物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-04-23

『魔法科高校の劣等生』 佐島勤 著 魔法師と非魔法師という「違い」による差別を世界はどう克服するかというSFの命題

魔法科高校の劣等生(21) 動乱の序章編〈上〉 (電撃文庫)


最新刊。ここ何巻もの間、なんとなくドラマが全然進まない感じがする。ただし、長編の作品で、しかも学園ものなので、そういうものかもしれないと惰性で読み続けている。こういうのは難しいのは、メインのドラマトゥルギーは、長編ものだとストップしてしまって、周辺や学園ものだと下級生という名の新キャラクターをフォーカスすることによって、話が散漫になってしまう。大河長編の物語は、「それ」によって、広がりが生まれて、シェアードワールド的な「世界」が立ち上がることでの楽しみがあるので、それが一概に悪いわけではない。ただまぁ、ダレるよね、とは思うけど。今回の巻は、3年生になった達也たちの最初のスタート地点が説明されるわけで、というか、ここ何巻もの話が新しいステージでの説明になっていて、物語というよりは、くどい説明になっている。でもまぁ、繰り返すけれども、難しいのは、そういた背景の説明によるテコ入れや、世界観の広がりを示すことは、長編の醍醐味でもあるので、何とも言い難い。ずっと、最高レベルのテンションが続くのは難しいし、長く物語を描くならば、そういった中だるみによる背景の「深め」というのは仕方がないところだから。なので、いったん本質のドラマはなんなのか?という問いに戻って考えてみる。


この物語のコアは、マクロ的には、


1)魔法師という非魔法師という「違い」による差別を世界はどう克服するかというSFの命題


と、ミクロ的では、


2)魔法師の中で劣等生に位置づけられる、本当は最強(笑)の達也が、どう自分の居場所を見つけていくか?


というドラマトゥルギーが絡まってできている。この作者が言いたいことというのは、達也のようなカテゴリーあてはめられない、世間一般の評価基準で評価できないにものは、評価されないが、だからといって、そいつが負け犬だったり、ダメだったりするわけではない、という命題が強く背景に生きていると思う。


実際に、その視点は決して、上品で優しい視点ではなく、個々の物語では、世間に評価されなくて、理由を他者に求めて努力や正しいステップで自分の居場所を得るための努力を放棄したものと、達也のような最初から世間からの評価は無視してあきらめて自分を強く持ち確立して、自分の大切なものだけにフォーカスしている「強さ」が常に対比されるという、かなり意地の悪い構造になっている。意外に、優しくない。だって「弱さ」をことごとく告発しているのだもの。


でも、では、そうした達也のような、ハードボイルドテイストの「大事なものだけにフォーカス」している、他者の評価を気にしないでいられるのはなぜか、ということが問われる。もちろん、これは物語でありエンターテイメントなので、俺強ェ系なのだから、達也は実際は、まったくの弱者でも落ちこぼれでもない強者です。けれども、彼の強さというのは、出生の秘密、母親らから事実上捨てられ、実験動物されたという母親の欠落。それを、妹を守るということで、代替する家族への異様な執着から成り立っているわけで、そういう意味では、達也はかなり、しんどい人生を生きています。・・・というような、難しい設定作って、妹とのラブラブ状況を作り出す、物語手腕には脱帽します(笑)。


でもまぁ、達也が居場所を獲得していくというのは、どういうことなのか?。もともとの物語は、かなり細かいSFの舞台設定はあるものの、それはしょせん舞台だったと思います。やっぱりこの物語の痛快な部分、面白さのコアは、劣等生だと思われている達也が、実はそうじゃない!という下剋上なところで、既にそれが周知に知れ渡っている状態では、この面白さの部分は展開しないんですよね。


あとは、やっぱり深雪との関係がどうなるか、ってとこですよね。『エロマンガ先生』『俺妹』でもなんでも、実妹との関係は、どうなるの?というのは、関係性のミクロのドラマ自体は、構造はどれも同じなんですよね。


『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』 12巻 伏見つかさ著  あなたは恋人と友達とどっちを選ぶのか?という問いの答えを探して

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130615/p1


俺の妹がこんなに可愛いわけがない (12) (電撃文庫)


もう一つは、達也の世間からの評価という部分とかかわってくるんですが、SFの大きな命題の一つとして、新人類と旧人類の葛藤・戦いというものがあります。古くは『幼年期の終わり』からガンダムSEEDのコーディネーターとの対立とか、、、、、『新世界より』では、超能力を発揮できた人類とそうでない人類の殺し合いがあり、長い歴史の果てに、人類滅びちゃったりしていますよね。ミュータントものでは『地球へ』や『超人ロック』など、さまざまなものがありますが、これは、もちろんマイノリティの意識や視点のドラマにもなるんですが、もっと大きな枠では、新旧人類の、お互いの居場所をどう確保するかの椅子取りゲームの戦いを、どう描くのか、という話になるんですよね。

新世界より 文庫 全3巻完結セット (講談社文庫)

幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)

地球(テラ)へ… (1) (中公文庫―コミック版)


そう考えると、魔法師と非魔法師の互いの居場所を求める戦いは、優越的なマイノリティである新人類が、世界にどう居場所を求めるのか?。旧人類はそれを受け入れることができるのか、という話なんですよね。この劣等生の世界も、大きな戦争があって、魔法師たちはモルモットとして実験対象として様々な地獄と苦難を経て、現在の世界のルールと体制があるんですよね。しかし、いつその均衡が崩れて、世界が狂うかは、わからない。実際に共生して暮らしているが、そもそも「同じ人類じゃない」くらい能力に差があるわけで、それを、才能の差といってしまうには、結構無理があると思います。この辺はホモサピエンスとネアンデルタール人のようなサピエンス以外の人類との争いの歴史を見ると、それがいかにすごいことなのか、、、、絶滅するまで行きつくところまで行く話なのか、と心底寒くなります。

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

でも、それでも同じ人類であるには、確かに違いなくて・・・というところで、その差別の危険性をなくすために、人権などというフィクションにまったく訴えないし、露ほど意識も払わない達也のようなリアリズムは、とても現代的だし、モルモットとしてもてあそばれた実験動物の末裔で、様々な既得権益を獲得するために巨大な戦争を経ている未来の世界だけあると思います。そこで魔法師が、現代社会を成り立たせるエネルギーの重要なパーツになって、その存在を排除できなくさせてしまおう、そのエネルギーを提供する過程で、魔法師の社会における居場所を押さえてしまおという達也の発想は、とてもSF的というか、テクノクラートというか科学者の発想だと思うんです。


僕は、この現代の世界とほとんど違わない倫理や常識の中で生きている近未来設定の、この作品が、どこに着地していくかは、いつもわくわくしてみています。ここまで、新旧人類の相克を、リアルタイムで、コツコツ描く作品ってみなかった気がするんですよね。『新世界より』のように、新人類と旧人類の争いがかなりのところまで行きついて、世界のルールが変わってしまった「後の世界」からスタートする、そして過去に何があったのかを暴いていくというのがこの系統の定番なんですよね。もちろん、劣等生もそうなんですが、この世界はまだ過渡期ともいえる世界で、まだまだカタストロフまではいっていない。しかも現代の地政学的な状況とほぼ同じような外部環境なので、この舞台で、どういう結論を出すのかは、見ものだなーと日々思っています。


魔法科高校の劣等生 (20) 南海騒擾編 (電撃文庫)

2017-04-15

『モアナと伝説の海(Moana)』(2016 USA) 監督ロン・クレメンツ/ジョン・マスカー 私は本当は何者かというテーマは神話的な抽象度の高い問いになりやすく、かなりの傑作だけど、僕にはいまいちだった

Moana [Blu-ray]

評価:★★★★★星5つ

(僕的主観:★★★☆星3つ)

■私は本当は何者か、というテーマは神話的な抽象度の高い問いになりやすい、、、、なかなかの傑作だけど、僕にはいまいちだった

ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオによる56作目の長編映画。監督ロン・クレメンツ/ジョン・マスカーは、『リトル・マーメイド(1989)』『アラジン(1992)』『ヘラクレス(1997)』から『プリンセスと魔法のキス(2009)』などの傑作アニメーションを制作したコンビの最新作。


とはいえ、自分的には、めずらしく客観と主観の評価がかなり差異がある作品。主観では、あまり面白くなかった。だが、客観的に評価すると素晴らしい傑作だし(はっきり言って素晴らしいアニメーションの動き世界)、批評的に見てもエンターテイメント的にみても素晴らしいと思う。米国の興行成績も悪くなかったはず。ということで、なにが自分の主観にヒットしなかったかが、ちょっと興味深い作品。ちなみに、家族全員で見に行ったが、全員の一致したコメントが、怖かった、だった。前回みた『SING/シング(2016)』がはるかに面白かった。


では何か?、と問えば、この作品が「自分は何者なのか?」という定番の哲学的な問いを主軸にする冒険活劇ものだったからだと思う。


ファンタジーのこの系統の作品は、どうしても、動機をめぐる話になってしまい、抽象的になる神話的な寓意の脚本になりやすい。そして、それを補うために、冒険活劇的な、具体的な部分の密度を上げるというバランスをとる。たしかに、この作品はそれが非常にうまくいっている。ハワイやポリネシアの南太平洋を思わせる島々、海の見事な世界観、風景の描写は、アニメーションの醍醐味を味あわせてくれるさすがのディズニークオリティ。絵のデザインのセンスオブワンダーだけで、映画を見に行く価値がある。しかしながら、それでもやはり、


「私は本当は何者か」


という自己をめぐるというの作品は、どうしても難解になってしまう。私が海に選ばれたのはなぜか?という問い自体は、誠実で、非常に重要な葛藤のテーマではあるが、ぶっちゃけて、僕にはそれの答えがよくわからなかった。いや、分析的にみると、見事に答えているし、多文観客にも伝わっているから、売れているのだろうと思う。しかし、僕にはすかっと来なかった。


モアナ・ワイアリキ(Moana Waialiki)は、いって見ればエリートのリーダーたるプリンセスの血筋。というか、プリンセスどころか、村の長というか島の長になる後継者です。王女どころか、時代の王ですよ。しかも兄妹も姉妹もいない一人っ子であり、女性がその座につくことに何ら批判的な文化障壁もありません。であれば、疑問すらない、正統なるモトゥヌイの後継者なわけです。


そんな彼女が、安定している村・島の外に冒険に飛び出していく理由があるとは僕には思えなかったんです。


ティアナよりも少し若いモアナの場合、島の族長の娘として生まれ、いつか島を統べる仕事を父親から受け継ぐことを、生まれながらに運命付けられている。

一族が代々になってきた役割の大切さは重々承知しているものの、島の外に広がる海への憧れには抗しがたい。

その衝動が島に定住した一族が封印してきた、大洋の航海者の血によるものであることを知り、ますます自分は何者かという葛藤を募らせる。

そして、降ってわいた島の危機と、最大の理解者である祖母の後押しによって未知の世界へと旅立つことになるのだ。

モアナが選ばれたのは、彼女が島に引きこもった人々を再び海に導く者だから。

しかしそのためには、行く手を阻む闇を討ち払わねばならず、世界の命運がかかった使命に挑むモアナは、滅びの時代に人類の未来を託されたナウシカであり、一つの指輪をオロドルインの火口まで持って行ったフロド・バギンスだ。

人知の及ばぬ運命によって与えられた使命は、同時に恐るべき呪いとして彼女に重くのしかかる。


ノラネコの呑んで観るシネマ

http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-999.html


もちろん、島の外に出なければならない理由はあります。世界の命の源である女神テ・フィティの心の石が半神マウイに盗まれて、世界が滅びようとしているからです。なので、島の中に引きこもって暮らすことは、もうできない。でも、それは、マクロの神話的な理由による、構造的な理由づけであって、モアナ個人が、外に出たいという動機を持っているようには僕には思えなかった。


実際に、自己を探す探求の旅は、大人になる旅になります。大人になる旅というのはどういうことかというと、自分がいかに物事を考えていなかったかの痛切な事実を突きつけられて、それと向き合うという形になります。だから海を渡る間に、同じ問いを持つパートナーの半神マウイとのやり取りの中で、モアナは、海に選ばれたという特権的な自分の立場に根拠がないことを、再確認を迫られます。


そうだよね、根拠ないよね!と、僕はとても思いました(笑)。


海に選ばれたのは、偶然としか思えない。彼女自身のなかに、そういった内的葛藤は僕はとても弱いと思うんです。もちろん、一族のルーツである大洋を渡る航海者の血を彼女が持ち、島の外に出たいという子供時代からのフラストレーションがあるのは事実です。でも、それは、子供時代のなんちゃっての夢です。何故、夢かといえば、実際に彼女が航海に出たときに、彼女は航海の術を一切持っていない。ようは子供時代から悩み深く「積み上げてきたもの」が全くないんです。外洋に出たいのならば、もう少しなんか準備するだろう、心に葛藤があれば!。ようは、準備も、積み上げもないのだから、それは単なる夢想です。だからそれは、僕にはやむにやまれないものには、見えない。そこに個人的な、近代的な自我の持つような理由を設定する以前に、神話的に「外に出るべきだ」という枠があって、それに沿って出ていったようにしか見えないんです。上手く伝わるでしょうか?。



僕は彼女の彼女たらしめる「自分自身である根拠」に、海から選ばれる特別な存在である根拠に、2つの視点・見方があると思っています。


1)神話・世界の謎が要求する構造的なもの


これは、彼女が彼女であるからではなくて、神話の構造として「誰かがこの役割をする」ということが必要になるものです。誰かが、世界が滅びるのを救うために、女神テ・フィティに心の石を返さなければなりません。これの使命が、モアナに降りたわけですが、これは「使命が下りてきたから、使命がある」というトートロジーになっていて、そこに理由は、特になくていいのが神話です。この根拠を求めない感は、とても神話的です。


2)モアナ個人の内的な「ほんとうに求めるもの」


けれども、そうした外から要求される神話的圧力に「選ばれる」というのは、その人の内面に「そうせざるを得ない理由」がある場合です。こういうのを僕は近代的自我とか言っていますが、要は内面のロジックを構成するその人個人のミクロの本質が、マクロの求めと重なるところが、論理的整合性があり、具体的にあるということなんですが、、、、、それって、モアナってないよね、と思うんです。


もちろん、この「世界を救うのに個人的な理由が必要なのか?問題」といつものように僕はてきとーに呼んでいるのですが、これは、『新世紀エヴァンゲリオン』で碇シンジ君が、悩んでいた問題と同じです。究極的には、意味がない問題というか、時間が解決する問題です。どういうことかというと、世界が滅びるタイムリミットは、個人のミクロの内面の無駄な答えの出ない葛藤を待ってくれません。なので、直ぐタイムリミットが来ます。来たら、答えなんぞわからなくとも、出なくとも、飛び込んで決断して行動するしかないのが普通です。まぁ時には、おめでとう!と、精神的に退避して自殺してしまう人もいるわけですが、それはあまりにありえない結論です。人間は、状況に流される生き物だからです。そのような意思を持って現実を拒否する人は、なかなかいません。


なので、個人の内面に理由を作るための、設定づくりが近代的な文学の在り方になるんですが、僕は、モアナはそれが弱いなーと思ったんです。


神話的には完璧に脚本構造が成り立っているので、これは批判としては成り立たないし、実際、神話的な構造は、具体的な描写のバランスが良ければ十分以上にエンターテイメントとして成り立ちます。なので、これは僕の好き嫌いだと思います。もちろん、この「好き嫌いの理由を考える」ことが批評の醍醐味だと僕は思うんですけれどもね。


で、なにがつまらなかったかというと、そこなんですが、もう少し敷衍すると、繰り返しですが、モアナが、海から選ばれた理由が、いまいちピンとこなかったからです。ようは貴種流離譚なんです。その理由は、彼女が「選ばれた」からというトートロジー。要はプリンセスのような高貴な地だから、世界を救う資格があるという根拠なしの決めつけなんですね。でも貴種流離譚にしては、とてもリベラルナイズとかでもいおうか、プリンセスであること、指導者であること、特別な存在であることが、目に見えて圧倒的に迫ってこなかった。別の言い方をすると、モアナのキャラクター像に、強度がなかった、とでもいおうか。逆の言い方をすると、とても等身大で、主観視点で丁寧に書いているということでもあるんですが・・・・。


もちろんだから、自己を巡る「旅」という形で、内面の成長と変遷に従って、世界を旅していくその変化を見る形に、言い換えればロードムービーになっている。そしてそれは大成功しているので、、、やっぱり、僕の趣味かもしれない。なので、僕的には、いまいちの星3半。ふつう。ただし、冷静に脚本構造を分析して、その圧倒的なアニメーションの美しさを勘案すると、それは、言いがかりのレベルというか趣味のレベルであって、これは、完成度は名作レベルになっていると僕は思います。


しかし、、、個人が個人として理想が持つことから(決して神話や貴種流離譚的なのブレスオブレージュではなく)という美しさの物語の方が、僕が号泣するようなんですよね。この違いももう少しコツコツ考えてみたい。これを考える時は多分、『Zootopia ズートピア』と『アナと雪の女王』を比較してみるといいんだろうと思います。ちなみに、この2つの記事は、僕は自分でも気に入っていて、こういう風に物語を感受できるといいよなーといつも思います。


『Zootopia ズートピア』(2016米国) 監督 Byron Howard Rich Moore 現代アメリカのリベラリズムの到達地点とオバマ政権への反動への警鐘

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160808/p1


『FROZEN(アナと雪の女王)』(2013USA) Jennifer Michelle Lee脚本監督 Chris Buck監督  無垢さが世界と世界から排除されるものを救うのか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140511/p1


ズートピア MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]


■自己を探す探求の貴種流離譚・世界の呪いをめぐる世界の謎への探求


ちなみに、貴種流離譚・世界の謎の探求を解くというのは、非常によくある類型です。『ロードオブザリング』や『風の谷のナウシカ』をノラネコさんが上げていましたが、まさに。


ちなみに、『ゲド戦記』(失敗作)、『もののけ姫』(マクロの壮大なテーマのブッ飛ばし)、『シュナの旅』(抽象度が高い神話寓意の成功例・しかし地味)などが僕には思い浮かぶ類型です。『ゲド戦記』は、そもそも原作が凄まじく抽象的な問いなので、これを具体的なものに置き換える作業がしきれなくて、中途半端になった失敗例の典型。『もののけ姫』は、そもそもの設定した二元論的な対立構造を、まったく異なる第三の出来事によって、問いそのものをぶち壊すという荒業系統。最もバランスの取れた至高の作品は、『シュナの旅』ですね。もともとはチベットの民話です。けど、地味すぎてアニメーションの企画としては成立しなかったようです。本で読むと、素晴らしいですが、、、これを具象の塊であるアニメーションの脚本にするとなると、そりゃ無理かなと思います。ちなみに、昔、ラジオドラマにしたものを聞きましたが、それは信じられないレベルの素晴らしい作品でした。やっぱ神話系は、なかなかいまの物語に脚本化するのが難しいのだろうと思います。モアナが成り立ったのは、アニメーションのディズニ−社のアーカイブと技術という巨大なインフラがあってのことなんだろうと思います。

シュナの旅 (アニメージュ文庫 (B‐001))

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■プリンセスものの逸脱と超克としてみる視点

さて、この作品の僕が好きになれない点は、神話的な構造が前面に出て、「その人がその人である理由」が納得できなかった点にあると書きました。これを、ノラネコさんが語るように、ディズニーのプリンセスものの類型の展開としてとらえると、このへんの古臭さというか難しさがわかると思います。

「モアナと伝説の海」は非常によく出来た娯楽大作だが、女性主人公の作品に対するディズニーの試行錯誤も感じられる。

現在、初代の白雪姫から「メリダとおそろしの森」のメリダまで、ディズニーオフィシャルのプリンセスは11人で、「アナと雪の女王」の2人もまだこのリストには入っていない。

本作でもマウイが冗談めかしてモアナを「プリンセス」と呼ぶのだが、彼女は「私はプリンセスなんかじゃない」と返すのだ。

映画は時代を反映するもので、プリンスのブランドが暴落した様に、ここまで過去の路線と違ってくると、もはやプリンセス括りは要らないのかも知れない。

マーケティング的には今でも重要なんだろうけど、アニメーションが新作の度に変化し続けるのに対して、「シンデレラ」「美女と野獣」と言った実写リメイクシリーズが、むしろ正統派キープなのは面白い。

21世紀のディズニープリンセスは何処へ行くのだろう。

まあどっちの路線も、それぞれ良さがあるのだけど。


http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-999.html

上で「ほんとうの自分を探す内面の旅」は神話的手で恐ろしく抽象的になるために、具体的な展開をしないと観客がついてこれなくなるので、つとめて冒険アクションものになる傾向が強いと僕はいいました。うちの家族は僕も含めて、怖くて見ていられない(3歳の娘はずっと泣いてました)という感想だったのは、問いが抽象的なので、しかも内面お変化を旅というロードムービー形式にするので、風景が淡々と変わっていく飽きやすい状況になるので、小さなアクションシーンを多々入れて、観客を引き付けるのです。個人的には、失敗とまでは言えないのですが、宮崎駿の初期のアニメーション作品の亜種に思えます。とても難しい『未来少年コナン』を、怖くて見ていられないと泣いてみていた(うちでは教養の一環で見せていましたので(笑))娘が、途中から食い入るように見るのがやめられなくなって、感情移入どっぷりになっていくのは、さすがの天才宮崎駿だ、と唸りました。そしてストーリーや筋が全部頭に叩き込まれる。これが、一けた台の子供ですらそうだ、というのが凄い。けれどもモアナのストーリーは、「ぼくにはすごくおもしろかった」のだけれども、それは、要は大人にとって面白いというか、引き込まれる面白さをしているということで、個々のエピソードがすべて怖いんです。たぶん論理的かつ、自分は何者か?という大人になる儀式のプロセスなので、問いがどれも鋭すぎて遊びがないのです。


何がいいたいかというと、この「ほんとうの自分を探す内面の旅」という物語の類型を描くときに、「なぜその人がそのような深い内面の旅に出なければいけないのか?」という根拠を設定するときに、貴種流離譚・・・・言い換えれば彼女は、プリンセスだからということを強調とすることになっているんですが、にもかかわらず、マウイが冗談めかしてモアナを「プリンセス」と呼ぶのに対して、彼女は「私はプリンセスなんかじゃない」と答えるように、階級、役割を強調していないので、根拠があいまいになってしまうという現象が起きてしまっているんです。これは、プリンセスものを題材として選ぶときの、現代社会における大きな問題点になるはずです。


そういう意味では、実写版で、圧倒的な正統派をキープしながら、アニメではその逸脱を狙ってくるマーケティングセンスは、さすがのディズニーとうならされます。


このポイントは、重要な考えるに値するポイントで、男の子が描けなくなった!といって、男の子の夢の復権を描いた宮崎駿の系譜と、デイズニーのプリンスセスものが持つ、階級社会とノブレスオブレージュの解体、そしてジェンダーとしてのトロフィーワイフでしかない女性の権利・新しい役割の獲得の過程を並列で考えるととても興味深い。日本では、リベラリズムが浸透していく過程は、男の子の夢の解体という形で現れたのに対して、アメリカでは(というかディズニーでは)女の子の過去の役割からの逸脱、自立という形で表れているんですね。これは面白いと思います。ちなみに、この流れは、スターウォーズの最新作にはっきり表れているところも、ディズニーらしい。

この父親殺し、いいかえれば、父親を超えたい、父親のもたらす連鎖をどう断ち切るか?というのは、凄く重要なポイントです。特に米国にあっては、最大のテーマといってもいい。だとすると、カイロ・レンは、ダースベーダーの孫で、レイアの息子です。じゃあ、もう一人のレイは?っていうと、、、、ここは、ルーク・スカイウォーカーの家族の物語、家族のメロドラマこそがスターウォーズの主軸の物語なので、本来ならば、役割的には、ルークの娘としたいところです。しかしながら、それでは、僕は、たぶんこの家族を自覚的に作ることが家族だという家族の解体を逆手にとってリベラリズムの現代の最前線の答えからしておかしい。とすると、なぜ、レイが、フォースを扱えるのか?。いうなればジェダイの血筋なのか?といえば、僕は、フィンのように、何もなかったところから生まれたものだという説をとりたいところです。血がつながっていると、またそれか、要は選ばれた人だけの物語なのか?という問いになってしまうので。であれば、やはり幼少期に、ルークの手ほどきを受けて、フォースの才能を見出されたが記憶を封印されたとか、そういった、ルークにかかわりがあるが、家族の憎しみの連鎖から自由なポジションで、カイロ・レンの父親殺しの憎しみの連鎖と対決するというという構造を僕はおしたいところです。


STAR WARS: THE FORCE AWAKENS』(2015USA) J.J. Abrams監督  現代的かつアメリカ的な映画としてのDisneyの新しいスターウォーズ

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160103/p1


なので、このディズニーの問いの立て方からいうと、レイがの出自がどういうものか?というのが、凄い重要になってきますね。というのは、彼女が、ルークの娘であれば、それは血筋的なプリンセスなわけじゃないですか。そして、物語の神話構造的には「そうあるべき」なんです。でも、ルークって、実はゲイじゃないのか?という説は根強く、かつ俳優もそれを否定していなかったりする。とすると・・・。


ここが世界の物語の最前線。興味深いです。


Star Wars: The Force Awakens [Blu-ray + DVD + Digital HD]

2017-04-08

『銃座のウルナ』 伊図透著  ウルナの愛郷心は、どこへ向かうのであろうか?

銃座のウルナ 1<銃座のウルナ> (ビームコミックス)

評価:未完のため未評価

(僕的主観:★★★★☆4つ半)


なんだろう。大枠を説明すると、女性スナイパーの架空戦記だと思っていたら、かなり手が込んだSFでしたよ!って話。


ウルナ・トロップ・ヨンクという女性狙撃兵が、孤立した島で、蛮族ヅードの侵攻を食い止める砦に配属されるところから物語は始まる。彼女は、志願兵で新兵。本当に普通のどこにでもいる女性。少しずれているといえば、彼女が孤児で田舎の孤児院で、暖かくみんなに愛されて育ったこと。とても愛され幸せだったが故に、愛する故郷を守りたいという愛郷心から兵士に志願したこと。しかし女性だということで、辺境の蛮族の警護という、一見、最前線から遠い重要度の低いといわれる砦に配属される。初日から彼らとの戦闘を経験するが、それは、人間には見えないおぞましい人間大の「歯」だった。



それにしても話が渋いんだ、絵柄も。狙撃兵の架空戦記で、辺境の隔離された島の、雪に閉ざされた砦の話ってだけで、閉塞感あふれるじゃないですか。絵柄も本当に渋いので、こういう渋すぎるテーマと絵柄って、マイナーな穴に落ちて行って、作者の「伝える力」がほとんどなくて、自己陶酔のオナニーになってしまうんだよなぁと思いつつ、読み進めていったら、じわじわと世界が広がって、物語の構造の広がりにつやを感じて、いやはや素晴らしい。まだ新刊は出ていないが、どうもこの島を出ていく話に展開するらしい。まさか、この島を出るなんて設定があるとは思いもよらなかった!(そもそも人気なくて打ち切られるぞ、すぐという感じだったのに)。いやはや、これは、いい作品です。濃厚なマイナーSFの閉塞感という渋さをギラギラもちつつ、物語に広がりが生まれてきています。


それにしても渋みのある設定がいい。女性だけのを描いた白井弓子さんの『WOMBS』などもあるのですが、女性しかいない世界で、しかも兵士しかいないという極限状況でのリアリティがとてもいいんですよ。リベラルが一周して成熟していく過程で、アメリカや余裕のないイスラエルのような国は、女性兵士が一般化しつつある現代。女性の兵士の中にも、様々なタイプがいるのは当然であって、主人公は、とても普通の女性。男勝りに気張りもしないし、レズビアンでもなければ、かといって宗教的熱狂やナショナリズムから狂って志願しているわけでもなく、本当に普通の女性。特になんということもない。それが、逆に、なんというか空恐ろしいという感じがする。女性が中心で兵士をやっていることに、特別感もなければ気負いもない。初回の戦闘で、最初の自分を運んでくれた兵士が、身体をバラバラに引きちぎられる。自分を口説いていた男性のちぎれた頭の肉片を、戦闘後、黙々と片付ける。上官は規律があるが、兵たちは、ざっくばらん。兵士全員が、女性であることを除けば、本当にどこにでもある戦争の現場。まるで、初めて見た時の『西部戦線異状なし』の映画を見ている容易な典型的な。それがとても独特の雰囲気を醸し出している。あたりまえの戦争の物語のワンパターンなのだが、、、これが登場人物が全員女性というわけでもなければ。この枯れ木の様にカサカサした荒涼とした殺伐とした雰囲気を、この設定で描ける、描こうとする作者はなかなかのものだと思います。北の極寒の大地の荒涼がその背景にとてもあっている。

西部戦線異状なし デジタル・ニューマスター 完全版 [DVD]

白井弓子さんの『WOMBS』などは、やはりSFの設定が濃くて、テレポーテーションができる女性を人間爆弾に使うというもので、そのためには、空間移動できるその星の野生動物の子供をおなかに移植して妊娠していると誤認させて、母体がコントロールするというものでした。そのSF設定では、女性の生や母性というテーマがビルトインされており、それはある意味、男性には理解にンシク不可能なセンスオブワンダーというものになるわけですが、『銃座のウルナ』は、そういう特殊な設定はなにもありません。そこがいい。なんというか、SFが好きな人からすると、逆にそういう女性性を使う設定はむしろ定番で。そこをどう料理するかは味付けの妙なんですが、僕は、このウルナは、まったくそういう女性の在り方に特殊性というか、申請しというか、そういうものを置かないで、兵士の日常を表現しているところに、逆にセンスオブワンダーを感じました。女性という性を特別に描くのではなく、普通に人間としてここを描けば、当然に普通の、、、この場合は兵士の日常がそのまま再現されるだけなんです。マッチョマンなやつも優等生なやつも、不真面目なやつもゴロツキも、なんでもいるのが、その多様性が人間で、人間をそういう風に描けば、「普通」にしかならないんです。そこに男性がいなくて、通常は男性のみが行ってきた兵士の世界であっても、それはやはり変わらないんです。というのが、まざまざを見さえつけられて、なかなかのセンスオブワンダーです。

WOMBS(1) (IKKI COMIX)

うーむ、こう書いてきて、この作品の主人公のウルナの動機、、、これって『西部戦線異状なし』の時の兵士のようなものだな、と思えてきた。SFではあるが、それ以上に、この女性が、彼女の愛郷心が、どこへ着地するのかを見てみたいと思わせる。だから、やっぱり、この作品は3巻以降何処へどう展開するのかが、肝になるような気がする。この島を出て、この実験を、この子とした政府と国家に彼女は何を思うのだろうか。


ちなみに、狙撃兵というのがこの作品テーマではないですが、狙撃兵の話というと、『GROUNDLESS』がおもしろいです。


GROUNDLESS : 1−隻眼の狙撃兵− (アクションコミックス)


ちなみに、有名な狙撃手を扱った物語では、クリス・カイル 1974-2013(アメリカ)を描いた『アメリカン・スナイパー』やヴァシリ・ザイツェフ 1915-1991(ソ連)を描いた『スターリングラード』などがありますね。これらも参考に見ると、この類型の物語の広がりがいろいろ見えてくると思います。


スターリングラード [Blu-ray]


アメリカン・スナイパー [Blu-ray]

2017-04-03

『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命(英題:Jackie)』(2016 USA)Pablo Larraín監督 キャメロットという夢の日々〜理想主義は結局、何ももたらさない不安がある

Jackie [Blu-ray]

評価:★★★★4つ

(僕的主観:★★★★4つ)


■物語としては面白くないが、映画の完成度は高い


一言でいうと、物語として面白くない。しかし、映画としての完成度は高い。

第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ、いわゆるJFKの業績を知らないと、さっぱりわからないようにできている。ファーストレディを務めていた時期と1963年のテキサス州ダラスで夫のジョン・F・ケネディが暗殺された以降のジャクリーン・ケネディを描いている。この映画は、JFKが暗殺された直後のジャクリーン・ケネディ・オナシス(ケネディ夫人)の、夫の死を間近で見て、華やかさの頂点にあるファーストレディーからいきなりその地位を追われ、心が半分壊れながらも、その最後の瞬間に彼女が、夫の業績をいか偉大に残すかにこだわり腐心したかを、記者のインタヴュー形式で振り返るという心理ドラマになっている。とても格調高く、背景の説明をバッサリ切った、思い切りのいい作品であり、いい映画だとは思う。フォーカスした部分の演出は、際立って成功しているからだ。ただ、JFKの神話という大きな幹をばっさり説明をせず、当然わかっているという前提のもとに、彼女の妻のジャクリーンにフォーカスしているため、「そこ」に知識がないと、なぜ彼女が半分壊れながらも、夫を偉大にするための儀式にこだわったか、なぜキャメロットというアーサー王の宮殿にホワイトハウスの日々を呼ぶのか、そしてなによりも、彼女がそうせざるを得なかった動機が、大きな視点でわからなくなってしまう。なので、格調高い映画ではあるが、物語としては、あまり人気が出ないマイナーな作品になるのではないかなと思う。「これ以前」が描かれなくて、前提にしてしまっているので、それではこの作品単体で、なにを言っているのかがわからない。ただし、この難解というか、半分壊れた女性の緊迫した演技を演じきった、ナタリーポートマンは、素晴らしかったと思う。


■キャメロットという夢の日々〜理想主義は結局実際の実績を何ももたらさない不安がある

この物語を見ている最中に、ずっと、小野不由美さんの十二国記シリーズの『華胥の幽夢』の華胥華朶の短編を思い出していました。この作品は、僕の山ほどの小説を読んだ中でも強烈に忘れられない印象を残していまだ夢にまで見る作品で、理想主義というもの、若者の目指す夢というものが、どれだけ現実を直視できず、社会にとって罪悪であるかを、これでもかとせつなく描き上げたものです。しかし、彼らは年をとっても、そのキラキラとした夢を懐かしみます。今の全共闘世代のように、昔は良かったと懐かしむんです。この過去を憧憬で仰ぎ見たり、理想主義の出発点や動機の華々しい部分だけを見て、その後の実績と現実に裏切る場面を切り離してみることは、どれだけ醜く、悲しく、哀れなことかを、人間の、特に理想主義に燃えた人々の悪意癖です。しかし、その理想主義の動機を否定していいわけでもない。なのでせつないんです。この話は。

華胥の幽夢 十二国記 (講談社文庫)

なぜこれを思い出したかというと、弟のロバート・ケネディが作中で叫ぶように、自分たちは何もなさなかった、公民権運動も、宇宙計画も、すべてはジョンソン大統領に手柄になるといっているように、JFKの神話は、結局のところ、実際に何を成したか?という歴史視点で考えると、ほぼ何もしていないに等しく、唯一のキューバ危機の回避も、自分がキューバにきつく出すぎたせいのリアクションでマッチポンプなのではないかという批判が絶えない。このことを考えると、理想主義的でいまだアメリカにとても人気のあるケネディの最も大きな特徴は何かと問えば、実は、理想主義が現実に裏切られる前に暗殺されたので、現実に理想が負ける瞬間を見なかっただけだ、と歴史的な評価では言われているものもある。僕も、詳しくないので、この映画をきっかけにケネディの時代をもう一度追ってみたいな、と思うのですが、たしかに、この後のLyndon Baines Johnson(ジョンソン大統領)の方が、公民権運動、もともとニューディーラーであったことから国内失業率の減少と、国内には高い業績をもたらしています。すべてはケネディの課題だといわれればそうですが、それを成し遂げるに十分な素質と実行力があったのも確かで、ケネディにそれがあったかどうかは、わからないからです。それが試される前に、すべてが終わってしまった。あとはできることは、伝説を、伝説として印象づける印象操作しかありません。そして、歴史がつくられるとき、そういった印象操作、それを詐欺でもウソでも捏造でもいいですが、そういったところで、それを大衆が望み、多くの人に拡散していく中で選び取られていくことが、その出発点を盛る行為が本当にダメだと言い切れるのか、は難しいところだろうと思います。アメリカの人々にたくさんのものを与えてくれたキャメロットに、非常に批判的な姿勢の記者は、価値があったものだと肯定態度をとっています。


そういうせつなさを全編に感じる映画でした。ずっとジャッキーに寄り添っている弟のロバートケネディも、この後、暗殺されます。ここで父の意味の死がわからない、幼い息子は、飛行機事故で亡くなります。ケネディ一族の神話は、この後、悲しさに包まれていくことになります。


アーリントン墓地のケネディの墓にいったのですが、なぜ奥さんが、子供が一緒に埋葬されているかわからなかったし、なぜあそこなのか?がわからなかったのですが、映画を見て、なるほどと唸りました。あのシーンなども、ワシントンDCのアーリントン墓地に行きなれていないと、わからないかもしれませんね。

この映画を見ていて、なんどもジャッキーが、キャロラインに呼びかけるシーンがあります。日本人としては、つい最近まで、キャロライン・ケネディは、駐日大使で様々な場面で顔が認識できる人でした。ノラネコさんのおっしゃる通り、地続き感が凄く印象的でした。それと、アメリカでは、ファーストレディの位置づけは、選挙で選ばれたわけでもないのに公的な注目度は高くなってしまうため、、長く論争があり、それぞれの大統領夫人の様々な業績で、今日の姿がありうます。特に、エレノア・ルーズベルトや、ナンシー・レーガン、ヒラリー・クリントン、そしてミッシェル・オバマと様々なタイプの夫人がこのポジションにあり、人生を戦ってきた流れが、アメリカにはあります。特に、ヒラリー・クリントンは、もう一人の大統領といってもいい手腕で、かつ実際にその後NYの上院議員になり、国務長官として辣腕をふるい、ついには敗れはしたものの大本命の大統領候補として、2016年の選挙をトランプさん45代大統領と闘っています。それから考えると、首相夫人が、このように注目されたのは、初めてで、安倍さんの奥様の昭恵夫人の行動は、いい悪いの評価は別に、米国型のファーストレディが一つの形として注目されつつある時代の反映なんだろうと思う。僕は私人公人論争はよく知らないのだが、その国の最高権力者の奥さんが、トロフィー・ワイフ的な形、専業主婦的な家庭を守っているだけという形を超えて、そのポジションで何を為すかが、問われるのは一つの時代の流れだろうと思う。そういう意味で、歴代ファーストレディの在り方はとても興味深いと思った。まだ日本では、見ぬ形ですから。これから現れるものになるでしょう。


ちなみに、ケネディ大統領関係の映画で有名なのはオリバーストーン監督の『JFK』やロジャー・ドナルドソン監督の『13DAYS』、ピーター・ランデズマン監督『パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間』ですかね。

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パークランド ケネディ暗殺,真実の4日間 [Blu-ray]


それと、このドラマかな!なんといっても。


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2017-04-01

『お嬢さん(英題:The Handmaiden)』 (2016 South Korean film) Park Chan-wook監督 confidence gameの果てに

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評価:★★★★★星5つ

(僕的主観:★★★★☆4つ半)

145分の長尺をまったく飽きさせない怪作。


日比谷シャンテのTOHOシネマズで見たのだが、見に行ってよかった。何故行ったのかというと、舞台が1930年代の日本統治下の朝鮮であり、奥深い森の奥に建てられた館で繰り広げられるコンゲームというオリジナル感というか、ありえない感というか、意味不明感だけで、これは見に行っておかなくちゃ、という視聴意欲がわいたから。その後、ノラネコさんが高評価で紹介していたり、なんといっても名監督であるパクチャヌク監督、僕にとっては復讐三部作よりも『JSA』がほとんど初めて韓国映画を見た作品で、そちらの記憶が色濃いのですが、彼だとわかって、これはいかねばと。


原作は、傑作ミステリーの英国の作家サラ・ウォーターがビクトリア時代の英国を舞台に描いた「荊の城」。ちなみに、成人指定の官能映画でかなりの濃厚なベットシーンがあって、先の見えないコンゲームの官能サスペンスに仕上がっている。


荊[いばら]の城 上 (創元推理文庫)


韓国人監督の下で、韓国人の俳優たちによる韓国映画なのですが、主要部分が日本語という、それだけで、大丈夫か?といぶかしんでいた。また、日本統治下の韓国のリアルというのも、映像的にいまいちイメージがないので、なんだか変な張りぼて感の作品であったら、悲しいなと思って心構えていた。まぁ、その「おかしさ」を体験するのも一興的な気分ではあったのですが。とはいえ、どうしてどうして脚本的に、日本に占領されて植民地であるにもかかわらず日本崇拝主義者で、日本人と結婚して上月という名前を手に入れた大金持ちや、日本人を演じる朝鮮人詐欺師など、全編メタ的な文脈(=何が本当なのかニセモノなのかが複雑に入り組んでいる)が濃厚な中で、ハングル語アクセントの日本語で話される会話は、日本人の観客にとっては、とても不思議な感じがしました。これが、おかしいとか、違和感だけではおさまらない「おかしみ」がある。こうしたクレオール的なものは、既に一つの文化だ、ということを世界を回った経験から感じるからかもしれない。なんとなく、なんじゃそれ?というような中国語を全編しゃべる日本人俳優で描いた岩井俊二監督の『スワロウテイル』を連想しました。

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が、さすがパクチャヌク監督。物語世界に没入するうちに感じる、圧倒的な大正時代や昭和初期の日本の江戸川乱歩のような雰囲気に感心した。様々な、メタ的構造、バランスの悪さ、そういったものが溶け込んで145分を飽きさせないし、しらけさせない。この鹿鳴館のような洋風になり切ろうとしてなり切れないうちに、微妙な中途半端さで馴染んで落ち着いてしまった感じは、まさに1945年以前の東アジアの濃厚な雰囲気。そして、あのおどろおどろしさは、市川崑監督の横溝正史シリーズなどを思わせるミステリー感。それでいて、日本のローカルなミステリー作品にはない、広がりというか雄大さを感じさせるのは、やはり韓国映画作品かもしれない。さすがの才能パクチャヌク監督です。うーんこの「雄大さ」というのは、言葉で表現するのが難しい。日本の金田一シリーズとかのミステリーは、古いしきたりに支配されている村落共同体に閉じ込められるというような構造をとりやすいのですが、同じ森深くの孤立した貴族の館という狭い世界に閉じ込められる作品であるにもかかわらず、何か、よりもっと広く遠い世界につながっている感じがする。大陸的とでもいおうか。うーん、うまく言うのが難しい。日本映画ではない匂いがします。


とにもかくにも、映像を見れば、この張りぼてのような和洋折衷の中途半端さがきちっと実在感をもって上品にキープされている(官能エログロの作品なのに)ことに驚きを感じます。



また、こうした江戸川乱歩のミステリーのような「雰囲気」の部分に重ねて、骨太の脚本であるコンゲームになっているところが、素晴らしかった。con gameはconfidence gameの略で、信用詐欺の意味。これが転じて、二転三転するストーリーのミステリー小説や映画のジャンルのことなのですが、なかなか日本の作品でこうしたコンゲームのいいものはお目にかからないのですがアメリカ映画にはたくさんありますね。たとえば、『スティング』『オーシャンズ11』『ソードフィッシュ』などがパッと思い浮かびます。

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日本の作品で思い出すのは、井上尚登さんの小説『T.R.Y』ですね。確か織田裕二さんで映画化していたはず。僕は、とても好きな映画だった。アメリカの映画などは、背景の歴史やガジェットがそこまで詳しくないので、純粋に詐欺のトリック自体を、言い換えれば脚本を楽しむ部分が強く、逆に、大森一樹監督の『T.R.Y』なんかは、やはり戦前の20世紀初頭の上海が舞台という場所を得ないと、大きな詐欺に現実感を持たせるのは難しいのかもしれえない。現代日本で、こういう大がかりな詐欺があったら、すぐばれるか話題になってしまって、なんだか違う話になってしまいそうな気がする。

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クライマックスの暴力と官能のシーンは、哀れにコンゲーム負けてしまった男たちの末路が描かれるが、詐欺師藤原伯爵の、すかしたというか、すっとぼけた諦観した態度が、いかにもらしくて、良かった。あれだけの暴力と絶体絶命の中にありながら、あのとぼけた感じは、見事と感心した。この作品は、男に搾取されて虐げられていた女性が、男性たちを騙し返して状況をひっくり返す物語なのですが、最もキーとなる詐欺師である藤原伯爵の態度が清々しかった。騙されて裏切られたこと、自分の欲望と人生を否定されて踏みつぶされたにもかかわらず、自分を見失わす淡々と達観して受け入れて、あれだけの暴力にさらされながら、その受け入れた感覚にブレがない。なかなかどうして、詐欺師なとはいえ、覚悟がある態度に、なんだか不思議な重みを感じました。


人口5千万人の韓国で400万人を動員したという成人映画(韓国人、映画が好きすぎ!)なのですが、日本人が見ると最も面白く味わえる映画だと思います。というのは、全編日本語の、かなり極端な卑猥な言葉の連続で、この言葉の持つ「おかしみ」のニュアンスを分かるのは、そりゃ日本語が分かる人だよなと思います。また日本のヘンタイ文化の韓国的解釈とノラネコさんが書いていたが、まさに、外部から見た日本のヘンタイ文化を、しかも一つの様式にまとめているおもしろさは、やはり直にそのオリジナルを知る日本人の方が、面白さが膨れ上がると思うのです。そうでないと、ある種のオリエンタリズムというかエキゾチズムになってしまうと思うので。それにしても、なかなか見れない、非常に興味深い映画だと思います。


JSA 4Kデジタルリマスター版/Blu-ray

2017-03-26

『SING/シング(英題:Sing)』(2016 USA)監督ガース・ジェニングス  物語を見るよりは音楽を聴く映画なのだが、それを邪魔しないスムーズな脚本は見事

Sing (Blu-ray + DVD + Digital HD)

評価:★★★★4つ

(僕的主観:★★★★4つ)

素晴らしくよかった。歌のオーディション形式で、さまざまな洋楽(アメリカの歌謡曲が多い)がでてくるので、洋楽をたくさん知っている人であると、あの曲が!というような連想と懐メロの懐かしさなど、面白さが何倍も跳ね上がる。ミュージカルではないが、アメリカの楽曲を楽しむ、という構成の映画なので、知らないと本質的にはもったいない。しかし、英語版と吹替え版を、交互に見れたら、とても子供の教育というか、音楽体験には素晴らしいと思う。DVD買って、家で子供に見せると思う。吹替え版があると、英語の歌も日本語に吹き替えて翻訳されたものも、両方楽しめて二倍おいしいといつも思う。決して、英語のだけが本物だ!とは思わない。素晴らしい楽曲だった『アナと雪の女王』のLet it goは、松たか子の日本語の歌の方がオリジナルよりはるかに情感があってよかったと思っている。



ユニバーサルの子会社で、3Dアニメを作るイルミネーション・エンターテインメント(Illumination Entertainment)がつくっているのですが、『ペット/The Secret Life of Pets』『ミニオンズ/Minions』『怪盗グルーのミニオン危機一発/Despicable Me 2』などで有名で、子供には大人気でしたので、僕はほとんど興味なかったのですが、子供を連れていったらこれが大ヒットでした。



★5。主人公である劇場主のコアラのバスター・ムーンが好きになりきれなかったんで★4ですが、それはほとんど評価に影響を与えるものではない傑作です。脚本の整合性は、嫌な奴である彼が、すべてに失敗して自分を捨て去ったところから立ち上がるというところにドラマが設定されているので、嫌な奴じゃなきゃいけないんですしね。アメリカンアイドルのような、オーディション形式なので、様々な自分の居場所がない、自己実現できないといった不遇を抱えている各キャラクターたちが、自分自身を見出していく成長物語になっているのだが、それぞれの個々の思いを示現できる「場」が劇場であって、バスター・ムーン(コアラ)の自己実現は自分を押し出すことではなく、個々の多様なクリエイターに場所を提供するのだと気づくことで、成功を取り戻していくという脚本。おのおのの見せ場を見せながら、全体としてのハーモニーを保っている見事な脚本。それぞれの歌の見せ場とドラマがあるので、軸が失われてしまいやすい脚本になりそうなところを、バスタームーンの劇場の意味と価値を見出していくところに軸を置いたシンプルさは、見事でした。安心して見れるし、子供でもよくわかるシンプルな筋書きです。


個人的なツボとして、この物語の見どころは、コアラのバスター・ムーンが、劇場のすべてを失って、車の洗濯屋をはじめるところ。彼は、劇場を父親の援助で立ち上げているが、その父親は、洗濯屋でコツコツ金をためて息子の夢を手助けした人なので、もう一度、振出しに戻ったのだ。これが、大笑いで、海水パンツに水中眼鏡で、自分の体に石鹸をぬって、車に飛びついて体で泳ぐように洗う。全身モップ(笑)。何もそこまで落ちなくても、という落ちっぷり。超印象的なのか、3歳の娘も、コアラが泳いでるやつ!と終わった後、ご機嫌にしゃべっていたので、大人だけでなく子供が見ても、あのウルトラ変わりようは、大うけみたいです。なのですが、感心したのは、友人で金持ちの子供エディ(ヒツジ)が、それにつき合っているところ。いっしょにやっている。大金持ちのボンボンで、無職のニートくんで、たぶん働いたこともないようなやつが、バスター・ムーンにつきあっているのだ。これ、なんか僕はぐっと来た。それと、ああ、中身もないのに自信過剰でごまかしてばかりのコアラは嫌な奴にみえるけど、こういうときに付き合ってくれる友達がいるんだ、とじーんとした。エディとの付き合いは、依存関係に見えるけれども、少なくとも社会的ステイタスの上下で動くようなものじゃないんだ、というのがよくわかって、ああ、そういう友達がいるやつなんだ、と感心したもの。


人間の本質は、落ちぶれた時、ダメになった時に出る。その時に、どういうふるまいをするか、どいう仲間がいるかで、その人自身が生きてきた人生がわかる。In the end, we are our choices.(つまるところ、我々自身は、それまでの選択の総体なのだ)by Jeffrey Preston Bezosなのだ。なるほど、最後の最後で、自分ではなく、みんなの歌う場を作りたいと「思える」ようなやつなんだ、というのがこれで、スッとわかった感じがしたからだ。人間、どん底に落ちないと本質は見えないし、本当に自分のふるまいの変化は訪れないものなんだよね。


個々のキャラクターたちのドラマは、ぜひとも作品で見てもらえばいいと思う。


Secret Life of Pets (Blu-ray + DVD + Digital HD)

2017-03-24

『エロマンガ先生(8) 和泉マサムネの休日』 伏見つかさ著 そうだよね、そこにいくしかないよねっ!

エロマンガ先生(8) 和泉マサムネの休日<エロマンガ先生> (電撃文庫)

評価:未完のため未評価

(僕的主観:★★★★★5つ)

やっぱ大好きです。もうね、名人芸だよなって思います。なんか、もう伏見さんの作品を読むときには、小難しいこと考えなくなってしまいました。とにかく、ついてほしいところに正拳突きが来る感じ。物語の素晴らしさって、こういうのじゃないかな、と思うんですよ。特に、難しいことを考えなくても、とにかく好き、楽しい、その世界が愛おしい。もちろんこんなご都合主義の話なんかいやだとかいう人もたくさんいると思いますが、僕は好きです。そして、好きならば、きれいにすっと、堪能させてくれるうまさがあります。いやーほんと、、、、どうなんだろう、僕は全く、気持ちがそれないで、スッと入りこんで、読んでてもだえる感じなので、この人文章がうまいんだなーとしみじみ思います。うまいって、技術の話ではなく、その世界をきれいに伝える力とでも言いましょうか。


イヤーこの巻は、ぐっときました。


小説を掲載サイトのエピソードとか、ウェブ小説に読み慣れていないと全く分からないと思いますが、読み慣れている人ならば、あまりにご都合主義ではあるとはいえ、それは、ありえないことではないと感じちゃうじゃないですか。


もう、結婚しちゃえよ!


って思ってたんですが、、、、、(笑)。個人的には、「見たいものを見せてくれた」って感じがしています。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』は、設定の妙というかフックがあったからこそ、あれだけ売れたんですが、でも実の妹と結ばれるのは難しいじゃないですか。もちろんそれを乗り越える大恋愛ロマンにすることもできなくはないでしょうが、そういうのってテーマじゃないし。物理的な障害がない状態で、ばっちり結ばれてほしいよね、運命みたいに。やっぱり恋愛の物語って、それがコアじゃないですか。


そう考えると、、、、伏見さんって、妹好きなんだなって、しみじみ思います(笑)。というか、こうして物理的障害をすべてなくしてしまうと、家族であること(=ずっと一緒にいること)と、恋人であることというものの違いを考えるというとてもいいロールというか構造だよなって思います。そんで、これが重なるところって、結婚しかないよね(笑)そりゃ。


エロマンガ先生 妹と開かずの間 (電撃文庫)

2017-03-22

『ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜』(2017 Japan) 神山健治監督 掲げた設問に対して答えていないのは、ドラマとして失敗だと思う

小説 ひるね姫 ~知らないワタシの物語~ (角川文庫)

評価:★★★☆3つ半

(僕的主観:★★★☆3つ半)

神山健治監督のオリジナルの長編映画ということで期待して見に行ったのだが、うーん、普通の作品だった。決して、悪い出来ではない。でも、映画館にガチで見に行け!と勧められるほどの作品でもない。ちょっと残念だった。『東のエデン』から続く神山さんの文脈で解説することは可能だし、その文脈の発展途上のワンステップとして語るのも可能なんだけど、はっきり言って僕の琴線には今回はふれなかった。「琴線に触れなかった」という言い方なのだが、だからといって駄目でもないし、よくまとまっているし、名曲「デイ・ドリーム・ビリーバー」など様々な演出も効いていて、一流の作品であるのは間違いないと思う。けど、ガツンとくるものがなかった。なので、おすすめできない。


なぜこんな風に、ガツンと感じることがない作品になったのだろうか?。演出などのまとまり感など総合力はさすがの感じがするにも関わらず。いくつかポイントがあるのだが、メッセージがはっきりしていないので、もやもやしていることが、僕の結論だ。

この脚本の本質は何か?と問うたときに、やはりどう考えても、グーグルとトヨタの対決とでもいおうか、プログラム・ソフトウェアとハードの対立の寓話になっているんですよね。これ自体は、寓話にする価値のある大きな神話的な物語なんだけれども、ぶっちゃけていうと(ネタバレ)、この自動運転の開発者のココネのお母さんは、たぶんテスト中に死んでいるんですよね?。ということは、この流れだと、自動運転のソフトウェア自体の否定の物語にしか展開しないはずなんですよね。だって、自動運転の安全性が確認できていない段階での開発総責任者のテスト中での事故死なんて、もう終わりじゃないですか。たぶんココネのお父さんは、このまだ未完成のソフトを完成させた、っていう設定なんだろうと思います。「思います」というのは、このあたりの対立構造と、ミクロのテーマが、明示されていないんですよ。だから、もやもやっとする。もちろん、はっきり言えばいいわけではなくて、この物語を比喩的な寓話になぞらえたかったんだろうと思うんです。でも、あまりにあからさまなこれは、隠してもわかってしまうし、、、、。僕はこのあたりのドラマがはっきりわからないので、???ってなったしまって、結局この物語は何がいいたいのかな?と思ってしまいました。最後のシーンは、あのテスト中にお母さんが死んだのじゃないかな?と思うのですが、ぜんぜんそういうのも描かないじゃないですか。だから、あれが前向きなのか、苦しい思い出なのかもわからない。絵的には、前向きな希望に満ちた過去の回想なんだけど、頭で考えればあれがお母さんの事故死のシーンとしか思えない。だとすると、これ、厳しい話じゃない?なんで、こんな希望に満ちた感じの絵の回想なの?って不思議に思ってしまう。


えっと、ようはね、自動運転は素晴らしいものなのか?。そういう未来が来るべきものなのか?という設問にこの物語は答えていないんですよ。それは、設定しておいて、卑怯だって僕は感じます。


どっちもありだとは思うんですが、はっきりしないので、もやもやする。二項対立を掲げて、それをぶち壊したい場合には、『もののけ姫』のドラマツゥルギーと僕は呼んでいるんだけれども、3番目のはるかに大きな出来事を起こして、二項対立の基盤自体を飲み込んで破壊してしまうという手法があります。けど、それには、二項対立自体をぶち壊すような圧倒的なカタルシスとパワーがいる。この『ひるね姫』にはそれはない。ないならば、掲げた設問に答えを出してよ!と思うのだけれども、比喩的寓話でそれがぼかされてしまっているという風に、答えがもやもやッとする。なんだか逃げている気がする。だって、キャラクターたちは、特にそれに命を捧げたココネのお母さんは、「それ」に命を人生を懸けているじゃないですか。なのに、もやもやってするメッセージって、、、なんかあり得ないと感じてしまう。


神山さんは、『東のエデン』の時にも、まだ来ていない未来について断定は避けるし、「そこ」に足を踏み入れると、構想力がほぼなくなってしまうようなので、設定はうまいのだけれども、それについての打開力というか、その後の世界を描く力がほとんどない。これは、そういうやり方で物語を作る人だからなのかもしれないですね。凄い作家なだけに、ここはとても残念です。


『東のエデン(2009 Japan)』 神山健治監督  ニート(若者)と既得権益世代(大人)の二元論という既に意味のなくなった二項対立のテーマの設定が失敗だった

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20141009/p1

東のエデン 第1巻 (初回限定生産版) [Blu-ray]

『東のエデン』のアニメシリーズに★5つで、映画を★2つ(僕の中では落第レベル)にしているんですが、これって、テレビは長い「シリーズ」なので、問いかけるプロセスを楽しむことが可能なのだけれども、劇場は長くても3時間もないわけで、一本の作品として、はっきりとしたメッセージを出してほしいというのに、それがない。だとすると不満になってしまう。


このもやもや感は、他にもいろいろあって、これが家族の物語であって、この物語は、ココネのお父さんとお母さんの恋の物語なんですよね、本筋は。なのに、娘のココネが主人公になっているところが、よくわからなくなってしまった。誰に感情移入するべきなの?って、揺れ動いてしまった気がする。だから、ココネの相手役の男の子が出てきても、えっとこの子の役割は何なのかな?と考えると、何でもないんですよね。そうすると、えっ?、じゃあ、ヒロインはだれ?って、思ってしまう。はっきり言ってしまえば、ヒロインは、ココネのお母さんで、ヒーローは、ココネのお父さん。であれば、この二人の話を、この二人で描くべき。それが娘という焦点を作ったために、意味が分からなくなった。ヒロインが明らかにお母さんなんだもん。ココネの、ココネ自体の物語がどこにあるかわからなくなってしまった。この部分が本来は泣ける部分なんですが、その辺の整理の悪さが、???ってなってしまって、すっと腑に落ちていかないので、感動しにくい。凄い惜しい、見事な脚本というか発想なんだけど、演出がうまくいっていない。ココネの物語になり切れなかったんだと思う。


そしてもう一つ。結局、エンシェンと魔法のタブレットのお話の方は、あれはなんだったのか?。結論として劇中で見る限り、ただの「ココネの夢」だったわけだけど、、、、「ただの夢」だとすると、あの子、かなりイタイやばい子じゃないの?って思うけど、別にそういうこともない感じ(劇中でそういう風に描かれていない)なので、だとするとあれだけ細密なもう一つの世界というのは、なんだかおかしい。ファンタジーになり切れていないのに、妙に世界がリアルで確固たるものとして描かれているので、???ってなってしまう。


全体的に中途半端。


これを多分比喩的な寓話にしたかったので、明示させるのは避けたのは演出方針だったのだろうと思います。なぜならば、全体的にすべて意思を込めて寸止めにしてたり描かないので。でも、僕はそれによって、少なくとも、もやもやッとしてしまった。かなり一流のレベルまでまとまっているのにもかかわらず、というか、そのレベルでは、このもやもやは打ち破れていない。だから、★3つレベル。


ちなみに、お母さんが死んでしまったあとに、その子供が、、、というと、僕は『ふたつのスピカ』をとても思い出す。でなければ、エヴァンゲリオンのシンジ君と碇ユイの関係ですね。お母さんという大切な人の死をもたらした「新しい技術」にどう向き合うか?というのはとても大きなテーマで、夢に生きる人は、この問いを常に突き付けられます。お母さんがというのではなく、夢を取るのか、人間を取るのか?と。宇宙開発などにはつきもののテーマですね。『プラネテス』の問いもそうでした。こういったテーマの射程距離のも入らなかった。そういう意味では、うーん、おすすめできるほどじゃない。


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2017-03-21

『ソードアートオンライン オーディナルスケール』(2017 Japan) 監督 伊藤 智彦 脚本 川原礫 やはりアスナのおっぱいが凄かったです。キリト君ダイブしてたし。

評価:★★★★4つ

(僕的主観:★★★★☆4つ半)

仲間内の評判が高く、見に行ってきました。いやはや、たいした出来でした。唯一の問題点というと、SAOシリーズの各作品を見ていないと、つながりがわからないという部分ですね。でも、SAOは既に大サーガになっている作品ですから、これ単体で見れるようにする必要はないから、これをマイナスのポイントにする必要はないと思いますね。明確な本編シリーズとの連続性を意識する作りは見事でした。これだけシリーズがしっかりしていると、幹から外れた作品は描きにくいのが通常です。サーガの正統な幹の部分をいじれないからです。そこは原作者の川原礫さんのオリジナルであることは効いていますね。原作者が脚本を書くことは、必ずしもいい結果を生むというわけではないのですが、このように明確に本編とつながりを持って描ければ、別ですね。通常のアニメ化作品の映画かって、総集編か、ほとんど枝葉末節なエピソードのあまり意味がないものが多いのですが、これは違います。単体の映画として出来がいいし、本編とのつながり感もがっつりです。というか、これ本編ですよね。もう。なので、見に行っとくのをおすすめです。


というか、ぶっちゃけ、最後のシーンがアリシゼーション編につながるシーンはぐっと来ますね。SAO will return.アリシゼーション編は、日本のエンタメ史の中でも重要な作品だと思いますし、僕自身も全エンターテイメントの中でも特段に大好きな作品ですから。これが映画かテレビシリーズで続くという宣言ですよね、これ。もうこれだけで、おなかいっぱいでした。SAO好きな人は見る価値があるものです。映像がとても動きているのでバトルシーンがかっこいいから映画館で見るのがおすすめですが、「そういう」理由よりも、こういうのは何よりもイベントのリアルタイム進行の渦の中に自分が入いっているか?というのが重要で、SAOが好きな人は、やはり映画でいっておきたいところですね。


■アスナのおっぱい

この映画の見どころは、と聞かれると、アスナのおっぱい、と答える人が多いのではないでしょうか(笑)。それほどまでの存在感でした。服を着ているとそこまでそこまで存在感を主張しないのですが、脱いだら、、、こんなに凄かったのか、という驚きのボリューム感。それだけではなく、キリト君が、アスナを抱きしめるというか、アスナにベットに向かってダイブするシーンがあるんですが、このシーンとても深刻なんですが、、、、正直に、ああ、やっぱり「その胸」に向かってダイブするんだよね、たしかに「そこ」に「それ」があったら、ダイブせざるを得ないよね、、、ととても男の子らしい気持ちになりました。


これ凄いことだと思うんですよね。僕の人生で革命(=れぼりゅーしょん)と呼んでいるガイナックスの『トップをねらえ!』ノタカヤノリコのOPでの走る時の胸の揺れる柔らかそうな感じ。これを思い出しました。これを見て、青少年だった僕は、胸ってこんなに柔らかかったのか!!!(別に触ってはいないが)と衝撃が背中を走って以来、アニメーション作品では幾多の胸が描かれてきましたが、あの革命に匹敵する柔らかさって感じたことなかったんですよ。それはもうあからさまな描写のものもたくさんありましたが、そういうんじゃ、男の子のナイーブな心は、なかなか動かないんですよ。性欲で動くのは、そんなもんは動物だ!!!!と思うんですよ、いや動物なんですが。。。そういう直接的ではない、何らかの「手が届かないもの」の柔らかさの表現って、なかなかなかったんですよね。

トップをねらえ! Blu-ray Box

今回だって、別にあからさまではないじゃないですか。お風呂でヨコ乳が少し見えるくらいのもんですよ。でも、えっ!!!って思うんですよ。革命は起こりませんでしたが、政権交代は起こりましたぐらいの感じです。それも長期独裁政権の打倒ぐらいの感じです。なんでこんなに、おうっ!と思ったのかは、やはりアスナのヒロイン度が圧倒的だったと思うんですよ。キリト君とのイチャイチャ度も半端ないじゃないですか。もう少女マンガかよって感じなくらい。あの圧倒的な、私が正妻です!、ヒロインです!、主人公なんです!的なオーラと特別感があればこそ、だと思うんです。

ラジオでもずっとLDさんと話していることですが、SAOというのは不思議な作品です。何が不思議かというと、この作品は神話的なんですね。とても古いタイプの主人公の成長物語で、すべてのキーがキリト君に集まってしまっている。こうした古典・神話的な作品構造は、既に相当飽きられていて、普通に作ると、バカにされて消費者がついてこないことが多いのですが、なぜかこのSAOは、そこがいいっていう感じが凄くするのです。実際に、凄まじいライトノベル売れ行きからも、この作品の人気ははっきりしています。


その問題意識とつながるのですが、アスナのハーレムものの中での圧倒的な正妻感は、これもまたすごい。『とある魔術の禁書目録』のインデックスさんの悲しい存在感の薄さなど、ハーレムものの持つ構造、ヒロインの並列、ヒロインの逆襲などの構造から、そうなるのが普通なんですよね。なのに、まったくそうならない。アスナのヒロインたる存在感はスゴイです。これたぶん、最初の神話構造をてらいもなく運用して、はばかることがないというところとつながっていると思うんですよね。このことと、原作者が、プログレッシブを書こうと思ったことと、つながるとも思います。ちなみに、『月曜日のたわわ』の比村奇石さんの漫画版も素晴らしいですよ!。

ソードアート・オンライン プログレッシブ (1) (電撃コミックスNEXT)

神話的というのはどういうことかというと、LDさんが、2巻のフェアリ・ダンス編で出てくるアスナを「アルヴヘイム・オンライン」(ALO)の中にとらえる須郷伸之という悪人が出てくるんですが、このちょっと頭のねじがきれたストーカくんは、ずっとアスナをリアルでもゲームの中でもとらえているんですが、ルイさんが「なんでレイプしちゃわないんだろう?」と不思議がっていた、というんですね。えっとどういうことかというと、この状況下でほとんど頭が狂っている犯罪者が、我慢する理由は何だろう?と。はっきり言ってないんですよね。つまりは、物語のご都合主義の力によってアスナが汚されないという力学が働いているだけ。LDさんは「キャラが置かれている」といいうような言い方をしていましたが、ようは神話的な物語として、主人公の壁となって立ち現れる「悪」の存在として抽象的に設定されているだけで、キャラクター自身の意志があるわけでも逸脱もないということをいっているんです。これは近代的な物語作品としては、つまらなくなるんです。だって、そこにキャラクターの自由意思があったら、この状況下でアスナをやっちゃわない理由は、どう考えてもない。本人、頭もほぼ壊れてるし。でも、しない。こういう、設定のために設定が置かれているものがご都合主義的に多くて、にもかかわらず神話的な古さを感じないで、安定的にヒロインやヒーローの物語がに収束するのはなぜか?という問いですね。これは、これからも少し考えていきたいと思います。


話が長くなったのですが、、、、、今回の脚本は、主人公じゃないものの叫びを聞こうという文脈で、ユナちゃんの話とか、いやはや川原さんの目のつけ所と脚本力は素晴らしいと思うんですが、、、、アスナのおっぱいの力で、僕の記憶からは吹っ飛んでしまいました・・・・ごめん、ユナさん。。。それくらい、すごかったんです。


まぁ、なにはともあれ、SAOは、まだまだ面白いですね。続きが楽しみです。アニメ第三期かな?。


ソードアート・オンライン (18) アリシゼーション・ラスティング (電撃文庫)

2017-03-20

『ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』(2017 Japan) 監督 高橋敦史 時間と空間の謎解きでSFマインドを掻き立ててくれる秀作

評価:★★★☆3つ半

(僕的主観:★★★☆3つ半)

声優が変わってから初めて映画館に見にいった。友人が、というかてれびんが、最近のドラえもんでは断トツの面白さ、というので。読後は、期待していたためか、まぁ普通の良作だった、という印象。僕自身最近のドラえもんの最近の映画を見込んでいないせいか、評価がこれでいいのか、自分の中にしっかりとしたロジックがあるわけではないので、何とも断言しきれないですが。考えてみると、7作目の『のび太と鉄人兵団』以降、映画は見ていない。今回見に行こうと思い立ったのは、子供に物語の経験をたくさん得てほしいと思っていて、色々基礎的な(と僕はが思うもの)を見せているのですが、やっぱりドラえもんは、必須だよな、と思って。適齢期に、時代に即したものを見続けていると、その後の人生がとても彩るに価値があると思っているので、こういうベタなのは、できる限りリアルタイムでいったほうがいいと思うので。アメリカでもスターウォーズ見に行ったしね。子供って凄い吸収するので、息子が、地球温暖化の話と、この地球自体が寒くなる話と、それで世界が滅びちゃったりすると『未来少年コナン』(僕的子供が見るべき必須作品で、スケジュールを組んで昨年見せました(笑)。ちなみに、うちの子たちは現在小学3年生。)みたいになるんだよねという話をしているのを聞くと、おー素晴らしくいいイメージがつながっているなと感心します。こういう科学で世界を、時空をとらえるリテラシーとイメージが、宝箱のように詰まっているドラえもんは、本当に素晴らしい。いや、それだけではなく、日本のアニメーションの広がりは素晴らしいです。

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TVは、いろいろなところで見るんですが、やっぱりドラえもんの真骨頂は、映画だと思うんですよね。ドラえもんの素晴らしい点は、やっぱりSFマインドを日常にビルトインしてくれるところ。あまりに日常になっていて、SFとすら感じないような「当り前さ」を、子供に届けてくれるこれらの物語群は、本当に素晴らしいと思う。今回の映画も、スノーボール、カンブリア大爆発、10万年の時の流れが地球をどう変えるか、南極の氷はどうやってできたのか?とか、普通では話さない、発想しないようなことを楽しく物語で見せてくれる。やっぱり、ドラえもんは素晴らしいと思いました。特に、映像のレベルが段違いに上がっているので、これを恒常的に見れる現代の子供は本当に幸せだな、と唸ります。飽きるまでは、数年、子供を毎年連れていこうと思っています。SFマインドは重要なんですよ。人類の進歩を信じる感覚と具体的なイメージ形成能力を養ってくれるので、イーロンマスクなどのイノヴェーターは、基本的にSF好きなんですよね。みんな。科学と歴史は、知識のレベルが深く広ければ深いほど、世界を認識する力が高まりますよね。

イーロン・マスク 未来を創る男

ちなみに、★3つ半と低いのですが、水準は十分以上越えていて、映画として見に行って、ダメだったということではないんです。てれびんくんの言うように直近の映画群と比較したらもしかしたらすごくいい出来なのかもしれないので、、、、僕のブログとしては、平均レベルになってしまう点でいいのかというのは悩むところですが、でも、大人の自分が、子供がいなくても見に行きたい!見に行って価値があった!と思えるかどうかを基準にすると、やはり★3半ですね。見て損はないけど、特筆して見に行け!というレベルではないという感じ。少なくとも藤子・F・不二雄先生脚本の、僕が子供のころに見た7作品のレベルは、いま見ても、号泣ものレベルなので。のび太と鉄人兵団や魔界大冒険謎は、その謎解きや世界の広がりなど、信じられないレベルの傑作ですよね。旧版でも新盤でも、脚本が基本的に凄いので、傑作ですよね。、もちろん、こんな超ド級の脚本が早々できるわけではないので、酷な要求かもしれないのですが。

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SFの謎解きという部分では、微妙にいまいちだった気がします。子供向けということで、なかなか複雑なSFの謎解きにはできないにしても、うーん、どうなんだろう。子供はどういう風に感じるのでしょうか。でもやっぱり、10万年の時を隔てているという部分が、キーだとしても、謎解きの演出がもう一歩何か欲しかった気がする。それを探していく過程(=リングを探す過程)が、地理的に様々な知識がないとわからなくて、それをミステリーの様に追っていく部分は凄く面白かったのです。が、時間を超える部分が、単調な感じで一直線に答えに向かっていってしまって、演出的に単純に感じてしまった。子供をどう感じるのでしょうか。子供にはこれ以上複雑なのはわからないのか、演出が甘かったのか判断に苦しむところです。


もう一つは、のび太の勇気の部分。やっぱり映画版のドラえもんの素晴らしさは、ジャイアンなどの様々な日常のキャラクターが、たとえばジャンイアン=いじめっこ・ガキ大将という役割を超えて、勇気や正しさを示すろことにその物語の「特別感」があったと思うんです。通常のマンガ、アニメでは、ドラえもんの日常が描かれるのですが、夏休みの冒険は非日常。非日常で試されるのは、普段、日常で行っていることの踏み越えることができるか?、もしくは、日常で流されていってしまっている本質を、本当に理解しているかどうか?ということ。今回の脚本では、その役割はのび太。偽物のドラえもんを見破るところにあるのですが、「なぜ見破れたのか?」がいまいちわかりません。なんというか勢いで説明てて、物語の筋とリンクしていない。しているように感じさせてくれない。なので、基本的に、のび太が、いいやつで、本質を見極められるヒーローになってしまっている。それは、のび太じゃない!(笑)って思いました。藤子・F・不二雄の映画で描かれるのび太たちの勇気とは、本当は出来ないような弱虫であったり、本当には仲間を助けないような横暴なやつだったりする奴が、それを葛藤の末乗り越えて行くところに、ドラえもんの日常と非日常の差異を際立たせる部分があったと僕は思うのです。逆にいうと、そこがブラックでシニカルであるところ。そして、そういう皮肉が効いているからこそ、さらに勇気をふり立たせるのび太のかっこよさが際立っていたんです。でも、この高橋監督ののび太は、そういった葛藤以前に、ナチュラルにいいやつで、芯があるやつですよね。。。。


でも、うん、そっちの方が現代的、というのもまた事実な気はする。前回『龍の歯医者』の記事で宮崎駿以降の押井守さん、庵野秀明さんは、正しさが、動機が信じられなくて、悶々と悩んだり信じられないと竦んでしまうというのがありました。庵野さんの次の世代位置づけるのかな?鶴巻和哉監督なんかになると、そういった「疑問自体」を持たないで、あっけらかんと世界に対する姿勢を持つようになる。この時に、さして根拠もないし、意味も考えないんだけど、主人公の姿勢は前向きなの。理由は、たぶん単純で「生きている」から。そこからスタートしてて、なぜ生きているか?とか哲学的な問いに振り返らない。「生きている」んだから、前向気に生きる以外ないでしょうという、「そこ」からスタートする感性。いやまぁ、見も蓋もなく言えば、そうなんですよ。生きているんだから、生きるしかないでしょう、というのは。世の中が回っているのは、世界が腐ってる!と復讐ばかり考えている人よりも、世界はあるんだから、前向きに快感原則(=自分にとって」気持ちの良いこと)を追求して生きていこうという人の方が多いから。それは、多文端的な事実。なので、物語的な、使い古された、ビルドゥングスロマン(=成長物語)に戻ってどこが悪い、と。今の時代は、一周して、「そこ」に戻ってきたところ。ヱヴァンゲリヲン新劇場版で、シンジ君に対して、世界に対する向き合い方が違うと書いたのと同じ話ですよね。そこに、世界の不条理に対する問いや、自意識の叫びは、入らないのが、現代的だと思います。


この文脈でいうと、藤子・F・不二雄さんは、最後まで、一度もすくむことがなかった人です。それは、やはり最初からターゲットが大人は一切念頭になく、ひたすら子供だけを相手にしていたからだろうと思うのです。とはいえ、そもそも世界観は、非常にブラックなんですよ。だからこそ、ぶれないで、子供に最後は正しさを信じさせることが言えたのではないかと思います。きれいなだけのものを描いていると、胡散臭いです。のび太は、いじめられっ子で、やっぱり性根がだいぶ腐っている(笑)、けれども、だからといって、決断の時に、行動まで腐るとは限らないんです。人間は。その二重性。善悪や正しいことと、悪いことで割り切れないところが人間であるところは、やっぱり日本の子供向けの物語だと思います。


ちなみに、藤子・F・不二雄のSFの広がり深さ、そのブラックさ、そして美しさは、いろいろ見ていると、しびれるものがあります。僕は、『ひとりぼっちの宇宙戦争』が、ずっと忘れられない傑作です。


藤子・F・不二雄少年SF短編集 (1) (小学館コロコロ文庫)