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物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-04-15

『宇宙よりも遠い場所』(2018) いしづかあつこ監督  僕らは世界のどこにでも行けるし、そしてどこへ行っても大事なものは変わらない!

宇宙よりも遠い場所 4 [Blu-ray]

客観評価:★★★★★5つ

(僕的主観:★★★★★5つ)

キマリこと玉木マリの主人公の視点から物語は始まる。南極を目指す少女・小淵沢報瀬(こぶちざわしらせ)と出会うことにより、何となく退屈な日常の、どこかへ行きたいという気持ちに、具体性がが生まれ、そして、「ここではないどこか」という否定形ではなくて、「そこ=南極」というはっきりとした具体的な場所に、キマリたちは突き進んでいく。

とてもコンパクトでまとまっている傑作なので、ぜひとも「いま(2018年)」に見たい作品なので、頑張れる人は、ぜひとも見ることをお勧めします。あとで対比で説明する『ゆるキャン△』と比べてとても見やすいと思います。同じ日常系・無菌系の特徴である少女がたいてい4人いて、その関係性のみで話が展開するという作品は、通常の意味ではドラマトゥルギーが弱いので、ある種の文脈や、関係性のみにフレームアップすることに安らぎを覚えるという感受性をベースにしないと、何が面白いの?という感覚に陥りやすいのですが、『よりもい』は、南極に行くという非日常の目的がセットされており、そこに向かって物語が収束していく展開力があるので、主軸が4人の関係性だとしても、ほぼだれでも見れる作品になっていると思うので、どなたにも(いいかえれば男女問わず)お勧めです。特に、これは地味ではあろうと思うのですが(どれくらい売れたんだろう・・・・)、文脈的にアンカーとなるエポックメイキングな作品だと思うので、見て損はないです。放映時点で、かなり話題になった作品なのですが、2010年代の代表的な意味文脈を感じるからだとと思います。時代的なコンテキストは、空気として流れていってしまいやすいので、こうしてブログのような形でメモしておくと、全体像や時代の変遷についてのアンカーになっていいと思う。小説家の坂上秋成さんが、俺は俺の南極に行くと、稚内に飛んでいた時は、ぐっと来た(笑)。しかも、それが、最終回であっさり、キマリの友人に先を越されているあたり、この作品のシナリオのコンセプトがちゃんと貫徹されているさまがよくわかります。


ちなみに、ネタバレなので、いつも通り、そこはご意識ください。



坂上さんの文脈を僕が理解しているわけではないのですが、アニメや物語をリアルタイムで見続けていると、時代的な何かの到達点に感じるのは、たぶん誰しも感じたんだろうと思います。



文脈や考え方は同じではないかもしれませんが、時代的な何かの変化を感じさせる意味を感じる作品でした。


今の時点で、僕が考えて考えたことを以下にまとめてみたいと思います。


■日常と非日常をつなげるために必要なのはアイディアであって、アイディアがひねることができれば、人はどこへでも行ける


2018年の4月の時点でこれを見ている時には、やはり『らき☆すた』(2004)『けいおん』(2007-2009)『ゆゆ式』(2013)(などの日常系、僕らの言葉でいう無菌系の類型の到達の一つに見えました。空気系、日常系、そして無菌系の最先端作品として、『宇宙よりも遠い場所』と『ゆるキャン』の2作品が、今期の代表作だろうと思います。よりもいの、特徴的なのは、日常系のインフラストラクチャーに土台は乗っかりながら、舞台も、目指すところも、南極という非日常という部分。この辺りの絶妙のスパイスは素晴らしかった。

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ええとですね、どういう風に感じたかの構造的なものを言葉にするとですね、、、まず最初に、空気系(ここでは無菌系とかの区別は置いておきます)といわれるような、2000年代にたくさん登場してきた、少女たちが、たいてい4人ほど、戯れるだけという物語を思い浮かべてほしいのですが、これの舞台は、学園でした。要はクラスメイトなんですね。たいてい。凄く特徴的なのは、これが時間が止まったかのような学園生活の一コマが切り取られており、『あずまんが大王』の呪いとでもいうべきか、卒業はするのですが、この世界観。ここで重要なことは、代わりのない永遠に続くかのような繰り返される日常の中で、重要なのは女の子だけで戯れて、無邪気に笑いあっているということでした。ここで重要な感覚は、学園の世界から外に出ない、同じ繰り返しの中にたゆたっていることを肯定的にとらえることでした。これをもう少し抽象的に俯瞰してみると、目的意識が存在していない、ということでした。たとえば、ジャズギタリストを目指していたけいおんのあずにゃんは、ぬるい高校の素人の部活に取り込まれて、少なくとも、劇中では、孤独を貫いて、学園の外の価値観であるジャズのプロを志向するような振る舞いはいっさいありませんでした。ここでは、目的意識がないことこそ!賞揚しているようにみえます。

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過去の経緯を話すと長くなるので、そこはラジオで解説されている部分で、お願いします。

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簡単に言えば、それまでの物語類型で、少年が竜退治をする・・・・英雄になるという目的式の大きな課題の一つである戦争のない世界をつくる、人間が悪であることを否定するということ、、、この辺りもめんどくさいので、簡単にえば、目的意識をもって頑張り続けることに、その結果が、人類の終末という、身もふたもないことに必ずつながるさまを見せられ続けて、少年が英雄を目指すことに、疲れ果ててしまったんですね。この少年が、英雄が疲れ果てて、物語の主人公にあきらめたことと、これが日常系の男の子の視点がなくなって、少女たちだけが、学園生活の中で戯れるという物語空間に接続していくには、ラブコメの変遷、セカイ系の変遷を経るのですが、そこまで細かいのは置いておいても、直感的にはつながると思うのです。

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ようは、目的意識をもって未来のために生きて目的の奴隷となることを拒否する、または、そういった目的を持って頑張っていてもブラック企業の奴隷になるだけで、この世界の構造は結局とのころ、思っていたような英雄になって世界を救うことなどできないという絶望感にとらわれた時に、今この時を生きる、目的などという遠い抽象的な概念ではなくて、目の前の具体的なだれかとの関係性の変化こそを最も大事なものとして、そこにフォーカスして見れば、目的からすればごみのようなどうでもいい切り捨てる対象だった、その関係性が、実は、本当に大事なもの、自分が帰るところ、生きる実感をもたらしてくれる場所だった、、、、それへの気づきの極端な戯画化が、日常系という学園の中で4人の少女がただ戯れて無邪気に遊んでいるだけの物語という類型を生み出してきた。



・・・・・・・・・・・・・・・・・だとすると、おかしいと思いませんか?。



日常系の重要なポイントは、学園の中から、どこにも行かないこと、だったはずです。「どこか」という具体的な場所を設定したら、それは目的です。目的の奴隷になるのを拒否したのが、この類型の始まりだったとすれば、よりもいが、いかにおかしな物語構造をしているかわかると思います。


だって、具体的などこか、それが、ここでいう日常=学園という安定した空間から、最も「遠い」所をし想定しているからです。この時点で、この作品は野心的です。


4人のキャラクターが、単純に、女子高生ではない、というのも重要です。4人ともが、同じ学園に属していません。一人は、ドロップアウトしたフリーターだし、一人は学年の違うアイドル、キマリこと玉木マリを視聴者の感情移入のポイントである「何もない普通の人」と設定すれば、南極へ行くという非日常の目的意識の世界に生きている小淵沢報瀬(こぶちざわしらせ)は、全く違う人種です。4人の属性が、これほど違い、共通性を持ちにくい設定にしているのも、ちなみに、学園生活をドロップアウトしたフリーター、ニートをテーマとするのは、セカイ系寄りのテーマ(東のエデンを見よ!)ですし、アイドルというのは、アイカツやアイマスなどの女の子のシンデレラストーリーのリノヴェート版です。そう考えると、この属性の構成が、とても古いテーマ、というか、セカイ系などの主人公、英雄に動機が失われてしまう前のテーマにつながることが感じられます。たとえば、学校をドロップアウトしたニートを、笑い飛ばしたり、そういう穏やかな日常もいいよ!と笑うのが日常系であって、それをシリアスに悩み、その理由を追求し、再生を希求するのは、明らかに古い目的意識の強いテーマです。ほんの数話ですが、この問題にはっきりとよりもいは、答えを出していて、それもとても繊細な物語構成だと思います。

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話が、少し飛んだので、元に戻ると、南極という、日常の学園生活の対極に位置される具体的などこかを目的としてセットして、そこに向かって時系列的に収束する形で物語が展開するのは、回帰的な並行する永遠の日常の時間をメインテーマとする日常系の作品の反対に位置するものです。


にもかかわらず、4人の少女の関係性のみが、やはり物語のテーマであり、最後までそこにぶれることがないのは、はっきりと日常系の類型を示しています。


構造的に言うと、日常と非日常というものが、特に対立するものではなく同時に描かれている。目的意識のある直線的な切迫した時間感覚と回帰的ないつまでも変わらない日常時間間隔が、同時並行的に、繊細に描かれている。分析的に考えると、


A)玉木 マリ(たまき マリ)/三宅 日向(みやけ ひなた)-回帰的な永遠の日常


B)白石 結月(しらいし ゆづき)/小淵沢 報瀬(こぶちざわ しらせ)-目的意識のある直線的な時間感覚


こう分けられる。こう分けると、それぞれの自意識のテーマ、小さなエピソードの積み上げが、すべて、はっきりとこの問題意識に貫かれていることが読み取れると思います。まずは主軸のキマリは、今日と、明日が変わらない、何物でもないちっぽけな自分を変えたくて、そこから抜け出たくて「ここではないどこか」に行こうとします。それが、はっきりと焦点をもって、具体的な目的意識に昇華するのは、小淵沢報瀬と出会うからです。彼女は、自分の母親を南極で亡くしており、なんとして南極に行こという強い意志で生きています。しかしながら、この永遠の日常のような学園世界で、強い目的式(私はお前たちとは違う!)という意識を持てば、それだけはじかれ、孤立し、孤独の世界を偏屈に生きることになります。この二人が出会うということの意味は、お互いが、回帰する時間⇒直線的時間感覚(キマリ)と、直線的時間⇒回帰する時間(しらせ)の全く異な意識をお互いに伝えあい、感染しあう過程になっています。キマリは、しらせと出会うことによって、生きることの意味を、目的をもって生き、他と違うことを誇らしげに示すことを学びます。逆に知らせは、一人だけで生きていく目的の奴隷ではなく、それを等身大の仲間と共有して、今この時を大事にして生きることを学びます。お互いが逆パターンで感染して影響を与えています。ちなみに、キマリの本当にお決まりの手あかにまみれた、ここではないどこかに行きたいという気持ちに明確に形を与えて、それが、しかも宇宙というファンタジーの非日常の大冒険になるよりも、さらに行くのが難しいところでありながら、そこにそのまま、関係性の物語を持ち込める状況を考えついたのは、この脚本は、秀逸すぎます。


三宅日向(みやけ ひなた)のエピソードは、典型的なドロップアウト、ニート系統のぼっちの物語です。これは後で出てくる『ゆるキャン△』のリンちゃんのテーマと同じですが、大きく違う点は、ニートだけにとてもネガティヴに、一度道を踏み外して、友達に裏切られて、ぼっちになって、孤立していくこと、もう一度信頼をすることが怖くてできなくなってすくんでいる時の怖さが描かれています。ネガティヴに時間が止まってしまっているのが、彼女の問題点です。一昔前の、アダルトチルドレンのトラウマの物語類型ですね。シンジ君のお話です。もう一度普通に生きるために、、、言い換えれば、普通の時間感覚に戻るために、彼女は、南極まで、、、、言い換えれば世界の果てまで行く必要がありました。彼女の壊れてしまった動機、、、、他者を信頼するという能動的な第一歩の踏み出しのために、彼女は、世界の果てまで具体的に行く必要があり、そこに行って初めて、彼女のは心の壁を超えることになります。これは、まさにセカイ系・脱セカイ系にあったテーマで、繰り返される永遠の日常という、繰り返される地獄(ネガティヴにとらえると)をどのように脱出できるかが、問題意識でした。そして、この繰り返される閉じ込められた世界というのは、動機のなくなった主人公の心象風景であったのは、スカイクロラでもうる星やつら・ビューティフルドリーマーでも村上春樹の作品でも、いま振り返るとはっきりしています。動機を失った人が、再び動機を調達して、生きる気力を取り戻せばどうすればいいのか?の出口を探す旅が、セカイ系の問いかけであったのは、いまから振り返ればわかることです。ちなみに、この全体の中ではそれほど大きくないエピソードは、とても秀逸な、結論を示していて、僕は素晴らしいとうなりました。日向は、裏切られた友達に裏切られて高校を辞めたのですが、当然にこの裏切られ友達との関係修復をどうするか?がテーマになると思いきや、この、いってみれば日向をスケープゴートにしていじめて同町圧力をかけてきた高校に残った(勝ち組に見える)友達のほうを、ばっさり切り捨てるんです。もう友達じゃない、、、というか、そもそも友達じゃなかったので、私の居場所はそこではなかったんです、と高らかに宣言して(正確には友達・キマリたちがしてくれた)彼らを切り捨てます。問題点を、克服するのではなくて、ああ、そもそももともとそこの居場所が間違っていたんだ、と切り捨てたんです。これは、同町圧力で、復学するのが正しい!とか、仲良くするのが正しい!という日本的学園同町圧力の地獄のテーマでは、はっきりとしした答えなのですが・・・・通常は、これは負け犬の、セリフです。だって、高校から逃げ出したんだし、友達との同町圧力のゲームに勝ち残れなかったわけですから。だから日向は、過去の友達というか高校の同級生と顔を合わせたくないし、うじうじしているのは、自分が負け犬だというのが、顔を合わせた時に発覚してしまうからですね。このゲームに勝つ方法は、ほぼ一つしかないんです。学校の評価軸以上の評価軸を示したときに、ゲームの勝ち負けが逆転します。また、日向の心の動機レスなものを、癒して、前に向けてくれる仲間、友達がそばにいて、明らかにそれが、過去の人間関係より質が高いと思える時に、ゲームとしては、勝った!感が漂います。まぁ勝ち負けで人生生きているわけでは本当はないんですが、高校生活という学園同町圧力ゲーム・・・・日本的お友達の世界は、そういう勝ち負けのゲームをしているんです。なので、自分が嫌でも相手は、そういうルールを押し付けてきます。けど、このエピソードは、ほんの2話ぐらいで、完全に勝ちだ!と思わせる(視聴者に感じさせる)のに成功していると思うんですよ。それは、南極に行く!!!という社会的な、日常の、当たり前の価値観のスケールを振り切れたことを実行していること、それを、仲間と一緒に時間を共有していること(=帰る場所があること)がある状態で、日向ではなく、キマリが相手に行ってやることで、こりゃもう、高校やめた日向のほうが、充実してないか?というのが、はっきりわかってしまうんです。その具体的な状況設定の中で、私にもうかかわるな!宣言は、負け犬の遠吠えではなくて、高らかな勝利宣言になるれうんです。そして、心の迷宮、繰り返される永遠の日常の地獄を抜け出すには、実は、物理的に、とんでもない遠くまで行くことが効果があるというのは、物語でもそうですし、実際の人間でも同じだと僕は思っています。ようは、心の問題というのは、抽象的なものに惑わされているコンセプチュアルなことなので、身体性、フィジカルなものに戻れ!というのがこの系統の出口です。殺し合いのバトルロワイヤルや格闘技系の暴力、セックスや薬などにこの話が行きやすいのは、心に閉じ込められたら、現実に戻るには、身体性を再獲得するのが当然の帰結だからですね。けど、取り戻そうとするときの強度は、極端なものが必要です。このアダルトチルドレンのトラウマ回復の物語、動機が失われたものの再獲得の物語が、、、、僕とLDさんがブログで、理論上もっとも救われな人をどう救済するかまで追い詰めていった物語が、こうもあっさり数話のありきたりの具体的な、よくある普通の話にコンパクトにまとめられているさまは、この問いかけが、この類型が、ここまで洗練されて、既に重要なテーマではなく、その先に受けても作りても進んでいることを示していると僕は思い、感動しました。


白石結月(しらいし ゆづき)のエピソードは、まさに、僕は友達はが少ない、のそのまんまです。究極、彼女が欲しているものは、ずばり、友達です。でも、友達って、いろいろな角度からの問いがなされていて、一つは、それってただの同町圧力の地獄じゃねえの?という問いで、これは日向の日本的学園世界のテーマと同じ基本構造でもありますね。日本で友達というと、直ぐこの、同調圧力をかけてくる圧力という装置とどう違うのか?というのがテーマになります。それだけ、学園の教室の世界というのは、同調圧力の地獄なんですねぇ。そしてすぐスクールカーストの序列の話になるんですが、ゆづきは、そもそもアイドルとして学園に具体的に所属できていないので、何をもって友達というのか?というテーマにシンプルに絞られます。彼女が深刻になりにくかったのは、彼女がアイドルという外の世界に、言い換えれば学園とは異なる社会的な評価軸で確固たる地位を占めていたからですね。これは、『SHIROBAKO』などのお仕事ものに、学園世界での閉塞感からの脱出が向かっていたのと同じです。

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とはいえ、友達が、できない、、、、、それってのは、生きている充実から、仲間外れにされているのではないか?という風な不安と恐怖が、ゆづきには、つきまとっています。これ、リア充爆発しろという例のスクールカーストの問題意識のパラフレーズですね。つまりは、より価値のある人生、より充実した人生は、どこにあるのか?というときに、友達がいることなのではないか、という仮説があって、それでみんな苦しむんです。ちなみに、『ゆるキャン△』のリンちゃんのテーマは、これにしっかり答えていて、いやいや、自分の好きなことがあると、ボッチでも楽しいし充実してて何の問題もないんだよ!という2018年の現在の到達点として、友達が少ないとか言っているのは、実は問題意識の順番が間違っているんですよ。リンちゃんは、好きなことを、ボッチで、一人だけでやるのが好きなんです。好きだから充実しているんです。自己完結していて、それは、ボッチではないんです。ボッチではないのだけれども、、、、ここが面白いところで、好きなことを繰り返していると、そのことを好きな人と出会うことがあって、好きなことが一緒の人と、一緒に好きなことをやる(ただし最初は別々でなければならない)というのが、実は本当の友達なんだ!と話なんです。ここでは、dependent(依存)とindependent(独立)の話がされていると僕は思っています。というのはですね。友達が欲しい!!!という人は、依存の対象を探しているだけなんですね。だからどこまで行っても負け犬だし、本当の友達には出会えない。


順番が逆だったんです。


孤独を恐れずに、好きなことを探し出して、そこで充実を得る。いってみれば、自分を内発性を探す。内発性というのは、依存しないで、独立しているものです。自家発電ですから。そうして、自分の中で自己完結している同士が、同じものを好きな人と、同じことを、あれ「この人も同じことしている」と気づくことで、いつの間に一緒にやっている、、、自然に時間と空間を何となく共有している、それが友達なんです。順番がすごく重要なのはわかるでしょうか。独立の意思で、自分が好きなことをしている同士が、たまたま偶然に重なったことで、友達というものは「なる」んです。作ったり、獲得したりとかそういうものじゃないんです。偶然、自分がしたいことと重なっているだけ。それが、重なっていく事実性の中に、あれ友達じゃん!という気づきが生まれて、その独立性と内発性をベースに、お互いに等身大に踏み込んで関係性を層度に結ぶことで、、、それは本当の友達、になっていきます。なので、自分が好きなことをやりたいことを探す前に、友達が欲しい!というのは、最悪の悪手になります。


ちなみに、友達ができたからと言って、人生が充実するかはわからないという言い方もできます。が、これは、順番が上記のようにされていれば、解決してしまっている話なのが分かりますよね。だって、好きなことをやっている充実を共有するのが友達ということになれば、友達ができた時点で充実しているはずです。友達を、非独立の依存対象として、充実する何かをもたらしてくれる道具として探しているので、友達(しょせんは依存対象の同調圧力装置)ができても、なんら充実することなく、同調圧力の承認ゲームの道具として利用されるだけになり下がるのです。ちなみに、僕は自分の子供の教育をするときに、常に心掛けているのが、承認のゲームで負けないように、承認をたっぷり与える(要は声に出してほめまくる・行動で称賛を示しまくる・できるだけ根拠なく)ことと、君の好きなことはなんですか?といつも聞き続けること。人生は、自分の大好きなこと、それだけをやっていれば満足で、サバイバルできる何かを探す旅なんだ、でも、簡単には見つからないから数十年かけて探さなければいけないゲームなんだと教えるようにしています。日本は、承認リソースが弱い国なので、承認リソースをたっぷりもっている人間は、ものすごくゲームで強くなります。そして、大好きなことをやり続ける喜びは、自己承認ループを作り出して自己発電できるので、友達とか全く必要なくなります。そして、逆説的ですが、友達なんかいらない!という充実をしている人の周りには、友達が群がります。それも、自分で自分を承認できる、かっこいい友達がですね。そういうゲームのルールなんです。

この系統の話は、『僕は友達が少ない』で、ラブコメの類型から、実は欲しいのは、恋人ではなくて友達だった、という話は、あれはリア充系の物語で、どうすれば充実できるか?を探すときに、恋人ができてしまえば、まぁそれはいいかもしれないけど、そうできなかった場合には、どうすればいいのか?という話。また恋人関係が、依存系のアダルトチルドレンのトラウマ補助装置にすぎないのでは?という疑念がぬぐえないからなんじゃないかな、と思います。対幻想、ラブロマンスの系統においては、依存や勘違いによるカップル成立も、それは物語の一つだし、強度の一つになりうるので、恋人関係を出口に持ってくると、より健全な形で、平衡状態で、言い換えれば恋愛のような狂気に突き動かされている勘違いの幻想状態ではなくて、充実を求めるならば、やはり友達という一段幻想・思い込み度合いが低いほうが、ふさわしいという感覚があるんだろうと思うんですよね。それは、正しいと思います。ラブコメの展開が、常にヒロインだけが報われる序列の構造から、たくさんのタイプの女の子に競わせる並列の構造になって、それがハーレム構造になったけど、、、そこから男の子がいなくなって(笑)少女たちだけの関係性の物語として日常系に接続されてくるのは、まさに、恋愛による対幻想の強度が、依存関係で成立しても一向にかまわなく、まさにその勘違いの窮まっている状態でも、二人しかわからない世界、外からの客観的物差しが入らないからこそ対幻想なんで、OKというのは、ちょっと求めているものとは違うんですね。それはそれで、一つの美しいロマン=幻想なんですけれども。でもリア充、人生における充実をテーマにしていくと、友達のほうが、物差しとしては正しいという直感は正しかったんですね。けど、それは友達が先に来るのではなく、やりたいこと、好きなこと、が先に来ないといけない。

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でも、やりたいことがない場合は、どうすればいいのか?


というのが、この問題の大きな特徴です。いいかえれば、やりたいことがない!、わからない!というのが。だから、友達という、わかりやすやすそうなものに飛びついて、同調圧力の奴隷となり下がりやすいんです。ゆづきのシュチュエーションは、社会人の状態と似ていますね。仕事があって、友達との時間を確保できないので、同調圧力の世界からはじかれてしまう。なので、孤独になるんだけど、忙しいので、友達を作る暇も、維持する暇も、好きなことを探す暇もない。なので、彼女は、不安定で、さびしいを思いを抱えて生きています。僕は、なんだから見ていて、笑ってしまいました。悪い意味ではなく、ああ、これってのは、僕らそのものだな、と。友達が欲しいから、そのためには、やりたいこを探さなければいけないけど、別にやりたいことが思いつかない。じゃあどするか?というのは、キマリの構造と同じです。キマリの場合は、変わらない日常をどう抜け出すかという悩みでしたが、アイドルとして日々目的に向かってアクティヴに生きているゆづきにしても、結局同じです。目的の奴隷になっていて、自分で主体的に生きている感覚がない。そこから抜け出すにはどうすればいいのか?。処方箋は、同じなんですよね。


遠くへ、行けばいい。具体的には、難しければ、難しいほど、非日常的なほどいい。


ただし、結構、難しい条件なのは、一緒に行く仲間も同時に探さなければいけない、という部分です。でもこれは簡単。しらせが、強烈な目的を持っているから、一緒の夢を見ればいいだけなんですよね。


こう見てくると、それぞれの4人が、けっこう異なる属性というか、現代的なテーマをそれぞれに抱えた存在で、それぞれがそれぞれに感染、影響を与えることで、新しいチャレンジに向かう構造になっている。そして、それは、南極に行くということ。僕は、これがすごく秀逸だと思いました。


というのは、南極という、宇宙よりも遠いところという非日常の場所に具体的に向かいながら、その非日常感覚は、ほとんど感じられない。理由は単純で、「そこに行く」という物理的な難しさが、感じられないからだ。あっさり、行けてしまっている。では、南極という具体的な場所が、ただの背景であって、幻想というか空想上の書き割りの舞台かというと、それも違うと思うのだ。ここには、ちゃんと、深く、具体的な意味があり、プロセスがある。ここでは、観念上の何かの成長や壁を超えるために「世界の果てに行く」というものと、具体的にフィジカルに、遠いところに行くということが、ちゃんとミックスで考えられている。だから、セカイの果てに行くという観念上の目的が到達すると、心象風景が塗り替わるというセカイ系的な、心の問題のブレイクスルーが感じられるし、同時に、その過程で関係性のドラマを積み重ねて相互に感染、踏み込みがあることで具体的な友達と、「代替することが困難な唯一性」を獲得することに成功している。えっとね、『ゆるキャン△』のリンちゃんの場合は、好きなものが先にあるという内発性を生まれつき持っているという設定でした。けれど、いま現在ない人は、どう探していいかわからない。だとすると、一生友達はできません(笑)。だからどするかというと、ほぼ行くのが不可能な場所に行くという非日常性を共有することで、そこで行われている関係性の踏み込みは、青春時代ならどこでもあるような一億分の一の(涼宮ハルヒ)意味のないものかもしれないけれども、その場所が、まったく再現できないような特別なひねりが加えられているので、代替ができない意味を付与されることにって、特別なものになる。それは、友達だよね。だって、唯一性がやどっていて、他の人には簡単に再現できないものは、特別だもの。その非日常の特別さを、1/4のスケールだとすれば、それはもうほぼ唯一性といってもいい。それを、南極という目的地で作り出すところは、見事!と唸りました。

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ここには、現代的な、非日常の容易さと困難さの、在り方がよく描かれていると思う。


容易さという意味では、冒険家の南谷真鈴さん、Jade Hameisterさんや、イモトさんのヴィンソンマシフ(南極最高峰)登頂など、結構手軽に、といったらいいすぎではあるが、少なくともアムンゼンの頃のほぼ死ぬか生きるかの人類未踏競争のレベルの非日常感とは、ハードルが違う。彼らは命を懸けて、人類の未踏の地に旗を立てようとしたフロンティアの冒険者だが、昨今の冒険家の在り方は、違う。何が違うかといえば、僕は動機が違うと思うのだ。それは、日常の延長線上で、日常をより楽しくエンジョイするためのupdateであって、非日常に行ったきり帰ってこない片道切符の冒険ではないと思うんだ。この微妙なニュアンスの違いわかってもらえるだろうか?。彼女たちが、命をかけていないとか、困難ではない、楽なことをしているといっているわけではない。そうではなくて、既に人類にとっては既知の場所で、 それでも同じような極端な非日常の過酷な体験を求める理由は、どういうものだろうか?ということです。受け取る我々にしても、「わざわざそんなところに行く必要がない」にもかかわらず、なぜそれを選び取るのか?という目的、動機にレイヤーがあるんです。

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既に既知の場所に、そこに行く必要もない日常に生きる普通の人が、それでも行くには、アイディアとソリューションがいります。いっていることがわかるでしょうか?。そこは、「人類という括り」ではすでに既知の場所で、未知の場所に行くという冒険は存在しません。その状況下では、最年少とか、女子高生とか、5大陸単独性はとか、さまざまな微細な条件の差異をおうことになります。だって、もう「いくことができる」という可能性は証明されているわけですから。

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でも、かといって、スタート地点がすごく遠くにいる、よりもいの、普通の高校生、何の準備もない高校生が、そこにいたるにはどうすればいいのか?と考えれば、一ひねりが必要になります。


この場合は、テレビのアイドルの体験記という形で、テレビ放映するという形で、彼らは南極に行くチャンスをつかみ取ります。Youtuberか!!(笑)。ここで僕が言いたいのは、それが妥当かどうかとかそういうことではなくて、ある種のアイディアをひねると、現代の世界は、不可能に思えるような非日常の出来事も、日常にダイレクトの接続できるのだ!という、これまでの激しい断絶のあった、日常と非日常の接続の感覚が、ひと昔とは全く違うのだ、ということを、いいたいんです。小川一水さんが、『第6大陸』で、月に民間企業を作るために、結婚式場!というアイディアをひねり出したように、非日常を非日常の過酷なままでいくのではなく、日常に接続していく感じ。

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そう、非日常を日常に取り込み、日常を輝かせるためのスパイスとして、使っているんです。そういう意味文脈で、これは、あきらかな日常系・空気系・無菌系という類型の現代的アニメーションだと思う。


そして、ここには、たとえ、宇宙よりも遠いところであろうと、アイディアによって、簡単にくことができてしまうという現代の非日常の容易さが描かれている。月だって、不可能じゃないでしょう。技術的には、楽勝で可能なんだから。既に既知だし。アイディア次第なんですよ。けれども逆に言うと、なんでそんなことをするのか?という動機の調達、また、アイディアには文脈がいります。しらせが、お母さんが南極で死んだから、そこに行きたいというドラマトゥルギーをもっているように、何かのプロセスをデザインするには、内発性のスタート地点、シード・種がいるんです。それを探し出すことは、自分というオリジナルを探し出す行為で、それこそが難しい。何かをする理由が、あまりないのが現代社会なんです。



■どんな非日常な世界に行こうとも、人間にとって最も大事なことは、人間関係の関係性に敏感であり、心の中の絆をどう昇華していくかということ


そして、この感覚を描くことで、日常系の本質である、関係性にフォーカスするというテーマが、そのまま非日常の世界に具体的に動きながら描かれることになります。僕は、この日常から非日常に移動するときの、その断絶の大きさがすごく少なくなっていること、非日常にあっても、本質的に人の幸せにとって元も大事なことは結局は「人間同士の関係性である」というこが、はっきり示されていて、これは素晴らしいと思います。



究極のテーマは、二つあって、一つは、しらせのお母さんの死んだ場所に行くこと。抽象的に言えば、簡単で、遠い南極という場所で死んでしまって死体もない母親の不在が、しらせには、よく実感できない。それを探しに行くという物語。でも、実際は、彼女にとって、これは本当はどうでもいい話なんですよね。だからこそ、南極に初上陸したときの第一声が「どうせいけっこない」とバカにしていた周りの同級生たちへの、世間への恨みつらみでの解消の「ざまーみろ!!!」という叫びでした。これは本当によくわかっていると、唸りました。彼女にとって、既に南極に行くという行為は、意地になっているだけで、自分とほかの人間との差異を感じるためだけの、思い込みになっているんですよね。そもそも、不在がちだった母親が、まだずっと不在だという感じがするだけで、母親が死んだ実感というものはないのだから、死んだということが「わからない」というのが彼女の心象風景なんです。それの決着がつかないことのいら立ちを、南極に行く!という極端な行為でフラストレーションをぶちまけているだけなんです。要は目的と手段が入れ替わっているんですね。お母さんの死を実感する、納得するために南極に行ってみたいという目的のための、手段である南極に行くという行為そのものが、その難しさによる目的化してしまってて、それに対する世間の攻撃に対する当てつけが、彼女の存在意義なってしまっていたんですね。だから、本気ではあっても、冷静さや計算や、異なるアプローチをしようとするひねりがない。だから、一人だけだったら、行けなかったでしょう。キマリに出会って、行動に柔軟性が出たからこそ、アイディアが出るようになっていったわけですから。だから、世間の馬鹿にするやつらを見返した!という目的化した手段の達成で、もうしらせは、満足なんです。ざまーみろ!と溜飲が下がってしまっている。ましてや、その途中経過で、特別な時間を共有することで、友達ができて、孤独が癒されているわけで、もうこれ以上は、彼女には必要ないんです。だって、それこそ、お母さんの死体でも具体的に見つけない限り、死なんて実感できないでしょう。それは、さすがに無理だし。所詮、アイドルのレポーターできているわけで、そこまで本格的に雪山を行くわけではないですし。。。。。なので、関係性を深める物語にフォーカスして、大事なものが、唯一性の宿る空間と時間の中で、当たり前の関係性を深めることなんだというエピソードが繰り返されます。それは、この物語の本質なんで、何ら問題ないわけです。それは、このプロセスで、生まれてくる関係性の結果としての絆が、これからの生きるよすがに、希望になっていくということ。


・・・・・と思っていました。そしたら、最後にメガトン級のエピソードですよ。


南極基地に、残されてたPCがあって、それがお母さんのだったんです。電源が落ちていた、そのPCを立ち上げたら、、、、、、何百通もの、お母さんが開かなくなったメールアドレスに送ったしらせのお母さん宛てのメールが、一気に受信されていくんですね。


それではっきり、、、、見ているほうも号泣で伝わりますよ!!!


もう、お母さんは、この世にいないんだって!!!


そこには、彼女の母親の不在の間、積み重ね的な彼女の孤独が、内発性を、、、、、彼女が彼女たらしめる思いが、形として、具体的に、積み重ねられたものの爆発として、目に見えます。そして、この思いが、彼女を南極に、セカイの果てに連れてきて、これからの人生を生きる希望を、、、友達の絆を手に入れます。このシーンで、いっきに心象風景が、塗り替わっていき、彼女の中で、母親の不在を悩む子供時代が、一気に過去になっていくのが感じられます。そこには、お母さんのメッセージがあったり、死体を見つけたとか、そういう何も特別なことはありません。ただ、母の死後、誰も受信しない彼女のメールアドレスに、子供が何年も何年も、膨大なメールを打ち続けていたのが、Wi-Fiにつないだので受信された、というただそれだけのことです。けど、この物理性、、、、もう泣きますよ。先ほど言ったように、しらせの、止まった時間を動き出させるためには、異なる人生に自分を連れていくきっかけで、必要なのは未来でした。そして、それは友達の絆という形で、未来を獲得してしました。そもそも、ほぼ不可能な、母親の不在を実感するなんて劇的な心象風景の、過去の清算ができるはずがありません。。。。。けど、それが一気にできたんです。いやーこれは、行動を起こしたからこそできた奇跡です。しかも、何一つ、奇跡でないところがいい。だって、メールを送って、それを受信した、というだけの事実なんですから。



もう一つは、キマリと親友のめぐっちゃんの話です。キマリはトロい子で、めぐっちゃんは、キマリを下に見て、見下すことで、親友のふりをして不毛な永遠の日常を耐え忍ぶスキルを維持していました。こういう関係性が、被支配されていると思われていた決まりが、内発性を獲得して独立して生きる容易になった瞬間に、壊れます。さて、壊れて、キマリは飛たったので、すっかり忘れて、そんなエピソードも最初にあったな、と忘れていました。まぁ、いちおう、めぐっちゃんの汚らしい心も告発されて、本人も自覚して、友達でも何でもない、ものだったんだという結論で終わると思っていました。ラスト数秒までは。だって、尺的に、残り数分で、日常に戻ってきた、キマリが彼女と仲直りする理由がないじゃないですか。だって、キマリには、もうかえがたい親友が3人もいるんで、そんな昔の同調圧力の道具にされていたやつなんか、いらないわけですよ。キマリがどんなに優しい子で、許しても、それは、許しただけで、構造が逆転しただけで、何ら友達ではありません。裏切った、ということ、はそれくらい重いことだし、それが目に見えて、表に出てしまったらもう欺瞞の関係すら維持できません。。。。。



と、そう思っていましたよ、ラスト数秒までは。



この文章の最初に書きましたよね。友達の絆を作る方法は、好きなことが見つからないなら、めっちゃくちゃ遠くへ行け!(笑)って。



その過程を、共有出来たら、それは、もう唯一性の関係・・・・言い換えれば友達だって。友達とは、時空間を共有すること、が定義ですが、もう少し言い換えると、観念のレベルと行動レベルがミックスされていないと、だめなんですね。頭で思うだけなら、どんな欺瞞もできる。けれど、それが行動に移され、時間が積み重ねられると、なかなかウソや欺瞞で隠せなくなるのです。それこそが、時間を共有すること。



それは、自分から内発的に、動いて、あがいて、頭をひねって、解決策を、裏技のようなひねりのある回答を導き出す行為。



めぐっちゃんは、なにをしたか?



最後のワンシーンで、、、、、ああ、ここもlineというかsnsが本当にいい働きをしている。



南極から日常の家に帰ってきたキマリの携帯のラインに、めぐっちゃんから、写真が届くんですよ。



北極にいるぜ!って(笑)


素晴らしいでしょう?。これって、キマリの強い思いを受けて、今までの自分をネガティヴさを告発される構造になってしまった(キマリが意図していなくとも)ことうけて、彼女は暴発してしまって、人間の汚さを露呈させてしまいました。これ、キマリが、こんんか告発をしなければ、こんなひどいことにならなかったでしょうから、めぐっちゃんも被害者ですよね。まぁとはいえ、差別の構造を壊せば、抑圧している側は、告発を受けるわけですよ。けど、このテーマを、告発を、めぐちゃっんは、真摯に受け止めて、その先をにつなげるんですよ。彼女が、あの時点で北極に行くには、はっきりいって、物凄いバイトをしたり、努力があったはずです。でもそういうのを一切見せず、結果の写真だけ、送りつけてくる。


やべ、この子、めっちゃ、いい子じゃん!!!泣けてきた。



いやはや、完璧な作品でした。最後の百万円の使い方とか、ほんとうにひねりが効いている。

「一緒にいられなくても


一緒にいられる。


だってもう私たちは私たちだもん」。


このキマリのセリフは、見事でしたね。絆を構築できれば、場所なんて関係ない!といえるんです。でも、そういえるためには、遠くに行かなければいけなかったという矛盾。いやーいいはなしだ。



ゆるキャン△の話に続く。


ゆるキャン△ 1巻 (まんがタイムKRコミックス)