『モアナと伝説の海(Moana)』(2016 USA) 監督ロン・クレメンツ/ジョン・マスカー 私は本当は何者かというテーマは神話的な抽象度の高い問いになりやすく、かなりの傑作だけど、僕にはいまいちだった

Moana [Blu-ray]

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★☆星3つ)

■私は本当は何者か、というテーマは神話的な抽象度の高い問いになりやすい、、、、なかなかの傑作だけど、僕にはいまいちだった

ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオによる56作目の長編映画。監督ロン・クレメンツ/ジョン・マスカーは、『リトル・マーメイド(1989)』『アラジン(1992)』『ヘラクレス(1997)』から『プリンセスと魔法のキス(2009)』などの傑作アニメーションを制作したコンビの最新作。


とはいえ、自分的には、めずらしく客観と主観の評価がかなり差異がある作品。主観では、あまり面白くなかった。だが、客観的に評価すると素晴らしい傑作だし(はっきり言って素晴らしいアニメーションの動き世界)、批評的に見てもエンターテイメント的にみても素晴らしいと思う。米国の興行成績も悪くなかったはず。ということで、なにが自分の主観にヒットしなかったかが、ちょっと興味深い作品。ちなみに、家族全員で見に行ったが、全員の一致したコメントが、怖かった、だった。前回みた『SING/シング(2016)』がはるかに面白かった。


では何か?、と問えば、この作品が「自分は何者なのか?」という定番の哲学的な問いを主軸にする冒険活劇ものだったからだと思う。


ファンタジーのこの系統の作品は、どうしても、動機をめぐる話になってしまい、抽象的になる神話的な寓意の脚本になりやすい。そして、それを補うために、冒険活劇的な、具体的な部分の密度を上げるというバランスをとる。たしかに、この作品はそれが非常にうまくいっている。ハワイやポリネシアの南太平洋を思わせる島々、海の見事な世界観、風景の描写は、アニメーションの醍醐味を味あわせてくれるさすがのディズニークオリティ。絵のデザインのセンスオブワンダーだけで、映画を見に行く価値がある。しかしながら、それでもやはり、


「私は本当は何者か」


という自己をめぐるというの作品は、どうしても難解になってしまう。私が海に選ばれたのはなぜか?という問い自体は、誠実で、非常に重要な葛藤のテーマではあるが、ぶっちゃけて、僕にはそれの答えがよくわからなかった。いや、分析的にみると、見事に答えているし、多文観客にも伝わっているから、売れているのだろうと思う。しかし、僕にはすかっと来なかった。


モアナ・ワイアリキ(Moana Waialiki)は、いって見ればエリートのリーダーたるプリンセスの血筋。というか、プリンセスどころか、村の長というか島の長になる後継者です。王女どころか、時代の王ですよ。しかも兄妹も姉妹もいない一人っ子であり、女性がその座につくことに何ら批判的な文化障壁もありません。であれば、疑問すらない、正統なるモトゥヌイの後継者なわけです。


そんな彼女が、安定している村・島の外に冒険に飛び出していく理由があるとは僕には思えなかったんです。

ティアナよりも少し若いモアナの場合、島の族長の娘として生まれ、いつか島を統べる仕事を父親から受け継ぐことを、生まれながらに運命付けられている。
一族が代々になってきた役割の大切さは重々承知しているものの、島の外に広がる海への憧れには抗しがたい。
その衝動が島に定住した一族が封印してきた、大洋の航海者の血によるものであることを知り、ますます自分は何者かという葛藤を募らせる。
そして、降ってわいた島の危機と、最大の理解者である祖母の後押しによって未知の世界へと旅立つことになるのだ。
モアナが選ばれたのは、彼女が島に引きこもった人々を再び海に導く者だから。
しかしそのためには、行く手を阻む闇を討ち払わねばならず、世界の命運がかかった使命に挑むモアナは、滅びの時代に人類の未来を託されたナウシカであり、一つの指輪をオロドルインの火口まで持って行ったフロド・バギンスだ。
人知の及ばぬ運命によって与えられた使命は、同時に恐るべき呪いとして彼女に重くのしかかる。


ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-999.html


もちろん、島の外に出なければならない理由はあります。世界の命の源である女神テ・フィティの心の石が半神マウイに盗まれて、世界が滅びようとしているからです。なので、島の中に引きこもって暮らすことは、もうできない。でも、それは、マクロの神話的な理由による、構造的な理由づけであって、モアナ個人が、外に出たいという動機を持っているようには僕には思えなかった。


実際に、自己を探す探求の旅は、大人になる旅になります。大人になる旅というのはどういうことかというと、自分がいかに物事を考えていなかったかの痛切な事実を突きつけられて、それと向き合うという形になります。だから海を渡る間に、同じ問いを持つパートナーの半神マウイとのやり取りの中で、モアナは、海に選ばれたという特権的な自分の立場に根拠がないことを、再確認を迫られます。


そうだよね、根拠ないよね!と、僕はとても思いました(笑)。


海に選ばれたのは、偶然としか思えない。彼女自身のなかに、そういった内的葛藤は僕はとても弱いと思うんです。もちろん、一族のルーツである大洋を渡る航海者の血を彼女が持ち、島の外に出たいという子供時代からのフラストレーションがあるのは事実です。でも、それは、子供時代のなんちゃっての夢です。何故、夢かといえば、実際に彼女が航海に出たときに、彼女は航海の術を一切持っていない。ようは子供時代から悩み深く「積み上げてきたもの」が全くないんです。外洋に出たいのならば、もう少しなんか準備するだろう、心に葛藤があれば!。ようは、準備も、積み上げもないのだから、それは単なる夢想です。だからそれは、僕にはやむにやまれないものには、見えない。そこに個人的な、近代的な自我の持つような理由を設定する以前に、神話的に「外に出るべきだ」という枠があって、それに沿って出ていったようにしか見えないんです。上手く伝わるでしょうか?。



僕は彼女の彼女たらしめる「自分自身である根拠」に、海から選ばれる特別な存在である根拠に、2つの視点・見方があると思っています。


1)神話・世界の謎が要求する構造的なもの


これは、彼女が彼女であるからではなくて、神話の構造として「誰かがこの役割をする」ということが必要になるものです。誰かが、世界が滅びるのを救うために、女神テ・フィティに心の石を返さなければなりません。これの使命が、モアナに降りたわけですが、これは「使命が下りてきたから、使命がある」というトートロジーになっていて、そこに理由は、特になくていいのが神話です。この根拠を求めない感は、とても神話的です。


2)モアナ個人の内的な「ほんとうに求めるもの」


けれども、そうした外から要求される神話的圧力に「選ばれる」というのは、その人の内面に「そうせざるを得ない理由」がある場合です。こういうのを僕は近代的自我とか言っていますが、要は内面のロジックを構成するその人個人のミクロの本質が、マクロの求めと重なるところが、論理的整合性があり、具体的にあるということなんですが、、、、、それって、モアナってないよね、と思うんです。


もちろん、この「世界を救うのに個人的な理由が必要なのか?問題」といつものように僕はてきとーに呼んでいるのですが、これは、『新世紀エヴァンゲリオン』で碇シンジ君が、悩んでいた問題と同じです。究極的には、意味がない問題というか、時間が解決する問題です。どういうことかというと、世界が滅びるタイムリミットは、個人のミクロの内面の無駄な答えの出ない葛藤を待ってくれません。なので、直ぐタイムリミットが来ます。来たら、答えなんぞわからなくとも、出なくとも、飛び込んで決断して行動するしかないのが普通です。まぁ時には、おめでとう!と、精神的に退避して自殺してしまう人もいるわけですが、それはあまりにありえない結論です。人間は、状況に流される生き物だからです。そのような意思を持って現実を拒否する人は、なかなかいません。


なので、個人の内面に理由を作るための、設定づくりが近代的な文学の在り方になるんですが、僕は、モアナはそれが弱いなーと思ったんです。


神話的には完璧に脚本構造が成り立っているので、これは批判としては成り立たないし、実際、神話的な構造は、具体的な描写のバランスが良ければ十分以上にエンターテイメントとして成り立ちます。なので、これは僕の好き嫌いだと思います。もちろん、この「好き嫌いの理由を考える」ことが批評の醍醐味だと僕は思うんですけれどもね。


で、なにがつまらなかったかというと、そこなんですが、もう少し敷衍すると、繰り返しですが、モアナが、海から選ばれた理由が、いまいちピンとこなかったからです。ようは貴種流離譚なんです。その理由は、彼女が「選ばれた」からというトートロジー。要はプリンセスのような高貴な地だから、世界を救う資格があるという根拠なしの決めつけなんですね。でも貴種流離譚にしては、とてもリベラルナイズとかでもいおうか、プリンセスであること、指導者であること、特別な存在であることが、目に見えて圧倒的に迫ってこなかった。別の言い方をすると、モアナのキャラクター像に、強度がなかった、とでもいおうか。逆の言い方をすると、とても等身大で、主観視点で丁寧に書いているということでもあるんですが・・・・。


もちろんだから、自己を巡る「旅」という形で、内面の成長と変遷に従って、世界を旅していくその変化を見る形に、言い換えればロードムービーになっている。そしてそれは大成功しているので、、、やっぱり、僕の趣味かもしれない。なので、僕的には、いまいちの星3半。ふつう。ただし、冷静に脚本構造を分析して、その圧倒的なアニメーションの美しさを勘案すると、それは、言いがかりのレベルというか趣味のレベルであって、これは、完成度は名作レベルになっていると僕は思います。


しかし、、、個人が個人として理想が持つことから(決して神話や貴種流離譚的なのブレスオブレージュではなく)という美しさの物語の方が、僕が号泣するようなんですよね。この違いももう少しコツコツ考えてみたい。これを考える時は多分、『Zootopia ズートピア』と『アナと雪の女王』を比較してみるといいんだろうと思います。ちなみに、この2つの記事は、僕は自分でも気に入っていて、こういう風に物語を感受できるといいよなーといつも思います。


『Zootopia ズートピア』(2016米国) 監督 Byron Howard Rich Moore 現代アメリカのリベラリズムの到達地点とオバマ政権への反動への警鐘
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160808/p1


『FROZEN(アナと雪の女王)』(2013USA) Jennifer Michelle Lee脚本監督 Chris Buck監督  無垢さが世界と世界から排除されるものを救うのか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140511/p1


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■自己を探す探求の貴種流離譚・世界の呪いをめぐる世界の謎への探求


ちなみに、貴種流離譚・世界の謎の探求を解くというのは、非常によくある類型です。『ロードオブザリング』や『風の谷のナウシカ』をノラネコさんが上げていましたが、まさに。


ちなみに、『ゲド戦記』(失敗作)、『もののけ姫』(マクロの壮大なテーマのブッ飛ばし)、『シュナの旅』(抽象度が高い神話寓意の成功例・しかし地味)などが僕には思い浮かぶ類型です。『ゲド戦記』は、そもそも原作が凄まじく抽象的な問いなので、これを具体的なものに置き換える作業がしきれなくて、中途半端になった失敗例の典型。『もののけ姫』は、そもそもの設定した二元論的な対立構造を、まったく異なる第三の出来事によって、問いそのものをぶち壊すという荒業系統。最もバランスの取れた至高の作品は、『シュナの旅』ですね。もともとはチベットの民話です。けど、地味すぎてアニメーションの企画としては成立しなかったようです。本で読むと、素晴らしいですが、、、これを具象の塊であるアニメーションの脚本にするとなると、そりゃ無理かなと思います。ちなみに、昔、ラジオドラマにしたものを聞きましたが、それは信じられないレベルの素晴らしい作品でした。やっぱ神話系は、なかなかいまの物語に脚本化するのが難しいのだろうと思います。モアナが成り立ったのは、アニメーションのディズニ−社のアーカイブと技術という巨大なインフラがあってのことなんだろうと思います。

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■プリンセスものの逸脱と超克としてみる視点

さて、この作品の僕が好きになれない点は、神話的な構造が前面に出て、「その人がその人である理由」が納得できなかった点にあると書きました。これを、ノラネコさんが語るように、ディズニーのプリンセスものの類型の展開としてとらえると、このへんの古臭さというか難しさがわかると思います。

「モアナと伝説の海」は非常によく出来た娯楽大作だが、女性主人公の作品に対するディズニーの試行錯誤も感じられる。
現在、初代の白雪姫から「メリダとおそろしの森」のメリダまで、ディズニーオフィシャルのプリンセスは11人で、「アナと雪の女王」の2人もまだこのリストには入っていない。
本作でもマウイが冗談めかしてモアナを「プリンセス」と呼ぶのだが、彼女は「私はプリンセスなんかじゃない」と返すのだ。
映画は時代を反映するもので、プリンスのブランドが暴落した様に、ここまで過去の路線と違ってくると、もはやプリンセス括りは要らないのかも知れない。
マーケティング的には今でも重要なんだろうけど、アニメーションが新作の度に変化し続けるのに対して、「シンデレラ」「美女と野獣」と言った実写リメイクシリーズが、むしろ正統派キープなのは面白い。
21世紀のディズニープリンセスは何処へ行くのだろう。
まあどっちの路線も、それぞれ良さがあるのだけど。


http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-999.html

上で「ほんとうの自分を探す内面の旅」は神話的手で恐ろしく抽象的になるために、具体的な展開をしないと観客がついてこれなくなるので、つとめて冒険アクションものになる傾向が強いと僕はいいました。うちの家族は僕も含めて、怖くて見ていられない(3歳の娘はずっと泣いてました)という感想だったのは、問いが抽象的なので、しかも内面お変化を旅というロードムービー形式にするので、風景が淡々と変わっていく飽きやすい状況になるので、小さなアクションシーンを多々入れて、観客を引き付けるのです。個人的には、失敗とまでは言えないのですが、宮崎駿の初期のアニメーション作品の亜種に思えます。とても難しい『未来少年コナン』を、怖くて見ていられないと泣いてみていた(うちでは教養の一環で見せていましたので(笑))娘が、途中から食い入るように見るのがやめられなくなって、感情移入どっぷりになっていくのは、さすがの天才宮崎駿だ、と唸りました。そしてストーリーや筋が全部頭に叩き込まれる。これが、一けた台の子供ですらそうだ、というのが凄い。けれどもモアナのストーリーは、「ぼくにはすごくおもしろかった」のだけれども、それは、要は大人にとって面白いというか、引き込まれる面白さをしているということで、個々のエピソードがすべて怖いんです。たぶん論理的かつ、自分は何者か?という大人になる儀式のプロセスなので、問いがどれも鋭すぎて遊びがないのです。


何がいいたいかというと、この「ほんとうの自分を探す内面の旅」という物語の類型を描くときに、「なぜその人がそのような深い内面の旅に出なければいけないのか?」という根拠を設定するときに、貴種流離譚・・・・言い換えれば彼女は、プリンセスだからということを強調とすることになっているんですが、にもかかわらず、マウイが冗談めかしてモアナを「プリンセス」と呼ぶのに対して、彼女は「私はプリンセスなんかじゃない」と答えるように、階級、役割を強調していないので、根拠があいまいになってしまうという現象が起きてしまっているんです。これは、プリンセスものを題材として選ぶときの、現代社会における大きな問題点になるはずです。


そういう意味では、実写版で、圧倒的な正統派をキープしながら、アニメではその逸脱を狙ってくるマーケティングセンスは、さすがのディズニーとうならされます。


このポイントは、重要な考えるに値するポイントで、男の子が描けなくなった!といって、男の子の夢の復権を描いた宮崎駿の系譜と、デイズニーのプリンスセスものが持つ、階級社会とノブレスオブレージュの解体、そしてジェンダーとしてのトロフィーワイフでしかない女性の権利・新しい役割の獲得の過程を並列で考えるととても興味深い。日本では、リベラリズムが浸透していく過程は、男の子の夢の解体という形で現れたのに対して、アメリカでは(というかディズニーでは)女の子の過去の役割からの逸脱、自立という形で表れているんですね。これは面白いと思います。ちなみに、この流れは、スターウォーズの最新作にはっきり表れているところも、ディズニーらしい。

この父親殺し、いいかえれば、父親を超えたい、父親のもたらす連鎖をどう断ち切るか?というのは、凄く重要なポイントです。特に米国にあっては、最大のテーマといってもいい。だとすると、カイロ・レンは、ダースベーダーの孫で、レイアの息子です。じゃあ、もう一人のレイは?っていうと、、、、ここは、ルーク・スカイウォーカーの家族の物語、家族のメロドラマこそがスターウォーズの主軸の物語なので、本来ならば、役割的には、ルークの娘としたいところです。しかしながら、それでは、僕は、たぶんこの家族を自覚的に作ることが家族だという家族の解体を逆手にとってリベラリズムの現代の最前線の答えからしておかしい。とすると、なぜ、レイが、フォースを扱えるのか?。いうなればジェダイの血筋なのか?といえば、僕は、フィンのように、何もなかったところから生まれたものだという説をとりたいところです。血がつながっていると、またそれか、要は選ばれた人だけの物語なのか?という問いになってしまうので。であれば、やはり幼少期に、ルークの手ほどきを受けて、フォースの才能を見出されたが記憶を封印されたとか、そういった、ルークにかかわりがあるが、家族の憎しみの連鎖から自由なポジションで、カイロ・レンの父親殺しの憎しみの連鎖と対決するというという構造を僕はおしたいところです。


STAR WARS: THE FORCE AWAKENS』(2015USA) J.J. Abrams監督  現代的かつアメリカ的な映画としてのDisneyの新しいスターウォーズ
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160103/p1


なので、このディズニーの問いの立て方からいうと、レイがの出自がどういうものか?というのが、凄い重要になってきますね。というのは、彼女が、ルークの娘であれば、それは血筋的なプリンセスなわけじゃないですか。そして、物語の神話構造的には「そうあるべき」なんです。でも、ルークって、実はゲイじゃないのか?という説は根強く、かつ俳優もそれを否定していなかったりする。とすると・・・。


ここが世界の物語の最前線。興味深いです。


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