚本としては、人種的、性的マイノリティだから輝くのであって、言い換えれば政治的に非常にセンシティヴだからこそ「初めて世に出すこと」に意味があるという意味で価値があるということで、、、物語として、それで、本当に救われたのだろうか?、それでよかったのか?と僕は思ってしまう。射程を長く感じると、とてもシニカルな感じがしてしまうのだ。物語は、短く「物語のロジック」でまとめるものだ。けれども、現実は違う。現実は、つながりのない断片を積み重ねながら生きていくものだ。そんな都合よく、物語がつながったりしないものだ。特に、子供から青春時代の密度が濃く、ステージによって人生がことごとく変わってしまう時には、それでもなお「自分自身は何もか?」「自分自身の救済はどこにあるのか?」というのは、とても難しい問いだ。しかし子供時代のトラウマが、長い時を経て克服され解放され、救済されるという物語を描くならば、ドラマチックに描くべきじゃないかと思うのだ。だってそんなことは、まず起きない奇跡だから。それを、静謐なドキュメンタリーとは言わないが、内面の詩的言語のような映像で語ってしまうと、なんだか現実を感じてしまい、じゃあ現実どうなるのか?、これからどうなるのか?と考えてしまう。考えてしまうと、救われようがないという結論になって、、、、うーん、この「終わり方」が良かったのか悪かったのか、いろいろ考えてしまいます。ただ考えさせてくれるというのは、この作品が、時系列の長い射程を描いている作品だからだと思います。こういう描き方の、物語類型の可能性を、いろいろ考えるきっかけになりました。


6才のボクが、大人になるまで。 [Blu-ray]


WHITE ALBUM2(「introductory chapter」+「closing chapter」セット版)

2017-04-28

【2017-4月物語三昧ラジオ】4/30の日曜日、21時からやります。

4月は余裕なくて、ギリギリになってしまった。いつも通り、LDさん、海燕さんの3人でやります。

2017-04-23

『魔法科高校の劣等生』 佐島勤 著 魔法師と非魔法師という「違い」による差別を世界はどう克服するかというSFの命題

魔法科高校の劣等生(21) 動乱の序章編〈上〉 (電撃文庫)


最新刊。ここ何巻もの間、なんとなくドラマが全然進まない感じがする。ただし、長編の作品で、しかも学園ものなので、そういうものかもしれないと惰性で読み続けている。こういうのは難しいのは、メインのドラマトゥルギーは、長編ものだとストップしてしまって、周辺や学園ものだと下級生という名の新キャラクターをフォーカスすることによって、話が散漫になってしまう。大河長編の物語は、「それ」によって、広がりが生まれて、シェアードワールド的な「世界」が立ち上がることでの楽しみがあるので、それが一概に悪いわけではない。ただまぁ、ダレるよね、とは思うけど。今回の巻は、3年生になった達也たちの最初のスタート地点が説明されるわけで、というか、ここ何巻もの話が新しいステージでの説明になっていて、物語というよりは、くどい説明になっている。でもまぁ、繰り返すけれども、難しいのは、そういた背景の説明によるテコ入れや、世界観の広がりを示すことは、長編の醍醐味でもあるので、何とも言い難い。ずっと、最高レベルのテンションが続くのは難しいし、長く物語を描くならば、そういった中だるみによる背景の「深め」というのは仕方がないところだから。なので、いったん本質のドラマはなんなのか?という問いに戻って考えてみる。


この物語のコアは、マクロ的には、


1)魔法師という非魔法師という「違い」による差別を世界はどう克服するかというSFの命題


と、ミクロ的では、


2)魔法師の中で劣等生に位置づけられる、本当は最強(笑)の達也が、どう自分の居場所を見つけていくか?


というドラマトゥルギーが絡まってできている。この作者が言いたいことというのは、達也のようなカテゴリーあてはめられない、世間一般の評価基準で評価できないにものは、評価されないが、だからといって、そいつが負け犬だったり、ダメだったりするわけではない、という命題が強く背景に生きていると思う。


実際に、その視点は決して、上品で優しい視点ではなく、個々の物語では、世間に評価されなくて、理由を他者に求めて努力や正しいステップで自分の居場所を得るための努力を放棄したものと、達也のような最初から世間からの評価は無視してあきらめて自分を強く持ち確立して、自分の大切なものだけにフォーカスしている「強さ」が常に対比されるという、かなり意地の悪い構造になっている。意外に、優しくない。だって「弱さ」をことごとく告発しているのだもの。


でも、では、そうした達也のような、ハードボイルドテイストの「大事なものだけにフォーカス」している、他者の評価を気にしないでいられるのはなぜか、ということが問われる。もちろん、これは物語でありエンターテイメントなので、俺強ェ系なのだから、達也は実際は、まったくの弱者でも落ちこぼれでもない強者です。けれども、彼の強さというのは、出生の秘密、母親らから事実上捨てられ、実験動物されたという母親の欠落。それを、妹を守るということで、代替する家族への異様な執着から成り立っているわけで、そういう意味では、達也はかなり、しんどい人生を生きています。・・・というような、難しい設定作って、妹とのラブラブ状況を作り出す、物語手腕には脱帽します(笑)。


でもまぁ、達也が居場所を獲得していくというのは、どういうことなのか?。もともとの物語は、かなり細かいSFの舞台設定はあるものの、それはしょせん舞台だったと思います。やっぱりこの物語の痛快な部分、面白さのコアは、劣等生だと思われている達也が、実はそうじゃない!という下剋上なところで、既にそれが周知に知れ渡っている状態では、この面白さの部分は展開しないんですよね。


あとは、やっぱり深雪との関係がどうなるか、ってとこですよね。『エロマンガ先生』『俺妹』でもなんでも、実妹との関係は、どうなるの?というのは、関係性のミクロのドラマ自体は、構造はどれも同じなんですよね。


『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』 12巻 伏見つかさ著  あなたは恋人と友達とどっちを選ぶのか?という問いの答えを探して

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130615/p1


俺の妹がこんなに可愛いわけがない (12) (電撃文庫)


もう一つは、達也の世間からの評価という部分とかかわってくるんですが、SFの大きな命題の一つとして、新人類と旧人類の葛藤・戦いというものがあります。古くは『幼年期の終わり』からガンダムSEEDのコーディネーターとの対立とか、、、、、『新世界より』では、超能力を発揮できた人類とそうでない人類の殺し合いがあり、長い歴史の果てに、人類滅びちゃったりしていますよね。ミュータントものでは『地球へ』や『超人ロック』など、さまざまなものがありますが、これは、もちろんマイノリティの意識や視点のドラマにもなるんですが、もっと大きな枠では、新旧人類の、お互いの居場所をどう確保するかの椅子取りゲームの戦いを、どう描くのか、という話になるんですよね。

新世界より 文庫 全3巻完結セット (講談社文庫)

幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)

地球(テラ)へ… (1) (中公文庫―コミック版)


そう考えると、魔法師と非魔法師の互いの居場所を求める戦いは、優越的なマイノリティである新人類が、世界にどう居場所を求めるのか?。旧人類はそれを受け入れることができるのか、という話なんですよね。この劣等生の世界も、大きな戦争があって、魔法師たちはモルモットとして実験対象として様々な地獄と苦難を経て、現在の世界のルールと体制があるんですよね。しかし、いつその均衡が崩れて、世界が狂うかは、わからない。実際に共生して暮らしているが、そもそも「同じ人類じゃない」くらい能力に差があるわけで、それを、才能の差といってしまうには、結構無理があると思います。この辺はホモサピエンスとネアンデルタール人のようなサピエンス以外の人類との争いの歴史を見ると、それがいかにすごいことなのか、、、、絶滅するまで行きつくところまで行く話なのか、と心底寒くなります。

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

でも、それでも同じ人類であるには、確かに違いなくて・・・というところで、その差別の危険性をなくすために、人権などというフィクションにまったく訴えないし、露ほど意識も払わない達也のようなリアリズムは、とても現代的だし、モルモットとしてもてあそばれた実験動物の末裔で、様々な既得権益を獲得するために巨大な戦争を経ている未来の世界だけあると思います。そこで魔法師が、現代社会を成り立たせるエネルギーの重要なパーツになって、その存在を排除できなくさせてしまおう、そのエネルギーを提供する過程で、魔法師の社会における居場所を押さえてしまおという達也の発想は、とてもSF的というか、テクノクラートというか科学者の発想だと思うんです。


僕は、この現代の世界とほとんど違わない倫理や常識の中で生きている近未来設定の、この作品が、どこに着地していくかは、いつもわくわくしてみています。ここまで、新旧人類の相克を、リアルタイムで、コツコツ描く作品ってみなかった気がするんですよね。『新世界より』のように、新人類と旧人類の争いがかなりのところまで行きついて、世界のルールが変わってしまった「後の世界」からスタートする、そして過去に何があったのかを暴いていくというのがこの系統の定番なんですよね。もちろん、劣等生もそうなんですが、この世界はまだ過渡期ともいえる世界で、まだまだカタストロフまではいっていない。しかも現代の地政学的な状況とほぼ同じような外部環境なので、この舞台で、どういう結論を出すのかは、見ものだなーと日々思っています。


魔法科高校の劣等生 (20) 南海騒擾編 (電撃文庫)

2017-04-15

『モアナと伝説の海(Moana)』(2016 USA) 監督ロン・クレメンツ/ジョン・マスカー 私は本当は何者かというテーマは神話的な抽象度の高い問いになりやすく、かなりの傑作だけど、僕にはいまいちだった

Moana [Blu-ray]

評価:★★★★★星5つ

(僕的主観:★★★☆星3つ)

■私は本当は何者か、というテーマは神話的な抽象度の高い問いになりやすい、、、、なかなかの傑作だけど、僕にはいまいちだった

ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオによる56作目の長編映画。監督ロン・クレメンツ/ジョン・マスカーは、『リトル・マーメイド(1989)』『アラジン(1992)』『ヘラクレス(1997)』から『プリンセスと魔法のキス(2009)』などの傑作アニメーションを制作したコンビの最新作。


とはいえ、自分的には、めずらしく客観と主観の評価がかなり差異がある作品。主観では、あまり面白くなかった。だが、客観的に評価すると素晴らしい傑作だし(はっきり言って素晴らしいアニメーションの動き世界)、批評的に見てもエンターテイメント的にみても素晴らしいと思う。米国の興行成績も悪くなかったはず。ということで、なにが自分の主観にヒットしなかったかが、ちょっと興味深い作品。ちなみに、家族全員で見に行ったが、全員の一致したコメントが、怖かった、だった。前回みた『SING/シング(2016)』がはるかに面白かった。


では何か?、と問えば、この作品が「自分は何者なのか?」という定番の哲学的な問いを主軸にする冒険活劇ものだったからだと思う。


ファンタジーのこの系統の作品は、どうしても、動機をめぐる話になってしまい、抽象的になる神話的な寓意の脚本になりやすい。そして、それを補うために、冒険活劇的な、具体的な部分の密度を上げるというバランスをとる。たしかに、この作品はそれが非常にうまくいっている。ハワイやポリネシアの南太平洋を思わせる島々、海の見事な世界観、風景の描写は、アニメーションの醍醐味を味あわせてくれるさすがのディズニークオリティ。絵のデザインのセンスオブワンダーだけで、映画を見に行く価値がある。しかしながら、それでもやはり、


「私は本当は何者か」


という自己をめぐるというの作品は、どうしても難解になってしまう。私が海に選ばれたのはなぜか?という問い自体は、誠実で、非常に重要な葛藤のテーマではあるが、ぶっちゃけて、僕にはそれの答えがよくわからなかった。いや、分析的にみると、見事に答えているし、多文観客にも伝わっているから、売れているのだろうと思う。しかし、僕にはすかっと来なかった。


モアナ・ワイアリキ(Moana Waialiki)は、いって見ればエリートのリーダーたるプリンセスの血筋。というか、プリンセスどころか、村の長というか島の長になる後継者です。王女どころか、時代の王ですよ。しかも兄妹も姉妹もいない一人っ子であり、女性がその座につくことに何ら批判的な文化障壁もありません。であれば、疑問すらない、正統なるモトゥヌイの後継者なわけです。


そんな彼女が、安定している村・島の外に冒険に飛び出していく理由があるとは僕には思えなかったんです。


ティアナよりも少し若いモアナの場合、島の族長の娘として生まれ、いつか島を統べる仕事を父親から受け継ぐことを、生まれながらに運命付けられている。

一族が代々になってきた役割の大切さは重々承知しているものの、島の外に広がる海への憧れには抗しがたい。

その衝動が島に定住した一族が封印してきた、大洋の航海者の血によるものであることを知り、ますます自分は何者かという葛藤を募らせる。

そして、降ってわいた島の危機と、最大の理解者である祖母の後押しによって未知の世界へと旅立つことになるのだ。

モアナが選ばれたのは、彼女が島に引きこもった人々を再び海に導く者だから。

しかしそのためには、行く手を阻む闇を討ち払わねばならず、世界の命運がかかった使命に挑むモアナは、滅びの時代に人類の未来を託されたナウシカであり、一つの指輪をオロドルインの火口まで持って行ったフロド・バギンスだ。

人知の及ばぬ運命によって与えられた使命は、同時に恐るべき呪いとして彼女に重くのしかかる。


ノラネコの呑んで観るシネマ

http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-999.html


もちろん、島の外に出なければならない理由はあります。世界の命の源である女神テ・フィティの心の石が半神マウイに盗まれて、世界が滅びようとしているからです。なので、島の中に引きこもって暮らすことは、もうできない。でも、それは、マクロの神話的な理由による、構造的な理由づけであって、モアナ個人が、外に出たいという動機を持っているようには僕には思えなかった。


実際に、自己を探す探求の旅は、大人になる旅になります。大人になる旅というのはどういうことかというと、自分がいかに物事を考えていなかったかの痛切な事実を突きつけられて、それと向き合うという形になります。だから海を渡る間に、同じ問いを持つパートナーの半神マウイとのやり取りの中で、モアナは、海に選ばれたという特権的な自分の立場に根拠がないことを、再確認を迫られます。


そうだよね、根拠ないよね!と、僕はとても思いました(笑)。


海に選ばれたのは、偶然としか思えない。彼女自身のなかに、そういった内的葛藤は僕はとても弱いと思うんです。もちろん、一族のルーツである大洋を渡る航海者の血を彼女が持ち、島の外に出たいという子供時代からのフラストレーションがあるのは事実です。でも、それは、子供時代のなんちゃっての夢です。何故、夢かといえば、実際に彼女が航海に出たときに、彼女は航海の術を一切持っていない。ようは子供時代から悩み深く「積み上げてきたもの」が全くないんです。外洋に出たいのならば、もう少しなんか準備するだろう、心に葛藤があれば!。ようは、準備も、積み上げもないのだから、それは単なる夢想です。だからそれは、僕にはやむにやまれないものには、見えない。そこに個人的な、近代的な自我の持つような理由を設定する以前に、神話的に「外に出るべきだ」という枠があって、それに沿って出ていったようにしか見えないんです。上手く伝わるでしょうか?。



僕は彼女の彼女たらしめる「自分自身である根拠」に、海から選ばれる特別な存在である根拠に、2つの視点・見方があると思っています。


1)神話・世界の謎が要求する構造的なもの


これは、彼女が彼女であるからではなくて、神話の構造として「誰かがこの役割をする」ということが必要になるものです。誰かが、世界が滅びるのを救うために、女神テ・フィティに心の石を返さなければなりません。これの使命が、モアナに降りたわけですが、これは「使命が下りてきたから、使命がある」というトートロジーになっていて、そこに理由は、特になくていいのが神話です。この根拠を求めない感は、とても神話的です。


2)モアナ個人の内的な「ほんとうに求めるもの」


けれども、そうした外から要求される神話的圧力に「選ばれる」というのは、その人の内面に「そうせざるを得ない理由」がある場合です。こういうのを僕は近代的自我とか言っていますが、要は内面のロジックを構成するその人個人のミクロの本質が、マクロの求めと重なるところが、論理的整合性があり、具体的にあるということなんですが、、、、、それって、モアナってないよね、と思うんです。


もちろん、この「世界を救うのに個人的な理由が必要なのか?問題」といつものように僕はてきとーに呼んでいるのですが、これは、『新世紀エヴァンゲリオン』で碇シンジ君が、悩んでいた問題と同じです。究極的には、意味がない問題というか、時間が解決する問題です。どういうことかというと、世界が滅びるタイムリミットは、個人のミクロの内面の無駄な答えの出ない葛藤を待ってくれません。なので、直ぐタイムリミットが来ます。来たら、答えなんぞわからなくとも、出なくとも、飛び込んで決断して行動するしかないのが普通です。まぁ時には、おめでとう!と、精神的に退避して自殺してしまう人もいるわけですが、それはあまりにありえない結論です。人間は、状況に流される生き物だからです。そのような意思を持って現実を拒否する人は、なかなかいません。


なので、個人の内面に理由を作るための、設定づくりが近代的な文学の在り方になるんですが、僕は、モアナはそれが弱いなーと思ったんです。


神話的には完璧に脚本構造が成り立っているので、これは批判としては成り立たないし、実際、神話的な構造は、具体的な描写のバランスが良ければ十分以上にエンターテイメントとして成り立ちます。なので、これは僕の好き嫌いだと思います。もちろん、この「好き嫌いの理由を考える」ことが批評の醍醐味だと僕は思うんですけれどもね。


で、なにがつまらなかったかというと、そこなんですが、もう少し敷衍すると、繰り返しですが、モアナが、海から選ばれた理由が、いまいちピンとこなかったからです。ようは貴種流離譚なんです。その理由は、彼女が「選ばれた」からというトートロジー。要はプリンセスのような高貴な地だから、世界を救う資格があるという根拠なしの決めつけなんですね。でも貴種流離譚にしては、とてもリベラルナイズとかでもいおうか、プリンセスであること、指導者であること、特別な存在であることが、目に見えて圧倒的に迫ってこなかった。別の言い方をすると、モアナのキャラクター像に、強度がなかった、とでもいおうか。逆の言い方をすると、とても等身大で、主観視点で丁寧に書いているということでもあるんですが・・・・。


もちろんだから、自己を巡る「旅」という形で、内面の成長と変遷に従って、世界を旅していくその変化を見る形に、言い換えればロードムービーになっている。そしてそれは大成功しているので、、、やっぱり、僕の趣味かもしれない。なので、僕的には、いまいちの星3半。ふつう。ただし、冷静に脚本構造を分析して、その圧倒的なアニメーションの美しさを勘案すると、それは、言いがかりのレベルというか趣味のレベルであって、これは、完成度は名作レベルになっていると僕は思います。


しかし、、、個人が個人として理想が持つことから(決して神話や貴種流離譚的なのブレスオブレージュではなく)という美しさの物語の方が、僕が号泣するようなんですよね。この違いももう少しコツコツ考えてみたい。これを考える時は多分、『Zootopia ズートピア』と『アナと雪の女王』を比較してみるといいんだろうと思います。ちなみに、この2つの記事は、僕は自分でも気に入っていて、こういう風に物語を感受できるといいよなーといつも思います。


『Zootopia ズートピア』(2016米国) 監督 Byron Howard Rich Moore 現代アメリカのリベラリズムの到達地点とオバマ政権への反動への警鐘

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160808/p1


『FROZEN(アナと雪の女王)』(2013USA) Jennifer Michelle Lee脚本監督 Chris Buck監督  無垢さが世界と世界から排除されるものを救うのか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140511/p1


ズートピア MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]


■自己を探す探求の貴種流離譚・世界の呪いをめぐる世界の謎への探求


ちなみに、貴種流離譚・世界の謎の探求を解くというのは、非常によくある類型です。『ロードオブザリング』や『風の谷のナウシカ』をノラネコさんが上げていましたが、まさに。


ちなみに、『ゲド戦記』(失敗作)、『もののけ姫』(マクロの壮大なテーマのブッ飛ばし)、『シュナの旅』(抽象度が高い神話寓意の成功例・しかし地味)などが僕には思い浮かぶ類型です。『ゲド戦記』は、そもそも原作が凄まじく抽象的な問いなので、これを具体的なものに置き換える作業がしきれなくて、中途半端になった失敗例の典型。『もののけ姫』は、そもそもの設定した二元論的な対立構造を、まったく異なる第三の出来事によって、問いそのものをぶち壊すという荒業系統。最もバランスの取れた至高の作品は、『シュナの旅』ですね。もともとはチベットの民話です。けど、地味すぎてアニメーションの企画としては成立しなかったようです。本で読むと、素晴らしいですが、、、これを具象の塊であるアニメーションの脚本にするとなると、そりゃ無理かなと思います。ちなみに、昔、ラジオドラマにしたものを聞きましたが、それは信じられないレベルの素晴らしい作品でした。やっぱ神話系は、なかなかいまの物語に脚本化するのが難しいのだろうと思います。モアナが成り立ったのは、アニメーションのディズニ−社のアーカイブと技術という巨大なインフラがあってのことなんだろうと思います。

シュナの旅 (アニメージュ文庫 (B‐001))

ゲド戦記 [DVD]


■プリンセスものの逸脱と超克としてみる視点

さて、この作品の僕が好きになれない点は、神話的な構造が前面に出て、「その人がその人である理由」が納得できなかった点にあると書きました。これを、ノラネコさんが語るように、ディズニーのプリンセスものの類型の展開としてとらえると、このへんの古臭さというか難しさがわかると思います。

「モアナと伝説の海」は非常によく出来た娯楽大作だが、女性主人公の作品に対するディズニーの試行錯誤も感じられる。

現在、初代の白雪姫から「メリダとおそろしの森」のメリダまで、ディズニーオフィシャルのプリンセスは11人で、「アナと雪の女王」の2人もまだこのリストには入っていない。

本作でもマウイが冗談めかしてモアナを「プリンセス」と呼ぶのだが、彼女は「私はプリンセスなんかじゃない」と返すのだ。

映画は時代を反映するもので、プリンスのブランドが暴落した様に、ここまで過去の路線と違ってくると、もはやプリンセス括りは要らないのかも知れない。

マーケティング的には今でも重要なんだろうけど、アニメーションが新作の度に変化し続けるのに対して、「シンデレラ」「美女と野獣」と言った実写リメイクシリーズが、むしろ正統派キープなのは面白い。

21世紀のディズニープリンセスは何処へ行くのだろう。

まあどっちの路線も、それぞれ良さがあるのだけど。


http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-999.html

上で「ほんとうの自分を探す内面の旅」は神話的手で恐ろしく抽象的になるために、具体的な展開をしないと観客がついてこれなくなるので、つとめて冒険アクションものになる傾向が強いと僕はいいました。うちの家族は僕も含めて、怖くて見ていられない(3歳の娘はずっと泣いてました)という感想だったのは、問いが抽象的なので、しかも内面お変化を旅というロードムービー形式にするので、風景が淡々と変わっていく飽きやすい状況になるので、小さなアクションシーンを多々入れて、観客を引き付けるのです。個人的には、失敗とまでは言えないのですが、宮崎駿の初期のアニメーション作品の亜種に思えます。とても難しい『未来少年コナン』を、怖くて見ていられないと泣いてみていた(うちでは教養の一環で見せていましたので(笑))娘が、途中から食い入るように見るのがやめられなくなって、感情移入どっぷりになっていくのは、さすがの天才宮崎駿だ、と唸りました。そしてストーリーや筋が全部頭に叩き込まれる。これが、一けた台の子供ですらそうだ、というのが凄い。けれどもモアナのストーリーは、「ぼくにはすごくおもしろかった」のだけれども、それは、要は大人にとって面白いというか、引き込まれる面白さをしているということで、個々のエピソードがすべて怖いんです。たぶん論理的かつ、自分は何者か?という大人になる儀式のプロセスなので、問いがどれも鋭すぎて遊びがないのです。


何がいいたいかというと、この「ほんとうの自分を探す内面の旅」という物語の類型を描くときに、「なぜその人がそのような深い内面の旅に出なければいけないのか?」という根拠を設定するときに、貴種流離譚・・・・言い換えれば彼女は、プリンセスだからということを強調とすることになっているんですが、にもかかわらず、マウイが冗談めかしてモアナを「プリンセス」と呼ぶのに対して、彼女は「私はプリンセスなんかじゃない」と答えるように、階級、役割を強調していないので、根拠があいまいになってしまうという現象が起きてしまっているんです。これは、プリンセスものを題材として選ぶときの、現代社会における大きな問題点になるはずです。


そういう意味では、実写版で、圧倒的な正統派をキープしながら、アニメではその逸脱を狙ってくるマーケティングセンスは、さすがのディズニーとうならされます。


このポイントは、重要な考えるに値するポイントで、男の子が描けなくなった!といって、男の子の夢の復権を描いた宮崎駿の系譜と、デイズニーのプリンスセスものが持つ、階級社会とノブレスオブレージュの解体、そしてジェンダーとしてのトロフィーワイフでしかない女性の権利・新しい役割の獲得の過程を並列で考えるととても興味深い。日本では、リベラリズムが浸透していく過程は、男の子の夢の解体という形で現れたのに対して、アメリカでは(というかディズニーでは)女の子の過去の役割からの逸脱、自立という形で表れているんですね。これは面白いと思います。ちなみに、この流れは、スターウォーズの最新作にはっきり表れているところも、ディズニーらしい。

この父親殺し、いいかえれば、父親を超えたい、父親のもたらす連鎖をどう断ち切るか?というのは、凄く重要なポイントです。特に米国にあっては、最大のテーマといってもいい。だとすると、カイロ・レンは、ダースベーダーの孫で、レイアの息子です。じゃあ、もう一人のレイは?っていうと、、、、ここは、ルーク・スカイウォーカーの家族の物語、家族のメロドラマこそがスターウォーズの主軸の物語なので、本来ならば、役割的には、ルークの娘としたいところです。しかしながら、それでは、僕は、たぶんこの家族を自覚的に作ることが家族だという家族の解体を逆手にとってリベラリズムの現代の最前線の答えからしておかしい。とすると、なぜ、レイが、フォースを扱えるのか?。いうなればジェダイの血筋なのか?といえば、僕は、フィンのように、何もなかったところから生まれたものだという説をとりたいところです。血がつながっていると、またそれか、要は選ばれた人だけの物語なのか?という問いになってしまうので。であれば、やはり幼少期に、ルークの手ほどきを受けて、フォースの才能を見出されたが記憶を封印されたとか、そういった、ルークにかかわりがあるが、家族の憎しみの連鎖から自由なポジションで、カイロ・レンの父親殺しの憎しみの連鎖と対決するというという構造を僕はおしたいところです。


STAR WARS: THE FORCE AWAKENS』(2015USA) J.J. Abrams監督  現代的かつアメリカ的な映画としてのDisneyの新しいスターウォーズ

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160103/p1


なので、このディズニーの問いの立て方からいうと、レイがの出自がどういうものか?というのが、凄い重要になってきますね。というのは、彼女が、ルークの娘であれば、それは血筋的なプリンセスなわけじゃないですか。そして、物語の神話構造的には「そうあるべき」なんです。でも、ルークって、実はゲイじゃないのか?という説は根強く、かつ俳優もそれを否定していなかったりする。とすると・・・。


ここが世界の物語の最前線。興味深いです。


Star Wars: The Force Awakens [Blu-ray + DVD + Digital HD]

2017-04-08

『銃座のウルナ』 伊図透著  ウルナの愛郷心は、どこへ向かうのであろうか?

銃座のウルナ 1<銃座のウルナ> (ビームコミックス)

評価:未完のため未評価

(僕的主観:★★★★☆4つ半)


なんだろう。大枠を説明すると、女性スナイパーの架空戦記だと思っていたら、かなり手が込んだSFでしたよ!って話。


ウルナ・トロップ・ヨンクという女性狙撃兵が、孤立した島で、蛮族ヅードの侵攻を食い止める砦に配属されるところから物語は始まる。彼女は、志願兵で新兵。本当に普通のどこにでもいる女性。少しずれているといえば、彼女が孤児で田舎の孤児院で、暖かくみんなに愛されて育ったこと。とても愛され幸せだったが故に、愛する故郷を守りたいという愛郷心から兵士に志願したこと。しかし女性だということで、辺境の蛮族の警護という、一見、最前線から遠い重要度の低いといわれる砦に配属される。初日から彼らとの戦闘を経験するが、それは、人間には見えないおぞましい人間大の「歯」だった。



それにしても話が渋いんだ、絵柄も。狙撃兵の架空戦記で、辺境の隔離された島の、雪に閉ざされた砦の話ってだけで、閉塞感あふれるじゃないですか。絵柄も本当に渋いので、こういう渋すぎるテーマと絵柄って、マイナーな穴に落ちて行って、作者の「伝える力」がほとんどなくて、自己陶酔のオナニーになってしまうんだよなぁと思いつつ、読み進めていったら、じわじわと世界が広がって、物語の構造の広がりにつやを感じて、いやはや素晴らしい。まだ新刊は出ていないが、どうもこの島を出ていく話に展開するらしい。まさか、この島を出るなんて設定があるとは思いもよらなかった!(そもそも人気なくて打ち切られるぞ、すぐという感じだったのに)。いやはや、これは、いい作品です。濃厚なマイナーSFの閉塞感という渋さをギラギラもちつつ、物語に広がりが生まれてきています。


それにしても渋みのある設定がいい。女性だけのを描いた白井弓子さんの『WOMBS』などもあるのですが、女性しかいない世界で、しかも兵士しかいないという極限状況でのリアリティがとてもいいんですよ。リベラルが一周して成熟していく過程で、アメリカや余裕のないイスラエルのような国は、女性兵士が一般化しつつある現代。女性の兵士の中にも、様々なタイプがいるのは当然であって、主人公は、とても普通の女性。男勝りに気張りもしないし、レズビアンでもなければ、かといって宗教的熱狂やナショナリズムから狂って志願しているわけでもなく、本当に普通の女性。特になんということもない。それが、逆に、なんというか空恐ろしいという感じがする。女性が中心で兵士をやっていることに、特別感もなければ気負いもない。初回の戦闘で、最初の自分を運んでくれた兵士が、身体をバラバラに引きちぎられる。自分を口説いていた男性のちぎれた頭の肉片を、戦闘後、黙々と片付ける。上官は規律があるが、兵たちは、ざっくばらん。兵士全員が、女性であることを除けば、本当にどこにでもある戦争の現場。まるで、初めて見た時の『西部戦線異状なし』の映画を見ている容易な典型的な。それがとても独特の雰囲気を醸し出している。あたりまえの戦争の物語のワンパターンなのだが、、、これが登場人物が全員女性というわけでもなければ。この枯れ木の様にカサカサした荒涼とした殺伐とした雰囲気を、この設定で描ける、描こうとする作者はなかなかのものだと思います。北の極寒の大地の荒涼がその背景にとてもあっている。

西部戦線異状なし デジタル・ニューマスター 完全版 [DVD]

白井弓子さんの『WOMBS』などは、やはりSFの設定が濃くて、テレポーテーションができる女性を人間爆弾に使うというもので、そのためには、空間移動できるその星の野生動物の子供をおなかに移植して妊娠していると誤認させて、母体がコントロールするというものでした。そのSF設定では、女性の生や母性というテーマがビルトインされており、それはある意味、男性には理解にンシク不可能なセンスオブワンダーというものになるわけですが、『銃座のウルナ』は、そういう特殊な設定はなにもありません。そこがいい。なんというか、SFが好きな人からすると、逆にそういう女性性を使う設定はむしろ定番で。そこをどう料理するかは味付けの妙なんですが、僕は、このウルナは、まったくそういう女性の在り方に特殊性というか、申請しというか、そういうものを置かないで、兵士の日常を表現しているところに、逆にセンスオブワンダーを感じました。女性という性を特別に描くのではなく、普通に人間としてここを描けば、当然に普通の、、、この場合は兵士の日常がそのまま再現されるだけなんです。マッチョマンなやつも優等生なやつも、不真面目なやつもゴロツキも、なんでもいるのが、その多様性が人間で、人間をそういう風に描けば、「普通」にしかならないんです。そこに男性がいなくて、通常は男性のみが行ってきた兵士の世界であっても、それはやはり変わらないんです。というのが、まざまざを見さえつけられて、なかなかのセンスオブワンダーです。

WOMBS(1) (IKKI COMIX)

うーむ、こう書いてきて、この作品の主人公のウルナの動機、、、これって『西部戦線異状なし』の時の兵士のようなものだな、と思えてきた。SFではあるが、それ以上に、この女性が、彼女の愛郷心が、どこへ着地するのかを見てみたいと思わせる。だから、やっぱり、この作品は3巻以降何処へどう展開するのかが、肝になるような気がする。この島を出て、この実験を、この子とした政府と国家に彼女は何を思うのだろうか。


ちなみに、狙撃兵というのがこの作品テーマではないですが、狙撃兵の話というと、『GROUNDLESS』がおもしろいです。


GROUNDLESS : 1−隻眼の狙撃兵− (アクションコミックス)


ちなみに、有名な狙撃手を扱った物語では、クリス・カイル 1974-2013(アメリカ)を描いた『アメリカン・スナイパー』やヴァシリ・ザイツェフ 1915-1991(ソ連)を描いた『スターリングラード』などがありますね。これらも参考に見ると、この類型の物語の広がりがいろいろ見えてくると思います。


スターリングラード [Blu-ray]


アメリカン・スナイパー [Blu-ray]

2017-04-03

『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命(英題:Jackie)』(2016 USA)Pablo Larraín監督 キャメロットという夢の日々〜理想主義は結局、何ももたらさない不安がある

Jackie [Blu-ray]

評価:★★★★4つ

(僕的主観:★★★★4つ)


■物語としては面白くないが、映画の完成度は高い


一言でいうと、物語として面白くない。しかし、映画としての完成度は高い。

第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ、いわゆるJFKの業績を知らないと、さっぱりわからないようにできている。ファーストレディを務めていた時期と1963年のテキサス州ダラスで夫のジョン・F・ケネディが暗殺された以降のジャクリーン・ケネディを描いている。この映画は、JFKが暗殺された直後のジャクリーン・ケネディ・オナシス(ケネディ夫人)の、夫の死を間近で見て、華やかさの頂点にあるファーストレディーからいきなりその地位を追われ、心が半分壊れながらも、その最後の瞬間に彼女が、夫の業績をいか偉大に残すかにこだわり腐心したかを、記者のインタヴュー形式で振り返るという心理ドラマになっている。とても格調高く、背景の説明をバッサリ切った、思い切りのいい作品であり、いい映画だとは思う。フォーカスした部分の演出は、際立って成功しているからだ。ただ、JFKの神話という大きな幹をばっさり説明をせず、当然わかっているという前提のもとに、彼女の妻のジャクリーンにフォーカスしているため、「そこ」に知識がないと、なぜ彼女が半分壊れながらも、夫を偉大にするための儀式にこだわったか、なぜキャメロットというアーサー王の宮殿にホワイトハウスの日々を呼ぶのか、そしてなによりも、彼女がそうせざるを得なかった動機が、大きな視点でわからなくなってしまう。なので、格調高い映画ではあるが、物語としては、あまり人気が出ないマイナーな作品になるのではないかなと思う。「これ以前」が描かれなくて、前提にしてしまっているので、それではこの作品単体で、なにを言っているのかがわからない。ただし、この難解というか、半分壊れた女性の緊迫した演技を演じきった、ナタリーポートマンは、素晴らしかったと思う。


■キャメロットという夢の日々〜理想主義は結局実際の実績を何ももたらさない不安がある

この物語を見ている最中に、ずっと、小野不由美さんの十二国記シリーズの『華胥の幽夢』の華胥華朶の短編を思い出していました。この作品は、僕の山ほどの小説を読んだ中でも強烈に忘れられない印象を残していまだ夢にまで見る作品で、理想主義というもの、若者の目指す夢というものが、どれだけ現実を直視できず、社会にとって罪悪であるかを、これでもかとせつなく描き上げたものです。しかし、彼らは年をとっても、そのキラキラとした夢を懐かしみます。今の全共闘世代のように、昔は良かったと懐かしむんです。この過去を憧憬で仰ぎ見たり、理想主義の出発点や動機の華々しい部分だけを見て、その後の実績と現実に裏切る場面を切り離してみることは、どれだけ醜く、悲しく、哀れなことかを、人間の、特に理想主義に燃えた人々の悪意癖です。しかし、その理想主義の動機を否定していいわけでもない。なのでせつないんです。この話は。

華胥の幽夢 十二国記 (講談社文庫)

なぜこれを思い出したかというと、弟のロバート・ケネディが作中で叫ぶように、自分たちは何もなさなかった、公民権運動も、宇宙計画も、すべてはジョンソン大統領に手柄になるといっているように、JFKの神話は、結局のところ、実際に何を成したか?という歴史視点で考えると、ほぼ何もしていないに等しく、唯一のキューバ危機の回避も、自分がキューバにきつく出すぎたせいのリアクションでマッチポンプなのではないかという批判が絶えない。このことを考えると、理想主義的でいまだアメリカにとても人気のあるケネディの最も大きな特徴は何かと問えば、実は、理想主義が現実に裏切られる前に暗殺されたので、現実に理想が負ける瞬間を見なかっただけだ、と歴史的な評価では言われているものもある。僕も、詳しくないので、この映画をきっかけにケネディの時代をもう一度追ってみたいな、と思うのですが、たしかに、この後のLyndon Baines Johnson(ジョンソン大統領)の方が、公民権運動、もともとニューディーラーであったことから国内失業率の減少と、国内には高い業績をもたらしています。すべてはケネディの課題だといわれればそうですが、それを成し遂げるに十分な素質と実行力があったのも確かで、ケネディにそれがあったかどうかは、わからないからです。それが試される前に、すべてが終わってしまった。あとはできることは、伝説を、伝説として印象づける印象操作しかありません。そして、歴史がつくられるとき、そういった印象操作、それを詐欺でもウソでも捏造でもいいですが、そういったところで、それを大衆が望み、多くの人に拡散していく中で選び取られていくことが、その出発点を盛る行為が本当にダメだと言い切れるのか、は難しいところだろうと思います。アメリカの人々にたくさんのものを与えてくれたキャメロットに、非常に批判的な姿勢の記者は、価値があったものだと肯定態度をとっています。


そういうせつなさを全編に感じる映画でした。ずっとジャッキーに寄り添っている弟のロバートケネディも、この後、暗殺されます。ここで父の意味の死がわからない、幼い息子は、飛行機事故で亡くなります。ケネディ一族の神話は、この後、悲しさに包まれていくことになります。


アーリントン墓地のケネディの墓にいったのですが、なぜ奥さんが、子供が一緒に埋葬されているかわからなかったし、なぜあそこなのか?がわからなかったのですが、映画を見て、なるほどと唸りました。あのシーンなども、ワシントンDCのアーリントン墓地に行きなれていないと、わからないかもしれませんね。

この映画を見ていて、なんどもジャッキーが、キャロラインに呼びかけるシーンがあります。日本人としては、つい最近まで、キャロライン・ケネディは、駐日大使で様々な場面で顔が認識できる人でした。ノラネコさんのおっしゃる通り、地続き感が凄く印象的でした。それと、アメリカでは、ファーストレディの位置づけは、選挙で選ばれたわけでもないのに公的な注目度は高くなってしまうため、、長く論争があり、それぞれの大統領夫人の様々な業績で、今日の姿がありうます。特に、エレノア・ルーズベルトや、ナンシー・レーガン、ヒラリー・クリントン、そしてミッシェル・オバマと様々なタイプの夫人がこのポジションにあり、人生を戦ってきた流れが、アメリカにはあります。特に、ヒラリー・クリントンは、もう一人の大統領といってもいい手腕で、かつ実際にその後NYの上院議員になり、国務長官として辣腕をふるい、ついには敗れはしたものの大本命の大統領候補として、2016年の選挙をトランプさん45代大統領と闘っています。それから考えると、首相夫人が、このように注目されたのは、初めてで、安倍さんの奥様の昭恵夫人の行動は、いい悪いの評価は別に、米国型のファーストレディが一つの形として注目されつつある時代の反映なんだろうと思う。僕は私人公人論争はよく知らないのだが、その国の最高権力者の奥さんが、トロフィー・ワイフ的な形、専業主婦的な家庭を守っているだけという形を超えて、そのポジションで何を為すかが、問われるのは一つの時代の流れだろうと思う。そういう意味で、歴代ファーストレディの在り方はとても興味深いと思った。まだ日本では、見ぬ形ですから。これから現れるものになるでしょう。


ちなみに、ケネディ大統領関係の映画で有名なのはオリバーストーン監督の『JFK』やロジャー・ドナルドソン監督の『13DAYS』、ピーター・ランデズマン監督『パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間』ですかね。

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それと、このドラマかな!なんといっても。


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2017-04-01

『お嬢さん(英題:The Handmaiden)』 (2016 South Korean film) Park Chan-wook監督 confidence gameの果てに

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評価:★★★★★星5つ

(僕的主観:★★★★☆4つ半)

145分の長尺をまったく飽きさせない怪作。


日比谷シャンテのTOHOシネマズで見たのだが、見に行ってよかった。何故行ったのかというと、舞台が1930年代の日本統治下の朝鮮であり、奥深い森の奥に建てられた館で繰り広げられるコンゲームというオリジナル感というか、ありえない感というか、意味不明感だけで、これは見に行っておかなくちゃ、という視聴意欲がわいたから。その後、ノラネコさんが高評価で紹介していたり、なんといっても名監督であるパクチャヌク監督、僕にとっては復讐三部作よりも『JSA』がほとんど初めて韓国映画を見た作品で、そちらの記憶が色濃いのですが、彼だとわかって、これはいかねばと。


原作は、傑作ミステリーの英国の作家サラ・ウォーターがビクトリア時代の英国を舞台に描いた「荊の城」。ちなみに、成人指定の官能映画でかなりの濃厚なベットシーンがあって、先の見えないコンゲームの官能サスペンスに仕上がっている。


荊[いばら]の城 上 (創元推理文庫)


韓国人監督の下で、韓国人の俳優たちによる韓国映画なのですが、主要部分が日本語という、それだけで、大丈夫か?といぶかしんでいた。また、日本統治下の韓国のリアルというのも、映像的にいまいちイメージがないので、なんだか変な張りぼて感の作品であったら、悲しいなと思って心構えていた。まぁ、その「おかしさ」を体験するのも一興的な気分ではあったのですが。とはいえ、どうしてどうして脚本的に、日本に占領されて植民地であるにもかかわらず日本崇拝主義者で、日本人と結婚して上月という名前を手に入れた大金持ちや、日本人を演じる朝鮮人詐欺師など、全編メタ的な文脈(=何が本当なのかニセモノなのかが複雑に入り組んでいる)が濃厚な中で、ハングル語アクセントの日本語で話される会話は、日本人の観客にとっては、とても不思議な感じがしました。これが、おかしいとか、違和感だけではおさまらない「おかしみ」がある。こうしたクレオール的なものは、既に一つの文化だ、ということを世界を回った経験から感じるからかもしれない。なんとなく、なんじゃそれ?というような中国語を全編しゃべる日本人俳優で描いた岩井俊二監督の『スワロウテイル』を連想しました。

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が、さすがパクチャヌク監督。物語世界に没入するうちに感じる、圧倒的な大正時代や昭和初期の日本の江戸川乱歩のような雰囲気に感心した。様々な、メタ的構造、バランスの悪さ、そういったものが溶け込んで145分を飽きさせないし、しらけさせない。この鹿鳴館のような洋風になり切ろうとしてなり切れないうちに、微妙な中途半端さで馴染んで落ち着いてしまった感じは、まさに1945年以前の東アジアの濃厚な雰囲気。そして、あのおどろおどろしさは、市川崑監督の横溝正史シリーズなどを思わせるミステリー感。それでいて、日本のローカルなミステリー作品にはない、広がりというか雄大さを感じさせるのは、やはり韓国映画作品かもしれない。さすがの才能パクチャヌク監督です。うーんこの「雄大さ」というのは、言葉で表現するのが難しい。日本の金田一シリーズとかのミステリーは、古いしきたりに支配されている村落共同体に閉じ込められるというような構造をとりやすいのですが、同じ森深くの孤立した貴族の館という狭い世界に閉じ込められる作品であるにもかかわらず、何か、よりもっと広く遠い世界につながっている感じがする。大陸的とでもいおうか。うーん、うまく言うのが難しい。日本映画ではない匂いがします。


とにもかくにも、映像を見れば、この張りぼてのような和洋折衷の中途半端さがきちっと実在感をもって上品にキープされている(官能エログロの作品なのに)ことに驚きを感じます。



また、こうした江戸川乱歩のミステリーのような「雰囲気」の部分に重ねて、骨太の脚本であるコンゲームになっているところが、素晴らしかった。con gameはconfidence gameの略で、信用詐欺の意味。これが転じて、二転三転するストーリーのミステリー小説や映画のジャンルのことなのですが、なかなか日本の作品でこうしたコンゲームのいいものはお目にかからないのですがアメリカ映画にはたくさんありますね。たとえば、『スティング』『オーシャンズ11』『ソードフィッシュ』などがパッと思い浮かびます。

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日本の作品で思い出すのは、井上尚登さんの小説『T.R.Y』ですね。確か織田裕二さんで映画化していたはず。僕は、とても好きな映画だった。アメリカの映画などは、背景の歴史やガジェットがそこまで詳しくないので、純粋に詐欺のトリック自体を、言い換えれば脚本を楽しむ部分が強く、逆に、大森一樹監督の『T.R.Y』なんかは、やはり戦前の20世紀初頭の上海が舞台という場所を得ないと、大きな詐欺に現実感を持たせるのは難しいのかもしれえない。現代日本で、こういう大がかりな詐欺があったら、すぐばれるか話題になってしまって、なんだか違う話になってしまいそうな気がする。

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クライマックスの暴力と官能のシーンは、哀れにコンゲーム負けてしまった男たちの末路が描かれるが、詐欺師藤原伯爵の、すかしたというか、すっとぼけた諦観した態度が、いかにもらしくて、良かった。あれだけの暴力と絶体絶命の中にありながら、あのとぼけた感じは、見事と感心した。この作品は、男に搾取されて虐げられていた女性が、男性たちを騙し返して状況をひっくり返す物語なのですが、最もキーとなる詐欺師である藤原伯爵の態度が清々しかった。騙されて裏切られたこと、自分の欲望と人生を否定されて踏みつぶされたにもかかわらず、自分を見失わす淡々と達観して受け入れて、あれだけの暴力にさらされながら、その受け入れた感覚にブレがない。なかなかどうして、詐欺師なとはいえ、覚悟がある態度に、なんだか不思議な重みを感じました。


人口5千万人の韓国で400万人を動員したという成人映画(韓国人、映画が好きすぎ!)なのですが、日本人が見ると最も面白く味わえる映画だと思います。というのは、全編日本語の、かなり極端な卑猥な言葉の連続で、この言葉の持つ「おかしみ」のニュアンスを分かるのは、そりゃ日本語が分かる人だよなと思います。また日本のヘンタイ文化の韓国的解釈とノラネコさんが書いていたが、まさに、外部から見た日本のヘンタイ文化を、しかも一つの様式にまとめているおもしろさは、やはり直にそのオリジナルを知る日本人の方が、面白さが膨れ上がると思うのです。そうでないと、ある種のオリエンタリズムというかエキゾチズムになってしまうと思うので。それにしても、なかなか見れない、非常に興味深い映画だと思います。


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